樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年… 神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年6月6日 - 1981年8月1日)は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。 長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)生まれ。漢方医の神近養斉とハナ夫妻の子で、出生当時父は47歳、母は43歳になっていた。夫妻はすでに二男二女をもうけていて、彼女は末の子であった。 父は幼い末娘を「チコ」と呼んで可愛がっていたが、1891年、彼女が3歳のときに死去した。
松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15… 松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月22日)は、日本の実業家、弁護士、弁理士、政治家。位階は正三位。 第45代衆議院議長。第76代文部大臣。さいたま市名誉市民。 長崎県南高来郡北串山村(のち小浜町、現雲仙市)の農家に生まれる。松永道広の長男。鎮西学院を卒業。1905年、上京した。弁護士事務所の書生をしたり、新聞配達をした。 早稲田実業学校出身。早稲田大学商科に学び中退した(1934年に推薦校友)。また日本大学に学び、法律の勉強をした。1911年、家督を相続した。弁護士試験に合格後弁護士、弁理士を開業した。傍ら武州鉄工所社長、武州瓦斯取締役を兼ねた。
對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - … 對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - 1933年2月16日)は、長崎県下県郡久和村(のち厳原町、現対馬市)出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は川上 弥吉(かわかみ やきち)。最高位は東大関。現役時代の体格は190cm、105kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げ、小手投げ。 対馬の生まれで幼少時より背が高く、「半鐘泥棒」と言われてはからかわれていた。成人して地元の重砲隊に入隊したが体の大きさを見込んだ師団長が力士になることを勧め、除隊させてくれた。師団長の紹介状を手に角聖・常陸山を訪ね入門した。常陸山からは「タイシュウ(対州)」の愛称で呼ばれていた。
鈴木 重次(すずき しげじ、1887年〈明治20年〉5月10… 鈴木 重次(すずき しげじ、1887年〈明治20年〉5月10日 - 1951年〈昭和26年〉11月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県北松浦郡、のちの江迎村(江迎町を経て現佐世保市江迎町)出身。1905年長崎県立平戸中学校猶興館(現・長崎県立猶興館高等学校)卒。小学校訓導兼校長、江迎村長、長崎県議、同議長、大政翼賛会長崎県支部顧問、同中央協力会議員となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では長崎2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除後に死去した。
今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明… 今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明治19年)11月15日 - 1976年(昭和51年)12月28日)は、明治末から昭和期の右翼活動家、実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県東彼杵郡萱瀬村(現大村市)で、今里和平の三男として生まれ、1907年(明治40年)6月、家督を相続した。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1907年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業した。兵役に就き陸軍三等主計となる。 北海道に渡り小樽新聞の記者となる。養狐業、鉄工機械商・今里商会の経営などを行い、その後、樺太で木材売買業を営み成功した。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に長崎県第3区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月1… 本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月18日 - 1948年(昭和23年)10月4日)は、衆議院議員(立憲民政党→日本自由党)、弁護士。 長崎市出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。司法官試補を経て、鹿児島地方裁判所や長崎地方裁判所で判事を務めた。退官後は弁護士事務所を開業し、長崎市会議員を3期、長崎県会議員を2期務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、第1次吉田内閣で外務政務次官に就任した。
中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月… 堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月28日 - 1981年(昭和56年)1月8日)は、日本・台湾の教員・自然史研究家。教員として各地を転々とした中で自然史・理科教育の研究で功績を残した。特に1917年(大正6年)-1947年(昭和22年)の30年間を台湾・台北市で過ごし、その間に台湾の自然史研究で多数の報告・執筆を行った。 明治17年(1884年)3月28日、長崎県西彼杵郡雪浦村(現・西海市大瀬戸町雪浦地区)の農家の長男として生まれたが、幼い頃から動植物への興味関心が高かった。雪浦尋常小学校補習科(現・西海市立雪浦小学校)修了後は農業をしていたが、学問の道を志して20歳にして佐賀県立農学校(現・佐賀県立佐賀農業高等学校)へ進んだ。
水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月… 水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月8日 - 1935年(昭和10年)9月14日)は日本の劇作家、演出家、編集者。第2次芸術座の中心人物として活動した。 女優の水谷八重子は義妹。 長崎県長崎区(現・長崎市)出身。岡山尋常中学(現・岡山県立朝日高等学校)、県立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)を経て、1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学。本科では早稲田大学文学部哲学科。同級に詩人の相馬御風が居た。 1906年(明治39年)、早稲田大学を卒業し、姫路連隊に一年志願兵として入隊。翌年には神楽坂の名妓と結婚するが、この夫人の妹が後の水谷八重子である。
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉1… 福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。 佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している。
松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14… 松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14日 - 昭和12年〈1937年〉12月29日)は、大正・昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。長崎・平戸出身。 旧平戸藩士・松山雲八の五男。私立尋常中学猶興館より海軍兵学校に入学。海兵30期を187名中74位で卒業。30期の首席は百武源吾大将。同期8名の中将の中では156位の重岡信治郎中将、99位の湯地秀生中将に次ぐハンモックナンバー下位のスタート。「松島」での遠洋航海を終えて「磐手」乗組が初任地。日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。蔚山沖海戦後の明治38年(1905年)1月12日、中尉に進級している。
池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月… 池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月1日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の外交官。内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により公職追放された。 長崎県出身。池邊政五郎の三男。私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに内閣総理大臣、外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎(のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに陶磁器研究家)などがいる。
古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5… 古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5月16日 - 1954年(昭和29年)9月6日)は、日本の郷土史家。長崎学の基礎を築いた人物として知られる。 黒田藩長崎屋敷の御用達「万屋」の12代目として生まれる。1895年、長崎市立商業学校を首席卒業。在学中、菅沼貞風『大日本商業史』と呉秀三『シーボルト』を読み、長崎の歴史に興味を持つ。1901年、高商附属外国語学校英語学科(現在の東京外国語大学)を卒業する。東京外国語学校の同級生に永井荷風(中退)がいた。 広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰郷して家業を継ぐ。1912年に『長崎批評』を創刊し、1913年に第1期長崎史談会を設立するなど、長崎研究を本格化させる。
森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 19… 森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 1926年7月4日)は日本の人類学者。 京都・五条室町の商家に生まれる。長崎市の長崎商業学校で中国語を学んだ後、1895年(明治28年)9月に台湾駐屯の日本軍の通訳として台湾に渡る。その後台湾総督府の嘱託として台湾先住民の研究にあたった。1896年(明治29年)に台東で、1898年(明治31年)に恒春で鳥居龍蔵と出会い、1900年(明治33年)に鳥居の台湾調査に助手として同行するようになり、生蕃研究に携わるようになる。 日本からの来訪者の案内も務めた。 先住民の生活の調査のために森は台湾全土を移動して先住民の集落を訪れ、人類学・民俗学的に貴重な資料を数多く収集した。
菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)… 菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)12月15日 - 1963年(昭和38年)12月26日)は、明治時代から昭和時代の日本海軍軍人、教育者。西海学園高等学校の創立者である。 旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸(現平戸市)に生まれる。兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた。 兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍。 1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、佐世保市助役に推されたが辞退し当時佐世保に無かった男子の進学できる私立普通中学の創設を志した。退官翌年の1925年(大正14年)、「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校。
堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940… 堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940年6月25日)は、日本の教育者である。東京商科大学(後の一橋大学)の発展を支えた。商業大学必要論を著し、東京商業学校の商科大学昇格に貢献した。日本で初めて海運学を創設した。 1876年(明治9年)、長崎県で元島原藩士石河光英の三男として生まれた。画家・石河光哉は弟。長崎市立商業学校に入り、上京、東京商業学校に入学した。1902年(明治35年)卒業後、同校の講師となった。 欧米帰国後、堀は直ちに「商業大学必要論」を執筆する。同著の中で、堀は「吾人が商業大学の設立を望む所以のものは、徒に大学という名称に拘泥するが故にあらず、名実兼備せる商業大学の制度を確立しこれを設置するに在り。
浦川 和三郎(うらかわ わさぶろう、1876年4月6日 - … 浦川 和三郎(うらかわ わさぶろう、1876年4月6日 - 1955年11月24日)は、カトリック教会の司教である。洗礼名は「ミカエル」。1942年にカトリック仙台司教区初の邦人司教となった。また、キリシタン史研究家でもあり、多くの著作・訳書を手掛けた。 1876年(明治9年)4月6日に長崎県長崎市坂本町で生まれた。母の浦川モリは、浦上四番崩れによる明治政府のキリシタン弾圧により、鹿児島へ流刑された経験があった。 1906年(明治39年)7月1日に長崎で司祭に叙階された。長崎の大浦天主堂主任司祭を経て 1918年(大正7年)に長崎公教神学校教授専任となり、1928年(昭和3年)には校長に任ぜられた。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
大江 スミ(おおえ すみ、明治8年(1875年)9月7日 -… 大江 スミ(おおえ すみ、明治8年(1875年)9月7日 - 昭和23年(1948年)1月6日)は、明治から昭和にかけて活躍した教育家。女子教育の先覚者。東京家政学院(現・東京家政学院大学)創立者で、日本における家政学の先駆者。旧姓・宮川。東洋英和女学院中学部・高等部、お茶の水女子大学卒業。文部省の国費にてロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校に留学。 1875年(明治8年)9月7日、宮川盛太郎とカネの二女として長崎県十善寺(現在の長崎市)に生まれた。1880年、父が宮内省大膳職へ転じたことにより一家は長崎より上京し、芝の栄町(現在の港区芝公園三丁目)に構えた家に住んだ。1891年、芝鞆絵小学校に入学。
有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 19… 有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 1943年2月19日)は、現在の長崎県島原市出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は大家 八五郎(旧姓山中)。最高位は東小結。5代式秀。165cm、123kg。 1894年5月序ノ口。1899年5月十両昇進、1800年代最後の関取のひとりである。1900年5月場所、7勝2敗1休で現在でいう十両優勝にあたる成績をあげる。翌1901年1月場所は番付運なく十両筆頭にとどまるが、翌5場所月に新入幕。1904年1月場所では東8枚目で7勝2敗1休、9日目に駒ヶ嶽に敗れるまで梅ヶ谷、常陸山の両横綱と並走した。1909年小結昇進。三役は結局この一場所ですぐ平幕に落ち、その後は幕内中位をエレベーターしていたが、1913年1月場所十両落ち、翌5月場所で幕下陥落を機に引退、式秀を襲名した。
伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11… 伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11月28日 – 1959年(昭和34年)3月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 長崎県長崎市出身。1898年(明治31年)、陸軍士官学校を卒業。最終階級は陸軍大佐。シベリア出兵に従軍した。帝国在郷軍人会長崎市聯合分会長、同本部評議員、同西彼杵郡聯合分会長、長崎護国会長、大政翼賛会長崎県協力会議長、同中央協力会議員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に長崎1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。
黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日… 黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。学位は、文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及にも努めた。歴史学者の黒板伸夫は甥。甥の妻は作家の永井路子。 旧大村藩の士族黒板要平の長男として、長崎県彼杵郡下波佐見村(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)に生まれる。長崎県立大村高等学校の前身である旧制大村中学校、熊本大学の前身である旧制第五高等学校を卒業した後、1896年に、帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学。同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下で『国史大系』の校訂に従事した。
神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日… 神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日 - 1939〈昭和14年〉7月7日)は、日本の生物学者。ホタルの研究で知られる。 1874年(明治7年)7月7日、長崎県北松浦郡佐々村に生まれる。1901年(明治34年)4月、関西学院普通部および高等部を卒業。1901年4月から1907年(明治40年)7月まで東京市牛込区原町の成城学校の英語教師を務める。この頃は心理学を研究しており、1907年9月から1912年(明治45年)6月までアメリカ・マサチューセッツ州のクラーク大学(en:Clark University)に在学、心理学でマスター・オブ・アーツを取得する。 1912年、1913年、1914年(大正3年)の6月から9月の間はマサチューセッツ州のウッズホール臨海実験所で生物学の研究をする。
貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月… 貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月23日 - 1938年〈昭和13年〉3月31日)は、長崎県出身の教育者。 静岡県立中央図書館の前身である静岡県立葵文庫の初代文庫長(初代館長)。 1874年(明治7年)6月23日、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)に生まれた。父は旧大村藩士の山田悟であり、二男だった。1887年(明治20年)、遠戚である貞松義一郎の養子となった。1892年(明治25年)7月19日、私立大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)を卒業した。1900年(明治33年)、高等師範学校(現・筑波大学)を卒業し、英語科教員の免許を受領した。 1900年(明治33年)には福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)の教諭となり、1901年(明治34年)には熊本県師範学校(現・熊本大学)の教諭となり、1912年(大正元年)には私立興譲館中学校(現・興譲館高等学校)の英語歴史科教授嘱託となった。
沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 -… 沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 - 1904年(明治37年)4月21日)は、明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。 東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事。1901年(明治34年)に中国に渡り、北京の東文学社の教師となる。1903年(明治36年)には文明学社を設立した。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。 処刑に際して当初は絞首刑を予定されていたが、彼らの態度が立派だったため現地の司令官がロシア皇帝ニコライ2世に請願し、銃殺刑に変更されたと言われている。
両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 … 両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 - 1949年1月11日)は、長崎県北高来郡(現:長崎県諫早市)出身の元大相撲力士。本名は古川 九八(ふるかわ きゅうはち)。 1874年(明治7年)3月25日に長崎県北高来郡(現・諫早市)で農家を営む家に生まれる。家業に従事しながら土地相撲では「若木野」という四股名で活躍したが、顔役の楠という人物に才能を見出されて不知火部屋(大坂相撲)へ連れて行かれた。しかし、ここでは入門を快諾してもらえなかったことから時津風部屋(大坂相撲)へ入門したが、入門後は順調に出世したことで不知火に懇望され、不知火部屋に転属した。四股名は本名から取った「九(いちじく)」で、後に「一軸(読みは同じ)」、「國岩」と改めて活躍した。
月川喜代平(つきがた きよへい、1874年〈明治7年〉-19… 月川喜代平(つきがた きよへい、1874年〈明治7年〉-1948年〈昭和23年〉)は日本のニュージーランド移住者。 ノダアサジロー、国岡白市らとともに戦前からのニュージーランド在住者として知られる。 長崎県五島列島の宇久島出身。10代で上海に渡り、イギリス船の水夫となる。 1895年(明治28年)、勤務していたアメリカ船がニュージーランドのダニーディン港に入港した際に脱走。砂金採取や農場で働いた後、1902年(明治35年)に一時帰国。翌1903年に再度ニュージーランドに渡る。 1907年(明治40年)にニュージーランド国籍を取得。1908年に船長の免許を取得し、クルサ川公社に勤務する。 マイケル・ジョセフ・サヴィッジ首相より推薦状を得て、1936年(昭和11年)に来日。
志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月… 志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月20日 - 1932年(昭和7年)6月10日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)。 長崎県高来郡神代村(現在の雲仙市)出身。志波三九郎の長男。第三高等学校を中退後、京釜鉄道社員、神代郵便局長、数寄屋銀行神代支店長、長崎農工銀行監査役、肥前銀行顧問などを務めた。 長崎県会議員を3期務めた後、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2… 楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2日 - 1921年(大正10年)2月5日)は明治から大正にかけての儒学者。楠本端山の子で、楠本正継の父。名は正翼(まさすけ)、字は君翔、別号は晦堂、俟斎主人、遜斎主人、鳶魚斎。 1873年(明治6年)3月2日午後、楠本端山の子として長崎県松浦郡平戸村稗田(平戸市)に生まれた。側室腹だったが、正室には男子がなく、嫡子として育てられた。将来「其の祥翼を正張し、千仞の上に翺翔」することを願って、父に名を正翼、字を君翔と名付けられた。 1881年(明治14年)春、父が松浦詮私塾猶興書院を退職し、故郷針尾島(佐世保市)に移ったため、これに従った。
三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3… 三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3月18日)は長崎県旧西彼杵郡瀬戸町(現在の西海町)出身の日本の教育者である。歌手ディック・ミネの父親で、ギタリスト三根信宏の祖父。 長崎県(江戸時代の大村藩)の大庄屋に生まれる。族籍は士族。旧制私立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)、熊本県の旧制第五高等学校、旧制第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に東京帝国大学文学部哲学科に入学し、お雇い外国人だったラファエル・フォン・ケーベルらの教えを受ける。明治30年(1897年)に帝国大学を卒業し、謹厳な教育者として、山形県の山形中学で修身(道徳)、福岡県の東筑中学で英語の授業を、それぞれ教諭として歴任し、29歳の時に、佐賀県の佐賀県立第三中学校(現・唐津東高等学校)の校長に就任する。
橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5… 橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日)- 1947年(昭和22年)2月7日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、長崎県多額納税者。衆議院議員。長崎県会議員。佐世保市会議員。族籍は長崎県平民。 小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本半平の二男として生まれる。1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり、1898年(明治31年)1月に分家した。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ。 1891年(明治24年)から海運事業を経営し、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市、神戸市と転じた。
荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9… 荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9月3日) - 1944年(昭和19年)9月11日)は、日本画家。長崎県大村生まれ。本名・朝長悌二郎。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月… 田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月29日) - 1954年(昭和29年)4月3日)は、日本の商学者。村瀬春雄門下で、専門は海運論、海上保険論。神戸大学名誉教授、神戸商業大学(現神戸大学)初代学長。パルモア学院学院長(1944年-1947年)。正三位勲一等。 長崎県西彼杵郡三重村(現長崎市三重)出身。田崎慶治の三男、同周三郎の弟、同武男の兄として生まれ、1910年(明治43年)分家する。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1901年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部保険科を卒業。日本における保険学の祖である村瀬春雄の最初の門下生となった。村田省蔵は友人。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1… 朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1871年3月25日〉 - 1951年〈昭和26年〉9月18日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授(西洋哲学)、文学博士、日本学士院会員。京都学派を代表する人物の一人。 兄は工学者で京都帝国大学工科大学教授の朝永正三、長男は物理学者で東京教育大学教授の朝永振一郎。 大村藩士・朝長甚次郎の三男として長崎県東彼杵郡川棚町石木郷で生まれる。私立大村中学校(旧制中学校、第一回入学者・現長崎県立大村高等学校)2年修了後に上京して共立学校、東京英語学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学で学ぶ。丁酉倫理会会員となり、哲学館事件においては意見書に名を連ねた。
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日… 楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。 肥前国大村藩の医家楠本家の四代元正の二男として1871年(明治4年)1月20日、長崎県西彼杵郡七釜村(現在の西海市西海町中浦)に生まれる。幼少の頃から父を失い、3人の妹と共に祖父と母によって養育された。祖父が1882年(明治15年)10月に亡くなってからは、母が長三郎ら4人を女手ひとりで苦労しながら養育した。
倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈18… 倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈1871年1月28日〉- 昭和20年〈1945年〉8月26日)は、日本の実業家、水産学者。英名はトミサブロー・アワジヤ・グラバー(Tomisaburo Awajiya Glover)、ただし、墓標に刻まれた名はトーマス・アルバート・グラバー(Thomas Albert Glover)。苗字の「倉場」は、「グラバー」をもじったもの。 幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。母は加賀マキとする説もある。また養子として迎えられたイギリス系日本人(British-Japanese)であったとも言われている。
濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(186… 石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(1869年8月19日) - 1898年(明治31年)3月22日または23日)は明治時代のシャム王国入植者。長崎県平戸島に生まれ、福岡、東京で英語を学んだ後、アメリカ合衆国オークランドに留学した。帰国後シャム王国への植民事業を企てたが、暹羅殖民会社、石橋商会の事業はいずれも失敗し、東京で病没した。 明治2年(1869年)7月3日、肥前国平戸町に呉服太物商石橋彦兵衛の第5子または第10子として生まれた。小学校では威圧的な振る舞いで他の児童から孤立し、また家では仕事を手伝わず、家族を困らせた。 15歳の時針浦退蔵に入門し、2年間余り儒教を学んだ。1883年(明治16年)9月留学を認めない養父長次郎の元を離れて福岡の取引先宅に身を寄せ、当初陸軍予備士官学校に入学しようとしたが、同郷南部重遠の誘いで人参畑高場乱に学んだ。
西郷 市之助(さいごう いちのすけ、1869年5月15日(明… 西郷 市之助(さいごう いちのすけ、1869年5月15日(明治2年4月4日)- 1944年7月17日)は、長崎県南高来郡西郷村(のち瑞穂村→瑞穂町、現・雲仙市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した明治時代の元大相撲力士。本名は森崎 常太郎。年寄3代陸奥。175cm、100kg前後。 伊勢ノ海部屋に入門し、1894年5月序ノ口。1895年1月序二段、1896年5月三段目、1897年5月幕下と順調に昇進し、その後病気により一時低迷するが、1901年5月新十両。連続15場所十両を務め、十両筆頭まで進むも入幕はならず、1909年1月幕下に陥落し引退。年寄陸奥となる。 立派な体格で、力量もあり、鳳凰などの薫陶を受けたが、小心のため土俵で不覚をとることが多く、幕内に昇進できなかった。
高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元… 高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元年11月24日)-1904年3月12日)は明治期日本の労働組合運動の先駆者。長崎県長崎市出身。日本の社会科学者の一人。社会統計学者の高野岩三郎は弟。 長崎銀屋町で生まれる。幼名は久太郎で、父は仕立業を営んでいた。1877年に家族とともに東京に移り、父は現在の千代田区東神田付近の自宅兼店舗で旅館兼廻漕業の「長崎屋」を新たに始める。1879年8月に若くして父が死去し、長男の高野は形式上戸主となった。さらに、1881年2月に火災で「長崎屋」は焼失した。「長崎屋」は近辺に移転する形で営業を再開したが、この年に公立江東小学校の高等小学校(現・墨田区立両国小学校)を卒業した高野は、横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)に通学した。
カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadaki… カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadakichi Hartmann, 旧暦慶応3年10月13日〈新暦1867年11月8日〉 - 1944年11月22日)は、日本出身のアメリカ合衆国の美術家、批評家、詩人。定吉ハートマン、サダキチ・ハルトマンなどの表記もある。写真評論では、シドニー・アラン(Sydney Allan)名を使用することもあった。 ドイツ人の貿易・武器商人カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性さだの次男として、長崎の出島に出生。幼くして母を亡くしたため父がドイツに連れて行き、兄と共にドイツの親戚に引き取られ、ハンブルクで教育を受けた。裕福な一族だったため、私立校へ通うなど当地の最高の教育を受けたが、ドイツに帰国した父親の再婚に伴って転校し、キール海軍兵学校に通う予定だったが、フランスのパリへ家出。
松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(… 松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(慶応2年8月4日) - 1947年(昭和22年)1月15日)は、日本の教育者。女子学習院第二代院長。 肥前国(現・長崎県)生まれ。士族松浦縮蔵の子。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、1895年(明治28年)東京帝國大學法科大学法律学科英法科を卒業。1896年(明治29年)5月愛知県尋常中学時習館(現・愛知県立時習館高等学校)校長、1899年(明治32年)7月山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)校長を歴任。 以後、山口高等商業学校教授、第五高等学校校長を経て、1918年(大正7年)5月に神宮皇學館館長に就任。翌年2月、皇太子傅育官長となる。
長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年… 長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年1月7日〈1866年2月21日〉 - 明治43年〈1910年〉9月5日)は、明治時代の医師。男爵。長與專齋の子。岳父に後藤象二郎。 内務省衛生局長:長與專齋の長男として、肥前国大村(現・長崎県大村市)に生まれる。1884年に東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を中退して、7年間ドイツのミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学医学部に私費留学する。このころ、現地の女性に子供を産ませるも、手切れ金を渡して解決する(その面倒を見たのが、衛生局で專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だった)。 帰国後、1893年に開業。東京日本橋や麹町に胃腸病院を設立。
ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Dom… ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1865年9月21日(慶応元年8月2日) - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけてブラジルで活動した日本人のカトリック司祭・海外宣教師。長崎県五島列島出身。 奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間に渡りブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受章する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、その通知が手許に届く直前にブラジルにて死去。
浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(… 浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(慶応元年7月18日)- 1936年(昭和11年)12月18日)は、明治から昭和前期の漁業指導者、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡芦浦村(長崎県下県郡船越村、美津島町を経て現対馬市美津島町芦浦)で生まれる。漢学、法律学、経済学を修めた。 長崎県収税属となる。その後、厳原連合町村会議員、長崎県会議員、同参事会員などを務めた。水産組合副組長に就任し、水産業の振興に尽力した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から立憲同志会公認で出馬し、大池忠助、早川鉄冶の有力候補と激しい選挙戦を戦い、2票差で次点となり大池に敗れた。
井口 丑二(いのくち うしじ、慶応元年2月22日(1865年… 井口 丑二(いのくち うしじ、慶応元年2月22日(1865年3月19日)- 昭和2年(1927年)9月20日)は、日本の宗教家、政治家。 長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)生まれ。 1882年-1886年、同郡口之津村小学校訓導。 1887年-1889年、口之津村役場書記、有給助役。 1890年-1898年、『長崎新聞』編集に従事。 1894年・1898年、長崎県会議員に当選。 1899年-1903年、新聞事業調査のためイギリス・フランス・アメリカ合衆国に出張。 1904年-1905年、杉井組経理担当社員として大韓帝国で勤務。 帰国後1906年に二宮尊徳を知りその研究に専念。 地方改良運動に従事する農商務省嘱託職員として岐阜県恵那郡蛭川村に入り、 1916年、廃仏毀釈の徹底した同村に大日本神国教(神国教)を創始、尊徳の思想の普及に努めた。