永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28… 永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。陸上幕僚長、参議院議員(2期)、法務大臣などを歴任した。法務大臣は在任11日で辞任した。 大分県出身。大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1941年7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。終戦時は電信第13連隊中隊長、陸軍大尉。 戦後、公職追放を経て、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となるも、1980年に宮永スパイ事件の責を取る形で時の防衛庁長官・久保田円次とともに辞任した。 1986年、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、名簿順位は25名中21位だったが、自民党の大勝により当選した(22位までが当選)。
二豊山 光良(にほうざん みつよし、1922年3月23日 -… 二豊山 光良(にほうざん みつよし、1922年3月23日 - 没年不明 )は、現在の大分県津久見市出身で立浪部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)に所属した元大相撲力士。本名は金丸 光良(かねまる みつよし)。175cm、95kg。最高位は東十両8枚目。得意技は右四つ、上手投げ。 1938年1月場所に初土俵。出世は早くなかったが、1952年5月場所の幕下優勝を機に1953年1月場所に十両昇進。12場所連続で在位し、十両下位で4勝11敗と大きく負け越した1955年9月場所に廃業した。
黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31… 黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31日 - 2023年 〈令和5年〉4月17日)は、日本の実業家。位階は正五位。第一交通産業創業者。 現在の大分県中津市出身。1941年12月に徴兵のため、大分高等商業学校(現:大分大学経済学部)を中退。 終戦後の1960年6月に前身となる、第一タクシー有限会社を創業し、代表取締役社長を務める。 1964年9月に第一通産株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。一地方のタクシー会社であった同社をM&Aなどにより拠点を全国に広げ、8000台を超える全国一のタクシー保有台数を誇る企業グループに成長させた。 1993年4月に現行の第一交通産業株式会社に社名を変更し、2001年6月には娘婿の田中亮一郎が社長に就任したのに伴い、同社の代表取締役会長に就任。
水之江 忠臣(みずのえ ただおみ、1921年(大正10年)7… 水之江 忠臣(みずのえ ただおみ、1921年(大正10年)7月16日 - 1977年(昭和52年)7月18日)は、日本の家具デザイナーである。大分県豊後高田市出身。 日本大学卒業後、1942年(昭和17年)に前川國男が創設したデザイン建築事務所に入所し、デザイナーとしての活動を始める。その後前川から建築の設計を教わり、椅子やテーブル等の家具の設計に携わる。水之江の作品はこれまで以上に丈夫な材料を用いた事や斬新なデザインによって、1954年(昭和24年)に神奈川県立音楽堂や神奈川県立図書館に所蔵され、一躍有名となった。 後に公共施設のみならず、家庭向けの家具の設計にも従事する。1958年(昭和33年)には日本室内設計家協会の発足と共に理事長を務め、1963年(昭和38年)には独立して自身のデザイン設計事務所を創設した。
小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1… 小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1999年11月16日)は、大分県津久見町(現・津久見市)出身のプロ野球選手、高校野球指導者。2020年現在、九州(沖縄除く)で唯一、春夏の甲子園大会で優勝を経験している高校野球監督。 1921年7月7日、津久見町に生まれた。少年時代から野球センスが高く、1933年に開催された北海部郡少年野球大会ではエースとして、津久見小学校を優勝に導いた。津久見小学校卒業後、臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に入学してここでもエースとしてチームを引っ張ったが、甲子園の壁は厚く、遂に在学中に出場を果たす事は出来なかった(大分県予選に出場していたが、1936年夏は大分商業(現・大分県立大分商業高等学校)に1-19、1937年夏は大分工業(現・大分県立大分工業高等学校)に4-8といずれも1回戦で大敗している)。
秋山 巌(あきやま いわお、1921年3月21日 - 201… 秋山 巌(あきやま いわお、1921年3月21日 - 2014年9月15日)は、日本の版画家。大分県竹田市出身。 1953年に太平洋美術学校卒業後、棟方志功、布施悌次郎、坂本繁二郎に師事。 その後、独学で民俗学・仏教学・俳詩・陶芸・彫刻・水墨画を学び、1966年より、駐日アメリカ合衆国大使館主催によるCWAJ現代版画展に招待され、作品を出品している。 フクロウをはじめとする動物や民話、種田山頭火の俳句などを題材とした木版画や肉筆画作品を多数発表した。日本美術家連盟会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
宇佐ノ山 英策(うさのやま えいさく、1921年1月11日 … 宇佐ノ山 英策(うさのやま えいさく、1921年1月11日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。立浪部屋→双葉山道場→時津風部屋所属。本名は永松 英策。最高位は十両9枚目。 大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)出身。立浪部屋に入門し、1938年5月本名の「永松」で初土俵を踏む。同郷で部屋の横綱双葉山が独立し、双葉山道場(のち時津風部屋)を興すと移籍した。1943年5月で十両に昇進したが、一度も勝ち越すことなく最後の十両だった1947年5月で廃業した。
御手洗 玄洋(みたらい げんよう、1921年〈大正10年〉1… 御手洗 玄洋(みたらい げんよう、1921年〈大正10年〉1月5日 - 2015年〈平成27年〉6月28日)は、日本の医学者。名古屋大学名誉教授。宇宙医学と視覚生理学の分野での功績で知られている。1995年(平成7年)、勲三等旭日中綬章受章。大分県佐伯市出身。 私生活では俳句と書道を嗜んだ。肺炎療養中であった俳人の山口誓子と知り合い、俳句を学んだ。 伯父はキヤノン創設者の御手洗毅。弟の御手洗冨士夫はキヤノン会長兼社長を務める。元キヤノン社長の御手洗肇は従兄にあたる。
大橋 衛(おおはし まもる、1921年 - 没年不明)は、大… 大橋 衛(おおはし まもる、1921年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。
岡 茂男(おか しげお、1920年9月30日 - 1992年… 岡 茂男(おか しげお、1920年9月30日 - 1992年12月14日)は、日本の経済学者。経済学博士(九州大学)。大分県大分郡庄内町(現由布市)出身。 1939年に大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)、1941年に大分高等商業学校を卒業。 1943年、学徒として出陣。翌年、大日本帝国海軍海軍対潜学校卒業。1945年には海軍中尉となるが、終戦で復員。 1946年、九州帝国大学法文学部経済学科を卒業。翌年、九州大学経済学部助手となる。1952年、武蔵大学経済学部専任講師。1953年に同助教授、1958年に教授。1961年、同学生部長。 1966年11月、九州大学にて「戦後日本の関税政策」で経済学博士号を取得。
甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920… 甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920年)3月15日 - 1997年12月26日)は、日本の画家、曹洞宗の僧侶(大分県中津市崇禅寺の13世住職)。白日会会員で油彩、日本画、彫刻をよくした。 大正9年、大分県宇佐市清水の清水寺に生まれる。地方画家であった祖父、叔父の絵画を見、また兄の作画する姿に接し、幼少時より絵画に憧憬を抱く。その後、兄から自分の果たせなかった夢を託され、東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科に進学し、小林萬吾、南薫造、伊原宇三郎、石橋犀水、川﨑小虎、矢澤弦月、関野聖雲に学び、1941年に卒業した。 1948年の創元展に「渓流」が初入選。1951年には「石彿」により受賞。
荒金 天倫(あらかね てんりん、大正9年(1920年)3月4… 荒金 天倫(あらかね てんりん、大正9年(1920年)3月4日 - 平成2年(1990年)1月7日)は、日本臨済宗の禅僧。 臨済宗方広寺派第九代管長。道号は天倫、諱は義堂、室号は碧雲室(へきうんしつ)。俗姓荒金。禅僧からジャーナリスト、そして再び禅僧になるという、ユニークな経歴を持つ。
染野 檀(そめの まゆみ、1920年2月25日 - 1994… 染野 檀(そめの まゆみ、1920年2月25日 - 1994年11月12日)は、日本の金属工学者。東京工業大学名誉教授。元鶴岡工業高等専門学校校長。元東京工業大学工学部附属工業高等学校校長。 大分県中津市出身。1944年東京工業大学金属工学科卒業、同助手。1960年工学博士。東京工業大学助教授を経て、1966年東京工業大学教授。1969年鉄鋼,非鉄金属および合金とガスの反応に関する研究により日本鉄鋼協会渡辺義介記念賞受賞。1977年東京工業大学工学部附属工業高等学校校長。1980年長岡技術科学大学教授、東京工業大学名誉教授。同年酸素濃淡電池の高温不均一反応の速度論的研究により日本鉄鋼協俵論文賞受賞。
中山 悌一(なかやま ていいち、1920年2月6日 - 20… 中山 悌一(なかやま ていいち、1920年2月6日 - 2009年9月29日)は、日本のバリトン歌手。作曲家。東京芸術大学教授、武庫川女子大学教授、洗足学園大学客員教授。 大分県生まれ。旧制大分中学校を経て東京音楽学校を卒業。ドイツ歌曲を研究し、日本においては木下保に師事した。ミュンヘン高等音楽学校に留学してゲルハルト・ヒュッシュに師事。1956年に帰国し、演奏活動を再開する。以降放送などで活動を重ね、出演回数は800回を超えた。 また、母校の東京芸術大学などで後進の指導にもあたり、東京芸術大学教授、武庫川女子大学教授、洗足学園大学客員教授をつとめた。弟子には大賀典雄、宮原卓也、伊藤京子等がいる。
阿部 未喜男(あべ みきお、1919年〈大正8年〉12月2日… 阿部 未喜男(あべ みきお、1919年〈大正8年〉12月2日 - 2005年〈平成17年〉12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期、日本社会党)を務めた。 大分県速見郡杵築町(現杵築市)出身。熊本逓信講習所卒。 全逓地方本部委員長を経て、1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で旧大分県第2区から日本社会党公認で立候補し初当選。以降、当選7回。 社会党右派グループ「水曜会」の代表を務めた。1992年(平成4年)4月の春の叙勲で勲二等に叙され、旭日重光章を受章する。翌1993年(平成5年)、横光克彦に地盤を譲り、政界から引退する。政界引退後は横光の後援会会長を務めていた。 2005年(平成17年)12月7日、肝炎のため大分県別府市の病院で死去した。
森 国五郎(もり くにごろう、1919年9月1日 - 194… 森 国五郎(もり くにごろう、1919年9月1日 - 1945年)は、大分県出身のプロ野球選手。
佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 20… 佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 2000年4月25日)は、日本の政治家。明治大学専門部卒業。別府市名誉市民。ジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』のモデルとして知られた。 大分県別府市西部の温泉旅館主佐藤倉八の長男として出生。 地元の初等・旧制中学校を経て、明治大学専門部政治経済科に入学。1939年の卒業後、まもなく第二次世界大戦が勃発。陸軍大尉として従軍する。終戦後別府に戻り自動車セールスマンとして働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。 佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を大分県議会議長の荒金啓治の子息に嫁がせた。
児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 200… 児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 2008年9月3日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(内野手)、野球解説者。
岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15… 岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15日 - 1976年(昭和51年)8月9日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、大分県大分郡湯布院町長。 大分県速見郡、のちの由布院村(由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で生まれた。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1943年(昭和18年)日本大学医学科を卒業した。同年に応召し陸軍軍医として従軍した。 復員後に帰郷し岩男医院を継承した。由布院町青年団長、大分郡連合青年団長なども務め、1952年(昭和27年)の由布院盆地ダム化計画に対して反対運動を行い、計画の中止に貢献した。 1955年(昭和30年)湯布院町の発足に伴い初代町長に就任して5期在任した。
福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 20… 福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 2001年12月20日)は、日本の中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授。老荘思想・道教研究の第一人者として知られる。 1918年、大分県下毛郡鶴居村大字高瀬(現:中津市)の農家に生まれた。大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)を卒業し、広島高等師範学校(現:広島大学)文科第一部で学んだ。1940年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、支那哲学史を専攻した。1942年9月に卒業し、同大学大学院に入学。しかし、同年10月には大学院を休学し、現役兵として野砲兵第6連隊補充隊(熊本)に入隊。1944年に陸軍砲兵少尉、1945年に陸軍砲兵中尉。
熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 … 熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 - 2011年4月4日)は、日本の経営者。三和酒類社長を務めた。大分県宇佐市出身。 1944年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、1947年に特別調達庁福岡支局に入庁。1949年に家業の酒造業を引き継ぎ、1958年に三和酒類を創立し、社長に就任。1978年に会長に就任し、1989年に名誉会長を経て、1999年には相談役に就任。 2011年4月4日心筋梗塞のために死去。92歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
渡辺 美恵(わたなべ みえ、1917年〈大正6年〉5月23日… 渡辺 美恵(わたなべ みえ、1917年〈大正6年〉5月23日 - 没年不詳)は、日本の厚生官僚。日本の女性行政官第一号。 大分県大分郡谷村筒口(現・大分県由布市狭間町筒口)に生まれる。幼くして父を亡くしたため、母一人、姉一人の家庭であった。大分県立第一高等女学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を経て、明治大学専門部女子部(のち明治大学短期大学)法科に入り、1938年(昭和13年)卒業。明治大学専門部女子部では成績が優秀で卒業生総代として答辞を述べている。同年同大学法学部に入る。1941年(昭和16年)卒業。同郷の金光庸夫の世話で厚生省労働局に雇(やとい)として入り、労働局労務官室に配属される。
奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 201… 奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 2013年9月6日)は、日本の外交官。駐シンガポール特命全権大使や駐カナダ特命全権大使を務めた。位階は従三位。 大分県出身。旧制京北中学校を経て、1941年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、内田宏(駐仏大使)、吉野文六(駐独大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。 1943年、外務省弘報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った。 1965年5月シカゴ総領事に就任。着任時に、総領事公邸が外交に使うにはあまりに貧弱なものだったため、筋向いの邸宅を購入しようと考え、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、また当時大蔵事務次官を務めていた石野信一も案内した末購入し、新しい公邸とした。
石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日… 石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日 - 1994年(平成6年)7月11日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 果樹園経営・石川琢次の二男として生まれる。大分中学を卒業し、陸軍航空士官学校(50期)に入校。旧陸軍時代は当初、軽爆撃機操縦者であり、飛行第16戦隊に所属していた1939年(昭和14年)、ノモンハン事件で初陣を迎える。同年8月には九七式軽爆撃機で出撃し、ソ連軍のI-16に撃墜され草原に不時着したが、間一髪のところで友軍機に救助されたという。 1941年(昭和16年)3月、大尉に進級すると同隊の中隊長となるが、1943年(昭和18年)夏、飛行分科を戦闘に転科。
佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、… 佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。 中津中学から門司鉄道局を経て1937年に大東京軍へ入団。1938年に退団。
繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8… 繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8日)は、大分県出身のプロ野球選手。ボジションは投手。
双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1… 双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1974年3月5日)は、大分県佐伯市(津久見市とする文献もあり)出身(生まれは愛媛県西宇和郡三崎町(現・伊方町))で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大星 一夫。現役時代の体格は身長171cm、体重118kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り。 1937年1月場所、本名の大星の四股名で幕下付出とされて初土俵を踏んだ。天竜三郎らが率いた関西角力協会に入門していたための措置だったが負け越したため、当時の協会内規で翌5月場所は序二段に降格されてしまった。 初土俵から3年後の1940年1月場所に新十両、1941年1月場所に13勝2敗で十両優勝、翌5月場所双見山又五郎の名(1943年1月から下の名を本名の一夫に改名)で入幕を果たした。
池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月… 池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月14日)は、元マラソン選手、元日本陸上競技連盟オリンピック代表コーチ。大分県中津市出身で1935年にマラソンの世界記録を打ち立てている。 池中は旧制中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校)を経て、1932年東洋大学専門部に入学と同時に東洋大学陸上競技部へ入部、その翌年に東洋大学は東京箱根間往復大学駅伝競走初出場を果たす。1935年には東洋大学予科へ入学、この年に池中は世界記録を樹立する。1937年3月文学部卒。1938年には東洋大学本科へ入学する。この間、箱根駅伝には1933年、1934年、1935年、1936年、1937年、1940年の合計6回出場を果たしている。
横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日… 横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日 - 2005年10月15日)は、日本の近代中国思想研究者・教育学者。元八幡大学(現九州国際大学)学長。大分県中津市生まれ。魯迅、同郷の福沢諭吉研究の第一人者。 学外の役職として、中津市教育委員長、北九州市家庭教育調査委員長、福岡市中国研究センター理事長、福沢諭吉協会会長、九州大学講師、ケンジントン大学(日本校)客員教授等を務めた。 横松は研究対象である福沢諭吉と魯迅に「近代国家主義思想」と「近代的科学精神」という2つの共通の自己確認があると述べている。これは魯迅が東京に留学した経験等から、ある意味魯迅が福沢に影響され啓発された現れとも論じている。
後藤 正夫(ごとう まさお、1913年6月18日 - 200… 後藤 正夫(ごとう まさお、1913年6月18日 - 2000年1月29日)は、日本の政治家、統計学者。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(3期)、法務大臣(第50代)を歴任した。 父は元内務大臣の後藤文夫。 大分県大分市生まれ。旧制横浜高等工業学校(現:横浜国立大学)卒業。三菱鉱業(現:三菱マテリアル)の技師、内閣技術院参技官、内閣調査局調査官、宮城県職員、内閣統計委員会事務局基準課長、行政管理庁統計基準部企画課長等を経て、1959年、行政管理庁統計基準局長に就任。1967年の退官まで務める。 退官後、1968年から8年間、大分大学学長を務める。 1976年9月、岩男頴一の死去に伴う参議院大分地方区補欠選挙に立候補。
豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - … 豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。井筒部屋→九重部屋→朝日山部屋所属。本名は上田 菊男(うえだ きくお)。最高位は東十両8枚目。得意技は突っ張り、右四つ、寄り。 大分県宇佐市出身。井筒部屋に入門し、1927年1月場所に初土俵を踏む。その後、同郷の大関・豊國福馬が独立した際に九重部屋に移籍した(その後朝日山部屋に移籍)。1934年1月場所に十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、幕下に陥落。「祝洋」に改名後の1937年1月場所に廃業した。
緒方 孝男(おがた たかお、本名・佐藤孝男、1912年(大正… 緒方 孝男(おがた たかお、本名・佐藤孝男、1912年(大正元年)9月7日 - 1988年(昭和63年)11月4日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡山浦村(山香町を経て現杵築市)で生まれる。1924年(大正13年)山香高等小学校を卒業した。 1934年(昭和9年)日本製鐵八幡製鉄所に工員として就職。戦後、八幡製鉄所労働組合運動に参画し、同労組執行委員、同副組合長、同三代組合長、日鉄労働組合連合会長などを務めたが、1950年(昭和25年)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の追放処分(レッドパージ)を受けた。 1951年(昭和26年)労働組合の支援を受け福岡県議会議員に当選。
高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月2… 高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。脚本家の高山由紀子は長女。
双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1… 双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。 現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。 1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。
藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年 - 1997年9月3… 藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年 - 1997年9月30日)は、大分県豊後高田市出身の帝国海軍の軍人。最終階級は特務士官たる少尉(終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉)。 帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施するという、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行した軍人である。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズに近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略は日本の風船爆弾作戦にも採用された。 藤田は1932年(昭和7年)に日本帝国海軍に入隊し、1933年(昭和8年)にパイロットとなった。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - … 糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - 2001年6月15日)は、昭和から平成にかけて活躍した日本の洋画家。シンガーソングライターの具島直子は孫。 呉服商の三男として、大分県中津市に生まれる。少年時代に骨髄炎を患うが、1927年、画家を志し上京し、川端画学校、前田写実研究所に学ぶ。その後前田寛治写実研究所に転じ、1930年、春陽会展に初入選。 1931年より独立展に出品。この頃からシュルレアリスムの影響を強く受け始め、1939年に福沢一郎、北脇昇、麻生三郎、寺田政明らとともに、美術文化協会の結成に参加。1943年には麻生、寺田、松本竣介、靉光、鶴岡政男、井上長三郎、大野五郎とともに、新人画会を結成。
木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - … 木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - 1961年(昭和36年)7月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県宇佐郡安心院村(安心院町を経て現宇佐市)で、木下淳太郎、ウメの息子として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1935年(昭和10年)日本大学法律学科を卒業した。 家業の弁当屋・梅乃屋を継承した。兄木下郁から影響を受け、1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、1947年(昭和22年)大分県議会議員に当選し2期在任。この間、社会党大分県連書記長、同会長を務めた。1955年(昭和30年)兄の郁が大分県知事選挙に転じたことに伴い、同年2月の第27回衆議院議員総選挙で大分県第1区から右派社会党公認で出馬して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では社会党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5… 徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5月28日 - 1933年1月19日)は、昭和初期のアララギ派の歌人である。アララギ派の天才と呼ばれ将来を有望されていたが、夭折した。 1911年(明治44年)5月28日、大分県大野郡上緒方村(現・豊後大野市緒方町)に森下虎三郎の二男として生まれる。 1927年(昭和2年)、旧制竹田中学(現・大分県立竹田高等学校)在学中に16歳で肋膜炎を患い、休学を余儀なくされる。1929年(昭和4年)、竹田市の教会でキリスト教の洗礼を受ける。大分新聞(現・大分合同新聞)に短歌を投稿したところ選者の土屋文明が「宝玉的天才歌人」と呼んで高く評価し、重い病気を持っていることを知って新聞に30首一挙掲載を行う。
藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月2… 藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1984年〈昭和59年〉10月25日)は、日本の政治家。元大分県東国東郡姫島村長。 旧制国東中学、明治大学を卒業。1934年(昭和9年)に満州に渡り満州国官吏となった。終戦後、故郷姫島に引き揚げ、1951年(昭和26年)に村議会議員に初当選し、議長に就任した。 村では1955年(昭和30年)の村長選挙が島を2分する激しい争いとなり村内にしこりを残したため、2年後の1957年(昭和32年)に村長辞任に伴って行われた選挙以来、2016年(平成28年)まで村長選挙での無投票が続いた。藤本は、村議会議長を務めていた1960年(昭和35年)に行われた村長選挙に立候補し、無投票当選して以来、1984年(昭和59年)に急死するまで、すべて無投票で7期にわたって姫島村長を務めた。
廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月… 廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月23日 - 2025年〈令和7年〉7月29日)は、日本のスーパーセンテナリアン。大分県中津市在住の長寿の女性。2025年5月21日から死去まで日本最高齢であった。 大分県中津市に生まれた。東京都内の学校で美術を学び、後に広島県内で美術教師として働いた。そこで夫と出会い結婚。夫婦には3人の子供がいる。 老人ホームに入る前は、中津市の自宅で、地元の小学生を対象に書道や絵画の授業を行っていた。 2018年9月に107歳で中津市内最高齢として市長より祝福を受ける。 2021年4月30日には、大分県の最高齢者となる。同年9月17日、大分県知事からも祝福を受けた。
友永 丈市(ともなが じょういち、1911年(明治44年)1… 友永 丈市(ともなが じょういち、1911年(明治44年)1月9日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。海兵59期。ミッドウェー海戦に空母「飛龍」飛行隊長(艦上攻撃機操縦員)として参加し、ミッドウェー島空襲の総指揮官を務め、その後に米機動部隊への雷撃隊を指揮して戦死。最終階級は海軍中佐。 1911年(明治44年)1月9日、大分県別府市に生まれる。大分中学校を経て、1928年(昭和3年)4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年(昭和6年)11月 海軍兵学校59期を卒業。1933年(昭和8年)4月重巡洋艦「愛宕」乗組。11月、第25期飛行学生を拝命。1934年(昭和9年)7月 飛行学生を卒業。
樋口 静雄(ひぐち しずお、1911年(明治44年) - 1… 樋口 静雄(ひぐち しずお、1911年(明治44年) - 1973年(昭和48年)1月24日)は、昭和期の歌手。 大分県日田市出身。1937年(昭和12年)、キングレコードから「満州娘」でデビュー。同年、林伊佐緒、近衛八郎と吹き込んだ「男なら」がヒットする。 彼はアメリカで流行していたクルーナー唱法を何とかして歌謡曲に取り入れようとするが、時局上軍歌などに押され、上手く発揮することは出来なかった。 1939年(昭和14年)、支那(中国)手品師を主人公にして片言の日本語で歌う、ユーモア歌謡「チンライ節」が大ヒットする。このレコードは数万枚が軍部に買われ、大陸戦線に配布されたという実績を持っている。
宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1… 宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。本名は宇治山哲夫。 明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。 1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。
清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日… 清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日本の建築家。 大分県佐伯市生まれ。早稲田大学理工学部卒業。逓信省、大日本航空株式会社勤務の後、株式会社 梓設計を創設。「NHK放送センター・NHKホール」で日本建築学会賞・建築業協会賞を受賞。 戦後の焼け野原の中で「梓」の社名の由来となる「におやかで、おおらかで、怒りを含んでいる」建築を目指し、事務所を立ち上げた。「拘束と闘って自由を獲得する。そこで出来上がったものが、ほんとうのデザインである」と設計に情熱を傾けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
五代目 上村 吉彌(ごだいめ かみむら きちや、新字体:吉弥… 五代目 上村 吉彌(ごだいめ かみむら きちや、新字体:吉弥、明治42年 (1909年) 12月13日 - 平成4年 (1992年) 1月1日)は、歌舞伎役者。屋号は美吉屋。定紋は折敷型世の字。本名は遠島 直(とおじま すなお)。 小芝居から大歌舞伎に入り、上方歌舞伎の伝統を受継いだ女形や花車形を得意とした。 明治42年(1909年)大分県杵築市生まれ。3歳のころから当地の歌舞伎に子役で出演し、大正8年(1919年)には中村桂車一座に入り中村桂之助を名乗って福岡大博劇場に出る。各地の小芝居を勤めたのち、昭和8年(1933年)に二代目市川右團次に入門、市川右升を名乗る。昭和19年(1944年)以降は松竹専属となり、美貌の女形として知られるようになる。
平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 198… 平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 1989年10月26日)は、日本の経営者。富士写真フイルム(現在の富士フイルム)社長を務めた。 大分県中津市出身。1933年に関西学院高等商学部を卒業し、1934年に富士写真フイルムに入社。1954年に取締役に就任し、1964年に常務、1969年6月に専務を経て、1971年6月に社長に就任。1980年5月に会長に就任。 1974年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年10月26日、呼吸不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金光 義邦(かねみつ よしくに、1909年(明治42年)3月… 金光 義邦(かねみつ よしくに、1909年(明治42年)3月 - 1978年(昭和53年)1月5日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 … 伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 - 1994年(平成6年)12月25日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。法政大学名誉教授。砂川事件一審において、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は日本国憲法違反とする判断を示したことで知られる。長男の伊達寛は東京メトロポリタンテレビジョン社長[要出典]。 大分県出身。旧制静岡県立掛川中学校を経て旧制静岡高等学校に進んだ。高校時代、軍事教練に反対して安倍川渡河演習を拒否したり、銃掃除の命令に従わなかったことがあったという。 京都帝国大学卒業。1933年(昭和8年)判事となる。1942年(昭和17年)、満州国司法部刑事司参事官となったが、この時期、不当に拘束され強制労働をさせられた中国人らを次々と釈放していた、との逸話がある。
木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 19… 木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 1970年9月27日)は、昭和時代前・中期に活動した日本の作曲家。 本名は木野 文男(読みは同じ)。大分県出身。 1907年(明治40年)、大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)据場で木野政太の八男として生まれる。旧制中学校在学中から『大分詩人』誌へ詩を寄稿したのを始め文芸に造詣が深く、1934年(昭和9年)に大日本音楽協会が皇太子(明仁上皇)御降誕記念で作詞と作曲を懸賞募集した『吾等の日本』で作曲部門の二等に入賞する。この時に一等入選で採用されたのは広島高等師範学校教授で、戦後は木野と同じく原爆を題材とした楽曲を数多く手掛けた山本寿であった。