岸 伊一郎(きし いいちろう、1918年〈大正7年〉3月11… 岸 伊一郎(きし いいちろう、1918年〈大正7年〉3月11日 - 1984年〈昭和59年〉11月14日)は、日本の政治家、地主。山形県議会議員(自民党)。山形県最上郡金山町長。山形県土地改良事業団体連合会長。泉田川土地改良区理事長。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 山形県最上郡金山町出身。1939年、東京農業大学卒業。金山町長を経て1963年、山形県議会議員に当選。1973年3月23日に山形県議会議長(第9代)に就任し、1975年4月29日に退任する。1984年11月死去。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。 趣味は読書、釣り。住所は山形県最上郡金山町大字金山。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小沢 知雄(おざわともお、1918年 - 2016年7月21… 小沢 知雄(おざわともお、1918年 - 2016年7月21日)は、日本の造園学者、緑化工学者。造園地被学などを専門とした。 東京農業大学名誉顧問・同大名誉教授。東京農業大学緑友会名誉会長。造園学科長、日本造園学会会長を歴任。日本造園学会や日本芝草学会名誉会員。東京農業大学総合研究所芝草部会会長。農学博士。 東京農業大学を1941年12月に繰り上げ卒業。日産農林工業株式会社に研究職として就職、農園部企画課に配属後も軍の応召を繰り返すが、健康診断により結局兵隊にはいかずじまいであった。 戦後の1947年から母校農大の園芸研究室に無給の副手として在籍の傍ら、国本女学校で週2日の非常勤講師を務める。同年9月から助手に採用された。
中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 19… 中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 1995年3月1日)は、「昭和の小堀遠州」と称えられた日本の造園家、作庭家。
内山 正雄(うちやま まさお、1917年 - 2009年)は… 内山 正雄(うちやま まさお、1917年 - 2009年)は、日本の造園学者。東京農業大学などで後進の育成にあたり、日本造園学会会長などを歴任した。 東京府東京市日本橋区葺屋町(現・中央区日本橋人形町)生まれ、豊多摩郡中野町(現・中野区)育ち。実家は商店を営む。京華中学校を経て、1934年に東京農業大学に進学した。1939年に同大学卒業後、東京市役所に勤務するが、1943年、海軍航空隊に招集された。戦後、東京都庁に復員する際、国家公務員の身分となって戦災復興院に出向し、その後建設省まで二十数年勤務した。 1969年より東京農業大学に勤務し、研究・教育の傍ら、国家公務員試験作成や造園施工管理技士試験作成にも関与した。
井上 寛(いのうえ ひろし、1917年 - 2008年6月2… 井上 寛(いのうえ ひろし、1917年 - 2008年6月2日)は、日本の昆虫学者。 東京農業大学を卒業し、1967年から大妻女子大学で教授を務めた。日本の蛾類研究の第一人者であり、世界的にも著名な蛾類学者である。生涯で記載した新種や新亜種などの分類群は1042にのぼり、また、イノウエマダラ Inouela exiguitata やイノウエトガリメイガ Endotricha inouei など、多くの新種の献名の対象となった。中心となって編纂に関わり1982年に出版された『日本産蛾類大図鑑』は、現在でも日本産の蛾類に関する権威ある図鑑のひとつである。標本のコレクションの多くは1992年にロンドン自然史博物館に寄贈されたが、一部は農業環境技術研究所に収蔵されている。
近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 19… 近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 1997年1月21日)は、日本の環境共生学者・研究者・指導者。探検家。専門は植物遺伝育種学などで、種無しスイカの生みの親でもある。三重県松阪市生まれ。 1915年、小津茂右衛門の次男として生まれる。は旧制津中学(現・三重県立津高等学校)を経て1939年、東京農業大学農学部農学科卒業。京都帝国大学農学部遺伝子研究室副手。1941年、財団法人木原生物学研究所所員。1944年同研究所主任。1948年、同研究所主任・京都大学副手を辞任、東京農業大学助教授就任。1950年、東京農業大学育種学研究所創設。1954年に農学博士。1957年、東京農業大学教授就任。
金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 … 金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。 衆議院議員(12期)、副総理、民間活力導入担当大臣、防衛庁長官(第35代)、建設大臣(第34代)、自由民主党副総裁、自由民主党幹事長(第26代)、自由民主党総務会長(第27代)、自由民主党国会対策委員長(第16、24代)を歴任した。 1914年(大正3年)9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家に長男として生まれる。父は金丸康三、母はとくで信は長男。祖父は山梨交通電車線のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助。叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。
古賀 守(こが まもる、1914年(大正3年)5月9日 - … 古賀 守(こが まもる、1914年(大正3年)5月9日 - 2003年(平成15年)4月28日)は、日本のワイン研究家。日本におけるドイツワインの権威。 長崎県佐世保市出身。生家は醸造家。東京農業大学農芸化学科を卒業後、1936年から1945年にドイツ遊学。ハイデルベルク、ライプツィヒ、ベルリンの大学で学んだ。 メッセで日本代表としてゲッベルス宣伝相の隣に座った経験も持つ。ベルリンにてドイツの敗戦を体験、捕虜交換のシベリア鉄道で帰国後、故郷近郊から長崎の原爆雲を目撃、日本の終戦も経験する。一時高校教諭を務めた後、カメラのライカ、医薬のメルクの日本輸入総代理店であったシュミット商会に入社、井上鍾社長の下、薬品部長から、初代ワイン部長となった。
中島 健(なかじま けん、1914年 - 2000年)は、日… 中島 健(なかじま けん、1914年 - 2000年)は、日本の造園家、作庭家。国内では法人から吉田茂をはじめ、田中角栄、河野一郎らの邸宅の庭園など、政財界の要人の邸宅の庭を設計施工のほか、世界各国で日本庭園を作庭。国内650ヶ所以上、海外20ヶ所以上の庭園を設計・施工管理したという。 暁星中学校(旧制)から早稲田大学附属第二早稲田高等学院を経て、1934年に東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)に入学する。卒業後は京都にある歴史的庭園の実測調査に従事した後、東京・仙川の地で庭園設計事務所を設立、作家活動に入る。
高橋 尚孝(たかはし ひさたか、1914年(大正3年) - … 高橋 尚孝(たかはし ひさたか、1914年(大正3年) - 1993年(平成5年))は、日本の昆虫学者。徳島県徳島市出身。田宮尋常小学校(現徳島市立千松小学校)、旧制撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)、東京農業大学卒業。 徳島県加茂村矢三に4男として生まれる。鳴門市の親族の家の養子となり、1933年(昭和8年)に旧制撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)を卒業。同級生に植物研究家・高知女子大学元教授の赤沢時之がいる。 昆虫館系雑誌「昆蟲界」に、「吉野川下流地方の昆虫相(1)~(完)」(1933年-1937年)を報告し、徳島県内の昆虫約700種を記録・報告した。 1937年(昭和12年)に東京農業大学を卒業。
柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月… 柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月29日 - 1991年〈平成3年〉2月2日)は、日本の料理研究家。江戸懐石近茶流家元。旧姓:高橋。 群馬県前橋市出身。父・高橋喜代次は香山と号した俳人だった。旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1931年に東京農業大学を卒業。 割烹緑風閣を経営後、江戸懐石の近茶料理を体系づけ、1946年近茶流を興して宗家となる。東京赤坂で柳原料理教室を主宰。息子は第2代宗家の柳原一成、娘は作家の柳原一日。
小松 真一(こまつ しんいち、1911年9月13日 - 19… 小松 真一(こまつ しんいち、1911年9月13日 - 1973年1月10日)は、日本の実業家。『虜人日記』の著者として知られる。東京都中央区日本橋出身。 1932年、東京農業大学農学部農芸化学科卒業。大蔵省醸造試験場、農林省米穀利用研究所を経て、台湾でブタノール工場を創設。1944年軍属としてフィリピンでブタノール生産のため派遣される。日本の敗戦と共に捕虜となり、1946年まで虜囚生活を送る。復員後、食品加工のための企業を設立。醸造技術を活かして、飲料アルコール原料のための協同組合を設立。1973年脳溢血のため死去。 没後の1974年に遺族により私家版『虜人日記』が出され、翌1975年に筑摩書房で改訂刊行された(ちくま学芸文庫で再刊)。
長浜 藤夫(ながはま ふじお、1910年11月27日 - 1… 長浜 藤夫(ながはま ふじお、1910年11月27日 - 1983年8月1日)は、日本の俳優。長濱 藤夫と表記されることもある。本名は竹村 時之(たけむら ときゆき)。 1910年(明治43年)11月27日、石川県金沢市千日町に生まれる。旧制麻布中学校を経て東京高等造園学校(1942年消滅、東京農業大学造園学科の前身)を卒業。 1931年(昭和6年)、新興劇協会に入り、久保栄(1900年 - 1958年)が演出を務めた舞台『青酸加里』で初舞台を踏み、新劇俳優として活躍する。1934年(昭和9年)、山田耕筰(1886年 - 1965年)が主宰する楽劇金曜会、1937年(昭和11年)には新築地劇団、1942年(昭和17年)には瑞穂劇団へ転々とした。
前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1… 前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1988年12月10日)は日本の造園家。造園史家。農学博士。 東京に野尻爻六・すね夫妻のもとに生まれる。豊山中学校を卒業し、國學院高等師範部に進学し、渡辺世祐、高柳光寿の指導を受け、1931年に卒業。博文館に勤めた後、東京市に任用になり、井下清課長のもとで公園行政ともっぱら公園機関紙の編集に関わる。 1970年、第1回日本公園緑地協会北村賞受賞。1983年に「宗教緑地論 : 社寺境内地の歴史的評価と公園緑地政策におけるその役割」により、東京農業大学から農学博士の学位を授与される。おもな著書に東京公園文庫シリーズがある。
伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日… 伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日 - 1983年(昭和58年)4月25日)は日本の歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。 本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。 生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。
中島 茂喜(なかしま しげき、1909年(明治42年)2月1… 中島 茂喜(なかしま しげき、1909年(明治42年)2月11日 - 1973年(昭和48年)11月26日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党所属の元衆議院議員(10期)。 福岡県生まれ。1933年(昭和8年)東京農業大学農学部卒業。福岡県会議員、朝倉郡金川村(後の甘木市、現在の朝倉市)長などを経て、1946年(昭和21年)衆議院議員に初当選。以来当選10回。国会内では裁判官訴追委員会委員長、衆議院国土計画委員長、同内閣委員長などを歴任し、第1次岸改造内閣で自治政務次官に就任した。自由民主党内では地方行政部会長、財務委員長、代議士会長などを務めた。1972年(昭和47年)の総選挙で落選。
山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月… 山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月27日 - 1970年〈昭和45年〉10月31日)は、日本の銀行家。紀陽銀行頭取、大阪植木社長、大日本除虫菊取締役、白浜温泉ホテル監査役を務めた。父は紀伊貯蓄銀行頭取を務めた山口孫七。 和歌山県海草郡山口村(現・和歌山市)出身。山口孫七の長男。1931年、東京農業大学農学部卒業。大日本除虫菊監査役・取締役・専務を経て、1949年紀陽銀行取締役、1952年常務、1955年頭取。 趣味は美術工芸品、ゴルフ、運動、煙草。宗教は浄土宗。住所は大阪府泉北郡高石町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 炳瑾または李 炳瓘(イ・ビョングァン、朝鮮語: 이병관、… 李 炳瑾または李 炳瓘(イ・ビョングァン、朝鮮語: 이병관、1908年2月20日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。元金泉市長、初代(制憲)韓国国会議員。 李 炳瑾では、読みはイ・ビョングン(이병근)となる。また、李 秉瓘、李 柄瑾、李 丙瓘という表記も見られる。 現在の慶尚北道金泉市出身。1933年に東京農業大学専門部農科卒業後、師範学校、中学校、専門女学校農業科の教員免許を取得。1939年に朝鮮総督府に入り、穀物検査の助手、技手などを務めたほか、穀物検査所釜山密陽出張所にも勤務した。 光復直後は鳳山面長を務めた。1948年の制憲国会議員選挙で金泉乙区に無所属で出馬し、無投票当選となったが、1950年の第2代総選挙では落選した。
鈴木 明治(すずき めいじ / あきはる、1907年8月 -… 鈴木 明治(すずき めいじ / あきはる、1907年8月 - 2005年10月27日)は、日本酒を中心に酒類を対象とした研究をおこなった、日本の醸造学、発酵化学研究者。醸造試験所所長、東京農業大学教授などを歴任した。 長野県松本市生まれ。長野県松本中学校(長野県松本深志高等学校の前身)に学び、その後、東京大学農学部を卒業した。 醸造試験所(酒類総合研究所の前身)に入所して、日本酒をはじめ各種の酒類の研究にあたり、所長も務めた。この間、東京局所属の技官であった時には、山梨県の笹一酒造と関わりが深かった。また、1961年には、「清酒原料用米麹の老若に関する考察」により12月7日付で東京大学から農学博士を授与された。
頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)… 頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)は、日本の右翼活動家。 頭山満の三男。東京農業大学卒業。1931年に天行会を創設して会長となる。1932年に古賀清志、中村義雄から計画を打ち明けられ、五・一五事件に後援していた。児玉誉士夫らと共に暗殺計画を企てていたことから検挙され、禁固3年となる。1940年には大森曹玄らと日本主義青年会議を結成。大政翼賛会参与にもなる。1952年より街頭で演説会を行っていたが、1か月で交通事故で死去。三島由紀夫の小説のモデルにもなる。 1945年8月20日に放送のNHKの放送原稿を執筆する。そこでは日本にたった1つ不足していたことは、負けた国というのはどれほど苦しくて恥ずかしいかということを少しも知らなかったことであるとする。
加藤 五郎(かとう ごろう、1906年2月1日 - 1991… 加藤 五郎(かとう ごろう、1906年2月1日 - 1991年から1996年の間に没)は、日本の造園家。京都府京都市に造園会社を設立し、以後京都を中心に数多くの名庭の整備を手がけた[要出典]。 1982年(昭和57年)に日本造園学会上原敬二賞を受賞した。 京都市の公園形成史や造園の歴史と文化に関する研究に貢献、近代京都の庭園・公園づくりに大きな足跡を残した。 東京農業大学を卒業した。 手がけた事業としては、京都御所の庭園改修、平安神宮の庭園の設計、京都市内の公園や学校庭園の設計などがあげられる[要出典]。 京都市の都市緑化行政において、加藤の貴重な情報ソースが利用されている。加藤は、伝統的な日本庭園の技法を尊重しながらも、西洋の造園術も取り入れた近代的な庭園作りを目指した。
町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不… 町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ場設計者。造園技術者。 1905年(明治38年)大阪府に生まれる。東京農業大学林学科に入学し造園研究を行う。1924年(大正14年)にゴルフ場設計者であるチャールズ・ヒュー・アリソンに師事する機会に恵まれ、東京ゴルフ倶楽部のコース造成現場の担当者となる。1929年(昭和4年)東京ゴルフ倶楽部の責任者。1934年(昭和9年)宮内省に入庁。内匠寮に所属し、当時、吹上御所に存在したゴルフコースの管理を担ったと見られている。 第二次世界大戦後は再び民間に転じ、1949年(昭和24年)宝塚ゴルフ倶楽部コース造成担当に就任。1951年(昭和31年)加古川ゴルフ倶楽部取締支配人。
杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月2… 杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月28日 - 1980年(昭和55年)9月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(3期)、愛知県議会議員(2期)、安城町議会議員(安城市議会議員)(1期)などを歴任した。位階は従五位。 愛知県出身。福釜信用組合の前身である報恩社の設立者、杉浦彦次(ひこじ)の長男として生まれた。愛知県立安城農林高等学校卒業。1929年(昭和4年)3月、東京農業大学農学部卒業。 アメリカ合衆国農務省昆虫局嘱託、全国販売農業協同組合連合会(全販連。全国農業協同組合連合会の前身)の農畜特産課長などを務め、戦時中は海軍省兵備局からバンコクに派遣され、農作物の現地指導にあたった。
北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17… 北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17日 - 1980年〈昭和55年〉3月15日)は、日本オリンピック委員会 (JOC) 名誉委員、日本体育協会会賓、新聞記者。現在の東京都中央区[要出典]出身。 東京農業大学在学中は陸上部に所属し、1928年の日本学生陸上競技連合立ち上げに参加する。1929年に大学を卒業すると大阪毎日新聞社へ入社し運動部員として社が主催していた自転車ロードレースの運営に関わるようになり東京日日新聞へ移動すると日本自転車連盟の立ち上げにも参加し創設者の一人となる。その後1941年には当時の文部省体育局運動課長に就任し、第二次世界大戦後には全国中等学校野球大会再開に尽力するが、直後に公職追放となる。
小野 勇(おの いさむ、1903年(明治36年)- 1972… 小野 勇(おの いさむ、1903年(明治36年)- 1972年(昭和47年)10月17日)は、日本の造園家、作庭家。 福島生まれ。1928年(昭和3年)、東京高等造園学校(現・東京農業大学造園科学科)卒業後、内匠寮庭園係勤務となり、1929年(昭和4年)まで霞ヶ関離宮庭園詰所勤務となる。 その後1933年(昭和8年)まで新宿御苑および朝香宮御殿庭園工事にたずさわる。同年宮内省匠生となり、赤坂離宮、新宿御苑庭園勤務となる。 1941年(昭和16年)宮内技手となり、1946年(昭和21年)退官後、通信建設工業株式会社勤務となる。 その後、1948年(昭和23年)より宮内府王殿寮庭園係に復職、1960年(昭和35年)庭園第二係長。
伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月2… 伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月22日 - 1955年(昭和30年)3月17日)は、日本の華族、造園家、園芸家。吉田伊達家12代当主。旧名は定(さだ)。 東京生まれ、子爵伊達宗定の二男で、前当主の子爵伊達宗起の弟。伊達定清、伊達定継の父。 1925年(大正14年)東京農業大学本科卒業後、匠生として宮内省内匠寮工務課庭園係に勤務した。1929年(昭和4年)に宮内技手補、次いで1933年(昭和8年)宮内技手となった。 1934年(昭和9年)9月20日に分家したが、兄宗起が1940年に34歳で死去したことに伴い本家に復籍し、1941年(昭和16年)6月16日に子爵を襲爵した。
秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月… 秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月12日 - 1981年〈昭和56年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 奈良県出身。1926年(大正15年)東京農業大学を卒業した。 東洋製糖取締役、東和醸造監査役、全国農業共済協会顧問、奈良県花卉園芸組合連合会長、奈良県至誠会顧問、奈良県農地解放者同盟会長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から立候補して当選した。その後、26回、28回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員に通算4期在任した。自由民主党に所属して、自民党奈良連合会顧問、第1次池田内閣大蔵政務次官などを務めた。
中川 以良(なかがわ もちなが、1900年(明治33年)1月… 中川 以良(なかがわ もちなが、1900年(明治33年)1月29日 – 1997年(平成9年)10月24日)は、日本の実業家、政治家。四国電力社長、参議院議員、香川県名誉県民。
紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 197… 紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。宇部市長を務めた紀藤閑之介の長男。妻は渡辺好延の次女・キク子。 山口県出身。1924年東京農業大学卒。宇部農業実践学校校長兼教諭となり、宇部市農会長、同信用購買販売利用組合長、同畜産組合長、山口県議、山口県農会長、同畜産組合連合会評議員、大政翼賛会山口県支部常務委員、また朝鮮セメント、宇部銀行、山口銀行、宇部重工業、宇部興産、宇部物産各(株)監査役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では山口1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月… 稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月18日 - 1982年(昭和57年)3月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧志摩鳥羽藩主家当主・稲垣長昌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1940年(昭和15年)12月28日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)東京農業大学本科を卒業。同年、農林省畜産試験場助手に就任。以後、山形県農林技手、農林省嘱託、帝国畜産会理事などを務めた。 1943年(昭和18年)1月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選。研究会に所属し調査部第五部理事を務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 その他、養鶏組合中央会技師に就任し、以後、同会の奨励部長、出版部長、検査部長、事業部長、同会理事などを務めた。
青木 正(あおき まさし、1898年12月5日 - 1966… 青木 正(あおき まさし、1898年12月5日 - 1966年4月12日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。自治庁長官(第10・12代)、国家公安委員会委員長(第9代)、衆議院議員(7期)。 環境庁長官の青木正久は息子。 埼玉県北埼玉郡共和村(後の川里村、現鴻巣市)の旧家の生まれ。旧制不動岡中学校、東京農業大学卒業。 大卒後に実家へ戻り、農村の若者の育成指導にあたっていたが、各地で発生する小作争議の遠因に政治があると考え、農民のための政治家を目指してまずは政治記者になるため中外商業新報に入社、整理部長や論説委員となる。父が亡くなったことで1937年に16年勤めた中外商業新報を退社、家業を継ぐために帰郷。
村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15… 村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15日 - 1978年(昭和53年)8月21日)は、元多芸村長、化学者である。岐阜県養老郡養老町橋爪出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月2… 佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月25日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、昭和期の技官、政治家、華族。貴族院男爵議員、佐竹氏一門の佐竹西家20代当主。旧名・竹田良治。 秋田県士族・竹田富之助の二男として生まれる。佐竹西家の当主で兄・佐竹義度(富之助長男)の死跡を相続し、1914年(大正3年)4月23日、男爵を襲爵。その後、義履と改名した。 1924年(大正13年)東京農業大学大学部を卒業。1929年(昭和4年)帝室林野局技手に就任。その後、1944年(昭和19年)3月10日に同技師に就任した。 同月30日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
寺西 暢(てらにし ちょう、1896年 - 1938年8月)… 寺西 暢(てらにし ちょう、1896年 - 1938年8月)は日本の昆虫研究家である。テラニシセスジゲンゴロウやテラニシハリアリは同氏に献名されたものである。 1896年(明治29年)生まれ、大阪出身。東京農業大学を卒業後もアミメアリの働きアリが産卵することを発見、報告するなど主にアリの研究を続けていた。1930年(昭和5年)に竹内吉蔵と共に関西昆虫学会を創立し、東成区生江町の自宅に事務所を置いていた。 晩年は病床に伏しており、1938年(昭和13年)の8月上旬に死去した。死後に遺稿集が発行されている。
金子 小一郎(かねこ こいちろう、1895年〈明治28年〉2… 金子 小一郎(かねこ こいちろう、1895年〈明治28年〉2月19日 - 1983年〈昭和58年〉10月17日)は、日本の政治家。神奈川県会議員。藤沢市長(通算6期)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 神奈川県高座郡明治村大庭出身。金子角之助の長男。1916年、東京農業大学専門部卒業、農業を営んだ。父・角之助が亡くなると藤沢町農会長となり、1942年に市議会における旧村町間の対立を収める格好で藤沢市長となる。同時に大政翼賛会の推薦候補として神奈川県会議員に当選するが、戦後このことが問題となり1946年に藤沢市長を辞職。続いて公職追放処分となる。 追放解除後の1952年に藤沢市長選挙に出馬。市政運営につまづき赤字財政に転落させた現職の伊沢十郎に対し、財政再建を訴え市長に返り咲く。
岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月… 岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京市小石川区、現在の東京都文京区千石2丁目35番地で、貴族院勅選議員・岩村通俊の八男として生まれる。1915年(大正4年)長兄岩村八作の養子となり、その死去に伴い1924年(大正13年)9月1日、男爵を襲爵した。 京北中学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学高等科を卒業。以後、臨時産業合理局過燐酸肥料改善委員会幹事、人造肥料連合会理事、燐酸肥料工業組合常務理事、日本藁工品配給監査役、肥料配給公団総裁、農林水産奨励会副会長などを務めた。
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25… 千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)11月29日)は、大正-昭和期の政治家。位階は正三位。 宮城県知事、労働大臣のほか、東京農業大学学長も務めた。 1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。 帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。
大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8… 大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8月21日 - 1952年(昭和27年)9月23日)は、農業学者、民間育種家。ブドウ「巨峰」の生みの親として、また今日では常識となっている栄養週期理論の提唱者としても知られる。 海軍軍人の子として広島県江田島の海軍兵学校官舎で生まれる。幼少時に病気を患い片足が不自由となったため農業学者を志した。東京農業大学卒業後、茨城県の酒造会社・神谷酒造所牛久葡萄園の技師となる。ここでブドウの交配育種の取り組みと作物栽培法の研究に没頭、また植物に容易に栄養素を与えず、必要な時期に必要な栄養素を最低限与える「栄養週期理論」を提唱した。しかし、この理論は当時の学会では異端視されたため、農学会を去り民間育種家・園芸家となる。
田中 善内(たなか ぜんない、1892年(明治25年)3月1… 田中 善内(たなか ぜんない、1892年(明治25年)3月14日 - 1972年(昭和47年)5月17日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 佐賀県小城郡芦刈村大字下古賀(芦刈町を経て現小城市芦刈町下古賀)で、田中慶蔵の孫として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業。19120年(大正元年)家督を相続し農業を営む。 政界では、芦刈村収入役、同村長、同村会議員、佐賀県会議員、同副議長を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で佐賀県全県区から日本自由党所属で出馬し当選し、衆議院議員に1期在任した。 その他、芦刈村農会長、小城郡水産会長、佐賀県水産業会長、芦刈村漁業協同組合長、佐賀県信用漁業協同組合連合会長、同県有明海漁業協同組合連合会長などを務め、水産業の振興に尽力した。
森部 隆輔(もりべ りゅうすけ、1891年(明治24年)1月… 森部 隆輔(もりべ りゅうすけ、1891年(明治24年)1月28日 - 1978年(昭和53年)8月6日)は、日本の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員、参議院議員。 福岡県上座郡福成村大字長淵(のち朝倉郡大福村大字長淵、現朝倉市長渕)で、篤農家・森部隆造、ウメノ夫妻の三男として生まれた。1911年、東京高等農学校を卒業した。 1916年、長淵信用購買販売組合を設立して組合長に就任。福岡県農会常任幹事、福岡県会議員(5期)、同副議長、上座銀行頭取、産業組合中央会福岡県支会副会長、福岡県農会長、福岡県青果統制会社社長、帝国耕地協会理事、福岡県農業協会理事長、福岡県養蚕組合連合会長などを歴任。1942年4月、第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け福岡県第一区から出馬して当選。
磯崎 貞序(磯﨑貞序、いそざき ていじょ、1890年(明治2… 磯崎 貞序(磯﨑貞序、いそざき ていじょ、1890年(明治23年)10月11日 - 1984年(昭和59年)9月10日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員(2期)、茅ヶ崎市名誉市民。 神奈川県高座郡鶴嶺村中島(茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市中島)で、磯崎半十郎の長男として生まれる。神奈川県中郡立農業学校を経て、1912年(明治45年)東京農業大学を卒業した。 神奈川県農会に勤め、江陽銀行取締役、寒川農園取締役などに在任。1921年(大正10年)高座郡会議員(1期)となり、1927年(昭和2年)茅ヶ崎町会議員に当選して2期在任。1928年(昭和3年)4月、町会議員の互選で町長に当選したが辞退した。
三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月… 三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月21日 - 1961年(昭和36年)10月4日)は、大正から昭和時代の日本の農学者。 島根県那賀郡井野村(現・浜田市三隅町)にて生まれる。島根県農林学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学を卒業。シンガポールの三五公司の社員となり、ゴムノキの芽接ぎ技術を完成、熱帯ゴム樹栽培の技術を確立した。1925年(大正14年)島根県邑智郡農会技師、1928年(昭和3年)岐阜高等農林学校勤務を経て、1931年(昭和6年)母校の東京農業大学講師となる。さらにアメリカのネブラスカ大学に留学。1934年(昭和9年)に帰国し、東京農業大学教授となり、同校の戦後復興に尽力。
野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月1… 野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月15日 - 1959年(昭和34年)3月4日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県西諸県郡高原町長。 宮崎県西諸県郡高原村大字西麓(現高原町西麓)で、野村嘉太郎の二男として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業した。帰郷して農業を営む。1928年(昭和3年)家督を相続した。 高原村会議員、高原町長、宮崎県会議員、同参事会員、宮崎県養蚕組合連合会長などを務め、1939年(昭和14年)県会議長に就任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉… 足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉9月19日 - 1945年〈昭和20年〉1月5日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・田口。 茨城県で田口贇郎の五男として生まれ、1906年(明治39年)12月、足立正声の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)5月13日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)東京農業大学を卒業。1920年(大正9年)宮内属に就任。その後、東京農業大学助手、同講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
内藤 民治(ないとう たみじ、1885年10月28日 - 1… 内藤 民治(ないとう たみじ、1885年10月28日 - 1965年7月15日)は、日本のジャーナリスト、編集者である。 1885年(明治18年)10月28日、新潟県三条市に生まれる。上京し、東京府豊多摩郡渋谷村常磐松御料地(現在の東京都渋谷区渋谷4丁目)にあった東京農学校(現在の東京農業大学)に入学、同校を卒業する。 1906年(明治39年)、20歳のころにアメリカ合衆国に渡り、『ニューヨーク・ヘラルド』紙(現在の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙)の特派員となる。11年間の在米中に、東京市神田区駿河台袋町(現在の東京都千代田区神田駿河台)にあった瀬木博尚の主宰する日本風俗図絵刊行会から、『世界実観』シリーズ全12巻を上梓している。
藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日… 藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日 - 1974年(昭和49年)3月17日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(3期)。 長崎県南高来郡神代村(国見町を経て現雲仙市)で藤野小三の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。 長崎県農林主事、同県産業組合連合会長、同県生活物資配給統制組合連合会長、同県農業会長、同県指導農業協同組合連合会長、全国農業会監事、家の光協会理事、全国指導農業協同組合連合会理事・監事、全国土地改良協会理事・監事、全国農業協同組合監事協議会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から無所属で出馬して当選。
東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28… 東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1969年〈昭和44年〉6月5日)は、日本の農商務官僚、宮内官僚、政治家。爵位は侯爵。東郷平八郎の子。宮内省内匠寮御用掛、貴族院議員などを歴任した。 温厚な人柄、恬淡とした性格で我が道を進み、新宿御苑で菊栽培などを手がけ、菊づくりの拡充強化に大きく貢献した。 東郷平八郎の長男として、1885年(明治18年)鹿児島県に生まれた。学習院に入るがその後中学済々黌を経て、1911年(明治44年)、東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。卒業後は、農商務省の農事試験場興津園芸試験場(現在の農研機構果樹研究所·カンキツ研究興津拠点)に勤務した。
井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973… 井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973年8月8日)は、日本の造園家。長く東京市の公園課長をつとめ、東京内の公園緑地を多く生み出し、東京の公園行政の基礎を築いた。また、東京高等造園学校およびその後身である東京農業大学を通じて多くの造園人材者を養成した。 京都府愛宕郡聖護院村(現・京都市左京区)に、陸軍軍医・井下気一の子として生まれる。母親は京都の旧家の出。 1905年(明治38年)7月に東京高等農学校(後の東京農業大学)本科を卒業した。農学校に入学する前は高等工業学校の選科生をしていたが、母方のつてで農学校に入学。縁戚に灘の酒造家がいて、自身も醸造を志していたが、夜学で通っていた英語学校がメソジスト系だったため禁酒論をたたき込まれたのと、同級に内村鑑三の内弟子であった長崎渉(後に月寒牧羊場長)がいて親しかったことから、「酒造りは悪魔の業」という考えになり、子供時代から好きな途であった園芸に転向した。
勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4… 勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4月13日 - 1936年(昭和11年)11月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・勧修寺顕允の長男として生まれる。父・顕允の死去に伴い、1900年(明治33年)10月4日、家督を相続し伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した。 1908年(明治41年)東京高等農学校を卒業。1910年(明治43年)以降、殿掌、掌典、陵墓監、同志社女子専門学校講師、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)講師などを務めた。 1919年(大正8年)6月14日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 … 吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家、版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した。