富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> … 富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> 3月23日 - 1988年 <昭和63年> 12月28日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県生まれ。第六高等学校 (旧制)を経て、1923年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、同大学で助手を務めた。師は喜多源逸。在学中に喜多とともにベークライトの製法特許を取得している。1929年学位論文「ヴィスコースの研究」により京都帝国大学より工学博士号を取得。昭和レーヨン、東洋紡での勤務を経て、1945年8月に東洋ゴム工業社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役、1975年5月に相談役を経て、1978年6月には名誉顧問に就任。
桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月… 桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月30日 - 1987年〈昭和62年〉8月19日)は、日本の電気工学者。工学博士(京都大学)。大阪府立大学名誉教授。大阪工業大学工学部電気工学科元教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気工学・電力工学、電気鉄道工学。 1932年京都帝国大学工学部電気工学科卒業。外地の台南高等工業学校教授などを経て、1947年旧制摂南工業専門学校(旧:関西高等工業学校)教授。1949年大阪工業大学工学部電気工学科教授、電気工学教室を担当。その後、大阪府立大学に転任し、京都大学大学院にて工学博士号を取得(京都大学電気工学教室洛友会に所属)。大阪府立大学工短部教授、同大学評議員・審議員などを経て、1963年大阪府立大学名誉教授。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
福嶋 俊翁(ふくしま しゅんおう、1898年 - 1981年… 福嶋 俊翁(ふくしま しゅんおう、1898年 - 1981年)は、禅学者、花園大学名誉教授。 京都帝国大学文学部哲学科卒。東福寺塔頭願成寺住職。花園大学教授、1969年定年、名誉教授。
滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 19… 滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 1975年3月5日)は、日本の地球物理学・気象学者。京都大学理学部名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。日本気象学会関西支部創設者・元支部長。日本農業気象学会元近畿支部長。河川水温調査会熱収支部会元会長。微細気象学・工業気象学の第一人者の一人。 専門は、地球物理学・気象学/気候学(特に微細気象学・工業気象学)、大気科学・水理学・農業気象学。 1897年神戸市生まれ。第二神戸中学校を卒業後、中央気象台練習部を経て、1916年中央気象台臨時雇となり神戸測候所勤務。1924年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業(指導教授:地球物理学のパイオニアで京都大学阿武山観測所初代所長の志田順)。
神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 198… 神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 1986年7月19日)は、日本の言語学者、聖書学者(新約聖書学)。国際基督教大学の設立に尽力した一人である。 1897年、東京市麹町区で英語学者神田乃武の四男として生まれた。1916年に第一高等学校英法科に入学。この頃、内村鑑三門下となった。1919年、東京帝国大学英文科に入学。しかし、翌1920年に師事した田中秀央の転出に伴い、神田も京都帝国大学文学部言語学科に転じた。京都では、田中秀央のほか、新村出、波多野精一らに師事した。1924年に同大学を卒業。その後は同大学大学院に進んだ。オックスフォード大学、ハイデルベルク大学に留学し、英国ではC・H・ドッドに、ドイツではマルティン・ディベリウスに師事し、主として西洋古典学を修めた。
小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月… 小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月15日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。 神奈川県足柄生まれ。父良造は大蔵省官吏。1923年東京高等師範学校理科卒後、秋田県立本荘中学校で教諭となる。教職を勤める傍ら東北帝国大学にてハンス・モーリッシュ教授から植物学の指導を受ける。その後京都帝国大学理学部(植物)に入学。1927年卒後、同大大学院にて植物生理生態学者郡場寛に師事。1930年京都府女子師範学校教授に就任。1932年奈良女子高等師範学校教授、1949年より奈良女子大学教授(植物学教室、理学部学部長)。1964年より帝塚山大学教授(教養学部学部長、学長代理)。
宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 198… 宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 1982年12月10日)は、日本の土木工学・衛生工学者。大阪工業大学第3代学長・名誉教授、摂南大学初代学長。工学博士(京都大学)。土木学会関西地区元評議員。大阪市水道部元技術課長。 専門は、土木工学・衛生工学・都市工学(特に上下水道工学)、水理学・環境科学。位階は正五位。 兵庫県出身。1921年京都帝国大学理工科大学土木工学科第三講座卒業。大阪市の技手として水道局に勤務し、1938年大阪市水道部技術課長。1946年に退職して摂南工業専門学校講師となり、1948年より大阪大学工学部講師を兼任、1949年大阪工業大学工学部土木工学科教授。1958年工学博士(京都大学)。
荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20… 荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20日 - 1978年〈昭和53年〉7月10日)は、日本の天文学者、物理学者。専門は天体物理学、理論物理学、宇宙論。学位は、理学博士(京都大学・1929年)。京都大学名誉教授、京都産業大学初代総長。 1897年、荒木竹次郎・記寿の長男として熊本県鹿本郡来民町(後の鹿本町、現在の山鹿市)に生まれた。1903年、来民尋常小学校に入学。1906年、熊本市立碩臺尋常小学校に転校し、翌1907年に卒業した。1910年、熊本県立中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)に入学。1915年に済々黌を卒業し、広島高等師範学校理科一部に入学。1919年に同校を卒業。
長沢信寿(ながさわ のぶひさ、1897年2月24日 - 19… 長沢信寿(ながさわ のぶひさ、1897年2月24日 - 1972年11月12日)は、日本の哲学者・宗教学者、九州大学名誉教授。 新潟県出身。京都帝国大学哲学科卒。龍谷大学教授、京都帝大講師、九州大学教授。1961年「アウグスティーヌス哲学の研究」で日本学士院賞受賞。同年定年退官、名誉教授。関西学院大学教授。
大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 19… 大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 1976年1月23日)は、日本の心理学者。 1897年、京都府生まれ。1920年京都帝国大学文学部心理学科を卒業。1940年に「表象体験ノ研究」を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得。京都帝大助手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1941年に教授となった。 戦後は東北大学教授となる。1960年に定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授、関西大学教授を務めた。心理学の研究者として、日本心理学会理事を務めた。
三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 -… 三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 - 1945年(昭和20年)9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者、評論家。法政大学法文学部教授。京大哲学科卒。西田幾多郎・ハイデガーに師事。留学中にパスカルを研究、帰国後『パスカルに於ける人間の研究』(1926年)を刊行。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死したが、著書『人生論ノート』はロングセラーになった。 兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)にて父親、三木英吉、母親しんの長男として1897年(明治30年)1月5日に誕生する。生家は農業を家業としており清の祖父の代に米穀商を営んでいたため、村の「米屋」として知られており資産家の部類に入る家柄であった。
岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - … 岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - 1997年8月12日)は、日本の昆虫学者、寄生虫学者。近畿学校保健学会会長。 島根県荒島町(現:安来市)に生まれた。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に入学、川村多実二に師事し、当時日本で全く研究が進んでいなかったトビケラの幼虫について研究を行った。鴨川や三井寺山内の細流などを調査のフィールドとし、1927年から1930年にかけて動物学雑誌に「日本産毛翅目研究 第1-5報」とした論文を発表、多くの新属新種を和名付きで記載した。また1927年には同大を卒業し、京都帝国大学附属の大津臨湖実験所に移って研究を続けた。 1930年に同研究所を離れて大阪医科大学(現:大阪大学医学部)に移り、吉田貞雄に師事して寄生虫の研究に従事した。
石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12… 石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12月7日 - 1978年(昭和53年)9月18日)は、昭和時代の日本の化学者。専門は分析化学。 千葉県出身。1921年(大正10年)京都帝国大学理学部化学科卒業。京都帝国大学講師、理学部助教授、ドイツ留学を経て、1936年(昭和11年)同大教授となる。1959年(昭和34年)定年退官し、同大名誉教授。その後、近畿大学教授、1961年(昭和36年)から1967年(昭和42年)にかけて金沢大学長、1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)にかけて奈良大学長を歴任。のち奈良大学名誉学長。ほか、海洋化学研究所長、同理事長、日本分析化学会会長、日本学術会議会員を務めた。
井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - … 井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - 1974年8月21日)は、日本の農学者、教育者。農業化学を専攻、3つの大学で学長を務めた。農学博士。 1896年、和歌山県和歌山市に生まれる。1927年、京都帝国大学農学部農林化学科を卒業。理化学研究所を経て、1932年に京都高等蚕糸学校教授となり、1935年に京都帝国大学助教授、1940年に京都帝国大学教授となった。1957年、日本学術会議会員に選出。1959年に京都大学を退官すると、1960年に東京農工大学長、1966年に鳥取大学学長となった。さらに東亜大学の設立に参画し、1974年に同大学長となった。 1970年1月7日には、講書始の儀に招かれ農業化学に関する講義を行った。
浅香 末起(あさか すえき、1896年11月10日 - 19… 浅香 末起(あさか すえき、1896年11月10日 - 1971年)は、日本の植民政策学者。 福岡藩士族徳島徳の四男として福岡県に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第二高等学校を経て、1921年3月京都帝国大学経済学部を卒業。京大在学中に浅香家に迎えられ結婚し、浅香に改姓した。 1921年4月日本銀行に入行するが、研究者を志し、1923年2月台北高等商業学校(現・国立台湾大学管理学院)講師に就任、1924年5月同教授に昇任する。1931年2月大阪商科大学(現・大阪市立大学)助教授に転じ、1933年3月同教授に昇任する。1935年10月から1年間、植民政策研究のため欧米に留学し、1941年7月より1944年9月まで、大阪商科大学に在籍したまま外務省事務嘱託を務める。
尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5… 尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5日 - 1987年6月22日)は、大韓民国の医師、教育者、医学者、大学教授。大韓民国学術院会長、ソウル大学校総長などを歴任した韓国医学界の泰斗。本貫は海平尹氏(朝鮮語版)、号は東湖(동호、ドンホ、とうこ)。日本姓、日本名は伊東 日善(いとう にちぜん)。 1896年10月5日、日本の東京府東京市にて、教育者の尹致旿(ko:윤치오)と李淑卿(이숙경、李敬淑とも)夫妻の長男として生まれる。 父の致旿は1884年の甲申政変で日本に避難した後一旦帰国、その後日本留学生監督に任命されるなど日本との往来が多い人物だった。1906年に大韓帝国に帰国し、父の職場近くにあった漢城府鋳洞(日本名日出町)の京城日出小学校に通った。
森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日… 森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日 - 1992年(平成4年)11月21日)は、日本の哲学者・教育者。通称、しんぞう。 愛知県知多郡武豊町で父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で半田町(現・半田市岩滑地区)の森家に養子に出され、以来森姓となる。 1907年(明治40年)、半田町立岩滑尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)卒業。1916年(大正5年)、愛知県第一師範学校(現・愛知教育大学)卒業。1920年(大正9年)、広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受ける。
内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1… 内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1990年5月8日)は、日本の東洋史学者。島根県出身。岡山大学名誉教授。次男は島根大学名誉教授の内藤正中。 1896年(明治29年)、島根県浜田市生まれ。1918年(大正7年)、京都帝国大学文学部史学科(支那史専攻)に入学して東洋史学者の内藤湖南(名字は同じ内藤姓だが血縁関係はない)に師事。卒業後、1929年(昭和4年)から岡山大学の前身である旧制第六高等学校教授を務める。戦後、1949年(昭和24年)、新制岡山大学教授に就任。1961年(昭和36年)、岡山大学を定年退官して名誉教授となる。定年退官後、1973年(昭和48年)までノートルダム清心女子大学教授。
青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年1… 青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年11月30日、正字では靑山)は、日本の美術評論家、美学者、工芸研究者、装丁家、書店経営者。麻布中学校、第四高等学校 (旧制)一部法科独法、京都帝国大学文学部美学科卒。東西の美術に精通し、画集の出版等による紹介を行う。柳宗悦らによる民藝運動の同伴者となり、工藝美術の定義に関して啓発活動を行った[3]。また、有島生馬らによる一水會運動にも協力した。装丁家・美術評論家の青山二郎は弟。
菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 197… 菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 1972年9月23日)は、日本の神学者、教育者、翻訳家。 立教大学名誉教授、立教大学文学部長、立教学院理事、立教高等女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)校長、立教女学院小学校校長、立教女学院院長・理事、世界キリスト教協議会理事長、日本聖公会司祭。 1895年、京都府で生まれた。父の菅寅吉は日本聖公会の聖職者で、岸和田聖保羅教会で牧師を務めた人物である。主教であるチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)は、寅吉一家と一時期京都で生活を共にしたこともあり、その後も一家と深く親交した。寅吉の3人の子供たちは、洗礼名として長男の円吉から順にウィリアムズ、チャニング、ムーアとそれぞれウィリアムズの名前からとって名づけられ、ウィリアムズも子供たちを可愛がった。
源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 20… 源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 2001年1月17日)は、日本を代表する日本美術史家、文学博士。専門は仏教美術史。 関西学院大学教授、帝塚山学院大学教授などを歴任。1952年から1976年まで文化財保護審議会専門委員を務めた。著書に「日本美術史論究」、「日本美術史図録」、「大徳寺」などがある。元大阪芸術大学教授で文芸評論家の源高根は息子。 福井県武生市(現:越前市)に生まれる。1918年、曹洞宗大学(のちの駒澤大学)卒業。その後、京都帝国大学に進み、1925年京都帝国大学文学部美学美術史科卒業。在学中から仏教美術に関心を持っていた。源 豊秋の筆名で論文「気比神社の桃太郎彫刻」(1923年)を発表。
村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 198… 村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 1985年9月22日) は、建築史家。京都大学名誉教授、明石工業高等専門学校名誉教授。 1895年、山口県大島郡で生まれた。幼少期は郷里である同地で過ごし、中学校校長の父の転勤に伴って中学校入学の際に兵庫に出て、1912年に兵庫県立第一神戸中学校に入学。1917年より第一高等学校第二部甲類で学び、1920年7月に卒業。同年、京都帝国大学工学部建築学科に入学。建築学科は同年に新設された学科であり、武田五一、日比忠彦、天沼俊一教授の教育体制で14名の学生が在籍した。1923年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、1年間の兵役に就いた。卒業論文は『新羅瓦塼雑考』。
相良 徳三(さがら とくぞう、1895年8月4日 - 197… 相良 徳三(さがら とくぞう、1895年8月4日 - 1976年8月21日)は、日本の美学美術史学者、成城大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市船津町出身。京都帝国大学美学美術史学科卒。東京日日新聞、成城高等学校、日本大学、北京師範大学、宮崎大学で教え、成城大学教授、1966年定年退任、名誉教授。美学・美術史などを研究、文芸評論や英文学の翻訳もおこなった。伊集院 斉の別名を使った。
林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月… 林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月5日 - 1981年〈昭和56年〉2月5日)は、日本の電気工学・物理工学者、電気エネルギー工学者。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。工学博士。京都電燈(現:関西電力)元研究員。 専門は、光工学・物理光学(のちの光エレクトロニクス)、発電/送配電工学(のちの電気エネルギー工学)、放電工学(のちのプラズマ工学)。 1920年京都帝国大学工学部卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。京都電燈(関西電力の前身)にて蛍光放電管・発電/配電系統の研究に従事。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任、電気工学教室担当。
谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月… 谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月26日 - 1989年〈平成元年〉9月27日)は、日本の哲学者、翻訳家、評論家。法政大学総長などを務めた。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。 ジンメル、ゲーテの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。 1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、旧制第一高等学校に入学。在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、西田に師事する。
稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5… 稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5月15日 - 1976年(昭和51年)5月22日)は、日本の植物学者である。旧姓は土岐。 大分県に生まれ、京都帝国大学(現在の京都大学)入学し理学部植物学科に所属する。1927年(昭和2年)に卒業後は、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に勤務し同校で教鞭を執った。その後は東京文理科大学の教授を経て、1949年(昭和24年)に両校は統合され東京教育大学の教授として活動をする。 1955年(昭和30年)より奈良教育大学の学長に就任し、1971年(昭和46年)に退任するまで細胞生物学の研究に携わった。特にヒガンバナ属の模型を用いた種分化の解明に貢献したことにより、理学博士を取得した。
荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1… 荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1981年11月27日)は、日本の医学者、京都大学名誉教授、関西医科大学学長・名誉教授、杏林学園理事。 荻生家は儒学者である荻生徂徠で有名な家系である。 規矩夫の父、荻生録造は、旧姓を福永といった。1859年、幕臣福永清右衛門の三男として江戸麻布新網町で生まれ、荻生家に養子に入りその家督を継いだ。明治維新に伴う徳川家の駿河転封にあたり現在の静岡県沼津市八幡町に移り住んだ。そののち、東大医科に入学し、千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)眼科学第2代教授となり、近代眼科学の礎を築いた。 規矩夫は録造の三男として1895年に千葉県千葉市猪花町79番地で生まれる。
木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 19… 木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 1946年2月12日)は、日本の哲学者・教育学者。 1895年、石川県生まれ。京都帝国大学哲学科選科を卒業。卒業後は、広島高等師範学校教授となった。1940年、学位論文『実践的存在の基礎構造 教育哲学の考察に向けられたるフイヒテ哲学の一つの研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。同1940年に京都帝国大学教授となり、教育学を担当した。 大西正倫『表現的生命の教育哲学―木村素衞の教育思想』(2011、昭和堂)門前斐紀『木村素衞「表現愛」の人間学―「表現」「形成」「作ること」の身体論』(2019、ミネルヴァ書房)蜂谷俊隆「糸賀一雄と木村素衛──教養の思想を中心に」『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』(2017、ミネルヴァ書房) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - … 小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - 1961年12月16日)は、日本の財政学者。 福岡県糟屋郡須恵村に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第五高等学校を経て、1920年7月京都帝国大学法科大学を卒業。同年10月同大学大学院経済研究科に進み、1922年1月から財政学研究のため文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ合衆国、メキシコに留学。その間、1924年8月和歌山高等商業学校教授(財政学担当)となり、同年10月京都帝国大学大学院を修了。1927年帰国し、1928年2月和歌山高等商業学校を退職。 1928年3月台北帝国大学教授に就任、1931年2月同大学を退職。
加藤 信義(かとう のぶよし、1894年10月28日 - 1… 加藤 信義(かとう のぶよし、1894年10月28日 - 1959年4月1日)は、日本の電気工学・電子工学者。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授・電気工学教室同窓会洛友会元副会長。大阪工業大学第2代学長。京都大学・大阪工業大学電子工学科創設者。通産省電子工業審議会元委員・電波技術審議会元委員。電子情報通信学会第34代会長。輻射科学研究会初代理事長。赤外線連合会元会長。日本学術振興会第34特別委員会委員。関西教育工業協会初代副会長。 専門は、電気工学・高周波回路、電気通信・無線工学(特に赤外線・妨害電波)、電子工学・電子顕微鏡。 1894年山口県生まれ。旧姓は蛭子屋。1918年京都帝国大学工科大学電気工学科卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
石田 幸太郎(いしだ こうたろう、1894年8月15日 - … 石田 幸太郎(いしだ こうたろう、1894年8月15日 - 1987年6月6日)は、日本の英文学者、ノートルダム女子大学名誉教授。 京都府出身。1919年(大正8年)京都帝国大学英文学科を卒業後、万朝報の記者を務める。その後、梅花女子専門学校教授、国民社編集長を経て立命館大学教授。さらにノートルダム女子大学教授を務めた。英文学、比較文学の研究を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7… 前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月17日)は、日本の整形外科医、医学博士、慶応義塾大学教授。 大阪市出身。1920年京都帝国大学医学部卒。卒業後は同大学の副手となる。1922年に助手となり、翌年同大学院に入り、1925年学位を受け、講師となる。1926年熊本医大(現・熊本大学医学部)教授兼整形外科医長となり、1928年慶應義塾大学医学部教授兼整形外科教室主任。1948年医師国家試験委員。1951年立川病院長も兼任した。この間文部省在外研究員として欧米に留学。日本外科学会、日本整形外科学会、日本胸部外科学会、麻酔学会の各会長を務めた。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋… 絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋田県南外村(現・大仙市)生まれ)は、日本の物理化学者、鉄鋼技術者であり特にステンレス鋼研究の権威で知られる。理学博士。学士会会員。東海大学教授。 1894年秋田県南外村(現・大仙市)の貧しい農家に生まれる。教職の道を目指して秋田県立師範学校、東京高等師範学校の修学を経て京都帝国大学に進学する。1921年京都帝国大学理学部を卒業。金属業界への就職を恩師から勧められて、住友合資会社伸銅製作所尼崎工場に入社して研究係を務める。1937年学位論文(絹川 1937)にて東京帝国大学より理学博士の学位を授与する。1938年故金子英雄氏遺兒養育資金募集の発起人に参画する。
古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1… 古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1967年7月12日)は、日本の日本史学者。 愛知県愛知郡熱田町(現・名古屋市熱田区)出身。京都帝国大学文科大学史学科で、内田銀蔵に師事した。1918年卒業。卒業論文は「徳川時代に於ける史学の発達」。神戸市史編纂員を経て、東北帝国大学法文学部助教授となり、1929年教授。東北大学教授となり1957年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授。1947年「東廻海運及び西廻海運の研究」で文学博士。東北史学会を創立し、「宮城県史」「仙台市史」などを編集した。
長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)1… 長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)11月3日 - 1970年(昭和45年)7月14日)は、日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。 新潟県西蒲原郡漆山村(現・新潟市西蒲区)出身。1916年(大正5年)広島高等師範学校卒業後、熊本県立済々黌中学の理科教師となるが1年で退職し、1917年(大正6年)広島高等師範学校研究科に入るが4カ月で中退。1921年(大正10年)京都帝国大学(現京都大学)理学部卒業。1924年(大正13年)同大学助教授。1928年(昭和3年)にドイツに留学し、ポツダムの地球物理学研究所で研究に当たる。1930年(昭和5年)8月にストックホルムで開催された国際測地学・地球物理学連合総会に参加した後、11月に帰国。
三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 197… 三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 1978年7月20日)は、日本の法学者、弁護士、裁判官、教育者。 1893年(明治26年)、香川県に生まれる。1919年京都帝国大学法学部卒業。東京地方裁判所、東京控訴院の判事や秋田地方裁判所所長などを務めた後、1948年より弁護士として活動。東洋大学で博士号を取得後、同大学で教授となる。1967年に東洋大学学長に就任。学生運動の最中ということもあり、学生の強い反発を受ける中で教養課程の川越キャンパスへの移転、図書館、学生会館建設の問題収拾にあたった。1969年に学長を辞任した。 1978年7月20日、老衰のため東京都大田区の自宅にて死去。84歳。
渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 -… 渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 - 1983年9月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学、行政法。法学博士(京都帝国大学)。帝塚山大学第2代学長。京都大学名誉教授。 愛媛県出身。1922年京都帝国大学法学部卒。佐々木惣一門下。24年同助教授、31年教授。33年には滝川事件に遭遇し辞表を提出するも慰留され大学に残留した。1935年「地方自治の本質」で京都帝国大学法学博士。同年の天皇機関説事件において同説の踏襲者として大学の憲法講義担当から外れることとなる。同様に高等文官試験司法科憲法担当試験委員からも除かれた。1943-45年法学部学部長。 戦後は1949年に新制大学として発足した岡山大学に招かれ法文学部教授、初代学部長、(第六高等学校校長を兼任、1949-50年)。
杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年… 杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年2月25日)は、台湾人として初めて医学博士号を取得した医学者。字は思牧。従四位勲三等。 1893年、清朝統治下の台湾・淡水(現在の新北市淡水区)生まれ。9歳の時から淡水北新庄の車埕書房で学ぶ。11歳で滬尾公学校に入学し、滬永吉街での寄宿生活を送りながら17歳の時に首席で卒業する。1909年、台湾総督府医学校に首席で合格。しかし体格検査(丙下)で本来は不合格となるところであったが、当時の医学校校長・長野純蔵の計らいで入校が許された。在学中も勉学は一番であり、併せて体操、水泳、登山で体を鍛えた。1910年、清朝腐敗に対する革命の動きが高まると、同級生の翁俊明(中国語版)と共に中国同盟会に加入した。
吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974… 吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974年4月1日)は、日本の法学者。 秋田県出身。札幌第一中学校卒、1918年京都帝国大学法学部卒、大阪鉄工所(日立造船〈現:カナデビア〉の前身)に入り1920年より社命で米国に学ぶ。22年帰国、康徳学園で教え、1928年関西大学法学部教授、1949年大阪商業大学・大阪学芸大学教授(兼任)、1957年退職し弁護士を開業、京都産業大学・梅花女子大学教授を兼ねる。
小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 19… 小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 1974年(昭和49年))は、日本の化学者、理研化学工業社長。 茨城県水戸市生まれ。1914年茨城県立工業学校応用化学科卒、17年上田蚕糸専門学校製糸科卒、満鉄中央試験所勤務、志賀潔に見出され、京城医学専門学校助教授、1927年京都帝国大学農学部入学。30年卒業、36年ニンニクの無臭有効成分をスコルヂニンと命名。40年日生化学研究所を設立。1953年「「にんにく」の生化学的研究」で京大農学博士。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受勲。理研化学工業社長。「にんにく博士」として知られた。 次男の小湊壌(ゆずる、1940 - )はのち理研化学工業社長。
阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 -… 阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 - 1979年(昭和54年)5月24日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。工学博士。京都大学名誉教授。 徳島県徳島市蔵本元町に生まれる。徳島県立徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)、第六高等学校を経て京都帝国大学工科大学電気工学科に入学。1918年(大正7年)同校を卒業後、財団法人青柳研究所(現:公益財団法人応用科学研究所)に入る。のち京都大学講師、助教授を経て1940年(昭和15年)教授となった。この間の1935年(昭和10年)に学位論文「特別高圧回路自働遮断器」により 工学博士 (京都帝国大学)の学位を取得している。1955年(昭和30年)退官後は、同志社大学工学部教授、日本放送協会経営委員会委員などを歴任した。
石田 文次郎(いしだ ぶんじろう、1892年 - 1979年… 石田 文次郎(いしだ ぶんじろう、1892年 - 1979年)は、日本の民法学者・裁判官・弁護士。法学博士(京都帝国大学)。東北帝国大学法文学部民法講座教授や、京都帝国大学法学部教授を歴任。 1892年、奈良県添上郡平和村(現:大和郡山市)生まれ。1913年(大正2年)第三高等学校卒。1917年(大正6年)京都帝国大学法学部を卒業。同年、司法官試補。1919年(大正8年)大阪地方裁判所判事。1920年(大正9年)神戸高等商業学校教授。1922年(大正11年)イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。同時期に留学していた同僚の八木助市、坂本彌三郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎や、東京高等商業学校の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、吉田良三、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月… 瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月… 土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月15日 - 1934年(昭和9年)4月25日)は、日本の哲学者・評論家。大正・昭和を通じて活動した。画家の土田麦僊は兄。 新潟県佐渡郡(現:佐渡市)の生まれ。本名は茂(つとむ)。1918年7月京都帝国大学文科大学哲学専攻卒業。西田幾多郎に哲学を学ぶ。雑誌「文化」を発刊。社会問題や思想・文化・宗教など多方面にわたって、鋭い主張の論文や著述が多くある。 大正時代を代表する自由主義の評論家で、大正教養主義者の一人。哲学・教育学・経済学・文学など幅広い領域で批評活動を行った。大正自由教育運動の影響を受けて長野県や新潟県で自由大学運動を起こしたりしたが、昭和に入ると国家主義の傾向を強め、上代文学の研究をした。
服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年… 服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年)12月18日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。第14代京都大学総長。 1890年兵庫県生まれ。京都帝国大学教授、同病院長を経て1951年に京都大学総長に就任。その直後、昭和天皇の京都大学視察訪問に際し、学生が公開質問状を用意し「平和の歌」をうたって迎えた『京大天皇事件』が起こり、その責任をとって1953年辞任。1983年に92歳で死去。 主な受章歴は以下のとおり。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974… 務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974年7月5日)は、日本の哲学者。東京教育大学名誉教授。位階は従三位。 台北帝国大学教授、東京文理科大学(後の東京教育大学)教授、同大学長。学長と桐朋学園理事長・校長を兼務、その後慶應義塾大学教授などを歴任。 京都帝国大学在学中に西田幾多郎に師事し、留学中にはフッサールからも哲学を学んだ。西田門下ではあるが、京都学派とも西田左派とも一線を画し、独自のヒューマニズム哲学を展開する。一方、京都大学教授・上原麻有子が代表を務めるサイト「京都学派アーカイブ」では、「西田・田辺に学びながら独自の思想を育み、時には師に影響を与えることもあった」ことから、務台は京都学派の一員として紹介されている。