宮坂 武男(みやさか たけお、1932年 - )は、長野県の… 宮坂 武男(みやさか たけお、1932年 - )は、長野県の城郭研究家。 長野県下諏訪町出身、現在は岡谷市湖畔に在住する。長野県諏訪清陵高等学校を経て、信州大学教育学部卒業。茅野市立永明小学校校長、岡谷市教育委員長を務めた。現在は、県文化財保護協会諏訪支部長、信濃史学会会員。 長野県の城砦研究の第一人者である。中世の城郭が数多く存在するが、特に山間部が多面を占める地域ゆえ険しい山城が多く、体系的な研究の乏しかった長野県の城郭研究であるが、ほぼすべての城・館・砦跡を踏査し、詳細な縄張り・概念図を発表した。積極的に講演も行っている。 長野県城郭調査の先駆である『長野県町村誌』『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』をはじめとして、各行政誌などに基づき、いくたびにわたり同じ城館に訪問。
古屋 奎二(ふるや けいじ、1931年9月14日 - 200… 古屋 奎二(ふるや けいじ、1931年9月14日 - 2000年8月11日)は、日本のジャーナリスト、中国研究家。 山梨県生まれ。1953年信州大学文理学部卒、産経新聞社に入り、1981年論説副委員長。文部省国語審議会委員。近畿大学人文学部教授となる。妻は新藤涼子。
中村 登流(なかむら のぼる、1931年3月7日 - 200… 中村 登流(なかむら のぼる、1931年3月7日 - 2007年11月19日)は、日本の鳥類学者、上越教育大学名誉教授。 長野県松本市生まれ。長野県松本深志高等学校を経て、1953年に信州大学教育学部を卒業。長野県内で中学校教員として勤務したのち、1963年に信州大学医学部助手。その後、教育学部助教授として教育学部附属志賀自然教育研究施設に勤務。1971年、「エナガの個体群の行動圏構造」で京都大学より理学博士の学位を取得。1968年、日本野鳥学会賞受賞。1982年、信州大学退官、1983年、上越教育大学教授、上越教育大学附属中学校校長など。1996年、定年退官、名誉教授、山階芳麿賞受賞。日本野鳥の会、日本野鳥学会、日本生態学会会員。
永田 哲士(ながた てつじ、1931年2月5日 - 2024… 永田 哲士(ながた てつじ、1931年2月5日 - 2024年1月27日)は、日本の医学者。専門は解剖学。医学博士(信州大学)。中国承徳医学院名誉教授、河北医科大学名誉学長、信州大学名誉教授。
保刈 恒雄(ほかり つねお、1931年 - )は、日本の医学… 保刈 恒雄(ほかり つねお、1931年 - )は、日本の医学者。千葉大学名誉教授。
山田 喜紹(やまだ よしつぐ、1931年 - 2025年9月… 山田 喜紹(やまだ よしつぐ、1931年 - 2025年9月27日)は、日本の細菌学者、ウイルス学者、エイズ研究者。信州大学医療技術短期大学部名誉教授。医学博士。 1931年(昭和6年)、長野県松本市生まれ。1950年(昭和25年)、長野県松本県ヶ丘高等学校卒業。1953年(昭和28年)、信州大学文理学部自然科学学科卒。信州大学医学部大学院細菌学教室を経て、信州大学医療技術短期大学部教授。医学博士。信州大学医療技術短期大学部名誉教授。 エイズ研究の傍ら、地域のエイズ感染予防を訴え、講演活動を行っていた。 2025年9月27日、肺炎のため松本市里山辺で死去。死没日付をもって従四位に叙され、瑞宝小綬章を追贈された。
降旗 節雄(ふりはた せつお、1930年6月4日 - 200… 降旗 節雄(ふりはた せつお、1930年6月4日 - 2009年1月28日)は、日本の経済学者。筑波大学名誉教授、帝京大学名誉教授。経済学博士(北海道大学・1966年3月)。従四位瑞宝小綬章。 長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)出身。松本高等学校文科乙類1年次修了の後、学制改革により信州大学文理学部卒業。1960年、東京大学大学院社会科学研究科博士課程退学。その後、1961年、北海道大学助手、1962年同講師、1963年同助教授、1970年同教授、1974年筑波大学教授、1983年同社会学類長を経て、1984年に大島清に請われて帝京大学経済学部教授に就任。 帝京大学に移籍したのは、帝京大学で大学院経済学研究科博士課程を作る作業が進んでいたが、その際主要科目については大学院教員として適格な「マル合教員」を集めなければならなかった。
熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5… 熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督。妻はエッセイストでポプリ研究家の熊井明子。多くの監督作が『キネマ旬報ベスト・テン』に選出され、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。田町小学校、県立松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、松本高等学校 (旧制)から学制改革により信州大学文理学部卒業。大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ。さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
宮下 和男(みやした かずお、1930年3月14日 - 20… 宮下 和男(みやした かずお、1930年3月14日 - 2017年5月25日)は、日本の児童文学作家。 元信州児童文学会会長。元飯田女子短期大学教授。 長野県下伊那郡鼎村(現飯田市)に生まれる。長野師範学校予科を経て、学制改革により信州大学教育学部を卒業。長野県で教員を務め、高森中学校校長を最後に退職。 1968年「きょうまんさまの夜」(福音館書店)で第1回日本児童文学者協会新人賞、1978年「湯かぶり仁太」(信濃教育会編集部)で塚原健二郎文学賞をそれぞれ受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
荒木 弘文(あらき ひろふみ、1930年 - )は日本の経済… 荒木 弘文(あらき ひろふみ、1930年 - )は日本の経済学者。専門は経済史。経済学博士(東京大学)、筑波大学名誉教授。長野県穂高町(現安曇野市)出身。
三輪 公忠(みわ きみただ、1929年7月25日 - )は、… 三輪 公忠(みわ きみただ、1929年7月25日 - )は、日本の国際政治学者、上智大学名誉教授。専門は、国際関係史。
関根 日出男(せきね ひでお、1929年 - 2017年1月… 関根 日出男(せきね ひでお、1929年 - 2017年1月18日)は、医師、チェコ語の翻訳家、チェコ音楽研究家。 長野県北安曇郡大町(現大町市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、大阪陸軍幼年学校を経て、旧制松本医学専門学校(信州大学医学部)卒。1959年北海道大学医学博士。東京都内に耳鼻科医院を開業、同院長。1959年からチェコ音楽を研究、1964年からチェコ語を研究し、翻訳する。
嶋崎 昭典(しまざき あきのり、1928年8月20日 - 2… 嶋崎 昭典(しまざき あきのり、1928年8月20日 - 2025年8月5日)は、日本の農学者。長野県塩尻市出身。信州大学繊維学部 名誉教授、農学博士(1960年 東京大学)。 高度経済成長期、製糸業も自動繰糸機全盛期へと向かう中(1950~1960年代)、製糸工程の統計的管理法、定粒繰糸・定繊自動繰糸の基礎理論を確立。戦後日本の製糸業界発展に寄与すると共に、現在は世界的に普及した自動繰糸機の工程管理手法の礎を築いた。 信州大学教授就任後(製糸・管理工学)は、数多くの学生を指導、国際的にも門戸を拡げ世界各国の学生を受け入れた。 教授時代の中国蘇州丝绸工学院(現:蘇州大学)との交流は、後に岡谷蚕糸博物館名誉館長就任後に、岡谷市と蘇州絲博物館(英語版)との学術交流協定締結へと繋がった。
山田 博光(やまだ ひろみつ、1928年5月10日 - 20… 山田 博光(やまだ ひろみつ、1928年5月10日 - 2025年7月8日)は、日本近代文学研究者、帝塚山学院大学名誉教授。 長野県豊科町(現・安曇野市)生まれ。1954年信州大学文理学部英文科卒、1959年東京都立大学 (1949-2011)大学院博士課程満期退学。1965年苫小牧駒澤短期大学助教授、1969年帝塚山学院大学文学部助教授、73年教授、85年文学部長、89年学長、2001年定年、名誉教授。
大和 岩雄(おおわ いわお、1928年2月15日 - 202… 大和 岩雄(おおわ いわお、1928年2月15日 - 2021年6月20日)は、日本の編集者、出版事業家、古代史研究家。大和書房(だいわしょぼう)および青春出版社の創業者。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)にて、江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれる。生家が没落したため、高等小学校卒業後、名古屋市の三菱重工業に旋盤工として就職する予定であったが、1942年、官費で学べる長野師範学校(信州大学教育学部)に入学し、1948年に卒業すると長野県下伊那郡大鹿村立鹿塩中学校に赴任、国語と音楽を教えていた。1948年12月に退職し、長野市に移住。ここで山本茂実主宰の人生誌「葦」に参加。第4号以降、同誌の編集長となる。
中條 高德(なかじょう たかのり、1927年5月3日 - 2… 中條 高德(なかじょう たかのり、1927年5月3日 - 2014年12月24日)は、日本の実業家。アサヒビール株式会社名誉顧問。 1927年5月3日、長野県埴科郡森村(現・千曲市)に生まれる。屋代中学(現・長野県屋代高等学校)卒業後、帝国陸軍の現役兵科将校を目指し、陸軍予科士官学校に第60期生として入校しさらに本科(陸軍士官学校)に進むが、第二次世界大戦敗戦により陸士は閉校となる(最終階級は士官候補生たる陸軍兵長)[要出典]。 戦後は旧制松本高等学校文科乙類(現・信州大学)に進み、1952年3月に学習院大学文政学部政治学科を卒業。同年4月、アサヒビール入社。東京支店長、取締役、大阪支店長を経て1982年には常務取締役営業本部長として「アサヒスーパードライ」作戦を実行し、1988年に代表取締役副社長。
近藤 廉治(こんどう れんじ、1927年5月3日 - 202… 近藤 廉治(こんどう れんじ、1927年5月3日 - 2023年3月6日)は、精神科医、南信病院理事長。 長野県飯田市出身。1952年信州大学医学部卒。同放射線医学教室勤務。1957年「篩照射に関する基礎的研究」で信州大学医学博士、同年神経科へ移る。国立武蔵療養所、1970年長野県立駒ケ根病院長、1972年開放病棟の南信病院を設立、院長、理事長。
馬瀬 良雄(ませ よしお、1927年3月3日 - 2014年… 馬瀬 良雄(ませ よしお、1927年3月3日 - 2014年10月8日)は、日本の日本語学者。信州大学名誉教授。専門は音韻論・音声学・方言学。長野県松本市生まれ。
杵淵 直知(きねぶち なおとも、1925年1月27日 - 1… 杵淵 直知(きねぶち なおとも、1925年1月27日 - 1979年11月2日)は、日本のピアノ調律師である。東京市牛込区出身。 大正から昭和にかけて活躍したピアノ調律師、杵淵直都の長男。余丁町尋常小学校、旧制早稲田中学、旧制長野工業専門学校(現信州大学工学部)卒業。大橋幡岩に師事してピアノの製作技術を学ぶ。1961年(昭和36年)に単身ドイツへ渡り、グロトリアンやスタインウェイといったヨーロッパの代表的なピアノ工場で技術経験を重ねる。帰国後は桐朋学園、NHKホールなどの専属ピアノ調律師として活躍。1964年(昭和39年)から東京ピアノ工業の技術顧問として新しいグランドピアノの製作に従事。1979年(昭和54年)、54歳で脳溢血のため死去。
毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) -… 毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) - 2016年(平成28年)7月18日)は、飯田市旧南信濃村出身の日本の教育者、著述家。 1943年(昭和18年)長野県師範学校男子部本科卒業(現在の信州大学教育学部)。 教壇に立った後に校長職などを歴任。その後も、長野県教育委員会指導主事、信濃教育会研究調査部主任、信濃教育会研究図書部主任、下伊那教育会長、下伊那校長会長、長野県中学校長会長、全日本中学校長会理事などを歴任し教育行政の発展に尽力する。1988年(昭和63年)に教職を退職。 その後、結婚を機に移り住んでいた豊丘村にて20年間豊丘村教育委員(うち17年間は教育長)を務める。豊丘村では恒例となった満1歳児と小中学生を対象にした誕生日本贈呈事業を始めた。
小沢 貞孝(おざわ さだたか、1916年12月1日 - 20… 小沢 貞孝(おざわ さだたか、1916年12月1日 - 2002年12月17日)は、日本の政治家。民社党衆議院議員。
佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月… 佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本の政治家。位階は正三位。雅号は良素。 民社党委員長(第4代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(1期)を歴任。 元鹿島建設副社長鹿島新吉は岳父に当たり元中央大学総長の升本喜兵衛は実兄、甥に初代養父市長の佐々木憲二がいる。 兵庫県養父郡伊佐村浅間(八鹿町を経て現養父市八鹿町浅間)生まれ。旧制豊岡中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部を卒業。創立間もない日本発送電に入社し、1946年に日本電気産業労働組合協議会(翌年電産労組として単一化される)が結成されると、初代書記長兼副闘争委員長となる。
清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 … 清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 - 2014年(平成26年)8月29日)は、日本の教育学者、信州大学名誉教授、松商学園短期大学第6代学長。専門は、教育学、特に学校図書館の研究や、教育工学的な視聴覚教育の研究などであった。 長野県諏訪郡原村出身。長野県諏訪中学校、長野師範学校から、東京高等師範学校に進み、1944年に東京文理科大学教育学科を卒業した。同年、下諏訪小学校訓導、東京高等師範学校教諭、1946年に北海道第一師範学校助教授を務めた後、東京学芸大学講師を経て、1951年に信州大学教育学部助教授となり、1968年に教授に昇任した。1970年に文部省在外研究員としてコロンビア大学、オハイオ州立大学に留学。
清水 慎三(しみず しんぞう、1913年10月1日 - 19… 清水 慎三(しみず しんぞう、1913年10月1日 - 1996年10月18日)は、日本の労働運動家、評論家。 岡山県岡山市出身。日本製鐵社員、内閣企画院嘱託、総理府事務官経済安定本部勤務、日本労働総同盟調査部長、鉄鋼労連初代書記長、日本社会党(左派)中央執行委員、総評長期政策委員会事務局長、信州大学教授、日本福祉大学教授を歴任した。 主な著書に『日本の社会民主主義』(岩波新書、1961年)、『戦後革新勢力』(青木書店、1966年)、『戦後革新の半日陰』(日本経済評論社、1995年)など。『清水慎三著作集』(高木郁朗編、日本経済評論社、1999年)がある。 岡山市の呉服商の家に生まれる。岡山県第一岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校、六高時代はボート部に属し、瀬戸内海で青春を謳歌。
市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 200… 市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 2004年11月18日)は、日本の映画女優、歌手。出生時本名は同じ、結婚後の本名は加々良 春代(かがら はるよ)。戦前のサイレント映画時代から始まり、トーキー期に実力を発揮し、戦後も長く現役の女優だった。 1913年(大正2年)2月9日、長野県長野市の善光寺門前の西後町に、弁護士の父・喜一、母・きんの二男二女の次女として生まれる。県庁や裁判所の至近の地だった。 1919年(大正8年)、長野県師範学校附属小学校(現在の信州大学教育学部附属長野小学校)に入学。1924年(大正13年)8月3日に父が死去、同校を高等科2年で中退して、叔父が懇意にしていた日活の取締役根岸耕一の紹介状を持ち、13歳になった1926年(大正14年)6月16日に日活大将軍撮影所に入社した。
細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 199… 細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 1994年9月19日)は、日本の法学者。専門は法社会学。学校法人立命館総長・立命館大学学長、京都橘女子大学学長など歴任。 岐阜県揖斐郡揖斐町(現・揖斐川町)出身。旧制松本高文科甲類在学中から農民運動・教育運動に参加。治安維持法違反での検挙歴(1933年、二・四事件)がある。1934年、東京帝国大学文学部社会学科に入学し、理論社会学を専攻。卒業論文テーマは「ジンメルの貨幣哲学」であった。 大学卒業後、東洋経済新報社に入社するが石橋湛山と衝突し退社。その後、財団法人日本貿易振興協会日本貿易研究所に入所し米国経済史の研究に注力。しかし同研究所もまもなく閉鎖され、1947年兵庫県立労働研究所に移籍。
佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年… 佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年不明)は、日本の数学者。信州大学名誉教授。専門は微分積分学。 長野県東筑摩郡塩尻町(現・塩尻市)出身。旧制松本第二中学(現・長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東北帝国大学卒業。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)教諭を経て1938年(昭和13年)京城高等工業学校教授。1944年海軍兵学校教官。1946年松本高等学校教授、1950年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授を務めた後、1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授。 佐倉の名「直男」は「ただお」ではなく「なおお」と読む。彼の教え子の一人で、信州大学文理学部最後の入学生でもある猪岐(いのまた)英夫は、信州大学理学部同窓会報の中で佐倉の想い出をこう記している。
小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993… 小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993年6月11日)は、日本の数学者。 東京府生まれ、長野県育ち。父は教育者の小松武平、兄は哲学者の小松摂郎。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)卒、旧制松本高等学校(現:信州大学人文学部・理学部)卒、1932年東京帝国大学理学部数学科卒、1941年「複体の変換論」で大阪帝大理学博士。大阪帝国大学助教授をへて、京都大学理学部教授、1973年定年退官、名誉教授となる。専門は位相幾何学。
高馬 一郎(こうま いちろう、1909年2月10日 - 20… 高馬 一郎(こうま いちろう、1909年2月10日 - 2006年8月12日)は、日本の経営者。グンゼ社長を務めた。兵庫県姫路市出身。 1930年に上田蚕糸専門学校製糸科を卒業し、同年に郡是製絲(のちのグンゼ)に入社。1959年1月に取締役に就任し、1965年1月に常務、1967年1月に専務を経て、1975年1月には社長に就任。1979年2月には会長に就任。 2006年8月12日老衰のために死去。97歳没。
江頭 豊(えがしら ゆたか、1908年(明治41年)1月16… 江頭 豊(えがしら ゆたか、1908年(明治41年)1月16日 - 2006年(平成18年)9月24日)は、日本の実業家。チッソ株式会社の社長(1964年12月 - 1971年7月)として水俣病問題の対応にあたった。皇太子徳仁親王妃雅子の母方の祖父。学位は法学士(東京帝国大学)。
田中 亮(たなか りょう、1907年(明治40年)8月15日… 田中 亮(たなか りょう、1907年(明治40年)8月15日 - 1993年(平成5年)5月25日)は日本の哺乳類学者。ネズミの研究で広く知られる。 長野県上田市に生まれる。1930年(昭和5年)上田蚕糸専門学校を経て、1934年(昭和9年)台北帝国大学理農学部生物学科卒。同年4月から1946年(昭和21年)3月まで同大副手、助手を経て助教授となる。終戦後、国立台湾大学理学院副教授を経て帰国し、1947年(昭和22年)高知県立女子専門学校講師、のち教授。新制大学発足に伴い高知女子大学家政学部教授。1973年(昭和48年)3月定年退官を経て、同年5月7日に高知女子大学名誉教授となる。晩年は高知市に住んだ。
小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2… 小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2月17日 - 1996年 <平成8年> 11月30日)は、日本の実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。位階は正三位。 山梨県大月市出身。1925年に山梨県立都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した後、旧制松本高校理科甲類、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1929年に日本電気に入社する。常務、専務、副社長を経て、1964年社長となる。小林が社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれた。1976年会長に就任。父親、藤本氏から小林氏に入婿(本姓 藤本氏)[要出典]。
古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973… 古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)は、日本の出版人、筑摩書房の創業者、初代社長。
臼井 吉見(うすい よしみ、1905年(明治38年)6月17… 臼井 吉見(うすい よしみ、1905年(明治38年)6月17日 - 1987年(昭和62年)7月12日)は、日本の編集者、評論家、小説家、日本藝術院会員。息子は映像作家の臼井高瀬。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に、父貞吉・母きちの次男として生まれる。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校(現・信州大学)文科甲類を経て、1929年東京帝国大学文学部卒業。松本中学での同級生に筑摩書房の創業者となる古田晁、俳優・演劇評論家の松本克平がいる。 旧制伊那中学(現・長野県伊那北高等学校)、松本女子師範学校などで教員を務めた後、上京して東京女子大学でも教え、さらに1946年に創刊した筑摩書房の総合雑誌『展望』編集長を務め、文芸評論家としても活躍した。
小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - … 小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - 1977年10月26日)は、日本の生物学者。理学博士(1935年)。信州大学教授などを歴任。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1928年京都帝国大学農学部農林生物学科卒業。翌年、母校講師。理学博士(1935年)。 1930年台北帝国大学助教授、1944年熱帯医学研究所所長、1949年岐阜師範学校(学制改革により岐阜大学教育学部)教授、1958年信州大学教授、1960年同繊維学部長などを歴任し、1969年定年退官。 日本生態学会環境問題専門委員会委員長、長野県水質審議会委員、日本学術会議自然保護研究連絡委員会委員なども務める。
宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 19… 宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 1994年7月5日)は、日本の児童文学作家。 長野県小諸市生まれ。松本女子師範学校卒業。1927年から1934年まで木曽・馬籠の神坂小学校教師を務め、その後は臨時教員となる。戦後は島崎藤村全集の編纂を行う。1955年から童話を執筆し、1957年に信州児童文学会の前身である「とうげの旗の会」に入会。同人誌「とうげの旗」に作品を発表する傍ら、同会の整備と拡大に尽力し、1971年には発展組織である信州児童文学会の会長に就任、同年、少年少女向け雑誌である文学誌「とうげの旗」を創刊した。 1957年に『ミノスケのスキー帽』で児童文学者協会新人賞、1958年『ゲンと不動明王』で未明文学賞、1974年『箱火ばちのおじいさん』で野間児童文芸推奨作品賞、1980年「宮口しづえ童話全集」全8巻で赤い鳥文学賞受賞。
唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月… 唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月13日 - 1980年(昭和55年)5月27日)は、日本の文芸評論家・哲学者・思想家。 京大で西田幾多郎に師事。『現代日本文学序説』(1962年)を書き、『鷗外の精神』(1943年)、『中世の文学』(1955年)と研究を進めた。反近代の思想を貫き『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(1980年)を遺して死去した。 1904年(明治37年)、長野県上伊那郡宮田村に生まれる。旧制松本中学(現:長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校(現:信州大学)文科甲類を卒業後、1927年(昭和2年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。西田幾多郎や田邊元から多大な影響を受けた。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1… 堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1990年12月18日)は日本の銀行家。住友銀行頭取を19年務め(1952年~1971年)、「住銀の法皇」と称された。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長、日本航空元会長。勲一等旭日大綬章受章。元モルガン・スタンレー証券代表取締役会長の堀田健介は長男。大正製薬社長の上原明は二男。
間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月1… 間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月1日 - 1981年(昭和56年)6月16日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、岐阜県加茂郡田原村長。旧姓・日比野。 岐阜県加茂郡古井村(現美濃加茂市)で、日比野重一の二男として生まれ、8歳で間宮直四郎の養子となる。岐阜県立農林学校を経て、1920年、上田蚕糸専門学校を卒業。 卒業後横浜に出て矢野上甲商会に勤務。二年後、一年志願兵として名古屋野砲兵第3連隊に入隊し、1924年7月、砲兵少尉に任官して退役。その後、名古屋の帝国生繭乾燥器製作所に勤務した。 1926年に帰郷し田原村信用組合専務理事に就任。1932年、田原村助役に転じた。
唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年… 唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1968年〈昭和43年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 長野県更級郡屋代町(現千曲市)生まれ、小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)を経て、大正8年(1919年)上田蚕糸専門学校製糸科(現信州大学繊維学部)卒業。横浜の合名会社「茂木」に入社するが、経営難から退社し、翌年東華洋行を創業し、横浜港での国際貿易に当たったが、同12年(1923年)の関東大震災の打撃を受ける。同15年(1926年)日本蚕糸機械商会、昭和5年(1930年)日本ダイガスト、昭和8年(1933年)国光社出版部を創業するなど、京浜地方で多くの企業に関与した。
金井 寛人(かない ひろと、1897年(明治30年)1月14… 金井 寛人(かない ひろと、1897年(明治30年)1月14日 - 1977年(昭和52年)11月30日)は、日本の実業家。帝国ホテルの会長を務めた。 1897年(明治30年)1月14日、長野県諏訪市に生まれる。 上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)を卒業し片倉製糸に勤務した後、1931年(昭和6年)に国際商事を設立し、1937年(昭和12年)には山東塩業、1943年(昭和18年)には華北興業の社長に就任した。華北興業では主に中国産の塩や葉たばこを扱った。 戦後は公職追放となるも1950年(昭和25年)に解除された。 東京殖産の長田庄一から多額の資金援助を受け、大倉喜七郎の株を肩代わりする形で1953年(昭和28年)に帝国ホテルの会長に就任した。
高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年… 高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1955年〈昭和30年〉9月18日)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校。教師に西岡瑞穂がいた)を経て、長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業。 1922年、岸田劉生に師事し、「夏牛」の雅号が贈られた。教員をしながら油絵を制作。母校である諏訪中学校で絵画部顧問を勤め、同部の教え子に矢崎博信がいる。 1937年、フランスへ留学しポール・セザンヌを研究。一水会会員、日展委嘱作家となった。
松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月2… 松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月25日 - 1980年12月27日)は、日本の歌人、教育者である。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町羽場)生まれ。長野県立諏訪中学校を経て、1914年長野県師範学校(現・信州大学)を卒業。上伊那郡七久保小学校を振り出しに県内各地で教職に携わる。高遠国民学校、高遠拓殖青年学校、高遠実科高等女学校の校長を歴任。 1917年、「アララギ」入会。島木赤彦、土屋文明、土田耕平と相識り、歌は「アララギ」一筋によりながら、1947年には歌誌「流域」を主宰して、上伊那地域の人々の短歌指導にあたった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948… 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は、日本の作曲家。 長野県上水内郡長野町(現長野市)に旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。 1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。
川田 弘道(かわた こうどう、1893年1月26日 - 没年… 川田 弘道(かわた こうどう、1893年1月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名絲井川 清(いといがわ きよし、新漢字表記糸井川 清)、活動期の最後の数年に川田 弘三(かわた こうぞう)と名乗る。 1893年(明治26年)1月26日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田地区)に生まれる。 長じて長野に移り、1913年(大正2年)3月、旧制・長野県師範学校(現在の信州大学教育学部)を卒業、旧制小学校の教諭となる。その後、教職を辞して役者に転向し、1916年(大正5年)、東京市下谷区二長町(現在の東京都台東区台東1丁目)の市村座で旧劇(歌舞伎)の舞台に立つ。1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社、同年5月11日に公開された『雪の夜話』(監督池田義臣)に出演して、満30歳で映画界にデビューする。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 19… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 長野県南安曇郡温村(現在の安曇野市三郷温下長尾)に生まれた。務台理作とは同郷で、南安曇郡温村立長尾尋常小学校以来の同級生であった。梓農業補習学校に学んだ後、1908年に長野県師範学校(信州大学教育学部の前身のひとつ)に入学し、1912年に卒業して教師となり、以降、訓導、校長、県視学官などを務めた。 松岡は師範学校在学中に手塚縫蔵と知り合い、キリスト教に入信し、松本市の聖公会で受洗した。松岡は、長野県師範出身者を中心として青年教師らが集まっていた東西南北会に参加しており、1912年に最初に着任した南安曇郡温明小学校で校長排斥運動に関与したが、岡村千馬太に諭され、同校を去った。
田中 八百八(たなか やおはち、1884年8月 – 1952… 田中 八百八(たなか やおはち、1884年8月 – 1952年1月10日[要出典])は、日本の林学者、農林技官。 信州大学初代農学部長を務めた。学者としての専門分野は林業政策、治山治水。 現在の福井県小浜市竹原[要出典]で生まれる。 旧制小浜中学校を経て、[要出典]1909年に東京帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)を卒業した。 1917年、岩手県庁山林課長に就任する[要出典]。山梨県庁でも勤務した。 1925年に農林省山林局兼内務省土木局技師となる。1926年にイタリアのローマで開催された第1回万国森林会議(英語版)に日本代表の1人として出席し、副議長(6人の1人)を務めた。会議からの帰途にはヨーロッパ各国の林業事業を視察した。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 19… 岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本の教育者。号は天機。 長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」を設立し、長野に三宅雪嶺、犬養毅、古島一雄、池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。 諏訪郡・小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが、教育に専念するため辞職。