赤嶺 昌志(あかみね まさし、1896年(明治39年)3月8… 赤嶺 昌志(あかみね まさし、1896年(明治39年)3月8日 - 1963年(昭和38年)2月15日 )は、日本のプロ野球球団経営者。 プロ野球・名古屋軍の理事(現在の日本プロ野球における球団代表に相当する)やセントラル・リーグ総務などを歴任した。 大分県出身で、明治大学法学部を卒業後に平壌鉄道局の野球チームの嘱託をしていたところ、若林忠志を要するハワイ州のアマチュア球団「スタクトン」を招き入れて親善試合を行う。しかし赤嶺は、平壌の戦力が不十分として自ら東京へ向かい、新国劇のエースだった黒田健吾を引き抜いた。これがきっかけで、のちに新国劇が平壌で興行した際に赤嶺は劇団の若手に付け回されたという。
武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 … 武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉10月25日)は、日本の教育者。元明治大学野球部長、元明治大学学長・総長。札幌大学学長。日米大学野球選手権大会の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身。 広島県出身。第四仏教中学(現:崇徳学園)卒業後、明治大学へ進学。商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造・越智七五三吉と共に大学校歌として著名な「白雲なびく駿河台」(作詞:児玉花外・作曲:山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。 1936年(昭和11年)から明大商学部教授。1941年(昭和16年)明治大学体育会ヨット部初代部長 の他、硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。
芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 19… 芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 1951年7月9日)は、美術評論家、作家。 長崎県島原市生まれ。長崎県立島原中学校(現長崎県立島原高等学校)、明治大学卒業、出版界に入り小説、評論などを書く。美術春秋社を興し、『美術春秋』『日本画傑作年鑑』等の編輯発行者となる。戦後は「美術鑑賞」を発行した。
小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 19… 小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 1994年12月14日)は、日本の法学者で、教育者。明治大学法学部の部長を務めた後、明治大学学長を勤めた。岡山県新見市出身。 生誕地は新見市中心部より約4km北に離れた地で、幼少期は中心部にある小学校まで毎日徒歩で通学したという。また農閑期に演じられる備中神楽を愛好し、自身も演じるに至った。 旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、縁戚の者の家に下宿して通学した。中学卒業後は旧制第一高等学校に進学した。一高進学の理由について、小出自身は小学校OBで進学した先輩からの影響と語っているほか、教え子の一人は小出の入学前に一高校長を務めていた新渡戸稲造への憧れがあったと記している。
四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980… 四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980年11月10日)は、日本の政治家であり弁護士。徳島県石井町出身。位階および勲等は、従四位・勲二等。 医師の書生として明治大学を卒業後、弁護士となる。 東京府会議員(3期)、東京都議会議員(文京区選出・5期)、東京都議会議長、全国都道府県議会議長会会長をへた後鳩山一郎の後見を得て、文京区で衆議院議員として第30回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第31回までの6年間を衆議院議員として国政に携わる。この間、青色申告や戦後帰還事業、競艇事業の推進に貢献し、中曽根康弘の最初の派閥メンバーとして参画したのちに引退。 最終的に都議会議員時代に秘書であった深谷隆司に議席を譲る。
川本 泉(かわもと いずみ、1895年(明治28年)9月 -… 川本 泉(かわもと いずみ、1895年(明治28年)9月 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、昭和時代前期の政治家。貴族院多額納税者議員。 広島県出身。1919年(大正8年)明治大学法科卒業。 1933年(昭和8年)以降、広島市会議員、同副議長を歴任した。 1947年(昭和22年)広島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年3月19日から貴族院廃止まで在任した。
韓 根祖(ハン・グンジョ、朝鮮語: 한근조/韓根祖、1895… 韓 根祖(ハン・グンジョ、朝鮮語: 한근조/韓根祖、1895年7月19日 - 1972年2月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の弁護士、政治家、実業家。平壌市長、第4・5・6代韓国国会議員を歴任した。 本貫は清州韓氏。カトリック教徒。 平安南道江西郡出身、本籍はソウル。1921年明治大学法学部卒。翌年の弁護士試験合格後は平壌で弁護士として活動し、平壌弁護士会長を経て、大東亜戦争勃発以降は農村に隠居した。光復後は平壌市長、平安南道政治委員を務めた。その後は越南し、米軍政庁大法院大法官、司法部法務次長、曺晩植が率いる朝鮮民主党の副党首・最高委員、憲法起草専門委員、司法科・行政科考試委員、高等選考委員、弁護士試験委員、韓国日報社社長、民主党中央常任委員会議長・ソウル鍾路乙区党委員長を務めた。
永田 安太郎(ながた やすたろう、1895年(明治28年)7… 永田 安太郎(ながた やすたろう、1895年(明治28年)7月15日 – 1955年(昭和30年)5月13日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)、愛知県会議長、愛知県会議員(4期)などを歴任した。 愛知県碧海郡長瀬村大字橋目字毘沙門(現岡崎市)に永田半兵衛の次男として生まれた。安城農林学校を卒業後、家事の農業に従事していたが、明治大学専門部法律学科に入学した。1917年(大正6年)7月、同大学を卒業。1922年(大正11年)に弁護士試験に合格し弁護士を開業した。1937年(昭和12年)には名古屋弁護士会長に就任した。 1927年(昭和2年)9月25日の愛知県会議員選挙に碧海郡選挙区から立憲民政党公認で出馬し初当選。
関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 197… 関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 1974年3月8日)は、日本の経済学者。日本経済団体連合会の設立など、戦後の経済再建に重要な役割を果した。 1917年、明治大学政治経済学部卒業。在学中は雄弁会幹事長を務めていた。朝日新聞社に入る。1920年のワシントン会議では、緒方竹虎等と共に特派員に選出されたが、直前の急病により断念することとなった。 1925年に、母校からの要請により、朝日新聞社から明治大学に転じた。同商学部助教授に就任すると同時にパリ大学に留学。1927年に帰国し、政治経済学部助教授、1930年に同教授、1942年に「東洋思想と仏蘭西経済学」で、経済学博士の学位を取得。
葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30… 葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30日 - 1971年(昭和46年)12月16日)は、日本の華族、神職。正四位。伯爵。 子爵鍋島直柔(旧蓮池藩主家)の三男として生まれたが、藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む葉室家に婿養子に入り、36代目当主となる。明治大学卒業後、安田銀行勤務などを経て、賀茂御祖神社(下鴨神社)宮司となり、興亜学院理事長なども務めた。
野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16… 野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16日 - 1957年(昭和32年)4月2日)は、昭和時代の政治家。実業家。地主。衆議院議員。 神奈川県橘樹郡川崎町南河原(川崎市幸区南河原を経て現幸区駅前本町)の素封家の家に生まれる。1922年(大正11年)3月、明治大学法科を卒業。1924年(大正13年)市制施行直後の川崎市の学務委員に推され、1926年(大正15年)市青年団御幸分会長、1928年(昭和3年)県社会委員となった。 同年9月、川崎市会議員に当選。参事会員となった。さらに1932年(昭和7年)6月より神奈川県会議員に2期当選し、参事会員にも選ばれた。 1937年(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙では神奈川県第2区から出馬し当選。
井川 伊平(いかわ いへい、1895年(明治28年)3月18… 井川 伊平(いかわ いへい、1895年(明治28年)3月18日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、日本の政治家、弁護士。参議院議員(2期)。 徳島県出身。1921年、明治大学法学部卒業。1923年、札幌市で弁護士事務所を開業。その後、札幌市議会議員(3期)、北海道議会議員(6期)を務め、1951年に北海道議会副議長に就任(1期、当時は国民民主党に所属)。1955年、市議や道議として公共の福祉に奉仕した地方自治発展の功労により藍綬褒章受章。 1959年の第5回参議院議員通常選挙と1965年の第7回参議院議員通常選挙において北海道選挙区より当選(自由民主党)。参議院議員を2期に亘って務め、北海道開発政務次官などに就いた。
鍛冶 良作(かじ りょうさく、1895年〈明治28年〉2月2… 鍛冶 良作(かじ りょうさく、1895年〈明治28年〉2月20日 - 1980年〈昭和55年〉6月8日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(7期)。 富山県下新川郡生地町(現黒部市)出身。1915年に上京して谷欽太郎の書生となる。その後明治大学に入学して雄弁部に所属したが、部内の社会主義論になじめず退部し、「桜桂会」というグループを結成して雄弁部に対抗した。 1921年に明治大学を卒業。翌年神田区会議員となり、1947年、富山一区から衆議院議員に初当選し、以降7期務め、法務政務次官、大蔵政務次官などを歴任。1960年、裁判官弾劾裁判所裁判長に就任。1965年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。1970年秋の叙勲で勲一等瑞宝章。
李 肯鍾(イ・グンジョン、朝鮮語: 이긍종、1895年または… 李 肯鍾(イ・グンジョン、朝鮮語: 이긍종、1895年または1897年7月23日 - 1951年1月24日)は、最初の朝鮮人司書であり、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。第2代韓国国会議員(在任中に死去)。 号は心崗(シムガン、심강)、日本名は宮村 薫。韓国における図書館の草分けである李範昇はおじ。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)出身。1910年に水下洞公立普通学校(現・ソウル清渓初等学校)、1914年に京城高等普通学校本科(現・京畿高等学校)、1917年に京城専修学校(現・ソウル大学校法科大学)卒。1917年5月から10月までは大邱地方法院金泉支庁書記兼通訳生として働き、1918年から1920年までは明治大学で法律を勉強した。
原 淳一郎(はら じゅんいちろう、1894年〈明治27年〉1… 原 淳一郎(はら じゅんいちろう、1894年〈明治27年〉10月30日 - 1975年〈昭和50年〉6月2日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(2期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県安芸郡田野村(現田野町)で生まれた。1919年明治大学法律科卒。弁護士となる。兵庫県議、同参事会員、神戸市議、同参事会員、神戸弁護士会副会長となる。高知電気工業、国策化学工業、神戸機械工作所各(株)取締役、(株)播磨造船所監査役、神陽汽船、大陸鉱業、秋岺鉱業、三陽工業、三陽精機、太平金属各(株)社長、ラジオ高知初代社長、高知放送取締役となる。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
長井 源(ながい げん、1894年(明治27年)8月13日 … 長井 源(ながい げん、1894年(明治27年)8月13日 - 1966年(昭和41年)9月19日)は、日本の政治家、弁護士。三重県飯南郡粥見町(現松阪市)出身。戦前の大日本帝国の帝国議会の民政党衆議院議員。戦後の日本進歩党・改進党・日本民主党・自由民主党の衆議院議員。 三重師範学校(現在の三重大学)を卒業した。三重県内の尋常小学校の教員を経て、法律を学ぶため1923年(大正12年)明治大学法学部法律学科を卒業した。高等文官試験をパス(合格)した。衆議院議員に初当選する前のキャリアとして、弁護士、松阪市会議員、三重県会議員、第33代三重県会副議長(昭和8年11月~昭和10年10月在任)を務めた。
武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10… 武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10日 - 1963年(昭和38年)10月11日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等・勲章は勲一等瑞宝章。伊予市名誉市民受章。 愛媛県伊予郡南伊予村下三谷(現・伊予市下三谷)出身。1913年(大正2年)北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)卒業。学生時代から政治家を志し明治大学法律科卒業後帰郷。1918年(大正7年)憲政会公認で松山市会議員に立候補し当選、翌1919年(大正8年)には愛媛県会議員にも立候補して当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に愛媛1区から立憲民政党公認で立候補し初当選。戦前は廣田内閣の文部参与官、小磯内閣の内務政務次官、翼賛政治会衆院部総務等を歴任。
谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年… 谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年7月24日、旧姓:真殿)は、日本の陸上競技選手(短距離)・指導者。日本人では初めて100m走で10秒台の記録を出した人物である。1924年のパリオリンピックに出場。 岡山県和気郡伊里村(現在の備前市伊里)出身。 伊里尋常高等小学校(現在の備前市立伊里小学校)を卒業、後に明治大学に進学し、大学卒業後は鉄道省に入省した。 1917年の第5回日本陸上競技選手権大会男子100mで真殿三三五名義で出場し、12秒0で初優勝。その後、日本選手権では第10回大会から第12回大会まで男子100m三連覇を果たしている。 1924年にはパリオリンピックの日本代表に選ばれ、岡山県出身者で初の五輪代表となる。
徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 19… 徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は、日本の弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長。
大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - … 大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - 没年不明)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。松竹キネマおよび松竹蒲田撮影所の創生にかかわり、小津安二郎の唯一の映画監督としての師であることでも知られる。 1894年(明治27年)2月10日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 明治大学文科を卒業後、有楽座の舞台監督を務める。1920年(大正9年)6月、松竹蒲田撮影所に入社。ヘンリー・小谷、野村芳亭に助監督として師事する。1922年(大正11年)、監督に昇進する。同年に斎藤寅次郎が入社、1926年(大正15年)に小津安二郎が撮影助手から異動し、それぞれ大久保の助手となる。
高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)… 高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)2月8日 - 1957年(昭和32年)12月7日)は日本の政治家。衆議院議員(2期)。宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)長。 宮城県大崎市で生まれた。明治大学法学部卒業後、米国ワシントン大学ランドスクールで政治学を専攻。コロンビア大学でも学んだ。在米8年。帰国後は明治大学講師となった。 その後、日東窯業、明治大学出版部、鳴子木材、東北鉱山資材各取締役、日東紡績理事、荒尾嶽鉱業取締役社長、鳴子町会議員となる。 1948年(昭和23年)5月21日に旧宮城2区で行われた第23回衆議院議員補欠選挙に民主党から立候補し当選。翌年の第24回衆議院議員総選挙で再選。
清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日… 清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日 - 1982年(昭和57年)10月13日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・針谷。 埼玉県出身。農業・針谷重太郎の長男として生まれ、清水家の養子となる。埼玉県立粕壁中学校卒、第五高等学校中退を経て、1918年7月、明治大学専門部法科を卒業。三井銀行に入社し1920年6月まで在職。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年5月、内務省に入省し北海道庁属となり拓殖部に配属。 1923年4月、京都府属兼警視・警察部巡査教習所長に就任。以後、同警察部保安課長、同警務課長、欧米出張(1928年12月)、地方事務官・京都府勤務、同府建築監督官県工場監督官、警察講習所教授兼内務事務官・警保局勤務、朝鮮総督府警務局図書課長、内務書記官・警保局防犯課長、同局外事課長、同局保安課長、兼同局経済保安課長を歴任。
水野 東太郎(みずの とうたろう、1894年 - 1980年… 水野 東太郎(みずの とうたろう、1894年 - 1980年)は、日本の弁護士。第8代日本弁護士連合会会長。 1894年、愛知県出身。 明治大学卒業後、弁護士となり、東京弁護士連合会会長、日本弁護士連合会会長などを歴任した。 また、明大法学部では、身分法を講じ、理事長にも就任した他、国際親善病院理事長なども務めた。 1980年、死去。勲二等。
金 孝錫(キム・ヒョソク、朝鮮語: 김효석/金孝錫、1894… 金 孝錫(キム・ヒョソク、朝鮮語: 김효석/金孝錫、1894年または1895年12月19日 - 1966年4月15日)は、大韓民国の政治家。初代韓国国会議員。第3代内務部(現・行政安全部)長官。 慶尚南道陜川郡出身。明治大学法学部卒。光復前は青年運動に関与し、光復後は韓国民主党の成立に参加し、中央常務執行委員を務めた。その後は大韓独立促成国民会に参加し、農林部長を務めた。1948年の制憲選挙で大韓独立促成国民会の公認で陜川郡から立候補して当選し、制憲国会議員を務めた。 朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致され、1956年7月に北朝鮮の在北平和統一促進協議会常務委員を務めた。その後北朝鮮で72歳で死去した。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
佐久間 渡(さくま わたる、1893年(明治26年)9月14… 佐久間 渡(さくま わたる、1893年(明治26年)9月14日 - 1976年(昭和51年)12月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。弁護士。衆議院議員。栃木県会議長。旧姓は玉川。 栃木県河内郡宇都宮町(現・宇都宮市)出身。玉川菊次郎の四男として生まれ、佐久間長四郎の養子となり、1922年(大正11年)家督を相続する。1915年(大正4年)明治大学専門部法律科を卒業し弁護士業務に従事する。 宇都宮市会議員、同議長、栃木県会議員、同議長、昭和製作所社長を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では栃木県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月3… 中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月30日 - 1999年(平成11年))は、日本の農林官僚であり教育者でもある。農林省に勤めた後、戦後、茨城大学教授を経て明治大学教授となった。初代日本食肉科学会会長。子の中原逸郎は陸軍大尉。岡山県倉敷市出身。 1893年(明治26年)に岡山県に生まれる。その後、1914年(大正3年)、20歳で旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、同年、名古屋市にある第八高等学校へ入学し、1917年(大正6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学農学部へ入学、1920年(大正9年)7月、27歳で同大学を卒業し、東京毛織会社へ技師農学士として就職した。
山本 粂吉(やまもと くめきち、1893年(明治26年)7月… 山本 粂吉(やまもと くめきち、1893年(明治26年)7月25日 - 1974年(昭和49年)2月17日)は、日本の政治家、弁護士。旧姓は瀬尾。 茨城県新治郡小幡村(現石岡市)に茨城県士族瀬尾由三郎の息子として生まれた。絶家となっていた山本家の家督を継ぎ、台湾公学校教諭を務めた後に明治大学法科専門部を卒業。弁護士となって東京弁護士会副会長や司法省委員を歴任する傍ら、台湾の板橋林家の法律顧問にもなっている。 1936年の第19回衆議院議員総選挙に旧茨城3区から立憲民政党公認で立候補し当選。政党解消後の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。翼賛議会においては戦時刑事特別法改正法律案委員会の理事を務めた。
李 相喆(イ・サンチョル、朝鮮語: 이상철、1893年2月2… 李 相喆(イ・サンチョル、朝鮮語: 이상철、1893年2月26日 - 1979年11月27日)は、大韓民国の政治家。 本貫は慶州李氏。号は石雲(ソグン、석운)。 1893年、忠清道青陽(現忠清南道青陽郡)出身。日本の明治大学法学部を卒業し、日本統治時代に東亜日報・朝鮮日報・毎日新報の社会部・政治部で記者として働いた。 解放後は政界に転じ、1950年の第2代総選挙で無所属候補として青陽郡選挙区から出馬し当選。1957年、民主党の中央委員会副委員長となり、1960年の第5代総選挙で青陽郡・洪城郡選挙区から出馬し当選。逓信部長官、内務部長官を歴任した。1963年の第6代総選挙では国民の党公認で青陽郡・洪城郡選挙区から出馬し当選。
渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月1… 渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1971年〈昭和46年〉2月9日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県南埼玉郡日勝村長、川越市長。号に香井。位階は従六位。 素封家・渋谷浦吉の二男として、埼玉県南埼玉郡岡泉村(日勝村、白岡町を経て現白岡市岡泉)に生まれる。1914年(大正3年)明治大学法科を卒業し、1916年(大正5年)日勝村の名誉助役に就任する。ついで同村農会長、同村長を経て、1928年(昭和3年)埼玉県会議員に当選し、郡農会副会長、県農地委員などを兼ねた。 1942年(昭和17年)7月、地方事務所官制が施行されると民間人としては異例の地方事務官として北足立地方事務所長に登用された。
小滝 辰雄(おだき ときお、1892年〈明治25年〉12月9… 小滝 辰雄(おだき ときお、1892年〈明治25年〉12月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。顕八(あきわ)に改名。 長野県埴科郡南条村(現坂城町)出身。1914年(大正3年)早稲田大学政治経済科卒。1916年(大正5年)同大学英法科、1915年(大正4年)明治大学英法科卒。下谷区議、東京市会議員となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において東京8区から憲政会公認で立候補したが落選。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において東京2区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で落選。
加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 … 加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 - 1975年(昭和50年))は、日本の内務官僚。官選福井県知事。 大分県出身。加藤栗太郎の長男として生まれる。1917年、明治大学法学部を卒業。1918年、内務省に入省し兵庫県属となる。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大分県直入郡長、同日田郡長、大分県・徳島県・鹿児島県各勤務、宮崎県書記官・学務部長、島根県書記官・学務部長、佐賀県総務部長、山口県総務部長、東京府書記官・学務部長などを歴任し、1941年、新潟県内政部長に就任。 1943年7月、福井県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年4月21日、依願免本官となり退官した。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年(明治25年)11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年(明治25年)11月25日 - 1965年〔昭和40年〕6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11月23日 - 1965年〈昭和40年〉6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。 神戸中学校を経て荏原中学校に進む。明治大学野球部時代、現在のアジア競技大会の原点である「極東オリンピック・マニラ大会」(1913年)の日本代表に選ばれ、名遊撃手として活躍。 その後造船会社へ就職したが、野球を忘れられず、1922年には、翌年プロ野球球団であることを宣言する天勝野球団の一員として活動。1923年には満洲(現・中国東北部)の満洲鉄道会社(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満洲クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)を歴任。
森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉1… 森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉10月20日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県新居郡中萩村(現・新居浜市)生まれ。1918年(大正7年)、明治大学法律科卒。経済学研究のため、欧米諸国に留学する。帰国後十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)に入るが、東明銀行清算人となる。朝日土地(株)取締役、千代田商事(株)社長、日本肥料工業(株)専務取締役、帝国商事(株)取締役社長となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。1期務めた。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙でも立候補したが途中で立候補を取り下げた。
鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)… 鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)8月5日 - 1969年(昭和44年)12月12日)は、日本の政治家、実業家。 明治25年(1892年)、静岡県敷知郡篠原村(のち浜名郡篠原村、現・浜松市中央区)に生まれる。 明治大学を経て画商として名を成し、東京・銀座の代表的な画廊の一つ、青樹社画廊を経営する。 昭和22年(1947年)の第23回衆議院議員総選挙では日本自由党から出馬し、当選を果たす。 同年、設立された東京電気自動車の外山保より、義父である鈴木に資金要請の相談が入り、画廊の顧客でもあったブリヂストン社長の石橋正二郎から出資を得ることとなった。石橋が400万円、鈴木その他が300万円を出資し、資本参加することとなり、昭和24年1月、鈴木が経営上の全責任を負う社長に就任し、石橋は会長に就任。
勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月2… 勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月12日)は、昭和時代の政治家。漁業家。実業家。静岡県沼津市長。 静岡県出身。県立沼津中学校を経て、1916年(大正5年)明治大学商科卒業。 歩兵第18連隊へ一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計に進んだ。千本浜で定置網漁を営む傍ら、1939年(昭和14年)9月に沼津市会議員に当選。1943年(昭和18年)9月には同議長に推挙された。ほか、駿東地方事務所参与、沼津漁業会長、静岡県水産業会副会長を歴任した。 1945年(昭和20年)11月、沼津市の最後の官選市長に就任。戦後の混乱期にあって復興部を設け庶務・土木・都市計画・建設・水道の5課を置き戦災復興を進めた。
子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 196… 子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 1968年7月19日)は、日本の小説家。本名:梅谷 松太郎(うめや まつたろう)。異父弟は洋画家の三岸好太郎。第10回菊池寛賞受賞。 祖父の梅谷十次郎(通称:斉藤鉄太郎または鉄五郎)は、江戸幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れ捕虜となった。釈放された後、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩国の漁村・厚田村で漁場を持った。この祖父は網元で、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営していた村の顔役であった。御家人崩れのヤクザ風な人柄であったという。 子母澤も厚田村に生まれ、早くに実母と別れ、祖父に溺愛されて育った。
真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治2… 真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治24年)9月16日 - 1982年(昭和57年)4月29日)は日本の政治家、俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。 長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれ。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後明治大学法学部に入学し、雄弁部に所属する。在学中から普選運動にかかわり、1920年(大正9年)1月18日の学生普選促進大会(日比谷公園)で検挙された。 明大中退後憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選、戦前は通算5回の当選を果たす。
木下 源吾(きのした げんご、1891年〈明治24年〉8月8… 木下 源吾(きのした げんご、1891年〈明治24年〉8月8日 - 1965年〈昭和40年〉11月26日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 北海道出身。明治大学専門部中退。第7師団の御用商人としてシベリアに渡り、後に新聞記者となる。1925年、政治研究会旭川支部の結成に参加。1926年、旭川市会議員。労働農民党、社会大衆党の中央委員を経て、1945年、日本社会党初代北海道委員長に就任。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙で北海道選挙区から出馬して当選(任期3年)し、1950年の参院選でも再選されたが、1956年の参院選では社会党の公認争いから社会党道本部から除名処分を受けながら再選を目指すも落選に終わった。
大谷 五花村(おおや ごかそん、明治24年(1891年)7月… 大谷 五花村(おおや ごかそん、明治24年(1891年)7月27日 - 昭和33年(1958年)4月26日)は、政治家、作家。本名・五平(ごへい)。 1891年(明治24年)、福島県五箇村(現白河市借宿)に生まれる。幼名を五一郎といった。 五箇尋常高等小学校(現五箇小学校)、福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)に学び、久米正雄とクラスメートになり、深い親交を結んだ。この頃より短詩型文芸に興味を持ち、川柳や里謡等を作り始め新聞や雑誌に投稿するようになった。 1912年(明治45年)4月、明治大学に進学。在学中に川柳復興運動の先頭に立って活躍した井上剣花坊について川柳を学ぶ。「大正川柳」発行の際には会員になり、後に同人となり活躍した。
平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6… 平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6月29日 - 1956年(昭和31年)11月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府日根郡北信達村、のち泉南郡信達村→信達町、現在の泉南市で平島幸吉の息子として生まれる。1915年(大正4年)明治大学法律科を卒業した。 大阪木津川セメント (株) に入社し用度課長を務めた。在勤中、雨の日には出勤せず、会社もしかたなく公認した。その後、会計士の業務に従事。鉱業、農業に転業し、1943年(昭和18年)コバルト採掘鉱業に関係した。その他、合資会社信達織布工場理事、平島紡績取締役、同会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から立候補したが落選。
北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月2… 北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月24日 - 1981年(昭和56年)5月30日)は、日本の実業家。 スタンレー電気の創業者である。 1891年、山梨県東八代郡境川村(現・笛吹市)にて出生。 明治大学を経て、1920年12月29日、30歳のときに、東京市芝区(現・東京都港区芝)に住居兼店舗を借りて、自動車電球を中心とした特殊電球の製造販売会社「北野商会」を創業。 当時、1907年のT型フォードの本格製造から僅か10数年で、国内の自動車台数は未だ7,8千台足らずの時代であり、世界のマーケットを予見して創業したとされる。 世界との取引には、オリジナルの商標(ブランド)を持つことが必要と考え、「世界に光明を掲げた」人物としてその名を知られるイギリスの探検家、ヘンリー・モートン・スタンリーに肖り、商標を「スタンレー」と定める。
長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4… 長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4月16日 - 1968年(昭和43年)5月15日)は、日本の政治家。徳島市長。明治大学政治経済学部卒業。 旧名東郡加茂名村(現在の徳島市庄町)で生まれた。 徳島農業高等学校、明治大学政治経済学部卒業。明治大学では弁論部に同郷の後輩三木武夫を勧誘し、以後も支援する。 1934年、徳島市役所に勤務、佐古青果市場理事長に就任。 1951年に徳島市長に就任し1958年まで2期を務める。一坂俊太郎以来、戦後初めて2期以上、市長を務めた。1967年、日本ポルトガル親善とモラエス翁顕彰の功によりポルトガル国徳島駐在名誉領事に任じられた。 1968年(昭和43年)5月15日、77歳で没する。
川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8… 川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8日 - 1988年〈昭和63年〉12月27日)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村(現・八頭町)出身。千葉県銚子市長(1933年-1945年)、北海道岩見沢市長(1945年-1946年、1954年-1970年)。岩見沢名誉市民。位階は正五位。 明治大学法学部卒。内務省から千葉県地方課長に出向し、その後1933年、銚子市の市制施行から終戦直前まで3期12年、官制初代銚子市長を務める。 1945年5月13日任期満了で退任後、同年5月30日公選第2代岩見沢市長となり、翌年11月17日公職追放により退任。 追放解除後の1954年10月29日、山本市英前市長の辞任による選挙で再び岩見沢市長(公選第5代)に就任、1970年10月まで4期16年務め、任期満了で退任。
森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年… 森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月29日)は、日本の検察官。 福岡県三潴郡大善寺村(現・久留米市)出身。1912年、明治大学法学部卒業。1916年、判事検事登用試験に合格して司法官試補となり、1918年に東京地方裁判所判事となる。1920年に退職してヨーロッパに留学し、スイスのベルン大学、ドイツのハイデルベルク大学で民法、商法、労働法を研究し、1923年帰国。検事に任じられ、司法省刑事局・行刑局に勤務。1932年法学博士の学位を取得。また、明治大学政経学部教授に就任。 検察官時代は、東京控訴院検事、宮城控訴院検事局検事長、大審院判事などを歴任。
田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17… 田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17日 - 昭和41年(1966年)4月30日)は、日本の官僚。三重県出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初,… 梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初, 拼音: Liáng Fúchū, 粤拼: loeng4 fu4 co1; 1891年 - 1968年12月26日)は、中華民国、中華人民共和国の野球選手、野球指導者。 戦前、戦後中国において各地で野球の普及活動を行い、中国野球の父と呼ばれる。 広東省香山県(現・中山市東昇鎮、後に小欖鎮に合併)で生まれる。幼名は梁澄樹。1901年、10歳時に一家で来日、横浜で暮らしていたが、そこで野球に出会う。1905年、14歳のときに兄弟や近所の華僑少年と共に「中華野球団」を結成した。明治大学でも野球を続け、捕手、一塁手としてプレーしたのち、本牧十二天のグラウンドで中華野球団を指導した。
中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10… 中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10月1日 - 1971年(昭和46年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党)、司法参与官。弁護士。 佐賀県藤津郡古枝村(現在の鹿島市)出身。日本大学で学んだ後、1914年(大正3年)から翌年にかけて臨時陸軍輜重輸卒として日独戦争に従軍し、金鵄勲章を得た。1916年(大正5年)、三菱鉱業唐津鉱業所に入り、やがて台湾製糖に移った。そのかたわら1919年(大正8年)に明治大学法学部を卒業。1923年(大正12年)に弁理士試験に合格し、さらに翌年には弁護士試験に合格して開業した。その後、東京市会議員、同参事会員に選出された。