吉松 民雄(よしまつ たみお、1947年2月10日 - )は… 吉松 民雄(よしまつ たみお、1947年2月10日 - )は、日本の実業家でコカ・コーラボトラーズジャパンホールディングス代表取締役社長を経て、同社取締役会長。山口県出身。 1969年関西大学経済学部卒業後、近畿コカ・コーラボトリング(後のコカ・コーラウエスト)に入社し2007年社長に就任。ボトラー間の再編で2009年 コカ・コーラウエスト副社長を経て2010年に社長に就任する。2017年以降は、コカ・コーラ製品を製造・販売するコカ・コーラウエストとコカ・コーライーストジャパンが経営統合して発足したコカ・コーラボトラーズジャパン(初代、現・コカ・コーラボトラーズジャパンホールディングス)の飲料子会社2社の代表取締役社長を兼任、2018年以降はコカ・コーラウエスト(2代)とコカ・コーライーストジャパンなどが合併したコカ・コーラボトラーズジャパン(2代)の代表取締役社長を兼任。
井上 保(いのうえ たもつ、1947年1月11日 - 201… 井上 保(いのうえ たもつ、1947年1月11日 - 2014年11月2日)は、日本の経営者。関西スーパーマーケット社長、会長を務めた。 大阪府出身。1964年に関西大学経済学部を卒業し、同年に関西スーパーマーケットに入社。1990年に取締役に就任し、1996年6月に常務、2000年6月に専務を経て、2002年6月に社長に就任。2014年10月には会長に就任。 2014年11月2日、肺癌のために死去。67歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浜渦 武生(はまうず たけお、1947年 - )は、日本の実… 浜渦 武生(はまうず たけお、1947年 - )は、日本の実業家、元議員秘書。国会議員政策担当秘書や東京都知事特別秘書を経て、東京都副知事、東京交通会館副社長、東京都参与を歴任した。自民党の保守派議員グループ青嵐会の裏方を務めたほか、石原慎太郎の側近として知られ、肝煎りで東京都副知事に就任した。 高知県安芸郡北川村出身。父親は公職追放を受けた後、奈半利町内の営林署勤務。奈半利町立奈半利小学校卒業後は父親の意向で妹と一緒に高知市へ移って下宿暮らしし、高知市立潮江中学校へ通う。江本孟紀は中学校の同級生。 高校は高知県立高知追手前高等学校へ進学。高校生時代に高知駅でコーヒー袋を見かけ、それが気になってつられるように高知港を訪れてグアテマラの貨物船に上がり込んで、同国の船会社に就職の交渉を行い、就職と移住の手続きを済ませたが、これが両親に無断のことであり、当時末期がんで入退院を繰り返していた母親から懇願されて断念、父親には大学進学の意志を伝え、関西大学文学部新聞学科へ進学。
福田 泰久(ふくだ やすひさ、1946年8月23日 - )は… 福田 泰久(ふくだ やすひさ、1946年8月23日 - )は、日本の経営者。センコー社長、会長を務めた。 大阪府出身。1969年に関西大学法学部を卒業し、同年に扇興運輸(現在のセンコー)に入社。 1993年6月に取締役に就任し、1997年6月に常務、2003年6月に副社長を経て、2004年6月には社長に就任。2022年4月に会長に就任。 2022年に大倉喜七郎賞を受賞。扇興杯女流囲碁最強戦及び国際戦のSENKO CUPワールド碁女流最強戦の創設に尽力し、SENKO CUPに併せて女流ティーンエージャー棋士トーナメント戦(非公式戦)、世界女流アマ最強戦ネット囲碁トーナメントを開催するなど囲碁普及にも努めていることが評価された。
井上 憲氏(いのうえ けんじ、1945年9月26日 - )は… 井上 憲氏(いのうえ けんじ、1945年9月26日 - )は、日本の実業家。 ジャスダックに上場する㈱クリップコーポレーションの創業者(現代表取締役社長)。かつて日昭産業(現日昭アルミ工業)の営業担当社員であった。1982 年 1 月にユアサ商事の孫会社であった湯浅教育システム中部の代表取締役に就任して学習塾を開始、その後、湯浅教育システム中部の譲渡を受け、それが、現在の㈱クリップコーポレーションの前身となる。代表取締役社長としての在任期間は34年間(2015年現在)。自らを「商売人」という井上代表は、「自分の給料は自分で稼ぎだす」という自主独立の心意気を持った経営者の育成こそが企業を発展させると考えている。
藤原 隆昭(ふじわら たかあき、1944年 - )は、日本の… 藤原 隆昭(ふじわら たかあき、1944年 - )は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1968年に関西大学法学部法律学科を卒業し、同年に山陽放送に入社。2007年6月に社長に就任し、2011年6月までに務めた。
目黒 俊治(めぐろ しゅんじ、1943年6月18日 - )は… 目黒 俊治(めぐろ しゅんじ、1943年6月18日 - )は、広島県出身の実業家。ポプラ (コンビニエンスストア)創業者。大黒屋食品二代目社長。 1943年、段原中町(現南区)で父・恒一、母・シズエの長男として生まれる。太平洋戦争末期、一家で白木町(現安佐北区)に疎開していたため、目黒は広島市への原子爆弾投下の際には被害にあわなかった。ただ被爆後すぐに親戚を探しに市内に入った父・恒一(入市被爆)と後に生まれる妹(被爆二世)が被爆者であった。 戦後父・恒一は広島市内でサラリーマンをしていたが、軍人でアメリカ軍の捕虜だった父の弟(目黒の叔父)が共産党員になったあおりでレッドパージされた。そこで一家で新天地(現中区)に移り住み、1949年酒のつまみを製造・販売する「大黒屋(のち大黒屋食品)」を開業する。
山前 五十洋(やまさき いそみ、1943年4月28日 - 2… 山前 五十洋(やまさき いそみ、1943年4月28日 - 2020年4月5日)は、日本の実業家、映画監督、俳優である。京都市出身。関西大学法学部2部中退。娘は歌手の倉木麻衣。父は詩人の山前実治。 京都府京都市下京区に生まれ。厳格な父親は京都で出版社、印刷会社を経営する傍ら詩人としても活動し、比較的裕福な家庭で育つ。3歳頃に父親の故郷、岐阜県大野郡荘川村(現在の高山市)へ一時疎開している。小学校入学時は京都市東山区に居住し、小学校5年生から新聞配達などを務める。 京都市立日吉ヶ丘高等学校2年生時、少年画報連載中の堀江卓原作「天馬天平」がフジテレビでテレビ映画化された際、一般公募3万人中から主役天平役に抜擢され、当時の編成局長草間浩之が8チャンネルにちなみ芸名を富士八郎とする。
吉野 伊佐男(よしの いさお、1942年〈昭和17年〉4月1… 吉野 伊佐男(よしの いさお、1942年〈昭和17年〉4月11日 - )は、日本の実業家・芸能プロモーター。吉本興業にて代表取締役社長・会長を務めた。上方漫才協会名誉会長。大阪府出身。 2006年4月1日、松本竜助が脳幹出血で他界した際、報道陣からの質問で「竜助がちゃんと復帰出来る状態であったならば、うち(吉本)へ戻せる事も出来たし、紳助・竜介(コンビ当時の名称)の漫才も復活する事が出来たはずであった」と個人的な心情を述べた。
天野 文博(あまの ふみひろ、1941年10月27日 - )… 天野 文博(あまの ふみひろ、1941年10月27日 - )は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。 岡山県出身。1965年に関西大学法学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社した。1993年に取締役に就任し、1999年6月に常務、2001年6月に専務を経て、2003年6月に社長に就任。2004年6月には阪神電気鉄道の社外取締役に就任した(2013年5月退任)。2009年6月に会長に就任。 2016年11月に旭日中綬章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩井 孝司(いわい たかし、1941年8月17日 -)は、日… 岩井 孝司(いわい たかし、1941年8月17日 -)は、日本の実業家で小野薬品工業代表取締役社長。 1964年関西大学法学部卒業後、小野薬品工業に入社。 1998年に同社生産物流本部長、1999年に取締役を経て2005年に代表取締役社長に就任した。しかし、2006年4月の取締役会出席後に体調を崩し、2006年5月をもって退任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
橋本 博之(はしもと ひろゆき、1941年6月1日 - )は… 橋本 博之(はしもと ひろゆき、1941年6月1日 - )は、日本の経営者。尼崎信用金庫理事長を務めた。 大阪府出身。1966年に関西大学法学部を卒業し、同年に尼崎信用金庫に入社した。1994年に理事に就任し、1996年に常務、1997年に専務、1998年に副理事長を経て、1999年1月には理事長に就任。2014年6月には会長に就任。
土井 栄次(どい えいじ、1941年3月5日 - )は、日本… 土井 栄次(どい えいじ、1941年3月5日 - )は、日本の経営者。上新電機社長を務めた。広島県出身。 1963年に関西大学法学部を卒業し、同年4月に京都ダイカスト工業に入社。1972年12月に上新電機に転じ、1985年5月に取締役に就任し、1995年6月に常務、1998年6月に副社長を経て、2001年10月には社長に就任。2012年6月には会長に就任。
上月 景正(こうづき かげまさ、 (1940-11-12) … 上月 景正(こうづき かげまさ、 (1940-11-12) 1940年11月12日(85歳) - )は、日本の実業家。コナミグループの創業者で代表取締役会長を務める。 京都府出身。1966年関西大学経済学部卒業。1969年コナミ工業創業。1973年コナミ工業株式会社(現コナミグループ株式会社)設立。1996年コンピュータエンターテインメント協会(CESA)設立、初代会長就任(現名誉会長)。2002年日本経済団体連合会理事就任。現在、コナミグループ株式会社 代表取締役会長。 1982年には個人資産を拠出した財団法人上月教育財団(現上月財団)を設立し、同財団の理事長を務める。以来40年以上にわたりスポーツ・教育・文化の振興と発展に寄与する活動に取り組んでいる。
大倉 雄次郎(おおくら ゆうじろう、1940年3月2日 - … 大倉 雄次郎(おおくら ゆうじろう、1940年3月2日 - ) は、日本の会計学者、実業家、関西大学名誉教授。
木村 勇市(きむら ゆういち、1939年 - )は、日本の実… 木村 勇市(きむら ゆういち、1939年 - )は、日本の実業家。元キムラ社長、元ジョイフルエーケー社長。北海道小樽市生まれ。 北海道札幌東高等学校卒業後、関西大学商学部卒業。大学卒業後、黒田商店に入った後の1963年、家業の木村金物店(現キムラ)に入社。1974年、父・正二を継ぎキムラ社長に就任。社長就任後、ホームセンター事業に進出し、2001年には、大手ホームセンターであるジョイフル本田やアークランドサカモトと共にジョイフルエーケーを立ち上げた。2002年、キムラ会長に就任。
唐渡 吉則(からわたり よしのり、1939年 - )は、日本… 唐渡 吉則(からわたり よしのり、1939年 - )は、日本のプロ野球中継専属リポーター・ラジオパーソナリティ・歌手・実業家(広告会社社長〔株式会社クリエイティブタグ代表取締役〕 - 本業)。大阪府生まれ。MBSラジオ制作の阪神タイガース(以下、阪神、同球団)関連番組で、長らくリポーター・スポーツコメンテーターとして活躍していた。 通称は『ミスター・トラ』(元々は、阪神関連番組出演時の名義だった。後述参照)。愛称は『唐(から)さん』、『からやん』。血液型はA型。 1962年に関西大学文学部新聞学科を卒業してから、広告代理店に8年間在籍。トップセールスマンとして活躍した後に、独立して広告会社を設立した。
野田 順弘(のだ まさひろ、1938年8月24日 - )は日… 野田 順弘(のだ まさひろ、1938年8月24日 - )は日本の実業家、馬主。 オービック代表取締役会長。2022年のフォーブス長者番付で世界851位、日本10位。保有資産額は2022年4月時点で、35億米ドル(約4,520億円)。妻は、オービック取締役相談役の野田みづき。 1938年(昭和13年)、奈良県宇陀郡室生村(現・宇陀市)生まれ。1957年に奈良県立榛原高等学校(現・奈良県立榛生昇陽高等学校)を卒業後、近畿日本鉄道百貨店部(近鉄百貨店)、次いで東京オフィスマシンに勤める。この間、1961年に関西大学経済学部を卒業。1968年、妻とともに大阪ビジネスカンパニー(のちのオービック)を設立。
上条 英男(かみじょう ひでお、本名:井上 英男 - いのう… 上条 英男(かみじょう ひでお、本名:井上 英男 - いのうえ ひでお、1937年1月10日 - 2025年7月13日)は、日本の実業家・芸能プロデューサー。 福岡県北九州市に出生。福岡県立八幡中央高等学校を卒業後関西大学文学部に進学するが、次第に音楽活動に傾倒し中退した。4・9・1(フォー・ナイン・エース)を結成して東北、北海道を巡業し、1966年には芸能プロデューサーに転向した。 芸能プロデューサーとしては4・9・1のボーカリストとしてジョー山中をスカウトしたのを皮切りに小山ルミ、吉沢京子、西城秀樹、安西マリア、田口久美、舘ひろし、川島なお美などを次々と発掘した。1960年代後半から1980年代初頭にかけて芸能界に重きをなした。
河野 隆(こうの たかし、1936年3月26日 - 2026… 河野 隆(こうの たかし、1936年3月26日 - 2026年2月23日)は、日本の実業家、ハウス食品代表取締役社長[信頼性要検証]。 ハウス食品4代目代表取締役社長、会長を歴任した。 1959年、関西大学経済学部を卒業後、同年4月にハウスカレー浦上商店(現・ハウス食品グループ本社)に入社。1998年6月、ハウス食品株式会社の社長に就任。 2026年2月23日死去。89歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
碓井 優(うすい ゆたか、1935年5月7日 - )は、日本… 碓井 優(うすい ゆたか、1935年5月7日 - )は、日本の実業家。広島県呉市長迫町出身。石川島播磨重工業(IHI)のコンピュータ外販部門のリーダーだった1981年、79人の仲間を率いて同社を集団退社。『コスモ・エイティ』を興して大きな注目を浴び、日本のベンチャー草分けとなった。[要出典] 広島県立呉三津田高等学校野球部で広岡達朗の後輩。1学年上の小畑正治(元南海)後の剛球エースとして1952年、選抜大会選考に繋がる秋季中国地区大会決勝まで進むが、柳井高校に自身の悪送球で延長サヨナラ負けし甲子園出場は成らなかった。阪神と南海のスカウトが来たが関西大学に進学。しかし父親の会社が負債を抱え倒産。やむなく野球は諦め数日だけの大学生活を終え、父の友人だった呉市長・鈴木術の口利きで呉造船所(のち合併し石川島播磨重工業(IHI))に入社した。
難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 -… 難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 - 2009年8月14日)は、プロ野球選手(内野手)、実業家、音楽プロデューサー。 大阪府生まれ。高槻高等学校を経て、1954年に関西大学に入学。1年生の春季・秋季リーグとも規定打席不足ながら.444の高打率を挙げると、2年生から四番打者を務め、関西六大学野球リーグでは1956年春季リーグ、1957年春季リーグで優勝。1年下のエース村山実とともに投打の両輪として活躍し、1956年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース島津四郎を擁する日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。リーグ通算86試合出場、283打数73安打、打率.258、7本塁打。
今井 和幸(いまい かずゆき、1931年4月13日 - 20… 今井 和幸(いまい かずゆき、1931年4月13日 - 2008年1月27日)は、日本の地方公務員、経営者。兵庫県副知事、サンテレビジョン会長を務めた。兵庫県豊岡市出身。勲三等旭日中綬章。位階は正五位。 1949年に兵庫県庁に入庁し、1954年に関西大学法学部を卒業。1993年から1997年までに副知事を務め、サンテレビジョン会長も務めた。 2008年1月27日肺炎のために死去。76歳没。
溝田 弘利(みぞた ひろとし、1931年3月8日 - 201… 溝田 弘利(みぞた ひろとし、1931年3月8日 - 2012年10月12日)は、日本の実業家、政治家。溝田旗工業元社長、エドモンズ大学日本校元理事長、元神戸市会議員(長田区選出)、同議長。 1955年(昭和30年)関西大学文学部卒業。先代の前社長溝田利松が1930年(昭和5年)5月に個人で創業した溝田旗工業の跡を1984年(昭和59年)3月に利松の死去にともない引き継ぐ。同時に神戸市会議員も務め、市会議長などを歴任する。その後、1992年(平成4年)には国政選挙にくら替えするため市会議員を辞職し、第16回参議院議員通常選挙兵庫県選挙区に出馬したが落選(78,413票、10人中7位)。供託金も約6,000票差で没収された。
坂本 幸夫(さかもと ゆきお、1930年4月19日 - )は… 坂本 幸夫(さかもと ゆきお、1930年4月19日 - )は、日本の経営者。読売ジャイアンツ広報部長、ハミングバード社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1953年に関西大学経済学部を卒業。大阪読売新聞社で記者を務め、1962年に読売ジャイアンツに出向し、1969年までに広報担当兼オーナー秘書兼広報部長を務めた。 1969年にパイオニアに転じ、販売部長と取締役を経て、1978年にはワーナーパイオニア常務に就任。 1983年にハミングバードを設立し、社長に就任。
青砥 順(あおと じゅん、昭和4年(1929年)1月11日 … 青砥 順(あおと じゅん、昭和4年(1929年)1月11日 - 平成20年(2008年)3月31日)は、日本の実業家。元米子信用金庫会長。位階は正六位。旭日双光章。 父は元米子信用金庫会長青砥喜三郎、兄は元山陰放送社長青砥昇。 鳥取県米子市出身。米子中学校を経て、昭和27年(1952年)関西大学経済学部卒業。昭和32年(1957年)米子信用金庫入庫。昭和43年(1968年)同審査部長、常勤理事。昭和45年(1970年)常務理事。昭和49年(1974年)専務理事。昭和58年(1983年)理事長。 平成20年(2008年)3月31日、79歳で死去。死没日付をもって正六位に叙され、旭日双光章を追贈された。
疋田 耕造(ひきた こうぞう、1929年(昭和4年)1月1日… 疋田 耕造(ひきた こうぞう、1929年(昭和4年)1月1日 - )は、日本の実業家。コーナン商事創業者、初代代表取締役社長。 和歌山県新宮市生まれ。1945年(昭和20年)大阪市立住吉商業高等学校卒業。1951年(昭和26年)関西大学文学部英文科卒業。 寺下石油、木津川タンカー勤務を経て、28歳で石油商社「木津川石油商会」を立ち上げ、1961年「港南石油商会」創業、1970年(昭和45年)石油販売会社・日本燃料販売設立。石油危機をきっかけに事業の多角化を図るため、1978年(昭和53年)ホームセンター事業のコーナン商事設立。ホームセンターの草分けとして発展し、近畿地区トップのチェーンに成長させ、2001年には東証一部上場を果たした。
井上 次郎(いのうえ じろう、1928年4月6日 - 196… 井上 次郎(いのうえ じろう、1928年4月6日 - 1969年4月29日)は、昭和時代中期日本の実業家。現在のイオングループの源流となった企業の1社・シロの創業者。大阪府出身。 1928年(昭和3年)4月6日、大阪府豊能郡庄内村(現在の豊中市庄内)で飯田家に生まれる。関西大学経済学部を卒業後、井上米子との結婚に伴い入婿し井上姓となった。 1955年(昭和30年)、実兄の義雄と共同で衣類の生地小売、染色、機械販売およびアパートの賃貸を業務とする飯田株式会社を創業し、同年12月15日より米子と夫婦でアパートの1階を改装した店舗で婦人服の仕立業を始めた。1961年(昭和36年)6月、アパートを鉄筋コンクリート4階建て構造に建て替え「シロ」の1号店とする。
大国 正巳(おおぐに まさみ、1927年2月20日 - )は… 大国 正巳(おおぐに まさみ、1927年2月20日 - )は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。 兵庫県出身。1950年に関西大学法学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社した。1981年6月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1987年6月に専務、1990年6月に副社長を経て、1992年6月に社長に就任。社長在任時には、1995年の阪神・淡路大震災の際には、鉄道の復旧の指揮を執り、阪神電気鉄道との直通特急を実現させた。1999年6月に会長に就任し、2001年6月には相談役に就任。 1996年4月に藍綬褒章を受章し、2001年11月に勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
坂上 守男(さかがみ もりお、1926年10月28日 - 2… 坂上 守男(さかがみ もりお、1926年10月28日 - 2004年5月11日)は、日本の実業家。元京都新聞社代表取締役会長。山口県出身。 1950年に関西大学経済学部を卒業。1952年に京都新聞に入社し、社会部記者として活躍。人事部長、総務局長、専務などを経て1983年には代表取締役社長。1995年から会長を兼務し、1999年に代表取締役会長専任及び日本新聞協会副会長に就任した。2003年に相談役。 1997年からは関西大学経済人クラブ会長も務めた。京都府観光連盟及び京都市観光協会の会長を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990… 土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990年10月2日)は、日本の実業家。ドイ(カメラのドイ)創業者。広島県広島市出身。 1943年、関西甲種商業学校(現関西大学第一高校)卒業。戦後大阪で伯父の写真材料会社に勤務。左前となったため1956年、妻の郷里・福岡県福岡市で土居商店として独立した。当初は問屋から製品を仕入れ小売店に納入する二次卸だった。メーカー直結の問屋が流通経路を牛耳る時代、新参者が食い込む隙はなく苦戦。悩んだ末、末端の写真館やDPE店、土産物屋へのダイレクトメールを思いつく。これも当時は簡単に資料が集められず、市町村役場の商工係にアンケート用紙を送り顧客名簿を作成した。
河村 良彦(かわむら よしひこ、1924年9月21日 - 2… 河村 良彦(かわむら よしひこ、1924年9月21日 - 2010年1月12日)は、日本の実業家。住友銀行(現:三井住友銀行)常務取締役を経て、イトマン社長を務めた。 1924年、6人兄弟の末っ子として山口県に生まれる。山口商業学校(戦後の商業高等学校に相当する学校)を1942年に卒業して、住友銀行に「ノンキャリア」行員として入行した。 磯田一郎(後に住友銀行頭取)は、住友銀行専務取締役だった1972年に、ノンキャリア行員ながら既に頭角を現していた河村について、下記の趣旨を述べている。 住友銀行下関支店へ配属の後、召集され中国大陸での転戦を経て復員。大阪市内の営業店へ転勤となる傍ら、働きながら関西大学経営学部(夜間)に7年間通い、1953年に卒業した。
谷岡 太郎(たにおか たろう、1924年8月17日 - 20… 谷岡 太郎(たにおか たろう、1924年8月17日 - 2007年5月1日)は、日本の学校経営者、学校法人谷岡学園総長、大阪商業大学学長、大阪女子短期大学学長、中京女子大学学長、中京女子短期大学学長などを務めた。 奈良県生まれ。父は、大阪商業大学創立者の谷岡登。[要出典] 1950年に関西大学法学部を卒業し、大学院法学研究科に進み、1953年に中退。 1967年、大阪商業大学附属高等学校(後の大阪商業大学高等学校)第7代校長に就任し、1969年8月まで在任した。 1970年に学校法人清陵学園の理事長に就任し、1986年まで在任。 1974年12月、谷岡登の死去に伴い、学校法人谷岡学園理事長、大阪商業大学学長、大阪女子短期大学学長に就任。
市川 重幸 (いちかわ しげゆき、1922年2月1日- 19… 市川 重幸 (いちかわ しげゆき、1922年2月1日- 1987年12月22日)は、日本の実業家、象印マホービン代表取締役社長、全国魔法瓶工業組合第3代理事長。大阪府出身。学位は法学士(関西大学・1944年)。栄典は藍綬褒章、従5位勲四等旭日小綬章。 1922年(大正11年)2月1日、象印マホービン創業者の市川銀三郎の子として大阪府に生まれた。 1944年(昭和19年)関西大学法学部政治学科を卒業後、同年12月に歩兵第22連隊入営。甲種幹部候補生試験合格後、浜松陸軍飛行学校入校。1945年(昭和20年)10月、陸軍少尉で除隊。 1951年(昭和26年)に取締役を経て、1961年(昭和36年)社長就任後、「象印」のブランド名を冠し、社名を象印マホービン株式会社に変更。
内山 正太郎(うちやま しょうたろう、1915年11月16日… 内山 正太郎(うちやま しょうたろう、1915年11月16日 - 2003年7月23日)は、日本の経営者。フジテックの創業者。大阪府出身。 1935年に関西大学専門部商科を卒業し、戦前戦中は東洋オーチス・エレベータに勤務。独立後、1949年2月に富士輸送機工業(のちのフジテック)を設立し、社長に就任。1992年6月に会長も兼任し、1998年4月には社長の座を大谷謙治に譲り、会長に専任。 2003年7月23日肝不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま と… 福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま ときお、1915年2月10日 - 2001年1月6日)は、日本の陸上競技(障害走)選手・指導者、実業家、美術収集家。1936年ベルリンオリンピックに男子400メートルハードルで出場。 島根県出身。県立大社中学校(現在の島根県立大社高等学校)卒業。 関西大学に入学。1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子400メートルハードルに出場。 1937年9月5日、日本陸上競技選手権大会400メートルハードルにおいて、当時の日本学生記録(54秒8)をマーク。 1938年(昭和13年)関西大学法学部卒業。醸造業を営み、島根県醤油工業協同組合理事長を務めた。
福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 19… 福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 1994年9月7日)は朝日放送元社長。 香川県高松市出身。1936年に関西大学専門部卒業後、朝日新聞社へ入社。社会部次長、整理部次長をつとめた後、1951年に朝日放送設立に参加。放送部報道課長、編成局次長、総務局長、営業局長、1962年取締役、1968年常務、1971年専務、1974年9月副社長、1983年6月社長就任。1990年6月相談役就任。1994年9月、呼吸不全のため81歳で死去。 毎年、兵庫県西宮市の自宅の庭で500株以上のチューリップを植えて育てた。 1988年、勲二等瑞宝章受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
柳 志元(ユ・ジウォン、リュ・ジウォン、朝鮮語: 유지원/류… 柳 志元(ユ・ジウォン、リュ・ジウォン、朝鮮語: 유지원/류지원、1913年1月30日 - 1981年12月31日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は文化柳氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の忠清南道燕岐郡出身。関西大学法科3年中退または卒業。三益社専務理事、全国青年総連盟中央委員、大同青年団(のちの大韓青年団(朝鮮語版))中央執行委員・外交部長、青年新聞社長、大韓青年団総本部団長、失踪軍人遺族会長、自由党燕岐郡党委員長・中央執行委員・企画委員(1967年時点)、第3代国会米軍撤退反対国民運動展開対策委員会委員長、第3・4代国会国防委員会委員長(1954年6月23日~1955年2月19日、1955年3月2日~1956年2月19日、1958年6月17日~8月31日)を務めた。
黒住 剛(くろすみ つよし、1911年(明治44年)2月1日… 黒住 剛(くろすみ つよし、1911年(明治44年)2月1日 - 1986年(昭和61年)3月19日)は、日本の実業家、興亜化学工業(現・栄研化学)創立者および代表取締役会長、扶桑薬品工業代表取締役社長。 岡山県勝田郡湯郷町(現:美作市)生まれ。1929年(昭和4年)、旧制関西大学第二商業学校(現:関西大学)を卒業後、1939年(昭和14年)に興亜化学工業(現・栄研化学)を設立し、取締役に就任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松井 静郎(まつい しずろう、1908年6月23日 - 19… 松井 静郎(まつい しずろう、1908年6月23日 - 1997年12月18日)は、日本の経営者。 兵庫県赤穂市出身。1931年に関西大学法学部法科を卒業した。大蔵省、国税庁での勤務を経て、1967年にロッテに転じた。1971年に専務、1976年には副社長に就任した。1971年から1995年までロッテオリオンズ(1992年、千葉ロッテマリーンズに改称)球団社長を務めた。 1978年に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年12月18日、腎不全で死去した。89歳没。
菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 19… 菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 1989年12月10日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。 1927年9月に関西商工無尽に入社し、1953年3月に関西大学専門部法科を卒業。1959年4月に取締役に就任し、1957年11月に近畿相互銀行常務、1960年11月に専務、1963年8月に副社長を経て、1967年5月には頭取に就任。1979年6月には相談役に退いた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年12月10日肺炎のために死去。81歳没。
村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年… 村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年8月12日 - 1999年5月4日)は、兵庫県出身のプロ野球監督、実業家。 小学校時代の友人に、関西大学野球部監督、大阪タイガース二軍監督などを歴任する森田忠勇がいる。旧制天王寺中学で三塁手を務める。 慶應義塾大学野球部マネージャを経て、1932年にに阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄)に入社する。1936年にはプロ野球球団阪急軍の創設に尽力する。球団代表に就任して25年間球団経営に携わった。 1937年には、秋季シーズンの監督を務める。初代阪急軍の監督である三宅大輔がこのシーズンも指揮を執るはずであったが、三宅の一切の妥協を許さぬ厳格な姿勢が選手達からの猛反発を受けてしまい、三宅は解任に追い込まれたために4試合目からの途中就任であった。
松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3… 松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3月28日 - 1989年 <平成元年> 1月30日)は、日本の経営者。日本ビクター社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西大学法学部を卒業し、同年に松下電器産業に入社。1944年8月に取締役に就任し、1963年1月に常務を経て、1973年11月に日本ビクター社長に就任した。1979年6月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年1月30日、肺炎のために死去。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月1… 田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月18日 - 1981年(昭和56年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 三重県出身。1928年、関西大学専門部商業科を卒業。 時事新報社横浜販売局長、鐘淵紡績東北販売店取締役店長、鐘淵盛岡産業監査役、仙台市繊維製品統制組合理事長、東海航空社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に三重県から立候補し当選。その後、第23回、第25回から第27回総選挙まで4回当選し、衆議院議員を通算五期務めた。この間、第2次鳩山一郎内閣・防衛政務次官、改進党政策委員会文部々長、自由民主党青年局長などを歴任した。 1976年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989… 藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989年2月14日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 岡山県出身。1925年に関西大学法学部法科を卒業し、1927年に朝日新聞社に入社。1945年に合同新聞(のちの山陽新聞社)に転じ、1947年に取締役に就任し、1958年には山陽放送常務に就任し、1964年に専務を経て、1974年5月には社長に就任した。1981年6月に会長に就任し、1983年に取締役相談役を経て、1984年6月に相談役に退いた。 1979年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年2月14日、呼吸不全のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年>… 井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年> 6月30日 - 1977年 <昭和52年> 10月27日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1926年に関西大学専門部経済科を卒業し、同年に栗本鐵工所に入社。 1946年11月に副社長に就任し、1961年5月には社長に昇格。1967年10月に相談役を経て、1969年6月には特別顧問に就任した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年10月27日、老衰のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶ… 飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶろう、1901年(明治34年)9月8日 - 1955年(昭和30年)10月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県簸川郡塩冶村上塩冶(現出雲市上塩冶町)で、飯国恒一の六男として生まれる。同郷出身の宍道政一郎(出雲製織創業者)の書生を務めながら、堺中学(現大阪府立三国丘高等学校)、関西大学専門部法律科を卒業した。 宍道が経営していた大阪帆布、出雲製織で勤務。1941年(昭和16年)、出雲製織、錦華紡績、日出紡織、和歌山紡織が合併して大和紡績が設立されると、出雲工場長に就任。戦後は、常務、専務取締役を務めた。その他、島根県商工経済会評議員、石見人絹工場取締役、島根繊維工業取締役・社長、大和工業取締役、浜田機械工業取締役、大和農機具工業社長なども務めた。
中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1… 中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1968年10月27日)は、日本の実業家・教育者。太平住宅株式会社創業社長で、太平音響株式会社(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)ほか10数社の「太平グループ」代表として知られる。岡山県岡山市出身。 1900年(明治33年)12月5日、岡山県吉備郡庭瀬町(現:岡山市)に生まれる。 1921年(大正10年)、大阪の関西大学専門部商科に入学、1924年(大正13年)、同校を卒業する。卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となり、夜間の商業練習学校の教諭に転じた。 1930年(昭和5年)、神戸市に関西電話建物を創業、日本電話建物(後の日本電建、現・大東建設)と改称、1933年(昭和8年)、同社を東京に進出させた。
吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年… 吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年(明治33年)9月25日 - 1968年(昭和43年)1月22日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府出身。1924年(大正13年)関西大学専門部法律科を卒業した。 大阪市役所勤務を経て、映画興業、不動産業を経営し、摂津怛産取締役社長、新大阪土地開発取締役社長、阪神土地興業取締役社長を務めた。 政界では、尼崎市会議員(1940年-1947年)、兵庫県会議員(1947年-1948年)を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党所属で立候補して落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に兵庫県第2区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981… 荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981年11月9日)は、昭和期の実業家、警察官。 1924年、関西大学専門部卒業。警察に入り、警察官として勤務し、後に特高警察を経て、太平洋戦争末期に兵庫県警察部の労務係長を辞した。身長180cm、体重95kgの巨体。日本製鉄出入りの運輸会社富島組に入社し常務となる。終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る。爆弾を2メートル程度の浅瀬に捨て、処理料を得て、再び掘り出して火薬を抜き去り、抜け殻をスクラップとして売り払い二重にもうけた。これを元手に解散寸前の山陽製鋼(現・山陽特殊製鋼)を1000万円で買収、1948年社長に就任した。