三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 … 名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 - 1967年(昭和42年)11月9日)は、日本の朝鮮総督府・内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事、台南州知事。 佐賀県佐賀郡、後の高木瀬村(現佐賀市)出身。佐賀藩新陰流師範・名尾良知の長男として生まれる。佐賀県佐賀中学校を経て、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。1901年、内務省に入省し警視庁警部となる。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。1906年5月、内務省試補・地方局勤務となる。 以後、警視庁警視・巡視官、大分県事務官・警察部長、埼玉県事務官・警察部長、秋田県内務部長、青森県内務部長、静岡県内務部長などを歴任。
美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7… 美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。 1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医・美濃部秀芳(美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた。高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)、帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日… 八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日本の教育者。 息子は演出家の八田元夫と教育者の八田亭二。
三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3… 三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3月18日)は長崎県旧西彼杵郡瀬戸町(現在の西海町)出身の日本の教育者である。歌手ディック・ミネの父親で、ギタリスト三根信宏の祖父。 長崎県(江戸時代の大村藩)の大庄屋に生まれる。族籍は士族。旧制私立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)、熊本県の旧制第五高等学校、旧制第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に東京帝国大学文学部哲学科に入学し、お雇い外国人だったラファエル・フォン・ケーベルらの教えを受ける。明治30年(1897年)に帝国大学を卒業し、謹厳な教育者として、山形県の山形中学で修身(道徳)、福岡県の東筑中学で英語の授業を、それぞれ教諭として歴任し、29歳の時に、佐賀県の佐賀県立第三中学校(現・唐津東高等学校)の校長に就任する。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月… 秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月27日〉- 1933年〈昭和8年〉2月4日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、拓務大臣。 回船問屋・東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中、日本中学校、第一高等中学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1897年(明治30年)5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年(明治39年)7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。
吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8… 吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月4日)は日本の倫理学者。
藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 193… 藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 1935年2月28日)は、日本の言語学者。上田萬年を継いで東京帝国大学言語学教授をつとめた。
仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5… 仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5年4月20日〉- 1935年〈昭和10年〉9月16日)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚・政治家。子爵。 1872年(明治5年)、旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格。その後、一時志願兵として近衛師団に入営したが、1900年(明治33年)、足疾のために現役を免除された。 宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年… 山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1948年(昭和23年)1月3日[要出典])は、日本の農商務・内務官僚、教育者。官選県知事、山脇高等女学校長。旧姓・畑田。 京都府出身。畑田清平の四男として生まれ、1901年(明治34年)5月、山脇玄の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、司税官を経て農商務省に転じ、農商務大臣秘書官に就任。さらに、農商務書記官、商務局商事課長、台湾総督府専売局長、臨時博覧会事務官長などを歴任。 1916年(大正5年)10月、山梨県知事に就任。
建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5… 建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。 新潟県蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。1922年退官。1913年日本社会学院(学会)を創設、主宰した。オーギュスト・コントに依拠した総合的社会学を講じた。対露強硬論を唱えた。その後、衆議院議員をへて1938年貴族院議員。
朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1… 朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1871年3月25日〉 - 1951年〈昭和26年〉9月18日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授(西洋哲学)、文学博士、日本学士院会員。京都学派を代表する人物の一人。 兄は工学者で京都帝国大学工科大学教授の朝永正三、長男は物理学者で東京教育大学教授の朝永振一郎。 大村藩士・朝長甚次郎の三男として長崎県東彼杵郡川棚町石木郷で生まれる。私立大村中学校(旧制中学校、第一回入学者・現長崎県立大村高等学校)2年修了後に上京して共立学校、東京英語学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学で学ぶ。丁酉倫理会会員となり、哲学館事件においては意見書に名を連ねた。
林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 195… 林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 1953年5月13日)は、明治時代から昭和時代の医学者、寄生虫学者、病理学者。ツツガムシ病研究の第一人者として知られる。 岐阜県恵那郡福岡村(現中津川市)に生まれた。1897年11月、第一高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学衛生科選科に入学したが、翌年退学している。1900年に検疫官を命ぜられ、1901年2月に退職した。同月に京都帝国大学医科大学に入り藤浪鑑教授の助手となり、病理学、恙虫病について研究をおこなう。1906年、恙虫病調査委員を嘱託された。同年12月、愛知県立医学専門学校の教諭となり、病理学や病理解剖学などを担当した。1913年1月、論文「恙虫病病理解剖並に組織学的研究」により、医学博士の学位を授けられた。
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日… 楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。 肥前国大村藩の医家楠本家の四代元正の二男として1871年(明治4年)1月20日、長崎県西彼杵郡七釜村(現在の西海市西海町中浦)に生まれる。幼少の頃から父を失い、3人の妹と共に祖父と母によって養育された。祖父が1882年(明治15年)10月に亡くなってからは、母が長三郎ら4人を女手ひとりで苦労しながら養育した。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
石原 初太郎 (いしはら はつたろう、明治3年9月6日(18… 石原 初太郎 (いしはら はつたろう、明治3年9月6日(1870年9月30日) - 昭和6年(1931年)2月25日)は、日本の地質学者。四女の美知子は作家・太宰治の妻となった。 甲斐国(出生翌年の廃藩置県で山梨県巨摩郡大下条村(現・甲斐市))に、父・孫三郎と母・かくの長男として生まれる。 幼少の頃から和漢の書に親しみ、松島小学校(現在・甲斐市立敷島小学校)を終えて徽典館中学校(現在・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校から東京帝国大学理科大学地質学科で地質学を専攻し1897年(明治30年)に大学を卒業した。 卒業後、農商務省東京鉱山監督署、同省鉱山局、盛岡鉱山監督署に勤務し、1898年(明治31年)に「岡木くら」と結婚した。
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6… 小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者・地理学者。学位は、理学博士(京都帝国大学・論文博士・1909年)。京都帝国大学名誉教授。 1870年に紀伊国田辺藩(現:和歌山県田辺市)で田辺藩儒学者・浅井篤(南溟)の次男として生まれる。満5歳となる1875年、現在の和歌山市に移る。父の私塾の転遷に伴い紀ノ川筋の村々に居住する。学制の制定(1872年:明治5年)後であったが小学校には通わなかった。 1883年、父が有田郡広村の耐久社に招かれた。その縁で書庫に自由に出入りし、そこで多数の漢籍を読むことができた。満14歳となる1884年に和歌山中学校に入学。
和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6… 和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6月10日) - 昭和12年(1937年)12月3日)は、日本の判事(大審院長)、検事。 東京府出身。父の元利は宇都宮藩の藩医だった。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1896年(明治29年)、浦和地方裁判所判事となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、大阪地方裁判所所長を歴任。その間の1920年(大正9年)4月には法学博士号を取得している。同年7月より検事となり、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長を歴任した。
北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年… 北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年2月12日) - 大正11年(1922年)1月12日)は、日本の海洋学者、水産学者。日本における水産行政、水産学研究、海洋測器開発の先駆者として知られる。 明治3年(1870年)、美濃国山県郡北野村(現在の岐阜県岐阜市三輪)の各務家において生まれる。幼い時に父を亡くした後、岐阜中学を経て青山学院へと進むが、その間は学費の捻出の為に学僕を務めた苦学生であった。明治27年(1894年)7月に東京帝国大学理科大学動物学科選科を卒業する。在学中は箕作佳吉の指導により、霞ヶ浦の水族調査を行っている。また、明治26年(1893年)にはウシモツゴの和名の基となった岐阜市での方言名「う志もろこ」の名を初めて報告した。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち、明治2年11月3… 福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち、明治2年11月3日(1869年12月5日) - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の心理学者、超心理学者。東京帝国大学助教授、高野山大学教授。文学博士(1906年)(学位論文「催眠術の心理学的研究」)。念写の発見者とされる。 岐阜県高山市の商家に生まれ、見習い奉公に出されたが商人になることを嫌い、学問に志を立てて猛烈に勉強し、岐阜県斐太尋常中学(現・岐阜県立斐太高等学校)から優秀な成績で旧制第二高等学校に進学した。実家が事業に失敗し学費に困ったが、仙台の資産家・町田真秀が援助し、1899年(明治32年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。さらに同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、1906年(明治39年)、「催眠術の心理学的研究」で文学博士の学位を授与された。
野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年… 野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年6月3日) - 大正4年(1915年)10月26日)は、明治、大正期に活躍した建築家、工学博士。創設間もない住友営繕の基礎を築いた人物。 明治2年(1869年)4月23日、播磨国姫路清水(現姫路市)に姫路藩士・野口野(いやし)の子として生まれる。姉は後に日本の幼児教育の先駆者的存在となる野口幽香。父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす。父の転勤で神戸に移り、兵庫県立第一神戸中学を卒業。第三高等学校を経て、住友の奨学金を貸与され、明治24年(1891年)に東京帝国大学工科大学造家学科に進学し、同27年(1894年)7月卒業。大学院で耐震家屋について研究。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4… 志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4年8月20日) - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の法学者。
山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈18… 山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈1868年8月3日〉 - 昭和20年〈1945年〉6月28日)は、日本の経済学者。法学博士。東京帝国大学経済学部長。専門は貨幣論、金融論。 静岡県掛川に父・徳次郎の長男として生まれる。冀北学舎を経て、明治22年(1889年)東京帝国大学政治科卒業、大学院で研究する。 東京帝大法科助教授、経済学部教授等を歴任し、のち経済学部長。社会政策学会で指導的役割をはたし、退官後は中央大学教授、日銀顧問、金融学会初代理事会長をつとめた。1913年(大正2年)5月29日、帝国学士院会員となる。 東大時代の教え子である賀屋興宣(大蔵次官、大蔵大臣)は山崎の貨幣論に感銘を受け、山崎の理論に依拠して日本銀行法を作ったと述べている。
石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6… 石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6月2日) – 1927年(昭和2年)1月28日)は、日本の小説家。本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。 尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。 1867年(慶応3年)6月2日、横浜の弁天町に石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎の通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月… 松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。族籍は東京士族。 1866年11月(慶応2年9月)、広島県広島市猿楽町(のち広島市中区大手町)生まれ。有隣の長男。広島尋常中学(広島国泰寺高等学校の前身)で、柴野登一(中村是公)、玉井喜作らと同級。1880年父親の転勤で丸亀に移り、翌1881年上京。獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)、東京大学予備門(第一高等学校)を経て1893年東京帝国大学法科大学独法科卒業、引き続き法科大学研究科で警察法を研究。 日清戦争直前の1893年内務省入省。警視庁四谷警察署長を振り出しに香川県警察部長、警保局警務課長、警視庁第二部長兼任内務書記官、兼任消防署長(のちの消防総監)などを経て1905年、警視庁第一部長となり日比谷焼打事件の鎮圧指揮にあたった。
柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応2年8月4日(1866年9… 柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応2年8月4日(1866年9月12日) - 昭和10年(1935年)3月)は、明治から昭和にかけての官僚・翻訳家・弁護士。養父は龍野藩士で明治維新後千葉県令・貴族院議員などを務めた柴原和。号は楫川(いつせん)。 龍野藩士・森井栄の長男として播磨国龍野(現在の兵庫県たつの市)に生まれる。18歳の時、叔父の柴原和の養子となった。明治21年(1888年)に東京帝国大学法科を卒業、翌年からヨーロッパに留学してケンブリッジ大学を卒業し、イギリス・フランス・ドイツなどで法律学を学ぶ。留学中に明治24年(1891年)に帝国大学卒業者の資格によって法制局に試補される。明治28年(1895年)に帰国後、一旦弁護士を開業するが、翌年台湾総督府参事官となり、後に台南県鳳山支庁長に転じる。
熊谷 直太(くまがい なおた、1866年8月30日(慶応2年… 熊谷 直太(くまがい なおた、1866年8月30日(慶応2年7月21日) - 1945年(昭和20年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。弁理士。 熊谷直能の長子として出羽国田川郡番田村(山形県西田川郡稲生村を経て現鶴岡市)で生まれ、酒田で育った。西田川郡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し小学校の代用教員となるが、1883年(明治16年)ごろ、庄内地方を訪れた馬場辰猪の自由民権を訴える演説を聞き、上京を志した。当時、郡の費用で5人を東京で学ばせることが決まり、その一人に選ばれた。第一高等中学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業。
小屋 光雄(こや みつお、慶応2年7月19日(1866年8月… 小屋 光雄(こや みつお、慶応2年7月19日(1866年8月28日) – 昭和17年(1942年)5月16日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→新正倶楽部)。医師。 伊勢国一志郡久居(現在の三重県津市)出身。1888年(明治21年)に大阪医学校を卒業した後、東京帝国大学医科大学と伝染病研究所で学んだ。大阪府警察本部詰医・大阪地方裁判所嘱託医を務めた後、小屋病院を開業し、一志郡医師会長、三重県医師会評議員・議長、大日本医師会評議員などを歴任した。また久居町長、一志郡会議員、同議長、三重県会議員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、中勢鉄道株式会社社長、伊勢電気鉄道株式会社取締役などを務めた。
池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶… 池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶応2年5月13日) - 1943年(昭和18年)10月4日)は日本の植物学者、理学博士、東京帝国大学名誉教授。日本の植物形態学の先駆者平瀬作五郎のイチョウの精子の発見に続いてソテツの精子を発見した。 最後の堺奉行を務めた旗本池野好謙(山城守、通称は勇一郎)の子として、江戸駿河台の屋敷で生まれた。開成学校、大学予備門から帝国大学理科大学植物学科に入学し、1890年(明治23年)に同校を卒業。翌年に帝国大学農科大学助教授に就任、留学先の帝政ドイツなどの大学の教授にも就任。 平瀬作五郎のイチョウの研究に協力し、平瀬は1896年(明治29年)にイチョウの精子を発見した。
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1… 石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。
木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1… 木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1866年1月26日) - 大正14年(1925年)1月9日)は、戦前日本の官僚・政治家。
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元… 近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31… 平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31日(慶応元年5月7日) - 1950年(昭和25年)9月25日)は、明治期から昭和期にかけての内科医。日本陸軍軍医、最終階級は陸軍軍医総監(中将相当)。日本赤十字社病院院長、宮内省御用掛。若狭国小浜藩出身。 1865年5月31日((旧暦)慶応元年5月7日)、小浜藩典医平井三琢の長男として福井の雲浜村に誕生する。1876年に東京外国語学校入学。1889年(明治22年)度東京帝国大学医科大学を首席で卒業、同期には山極勝三郎・田代義徳・入沢達吉等がいる。卒業後陸軍軍医となり、日清戦争に従軍した後、1896年(明治29年)12月『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員、陸軍薬局方(第二版)編纂委員、陸軍衛生会議委員等を歴任した。
池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年… 池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年(昭和11年)5月3日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。 現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分がL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年(1908年)に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。
市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治… 市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治元年8月9日) - 1947年(昭和22年)2月23日)は、日本の歴史学者。文学博士。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長。専門は東洋史、中国史。字は圭卿。号は器堂・筑波山人・月波散人。日本の東洋史学の開拓者。 元治元年(1864年)、常陸国筑波郡北条町(現茨城県つくば市北条)出身。1878年に上京し、明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科を卒業。 翌1888年に学習院傭教師に就いた。1890年に同助教授、1892年に同教授昇格。学習院傭教師時代の1889年には、森鷗外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』夏期付録)を刊行した。
笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年… 笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。 静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。 1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。その後、警保局監獄課長、山形県参事官、岩手県警察部長、高知県書記官、台湾総督府事務官、台南県書記官、岐阜県書記官、新潟県書記官、同県第一部長、熊本県第一部長などを歴任。 1907年1月、岩手県知事に就任。1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。1914年6月、岡山県知事に転じた。
石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4… 石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4年1月13日) - 1936年(昭和11年)9月4日)は、日本の内務官僚、裁判官、政治家。枢密顧問官、貴族院議員。位階勲等は正二位勲一等。 備前国邑久郡、後の岡山県邑久郡笠加村出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。岡山中学、大学予備門を経て、1889年(明治22年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。判事試補となり京橋区治安裁判所勤務となる。以後、司法省参事官試補、民事局勤務、長崎控訴院書記長、熊本地方裁判所判事などを歴任。 1892年(明治25年)10月、内務省に転じ、茨城県参事官、同県内務部第一課長兼第三課長、大阪府参事官、香川県警察部長、岐阜県書記官を歴任。
大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久… 大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久3年2月27日〉 - 1938年〈昭和13年〉3月22日)、雅号・大野 雲外(おおの うんがい)は、明治時代から昭和時代初期に活動した日本の画工・人類学者・考古学者。東京帝国大学に所属して遺跡から出土した遺物の図版製作や、人類学・考古学に関する学術書籍・雑誌の挿絵製作などをしつつ、調査・研究活動も行った。 旧越前国の福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。1880年(明治13年)に東京の本多錦吉郎の塾に入り図画を学ぶ。 1886年(明治19年)、金港堂編集所に雇聘される。1891年(明治24年)の東京英語学校の図画教授を経て、1892年(明治25年)に東京帝国大学人類学教室の図画嘱託(画工)となる。