藤井 深造(ふじい しんぞう、1893年12月13日 - 1… 藤井 深造(ふじい しんぞう、1893年12月13日 - 1970年9月8日)は大正~昭和期の実業家。新生三菱重工業初代社長。広島県三次郡庄原(現庄原市)出身。 旧制三次中学(現三次高校)から第一高等学校を経て1918年、東京帝国大学法学部卒業。三菱合資長崎造船所に入社。営業畑を歩み常務を経て戦後1950年、過度経済力集中排除法により、同社が地域別に三分割されたうちの中日本重工業社長に就任。三社の中で最も赤字が多く、貧乏くじを引いたと言われたが、朝鮮戦争の特需などにより三社のトップに業績を引き上げた。1959年、一旦会長に退いたが、吉田義人社長の病死で再び社長に再登板。続いて日本の開放経済への移行に備えて企業体質の強化を図り1964年、三菱系3重工の合併を実現させ新生三菱重工業初代社長に就任した。
柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉… 柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉9月2日 - 1993年〈平成5年〉11月18日)は、日本の実業家。日本航空初代社長を務めた。 栃木県足利町(現足利市)に生糸商・柳田武一郎、さとの次男として生まれる。 高等科2年を終えた、数え年で13歳のとき、上京して諸井時三郎の養子となった。諸井時三郎の妻くらは母さとの妹である。 京華中学校、第一高等学校を経て1917年(大正6年)4月に東京帝国大学を卒業するとともに、日本銀行へ入行する。 1942年(昭和17年)5月に日銀理事となり、1945年(昭和20年)10月に日銀副総裁に就任。しかし、国の外資事業の責任者であったことから、1946年(昭和21年)6月に公職追放を受け、日銀を去る。
岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月1… 小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月16日 - 1977年(昭和52年)10月11日)は、日本の実業家、企画院・内務官僚、弁護士。企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監。 漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年(大正12年)2月から1925年(大正14年)3月まで欧米に商工業研究のため留学した。 1925年(大正14年)10月、住友総本店経理部第三課長となる。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年… 松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年)11月20日 – 1977年(昭和52年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 静岡県で松本鋭市郎の長男として生まれる。4歳となり父の郷里和歌山県日高郡龍神村(現田辺市)に転居した。苦学し錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1920年7月、台湾銀行に入行した。1926年(大正15年)7月、和歌山商工会議所書記長に転じ、1931年(昭和6年)5月まで在任した。その後、紀南新聞社長、熊野太陽社長に就任した。 1932年(昭和7年)8月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選し、1935年(昭和10年)10月に再選され1939年(昭和14年)10月に任期満了となった。
大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8… 大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8月6日 - 1990年(平成2年)12月24日)は、実業家である。日本油脂取締役、ミサワホーム創業顧問、色材協会会長を務めた。岡山県倉敷市出身。 1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎、日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。 1915年(大正4年)に同校を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する。
野村 不二(のむら ふじ、1891年11月4日-1987年)… 野村 不二(のむら ふじ、1891年11月4日-1987年)は、日本の弁護士(元裁判官)、林業経営者、地方政治家。鹿児島県弁護士会会長、日本治山治水協会理事などを歴任。九州経済林業社長。 鹿児島県肝属郡高山村(高山町を経て現肝付町)前田出身。父は高山町長を務めた。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)と第五高等学校 (旧制)を経て、1917年東京帝国大学法科大学を卒業。1918年司法官試補、1919年~1923年判事(浦和、名古屋、鹿児島各地方裁判所)。1921年弁護士登録。判事退官後に鹿児島市で弁護士開業し、鹿児島県会議員に推されて3期10年務める。第二次世界大戦の鹿児島市街地大空襲で子供を亡くす。
岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 19… 岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 1970年10月1日 )は、日本の実業家、政治家。 元衆議院議員(通算1期)。岸井成格(毎日新聞特別編集委員)の実父。 香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。 1917年(大正6年)東京帝国大学卒業。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する。 1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1… 村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚、政治家、実業家。商工次官、貴族院議員、法制局長官、綜合計画局長官。 栃木県宇都宮市出身。本籍・愛知県。村瀬七三郎の長男として生まれる。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、兵庫県立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)、第五高等学校を経て、1914年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。1913年11月、文官高等試験に合格し、1914年7月、農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。 鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官、法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長などを歴任し、その間1925年に農商務省が農林省と商工省に分割され、商工省に属した。
川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)… 川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)7月23日 - 1987年(昭和62年)6月18日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選山形県知事、東洋インキ製造 (株) 社長。旧姓・古橋。 愛知県北設楽郡出身。大地主・古橋源六郎の三男として生まれ、川村秀豊の養子となる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年6月、内務省に入省し警視庁警部兼内務属となる。 1917年(大正6年)9月、本所太平警察署長に就任。以後、防疫官兼内務書記官・衛生局勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、欧米出張(1924年1月)、警視庁書記官・衛生部長、山形県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任。
大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)… 大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)2月9日 - 1945年(昭和20年)2月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 大西行礼の長男として香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)に生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業する。1930年(昭和5年)に家督を相続した。 1924年(大正13年)高松百十四銀行取締役に就任し、同年琴平電鉄を創立し社長となる。ついで四国水力電気取締役、屋島登山鉄道社長を経て、1943年(昭和18年)企業統合により高松琴平電気鉄道社長に就任した。
田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 196… 田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 1964年10月7日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。住友家評議員会委員。 1890年(明治23年)、富山県射水郡浅井村(現射水市)に生まれる。高岡中学校、第四高等学校卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月住友総本店(住友財閥)に入社。人事部人事課長、人事部長を経て、1937年(昭和12年)住友電線(現住友電気工業)専務、1941年(昭和16年)住友本社常務理事に就任。1947年(昭和22年)に退職した後、住友工業高等学校理事長や住友病院理事長、大阪市教育委員長などを務めた。
安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 19… 安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 1963年1月22日)は、東京電力の初代社長(1951年5月 - 1952年9月)。他に東京電力会長、東京電力記念科学研究所理事長、日本電気協会会長を務めた。 1889年、東京生まれ。旧制東京中学、旧制第二高等学校を経て1912年東京帝国大学電気工学科を卒業後、猪苗代水力電気に入社。1923年猪苗代水力電気が東京電燈に合併されたことに伴い同社に移り、技師長や工務部長、取締役などを経て、1938年常務に就任。 戦後日本発送電副総裁を経て、1951年東京電力の初代社長に就任。翌1952年新井章治会長が死去したことに伴い会長に昇格。以後東電顧問、日本電力調査委員会委員長、日本電気協会会長などを歴任。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2… 山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2月9日)は、日本の実業家。オリンパス(旧・高千穂製作所)創業者、高千穂製作所社長。顕微鏡をはじめとする光学機器の製造業を経営した。 鹿児島県名瀬の金久(現・奄美市内)出身。名瀬の高等小学校で3年間学んだ後、鹿児島の本家にひきとられて中学造士館に入る。1904年に上京。東京の京北中学校 (旧制)と京都の第三高等学校 (旧制)を卒業。1915年東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。弁護士となるが、父の勧めで実業界に転じ親戚の松方正義関連の企業に就職することとなる。川崎造船所などの大企業は断り、松方の五男・五郎が経営する常盤商会に1918年入社。
小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月… 小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月 - 1959年(昭和34年))は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。岡山県倉敷市出身 1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学する。 その後、1909年(明治42年)6月に同校を卒業し、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し、一年志願兵として入営し陸軍二等計手になった後、1915年(大正4年)台湾銀行書記として入行した。
渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 -… 渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 - 1956年1月6日)は、日本の経営者。日本製鐵・八幡製鐵(現・日本製鉄)社長。 新潟県西蒲原郡弥彦村出身。日本石油会社支配人・渡辺忠の二男として生まれ、新潟県立柏崎中学校、第四高等学校を経て、1915年東京帝国大学法科大学経済学科卒。同年文官高等試験行政科試験に合格、農商務省に入る。官営八幡製鉄所に勤務を経て、商工省に戻り、鉱山局鉱政課長を歴任する。 1934年に日本製鐵が発足すると八幡製鉄所に戻り、所長となった。その後、1942年には北支那製鉄社長に就任、鉄鋼統制会理事長も務めた。1945年、日本製鐵社長となり、鉄鋼統制会会長に就任した。
品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 19… 品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 1986年2月14日)は、日本の内務官僚、実業家、読売ジャイアンツ球団社長。「球界の頑固親父」との異名も持つ[要出典]。従五位。 福井県福井中学校卒業後、1904年9月 旧制第四高等学校に入学した。同期には正力松太郎や河合良成がいた。第四高等学校卒業後は東京帝国大学に入学、同期に正力、河合の他、重光葵、芦田均、石坂泰三など。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省して警視庁警視、京都府書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長などを務めた。1932年の満州国成立後、監察院長、監察院審計部長などを務める。黒竜江省長の韓雲階による汚職を摘発、一時彼を要職から遠ざけた。
河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月1… 河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月10日 - 昭和45年(1970年)5月14日)は、日本の農商務官僚、政治家、実業家。富山県高岡市名誉市民。
池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月1… 池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月16日 - 1972年〈昭和47年〉3月28日)は日本の研究者・実業家である。日立製作所常務。後、第二次世界大戦中の統制会理事長。日本エレベーター(現:日本ケーブル)代表取締役。広島県福山市出身。 1886年(明治19年)、広島県深安郡山野村(現:福山市)で生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部乙類に進学、1909年(明治42年)6月、同校を卒業し、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1912年(明治45年)同大学を卒業後、日立製作所へ就職した。 帝大卒業後、日立製作所へ入社したが、これは当時、創業したばかりの日立製作所(創業:1910年・明治43年)の社長であった小平浪平の影響が大きかった。
金藤 英夫(かねとう ひでお、旧姓・石橋、1886年〈明治1… 金藤 英夫(かねとう ひでお、旧姓・石橋、1886年〈明治19年〉2月6日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本の実業家、政治家。金藤家第12代当主。 島根県簸川郡平田町(のちの平田市、現・出雲市)生まれ。石橋孫八の五男、あるいは八男。石橋正彦の弟。金藤秀四郎の養子、あるいは金藤米太郎の養子となる。また金藤シミの入夫となる。 松江中学校、第五高等学校を経て、1913年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。米子製鋼所支配人、米子銀行常務取締役、赤江村長などをつとめる。 宗教は真宗、仏教。書画、骨董に親しむ。趣味は運動、政治。住所は島根県能義郡赤江村東赤江(現・安来市)。
信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月1… 信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月15日 - 不明 )は日本の実業家である。三井物産参事。岡山県高梁市出身。 1886年(明治19年)、岡山県川上郡(現在の高梁市)で生まれる。旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部甲類に進学、中学時代の同期である池田亮次と同級生だった。1908年(明治41年)、同校を卒業し、東京帝国大学工学部機械工学科へ進学した。1911年(明治44年)7月同大学を卒業後、25歳で三井物産へ就職した。 入社後、信原は、ドイツにあるベルリン支店に勤務となった。そこで十数年勤務し、帰国後は同社の総務部長に昇格した。
伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月… 伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月15日 - 1951年(昭和26年)11月25日)は、日本の実業家。華族、貴族院男爵議員。 初代内閣総理大臣伊藤博文の実子。伊藤家に行儀見習いに来ていた多摩出身の女性との間にできた婚外子で、当初は、博文の後妻の兄である木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。旧制山口県立豊浦中学校(第1期)、山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、農商務省の商工局に勤務、文官高等試験を経て翌年山林事務官兼農商務書記官となり、1910年(明治43年)休職し、渡英。農商務省参事官、同山林局書記官、外務書記官、内閣総理大臣秘書官、軍需省顧問、鮎川義介が創立した日本産業(日産)取締役、日本鉱業社長などを務めた。
堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治… 堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治18年)11月6日 - 1975年(昭和50年)12月20日)は、日本の鉄道官僚であり、実業家でもある。鉄道省建設局長を務めた後、建設会社である間組(現:安藤・間)の社長代行となる。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の高田浦吉の四男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1904年(明治37年)、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1908年(明治41年)6月、同校を卒業し、同年、東京帝国大学工科大学へ進学する。1911年(明治44年)同大学土木工学科を卒業する。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)… 河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1943年(昭和18年)10月17日)は、佐賀県出身の実業家、政治家。初代唐津市長。 1885年(明治18年)旧唐津藩士・河村藤四朗の長男として、佐賀市赤松町で生まれる。旧制唐津中学、旧制岡山第六高校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科、政治学科を卒業。一時渡鮮したが、1923年(大正12年)帰郷。唐津銀行に入り取締役支配人となる。のち唐津電気製鋼所社長、唐津薫業(株)専務取締役、唐津製紙(株)社長、唐津製綿(株)監査役、唐津商工(株)監査役、小倉東洋車輌(株)常務取締役などを務め、唐津実業界の発展に貢献した。
清水 与七郎(しみず よしちろう、旧字体:清水 與七郎、18… 清水 与七郎(しみず よしちろう、旧字体:清水 與七郎、1885年〈明治18年〉7月12日 - 1983年〈昭和58年〉9月11日)は日本の実業家、技術者。日本テレビ放送網第2代代表取締役社長。現在の富山県高岡市福岡町出身。岳父に高嶺秀夫、義弟に土田誠一。 金沢第一中学校、第四高等学校二部工科を卒業。1908年(明治41年)、東京帝国大学電気工学科卒業。逓信省に入省し技師を務めた後、1919年(大正8年)に東京芝浦電気(現在の東芝)に入社。1931年(昭和6年)に同社の副社長に就任する。1934年(昭和9年)、読売ジャイアンツの設立に参加する。また、東京電気無線(現在の東芝テリー)の社長も務めた。
山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月… 山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月15日 - 1966年(昭和41年)12月30日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 山上脩三郎の兄として岡山県岡山区船頭町(現岡山市北区)に生まれ、1910年(明治43年)岡山市二日市町(現:北区)の地主・山上頼治の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続する。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。岡山住宅土地専務取締役、萬歳酒造監査役、岡山米穀取引所理事、同理事長、岡山商業会議所会頭などを歴任した。 1924年(大正13年)岡山市会議員に当選。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)… 池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)5月2日 - 1977年(昭和52年)4月2日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、石油化学工業協会会長を務めた。従三位勲一等瑞宝章。 山形県酒田市出身。荘内中学校、第三高等学校を経て、1909年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科卒業、三菱合資入社。三菱鉱業技師長や、三菱鉱業取締役を経て、1939年に山田三次郎が死去すると後任の日本化成工業社長に就任。1943年からは旭硝子社長も務め、1944年には旭硝子と日本化成工業の合併による三菱化成工業の設立にあたった。1944年旭化学工業奨励会理事長。第二次世界大戦後は公職追放対象者となるが、1950年10月に解除。
藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8… 藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8日 - 不明 )は、日本の実業家である。倉敷紡績・倉敷絹織(現クラレ)の取締役。岡山県総社市出身。 1884年(明治17年)2月、岡山県吉備郡日美村(現在の総社市)で代々医者の家系である藤岡信道の次男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1903年(明治36年)、第六高等学校 (旧制)へ入学し、同級生に建築家の薬師寺主計がいた。1906年(明治39年)、同校を卒業、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1909年(明治42年)7月に同大学を優良で卒業。兵庫県に当時あった龍野電気株式会社へ主任技師として就職した。 2年間、龍野電気に務めた後、1911年(明治44年)7月より、倉敷紡績へ転職する。
望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月… 望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月1日 - 1944年(昭和19年)3月1日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡兄井村(見好村兄井を経て現かつらぎ町)で、実業家、政治家・望月右内の長男として生まれる。居村小学校、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 その後、農商務省に入省し、特許局に配属され1909年(明治42年)6月まで在任した。退官後に帰郷し、1917年(大正6年)1月、家督を相続し家業に従事。同年、玉川水道取締役となり、その他、東京電燈などの経営に参画した。
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年… 関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。 奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた。同時に繊維統制会会長にも就く。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。
白勢 量作(しろせ りょうさく、1883年〈明治16年〉12… 白勢 量作(しろせ りょうさく、1883年〈明治16年〉12月 - 1944年〈昭和19年〉10月3日)は、日本の実業家。第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取。新潟商工会議所会頭。白勢合名代表。満州帝国名誉領事。 新潟県の素封家・白勢春三の長男、白勢二朔の養甥である。新潟市の自邸に生まれ、県立中学、高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。1928年(昭和3年)に発足した東信電気と東京電燈による共同出資会社昭和肥料の取締役に就任。1936年(昭和11年)、新潟電力社長に就任。1938年、新潟駐在満州帝国領事を嘱託された。 第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取、新潟電力、新潟電鉄、東北配電、二葉社各社長、会津電力、昭和肥料、北越パルプ、日本火災海上保険、佐渡汽船、東亜電力興業各取締役、新潟鐵工所、帝国火災保険、北越製紙各監査役、庄内電気鉄道相談役などをつとめた。
横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月… 横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月21日 – 1957年(昭和32年)1月7日)は、日本の実業家、政治家。通商産業大臣(第4代)。参議院議員(1期)。 佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)に生まれる。佐賀県尋常中学校唐津分校、第五高等学校を経て、1907年東京帝国大学工科大学造船科を卒業、三菱長崎造船所に入社する。その後鈴木商店に転職し、1921年神戸製鋼播磨造船工場工作課長、後に工場長、1929年播磨造船所専務取締役となる。1943年社長に就任。 戦後の1949年、兵庫県選挙区で行われた参議院補欠選挙に民主自由党より立候補し当選。1950年第3次吉田第1次改造内閣にて通商産業大臣として入閣する。
田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)… 田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)1月20日 - 1974年(昭和49年)12月2日)は、大正時代から昭和時代の日本の銀行家、実業家。満州中央銀行や朝鮮銀行の総裁を務めた。 旧鹿島藩士で沖縄県学務課長や師範学校長、佐賀県藤津郡郡長などを務めた田中馨治の三男として佐賀県藤津郡高津原村(後に南鹿島村、現在は鹿島市高津原)に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学政治学科を卒業する。1909年(明治42年)に日本銀行に入行し、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけてロンドン代理店監督役付を務め、第一次世界大戦の賠償会議に委員として参加する。1929年(昭和4年)ロンドン代理店監督となる。
片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月… 片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月26日 - 1949年(昭和24年)3月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。 東京府神田駿河台(現:東京都千代田区)で海軍主計官・片岡直輝の長男として生まれる。1893年(明治26年)父の大阪府書記官就任に伴い大阪に移住。大阪府第一中学校、第七高等学校造士館を卒業。東京帝国大学法科大学に入学したが、京都帝国大学法科大学に転じ、1910年(明治43年)7月、同大学を卒業した。 卒業後、父が役員を務めていた阪堺電気軌道に入社し、一社員として現場での働きを経験して庶務課長に昇進。3年ほど務め、今後の経営者としての働きのため金融の経験が不可欠と考え、近江銀行に転じた。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4… 畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4月20日 - 1971年(昭和46年)11月17日)は、日本の実業家・機械工学者。株式会社荏原製作所の創立者。石川県金沢市出身。機械工学者・井口在屋の「渦巻ポンプに関する理論」をもとに「うずまきポンプ」を発明した。 1881年(明治14年)、金沢で能登の守護大名・能登畠山氏の血筋を引く家系に生まれる。東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年に恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。 畠山の発明は渦巻ポンプにとどまらず、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品に及ぶ。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)… 大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、日本の物理学者、実業家。 東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180cmと長身だった。妻は大河内信古の娘で、婿養子となった。息子は大河内信威、大河内信定、大河内信敬。孫の一人に女優の河内桃子がいる。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。 旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
渋谷 米太郎(しぶや よねたろう、1877年(明治10年)1… 渋谷 米太郎(しぶや よねたろう、1877年(明治10年)12月20日 - 1971年(昭和46年)9月28日)は、日本の実業家。三菱ふそう自動車初代会長などを務めた。妻・ミサは山口鋭之助の長女。長女・光子は井上薫の妻。 渋谷家は、山形県東田川郡藤島町西川原(現・鶴岡市)の代々地主農であった。米太郎は渋谷五右衛門の4男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学英法科卒業後、三菱合資会社入社。門司副支店長、香港、神戸各支店長を歴任。 その後、三菱商事に移り、金属部長を経て取締役に選任され、常務に進み、かたわら北洋漁業常務を兼任し、三菱内燃機、三菱航空各常務を務めた。 戦後は、三菱重工業、理研金属各監査役、国際電気通信取締役、三菱ふそう自動車を発足させると初代会長、太平興業相談役、第一貨物顧問を歴任したほか、庄内地方出身者の男子学生寮を運営する荘内館の理事を務めた。
船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 195… 船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日)は大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。 愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に編入学する。中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという。 1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学。1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学独法科に進んだ。在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。