十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14… 十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。 1884年(明治17年)愛媛県新居郡中村(中萩村、中萩町を経て、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。1897年(明治30年)愛媛県尋常中学校東予分校(現在の愛媛県立西条高等学校)に入学した。卒業後、上京し受験準備のために正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学した。
松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月… 松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月25日 - 1960年(昭和35年)1月5日)は、日本の司法官僚・政治家。 検事総長、および太平洋戦争時の司法大臣を歴任した。 京都府久世郡宇治町(現在の宇治市)の地主で製茶業の家に生まれた。京都二中、東京神田中学校、一高を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科を卒業。1912年(大正元年)、検事となる。 名古屋裁判所の検事だった1925年3月に定型犯として賭博に関する調査を命じられた。7月に東京へ転出した後も高木常七により継続され12月に完成。あくまで事務処理の利便目的だったが結果が優れていたため、司法資料に取り上げられた。
今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(… 今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(明治17年)2月1日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。貴族院議員、朝鮮総督府政務総監、逓信次官。旧姓・国塩。 岡山県赤坂郡神田村(赤磐郡鳥取中村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)出身。旧岡山藩士・国塩与三郎の三男として生まれ、磐梨郡佐伯北村(赤磐郡吉井町を経て現:赤磐市)今井田善十郎の養嗣子となる。関西中学校、第六高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信属となり逓信省通信局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。 1910年4月、通信事務官・大阪中央郵便局長に就任。以後、神戸逓信管理局総務部長、逓信省電気局管理課、東部逓信局経理部規画課長などを歴任。
小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、188… 小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、1884年1月6日 - 1976年8月1日)は、日本の政治家、農林官僚。衆議院議員。農本主義者。 長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助の長男として生まれる。旧制諏訪実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制第一高等学校工科を途中休学。1910年に東京帝国大学農科大学を卒業し、さらに同法科大学政治科に入学。在学中の1913年に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。 農商務省に入り、農政課に配属。農政課小作分室長として石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。1922年に産業組合の主管課である農務課長に就任、産業組合中央金庫の設立に中心的役割を果たした。
中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年… 中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年)1月1日 - 1936年(昭和11年)11月1日 )は、熊本県上益城郡大山町出身の大正・昭和期の大蔵官僚。 中島又平の二男として生まれた。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を卒業。1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年7月、大蔵省に入省して専売局書記に任官し専売局製造部に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、京都税務監督局経理部長、東税務署長、神戸税関監査課長兼徴収課長、同総務課長などを経て、1920年(大正9年)5月、主税局に転じ、長年にわたり関税課長として関税行政事務を率いた。
松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7… 松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7日 - 1959年(昭和34年)1月6日)は、明治末から昭和前期の内務官僚、政治家。憲政会系官選県知事、貴族院勅選議員。 山口県都濃郡、現在の下松市で商業・松村冷蔵の長男として生まれる。山口中学校、山口高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年(明治43年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、神奈川県属として内務部地方課に配属された。 1911年(明治44年)4月、神奈川県試補となる。以後、佐賀県事務官、同県視学官、鳥取県視学官、石川県警察部長、広島県警察部長、警察講習所教授兼内務省参事官、山形県内務部長、和歌山県内務部長などを歴任。
粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 … 粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 - 1938年(昭和13年)4月2日)は、日本の文部官僚、滝川事件当時の文部次官。山口県下関市長府出身。長府藩報国隊を組織した野々村勘九郎の孫。 旧長府藩士・教員である粟屋平一の長男として東京で生まれる。豊浦中学、第三高等学校を経て、1907年7月で東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業し大学院に進む。同年7月、内務省に入省し東京府属となる。同年11月、文官高等試験に合格。以後、内務属、茨城県事務官を歴任。 1911年5月、文部省に転じ文部書記官兼文部省参事官に就任。1913年、宗教局が内務省から文部省に移管されたのを機に、宗教法制定に尽力。
高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1… 高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉5月6日)は、日本の内務官僚である。警視総監。 熊本県上益城郡浜町(現:山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男。 済々黌、旧制七高造士館を経て1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年(明治43年)、家督を相続する。 その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年(大正11年)に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
久米 成夫(くめ なりお、1882年(明治15年)12月1日… 久米 成夫(くめ なりお、1882年(明治15年)12月1日 - 1954年(昭和29年)9月29日)は、日本の内務官僚。政友会系官選県知事、鹿児島市長。 鹿児島県薩摩郡山崎村麓大窪(現さつま町)で、山崎村長を務めた久米岳、シメ夫妻の長男として生まれる。鹿児島県立川内中学校、第七高等学校造士館(首席卒業)を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 その後、千葉県試補、神奈川県愛甲郡長、同県理事官・知事官房主事、同県商工課長、秋田県理事官・教育兵事課長、岩手県警察部長、神奈川県警察部長、山形県内務部長、岩手県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長などを歴任。
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)… 大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。位階および勲等は正四位・勲二等。 滋賀県犬上郡彦根町出身。旧彦根藩士・大海原尚義(近江鉄道、大日本製糖重役)の長男として生まれる。三重県第一中学校、学習院高等科を経て、1908年、東京帝国大学法科大学を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年2月、内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官、熊本県事務官、埼玉県警察部長、千葉県警察部長、長崎県警察部長、内務省警保局事務官兼内務書記官、東京府内務部長などを歴任。 1922年10月、山梨県知事に就任。
澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8… 澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8月2日 - 1973年(昭和48年)3月11日)は、日本の内務官僚、裁判官。最高裁判所判事。岐阜県出身。
安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日… 安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日 - 1950年〈昭和25年〉10月19日)は、日本の鉄道官僚、鉄道技術者、土木技術者。位階は正五位。学位は工学博士。 元鉄道省東京鉄道局工務課技師、東京地下鉄道初代技師長、元帝都復興院勅任技師、東京市電気局第4代技術長、元東京高速鉄道顧問技師。日本で最初の地下鉄の設計者。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)出身。1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1903年(明治36年)7月に第四高等学校を卒業、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1906年(明治39年)7月に鉄道作業局に技手として入局、1909年(明治42年)12月28日に鉄道院技師に任官、中部鉄道管理局工務課に配属、東海道線の東京 - 横浜間の鉄道の改良工事に従事、以後、東京の国有鉄道の工事を担当。
公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6… 公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6日 - 昭和28年(1953年)2月25日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。元朝鮮銀行副総裁。元中国銀行頭取。 岡山県都宇郡大内田村(のち都窪郡吉備町、現岡山市北区)に公森仲次の長男として生まれた。 その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)へ進学、1901年に卒業し、旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。明治41年(1908年)7月、東京帝国大学政治科卒業する。大蔵省奉職。昭和5年(1930年)8月退官、日本興業銀行理事に就任。昭和12年(1937年)4月朝鮮銀行副総裁。
清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2… 清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2月8日 - 1963年(昭和38年)11月28日)は、日本の鉄道・内務官僚、政治家。官選和歌山県知事、衆議院議員。 富山県下新川郡大家庄村(現朝日町)出身。清水源次郎の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに同大学院で学ぶ。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、鉄道院書記となる。以後、鉄道院副参事、同参事を歴任。 その後、内務省に転じ山形県西置賜郡長に就任。以後、栃木県理事官、奈良県警察部長、宮崎県警察部長、山形県警察部長、山形県書記官・警察部長、同県書記官・内務部長などを歴任。
桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月… 桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月1日 - 1936年(昭和11年)2月20日)は、日本の逓信官僚。貴族院勅選議員。従三位、勲二等。 愛媛県出身。桑山吉輝(大津事件の犯人津田三蔵巡査の上司(大津警察署長))の長男として生まれる。旧制第三高等学校を経て、1906年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格。逓信省に入省し、通信事務官、京都郵便局管理課長、長野逓信管理局長、逓信省参事官、逓信官吏練習所教官、逓信監察官、逓信大臣秘書官などを歴任した。1920年、初代簡易保険局長に就任。1924年6月、逓信次官に就任し、1929年7月まで在任した。次官在任中、新設の逓信省航空局長を兼任し、大礼使参与官を務めた。
中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10… 中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10月3日 – 1964年(昭和39年)1月19日)は、日本の鉄道官僚。実業家。教育者。 奈良県吉野郡十津川村出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。逓信省鉄道局に入り、逓信書記官、鉄道院参事、同理事、中部鉄道管理局運輸課長、逓信大臣秘書官、鉄道院総裁秘書、鉄道省運輸局長、鉄道次官を歴任した。 退官後は、東京地下鉄道副社長、日満亜麻紡織株式会社取締役、玉川電鉄取締役、池上電気鉄道取締役、目黒蒲田電鉄取締役、東京横浜電鉄取締役、東武鉄道取締役、理研重工業取締役、鉄道同志会理事・副会長・会長、ジャパンツーリストビューロー常務理事、帝国自動車協会副会長、日本交通協会常務理事・会長、日満実業協会監事・常務理事、東亜経済懇談会常務理事、東京商工会議所交通部長、鉄道軌道統制会会長、東京帝国大学経済学部講師、拓殖大学講師、昭和高等鉄道学校校長、豊島商業学校校長、東京交通短期大学学長など多くの公職に就いた。
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)… 横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月 - 1920年(大正9年)4月3日)は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。 大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。
副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月… 副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月15日 - 1954年(昭和29年)2月15日)は、日本の明治期から昭和期の官僚。幣原内閣の農林大臣や関東証券の社長を務めた。位階および勲等は従三位、勲二等。 佐賀中学校(旧制)から郁文館中学校に転校。第一高等学校に進学し、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学を卒業した。 農商務省に入省し、農政課長、食糧局長、製鉄所次長、鉱山局長を歴任した。1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省商務局長に就任し、関税率改正準備委員会臨時港湾調査会、国産振興委員会委員、関税常設委員会、損害保険制度調査委員会、不当廉売審査委員会などの委員を務めた。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月… 潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月11日 - 1955年〈昭和30年〉1月9日)は、日本の内務官僚。後に内務大臣兼文部大臣、最後の枢密院副議長を務める。 1881年(明治14年)、綿職人・潮房太郎の二男として島根県美濃郡横田村(後に同郡豊田村字横田となり、現在は益田市横田町)に生まれる。郁文館中学、一高を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学卒業後に内務省入省。行政法の専門家として活動、衛生局長・地方局長などを歴任した。1928年(昭和3年)に田中義一内閣の内務次官となり、濱口内閣・第2次若槻内閣で次官を務めた後に1931年(昭和6年)に貴族院勅選議員となる(研究会所属)。
沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月1… 沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岡山県久米郡里方村(現:久米南町)に国塩与三郎の二男として生まれ、岡山県会議員の沢田正泰の養子となった。妻は正泰の四女。赤坂高等尋常小学校、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。山形県事務官、朝鮮総督府書記官、同道事務官、監察官、慶尚南道知事、慶尚北道知事を歴任した。 退官後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮電気興業株式会社取締役、朝鮮電力株式会社監査役などを務めた。
香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 19… 香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 1967年12月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 東京生まれ。本籍・山形県。東京府立一中、錦城中学、一高を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科仏法科卒業。同年同月、千葉県属、同年11月、文官高等試験合格、42年8月、内務省入省。愛媛県理事官・視学官、岡山県警察部長、熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長などを経て、1923年(大正12年)に福島県知事となる。 以後、愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。1932年(昭和7年)2月5日、依願免本官となり退官。同年5月、東京府知事に復帰。1935年(昭和10年)に依願退職。
入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1… 入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1日 – 1938年(昭和13年)1月17日)は、日本の朝鮮総督府官僚。南満洲鉄道理事。拓務次官。玄洋社社員。 福岡県宗像郡(現・宗像市)出身。1900年(明治33年)福岡県中学修猷館、1904年(明治37年)7月第七高等学校造士館法科を経て、1908年(明治41年)7月東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、統監府嘱託となった。翌年に高等文官試験に合格し、統監府書記官、朝鮮総督府書記官、総務部会計局経理課長、総督官房会計課長、度支部理財課長を歴任した。1917年(大正6年)、内閣拓殖局書記官に転じ、第一課長、南満洲鉄道株式会社監理官、東洋拓殖株式会社監理官などを務めた。
矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)… 矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)3月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 岡山県出身。第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。統監府書記官となり、日韓併合後、財務部長、税関長として各地に勤務した。1917年(大正6年)より朝鮮総督府事務官、財務局関税局長、同理財課長、参事官、黄海道知事を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、漢城銀行取締役、朝鮮金融組合聯合会長、朝鮮土地改良株式会社監査役、中川鉱業株式会社社長、国民総力朝鮮聯盟理事、不二興業株式会社社長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治… 二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治11年)2月25日 - 1945年(昭和20年)11月19日)は、日本の官僚、政治家。枢密院書記官長、行政裁判所長官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。法学博士。 石川県射水郡高岡縄手中町(現富山県 高岡市)で、酒造業・二上兵太郎の長男として生まれる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校(首席)を経て、1904年(明治37年)7月11日、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業、成績優秀のため銀時計を授与された。逓信省に入省し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、東京郵便局郵便課長、逓信省通信局外信課長、同参事官兼逓信書記官・通信局外信課長、兼大臣官房秘書課長などを歴任。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は… 吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は、日本の台湾総督府官僚。
柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1… 柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1943年8月25日)は、日本の官僚。静岡県出身。
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月2… 河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や参議院議長(第4代)を歴任する。静岡県出身。 静岡県佐野郡上張村にて生まれた。1897年(明治30年)静岡県尋常中学校卒業。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年(大正7年)に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となった。1927年(昭和2年)から侍従次長兼皇后宮大夫、1930年(昭和5年)から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9… 木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9日 - 1956年〈昭和31年〉12月10日)は、明治末から昭和期の内務官僚、実業家。官選富山県知事。 千葉県出身。従五位勲五等の官吏木間瀬柔三の五男として生まれる。富山中学校で中学1年に在学。第一高等学校を卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し宗教局属となる。 以後、三重県事務官、愛知県事務官、千葉県事務官・第二部長、茨城県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、同県事務官・内務部長、新潟県内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1915年(大正4年)8月12日、富山県知事に就任。
野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 -… 野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、弁護士。官選県知事、同志社高等商業学校長。
平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 … 平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 廣義、1875年9月2日 - 1948年1月26日)は、日本の内務官僚。1府3県の知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員などをつとめた。正三位勲二等、山形県士族。父は新庄藩士の平塚榮次郎、弟は蚕糸学者で文化功労者の平塚英吉、長男は俳優・著述家の九重京司(本名・平塚広雄)である。
松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。
中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月2… 中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月25日 - 1927年(昭和2年)9月23日)は、明治期〜大正期の官僚。逓信次官。南満州鉄道副社長。
冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月1… 冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月16日 - 1945年(昭和20年)11月16日)は、日本の判事・台湾総督府官僚。高雄州知事。 京都府に冨島元起の長男として生まれる。京都府立第一中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。京都地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、宇都宮地方裁判所部長判事を歴任。 台湾総督府総務長官・賀来佐賀太郎の招きにより台北に赴任し、覆審法院判官となった。その後行政官となり、南投庁長、台北庁長を歴任した。さらに台湾総督府警視総長(1919年5月21日 - 1919年6月28日)、同警務局長(1919年6月28日 - 1920年9月1日)を務めた。
沢田 牛麿(さわだ うしまろ、1874年(明治7年)2月6日… 沢田 牛麿(さわだ うしまろ、1874年(明治7年)2月6日 - 1958年(昭和33年)1月29日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員。 高知県土佐郡布師田村(現:高知市)で旧土佐藩士沢田誠一の長男として生まれる。山口中学、山口高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。陸軍省に入り、陸軍属として大臣官房付となる。以後、陸軍省参事官、警察監獄学校教授兼内務省参事官などを歴任。その後、東京府事務官に転じ、韓国統監府警視、兼統監府書記官、鹿児島県内務部長などを務めた。 1918年10月、青森県知事に就任。以後、佐賀県・石川県・福岡県の各知事を歴任した。
江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 -… 江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 - 1932年〈昭和7年〉9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)。 1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学。1898年(明治31年)12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)には拓殖局部長を歴任する。
小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6… 小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6日 - 1962年〈昭和37年〉9月26日)は、日本の逓信官僚。栃木県出身。 東京帝国大学卒業。逓信省に入り、逓信局長などを歴任。1936年第2代NHK会長に就任。戦後、NHK会長のため公職追放となる(1951年追放解除)。 1956年文化功労者。墓所は多磨霊園(12-1-2)。息子の元妻は映画評論家の小森和子。
岡 實(おか みのる、1873年〈明治6年〉9月12日 - … 岡 實(おか みのる、1873年〈明治6年〉9月12日 - 1939年〈昭和14年〉11月20日)は、日本の農商務官僚、大阪毎日新聞社会長。 若州小濱出身、岡義抄の長男として生まれる。奈良県出身。奈良英和学校出身。東京中学校、第一高等学校を経て、1898年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業、同月内務属、同年12月文官高等試験合格、同月法制局参事官。 1901年11月農商務省参事官となり、窪田静太郎工務課長のもとで同省の工業行政に関わった。工場法制定のため農務省商工局内の臨時工場調査掛によって実施された各地の工場労働者の実態調査(1903年刊行された『職工事情』はその報告書である)の中心となり、1910年6月には窪田の後を継いで工務局長に就任、翌1911年3月の工場法制定に尽力し同年その制定過程をまとめた『工場法論』を刊行した。
名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 … 名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 - 1967年(昭和42年)11月9日)は、日本の朝鮮総督府・内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事、台南州知事。 佐賀県佐賀郡、後の高木瀬村(現佐賀市)出身。佐賀藩新陰流師範・名尾良知の長男として生まれる。佐賀県佐賀中学校を経て、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。1901年、内務省に入省し警視庁警部となる。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。1906年5月、内務省試補・地方局勤務となる。 以後、警視庁警視・巡視官、大分県事務官・警察部長、埼玉県事務官・警察部長、秋田県内務部長、青森県内務部長、静岡県内務部長などを歴任。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月… 秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月27日〉- 1933年〈昭和8年〉2月4日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、拓務大臣。 回船問屋・東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中、日本中学校、第一高等中学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1897年(明治30年)5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年(明治39年)7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。
仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5… 仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5年4月20日〉- 1935年〈昭和10年〉9月16日)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚・政治家。子爵。 1872年(明治5年)、旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格。その後、一時志願兵として近衛師団に入営したが、1900年(明治33年)、足疾のために現役を免除された。 宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年… 山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1948年(昭和23年)1月3日[要出典])は、日本の農商務・内務官僚、教育者。官選県知事、山脇高等女学校長。旧姓・畑田。 京都府出身。畑田清平の四男として生まれ、1901年(明治34年)5月、山脇玄の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、司税官を経て農商務省に転じ、農商務大臣秘書官に就任。さらに、農商務書記官、商務局商事課長、台湾総督府専売局長、臨時博覧会事務官長などを歴任。 1916年(大正5年)10月、山梨県知事に就任。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。