伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978… 伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978年4月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、熊本日日新聞社長。熊本県近代文化功労者、八代市名誉市民。 熊本県芦北郡日奈久町(現八代市)生まれ。上京して早稲田大学専門部政治経済科に入学、永井柳太郎の講義を聴いていた。上京後、同郷の池辺三山を頼るが、一年足らずで亡くなったため、池辺三山の弟分である鳥居素川に相談する。鳥居素川が安達謙蔵に話をして、故郷熊本の九州日日新聞の東京通信員という名目で学費を補助してもらうことになり、雑誌にも毎月二十枚ほど書くようになった。鳥居素川から卒業したら朝日新聞に入れてやると言われ、1915年(大正4年)に早大卒業翌日に東京朝日新聞編集局長の松山忠二郎と面会して外務省担当を打診されるが、九州日日新聞から通信員の名目で学費補助を受けていたことを説明して、九州日日新聞に入社する。
足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉… 足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉9月19日 - 1945年〈昭和20年〉1月5日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・田口。 茨城県で田口贇郎の五男として生まれ、1906年(明治39年)12月、足立正声の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)5月13日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)東京農業大学を卒業。1920年(大正9年)宮内属に就任。その後、東京農業大学助手、同講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - … 錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - 1929年6月8日)は、現在の香川県坂出市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は野口 慶祐。174cm、112kg。最高位は東前頭11枚目。 角界入門以前には上京して砂糖屋で働いていたが、主人の紹介で井筒部屋に入門。1916年1月幕下付出で初土俵、1918年1月十両昇進、5月に十両優勝し、1919年1月に新入幕を果たした。体格にも恵まれ、上突っ張りを得意として、出足も速く、腰も良いため、早くから将来の三役と期待されていた。しかし新入幕場所の直前に腸チフスに罹り、連続休場し十両に陥落。結局幕内では1日も出場できなかった。その後、2度目の十両優勝を果たすも再入幕はならず、1922年1月廃業した。
渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月… 渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、日本の水産業者である。 島根県島根郡片江浦(後の八束郡美保関町、現在の松江市)の生まれ。アメリカ合衆国への渡航を志したことにより、1909年(明治42年)に日本郵船が所有する「セイロン丸」の水主として乗船する。しかし航海中にイギリスのトロール漁船に遭遇したことにより下船し、帆船の手操網漁法の改善のために1911年(明治44年)に大日本水産会漁船船員養成所で学んだ。修了後は島根県水産試験場に勤務し、機船による手操網の試験および操業に携わる。 1913年(大正2年)に独立後は友人ら仲間と共に帆船である「方結丸」の建造に携わり、5年後の1918年(大正7年)には動力による網の巻上機の考案にも携わり日本で初の機船底引網漁法の開発に尽力した。
石黒 慶蔵(いしぐろ けいぞう、1888年9月18日 - 1… 石黒 慶蔵(いしぐろ けいぞう、1888年9月18日 - 1963年3月1日)は、日本の歯科医師、歯科医療器具発明家、歯科医院経営者。(社)鶴岡歯科医師会会長、(社)山形県歯科医師会理事。 23歳年上の従兄弟に発明家・斎藤外市がいた事が影響したのか、歯科医師を務める傍ら、歯科医療器具の発明に熱心に取り組んで、数多くの新案特許を収得している。玄人の域に達していたと云われる、ラジオ受信機の組立てや芸術写真が趣味であった。また、当時の地元では、歯学士の学位を収得した歯科医師は珍しく関心を持たれた。
松岡 潤吉(まつおか じゅんきち、1888年(明治21年)9… 松岡 潤吉(まつおか じゅんきち、1888年(明治21年)9月18日 - 1951年(昭和26年)9月7日)は、大正から昭和時代前期の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。松岡汽船創業者。旧姓は馬場、前名は敬三。 兵庫県武庫郡精道村(現芦屋市)出身。馬場三右衛門の弟として生まれ、のち松岡修造の養子となり1925年(大正14年)家督を相続し前名敬三を改めた。1909年(明治42年)慶應義塾大学部理財科卒業。 1910年(明治43年)以降、大和田紡績、松岡汽船各社長、北海道松岡牧場主、阪神急行電鉄監査役、東洋鋼板、北海道炭礦汽船、東宝各取締役、日本海運協会顧問、日本体育協会評議員、神戸日伯協会理事、大阪駐在ポーランド国名誉領事などを歴任した。
吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17… 吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉5月9日)は、日本の農商務・商工官僚、政治家。 商工大臣、運輸大臣、貴族院議員、参議院議員を歴任。大正デモクラシーを主導した政治学者吉野作造の弟。 宮城県志田郡大柿村(現大崎市古川)に綿屋を営む吉野年蔵、こう夫妻の三男として生まれた。吉野作造は長兄である。 旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、一高を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を首席卒業(銀時計受領)し、農商務省に入省する。農商務大臣秘書官、1925年に農商務省が農林省と商工省に分離し、以後は商工省文書課長、工務局長を経て、1931年(昭和6年)商工次官。
尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 … 尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1923年〈大正12年〉6月19日)は、日本の華族、宮内官。爵位は侯爵。貴族院侯爵議員。第二尚氏第21代当主。 1888年(明治21年)9月11日、尚典の長男として首里で誕生。1896年(明治29年)に上京し、学習院初等科に入学する。1909年(明治42年)に旧制学習院高等科を中退し、1911年(明治44年)に父の薦めでオックスフォード大学に留学した。随行員として沖縄県出身の大蔵官僚である神山政良を伴う。 1915年(大正4年)に帰国し、宮内省式部官となる。1918年(大正7年)9月18日に長男誕生。東恩納寛惇に名前(尚裕)をつけてもらっている。
木村 弘人(きむら ひろと、1888年(明治21年)9月15… 木村 弘人(きむら ひろと、1888年(明治21年)9月15日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は西山。 1888年(明治21年)に宮城県で生まれた。陸軍士官学校第21期、東京帝国大学冶金学科卒業。1932年(昭和7年)、陸軍砲兵大佐に進級と同時に陸軍造兵廠名古屋工廠千種兵器製造所長に就任した。1934年(昭和9年)に関東軍兵器部長、1935年(昭和10年)に陸軍造兵廠名古屋工廠作業課長を経て、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠技術部長に就任。 1937年(昭和12年)に陸軍少将に進級し、1938年(昭和13年)に陸軍造兵廠名古屋工廠長に就任。
杉村 キナラブック(すぎむら キナラブック、1888年9月1… 杉村 キナラブック(すぎむら キナラブック、1888年9月15日 - 1973年9月9日)は、北海道雨竜郡イチャン(現在の深川市一已)出身のアイヌ女性。雨竜村で育ち、結婚後は旭川市に移り住み、一生をそこで終えたため旭川のアイヌ文化伝承者として知られる。 アイヌ名のKinarapukをそのままカタカナ表記にするとキナラプㇰとなるが、一般的にはキナラブックという表記で知られる。Kinarapukは「蒲の節を手に取る」の意で、実際に彼女はチタラペ(蒲で編んだござ)作りの名人だった。 雨竜郡イチャン(一已)コタンに生まれる。父は稲高トンビン、母はイトモシマツ。妹の太田コウンテカン(和名シモ)もアイヌ文化伝承者として知られる。
久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう、1888年9月11日… 久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう、1888年9月11日 - 1970年9月22日)は京都府出身の日本の実業家、作家。鉱山技師で工学博士でもある。同和鉱業社長、日本科学技術連盟第5代理事長、ボーイスカウト日本連盟第5代総長など多くの要職を務めた。義父は児童文学者の久留島武彦。従三位。 1888年(明治21年)9月11日、京都で薬種商を営んでいた父(六代)中野忠八と母みねの間に生まれた。次男ではあったが、曾祖父の幼名であった秀三郎の名を受け継いだという。京都修道小学校、第三高等小学校を卒業。 京都第二中学校に進学するも5年半をかけて卒業できず、1905年(明治38年)に上京し日本中学校に転校した。
三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉… 三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉9月11日 - 1979年〈昭和54年〉1月23日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 和歌山県出身。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を経て、1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1914年(大正3年)、外交官及領事官試験に合格。領事官補・関東都督府事務官、領事、公使館三等書記官、外務事務官・参事官、外務書記官・条約局第三課長、公使館二等書記官、同一等書記官などを歴任し、その間、スウェーデン、オランダに勤務した。バタヴィア総領事時代には、横浜正金銀行に学校設立を働きかけたり、シムラ会商に政府代表として参加し、イギリス、インドと通商問題の交渉を行うなどした。
増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 … 増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 - 1977年(昭和52年)2月9日)は、日本の建築家。 主に大阪を拠点に活動したが、現存するものは少ない。 功績に対して知名度が低く「知られざる名建築家」「戦前活躍しながら忘れられていた名建築家」などと紹介されている。 娘婿は阿川弘之、阿川尚之と阿川佐和子は孫にあたる。 増田は日本の初期鉄筋コンクリート構造(RC構造)建築普及に貢献した建築家である。大阪を中心に京都・奈良・兵庫で、更に東京や広島・呉で仕事し、設計したすべての建築物がRC構造であった。大きな特徴として、芸術・造形美よりも構造美・機能美、特に耐震を重視し極めて頑丈な建物を設計していることが挙げられる。
佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970… 佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970年1月9日)は、日本の心理学者、言語学者、国語学者。 1888年、千葉県で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。心理学専修で学び、1913年に卒業、同大学大学院に進んで日本語のアクセントについて研究した。 1923年に欧州留学を命じられ、ドイツ留学中にベルリン大学のヴォルフガング・ケーラーのもとでゲシュタルト心理学を学んだ。1925年に帰国し、九州帝国大学の初代心理学講座担任教授に就いた。九州大学には、戦後1949年の退官まで奉職。1966年には日本学士院会員に選出された。 1952年、東洋大学教授に迎えられ、心理学、国語学を担当。
石橋 うめ(いしばし うめ、1888年〈明治21年〉9月5日… 石橋 うめ(いしばし うめ、1888年〈明治21年〉9月5日 - 1971年〈昭和46年〉8月9日)は、日本の55代内閣総理大臣である石橋湛山の妻。福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)出身。 旧藩時代、米沢藩士として家老職を務めた名門・岩井家出身の岩井尊記の三女として生まれる。東小松川松江尋常高等小学校の教師をしていたうめは、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で1912年(大正元年)11月に石橋湛山と結婚する。ちなみにうめは、福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子であった。 1944年(昭和19年)2月には海軍主計中尉だった次男・和彦がマーシャル群島のクェゼリン環礁で戦死した。 夫の湛山は1956年(昭和31年)12月23日に内閣総理大臣に就任するが、病気を理由に翌年の1957年(昭和32年)2月25日に退任。
3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21… 3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21年〉9月4日 - 1971年〈昭和46年〉2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上 良太郎。位階は正五位。 東京浅草生まれ。隅田川に窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、旧制錦城中学校卒業の頃、1905年から作陶に従事する。板谷波山に師事。1914年に横浜へ移り、1928年、帝展初入選。1953年、第1回横浜文化賞受賞。1959年、「丸紋平皿」で日本芸術院賞を受賞。1966年、日展理事に任じられるとともに、日本芸術院会員となる。1967年、勲三等瑞宝章受賞。1971年死去。死没日付をもって正五位に叙された。 温厚な人柄を反映したかのような、気品の高い風格ある作風が特徴である。
池園 哲太郎(いけぞの てつたろう、1888年(明治21年)… 池園 哲太郎(いけぞの てつたろう、1888年(明治21年)9月2日 - 没年不詳)は、東京市区長。慶應義塾大学教授。 福岡県出身。1911年(明治44年)、立教大学文科を卒業。1916年(大正5年)からアメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)にコロンビア大学文科を卒業し、1919年(大正8年)にゼネラル神学院とニューヨーク大学文科を卒業し、修士号を得た。帰国後、慶應義塾大学教授を経て、東京市に入り、社会教育課長を務めた。1931年(昭和6年)1月に浅草区長となり、淀橋区長、豊島区長、下谷区長を歴任した。 その他、大日本連合青年団嘱託、東京市連合青年団嘱託を務めた。 その後、仙台市助役を務めた。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。
加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月3… 加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月31日 - 1922年(大正11年)5月1日)は、明治・大正期の小説家。本名はきくよ。月刊誌「青鞜」の社員であった。 1888年(明治21年)8月31日、長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)にて、医師の父・高仲泰一と、母・久与の間に、長女として生れる。1899年(明治32年)12月11日、母・久与が病死(享年32歳)。幼い4人の弟妹たちの世話を、11歳のきくよがすることとなった。 文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った狂歌のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「新小説」「早稲田文学」「明星」などの文芸雑誌や、与謝野晶子、島崎藤村などを愛読した。
渕田 長一郎(淵田、ふちた ちょういちろう、1888年(明治… 渕田 長一郎(淵田、ふちた ちょういちろう、1888年(明治21年)8月30日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、人吉市会議長、熊本県人吉市長。 熊本県で渕田常一の長男として生まれる。1907年(明治40年)熊本商業学校(現熊本県立熊本商業高等学校)を卒業し、同年父が死去して家督を相続し、家業の「銀の露」焼酎醸造業を継承した。通信教育で資格を取得し、1917年(大正6年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。その後、人吉酒造組合長、熊本県酒造組合連合会副会長、日本茶業取締役などを務めた。 早稲田大学在学中に友人たちが人吉町会議員選挙に立候補届をして本人不在のまま当選。
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30… 明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日 - 1956年(昭和31年)5月6日)は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 東京生まれ。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け、大学院特選給費学生として母校に残った。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという。
秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年〈明治21年〉8月… 秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年〈明治21年〉8月30日 - 1974年〈昭和49年〉7月14日)は、日本の料理人。大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。位階・勲等は正四位勲三等。フランス料理アカデミー名誉会員。 その生涯を描いた小説やドラマ化作品のタイトルから「天皇の料理番」として知られる。皇室の食卓を預かり、宮中で行われる公式行事の料理を掌るのみならず、日本における西洋料理の普及にも大きな足跡を残した。 1888年(明治21年)、福井県今立郡村国村(国高村村国、現・越前市村国三丁目)において、裕福な料理屋の次男として生まれる。旧姓は高森。高森家は大地主で庄屋だった。
大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月… 大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。法政大学総長(第8代)、社会保障制度審議会会長(初代)、統計審議会会長(初代)などを歴任。 東京大学経済学部が特に優れた卒業論文に贈る大内兵衛賞の由来にもなっている。 兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた)、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。 東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属)。
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29… 永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29日 - 1942年(昭和17年)1月4日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。1917年(大正6年)に鹿児島高等農林学校を卒業し、朝鮮総督府営林廠に勤務した。1923年(大正12年)、京都帝国大学経済学部を卒業し、朝鮮総督府属となる。1925年(大正14年)に高等試験行政科に合格。咸鏡北道学務課長、同視学官、慶尚南道地方課長、同産業課長などを歴任した。1932年(昭和7年)、木浦府尹に就任し、1933年(昭和8年)に仁川府尹に転じた。在任中の1941年(昭和16年)12月20日に仁川神社で行われた戦捷奉告祭に風邪で40度の高熱がありながら参加、帰宅後に急性肺炎を併発、1942年(昭和17年)1月4日に死去、53歳。
勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29… 勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29日 - 1989年 <平成元年> 9月16日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1911年に東京高等商業学校専攻部銀行科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1944年2月に鹿児島興業銀行(のちの鹿児島銀行)頭取に就任し、1960年5月には相談役に退いた。鹿児島商工会議所会頭も務めた。 1956年5月に黄綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年9月16日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28… 難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。 岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校、関西中学校、金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙で犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選。昭和会や立憲政友会に所属。 1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。
井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1… 井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1953年12月30日)は、日本の俳優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。井上 麗吉(-れいきち)とも名乗った。新派、無声映画の俳優から監督へと転身、活動写真資料研究会、マキノ映画製作所での作品を残す。 1888年(明治21年)8月28日、広島市大手町(現在の同市中区)に生まれる。同県立の旧制中学校を中退したのち、当時日本の植民地であった台湾に渡る。事業に失敗して帰国、東京で新派の俳優になる。 1921年(大正10年)、32歳のときに松竹キネマに入社、新派出身の岩田祐吉、関根達発とともにヘンリー・小谷監督、栗島すみ子主演の映画『虞美人草』に出演、続いて同監督の『電工と其妻』に主演の岩田、栗島、そして新派出身の岡本五郎とともに出演した。
岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1… 岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1968年10月4日)は、日本の動物学者。 研究の範囲は哺乳類から節足動物にいたる広範な分野におよび、晩年にいたるまで研究を続けた。 哺乳類については「樺太の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 241-282. 1960年3月)、「千島群島の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 283-306. 1960年3月)などを発表している。哺乳類学者としては、エゾオオカミ・キタキツネ・エゾナキウサギ・ホンシュウジカ等の命名をおこなっている。また、日本人初の哺乳類図説『哺乳動物図解』を刊行した。 農林技官として農業害虫やその駆除に貢献したが、それ以上に岸田の関心は陸上節足動物の中で人の関心を持たれない分野に集中し、クモ目やダニ目、ザトウムシなどの日本における先駆者である。
伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24… 伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24日‐ 1966年(昭和41年)12月23日) は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、北郷町名誉町民。旧姓・関山。 宮崎県南那珂郡、のちの北郷村(北郷町を経て現日南市)で関山宗被の二男として生まれた。1906年(明治39年)宮崎県立農学校(現宮崎県立宮崎農業高等学校)を卒業した。1918年(大正7年)南那珂郡油津町(現日南市)の伊東スマエ(先代善衛門長女)の入夫となり家督を相続した。 南那珂郡農会技手を経て、北郷村会議員、南那珂郡会議員を務め、1923年(大正12年)宮崎県会議員に選出され4期在任した。この間、県会では県当局に迎合せず堂々と論戦を行った。
野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - … 野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - 1945年5月25日)は、日本の落語評論家。
勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 -… 勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 - 1932年〈昭和7年〉7月10日)は、日本の華族、実業家。爵位は伯爵。旧姓は徳川(とくがわ)。 1888年(明治21年)8月23日、徳川慶喜の十男として生まれる。母は新村信で、石工の望月宗兵衛のもとに預けられた。1892年(明治25年)2月8日、勝海舟は嫡子小鹿が早世したため、慶喜の子を孫娘の婿養子に迎えて伯爵の家督を譲ろうと考えた。勝は慶喜の七男・慶久を養子にと望んだが、慶喜は「あれは当家の嗣子であるので」といって断り、末男の精を養子に出したという。慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れ、同年2月14日、父の慶喜は精の養子入りを承諾した。
柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月2… 柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月22日- 1945年(昭和20年)2月15日)は、大日本帝国の陸軍省建築技師。最終階級は高等官一等。靖国神社『遊就館』や陸軍大臣宇垣一成邸、閑院宮載仁親王別邸の設計をした。岡山県井原市出身。 1888年(明治21年)8月22日、岡山県小田郡堺村(現:井原市)の柳井儀三郎の次男として出生。この後、備中成羽藩士である柳井勝太郎の長女・志保と結婚する。1902年(明治35年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。同期には、同志社大学教授になる中島重や俳優の加藤精一がおり、先輩には、藤岡郊二がいた。特に、藤岡郊二は、後に陸軍省で柳井の上司となる薬師寺主計の第六高等学校・東大時代の友人であり、藤岡郊二邸は薬師寺によるアール・デコ建築が取り入れられており、柳井の建築にも影響を与えることになる。
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月2… 小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月21日 - 1962年〈昭和37年〉9月9日)は、日本の医師。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、国立予防衛生学研究所長を歴任。岐阜県各務原市出身。
岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年… 岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年1月29日)は、日本の司法官僚、弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 東京都出身。1914年東京帝国大学法科卒。翌年司法属となり、司法書記官や各地の刑務所長を務める。さらに九州行刑管区司令、関東行刑管区長を経て、弁護士、刑務協会顧問を歴任する。 1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から立候補して当選した。会派は緑風会に所属し、国会内では法務委員長を務めた。参議院議員は1期務め、1953年の第3回参議院議員通常選挙には緑風会公認で出馬したが辞退した。 1966年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲三等からの昇叙)。 1968年1月29日死去、79歳。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月1… 中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月19日 - 1973年〈昭和48年〉3月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、諫早市長。位階は正五位。勲三等瑞宝章綬章。 長崎県出身。1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科卒。コロンビア大学大学院に留学し、記者として二六新聞社などで勤務する。その後、1947年(昭和22年)、諫早市長選挙に立候補して当選。同年4月8日、初代公選市長となった。市長在任中は市立中学の開校、市役所機構の再編、自治体警察の設置、諫早球場の開場など市制改革に追われた。1951年(昭和26年)に再選。翌1952年(昭和27年)4月3日に退任した。第25回衆議院議員総選挙において長崎1区から改進党で立候補したが落選。
堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 196… 堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 1964年2月17日)は、日本の政治家。岡山県玉島市(現・倉敷市)長。 岡山県浅口郡阿賀崎村(のち玉島町→玉島市、現・倉敷市)出身。旧制岡山中学校(現・岡山県立朝日高等学校)、金川中学校(後、岡山県立金川高等学校、現在廃校)を経て、1918年、早稲田大学政治経済学科卒。同年、高等文官試験行政科に合格する。福岡県属、同官房主事、地方課長、兵庫県地方、議事各課長、沖縄、広島、高知、千葉各県の学務部長、宮城、鹿児島各県の経済部長、福井県の総務部長を歴任し、1939年に退官した。退官後は神戸製鋼所総務部長などを経て、1951年、玉島町長に就任。翌年1月、玉島町の市制施行に伴い、玉島市長となった。
石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1… 石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1945年7月30日)は、国文学者。 秋田県雄勝郡生まれ。1914年東京帝国大学国文科卒。卒業論文で初めて現代文学を扱ったとされる夏目漱石論を書く。同年広島で中学校教師、1915年退職して万朝報記者となる。1918年「新しき村」会員。1920年北海道帝国大学予科講師、のち教授。1923年松江高等学校教授。1924年大阪府女子専門学校教授。1943年11月退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 19… 鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 1969年1月11日)は、日本の洋画家。 大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月1… 佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。 福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。
赤土 正強(赤土 正强、しゃくど まさたけ、1888年(明治… 赤土 正強(赤土 正强、しゃくど まさたけ、1888年(明治21年)8月16日 - 1944年(昭和19年)3月11日)は、日本の内務官僚、足利市長。 奈良県北葛城郡下田村(現在の香芝市)出身。天王寺中学校を経て、第四高等学校を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同県神崎郡長、同野洲郡長、鳥取県理事官・視学官、京都府理事官・産業部長、山梨県書記官・警察部長、奈良県書記官・内務部長、愛媛県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長、長崎県書記官・総務部長などを歴任。 1937年7月8日、依願免本官となり退官した。
蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1… 蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1945年8月7日)は、日本の官僚、政治家。元和歌山県知事。衆議院議員(3期)。官僚としては内務省の警察関連部門で長く勤めた。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。小川尋常小学校、熊本県立八代中学校(1906年3月卒業)、第五高等学校(1909年7月卒業)を経て、1913年7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 大学卒業後の1913年10月に高等文官試験に合格した。以後は内務省官僚となる。1914年8月に大阪府警察部警部、1916年12月から同警視を務めた後、1922年6月に東京府理事官に異動し、その直後から欧米に約1年3か月出張した。
酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21… 酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21年〉8月15日 - 1958年〈昭和33年〉8月13日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(1期)、元山形県議会議員、元宮生村村長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 山形県宮生村金生(現上山市)出身。1903年に上山尋常高等小学校高等科卒業、1909年に東京神田森田簿記専修学校の商業銀行社会一般全科卒業。 1923年に宮生村消防組頭に就任、1929年宮生村村会議員に選出、1931年宮生村助役就任。 1932年に宮生村村長となった。 1934年に上山タクシー社長に就任。 1939年9月25日に山形県会議員に初当選。同年10月に参事会員。 戦後、公職追放となり、1946年12月1日に県会議員を辞職。
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 19… 小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。生まれつき、吃音があった。1908年、京都市立美術工芸学校卒業。日本画家の川北霞峰に師事し、号を「霞村」とする。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学。在学中、第4回文展に入選。1913年、同校を卒業。1918年頃、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎の画塾に通う。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日… 三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日 - 1945年(昭和20年)9月7日)は、日本の実業家。第二次世界大戦時に日本の占領下にあったバリ島でインドネシア解放の大義を信じ民政部顧問として働いたが、日本の敗戦により解放の約束を果たせず、その責任を取り自決した。 1888年(明治21年)、日本基督一致教会の牧師一家の次男として仙台にて生まれる。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)に進むも、在学中は、経済的状況の厳しさから牛乳配達のアルバイトをして過ごした。1905年(明治38年)、父のハワイ日本人教会赴任に伴い、東京都港区に引っ越し、明治学院普通部に編入。 やがて堤林数衛が商売と伝道を兼ねて設立した南洋商会への入会を決意すると、1908年(明治41年)、明治学院を中退し、1909年(明治42年)4月にジャワ島スマランに渡航。
後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月1… 後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月10日 - 1960年(昭和35年)7月30日)は、大正期から昭和期にかけての日本の考古学者。明治大学名誉教授。 神奈川県三浦郡田越村(現・逗子市)生まれ(鎌倉市生まれや、静岡県生まれとする資料もある)。沼津中学(現・静岡県立沼津東高等学校)、静岡師範学校を経て、東京高等師範学校地歴科を卒業。 1917年(大正6年)3月から1918年(大正7年)7月まで静岡県立静岡中学校で地歴の教諭を務めた後、1921年(大正10年)(1918年とする資料もある)から1940年(昭和15年)まで帝室博物館に勤務し、監査官を担当した。1927年(昭和2年)には博物館視察のためにヨーロッパに派遣された。
本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10… 本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉7月29日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 京都出身。旧姓は桐山。幼名は伝次郎。1914年京都帝国大学文科大学印度哲学科卒。1929年京都帝大文学部講師、1934年「印度学方法論より観たる法華経」で文学博士、同年助教授、1935年教授。1948年定年退官、名誉教授、立正大学教授、稲沢女子短期大学(愛知文教女子短期大学)教授、印度文化研究所所長。京都の慈雲院、宝塔寺の住職をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。