青山 鉞四郞(あおやま えつしろう、1864年12月24日(… 青山 鉞四郞(あおやま えつしろう、1864年12月24日(元治元年11月26日) - 1933年(昭和8年)6月7日)は、日本の弁護士。 旧尾張藩士青山重威の子であり、1864年(元治元年)11月、父の任地であった尾張国海西郡鵜多須村の鵜多須代官所において産声を上げた。3歳のころ、名古屋正木町に移る。父は漢学者であったためその薫陶を受け、小学校修学ののち、森村義民、佐藤牧山を仰ぎ、3冊の著書をなした。 1883年(明治16年)、19歳のとき、二松学舎に入るが、1885年(明治18年)に大学古典講習科漢学部に転じる。しかし、1886年(明治19年)に明治法律学校に移り、3か月で代言人試験(弁護士試験)を受験する。
国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、18… 国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、1864年12月21日(元治元年11月23日) - 1953年(昭和28年)11月26日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士(1915年(大正4年))。南満洲鉄道理事長、衆議院議員、日本通運初代社長。兄は洋画家の国沢新九郎。 土佐藩士・国沢四郎右衛門好古の子として江戸に生まれる。青木槐三の聞き取りでは、1879年(明治12年)に高知県から船で上京したという。美會神学校(後の青山学院)を経て、帝国大学工科大学土木学科に進む。在学中より日本鉄道(東北本線)の黒磯駅 - 白河駅建設に関与した。1889年(明治22年)帝国大学卒業後は鉄道技師として九州鉄道に入社し、長崎本線の佐賀駅付近の建設に従事した。
平野 勇造(ひらの ゆうぞう、1864年12月21日〈元治元… 平野 勇造(ひらの ゆうぞう、1864年12月21日〈元治元年11月23日〉 - 1951年〈昭和26年〉2月9日)は、日本の建築家。旧姓は堺、その後佐藤。幼名は七五郎。 石川島造船所創業者の平野富二、および東京海上保険支配人の益田克徳の娘婿で、長男は平野義太郎(最初の妻との間の子)。 ※以下の文章では当人を指す名称を1890年以前は「七五郎」、以後は「勇造」とする。 陸奥国北郡大畑(現在の青森県むつ市で、旧大畑町)に生まれる。堺喜藤治の四男だった。家系は堺で海運業を営んでいた「納屋衆」の系譜で、その一族から越前国の三国に嫁いだ女性の子孫が大畑に移り住み、海運が盛んな大畑で廻船問屋となった。「三国屋」の屋号を持ち、一族の故地にちなんで「堺」姓を名乗った。
竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈186… 竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈1864年12月20日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月23日)は、戦前の日本画家。戦前の京都画壇の中心として多数の弟子を育成し、日本画の近代化に足跡を残した。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。 本名は竹内 恒吉(たけうち こうきち/つねきち)。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。 京都府京都市中京区御池通油小路の料理屋「亀政」に生まれる。竹内政七・きぬ夫妻の長男で、きょうだいには姉の琴がいる。「亀政」の常連であった北村甚七という友禅画家が短冊に墨で燕子花を描いたのを幼少期に目にし、心を奪われたという。母は1877年(明治10年)に死去。
高橋 辰五郎(たかはし たつごろう、1864年12月19日(… 高橋 辰五郎(たかはし たつごろう、1864年12月19日(元治元年11月21日) - 1936年(昭和11年)8月22日)は、日本の産婦人科医・教育者。日本で初めて「助産婦」の名称を緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)とともに提唱した。漫画家の高橋留美子は曽孫にあたる。 新潟県北蒲原郡加治村大字茗荷谷(現・新発田市)に生まれる。父は高橋定四郎、母は相馬氏。1881年(明治14年)10月、18歳で上京しドイツ語、漢学を学び、ついで1885年(明治18年)1月済生学舎(現:日本医科大学)に入学して、医学を修める。 1886年(明治19年)11月24日医術開業試験に合格して医師となる。1892年(明治25年)大阪市、緒方病院において緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)の下で産婦人科学を専攻し、同病院在任当時、緒方と共に我が国初の産婦人科診断専門書である穴爪維篤(フライト)婦人科診断学を翻訳出版し、ついで1894年(明治27年)緒方との共著『産科学』を出版した。
市川 文蔵(いちかわ ぶんぞう、1864年12月19日(元治… 市川 文蔵(いちかわ ぶんぞう、1864年12月19日(元治元年11月21日)- 1935年(昭和10年)5月4日)は、明治時代の山梨県の政治家、実業家である。現在の山梨中央銀行の前身の一つである富士銀行の頭取で、多額納税者として貴族院議員にもなった。また衆議院議員にも選出された。 甲斐国巨摩郡荊沢村(山梨県中巨摩郡五明村、甲西町を経て現在の南アルプス市)に市川太右衛門の長男として生まれる。市川家は山梨県屈指の大地主であり、明治16年(1883年)10月に家督を相続。明治24年(1891年)8月に中巨摩の郡会議員、郡参事会員、山梨県会議員等の職に就く。明治27年(1894年)に所得税調査員となり、数年勤務する。
堀家 虎造(ほりけ とらぞう、1864年12月18日(元治元… 堀家 虎造(ほりけ とらぞう、1864年12月18日(元治元年11月20日)- 1939年(昭和14年)5月13日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、香川県那珂郡榎井村長。 讃岐国那珂郡与北村(香川県那珂郡与北村、仲多度郡与北村を経て現善通寺市与北町)で、農業、養蚕業を営む堀家に生まれた。漢学、英学、数学などを修めた。農業を営む。 1890年(明治23年)5月、榎井村長に就任し、1898年(明治31年)3月まで在任。1892年(明治25年)香川県会議員に選出され、1898年3月まで務め、その他、同常置委員、所得税調査委員も務めた。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙(香川県第4区)で当選し、以後、第8回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算3期在任した。
小野田 鉄弥(おのだ てつや、元治元年11月19日〈1864… 小野田 鉄弥(おのだ てつや、元治元年11月19日〈1864年12月17日〉 - 1948年)は、明治時代の社会事業家。小橋勝之助らとともに日本で最も古い児童施設の一つである博愛社(現在の社会福祉法人博愛社)を創設し、勝之助の弟・小橋実之助、林歌子らと孤児の養育に尽力したほか、石井十次と岡山孤児院の運営を行った。 1864年(元治元年)、現在の茨城県古河市に生まれる。その後、東京・築地の立教大学校(現在の立教大学)で修学した。 1890年(明治23年)に兵庫県赤穂郡矢野村(現在の相生市)で、貧しい家庭の子供たちを育てる施設として『博愛社』を小橋勝之助、小橋実之助(小橋兄弟)、沢田寸二、前田英哲らとともに創設し、林歌子らの協力者と孤児の養育に尽力する。
牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日〈元治元… 牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日〈元治元年11月19日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月4日)は、日本の政治家(姫路市会議員)、相場師、実業家、兵庫県多額納税者、資産家。姫路商工会議所会頭。姫路水力電気、姫路信託各社長。姫路銀行頭取。牛尾合資会社代表社員。山陽商事代表取締役。族籍は兵庫県平民。 神戸銀行副頭取、中国合同電気社長牛尾健治の父。ウシオ工業社長牛尾吉朗、ウシオ電機会長牛尾治朗の祖父。 播磨国姫路(現・兵庫県姫路市)に生まれた。牛尾政五郎の二男。牛尾政次郎の弟。1882年、兄・政次郎方より分かれて一家を創立した。分家の二男だった梅吉は自分で生計をたてる必要があった。呉服の行商から始めた。
恩田 鉄弥(おんだ てつや、1864年12月16日(元治元年… 恩田 鉄弥(おんだ てつや、1864年12月16日(元治元年11月18日) - 1946年(昭和21年)6月10日)は、明治から昭和時代前期の園芸学者。農学者。農商務技師。園芸試験場場長。 大坂出身。駒場農学校を卒業し、1885年(明治18年)農学士の学位を得、福島県に出仕する。ついで福岡県尋常中学校教諭、埼玉県の埼玉県尋常師範学校教諭、岩手県農事講習所(岩手県立盛岡農業高等学校の前身)教師を経て、1892年(明治25年)岩手県技師を拝命する。1895年(明治28年)岩手県農事講習所長となり、1896年(明治29年)農商務農事試験場技師に任じ、1900年(明治33年)農商務技師を兼ね、初代園芸部長を務めた。
江角 千代次郎(えずみ ちよじろう、1864年12月16日(… 江角 千代次郎(えずみ ちよじろう、1864年12月16日(元治元年11月18日)- 1934年(昭和9年)6月19日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、政治家、銀行家。衆議院議員。号・楽所、有所。 出雲国出雲郡坂田村(島根県出雲郡坂田村、出東村、簸川郡出東村、斐川村、斐川町を経て現出雲市)で、大地主・江角権蔵、すい の長男として生まれる。普通学を学び、黒田龍二から漢学を、雨森精斎から和漢の歴史を学んだ。 村会議員、町村組合会議員、簸川郡会議員、徴兵参事員、所得税調査委員などを務めた。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(島根県第3区)で初当選し、その後、第9回総選挙まで3回再選され、最後は大同倶楽部に所属し衆議院議員に連続4期在任した。
林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年… 林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年11月15日) - 1904年(明治37年)5月26日)は、日本の海軍軍人。日露戦争に「鳥海」艦長として出征し、第三回旅順港閉塞作戦総指揮官を務めた海軍大佐である。南山攻撃援護作戦で戦死。従五位勲三等功四級。 大坂南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。父は河内狭山藩士・林伊織。海軍兵学校12期。席次は入校時次席、卒業時3番。同期に有馬良橘、山屋他人、江頭安太郎などがいる。1894年(明治24年)大尉となり、「高雄」航海長を経て海軍大学校甲号学生(5期)を卒業。志摩清直、黒井悌次郎は同期生である。「秋津洲」航海長として日清戦争に出征。艦長・上村彦之丞のもと黄海海戦を戦った。
岩元 信兵衛(信兵衞、いわもと しんべえ、1864年 12月… 岩元 信兵衛(信兵衞、いわもと しんべえ、1864年 12月13日(元治元年11月15日)- 1917年(大正6年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。山形屋第5代、衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下下町叶(現鹿児島県鹿児島市金生町)で、呉服商・岩元善兵衛の長男として生まれる。幼少期は亡母の実家、新町の回船業・川井田家で過ごし、漢学を修めた。1892年(明治25年)に家督を相続した。 明治維新後、没落した御用商人に代わる新興勢力の中心人物となる。1886年(明治19年)地元の実業家と南島興産社を設立し、大阪の豪商阿部彦太郎と奄美諸島の砂糖貿易の利益独占を競った。また、第百四十七銀行(現鹿児島銀行)、鹿児島貯蓄銀行、鹿児島実業新聞社の創立に参画した。
岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11… 岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11月13日)- 1910年(明治43年)9月4日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。幼名・信二郎。号・吉甫。 丹波国加佐郡大俣村(京都府加佐郡岡田上村字大俣、加佐町を経て現舞鶴市大俣)で、郷士、大庄屋、農業・岩田伊左衛門、千重の二男として生まれる。草場船山に師事し漢学を修めた。1879年(明治12年)ころに上京し、称好塾に入り杉浦重剛の薫陶を受けた。代言人(弁護士)を目指し1884年(明治17年)大学予備門を卒業。司法省法学校に進み1887年(明治20年)10月に卒業して代言人資格が与えられた。 1889年(明治22年)京都市で法律事務所を開設し、民事専門の弁護士として活躍した。
山口 熊野(やまぐち ゆや、元治元年11月11日(1864年… 山口 熊野(やまぐち ゆや、元治元年11月11日(1864年12月9日) - 昭和25年(1950年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。紀勢本線敷設の功労者。 元治元年(1864年)11月11日、紀伊国牟婁郡浦神村(現:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浦神)で山口俊道の長男として生まれる。幼名は俊太。和歌山医学校を経て東京外国語学校ドイツ語科を卒業し、東京大学予備門に転じて医学部への入学準備に専念した。しかし、当時盛んになっていた自由民権運動に共鳴して板垣退助の自由党へ入党し、議会開設の急務を提唱した。 明治18年(1885年)に扶桑政談社を設立し、雑誌通信録を発行したが、法に抵触して禁固1年6ヶ月、罰金100円に処せられて投獄された。
練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈… 練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈元治元年11月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(米穀商、伊勢屋)、実業家。練木合資会社社長。合資会社練木不動産商会の有限責任社員。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人。豪農で米問屋練木庄八の長子。年少にして経世の志を抱き、自由民権の説に心を傾け、板垣退助の自由党に身を投じ、進んで郷里に自助館を創設し推されてその館主となる。 実業界に入り、同志と共に粕壁銀行を創設し取締役兼支配人となり、郷党の財界に貢献する。1898年に居を東京に移して、実業のために尽瘁努力し、練木合資会社を創設し自ら社長となり企画経営の衡に当る。また同志会監査役、生秀館監査役・同取締役などをつとめる。
添田 飛雄太郎(そえだ ひおたろう、元治元年11月7日(18… 添田 飛雄太郎(そえだ ひおたろう、元治元年11月7日(1864年12月5日) - 昭和12年(1937年)1月25日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→革新倶楽部)。 出羽国雄勝郡湯沢町(現在の秋田県湯沢市)出身。1886年(明治19年)、上京して英語とドイツ語を学び、1888年(明治21年)から7年間、ドイツのテュービンゲン大学で政治学・経済学・法学を学んだ。1903年(明治36年)、秋田県立秋田中学校校長に就任し、1907年(明治40年)まで務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回連続当選を果たした。
津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1… 津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1864年12月31日〉- 1929年〈昭和4年〉8月16日)は、日本の女子教育家。日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。 初名はうめ(「むめ」と書いた)。戸籍上はUMEであったが、1902年(明治35年)に父である津田仙の戸籍から分籍した際にUMEKOと改めた。2024年に発行された5000円札の肖像画に選ばれている。 旧暦 元治元年12月3日(新暦 1864年12月31日)、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(… 山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(元治元年11月5日)- 1942年(昭和17年)9月28日)は、明治期の製鋼技術者、大正期から戦前昭和期に活躍した実業家。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。 肥前国(現佐賀県)唐津藩藩士の子として生まれる。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。製鉄技術習得のため官費でドイツ留学した際、鉄の技術の先端が鋼に転換する様子を目の当たりにして先進の製鋼技術を積極的に習得した。この時得た知識や経験、技術に基づく製鋼法の理解者や有力な支援者が集まり会社が設立され日本鋳鋼所(現日本製鉄株式会社関西製鉄所製鋼所地区)が創設された。
相原 祐弥(あいはら すけや、元治元年11月4日(1864年… 相原 祐弥(あいはら すけや、元治元年11月4日(1864年12月2日) - 没年不詳)は、日本の裁判官。 宮城県仙台市出身。小野祐治の二男として生まれ、相原安治の養子となった。1891年(明治24年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。秋田地方裁判所判事、前橋地方裁判所判事、東京地方裁判所、東京控訴院判事、東京控訴院部長、名古屋控訴院部長を歴任した。 大審院判事を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院長に就任した。
綾香 造酒太郎(あやか みきたろう、元治元年〈1864年〉1… 綾香 造酒太郎(あやか みきたろう、元治元年〈1864年〉11月24日 - 没年不詳)は、長崎県北松浦郡中野村の漁業家。明治25年(1892年)の暴風雨に際し、遭難した漁夫を断崖絶壁から救出した功績により、明治26年(1893年)に紅綬褒章を受章した 。 綾香造酒太郎は、長崎県北松浦郡中野村(現平戸市)で先代弁蔵の次男として生まれ、家業である漁業に従事した。幼少より漁業を学び、水泳にも優れ、14歳で一人前の漁師と認められた。剛毅で任侠心が厚く、同情心に富んだ人物として知られた。 明治25年11月23日、玄界灘が暴風雨に襲われた際、同村白江沖で広島県安芸郡瀬戸島村の漁夫らが乗る漁船が難破した。遭難者は約20尋(約36m)断崖の下の岩角にしがみついたが、満潮により命の危険にさらされた。
井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元… 井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元治元年10月21日)- 1932年(昭和7年)12月12日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 出羽国由利郡、後の本荘町(現由利本荘市)で井出章造の長男として生まれる。1891年、帝国大学法科大学法律学科を卒業。 司法省に入省し、司法官試補、東京地方裁判所検事を歴任。1896年、逓信省に転じ、鉄道事務官、逓信省書記官・通信局鉄道船舶課長、鉄道院参事、同理事、同北海道鉄道管理局長を務め、1915年に退官。1919年、鉄道院神戸鉄道管理局長として復帰し、東京鉄道管理局長に異動。1920年、鉄道省が発足すると監督局長に就任し1923年まで在任した。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10… 菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。 筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた。1880年(明治13年)、17歳の時上京し、1891年(明治24年)日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を卒業する。卒業後、教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任。
渡辺 勘十郎(わたなべ かんじゅうろう、元治元年10月17日… 渡辺 勘十郎(わたなべ かんじゅうろう、元治元年10月17日(1864年11月16日) - 大正15年(1926年)10月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。星亨の門下。 豊前国宇佐郡柳ヶ浦村(現在の大分県宇佐市)に今井紋平の四男として生まれ、渡辺久太郎の養子となった。星亨の書生を経て、1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業し、渡米。サンフランシスコで日本人愛国同盟を組織し、帰国後に殖民協会を設立し、移民事業に従事した。1900年(明治33年)に自由通信社を組織し、1902年(明治35年)には赤坂区会議員に選出された。1905年(明治38年)、東京市助役に就任した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治元年10月15日〉- 1940年〈昭和15年〉12月6日)は、明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。衆議院議員。文部大臣。族籍は秋田県士族。 出羽国楢山(のち秋田県秋田市)出身。田中隆世の長男。秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、大学予備門、1889年(明治22年)7月に帝国大学法科大学卒業。農商務省鉱山局長・農商務次官を経て、その後実業界に入り秋田鉱山専門学校(現:秋田大学工学資源学部)の設立に尽力した。ついで政界に転じ、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙で当選した。濱口内閣・第2次若槻内閣で文部大臣を務め、議員を7期務めて1932年(昭和7年)に引退した。
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元… 成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日)- 1916年(大正5年)1月18日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)。金山王と称された。 筑後国山門郡、のちの福岡県山門郡小川村 (瀬高町を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した。 1890年(明治23年)小川村会議員に選出され、九州改進党の結成に尽力した。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた。
浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月1… 浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月10日(元治元年10月11日)- 1937年(昭和12年)3月2日)は、明治から昭和初期の医師、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。旧姓は池田。 日向国諸県郡、のちの宮崎県東諸県郡倉岡村(現宮崎市)で、池田政順の二男として生れ、薩摩藩郷士・浜田戸太の養子となる。宮崎学校で中等教育を修め、高鍋の城竹窓に師事し漢学を修めた。1884年(明治17年)鹿児島県立医学校(のち県立鹿児島医科大学、現鹿児島大学)を卒業。上京して高木兼寛に医学を学び、1887年(明治20年)3月、医術開業免許を取得した。 その後、宮崎町(現宮崎市)で医院を開業。1896年(明治29年)伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)講習科を卒業。
吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(18… 吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(1864年11月10日) - 昭和19年(1944年)9月3日)は、山梨県出身の医師。 甲斐国山梨郡徳条村(現・笛吹市春日居町)に、医家であった父・応治の長男として生まれる。明治12年(1879年)に山梨県立医学校に入学し、明治16年(1883年)3月に徽典館医学科(山梨県立医学校から改名)を卒業後、東京に出て田代基徳について医学を修め済生学舎に通学し、明治20年(1887年)4月に医師開業免状を受け東八代郡石和村に医院を開業。明治21年(1888年)3月には西山梨郡甲運村(現・甲府市)に移転、その後、明治23年(1990年)に東山梨郡岡部村、明治30年代に生春医院の名称で石和村、明治40年(1907年)に甲府市富士川町に移転している。
発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元… 発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元年10月5日〉- 1936年〈昭和11年〉2月28日)は、日本の教育者、実業家、社会事業家。埼玉・笠幡村の大地主・発智家の27代目当主で埼玉県多額納税者。黒須銀行頭取、霞ヶ関村村長、埼玉育児院院長のほか、武州銀行(黒須銀行後身)、武州貯蓄銀行、日米生糸の役員などを務め、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設者でもある。 埼玉の黒須村(現入間市)で代々名主役を務めた豪農商・繁田家の12代繁田武平(満義)の長男・亀太郎として生まれ、親戚の発智家の養嗣子となり、埼玉県師範学校高等師範科卒業後、黒須高等小学校を設立し校長となる。 日本弘道会の西村茂樹の講演に触発されて、弟の13代繁田武平(翠軒)と同会の支部と黒須信用組合を1894年に設立、1898年には霞が関村支部も設立して西村の唱える「道徳と経済」の調和と活性化を図り、弘道会の全国集会では「農民の道徳」と題した演説も行なった。
井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864… 井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864年11月3日) – 昭和31年(1956年)6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)や秋田市長(第6代)を務めた。 久保田藩士小貫久之進の二男で、井上福治の養子となった (秋田市手形新町上丁住)。漢学を学んだ後、上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学した。1886年(明治19年)に卒業した後は、秋田魁新報社に入社し、やがて主筆、さらに社長に就任した。 1892年(明治25年)、秋田市会議員に当選した。市参事会員、市会議長を歴任し、また県会議員、県参事会員、県会議長にも就任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治… 横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治元年9月28日) - 1945年(昭和20年)6月26日)は、明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者。アメリカの雑誌で鉄骨構造を知る。 播磨国加古郡東二見村(現・兵庫県明石市二見町東二見)で、蘭方医・横河安鼎の四男として生まれる。 帝国大学工科大学造家学科で建築学を学ぶ。1889年(明治22年)7月に卒業。卒業同期には葛西万司、宗兵蔵らがいる。卒業設計では東京の町屋を取り上げ、論文で町屋の生活改善と建物の耐震耐火性の向上をテーマとした。その後、下町の二階建ての土蔵造や煉瓦造をどうしたら簡便に耐震化できるかを考え、1891年に著書『地震』を刊行した。
草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう、1864年10月26日(… 草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう、1864年10月26日(元治元年9月26日) - 1927年(昭和2年)6月26日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 大聖寺藩士(藩医。禄高:150石)・草鹿泰仲の長男として、加賀国江沼郡大聖寺仲町(大聖寺町を経て、現加賀市大聖寺仲町)に生まれる。1898年(明治31年)家督を相続する。 1876年(明治9年)上京し、伯父で元富山始審裁判所検事正の草鹿換の家に寄寓する。翌年、東京外国語学校に入りフランス語を学び、三島中洲に師事し漢学を修めた。ほか、中江篤介の仏語塾にも入り、1882年(明治15年)7月、東京外国語学校仏語科を卒業する。卒業後、法学に目覚め、司法省法学校を経て、帝国大学に入り、1888年(明治21年)7月、同大法科大学法律学科仏蘭西部を卒業し法学士となった。
河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9… 河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9月26日〉- 1941年〈昭和16年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。1879年(明治12年)11月、陸軍教導団に入り工兵軍曹を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年(明治28年)8月から1897年(明治30年)2月まで台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任。 日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった。
夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元… 夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元治元年9月19日)- 1933年(昭和8年)5月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(立憲政友会)、松山電気軌道・海南新聞社社長。 1864年(元治元年9月)、伊予国温泉郡坂本村(久谷村を経て現松山市)で正岡権平の三男に生まれる。1884年(明治17年)に愛媛県師範学校を卒業し、小学校に訓導として勤める。その後、上京し明治法律学校に入学するも、和仏法律学校(現・法政大学)に転じ1889年(明治22年)に卒業する。1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、大阪で開業する。 1896年(明治29年)に帰郷し、松山市で開業する。
寺田 駒蔵(てらだ こまぞう、1864年10月19日〈元治元… 寺田 駒蔵(てらだ こまぞう、1864年10月19日〈元治元年9月19日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月2日)は、日本の銀行家、政治家。大阪府中河内郡布忍村長。更池銀行専務取締役。族籍は大阪府平民。 河内国丹北郡向井村(のち大阪府中河内郡布忍村大字向井、現・松原市北新町)出身。寺田定太郎の長男。戸長、初代村長、郡会議員、村会議員、学務委員、常設委員等を歴任する。 住所は大阪府中河内郡布忍村大字向井(現・松原市北新町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治… 永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治元年9月18日) - 1924年(大正13年)12月4日)は、明治から大正期の官僚、政治家、華族。男爵、貴族院議員。 薩摩藩士・永山盛輝(のち男爵)の長男として出生。1891年(明治24年)明治法律学校(明治大学)を卒業。 1874年(明治7年)文部省に勤務し文部9等属を経て、逓信省鉄道書記に就任。父の死去に伴い1902年(明治35年)2月7日に男爵を襲爵。1918年(大正7年)7月10日に貴族院議員に就任し、1924年に死去するまで在任。61歳。
中山 佐七(なかやま さしち、1864年10月17日(元治元… 中山 佐七(なかやま さしち、1864年10月17日(元治元年9月17日) - 1943年(昭和18年)12月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1890年、東京法学院卒。大蔵省御用掛、逓信属兼鉄道会議書記、東京府農工銀行支配役、同頭取、全国農工銀行同盟会長、北海道採炭、玉川水道各(株)社長、横浜電気鉄道、東京薬品、横浜土地、金包里炭鉱各(株)監査役、横浜取引所理事、台湾炭鉱(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において千葉1区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1943年死去。
川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(… 川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(元治元年9月14日) - 1947年(昭和22年)11月22日)は、日本海軍の軍人。海軍中将正三位勲一等功三級。宮中顧問官。
広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、… 広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、1864年10月13日〈元治元年9月13日〉 - 1896年〈明治29年〉10月22日)は、明治期の日本の鉄道技術者、自由民権運動家。 仙石貢らとともに東京市街高架鉄道(現在の山手線および京浜東北線の上野駅・浜松町駅間の高架線区間)および中央停車場(現在の東京駅)の計画、設計をおこなった。広川は計画設計作業従事中に倒れ、32歳で死去した。 越後国三島郡飯塚村(現在の新潟県長岡市飯塚)に、広川甚左衛門とちやの次男として生まれる。[要出典]父は小さい頃に死別し、母のもとで育てられる。1878年(明治11年)、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学した。
松浦 与三郎(まつうら よさぶろう、1864年10月9日(元… 松浦 与三郎(まつうら よさぶろう、1864年10月9日(元治元年9月9日)- 1948年(昭和23年)3月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 日向国那珂郡、のちの宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)で生まれた。1880年(明治13年)鹿児島師範学校速習科卒。シャム王国へ森林視察のため渡航する。また、中国各地を歴遊する。その後、満州営口及び大連で煉瓦工場を設立し、経営する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県から無所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1948年に死去した。
池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年… 池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年(昭和11年)5月3日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。 現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分がL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年(1908年)に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。
岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年… 岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年9月5日) - 1927年(昭和2年)7月28日)は、日本の漢文学者、教育者。 1864年、越中国新川郡清水村(現・富山県富山市)にて富山藩士、岡田信之(呉陽)の長男として生まれる。18歳の時に上京し、重野成斎らに学んだ後、帝国大学に入学。 卒業後は陸軍大学校教授、学習院教授、東京帝国大学教授などを勤める。漢文や中国の歴史に通じ、大学で講義をする傍ら多数の書籍の著作、編纂に携わった。1926年には、御講始で漢書の進講も行った。同年学習院名誉教授となった。 主なものに『支那歴史』、『新定十八史略鈔』、『新制漢文讀本』、『越中史料』などがある。
西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年1… 西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年10月3日) - 1930年(昭和5年)8月5日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 肥前国小城郡多久村(現在の佐賀県多久市)に、佐賀藩士西雅広の長男として生まれる。儒学者岡松甕谷に漢学を学んだ後、東京に出て中村正直の同人社で英学を学んだ。 小城郡会議員、佐賀県議会議員を経て、1914年(大正3年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、佐賀県農工銀行頭取、唐津鉄道取締役、肥前電気鉄道取締役、唐津製鋼所取締役、佐賀毎日新聞社社長などを歴任した。
中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元… 中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元年9月2日〉 - 1932年〈昭和7年〉5月2日)は、日本の剣道家である。 武蔵の坂浜(現在の東京都稲城市)生まれ。四谷の真貝忠篤の道場で田宮流の奥伝をうける。その後稲城で道場伝喜館を開き、1932年(昭和7年)に死去するまで剣道術を伝授した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
阿部 彦吉(あべ ひこきち、元治元年9月2日(1864年10… 阿部 彦吉(あべ ひこきち、元治元年9月2日(1864年10月2日) - 昭和6年(1931年)10月9日)は、日本の発明家である。 現在の山形市六日町生まれ。生家は草履表商だったが、類焼で経営が悪化。幼少期に苦労するも、時計に興味を持ち18歳で上京。京橋の小林時計店に勤務し、技術体得の後20歳で帰郷した。山形市七日町に自ら時計店を開業。そのかたわら電気時計の研究発明に志した。まず単独式電気時計から発電機付きの無電池式電気時計に進み、その後、有電池式連絡時計となって完成を見た。特許は内外12件に及ぶ。 1915年に自動発電無電池阿部式親子時計を開発し特許を取得。県庁舎(現・文翔館)新築に際し時計工事を請け負い、1918年、時計塔の大時計を親に、無電池で庁内50余りの子時計を完成した。
岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日(1864年9… 岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日(1864年9月30日) - 大正14年(1925年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)。 信濃国佐久郡春日村(現在の長野県佐久市)出身。岡部弥門の二男。上田中学校(現在の長野県上田高等学校)で学んだ後、東京の同人社で英学を学んだ。1885年高橋是清の渡米に従い、その後、ハワイに渡って、ハワイ王国・ハワイ共和国の顧問を務めた。その後、アメリカ本土に戻って、カリフォルニア大学を卒業、さらにシカゴ大学で修士号を得た。また、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ハイデルベルク大学、パリ大学にも遊学した。 1899年、帰国して外務省翻訳官となった。
麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9… 麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9月28日) - 昭和10年(1935年)2月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、那覇市長。 大隅国大島郡笠利村(現在の鹿児島県奄美市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。翌年に東京法学院を卒業し、弁護士を開業するが、1892年(明治25年)に那覇地方裁判所が開庁すると、那覇に移って弁護士業務に従事した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第11回・第14回・第15回と4回当選を果たした。その間、1923年(大正12年)から1925年(大正14年)まで、那覇市長を務め、初等教育や社会教育に力を入れた。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(18… 大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(1864年9月26日) - 昭和25年(1950年)10月10日)は、旭川市の実業家、政治家。#大谷酒造株式会社の創業者。新潟県出身。真宗大谷派旭川別院檀家総代。旭川村(現旭川市)への鉄道誘致、日本放送協会北海道放送局開設、百貨店丸井今井旭川支店にも深く携わった。1928年(昭和3年)6月紺綬褒章。 現在の旭川市6条6丁目にあった酒造会社。 明治42年下村正之助の酒造場を買収し創業、43年度から生産を始め、同年の造石高 672 石、44年 1,051 石を生産して千石蔵に仲間入りした。 代表的な銘柄は、旭正宗・旭自慢 昭和19年企業整備令により、旭川酒類工業会社に合併され、第四工場として稼働。