青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月2… 青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月28日 - 1982年〈昭和57年〉6月25日)は、日本の大蔵官僚・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)で農家・青木善蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現:長野県長野高等学校)に進学する。のち第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。 入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。
伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1… 伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は、島根県出身の日本の新劇女優である。本名三浦 シゲ(みうら シゲ)、デビュー当初、映画には三浦 しげ子や三浦 茂子(みうら しげこ)、三浦 繁(みうら しげ)名義で出演していた。 1889年(明治22年)11月28日、島根県鹿足郡津和野町の紙問屋に生まれる。上京し、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(現在の相模女子大学)卒業後、漢方胃腸薬「一等丸」で知られる津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐが、新婚時代は、事業を起こしたい夫・治輔と東京に住んでいた。1910年(明治43年)8月3日、20歳のときに、夫の実家に戻り、長男・佐喜雄(のちの作家・伊藤佐喜雄)を出産。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治2… 黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治22年〉11月24日 - 1978年〈昭和53年〉4月16日)は、日本の華族(侯爵)、鳥類学者、政治家(貴族院議員)。 日本鳥学会会長を務めたことから、「日本鳥学の父」と呼ばれた[要出典]。旧筑前国福岡藩黒田家当主で、黒田長政から数えて14代目に当たる。 祖父は第12代福岡藩主・黒田長知。父は貴族院副議長を務めた黒田長成、母は清子(島津忠義の次女)である。姉妹のうち、幸子は長嶺公固の妻、良子は高倉永輝の妻。 妻は閑院宮載仁親王の第二王女の茂子。長男の長久も長じて鳥類学者となり、山階鳥類研究所所長を務めた。長女の政子(1915年生)は前田利建に、次女の光子(1921年生)は山内豊秋にそれぞれ嫁いだ。
広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(… 広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(明治22年)11月23日 - 1951年(昭和26年)12月16日)は、徳島県徳島市出身の日本画家。香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)卒業。 徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。 第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、静岡県多額納税者。相模屋社長。熱海伊豆山温泉組合長。 静岡県田方郡熱海町(現・熱海市)の温泉旅館業、相模屋・浜田文作の息子。1913年、家督を相続した。温泉旅館業を営んだ。千人風呂相模屋旅館を経営し、静岡県多額納税者に列した。永く区長の要職にあった。 熱海小学校学務委員であった。伊豆銀行、箱根ホテル各監査役、伊豆銀行熱海支店相談役を兼任した。 相模屋旅館について、三郎によると「先代文作が苦心経営の結果、顧客の信用を高め高評を博するようになり、千人風呂に久邇宮殿下の御行啓の幸栄を賜り、また松方侯爵、浅野侯爵、松浦伯爵、寺島伯爵、渡辺子爵、三浦子爵、後藤男爵等の諸華族方を始め、文士には、大町桂月、有島武郎、実業家には、福島浪蔵、山科礼蔵、織田昇次郎、久原房之助、村井吉兵衛の諸氏も来遊されてこの風呂で深い感興をそそられたこともあった」という。
生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)… 生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)11月22日 - 1978年(昭和53年)3月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 菅楯彦と北野恒富の門人。本名、生田稔(みのり)。始め花朝と号し、のちに花朝女と号した。1889年、大阪市天王寺区上之宮町で生まれており、現在は生誕地の碑が建っている。父は国学者の生田南水。父に俳句、藤沢黄波に漢学、近藤尺天に国学を学ぶ。大阪第一師範学校附属小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わる。1912年、菅楯彦に師事してまず大和絵と有職故実を学んでいる。1921年に北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。1925年の第6回帝展に出品した「春日」が初入選を果たした。
中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 19… 中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 1991年10月18日)は、日本の裁判官・弁護士・政治家。位階は正四位。 太平洋戦争終戦直前に神戸市長に就任し、戦後の復興に携わった。雅号は和堂。勲二等旭日重光章、勲一等瑞宝章(1986年)、修交勲章崇礼章(1989年)受章。元神戸弁護士会長。神戸市名誉市民(1989年)。 1889年11月20日、大阪府大阪市東区瓦町(船場)に、薬問屋中井一馬・テルの末子(5男)として生まれる。中井家は代々大阪で家伝の膏薬を売る老舗で、父の一馬は大阪府議会議員と大阪市議会議員を兼任し、大阪府議会副議長、大阪市参事会員を務めた政治家でもあった。 中井曰く尋常小学校、高等小学校時代の成績は優秀で、毎年級長を務めた。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)1… 魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)11月17日 - 昭和34年(1959年)3月26日)は、日本の日本史学者。広島大学名誉教授。 明治22年(1889年)11月17日、兵庫県神戸市兵庫区宮前町において、魚澄惣一郎・くま夫妻の次男として生まれる。 明治41年(1908年)3月25日、第八高等学校第一部乙類に入学する。 明治44年(1911年)2月に『八高校友会雑誌第二号』に最初の論文「政治家としての新井白石」を発表し、7月1日に第八高等学校を卒業。8月31日に東京帝国大学文科大学史学科に入学し国史学を専攻する。 大正3年(1914年)7月10日、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、9月1日に京都帝国大学大学院に入学する。
川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月… 川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家、挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。 1889年(明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」、井上円了の従兄弟)と母ヨシの四男として生まれる。
小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 … 小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 11月16日 - 1981年〈昭和56年〉 3月24日)は、日本の政治家、実業家。戦前の長野県会議員から衆議院議員(6期)。戦後、参議院議員(3期)。参議院永年在職議員。初代小諸市長。位階は正三位。勲等は勲一等。 長野県北佐久郡小諸町生まれ。小諸高等小学校を経て、長野市立甲種商業学校卒業。小諸高等小学校在学時には、自由主義教育者の伊藤長七の影響を受けた。 戦前は明正会・立憲民政党に所属したが戦後公職追放され、追放解除後は旧民政党左派の松村謙三・粟山博・鶴見祐輔・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動をともにした。政界復帰後は自由民主党松村・三木派に所属した。
鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月1… 鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月16日 - 1948年(昭和23年)2月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。 新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)出身。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第34期卒業。1921年(大正10年)4月に陸軍歩兵大尉に進級し、1926年(大正15年)8月に陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員陸軍大学校兵学教官に就任した。1927年(昭和2年)5月に陸軍歩兵少佐に進級し、同年8月に陸軍大学校兵学教官専任となり、1930年(昭和5年)12月に近衛歩兵第1連隊附に移り、1931年(昭和6年)6月に陸軍歩兵中佐に進級した。1932年(昭和7年)4月に第10師団参謀に転じ、満州事変に出動。
大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月1… 大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1941年(昭和16年)8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市上花沢片町出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業し、同年12月、工兵少尉に任官。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部通信課に配属された。 1935年(昭和10年)3月、工兵大佐に昇進し、参謀本部通信課長に就任。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し、陸軍通信学校付となり、さらに同校幹事を務めた。1938年(昭和13年)10月、台湾軍参謀長となる。 1940年(昭和15年)3月、近衛師団司令部付となり、同年7月、鎮海湾要塞司令官に就任。
眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -194… 眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -1946年3月15日)は、日本の教育者。旧制灘中学校初代校長。戦後まもない1946年に発疹チフスに感染し、灘校校長在職中に死去した。唱歌や童謡の作詞も行い、灘校の校歌・生徒歌の作詞の他、国定教科書に詩が採用されている。
千葉 あやの(ちば あやの、1889年〈明治22年〉11月1… 千葉 あやの(ちば あやの、1889年〈明治22年〉11月14日 - 1980年〈昭和55年〉3月29日 )は、日本の染色家。宮城県文字村(現栗原市)出身。 日本最古の染色技術といわれる「正藍染(正藍冷染)」の技法の保持者として、人間国宝に認定された。 1889年11月14日、文字村の佐藤善五郎・きよのの三女として生まれる。幼少より機織りに優れたといわれる。1909年6月22日、千葉彦右衛門の養子由之助に嫁ぐ。 中国大陸から日本に伝わった藍染の技術は、日本各地で行われていた。あやのの生まれた栗駒山麓の農村でも、栽培した麻を布に織り、藍で染めて衣料の自給を行っていた。明治から大正期にかけて、昔ながらの藍染めを行う家が文字村には20軒ほどあったが、近代化により、昭和20年代には千葉家を含めて2軒を残すのみとなっていた。
木下 又三郎(きのした またさぶろう、1889年11月13日… 木下 又三郎(きのした またさぶろう、1889年11月13日 - 1977年3月8日)は、日本の実業家。
塩入 松三郎(しおいり まつさぶろう、1889年11月12日… 塩入 松三郎(しおいり まつさぶろう、1889年11月12日 - 1962年10月1日)は、土壌学者。東京大学名誉教授。土壌学、肥料学の権威で、水田土壌、畑土壌化学、休閑期の土壌乾燥効果等の研究に於いて業績を残した。 長野県上水内郡水内村(現・長野市)の酒造業の家に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1911年(明治44年)第二高等学校二部乙類卒業、1914年(大正3年)東京帝国大学農芸科学科卒業。農商務省農事試験場に勤務。1922年(大正11年)に農芸化学部長となり、1926年(大正15年)から1年間イギリス、アメリカ、フランス、ドイツに留学。 1942年(昭和17年)「土壤及肥料の無機主成分の微量定量法に就て」により農学博士(東京帝国大学)。
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日… 原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は官僚、政治家。第12代神戸市長。工学博士、参議院議員。
徐 禹錫(ソ・ウソク、朝鮮語: 서우석、1889年11月12… 徐 禹錫(ソ・ウソク、朝鮮語: 서우석、1889年11月12日または12月6日 - 1966年)は、日本統治時代の朝鮮、満洲および大韓民国の実業家、教員、政治家。制憲韓国国会議員。 号は夢撨(モンチョ、몽초)。 全羅南道光州(現・光州広域市)または谷城出身。京畿工業伝習所応用化学科を経て、朴賛翊と共に西間島へ渡満し、私立敦校教員を務めた後、帰国し中央大学専門部法学部卒。抱川郡青城第七学校教員を務めた後、吉林省延吉府和龍県にイムソン学校を設立し、東興学校校長を務めた。以後講演家、朝鮮民立大学期成会光州地方部創立総会執行委員、新幹会光州支部会員、在満同胞擁護同盟準備委員、光州商民大会執行委員、湖南銀行本店嘱託、海南興産株式会社支配人、煉瓦製造工場経営者、韓国建国準備委員会光州府委員会委員・副委員長、韓国民主党光州支部総務、大韓独立促成国民会光州支部副委員長、光州国民協同組合理事長、南朝鮮過渡立法議員、制憲国会議員、国会法制司法委員・麗順事件調査収拾対策委員、弾劾裁判官正裁判官を歴任した。
原 菊太郎(はら きくたろう、1889年(明治22年)11月… 原 菊太郎(はら きくたろう、1889年(明治22年)11月10日 - 1972年(昭和47年)5月7日)は政治家。徳島県知事、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1889年、徳島市佐古普請町(現佐古一番町)に生まれる。旧制徳島中学校を経て盛岡高等農林学校中退、家業の木材商を営む。 1942年、徳島市会議員に当選後、1948年、徳島市長を経て、1955年、徳島県知事に就任する(三選、在任期間1955年 - 1965年)。1965年地方自治功労により勲二等瑞宝章を受章した。 知事以外にも徳島県地方木材株式会社社長、徳島市商工会議所会頭、徳島県体育協会長、徳島県美術家協会長、徳島日独会長を歴任した。1972年に没する。
杤木 嘉郎(とちぎ よしお、1889年(明治22年)11月1… 杤木 嘉郎(とちぎ よしお、1889年(明治22年)11月10日 - 1969年(昭和44年)5月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。杤木汽船社長、貴族院勅選議員。「栃木」と表記される場合がある。 福岡県で実業家・杤木順作の長男として生まれる。1915年(大正4年)早稲田大学商科を卒業した。 1915年、杤木慎作商店に入社。同年、杤木商事を設立し取締役に就任。以後、杤木合名会社代表社員、杤木商事社長、杤木化学工業取締役、全国沿岸タンカー組合理事長、九州造船社長、船舶運営会評議員、船舶管理委員会専門委員、海事審議会専門委員、福岡県若松市会議員などを務めた。1945年(昭和20年)杤木商事が杤木汽船に名称を変更し引き続き社長に在任した。
前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月… 前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月9日 - 1945年(昭和20年)12月4日)は、日本の内務官僚。小倉市助役。九州帝国大学学生主事、講師。九州法学校設立者。福岡県出身。 福岡県企救郡足立村(現北九州市小倉北区)の素封家に生まれる。旧制豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1915年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格し、大阪市役所を経て台湾総督府に移り、1922年、台湾総督府財務局事務官で退官し、その後、長崎高等商業学校教授に就任した。 1926年から1929年まで小倉市助役を務めた。また時の市長・神崎慶次郎と共に陸軍造兵廠を誘致した。
横山 白虹(よこやま はっこう、1889年(明治22年)11… 横山 白虹(よこやま はっこう、1889年(明治22年)11月8日 - 1983年(昭和58年)11月18日)は、俳人、医師。本名は健夫(たけお)。 本籍地は山口県大津郡深川町(現・長門市)。
久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉… 久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉11月7日 - 1963年〈昭和38年〉5月6日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号はじめ暮雨。のち傘雨。他に筆名千野菊次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。 浅草生まれ。耽美派(三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され、築地座を経て文学座創立に参加。新派、新劇、歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家 としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。
藤田 欽哉(ふじた きんや、1889年11月7日 - 197… 藤田 欽哉(ふじた きんや、1889年11月7日 - 1970年)は、日本のゴルフ場設計技術者。 霞ヶ関カンツリー倶楽部の設計を担当したことで知られ、日本におけるゴルフ場設計の「レジェンド」とも評される。 1889年(明治22年)、東京市駒込五丁目910番地、岩崎家の染井墓地内別邸にて豊川小太郎の次男として生まれる。この時, 母方の祖母の藤田家(初代六兵衛道真)を継ぐため7代目になるための約束を交わされる。[要出典]三菱銀行部長を務めた豊川良平の甥に当たる。六義園の邸内で育ったことが、広い土地の判断力を養ったとされる。 早稲田大学(当時は旧制専門学校)に進学し、1910年(明治43年)卒業。しかし、チフスに罹患して入院生活を送る。
稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日… 稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日 - 1978年5月7日)は、現在の千葉県市川市河原出身で濱風部屋、千田川(大阪相撲)に所属した力士。本名は雪吹 光之助(旧姓:及川)。身長173cm、体重94kg。東京相撲での最高位は東前頭14枚目(1916年5月場所)。 1911年2月に初土俵を踏み、1915年6月十両昇進。1916年5月に入幕したが1勝8敗1預の大負けだった。翌場所(1917年1月場所)は十両に落ち、2場所とも十両にあったが不振が続いた。場所後の巡業では出羽海部屋一行に加わったが、同年12月巡業先の埼玉県大宮で酒の席で暴行事件を起こした。一行の組長の入間川(元小結両國のち6代出羽海)は稲葉嶽をその場で破門を宣言した。
三神 吾朗(みかみ ごろう、1889年〈明治22年〉11月6… 三神 吾朗(みかみ ごろう、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1958年〈昭和33年〉6月24日)は、日本のプロ野球選手。日本にまだプロ野球が存在していない時代に、アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした。守備位置は外野手、遊撃手、投手、一塁手。 アマチュアテニス選手で、早稲田大学の「三神記念コート」にその名前を残す三神八四郎は兄。姪に医学者の三神美和、甥に英文学者の三神勲(美和の弟)、妻の美代子の父は石黒五十二[要出典] 山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身。豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に、11人兄弟の五男として生まれる。
大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治2… 大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1981年〈昭和56年〉6月1日)は、日本の武道家、弁護士。 熊本市生まれ。大野家は熊本藩藩主細川氏の家臣であった。熊雄は幼時より熊本藩伝の新陰流剣術、伯耆流居合術を修行し免許皆伝を授かる。熊本県中学済々黌、京都帝国大学経済学部、法学部を卒業。 東亜同文書院教授、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学学生主事を歴任。大日本武徳会で武道の修練、大映京都撮影所で剣戟映画指導も行った。著書に『剣士内藤高治』、『剣士一代』、『日本名刀伝』がある。 1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬したが落選した。
笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月… 笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。ロシア通の参謀として知られていた。
米倉 久子(よねくら ひさこ、1889年〈明治22年〉11月… 米倉 久子(よねくら ひさこ、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1938年〈昭和13年〉2月9日)は、日本の歌人。夫は同じく歌人の小田観螢。結婚後の本名は小田 久子。病気療養の身で、夫の手厚い看病を受けて、互いに心を通わせたことで、「現代の比翼歌人」と賞された。 山梨県東八代郡米倉村(現・笛吹市)で誕生した。1904年(明治37年)、17歳のときに作家を志した。1915年(大正4年)に短歌雑誌「潮音」の創刊に参画し、創刊と共に幹部同人として活躍した。 1918年(大正7年)、小田観螢と結婚した。夫の教員としての任地である北海道に移住し、二児をもうけた。しかし生来より病弱の身であり、先妻の子の養育、自身の出産、北海道の厳しい気候で体を患ったことで、1926年(大正15年)、子供を観螢のもとに残して山梨に帰り、療養生活を送った。
長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)… 長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第41連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸大専攻学生となった。1931年(昭和6年)11月、歩兵学校教官に就任、関東軍司令部付、第19師団参謀などを歴任し、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵学校教官となった。
福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1… 福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1946年10月11日)は、日本の詩人。
雨宮 育作(あめみや/あまみや いくさく、1889年(明治2… 雨宮 育作(あめみや/あまみや いくさく、1889年(明治22年)11月5日 - 1984年(昭和59年)2月14日)は、日本の水産学者である。妻は「つ祢よ」。長兄は山梨英和女学校(現山梨英和学院)校長・理事長を務め,日下部村長・日下部町長にもなった雨宮敬作。次兄は海軍兵学校第 33 期で,戦艦霧島・戦艦日向の砲術長等を務め,海軍大佐を務めた雨宮厚作。敬作の上に,長女「くま」,三女「と美」,四女 「まさじ」がいる。 山梨県東山梨郡日下部村(現山梨市)に,日下部村会議員を務めた父「景通」と母「じつ」の四男として生まれる。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)に入学し、1914年(大正3年)に卒業。
柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月… 柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月3日 - 1953年(昭和28年)5月29日)は、日本の外交官、詩人。 旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。 その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二。
高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11… 高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11月3日 - 昭和54年(1979年)8月26日)は、内務官僚、実業家、ジャーナリスト。香川県知事。 愛媛県西条市出身。高橋岩吉の長男として生まれる。明治40年(1907年)3月、北予中学(現松山北高校)卒業。明治42年(1909年)11月、警視庁巡査となる。 1909年12月、神田警察署勤務となり、深川警察署、三ノ橋警察署、本所相生警察署、早稲田警察署で勤務。大正4年(1915年)2月、警察官練習所を卒業。同年3月、内務省に転じ、内務属として警保局保安課に配属され、さらに同局図書課に異動。同年10月、文官高等試験行政科試験に首席で合格。
11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、… 11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、1889年〈明治22年〉11月3日 - 1966年〈昭和41年〉4月27日)は、日本の実業家、資産家、福井県多額納税者。右近商事社長。日本火災海上保険の会長。 福井県・右近権左衛門の長男。1914年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。1917年、家督を相続し義太郎を改め襲名した。海運業を営み会社重役である。 趣味は洋画、園芸。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市、大阪市西区西長堀北通5丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11… 井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11月3日 - 1971年(昭和46年)5月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山市名誉市民 、不二越創業者。 長崎県南高来郡北有馬村今福(北有馬町を経て現南島原市)で、農業・井村庄太郎、きく の五男一女の末子として生まれる。有馬高等小学校を卒業し、1907年(明治40年)医師を目指して長崎の行余学舎に入学したが、実家の家計が傾き学舎を中退。長崎に残り、新聞配達、新聞記者見習いなどに従事。1913年(大正2年)11月、台湾に渡り台中の帝国製糖に入社。倉庫係、農場係、鉄道建設係で勤務。 1919年(大正8年)中越水電に招かれ支配人に就任。
福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11… 福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11月1日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第122位、卒業成績順位は149名中第50位。 福田は海軍大学校甲種課程修了後も艦船乗組ばかりで、本省勤務や在外公館駐在勤務の類が全く無く、特に目立った経歴は見出せない。海軍中佐に任官した頃から中国方面の勤務が多くなる。昭和14年に海南島根拠地隊司令官に就任した際に、同島の治安状態が極めて悪く、高級士官が狙い撃ちされ作戦遂行への懸念から、周囲が猛反対する中で指揮官先頭の精神を自ら発揮して渡名喜守定参謀長と共に匪賊討伐に当る。
西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月… 西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月 - 1971年(昭和46年)2月)は、日本の医師。倫理哲学者西晋一郎の弟。 鳥取県鳥取市出身。士族西昇蔵の二男。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、副手となって母校で研修し、その傍ら駒込病院に3年間勤務した。 1918年(大正7年)5月、新潟県吉田病院長として赴任した。 1926年(大正15年)5月、京都府綾部町の郡是製糸の郡是病院長となり、1948年(昭和23年)まで勤務した。
金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月… 金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月31日 - 1983年(昭和58年)8月14日)は日本の実業家。東京光学機械元社長。山之内製薬(現:アステラス製薬)元顧問。宗教家金森通倫の二男。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
安達 幸雄(あだち ゆきお、1889年〈明治22年〉10月2… 安達 幸雄(あだち ゆきお、1889年〈明治22年〉10月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士。安達兄弟法律事務所長。東京相互利殖監査役。人事興信所法律顧問。 鳥取県東伯郡三朝村(現・三朝町)出身。安達幸男の長男。生家は豊かではなかったので父母に学資を仰ぐことを避け、16歳の頃、旅費10円を懐にして、単身上京する。以来職をもとめて学資を得、研学につとめ1908年に順天中学校の編入試験を受けてその4学年に入学し、同校を卒業後添田増男の法律事務所に仕えて苦学研鑚する。 1916年に日本大学法律科を卒業し、同年に判検事登用試験・弁護士試験に合格する。東京市牛込区下宮比町に独立して弁護士事務所を開業する。
依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月2… 依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1976年〈昭和51年〉10月22日)は、岩手県の政治家。初代江刺市(現在の奥州市)長(1期)を歴任。 江刺郡岩谷堂町(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の奥州市)の味噌醤油醸造業の家に生まれる。1921年〈大正10年〉岩谷堂町会議員となり、3期務めたほか、学務委員となった。1934年〈昭和9年〉岩谷堂町長に当選する。1938年〈昭和13年〉まで務めた後、1945年〈昭和20年〉に再任。翌年まで務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1954年〈昭和29年〉岩谷堂町長に復帰。当時、「昭和の大合併」による岩手県が進めていた町村合併計画を実現するにあたり、江刺郡内では各町村の利害が対立し、その意向が極度にそろわない状態だった。
河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10… 河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10月28日 - 1942年(昭和17年)10月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級 鹿児島県、現在の鹿児島市で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業卒業。1935年(昭和10年)12月に飛行第9連隊長に就任し、1936年(昭和11年)8月に陸軍航空兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)に陸軍士官学校分校幹事に転じ、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校幹事に就任。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し、8月1日に東京陸軍航空学校長に着任。1940年(昭和15年)12月に第4飛行団長に転じ、1942年(昭和17年)8月15日に南方航空輸送司令官(南方軍)に就任。
藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10… 藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1932年〈昭和7年〉1月29日)は、日本の小説家、劇作家、演劇評論家である。 石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現在の七尾市馬出町)に、藤澤庄三郎・古への次男として出生。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に勤め、印刷所が新聞取次を兼業していたことから新聞配達を担当していたが、右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。以降、生涯にわたり骨髄炎の後遺症に苦しめられた。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで、鋲屋、代書屋に勤めた。
函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、188… 函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、1889年10月28日 - 1959年4月12日。)は日本の競馬の騎手・調教師。北海道茅部郡森村(現在の茅部郡森町)出身。主戦を勤めていたワカタカに騎乗して、第1回東京優駿大競走(現・東京優駿〈日本ダービー〉)に優勝したことが知られている。 実家は宿屋を営んでおり、使役馬が2 - 3頭いた。孫作の父が「日本馬術の英雄」や「北海道の三士」のひとりとして知られた函館大経の弟子だった関係で16歳のとき、大経に弟子入りし翌年騎手デビューする。 21歳のころ大次の妻の姪(兄の娘)と結婚し、函館家へ養子として入った。代々函館家は養子で成り立っていた家系で大経の跡を継いで養子となったのは実弟の大次で、その跡を継いだのは大次の甥(次兄・藤八の息子)の大政であった。
金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月… 金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月25日 - 1969年(昭和44年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。神職百済忠敬の二男として生れ、金沢家に養子に入った。山口中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。1918年12月、海軍砲術学校高等科を卒業。「山城」分隊長、「樫」乗組、砲術学校教官などを経て、1923年10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。 その後、「比叡」副砲長、「浅間」砲術長、「多摩」砲術長、軍令部参謀を歴任し、1927年12月、海軍省副官兼海相秘書官となり岡田啓介大臣に仕えた。
新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - … 新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - 1967年9月8日)は日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。文献によっては新免 伊助とも。 古流柔術を経て講道館に学び鹿児島県や島根県を中心に後進の柔道指導を行ったほか、自身も戦前の全日本選士権等で活躍。アムステルダム五輪にはレスリングの日本代表として出場した。 福岡県福岡市出身。双水執流の家元である福岡市の隻流館で古流柔術を学び、中学生時代に17歳で上京して1907年5月付で講道館に入門。講道館の名物男で神田の錦城中学校(現・錦城学園高校)に通う徳三宝2段の推薦で1908年に同校の4年生に編入学し、1910年4月に2段位を取得した。
関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - … 関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - 1959年6月28日)は、大正・昭和期の日本の建築家。 初期においてはユーゲント・シュティール風の作品、後には京王閣、聖蹟記念館などドイツ表現主義の要素も取り入れたモダンな作品を設計している。不動貯金銀行との縁が深く、全国の支店を建設した(今も数件が残る)。函館支店(1918年)の建設を機にして函館とのゆかりが出来、2度の函館大火(1921年、1934年)では被害調査にあたり、復興建築も手掛けた。第2次世界大戦後は主に埼玉県内の学校建築を設計した。 埼玉県秩父市に生まれ、秩父の街道沿いで旅籠を営む母の実家で育つ。1904年、秩父大宮尋常高等小学校を卒業し、秩父郡立農学校(現埼玉県立秩父農工高等学校)に入学。
森 達三(もり たつぞう、1889年(明治22年)10月22… 森 達三(もり たつぞう、1889年(明治22年)10月22日 – 1966年(昭和41年)11月20日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。 愛媛県新居郡氷見村(現在の西条市)出身。1916年(大正5年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙で再選を果たした。 その他、中外壁紙株式会社取締役、東京調味株式会社社長を務めた。