小塚 光彦(こづか みつひこ、1916年(大正5年) - 2… 小塚 光彦(こづか みつひこ、1916年(大正5年) - 2011年(平成23年)7月26日)は、日本のフィギュアスケート選手。 「フィギュア王国」愛知県の基礎を築いた。長男はグルノーブルオリンピック男子フィギュアスケート代表の小塚嗣彦、孫はバンクーバーオリンピック男子フィギュアスケート代表、2011年世界選手権銀メダリストの小塚崇彦。 愛知県名古屋市生まれ。学業を終え満州に渡り、満州国協和会の保安部警務司のカメラマンとなる。撮影に訪れた新京の児玉公園(いまの勝利公園)で撮影モデルに頼んだ少女スケーターと出逢ったことがきっかけでフィギュアスケートを知り、自らもスケートを始める。その後、フィギュアスケート選手中村公正と知己となったことで練習に励み、満州では中村とともに優れた成績を収めるほどになった。
高城 俊男(たかじょう としお、1916年 - 1997年1… 高城 俊男(たかじょう としお、1916年 - 1997年10月31日)は、昭和時代後期から平成時代にかけて活動した日本の作詞家。俳号は渓水(けいすい)。 1916年(大正5年)、鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字小山田(現在の鹿児島市小山田町)で農家の長男として出生。鹿児島工業学校在学中に漫画家を志し、卒業後に上京して田河水泡から弟子入りを認められアシスタントとして活動したが、実家から呼び戻されたためデビューを断念し私立校の教員となった。 鹿児島へ帰郷したのち1950年(昭和25年)に公募展で入選してから作詞家として活動するようになり、1972年(昭和47年)には市が第27回太陽国体の開催を記念して懸賞公募した「鹿児島市民歌」で応募作が入選したのを始め公募や依頼で生涯に約140曲を作詞している。
高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月1… 高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。ポジションは投手。
繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8… 繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8日)は、大分県出身のプロ野球選手。ボジションは投手。
仲野 良俊(なかの りょうしゅん、1916年 - 1988年… 仲野 良俊(なかの りょうしゅん、1916年 - 1988年1月6日)は、日本の浄土真宗僧侶・仏教学者。 京都府京都市生まれ。1939年大谷大学文学部卒業。 同大学講師、1942年ビルマで日本語学校の教師となる。1956年真宗大谷派教化研究所所員。1966年教学研究所副所長就任。北海道教学研究所所長、1981年教学研修所所長。京都・真宗大谷派専念寺住職。
岸本 英八郎(きしもと えいはちろう、1916年 - 198… 岸本 英八郎(きしもと えいはちろう、1916年 - 1986年6月21日)は、日本の経営学者。 1941年神戸商科大学卒、1962年「技術革新と経営管理論の形成」で神戸大学経営学博士。神戸大学経済経営研究所勤務ののち、南山大学助教授、甲南大学助教授、教授を務め、1982年名誉教授となり、大阪学院大学教授を務めた。
佐藤 俊明(さとう しゅんみょう、1916年 - 1997年… 佐藤 俊明(さとう しゅんみょう、1916年 - 1997年6月2日)は、日本の僧侶、曹洞宗大教師。 山形県生まれ。1936年、山形県宝泉寺の住職となる。1939年、駒澤大学文学部仏教学科を卒業。1974年から1981年まで、曹洞宗大本山總持寺の出版部長、布教師会事務局長、副監院を歴任。1985年、千葉県龍光寺住職。1988年、曹洞宗大教師に補任され、布教活動に専念。1995年、龍光寺住職を引退。 著書に『禅のはなし』『続・禅のはなし』『禅語と教育』『禅のこころ』『こころ自由自在』『心のお経』『修証義に学ぶ』『禅語百話』『古教照心』『とらわれない心』『心にのこる禅の名話』など多数。 1997年6月2日逝去、享年80。
中世古 祥道(なかせこ しょうどう、1916年 - 2019… 中世古 祥道(なかせこ しょうどう、1916年 - 2019年1月1日[要出典])は、日本の歴史学者、曹洞宗の僧侶(三重県正泉寺14世住職のち東堂)。道元禅師・愛洲氏の研究で知られる。号は興国。 北海道に生まれる。1937年に大連第一中学校(旧制)を卒業後、駒澤大学仏教学部に入学。道憲寮にて衛藤即応博士に師事。1940年に卒業。 大学の舎監を辞して1941年より天津に赴任し、道元の研究を重ねる(「道元禅師の歩み」)。戦中・戦後の中、研究活動は幾度も中断。1948年、度会郡小川郷中学校の教諭となり、以降、1975年まで五ヶ所小学校・中学校で教鞭を取る。研究の方では1967年に小川弘貫博士の「唯識研究会」に参加したのを契機とし、1970年に『道元禅師伝ノート』を刊行。
和泉 克雄(いずみ かつお、1916年 - 2010年2月1… 和泉 克雄(いずみ かつお、1916年 - 2010年2月1日)は、日本の詩人、俳人、グッピー研究家。 東京府東京市深川区(現東京都江東区)本所柳島生まれ。本名・牛次。中央大学商業学校卒業、アテネ・フランセ中退。1950-1980年「和泉熱帯魚研究所」を経営、おもにグッピー、卵生メダカ・卵胎生メダカを研究・繁殖。日本グッピー協会会長を務めた。
浅野 英(あさの なぶさ、本名は「ハヤブサ」、1916年 -… 浅野 英(あさの なぶさ、本名は「ハヤブサ」、1916年 - 1997年(平成9年)9月1日)は、日本の都市計画家。日本都市計画学会名誉会員。日本都市計画学会の専務理事としても活躍した。 旧制第二高等学校出身。二高卒業後は東京帝国大学工学部土木工学科に進学し1935年(昭和10年)3月に卒業。都市計画行政の中軸を歩む。神奈川県都市計画課主任技師兼任で別官制の内務省都市計画神奈川地方委員会技師。神奈川県相模原土地区画整理事務所長を歴任。相模原の新興工業都市なる「ニュータウン」造りにかかわる。 戦後は戦災復興院に移籍し土地局工務課。建設省発足後は、1950年(昭和25年)6月から1951年5月の間、建設省計画局都市復興課長。
浅原 正基(あさはら せいき、1916年 - 1996年5月… 浅原 正基(あさはら せいき、1916年 - 1996年5月14日)は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員。シベリア抑留の際、「自発的」に兵士、下士官などの労農プロレタリア階級から発生したとされる民主運動のリーダー。 東京都出身。旧制山形高等学校を経て東京帝国大学文学部社会学科卒業。帝大在学中には木村三郎・山口正之らと日本共産党の地下活動に関わっている。その後応召を受け中国戦線で従軍、満洲で終戦を迎えてソ連軍捕虜となりシベリアに抑留された。 シベリアでは共産党史研究に従事する一方で、抑留者向けの新聞『日本しんぶん』(日本新聞とも)の編集委員を務め自身も諸戸文夫(もろと ふみお)の筆名でたびたび寄稿。
新井 信之(あらい のぶゆき、1916年(大正5年) - 1… 新井 信之(あらい のぶゆき、1916年(大正5年) - 1944年(昭和19年)5月4日)は、国文学者。栃木県生まれ。池田亀鑑、横山重に師事し、中古文学、特に『竹取物語』の本文研究の礎を築いた。 新井は昭和13年(1938年)、東京帝国大学文学部国文科在学時に、卒業論文として竹取物語の本文研究を行うことを決意する。池田亀鑑や反町茂雄の協力のもと調査・研究を行い、翌14年(1939年)に卒業論文「竹取物語の研究」を提出。その翌15年(1940年)に国文学者・横山重と知り合う。横山や同じく国文学者である太田武夫、実業家で蔵書家でもあった戸川浜男らの協力を得て、全国に散在する竹取物語の諸本を調査し、勤務の傍ら、昭和17年(1942年)秋から調査資料の整理、および新井が重要だと判断した七本の翻刻を開始した。
勝田 高司(しょうだ・たかし、1916年-2010年11月1… 勝田 高司(しょうだ・たかし、1916年-2010年11月16日)は日本の建築工学者、空気調和衛生工学者。東京大学名誉教授。東京都出身。 1940 (昭15) 年東京帝国大学工学建築学科卒業。1942 (昭17)年、東京帝国大学工学部講師に就任、勝田研発足。1943年7月に東京帝国大学第二工学部(千葉市弥生町)助教授に就任。 1949年5月東京大学生産技術研究所へ移行。 1950 (昭25)年度 「自然換気に関する実験的研究」にて日本建築学会賞(論文)。1952 (昭27)年工学博士授与。 1961年4月、教授に就任。 1963 (昭38)年日本建築学会理事 (~64年)。1968 (昭43)年環境工学委員会委員長(~70年)。
中村 治兵衛(なかむら じへえ、1916年 - 1991年9… 中村 治兵衛(なかむら じへえ、1916年 - 1991年9月26日)は、日本の歴史学者。 大阪生まれ。1938年東京帝国大学文学部東洋史学科卒業, 1939~46年東亜研究所, 1947~52年農林省農業総合研究所, 1954年九州大学教養部教授。1974年中央大学文学部教授。1987年退職。
黒岩 大助(くろいわ だいすけ、1916年 - 1983年1… 黒岩 大助(くろいわ だいすけ、1916年 - 1983年10月28日)は、日本の気象学者。電子顕微鏡研究から気象学に転じた経歴を持つ。 高知県に生まれる。1940年に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業後、逓信省電気試験所(現・産業技術総合研究所)に入所し、電子顕微鏡の研究に従事する。1942年に電子顕微鏡の一般向け解説書である『電子顕微鏡』を刊行した。日本電子の設立者である風戸健二は、本書を読んで電子顕微鏡研究を志したという。 1943年、電子顕微鏡を雪の結晶や霧の核の研究に活用する目的で中谷宇吉郎に招かれ、北海道帝国大学低温科学研究所の助手に就任。根室・千島地方で採取した霧粒子の核を電子顕微鏡(日立製作所製)で撮影することに世界で初めて成功する。
鬼頭 イツ子(きとう いつこ、1916年? - 1970年1… 鬼頭 イツ子(きとう いつこ、1916年? - 1970年12月19日)は英文学者。鶴見女子大学教授。 1960年代前半に、文化放送(JOQR) をキー局とするラジオ番組「百万人の英語」(提供:旺文社)で、講師を務めた。 顔写真は『百万人の英語』または改題後の『English Age』(ともに旺文社発行)で見られる。 1970年12月19日、54歳で死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
及川 完(おいかわ まさる/かん、1916年 – 1947年… 及川 完(おいかわ まさる/かん、1916年 – 1947年4月10日)は日本の歴史学者。専門は日本経済史。東京商科大学助教授、東亜経済研究所員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(現:奥州市)出身。岩手県立盛岡中学校を卒業後、1930年、東京商科大学大学予科に入学。1933年に卒業し、大学学部に入学する。同期入学に大平正芳がいた。村松恒一郎のゼミで学び、1936年3月に学士試験合格。1937年から1939年まで京城高等商業学校助教授 。その後、日本工業倶楽部調査室勤務を経て、1941年に東京商科大学助手に任命される。同大学では、日本経済史担当の後継者として、川上多助の指導を受けていたが、1943年に応召。
脇坂 貞夫(わきざか さだお、1916年 - 1945年4月… 脇坂 貞夫(わきざか さだお、1916年 - 1945年4月19日)は、日本のフィールドホッケー選手。 滋賀県出身。東京商科大学(現在の一橋大学)在学中、1936年ベルリンオリンピックでホッケー競技に出場した。ポジションは右ウイング。 1939年に大学を卒業すると、満洲中央銀行に入行。まもなく日本帝国陸軍に召集され、第16師団(京都)に配属。 1944年4月、フィリピンのサマール島ネニタ (ceb:Nenita (lungsod sa Pilipinas)) 付近で死去(当時、歩兵第9連隊所属の陸軍大尉)。脇坂は病死であったとみられ、戦後に各種組織で行われた「戦没オリンピアン」の調査では、「戦没」の定義(あるいは「戦死」「戦病死」「病死」の定義)をめぐって、脇坂の名が挙げられている場合と挙げられていない場合がある。
岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11… 岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11月14日)は、日本の実業家、教育者。頌栄女子学院元理事長・校長、ウィンチェスター頌栄カレッジ創設者、三協日野ルノー代表取締役社長。 1916年(大正5年)、岡見敬一の長男として生まれる。祖父は頌栄女子学院創設者の岡見清致。(祖父清致の叔父は、慶應義塾の基礎を造った岡見清熙。) 1939年(昭和14年)、立教大学経済学部卒業。在学中は、スキー部に所属し、1937年(昭和12年)の創部にも携わった。 大学卒業後、三井物産勤務を経て、三協日野ルノー代表取締役社長を務めた。 1962年(昭和37年)、頌栄高等女学校の理事長に就任。 1964年(昭和39年)、校名を現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」に改称し、キリスト教学校教育同盟にも加盟。
高安 朝正(たかやす ちょうせい、大正5年(1916年)-昭… 高安 朝正(たかやす ちょうせい、大正5年(1916年)-昭和21年(1946年))は、琉球王国第二尚氏王統の分家士族である高安殿内の十四世。第二尚氏王朝 17代国王 尚灝の玄孫。筆頭格御殿あった伊江御殿十四世 伊江朝助(男爵)とは再従兄弟にあたる。早稲田大学の文学部を卒業後、朝日新聞社の記者として活躍するが、30歳の若さで早世した。妻の俊子は高嶺御殿十一世高嶺朝教の孫であり、神山政良、尚八重子(19代国王であった尚泰の王女)の姪にあたる。 1916年、首里市当蔵にて生まれる。後の妻 俊子とは当蔵にて幼馴染であった。 早稲田大学の文学部に在学の際には、東京都中野区上ノ原町にて、伊江朝忠、伊江朝顕、徳田安周らと下宿をしていた。
井黒 四郎(いぐろ しろう、1916年(大正5年) – 19… 井黒 四郎(いぐろ しろう、1916年(大正5年) – 1985年(昭和60年)4月24日)は、日本の洋画家。元一水会、一陽会会員。 現在の富山県滑川市に生まれる。1936年(昭和11年)第13回白日展で入選。1940年(昭和15年)第10回独立展で入選、同年佐藤洋らと北越美術協会設立。1948年(昭和23年)に棟方志功、佐藤洋、手塚義三郎らと北潮会結成。1949年(昭和24年)在野系の作家集団として佐藤洋、前田常作、玉井忠一らと一軌会結成。1967年(昭和42年)2月、富山青木画廊で「郷土作家二人展シリーズ(2)井黒四郎・大島修三展」を開催した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
大野木 浜市(おおのぎ はまいち、1916年 - 2004年… 大野木 浜市(おおのぎ はまいち、1916年 - 2004年7月5日)は、日本の元アマチュア野球選手。高校野球にて活躍した。静岡県出身。ポジションは外野手(主に右翼手)。 1916年に浜松市にて生まれた。1929年に尋常小学校卒業後、当時少年野球の強豪校と知られていた、浜松高等尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)へ進み、1930年、高等尋常小2年の時には、戸塚球場で開かれた第11回全国少年野球優勝大会で優勝投手となった。元城小時代のチームメイトに、大友一明(元プロ野球選手。大東京軍、ゴールドスター等でプレー。)がいた。 1931年、中京商業学校に入学。甲子園には5回出場(春4回〈1932年~1935年〉。
土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年1… 土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年12月13日)は、日本の陸軍軍人、スパイ、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ビルマ作戦に従事。 1916年、宮崎県都城市出身。陸士49期。1937年、歩兵第四十五聯隊第一中隊所属、小隊長見習士官。日中戦争に少尉として従軍、正定城攻略戦では日本刀を手に白兵戦を敢行する。機関銃や迫撃砲攻撃の最中、手榴弾を投げる敵に太刀をふるった(証言者の福田清造伍長も銃剣で二人倒す程であった)。固安城の攻撃では第九十一師五百四十五団の敵歩兵2,200人を相手に突撃した。
田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 200… 田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 2008年〈平成20年〉3月10日)は、日本陸軍航空隊の戦闘機操縦者(パイロット)。「日本革命菊旗同志会」幹部。晩年に日本文化チャンネル桜設立発起人、設立後顧問。「誇りある日本をつくる会」初代会長。 飛行教官として特攻要員を育成、多くの未来ある若者を死地に送り出した経験から、戦後は一貫して特攻戦死者に対する正しい理解を広めるため活動した。 特攻隊員たちの遺した「あとを頼みます、日本を良い国にして下さい」という言葉に従い、「誇りある日本をつくる会」を設立、また歴史小説の第一人者である山岡荘八の指導を受け、特攻にまつわる著作を刊行した。その際、自身も多くの特攻を見送った経験のある山岡から「特攻は崇高すぎて、私には書けない、君が一生かかっても書くべきだ」と言われた。
伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月… 伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月31日 - 没年不明)は、日本の実業家。高岳製作所元取締役。三井銀行(現・三井住友銀行)元常任監査役。東京光学機械(現・トプコン)元監査役。 埼玉県大里郡寄居町の吉田正治の次男として生まれた。早くに父を亡くし、義兄の医師・幾瀬量(娘は幾瀬マサ)の世話になる。幾瀬の先輩の伊藤新作(日本煉瓦製造営業部長)を紹介され懇意になり、望まれて伊藤の末期養子及びその妻伊藤乃ふの養子となる。 旧制熊谷中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部を卒業。大学卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。同行にて監査役・常任監査役を歴任。
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日… 堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。 それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、当地を舞台にした作品を多く残し、晩年には終の住処とした。 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。
足鹿 覚(足鹿 覺、あしか かく、1904年(明治37年)1… 足鹿 覚(足鹿 覺、あしか かく、1904年(明治37年)12月28日 – 1988年(昭和63年)5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。全日本農民組合連合会長。 生家は半農半漁で家計は苦しく、そうした環境が彼に労働者としての自覚を促した。 東京帝国大学セツルメント労働学校を終えた後、帰郷して農民運動をする。1926年(大正15年)労働農民党の創立に参加し、労働組合運動にも参加。 1931年(昭和6年)米子市会議員、1935年(昭和10年)鳥取県会議員を経て、戦後は日本社会党に入り、1949年(昭和24年)から衆議院議員に7期当選。1968年(昭和43年)から参議院議員1期。農政を中心とする思想・見識は国民の共感を得た。
清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1… 清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1999年1月16日)は、日本の社会学者。 愛知県渥美郡田原町出身。本籍・広島県。1931年九州帝国大学法文学部哲学科卒。九大助手を経て満鉄調査部に勤務し、「支那社会の研究」を発表。京都帝国大学人文科学研究所助教授、1949年京都大学人文科学研究所教授、58年「支那家族の構造」で京都大学文学博士。68年定年退官、名誉教授、関西大学教授、1974年松山商科大学教授、1977年駒澤大学教授。中国の社会関係の研究を行った。
松岡 松平(まつおか まつへい、1904年(明治37年)12… 松岡 松平(まつおか まつへい、1904年(明治37年)12月25日 - 1975年(昭和50年)3月1日)は、日本の弁護士。政治家。衆議院議員(3期)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 富山県出身。1924年中央大学法律科を卒業し、弁護士となる。戦後、公職追放となり、追放中の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で富山1区から立候補して当選し、翌1953年の総選挙で落選した。1955年の総選挙で再選したが、1958年の総選挙で落選してから、5回連続落選した。1972年の総選挙で14年ぶりに国政に復帰。国会内では商工委員長を務めた。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12… 舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎。日本芸術院会員。文化功労者。 大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。 戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。
竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12… 竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12月21日 - 2001年(平成13年)2月4日)は、北海道出身の詩人、小説家、霊能者。本名、竹内照代。 銀行員と芸者との間に札幌市で生まれるが、生後すぐに釧路の父方の祖父母に引き取られる。日本高等女学校を肺結核療養のため中退。婦人記者となった後に20歳で結婚し、一子をもうけるが、脊椎カリエスに罹患して1928年に離婚。以後、詩作を続け、1930年に第一詩集『叛く』を刊行した。2001年2月4日、老衰のため死去。 2002年9月29日、スイスのバーゼルで開催された 「国際児童図書評議会」 (IBBY) 創立50周年記念大会で、日本の美智子皇后がスピーチの中で代表作「頬」を引用したことから、改めて注目されるようになった。
正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月2… 正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月20日 - 1958年(昭和33年)12月7日)は、日本の作家、落語・寄席研究家。歌舞伎役者の6代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた。前名は平井 蓉(ひらい いるる)。芥川龍之介に褒められ、永井荷風を激怒させ、安藤鶴夫を妬み、稲垣足穂、金子光晴を友とした大衆芸能研究者。 詩人の平井功(1907〜32)は実弟。翻訳家の平井イサクはその子で、正岡にとっては甥にあたる。 東京市神田区生まれ[要出典]、医師平井成の長男。3歳の時、浅草花川戸に住む母方の大叔父・正岡藤蔵家にあずけられると乳母の手で育てられ、1910年(明治43年)12月27日、正岡家の養子に入る。
藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
矢田 一男(やだ かずお、1904年12月19日 - 196… 矢田 一男(やだ かずお、1904年12月19日 - 1966年4月23日)は、日本の法制史学者。新潟県佐渡郡金井町出身。 1921年高輪中学校卒。1924年中央大学法学部予科卒。1927年同法学部卒。中央大学附属図書館職員をしながら、東京帝国大学法科大学助手となり春木一郎にローマ法の薫陶を受けた。1934年中央大学専門部法学科専任講師。1941年同法学部専任講師。1946年同法学部教授。同通信教育部長を経て、1962年「ローマ刑事法の研究」にて中央大学で法学博士受く。1966年中央大学在職中に肝臓がんで逝去。同名誉教授。 門下生に眞田芳憲らがいる。中央大学で急逝した矢田担当する西洋法制史の後任も奇しくも同郷の眞田芳憲が担当した。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - … 小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - 1977年10月26日)は、日本の生物学者。理学博士(1935年)。信州大学教授などを歴任。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1928年京都帝国大学農学部農林生物学科卒業。翌年、母校講師。理学博士(1935年)。 1930年台北帝国大学助教授、1944年熱帯医学研究所所長、1949年岐阜師範学校(学制改革により岐阜大学教育学部)教授、1958年信州大学教授、1960年同繊維学部長などを歴任し、1969年定年退官。 日本生態学会環境問題専門委員会委員長、長野県水質審議会委員、日本学術会議自然保護研究連絡委員会委員なども務める。
龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 198… 龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 1983年10月15日)は、日本の俳優、演出家、俳人、文学座代表取締役社長であった。別表記に竜岡 晋。本名は岩岡 龍治(いわおか たつじ、別表記に岩岡 竜治)。元日本新劇製作者協会会長。 1904年東京・日本橋生まれ、中央商業学校卒業。 1932年に劇団築地座に入団。『カールトアンナ』の兵士役が初舞台。1934年6月、築地座を脱退し劇団創作座の創設に参加。1937年、文学座の創設に参加し、1950年に文学座が株式会社化した際に社長となり、劇団の経営も行った。また、久保田万太郎作品を発掘して『蛍』『雨空』などの久保田の戯曲を演出したり、1978年に演劇集団「円」を中心とした久保田万太郎勉強会を結成するなど久保田作品の継承も行った。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
小笠 公韶(おがさ こうしょう、1904年12月16日 - … 小笠 公韶(おがさ こうしょう、1904年12月16日 - 1985年9月13日)は、参議院議員(1期)。衆議院議員(5期)。岸派。
田中 尭平(堯平、たなか ぎょうへい、1904年(明治37年… 田中 尭平(堯平、たなか ぎょうへい、1904年(明治37年)12月15日 – 1963年(昭和38年)11月2日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 山口県豊浦郡、のちの豊田町(現下関市豊浦町)で生まれる。豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、山口高等学校を卒業。山高在学中から社会主義の研究を始め、東京帝国大学に進学してから実際の活動に加わった。1932年(昭和7年)東京帝大法学部政治学科を卒業。山口市で弁護士を開業した。 1945年(昭和20年)日本共産党に入党し、労働組合の法律顧問を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から共産党公認で出馬して落選。
杉野 嘉男(すぎの よしお、1904年12月12日 - 19… 杉野 嘉男(すぎの よしお、1904年12月12日 - 1998年6月13日)は、日本の武術家、武道家。映画の振付師でもあった。古武道の一派、天真正伝香取神道流の免許皆伝者。神奈川県川崎市にある「唯心館 杉野道場」の創立者、およびその初代師範。 1904年12月12日(明治37年)、千葉県山武郡成東町に杉野由太郎と杉野セキの長男として生まれる。 13歳から柔道を始め、1918年(大正7年)に入学した慶應義塾大学商工学部で飯塚国三郎の指導を受け、本格的に柔道に熱中する。17歳で初段を取り、本人の談では「四段になるまで一度も負けたことがなかった」とのことである。 1927年(昭和2年)22歳で講道館柔道修行所を神奈川県川崎市に開設した。
鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月1… 鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月11日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 民主党衆議院議員で農林水産大臣などを務めた鹿野道彦の父。 山形県出身。1931年(昭和6年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。京城化学支配人、関西ペイント東京支店長、東京特殊塗料監査役、関西ペイント取締役、徳山曹達(現トクヤマ)取締役、山形天然瓦斯取締役、蔵王高原観光開発取締役社長などを務めた。 1949年(昭和24年)の総選挙で山形1区から出馬し、初当選。以来通算5期務めた。第1次岸改造内閣経済企画政務次官、国土開発審議会委員、自由党総務、自民党国会対策副委員長、衆院公職選挙法改正に関する調査特別委員長等を務めた。
加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治… 加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治37年)12月8日 - 1976年(昭和51年)11月21日)は、日本の洋画家、華族。光風会会員。旧名・島津 久幹。 鹿児島県出身。重富島津家(薩摩島津氏の主要分家)の男爵・島津壮之助の二男として生まれる。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で大牟礼南島に、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科で藤島武二に師事。1928年に東京美術学校を卒業。加藤子爵家(元近江水口藩主家、加藤嘉明系)の加藤克明の婿養子となる。 1957年、光風会会員となる。橋口康雄(橋口五葉の甥)や山口長男の上杜会に加わったことや、猪熊弦一郎と三春会をつくったこともある。
坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 19… 坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 1975年9月2日)は、日本の映画監督、映画製作者。溝口健二の下でキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。 1904年(明治37年)12月7日、京都市上京区で縮緬織りの織元だった父・坂根清一と母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれる。母の生家佐久間家は丹後の旧家であったが、跡取りがいなかったため、田鶴子は2歳で佐久間家の当主として登録され、佐久間田鶴子となる。しかし、田鶴子は生涯父方の苗字「坂根」を使い続けた。 夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)へ進んだ。
尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 19… 尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 1986年1月19日)は日本の心理学者、東京教育大学教授。専門は聴覚心理、ろう教育。1963年11月に榊原清、西谷三四郎らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。聴覚障害児教育の分野に貢献した。勲三等旭日中綬章。 東京都生まれ。(旧制)東京高等学校を卒業。1931年東京帝国大学文学部心理学科を卒業、卒業論文の題名は「旋律的形態知覚の一条件」。同年、同大学大学院に進む。1932年東京帝国大学文学部副手を兼務。1937年(旧制)第六高等学校教授に就任。1942年陸軍予科士官学校教官兼教育総監部付に就任。1946年(旧制)松江高等学校教授に就任。
上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966… 上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966年12月26日)は、日本の指揮者・ファゴット奏者。
曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不… 曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不詳)は愛媛県出身の民間飛行家。1925年、愛媛県下初の認可飛行場を開設し、後に南米ペルーへ移民として渡った。 1904年(明治37年)12月4日、愛媛県喜多郡宇和川村で生まれる。1922年(大正11年)には東京蒲田駅前にある日本自動車学校航空科へ入学し、機体及び発動機に関して学ぶと同年卒業。続いて同年12月に千葉市寒川海岸で飛行練習場を開いていた白戸栄之助の門下となり、練習部及び研究科で研鑚を積む。1923年(大正12年)9月、関東大震災の影響で同所が閉鎖となると、定丸は白戸により同県津田沼の伊藤音次郎に委託された。同年11月に三等飛行機操縦士の試験を受け、12月付けで航空局より免状を得る。
米山 恒治(よねやま つねはる、1904年(明治37年)12… 米山 恒治(よねやま つねはる、1904年(明治37年)12月3日 - 1966年(昭和41年)6月5日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県議会議長。 鹿児島県鹿児島郡伊敷村(現在の鹿児島市)で生まれる。13歳で父が死去して学校を中退。鹿児島県庁の給仕となり、苦学して1921年(大正10年)鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)商業本科を卒業した。 1940年(昭和15年)鹿児島県属に任官。1942年(昭和17年)地方事務官に任官。以後、鹿児島県経済部商工課長、同軍需商工課長を歴任。1944年(昭和19年)9月、岩切重雄鹿児島市長の要請をうけて鹿児島市助役となり1947年(昭和22年)3月まで在任した。
都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 197… 都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 1976年2月15日)は、日本の経営者。大分県宇佐市出身。 1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京ガスに入社。関東タール製品社長、東京コークス社長を経て、1954年2月に取締役に就任し、1967年11月に副社長を経て、1972年8月に社長に就任。日本経営者団体連盟常任理事も務めた。 1962年10月に藍綬褒章を受章。 1976年2月15日脳血栓のために死去。71歳没。墓所は多磨霊園。