松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 19… 綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 1927年10月27日)は、現在の青森県青森市出身で追手風部屋に所属した力士。本名は一戸 源逸。8代湊川。179cm、101kg。最高位は東関脇。 6代高砂の遺弟子。1900年5月序ノ口、1909年1月十両昇進、1910年1月新入幕。幕下時代に日露戦争に従軍し、金鵄勲章功六級と勲八等白色桐葉章を授与された。後に土俵入りで化粧廻しに勲章をつけて人気を博した。1911年2月に横綱梅ヶ谷と引き分け、1912年5月関脇昇進。1915年5月には新鋭栃木山を破っているが1916年1月引退し、8代湊川を襲名。湊川部屋を再興し、綾錦や楢錦を育てた。 二所ノ関部屋を率いた玉錦が若い頃に酒で暴れて立場を悪くした時、綾浪は親身になって玉錦を庇って救った。
須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4… 須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4日 - 1961年〈昭和36年〉12月21日)は、日本の哲学者、論理学者、心理学者。第一高等学校名誉教授。 新潟県中蒲原郡能登村(現 新潟市南区能登)出身。1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1905年(明治38年)7月に第三高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 1908年(明治41年)10月から1910年(明治43年)7月まで、浦和中学校に嘱託教師として勤務。1909年(明治42年)9月から1914年(大正3年)7月まで、東京帝国大学文科大学大学院で心理学を研究(「リズムノ生理心理的研究」)。
張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳… 張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道技術者。 山口県士族張至誠の長男として生まれる。1901年福岡県立中学修猷館を経て、1908年7月東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。 四日市製紙、富士製紙などに勤務した後、1912年鉄道院の技手となり、鉄道技師に進み、鉄道大臣官房研究所兼経理局第二課勤務を経て、1929年鉄道大臣官房研究所第一科長に就任。1935年5月退官する。
大八木 喬輔(おおやぎ きょうすけ、1881年7月 - 没年… 大八木 喬輔(おおやぎ きょうすけ、1881年7月 - 没年不詳)は、日本の陸軍法務官、弁護士。 福岡県遠賀郡底井野村(現・中間市)に生まれる。1900年福岡県中学修猷館、1904年7月第一高等学校独法科を経て、1907年7月京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 卒業後、直ちに志願兵として小倉歩兵第14連隊に入隊し三等主計に任官。1909年東京第1師団軍法会議法務官、次いで岡山第17師団軍法会議法務官、1912年台湾総督府軍法会議法務官、1916年青島守備軍軍法会議法務官兼青島守備軍法院裁判官、1920年小倉第12師団軍法会議法務官を歴任し、軍事法務上の一大権威と称されるが、1925年官を辞し、小倉市で弁護士を開業。
溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月2… 溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月27日 - 1919年(大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。大分市出身。 溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校(甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜の長剣を拝受する。 資性闊達にして明敏、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。
小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26… 小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士。書家。号は雨堂。1907年に弁護士登録してから約46年にわたり弁護士として活動した。 1881年(明治14年)6月26日、長野県南安曇郡温村楡(現在の安曇野市三郷温)に小穴善平とちよの二男として生まれた[要出典]。小穴家は、貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の末裔家である。 若くして、松本の弁護士界の重鎮であり親戚筋でもある森山儀文治の書生となる[要出典]。 1901年(明治34年)9月、森山儀文治の支援により上京して明治法律学校(明治大学の前身校の一つ)に入学する。1904年(明治37年)7月、明治大学法科(1903年3月専門学校令に基づき明治法律学校から名称変更)を卒業した。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月2… 後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月22日 - 1977年〈昭和52年〉7月9日)は、大正・昭和期に愛知県名古屋市を拠点に活動した実業家である。株式相場で財を成した後藤安太郎の長男で、日本車輌製造社長や中央製作所社長をはじめ多数の会社役員を務めた。 美術品収集家でもあり、死後の1978年(昭和53年)になって自邸跡に美術品を一般公開する「昭和美術館」が開館した。 1881年(明治14年)6月22日、岐阜県海津郡今尾町(現・海津市)出身。後藤安太郎の長男として生まれた。後藤は1904年(明治37年)7月に京都の第三高等学校を卒業し、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 -… 石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 - 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。 1881年、東京生まれ。1898年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を卒業。東京帝国大学を卒業。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授をつとめた後、高知高等学校校長、大阪高等学校校長、大阪理工科大学予科長。1953年からは相愛女子短期大学教授を務めた。 1903年(明治36年)、東京音楽学校での日本人最初のオペラ(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」)の訳詞を、乙骨三郎、近藤朔風などと共に担当し、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ、ノエル・ペリの指揮、実業家の渡部朔(出演者の一人、渡部康三の兄)の資金援助による上演の成功に尽力した。
中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1… 中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1945年10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。
川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月… 川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月10日 - 1944年(昭和19年)7月28日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県西蒲原郡吉田村(現在の燕市)出身。1909年(明治42年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、中国に留学した。『北越新報』記者、同社主筆を経て、新潟中央新聞社社長となった。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6… 小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6月9日 - 1962年(昭和37年)7月15日)は、日本の彫刻家。香川県出身。 香川県立工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を1907年(明治40年)に卒業。 1908年(明治41年)に「指導」で文展初入選。 1913年(大正2年)に大正博覧会に「霹靂」を出品し、二等銀牌を獲得。以後、官展で次々入賞し、1916年(大正5年)の第10回文展で「闇路の人々」が特選となった。 1920年(大正9年)に渡仏。フランスにおける近代彫刻の巨匠ロダンに師事し、1921年(大正10年)に日本に帰国。その後は滝野川彫刻研究所を創立し、後進を指導した。
楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9… 楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9日 - 1967年〈昭和42年〉2月25日)は、日本の僧侶、政治家。衆議院議員(1期)。龍谷大学教授。 岐阜県大野郡、のちの揖斐郡大野村(現大野町)出身。1907年、東京帝国大学史学科卒。京都帝国大学大学院に進み、西蔵史を研究する。龍谷大学教授兼図書館長、山東省済南高等師範学校教授、台北高等女学校教諭兼台北高等商業学校教授、台南第二、第一の各高等女学校校長を経て、台湾総督府在外研究員として欧米各国に留学する。帰国後、台北高等学校、台北高等商業学校各教授、台北第一中学校校長を歴任する。仏教更新社を創立、社主となり、月刊紙「更新」を発行した。
武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 19… 武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 1942年6月27日)は、日本の経済学者・歴史家(経済史・経済学史専攻)。長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の旧制前身校)の教授を長く務めた。従三位・勲三等。 1881年、愛知県海部郡津島町(現・津島市)に武藤長八の二男として生まれた。東京高商専攻部(のちの旧制東京商科大学、一橋大学の前身)貿易科に進学して、1905年7月に卒業。 卒業後は東亜同文書院講師に就いた。1907年より長崎高等商業学校教授。1909年から 1912年まで、商学研究のためにアメリカ・イギリス・ドイツに3年間留学。この間、小泉信三などと交流をもった。1936年、長崎高等商業学校を退官し、名誉教授となった。
藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 196… 藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 1964年8月27日)は、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)出身の工芸家・図案家。 1881年(明治14年)6月6日、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)に生まれた。父親は忠三郎、母親はかぎ。兄が2人、姉が1人、妹が2人いる。母親のかぎは西加茂郡挙母村(現・豊田市)出身である。 藤井は幼少の頃から手先が器用であり、「針吉」や「凧吉」などとも呼ばれていた。 1888年(明治21年)に棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)に入学し、さらには医師の杉村修平の塾で学んだ。11歳だった1892年(明治25年)に棚尾小学校を卒業し、知多郡大野町(現・常滑市)の木綿問屋である尾白株式会社(尾白商会)に奉公に入った。
草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 … 草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 - 1972年(昭和47年)5月12日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者。 長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)。
渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - … 渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - 没年不明)は、大正期から昭和初期の銀行家。武州銀行東京支店支配人を務めた。父は元老院議官や貴族院議員を務めた渡正元。 貴族院議員・錦鶏間祗候を務めた渡正元の次男として生まれる。早稲田大学を卒業後、1906年に日本銀行へ入行し、1921年に武州銀行東京支店の支配人となる。 弟の渡正監(上海共同租界警視総監)を養子に迎えた。
安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6… 安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6月 - 1931年(昭和6年)9月29日)は、朝鮮総督府官僚。従四位勲五等。 佐賀県出身。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。埼玉県警部、同秩父郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、黄海道警察部長、平安南道警察部長、平安北道警察部長、京畿道警察部長、鉄道局参事、忠清南道内務部長、全羅北道内務部長、京城府尹、咸鏡北道知事を歴任した。 1931年(昭和6年)9月29日、病気のため死去、50歳。死没日をもって正五位から従四位に叙される。
中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月… 中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月 - 1945年(昭和20年))は、日本の鉱物学者。 神奈川県中郡旭村(現在の平塚市)出身。出縄善太郎の二男として生まれ、中川隣之助の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、農商務省東京鉱務署に勤務した。1908年(明治41年)、ドイツに留学。1910年(明治43年)、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)教授嘱託となり、1921年(大正10年)に同校が文部省に移管されると教授に就任した。採鉱冶金科長を経て、1933年(昭和8年)からは校長を務めた。1941年(昭和16年)、退官。 その他、九州帝国大学講師、戸畑商工会議所顧問、海外鉱業協会仏印研究所長を務めた。
橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月… 橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月7日)は、日本の漢文学者。旧制第七高等学校教授。 1981年6月、東京府生まれ。士族・橋本自聽(よりさと)の二男。父自聽は鹿児島県の谷山小学校校長に招聘された人物。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館第一部文科を卒業(第1回卒業生)。第七高等学校での同級生に東郷茂徳外務大臣や池田俊彦第二鹿児島中学(旧制)校長らがいる。1909年、東京帝国大学文科大学支那文学科卒業。長崎県立島原中学校 (旧制)、福岡県立東筑中学校 (旧制)、福井県立大野中学校 (旧制)各教諭を務めた後、1922年から第七高等学校造士館の漢文学教授。卒業生から初の母校教授となる。
岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月… 岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。 1881年岩倉具視の四男として生まれる。1896年分家して、同年12月3日、父の勲功により男爵を叙爵。学習院を経て、東京帝国大学文科大学修了。1909年欧米視察。1911年7月10日、貴族院議員となる。福徳生命保険、大成漁業各取締役、十五銀行監査役。1932年以降米穀対策調査会、石油業委員会、液体燃料委員会、帝国石油、台湾拓殖、樺太開発その他各設立委員、川崎造船所、千代田火災保険各取締役を務め、翼賛政治会常任総務を歴任した。 戦後の1946年5月8日に貴族院男爵議員を辞職し、その後公職追放となり、間もなく死去した。
山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月… 山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月29日 - 1950年(昭和25年)1月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・平沢。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)で平沢家に生まれる。1903年6月、東京高等商業学校を卒業。外交官を目指したが、同年8月、北海道松前郡福山町の富豪、3代山本久右衛門の養子となる。1906年、一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計まで昇進して除隊。その後、養父が小樽区に移りその事業を補佐。小樽区会議員、小樽市会議員、小樽商工会議所顧問、小樽倉庫社長、小樽商船社長、北日本汽船取締役、北海道製綿取締役、大正製麻取締役、小樽新聞取締役、北海道練乳監査役、定山渓鉄道監査役、松前造林 (資) 社長などを歴任。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日… 宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日 - 1946年(昭和21年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。大蔵官僚。 千葉県印旛郡、のちの白井村(白井町を経て現白井市)出身。宇賀平兵衛の四男として生まれた。1904年(明治37年)第一高等学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省専売局で主事、副参事、参事、事業部塩脳課長を歴任した。1924年(大正13年)、台湾総督府専売局長に転じ、1928年(昭和3年)に退官した。1931年(昭和6年)には台北州知事に起用された。その後、台湾電力株式会社理事に就任した。
石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20… 石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20日 - 1942年(昭和17年)5月17日)は、日本の牧師、大正デモクラシーを代表する言論雑誌『第三帝国』の編集者。宗教家としても活躍した。望天と号す。 秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。
北田 正平(きただ まさひら、1881年(明治14年)5月2… 北田 正平(きただ まさひら、1881年(明治14年)5月20日 - 1939年(昭和14年)2月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(千葉県第三区選出、当選1回)。 東京府の弁護士北田正董の三男として生まれる。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業し、南満州鉄道株式会社に入社した。長春駅長などを務めた後、山東鉄道に聘せられ、運輸部長をつとめたが、1917年(大正6年)に辞した。 その後、満州で東亜貿易公司主となり、北満及び南満地方貿易業を創めた。また鉱山業に従事した。1927年(昭和2年)に弁護士登録をした。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に千葉3区から出馬し、当選した。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(立憲政友会)、佐賀県砥川村長。 佐賀県小城郡砥川村柳鶴(現在の江北町)出身。大地主・石川源蔵の三男として生まれる。砥川小学校、佐賀県立佐賀中学校を卒業。1900年(明治33年)、陸軍士官学校に入学し、1901年(明治34年)11月22日に卒業(13期)し、1902年(明治35年)6日23日に砲兵少尉に任じられた。日露戦争に従軍し、砲兵中尉に昇進。1906年(明治39年)陸軍砲工学校に入学し、1908年(明治41年)に同校高等科を卒業して砲兵大尉に任ぜられた。
南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 194… 南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 1943年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府出身。1907年、関西商工学校(現・関西大倉中学校・高等学校)土木科卒。大阪府土木工手、大阪府、東京市、京都市の各土木技手となる。のちに南工務所を開き、土木請負業に従事する。大阪府会議員、同参事会員、借地借家、金銭債務臨時各調停委員を務める。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において大阪10区(小選挙区制)から立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙大阪6区(当時)から立候補して落選。1937年の第20回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選した。
乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月17日 - 1934年9月19日)は、日本の作詞家・音楽教育者。 1881年、旧幕臣、英学者で沼津兵学校教授の父太郎乙と母つきの間に東京府牛込区牛込横寺町(現・東京都新宿区横寺町)で生まれた。太郎乙には5男5女(うち長男と四男は幼い頃に亡くなっている)がおり、三郎はその三男であった。 開成中学卒業後、1898年、第一高等学校一部文科に入学、ピアノやオルガンに親しんだ。卒業後の1901年には東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、カール・フローレンツ、ラファエル・フォン・ケーベルらの薫陶を受ける一方、日本の音楽レベルを向上させるべく、歌劇研究を行う「ワグネル会」を結成。
松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15… 松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。 松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。 1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。 昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所(現ダイゾー)各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。
城戸 元亮(きど もとすけ、1881年5月12日 - 196… 城戸 元亮(きど もとすけ、1881年5月12日 - 1966年10月28日)は、日本の経営者、ジャーナリスト。熊本県出身。 1906年に京都帝国大学法学部法科を卒業。大阪毎日新聞社に入社し、東京日日新聞社編集主幹などを経て、1933年から1年間大阪毎日新聞社会長を務めた。 1966年10月28日老衰のために死去。85歳没。
川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - … 川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - 1946年3月11日)は日本の菌類分類学者。実弟は生物学者の川村多実二と生理学者の福田邦三。義兄は出隆。孫は建築家の川村純一。 岡山県津山市出身。旧制津山中学校卒業。日本における菌類分類学研究の草分けで、東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、帝室林野局を経て千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。松戸市辺りに分布する菌類相の調査・研究を行った。代表著作に「原色日本菌類図鑑」がある。「牧野日本植物図鑑」中の菌類各種を執筆したことでも知られる。 著作の一部はデジタル化され、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月… 塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月26日)は日本の弁護士、また大審院判事、最高裁判所判事。日本弁護士連合会会長。 1881年、大分県に生まれる。1903年旧制山口高等学校を卒業し、1908年(明治41年)4月、法学士として京都帝国大学法科大学を卒業。北浜銀行が設立した日本醤油醸造に秘書として入社し、副支配人に昇進して尼崎支店に勤務した。 日本醤油醸造は品質不正の発覚により株価が暴落するが、時期を同じくして1909年に弁護士となり、1910年2月、中央弁護士会で開業、同年8月には東京弁護士として登録した。日本弁護士協会にも所属した。
高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月2… 高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月24日)は日本の教育者。高木学園(現・英理女子学院高等学校)を創設し初代校長を務めた。 1881年(明治14年)5月9日、横浜区住吉町(現在の横浜市中区)に生まれる。実家は横浜桜木町の染物屋であった。七男六女の長女として幼い弟妹の世話をした。1896年、15歳のときに横浜市本町一丁目の町会所(のちの横浜市開港記念会館)で福沢諭吉の講演を聞いて「独立自尊」の言葉に感銘を受け、裁縫の技術で独立し、世に役立つ女性を育てたいという目標を持った。 父に頼みこんで東京裁縫女学校への入学を果たし、寄宿生活を送りながら本科二年、師範科一年の課程を修了し1904年7月に卒業した。
沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治1… 沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治14年)5月6日 - 1960年(昭和35年)6月9日)は、日本の政治家。岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)長。岩手県会議員。北上市の観光名所展勝地の生みの親として知られる。 岩手県和賀郡黒沢尻町に生まれる。東京法学院(現・中央大学)修了。修了後は金原明善に植林業を学ぶ。大阪毎日新聞に入り、風見章を知る。政友会院外団鉄心会に入り、中野正剛・緒方竹虎や大陸浪人達と交わる。 一旦帰郷し、1920年(大正9年)和賀展勝会を結成し、北上川沿いに桜の木を植え始める。上京し、出版業を始めるが、関東大震災で帰郷する。1926年(大正15年)に雑誌「共存共栄」を創刊する。
西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月… 西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月6日 - 1951年<昭和26年>9月16日)は、明治時代から昭和時代の科学者。火薬学の権威として知られ、「火薬博士」と呼ばれた。位階は従三位、勲等は勲二等旭日重光章。 1881年5月6日、愛媛県下浮穴郡麻生村(原町村を経て現在は砥部町麻生)で西松和十郎とカツ(愛媛県白形熊治の二女)の長男として生まれる。 1892年、麻生小学校を卒業。1900年、松山中学校を卒業。岡山県の第六高等学校を経て、1907年に東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。 卒業後は東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが、間もなく東京帝大に移り、1908年から1942年の35年間、東京帝大火薬学教室に在籍した。
橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934… 橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934年1月9日)は、日本の医師、病理学者。橋本病、Hashimoto's thyroiditisを初めて記載した。 三重県阿拝郡西柘植村(現伊賀市)御代の医家に生まれる。旧制津中学校、旧制第三高等学校をへて、京都帝国大福岡医科大学(現九州大学医学部)1907年第1回卒業生として卒業。第一外科に入局。1911年4月“甲状腺ノリンパ腫様変化ニ関スル組織的並ビニ臨床的知見ニ就キテ”を福岡医科大学第17回集談会にて発表、1年後の1912年にまとめてArchiv für klinische Chirurgieに掲載した。今日では橋本病という疾患名が与えられている。
柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5… 柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。教育者。 兵庫県加西郡西在田村(現在の加西市)出身。兵庫県御影師範学校を卒業後、小学校訓導、美嚢郡視学、兵庫県視学を歴任した。その後、加西郡教育会長、西在田村長、兵庫県会議員、同副議長に選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山本 唯次(やまもと ただじ、1881年(明治14年)5月4… 山本 唯次(やまもと ただじ、1881年(明治14年)5月4日 - 1934年(昭和9年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 兵庫県印南郡大塩村(現在の姫路市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、一年志願兵として三等主計に任じられた。台湾銀行に入社し、台北支店、上海支店に勤務した。1918年(大正7年)より弁護士を開業した。また東洋拓殖の傍系事業として、日中合弁事業設立に従事した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3… 金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。 1881年、新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現・大谷大学)予科に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。1904年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。
林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年… 林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年)5月2日 - 1963年(昭和38年)12月21日)は、実業家、官僚、南洋庁長官、第4代埼玉県川越市長。 岡山県出身。林源一の弟。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格して、愛媛県属となり、同県警視、宮崎県理事官、鹿児島県・山口県・北海道各警察部長、埼玉県書記官・同内務部長、北海道庁内務部長を歴任し、1930年(昭和5年)に退官した。 1931年(昭和6年)、川越市長に就任するが、翌年1月に関東庁警務局長に転じた。 1933年(昭和8年)8月に南洋庁長官に任ぜられ、1936年(昭和11年)9月までその職にあった。
土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 … 土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 - 昭和22年(1947年)4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。 山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。 卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校、山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。
和田 一郎(わだ いちろう、1881年(明治14年)5月1日… 和田 一郎(わだ いちろう、1881年(明治14年)5月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 新潟県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵書記官、税務監督局長、朝鮮総督府事務官、土地調査局総務課長、理財課長、鉄道部長、同参事官、同監察官、財務局長を歴任した。また1923年(大正12年)には法学博士号を受けた。 退官後は朝鮮商業銀行頭取に就任し、1931年(昭和6年)まで在任した。
大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉… 大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉5月 - 没年不明)は、日本の実業家、福井県多額納税者。大和田家3代目。大和田銀行専務取締役。族籍は福井県平民。 福井県敦賀郡敦賀町(現敦賀市)出身。大和田荘七の長男。大阪高等商業学校卒業。大和田銀行に入り専務取締役として業務に専念する。また大和田貯蓄銀行、大和田炭鉱、東洋硫化工業各取締役、敦賀築港倉庫監査役をつとめる。 大和田勇の養弟。大和田金之助の養甥である。 銀行会社の重役で、県下の金融界に重きをなした。 割合に世情に明るく、何かにつけて知見豊富であった。 住所は福井県敦賀市蓬莱、同市松島、敦賀郡松原村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 … 上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で戦死した「榊」の艦長である。最終階級は海軍中佐。 山口県出身。鴻城義塾を経て1900年(明治33年)海軍兵学校に進み、1903年(明治36年)卒業(31期)。同期に加藤隆義、長谷川清、及川古志郎らがいる。 兵学校卒業後、遠洋航海の前段である内地航海に出発したが、日露戦争の開戦により急遽「八島」乗組みとなり実戦に参加。しかし「八島」は旅順港外において触雷し沈没。上原は「富士」に転乗となる。海軍少尉に任官し、「赤城」を経て、「厳島」乗組みとして日本海海戦に参戦した。
坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)… 坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)4月30日 - 1974年(昭和49年)10月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(9期)、旭川市長。旭川市名誉市民。 香川県大内郡相生村(のち大川郡相生村→引田町、現・東かがわ市)出身。10歳の時に両親とともに旭川村(のち旭川町→旭川区、現・旭川市)に移住した。早稲田大学邦語政治科、同大学政治経済科卒。卒業後は旭川商業会議所の設立に力を尽くし、初代書記長となった。旭川区会議員、同市会議員に当選。同副議長、議長を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で北海道第4区から衆議院議員に初当選し、連続9期務めた。
川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30… 川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30日 - 1947年(昭和22年)1月9日 )は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員(立憲政友会)、山梨県 北巨摩郡若神子村長。 山梨県北巨摩郡多麻村(須玉町を経て現在の北杜市)で篠原俾孝の二男として生まれ、1900年(明治33年)に若神子村(現:北杜市)の川手四郎兵衛の婿養子として迎えられた。農業を営んだ。 北巨摩郡会議員、若神子村会議員、若神子村長を務めた後、1919年(大正8年)に山梨県会議員に当選し4期在任し、県参事会員、県会議長に在任した。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して当選し、衆議院議員を1期務め、政友会山梨支部幹事長兼相談役となった。
松井 勝二(まつい かつじ、1881年(明治14年)4月29… 松井 勝二(まつい かつじ、1881年(明治14年)4月29日 - 1964年(昭和39年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 岐阜県本巣郡船木村出身。陸軍士官学校第16期卒業。1905年(明治38年)には工兵第11大隊副官として日露戦争に出征。1909年(明治42年)には陸軍砲工学校高等科を卒業し、1915年(大正4年)から1917年(大正7年)まで東京帝国大学工学部電気科で聴講生として学んだ。1920年(大正9年)8月に陸軍工兵少佐に進級し、東京砲兵工廠廠員兼陸軍省兵器局御用掛の任にあった。1923年(大正12年)9月時点で陸軍造兵廠廠員陸軍技術本部部員陸軍省兵器局御用掛となり、1924年(大正13年)8月、陸軍歩兵中佐に進級し、陸軍技術本部附兼陸軍歩兵学校研究部部員陸軍省兵器局御用掛を発令された。