勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 -… 勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 - 1993年4月20日)は、日本の医師。熊本大学教授、九州大学教授、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)初代学長を務めた。脳血管障害のコホート研究である久山町研究を始めた。長男は分子生物学者の勝木元也。 若い時は、脳橋と呼吸調節中枢や、熊本大学時代は、間脳の臨床を行ったが、九州大学の教授になってから、福岡県糟屋郡久山町における脳血管障害の疫学的研究を始めた。1961年春から全教室員協力のもとに40歳以上の男女全住民を対象として循環器検診から開始した。その際、死亡者の解剖を重視し、1963年以降は剖検率は90%以上を維持、対象者全員を全員追跡するという徹底した疫学的調査が行われた。
内田 常雄(うちだ つねお、1907年〈明治40年〉6月30… 内田 常雄(うちだ つねお、1907年〈明治40年〉6月30日 - 1977年〈昭和52年〉12月29日)は、日本の政治家。厚生大臣(第47代)、経済企画庁長官(第24代)、衆議院議員(9期)。 旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学経済学部卒。1930年、大蔵省入省。入省同期に河野一之(大蔵事務次官)、渡辺武(財務官)ら。管財局属。 戦後、経済安定本部財政金融局長、大蔵省管財局長などを経て、1952年に山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。自民党内派閥は宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳派)に所属。1970年1月、第3次佐藤内閣の厚生大臣として初入閣。第2次田中角栄第1次改造内閣で経済企画庁長官をつとめる。
丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 196… 丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 1968年8月24日)は、日本の小説家。 東京市麹町にて、落合直文門下の歌人で能楽書林を設立した丸岡桂の長男として生まれる。祖父は沖縄・高知の県知事を務めた丸岡莞爾。暁星中学校から慶應義塾予科を経て、慶應義塾大学仏文科卒。在学中、水上滝太郎の知遇を得て1930年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表してデビューした。のち堀辰雄に師事し、1935年「生きものの記録」を『三田文学』に発表する。 1966年「静かな影絵」「街の灯」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。『堀辰雄全集』編纂委員を務めた。能の解説、編集も多く、原民喜をモデルとした『贋きりすと』などを書いた。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978… 渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978年5月17日)は、日本の物理学者。宇宙線研究の草分けとして著名で、大阪市立大学学長を務めた。大阪市北区出身。 実家は、大阪・梅田の阪神百貨店の西側にあった木造3階建て旅館「国有館」。 天王寺師範学校附属小学校、大阪府立生野中学校、姫路高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に進学。河上肇の弟子となり、唯物弁証法を学んだ。1930年に卒業後、唯物弁証法を実践するため東北帝国大学理学部に入り直し、物理学を学んだ。1933年の卒業前に東芝に就職が内定していたが、採用を取り消されたため、学究の道に進路変更し、1933年に新設された大阪帝国大学理学部の助手になった。
高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1… 高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1985年1月23日)は、日本の医学者、皮膚科医。ハンセン病治療に貢献した。国立療養所栗生楽泉園、東北新生園、傷痍軍人武蔵療養所、同愛媛療養所、傷痍軍人駿河療養所(所長;国立駿河療養所)、国立療養所長島愛生園(園長)に勤務した。長島愛生園と本土を結ぶ、長島架橋に努力した。 1907年6月29日 東京府東京市麻布区(現・東京都港区麻布)に生まれる。1931年3月 慶應義塾大学医学部卒業。1931年4-8月 同予防医学教室助手。1933年2月 国立らい療養所栗生楽泉園嘱託。4月同医官。1938年9月 国立らい療養所東北新生園勤務。1940年8月 慶應義塾大学 医学博士 論文の題は 「癩の罹患素質と家庭内伝染について」。
小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)… 小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)6月27日 - ?)は、日本の自動車技術者。 男爵小早川家の当主。位階は正五位。旧姓名は毛利元治。 東京府出身。明治40年(1907年)、第29代毛利宗家当主の毛利元昭の次男として生まれる。その後、叔父にあたる男爵・小早川四郎の養子となる。広島の旧制崇徳中学校、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業。崇徳中学校時代には弁論部で活躍、大学時代にはディーゼル機関の研究を行っていた。卒業後は日産自動車の技術者となる。また、ジェントルマンドライバー (アマチュアドライバー) としても活動し、イギリスからMG・K3マグネットを入手して多摩川スピードウェイに参戦するなどしたという。
山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6… 山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6月27日 - 1986年(昭和61年)4月11日)は、日本の警察・朝鮮総督府官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、盛岡市長。位階は従四位。 本籍・岩手県。山本幸太郎の長男として大阪市に生まれる。第三高等学校を卒業。1931年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1932年、京都帝国大学法学部を卒業。朝鮮総督府に入府し内務局属となる。 以後、朝鮮総督府道理事官、平安北道学務課長、忠清南道地方課長、京畿道学務課長、総督府殖産局事務官、黄海道警察部長、咸鏡北道警察部長、総督府書記官・警務局経済警察課長などを歴任。 1944年7月、岩手県部長・警察部長へ転任。
内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月2… 内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。 1907年、東京にドイツ語学者・内田新也の次男として生まれる。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。同助手、東方文化研究所研究嘱託。神宮皇學館大學助教授、(旧制)姫路高等学校教授、1949年神戸大学文学部教授。文学部長、1956年「古代アジア遊牧民族史の研究」で京都大学文学博士。1971年神戸大を定年退官、名誉教授、佛教大学教授、龍谷大学教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 19… 樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 1980年1月7日)は、日本の政治家。元衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)6月25日に生まれる。京都市立商工専修学校(後の京都市立堀川高等学校専修夜間部)卒業。 1963年に京都市議会議員選挙に立候補し当選、1期務める。 1967年1月29日、第31回衆議院議員総選挙に、京都1区から公明党公認候補として立候補し、初当選する(以降、連続2期)。 1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に落選。選挙地盤を公明党の竹内勝彦に譲り、政界から引退する。 1980年1月7日、死去。72歳没。同月11日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正五位勲三等に叙され、旭日中綬章を追贈された。
片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月2… 片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月25日 - 1979年(昭和54年)4月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 福井県今立郡鯖江町(現鯖江市)出身。生家は織物業を営んでいたが5歳の時に破産し一家で上京した。働きながら独学し、1924年(大正13年)東京市神田区の電機学校(現東京電機大学)電気科を卒業した。 1924年、東京電燈に入社し、横浜支店に配属された。1945年(昭和20年)11月、関東配電労働組合の結成に従事。1946年(昭和21年)5月、関東配電労組中央執行委員に就任。日本電気産業労働組合協議会(電産)関東地方本部副委員長であった1949年(昭和24年)10月、電産の退職金闘争の際に電産本部が要求を下回る内容で妥結したことに抗議して同副委員長を辞職した。
靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19… 靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19日)は、日本の洋画家。昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)。 靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。 戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。 東京国立近代美術館(MOMAT)の入り口に作品が飾られているほど近代美術にとって重要な人物である。
阪本 安一(さかもと やすいち、1907年6月23日 - 1… 阪本 安一(さかもと やすいち、1907年6月23日 - 1992年4月1日)は、日本の会計学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1962年)。神戸商科大学名誉教授・元学長。1978年授勲勲三等旭日中綬章。 兵庫県出身。1932年(昭和7年)神戸商業大学経営学科卒業後、神戸支店(現・神戸阪急)の三宮移転要員を大量募集していたそごう(十合呉服店)に入社。本部人事課、大阪営業部室などに在籍するも、1938年(昭和13年)に退職し、学者を志望。以降、神戸商大に勤務する。 1950年(昭和25年)「会計主体論としての企業体理論に関する研究」で、神戸大学より経営学博士の学位を取得。神戸高等商業学校教授、神戸商科大学教授、1960年(昭和35年)神戸商科大学の学長となり、1973年(昭和48年)定年退官、名誉教授、同年に大阪学院大学商学部教授、さらに商学部学部長を務めた。
渡邊 武男(わたなべ たけお、1907年6月23日 - 19… 渡邊 武男(わたなべ たけお、1907年6月23日 - 1986年12月18日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・鉱物学。学位は、理学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)。東京大学名誉教授。東京牛込生まれ。父は陸軍中将・渡辺寿(わたなべ ひさし)。 各種鉱床の調査、生成過程の研究を発展させ、鉱床探査にも寄与した。特に日本に多くみられる黒鉱鉱床・含銅硫化鉄鉱鉱床(キースラーガー鉱床)・層状マンガン鉱床については、従来鉱床の形成は、その周囲の岩石(母岩)より後の時代に形成されたとする説(後成鉱床説)が有力であったが、鉱床は母岩と同時期に形成されたとする同成鉱床説を唱え、多くの観察事実から、この説を不動のものとし、世界の鉱床学に大きく貢献した。
山口 末吉(やまぐち すえきち、1907年6月20日 - 2… 山口 末吉(やまぐち すえきち、1907年6月20日 - 2003年1月27日)は、日本の経営者。日本製粉社長を務めた。北海道出身。 1929年に北海道帝国大学農学部農業実科を卒業し、同年に日本製粉に入社した。1938年に取締役に就任し、1961年に常務、1970年に専務、1972年に副社長を経て、1974年から1979年までに社長を務めた。 2003年1月27日肺炎のために死去。95歳没。
加森 勝雄(かもり かつお、1907年6月19日 - 199… 加森 勝雄(かもり かつお、1907年6月19日 - 1998年6月22日)は、日本の実業家。加森観光創業者。北海道帯広市出身。 北海中学校卒業、日本大学専門部法科中退。1930年に釧路市内の雑穀商に勤務し経営を学び、1933年釧路で製薬会社・星製薬の東北海道販売代理店を始めて成功をおさめる。その後1939年には星製薬の道内全域の事業を統一した星製薬北海道配給株式会社を創立する。 その後は大谷重工業社長の大谷米太郎が星製薬を買収した事をきっかけに医薬品事業から手を引き、1952年札幌で貸ビル業を開業し翌1953年に加森産業を設立。十分な資産を築いたこともあり昭和20年代末には実業界から手を引くことを考えたものの、知人から登別でのロープウェイ建設事業に熱心に誘われたことをきっかけに、1956年に登別温泉ケーブルを設立して観光業に事業を拡大し、1958年には登別クマ牧場を開設した。
森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 -… 森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 - 1982年(昭和57年)2月12日)は、日本の実業家、政治家。昭和電工社長、衆議院議員。衆議院議員の森清・森美秀は弟。三木武夫の妻睦子は妹である。 森コンツェルンの創設者、森矗昶の長男として千葉県に生まれる。東京府立第五中学校、成城高等学校を経て、1934年(昭和9年)京都帝国大学文学部を卒業。昭和電工社長、千葉工業大学理事長などを務めた。1946年(昭和21年)千葉県から第22回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。2期務める。日本自由党、民主自由党に所属した。1948年(昭和23年)11月、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治4… 矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治40年)6月19日 - 1944年(昭和19年)3月14日)は、日本の小説家、随筆家。秋田県南秋田郡五城目町出身。はじめモダン派であったが純文学に転身し、1936年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補に選ばれる。文章力と美貌を兼ね備えた女流作家として人気を集めた。坂口安吾が愛した女性として知られる。大和生命第5代社長の矢田不二郎は兄。 秋田県五城目町古川町(現在の同町下タ町)に、矢田鉄三郎(1866-1925)、チヱ(1869—1944)の四女として生まれる。父鉄三郎は秋田市に居住していたが、当時の五城目町長に請われて1898年に同町の助役に就任し、本籍ごと一家をあげて五城目町に移っていた。
平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1… 平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1981年3月10日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。 上富坂教会牧師・平塚勇之助(1873-1953)の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学卒。1936年、国民精神文化研究所嘱託(- 1938年)、1939年、広島高等師範学校教授(- 1944年)、1944年、九州帝国大学法文学部教授、1951年同大学教育学部教授。1953年、九州大学教育学部長。 1960年日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年国立教育研究所長(- 1978年)。同研究所において『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。
粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月… 粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月17日)は、日本の実業家。文献収集家。ゲーテ研究家。ドイツの文豪・ゲーテの書籍や関連文献を生涯にわたって集めて、東京ゲーテ記念館を開館させた人物として知られている。 現在の茨城県水戸市開江で生まれた。父親は地元の村長で、忠は4人兄弟の長男として生まれた。1923年に茨城師範学校へ入学。この師範学校時代にゲーテの『ファウスト』を先輩に薦められたのがきっかけでゲーテを知る。1927年に師範学校を首席で卒業。しかし、その後は教職に就くことはなかった。その後、しばらく水戸と東京を往復する日々が続く。1928年に友人にゲーテについて聞かれてそれを調べていくうちに、ますますゲーテのとりこになり、いつかはゲーテの図書館を作ろうという決心をする。
土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 198… 土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 1989年8月7日)は、日本の作家。 東京生まれ。青山学院商科卒。銀行員のかたわらユーモア小説を書き、放送作家も務めた。山本周五郎の研究もしていた。埼玉県浦和市に住んでいた。 1980年参院選に埼玉県選挙区から無所属で出馬し、落選している。
玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998… 玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998年2月28日)は、日本の哲学者、岐阜大学名誉教授。 大阪府出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学文学部哲学科卒業。報知新聞や東亜研究所に勤務したのち、日本医科大学教授、岐阜農業専門学校教授を経て、1949年(昭和24年)岐阜大学教授、1971年(昭和46年)岐阜歯科大学教授、1981年(昭和56年)学長(途中で朝日大学に改名)、1989年退職。日本学術会議会員。
松平 勇雄(まつだいら いさお、1907年〈明治40年〉6月… 松平 勇雄(まつだいら いさお、1907年〈明治40年〉6月14日 - 2006年〈平成18年〉4月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。参議院議員、福島県知事を務めた。初代参議院議長などを務めた松平恒雄は叔父。東京都文京区の区議の松平雄一郎は孫。 1907年(明治40年)6月14日、伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男として福島県大沼郡高田町(会津高田町を経て現・同郡会津美里町)に生まれた。旧制目白中学校(現在の中央大学附属高等学校)を卒業し、1933年(昭和8年)に早稲田大学商学部を卒業した。 三菱商事社員、鉄鋼会社社長を経て、1951年(昭和26年)2月12日の参議院補欠選挙に福島地方区から立候補し初当選。
守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 199… 守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。岡山県出身。 岡山第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、同年に三菱航空機に入社した。1962年に三菱重工業取締役に就任し、常務、副社長を経て、1973年5月から1977年6月までに社長を務めた。 1976年から1984年までに日本産業機械工業会会長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1977年にイランからホマヨウン第3級勲章と日本政府から勲一等瑞宝章を受章した。 1990年7月24日呼吸不全のために死去。83歳没。
伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - … 伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - 1963年2月20日)は、元毎日新聞社記者、元プロレス解説者、元ラグビー選手(日本代表キャップ2)。
周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980… 周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980年2月28日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。 教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。
宮崎 正雄(みやざき まさお、1907年6月13日 - 19… 宮崎 正雄(みやざき まさお、1907年6月13日 - 1994年3月13日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。日本海新聞社長。 鳥取県出身。1941年東京文理科大学卒。東京高等師範学校講師、同助教授、石川県地方事務官、鳥取県立鳥取図書館長、同県教育長の他、日本海新聞社長、会長を歴任する。1959年の第5回参議院議員通常選挙で自由民主党公認で鳥取県から立候補したが、日本社会党公認で現職の中田吉雄に39票差で敗れて落選した。6年後の1965年の第7回参議院議員通常選挙で立候補して初当選。連続2期務めた。この間、第3次佐藤内閣農林政務次官、参議院運輸、文教の各委員長を歴任、1977年に引退した。
秋山 國三(あきやま くにぞう、1907年6月11日 - 1… 秋山 國三(あきやま くにぞう、1907年6月11日 - 1978年9月27日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 京都の地域史研究に取り組んだ。 京都市下京区出身。1932年京都帝国大学文学部史学科卒業。1934年から同志社専門学校講師、1944年に同志社外事専門学校教授。1949年に同志社大学教養部教授となり、1951年に経済学部・1954年に文学部に配置換え。1977年に退職して名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
任 文桓(イム・ムンファン、イム・ムナン、朝鮮語: 임문환、… 任 文桓(イム・ムンファン、イム・ムナン、朝鮮語: 임문환、日本名豊川文夫、1907年6月11日 - 1993年6月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家、実業家。本貫は豊川任氏。 東京帝国大学を卒業した後、高等試験に合格して、朝鮮総督府のキャリア官僚として勤務した。独立後の韓国でも次官や閣僚など要職を歴任し、後に企業経営者に転じて全経連副会長を務めた。 2008年に発表された民族問題研究所の親日人名辞典収録予定者名簿の中の官僚部門に選ばれた。 回顧録である「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」(朝鮮語版1974年、日本語版2011年)を残した。 1960年代初めに生地の錦山の困窮学生のために奨学金を創設した。
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6… 瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。 1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。
阿部 襄(あべ のぼる、1907年6月10日 - 1980年… 阿部 襄(あべ のぼる、1907年6月10日 - 1980年4月22日)は、山形県出身の動物学者・生態学者。山形大学名誉教授。理学博士。 1907年、山形県飽海郡松山町生まれ。阿部富太郎とゆきの長男である阿部一郎の長男。叔父(父の弟)に、哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也、動物学者の阿部余四男、日本史学者の竹岡勝也らがいる。 旧制山形高等学校を経て、1931年に東北帝国大学理学部生物学科卒業。1941年に「潮間帯ならびに浅海にすむ数種の無脊椎動物に関する生態学的研究」で東北帝国大学より理学博士の学位を授与。師道大学教授、山形県立農林専門学校教授、山形大学農学部教授を歴任。 戦前、日本学術振興会研究員として「パラオ熱帯生物研究所」に派遣されてサンゴなどの研究を行なった生物学者・生態学者であり、戦時中は満州産ドブガイなどの研究を行ない(阿部襄 1943)、終戦を吉林市で迎え(阿部襄 1970)、のちに山形大学農学部応用動物学研究室教授、山形大学名誉教授となった。
申 性均(シン・ソンギュン、朝鮮語: 신성균、1907年6月… 申 性均(シン・ソンギュン、朝鮮語: 신성균、1907年6月8日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家。谷城面長、制憲韓国国会議員。 全羅南道谷城郡出身。谷城公立小学校、行橋県立中学校、早稲田大学専門部法科卒。谷城面長を経て、光復後は谷城郡建国準備委員会委員長、韓国独立党全州特別党委員長・全羅北道党委員長・中央部財務部長兼秘書部長、新韓正義社全州支社社長、建国消費組合理事、無所属の国会議員、国会内務治安委員会委員長を務めた。朝鮮戦争の際、北朝鮮に拉致された。
平井 豊一(ひらい とよいち、1907年(明治40年)6月7… 平井 豊一(ひらい とよいち、1907年(明治40年)6月7日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の英文学者。法政大学名誉教授。 1907年(明治40年)6月7日、新潟県で生まれる。 1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業し、1933年(昭和8年)に法政大学法文学部英文学科を卒業する。 1993年(平成5年)10月22日、心不全により死去、86歳。 ウィリアム・シェイクスピアとジェイムズ・ジョイスを専門としており、その膨大な蔵書が法政大学図書館に平井豊一文庫(和書3702冊、洋書10320冊)として収められている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
柏村 信雄(かしわむら のぶお、1907年〈明治40年〉6月… 柏村 信雄(かしわむら のぶお、1907年〈明治40年〉6月5日 - 1989年〈平成元年〉1月16日)は、日本の内務・警察官僚。第三代警察庁長官として60年安保時代の治安対策責任者であった。 福島県会津若松市出身で、1925年(大正14年)会津中学を卒業した。中学時代の同級生には星冬四郎東大教授、星光一北大教授、終戦時の第11方面軍参謀などがいた。柏村は静岡県での代用教員を経て、1928年(昭和3年)旧制静岡高校に進む。1934年(昭和9年)東京帝大を卒業。在学中に高等文官試験に合格しており、内務省に入省した。 官歴は京都府属に始まる。戦前の警察関係の履歴としては、警保局に2度配属されたほか岩手県特高課長職があるが、同職からは短日間で地方局へ転任し、警察経験は少なかった。
夏目 純一(なつめ じゅんいち、1907年6月5日 - 19… 夏目 純一(なつめ じゅんいち、1907年6月5日 - 1999年2月21日)は、日本のヴァイオリニスト。 夏目漱石の長男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。暁星小学校在学中、父・漱石からフランス語の手ほどきを受けた。しかし物覚えが悪いとの理由で、父から苛烈なしごきを受けた。1916年12月に父漱石を亡くす。この翌年、「漱石先生追慕号」として、第3次『新思潮』の最終巻が出版されるが、この号の題字を書き、落款(漱石所用の印を使用)を押したのは純一である。 脚気により学業を中途で廃し、ヴァイオリンを宮内省管絃楽部の山井基清に、ドイツ語を内田百閒に師事する。亡父の潤沢な印税を背景として、1926年、5か年の予定でベルリンに留学する。
鶴岡 千仭(つるおか せんじん、1907年6月2日 - 19… 鶴岡 千仭(つるおか せんじん、1907年6月2日 - 1987年7月8日)は、昭和時代の日本の外交官。 千葉県出身。1931年高等文官試験の外交科に合格。 翌年、東京帝大法学部法律学科卒業後、外務省入省。 外交官補としてパリ在勤後、本省欧亜局、スイス公使館とトルコ、フランス大使館の各書記官を務めた。1946年から条約局法規課長、外務省研修所指導官、法務総裁官房渉外課長、法務省入国管理局次長、外務大臣官房審議室参事官を歴任。 1956年バチカン公使、58年には同大使に就任し、59年国際連合局長、外務大臣官房審議官を経てスウェーデン、スイス駐在大使。1967年国連駐在大使に就任、6日戦争戦後に安全保障理事会の議長として活躍した。
丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 198… 丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 1984年1月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。学習院大学名誉教授。 旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業後、フランスに留学。留学中の友人に岡本太郎がおり、横光利一の通訳、伊藤述史の長男の家庭教師などもつとめている。妻の山崎明子もパリ時代に一緒であった。国民精神文化研究所の「思想対策に関する調査」の嘱託員も務めた。 帰国後、ヴォルテールの邦訳紹介を行うかたわら、白秋ゆかりのアルスから悪名高い『戦争文学論』を公刊。これはホメーロスや『ロランの歌』、タッソーの『解放されたエルサレム』などといった戦争をテーマとする叙事詩の中に文学の本質を見ようとするものであるが、一般読者には戦争礼賛、ナチス支持の文脈の中で受け取られたので、戦後しばらくは隠棲に近い生活を余儀なくされることとなった。
高砂 政郎(たかすな せいろう / まさろう、1907年(明… 高砂 政郎(たかすな せいろう / まさろう、1907年(明治40年)6月1日 - 1989年(平成元年)10月9日)は、昭和期の政治家。塩尻市長(第2代)。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 長野県東筑摩郡塩尻町(現:塩尻市)生まれ。1925年(大正14年)3月、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業。1947年(昭和22年)塩尻町議会議員、1959年(昭和34年)4月、塩尻市議会議員に当選し1967年(昭和42年)4月まで連続2期在任。同年4月に前市長の小松多喜雄を2328票差の1万3170票で破り、塩尻市長に当選。全国初の日本共産党籍をもつ市長として注目された。前市長のワンマン体制への批判の他、高度経済成長下で、道路・交通問題、下水道や不足する住宅の整備、特別養護老人ホームの建設、公害対策など福祉や市民生活に直結した問題に取り組み支持を得た。
今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 -… 今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 - 1993年〈平成5年〉2月12日)は、日本の華族。香淳皇后付の女官。今城定政子爵の長女。 女子学習院高等科卒業、1929年より当時の皇太后(貞明皇后)に出仕、「浜菊掌侍」という源氏名で呼ばれた。皇太后は宮中祭祀に熱心で、旧来の皇室の慣習を厳格に守る人物であり、今城は出仕中に強くその考えに傾倒したものと思われる。1951年の皇太后の崩御後、当時の侍従次長・甘露寺受長の紹介で香淳皇后に出仕することとなった(女官昇任は1953年4月10日)。皇后の信頼が極めて厚くなり、それを背景に宮中で強い影響力を振るうに至ったが、入江相政(1969年〈昭和44年〉 - 1985年〈昭和60年〉まで侍従長)ら昭和天皇付の側近と対立、最終的には昭和天皇の支持を得た天皇側近たちによって、1971年(昭和46年)、自主退職に追い込まれる。
菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月-1981年1月2… 菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月-1981年1月25日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。千葉県議会議長。千葉県議会議員(5期)。位階は正四位。勲等は勲二等。
出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1… 出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1985年3月9日)は、日本の蔵書家、郷土史家。 岸和田市の称名寺の長男として生まれる。平安中学校卒業。岸和田市役所書記等を勤めたのち、1947年、称名寺住職を継ぐ。市役所勤務のころから、郷土資料の収集・研究を行い、のちに反町茂雄から「異常に熱心な郷土資料の蒐集家」と評された。1943年4月に蔵書をもとに鬼洞文庫を設立。蔵書は、現在は関西大学図書館や大阪歴史博物館などに収められている。1949年には和泉文化研究会を設立し、機関誌として『流木』(のち『和泉志』と改題)を創刊し、また和泉文化研究会図書館の館長も務めた。その他に「鬼洞叢書」や「和泉史料叢書」として史料集の編纂刊行を行った。
中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(… 中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(明治40年)5月29日 - 1991年(平成3年)12月18日)は、三重県出身の政治家。三重県上野市(現在の伊賀市)の市長だった。日本社会党に所属して衆議院議員を6期務めた。長男の中井洽も衆議院議員となった。 三重県立上野中学校、第八高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験合格。 満洲にわたり全満洲の電気供給事業を統制して電力・電燈の供給事業を独占的に行う満洲電業株式会社に入社。企画主計課長、文書課長を歴任した後、長男の洽が満洲で誕生した。終戦で三重県に引揚げた。 1947年(昭和22年)に全国で最初の日本社会党の公認候補者として三重県上野市長に当選し、以後2期、革新的な市政を行った。
中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - … 中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - 1978年5月18日)は、日本の障害者福祉活動家。光道園創設者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28… 坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。米子市会議員を務めた。 実業家2代坂口平兵衛の義弟。 昭和5年(1930年)、東京帝国大学法学部卒業。日本製糸株式会社の取締役を経て、戦時中に三菱軽合金株式会社の資材課長に就いていたが、坂口合名会社を設立し、代表社員となる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1… 岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1971年11月29日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(1期、自由民主党)。 東京都出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年東京帝国大学法学部政治学科卒。逓信省に入り、姫路郵便局長、朝鮮総督府逓信局海事課長、逓信省竿船局沿岸課海務員、運航部港運、第一輸送各課長、大東亜省南方事務局交通産業課長、企画院書記官、運輸省海運総局総務企画課長、神戸海運局(現神戸運輸監理部)管理部長、同局長、運輸省海運局長などを歴任する。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。1960年の第29回衆議院議員総選挙において兵庫3区から自由民主党公認で立候補して当選した。
金森 九郎(かなもり くろう、1907年(明治40年)5月2… 金森 九郎(かなもり くろう、1907年(明治40年)5月26日 - 1977年(昭和52年)6月23日)は、日本の実業家。富士製鉄常務取締役、日本原色押花協会会長を務めた。位階は正四位。勲四等旭日小綬章。 姪・和子の長男は、第28代自由民主党総裁・第102代内閣総理大臣の石破茂である。 東京都渋谷区出身。牧師・金森通倫の四男。5歳の時に母が亡くなり、長姉の三寿子が母代わりとなる。 1925年、旧制東京高等師範学校附属中学校を卒業した。その後、旧制静岡高等学校を卒業した。1932年、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。日鉄、八幡製鉄所に入り、広畑製鉄所研究所各勤務の後、1942年に東京帝国大学第二工学部冶金学科助教授となり、1945年には教授に就任する。
根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 -… 根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 - 1990年3月19日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章。 自由民主党衆議院議員。秋田県大曲市(現在の大仙市)出身。 秋田県立秋田農業学校(現秋田県立大曲農業高等学校)を経て、1932年京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。満州国に渡り、役人を経て、建国大学の助教授を務めた。終戦で日本に引き上げ、1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧秋田2区から秋田県民主党より立候補し当選する(当選同期に鈴木善幸・中曽根康弘・中山マサ・松野頼三・倉石忠雄・石田博英・園田直・櫻内義雄・中村寅太など)。 その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄、幣原喜重郎、原健三郎、佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂の自由党に入党する。
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25… 三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
宮本 晃男(みやもと てるお、1907年5月25日-1992… 宮本 晃男(みやもと てるお、1907年5月25日-1992年)は、飛行機・自動車の技術者、評論家。 1930年東京市立深川工業学校(後の東京都立本所工業高等学校)自動車専修科卒。1932年東京帝国大学造兵学科委託研究生修了。逓信省航空局技術課勤務。一等整備士、航空機関士。運輸省自動車局車両課勤務(運輸技官)。日本自動車連盟事業部長。1970年自動車問題研究会を設立、初代会長となる。自動車ジャーナリスト協会顧問。自動車技術会顧問。1982年勲五等瑞宝章受勲。
四方 実一(しかた じつかず、1907年5月25日 - 19… 四方 実一(しかた じつかず、1907年5月25日 - 1997年1月22日)は、日本の教育心理学者。 京都府出身。東京文理科大学心理学科卒、1961年「算数問題解決の教育心理学的研究」で東京教育大学文学博士。京都学芸大学助教授、教授。1966年校名変更で京都教育大学教授。71年定年退官、名誉教授。