藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月… 藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。 福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である。藤井は創設以来の稚松会会員であった。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。 歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。
伊藤 竹之助(いとう たけのすけ、1883年(明治16年)7… 伊藤 竹之助(いとう たけのすけ、1883年(明治16年)7月16日 - 1948年(昭和23年)1月22日)は、日本の実業家。元伊藤忠商事社長。 父は福井県熊川村の初代村長逸見勘兵衛(へんみ かんべえ)。 逸見竹之助は、福井県熊川村で生まれ、滋賀県商業学校を卒業し、伊藤本店に番頭候補として入店。二代・伊藤忠兵衛の1年先輩の竹之助は、後に初代伊藤忠兵衛の長女トキの娘フキ(二代忠兵衛の姪)と24歳で結婚し、伊藤姓を名乗る。伊藤竹之助はよきパートナーとして生涯二代忠兵衛を支える。 初代・伊藤忠兵衛の娘婿伊藤忠次郎を初代とする伊藤忠次郎家2代目。
渡辺 知雄(わたなべ ともお、1883年(明治16年)7月1… 渡辺 知雄(わたなべ ともお、1883年(明治16年)7月16日 – 1946年(昭和21年)11月29日)は、日本の外交官。静岡県三島市長。 静岡県出身。1907年(明治40年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、翌年に外務省に入省した。1912年(明治45年)に外務書記生となり、バンクーバー領事館に勤務した。1917年(大正6年)より中華民国に駐在し、1919年(大正8年)には広州副領事となった。翌年、ロンドン副領事に転任。1922年(大正11年)、ボンベイ(現在のムンバイ)総領事に就任し、1927年(昭和2年)からニューオーリンズ総領事に転じた。1932年(昭和5年)よりハバナ領事となり、さらにマニラ総領事を務めた。
安藤 文英(あんどう ぶんえい、1883年7月15日 - 1… 安藤 文英(あんどう ぶんえい、1883年7月15日 - 1958年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。駒澤大学教授、總持寺顧問、学校法人総持学園理事長などを歴任。号は哲山。 明治16年、尾張国熱田(愛知県)生まれ。秋野孝道に参道。1910年(明治43年)曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。4年間、内地留学生として宗学研究を行う。1910年から可睡斎にて参禅学道。1921年に曹洞宗第一中学林教頭、1926年に同校長。1944年より總持寺監院。駒澤大学教授、神奈川県仏教会顧問、静岡県周智郡大洞院独住八世、崇信寺44世などを務める。 著書に「修証義通解」「永平大清規通解」、共著に「正法眼蔵註解全書」「禅学辞典」など。
中山 悦治(なかやま えつじ、1883年7月15日 - 19… 中山 悦治(なかやま えつじ、1883年7月15日 - 1951年12月25日)は大正・昭和期の実業家。中山製鋼所の創設者。 福岡県行橋市南泉の中山家に生まれ、行橋市立泉小学校を卒業。豊津中学校(現在の育徳館中学校)三年時、父が事業に失敗し、中途退学。その後、製糸工事、炭鉱、行商など様々な職を転々した。1919年に兵庫県尼崎にメッキ炉1基、作業員数名からなる亜鉛鉱金製造工場を開設した。この工場が中山悦治商店を経て中山製鋼所となる。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日… 若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日 - 1943年(昭和18年)12月9日)は、日本の外交官。駐アメリカ合衆国公使。 熊本県出身。1883年(明治16年)7月9日熊本市寺原町に生まれる。1900年(明治33年)熊本市立商業高校入学、1903年(明治36年)熊本市立商業高校(校名変更により熊本県立商業高校)7期生卒業。1906年(明治39年)、東亜同文書院を3期生卒業し、外務書記生試験に合格した。1911年(明治44年)、オレゴン州立大学を卒業し、さらに1914年(大正3年)にはニューヨーク大学を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し領事官補となった。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 19… 木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 1977年2月28日)は、日本の教育学者、百科事典編集者である。 山形県生まれ。1913年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、麻布中学校、青山女学院、早稲田大学などの教壇に立った。早教育の提唱者であり、『早教育と天才』(木村久一 1917)の著がある。島中雄三を介して下中弥三郎を知り、1931年、請われて平凡社に入り、『世界大百科事典』の編集長に就いた。一説に、英単語の encyclopedia を「百科事典」と訳したのは木村である。同百科事典全28巻を完結させた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鷲野 米太郎(わしの よねたろう、1883年(明治16年)7… 鷲野 米太郎(わしの よねたろう、1883年(明治16年)7月2日 - 1937年(昭和12年)4月3日)は、日本の衆議院議員(実業同志会→国民同志会→立憲政友会)。実業家。弁護士。 高知県安芸郡吉良川村(現在の室戸市)に楠武三郎の長男として生まれ、鷲野繁馬の養子となった。1909年(明治42年)、東京高等師範学校を卒業し、小学校訓導、台湾総督府国語学校助教諭、同中学校教諭を歴任した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、京都府属となった。高等文官試験に合格し、愛宕郡長、京都市助役を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選された。
堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1… 堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使。 検事・法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。外交官補としてフランス、中華民国に勤務した。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツ・イタリアに勤務した。1926年(大正15年)、外務省欧米局長に就任。1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた。
真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年… 真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年(明治16年)7月1日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。玄洋社社員。 福岡県福岡区(現福岡市)で回船問屋・真藤利吉の長男として生まれる。福岡県立福岡中学校を卒業後、玄洋社に所属。中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得。日露戦争開戦後、通訳として従軍した。 その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。1926年6月、日魯漁業(現マルハニチロ)の取締役に就任。その他、日魯漁業副社長、東洋製罐取締役、函館水産販売取締役、函館製網船具取締役、樺太共同漁業取締役、台湾殖産工業取締役、北千島水産社長、函館定温倉庫社長、北千島鱈漁業社長、北海道護謨社長、北日本漁業社長、東都冷蔵社長、函館公海漁業取締役、輸出鱈協会理事長、中央水産業会副会長、西部瓦斯顧問などを務めた。
小野寺 有一(おのでら ゆういち、1883年(明治16年)7… 小野寺 有一(おのでら ゆういち、1883年(明治16年)7月1日 – 1965年(昭和40年)1月4日)は、衆議院議員。岩手県釜石市長。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現在の一関市)出身。岩手県巡査となり、普通文官試験に合格して、1909年(明治42年)より岩手県警部を務めた。その後、宮城県警部に転じ、角田警察署長、石巻警察署長、塩釜警察署長、高等保安警務課長を歴任。1921年(大正10年)に警視に昇進し、仙台警察署長に就任した。その後、伊具郡長となった。 1928年(昭和3年)より釜石町長を務め、1937年(昭和12年)に市制施行されると初代市長に就任した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し、当選を果たした。
杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 … 杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 - 1926年〈大正15年〉2月)は、日本の刀剣研究家。長年行方不明になっていた数珠丸恒次を再発見した人物として知られる。 1883年(明治16年)7月、兵庫県尼崎市にて生まれる。当初は歯科医を志して大阪にある歯科医院の書生となり、次いで東京にある歯科医専へ進学する。1902年(明治35年)春、19歳の頃に海軍水路部技師を務める傍ら刀剣研究を行っていた神津伯と出会ったことがきっかけで日本刀に魅せられ、歯科医専を中退して刀剣研究に没頭していった。 1918年(大正7年)には國學院大學で刀剣の講義を毎月行なうなど、刀剣研究家として活動するようになる。
高橋 親吉(たかはし しんきち、1883年(明治16年)7月… 高橋 親吉(たかはし しんきち、1883年(明治16年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 大分県出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。1912年(大正元年)、台湾総督府属となり、同事務官、専売局事務官、高雄州知事などを歴任し、1927年(昭和2年)には殖産局長に就任した。その後、台北州知事となり、1929年(昭和4年)に退官した。
小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治1… 小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治16年)7月 - 1943年(昭和18年)7月29日)は、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)出身の大坂相撲の元力士。第11代時津風親方。本名は岡田 作次郎(おかだ さくじろう)。最高位は小結。入門当時は若紋竜、後年は九紋竜、妨の四股名で取った。 大坂相撲の年寄名跡の時津風部屋に入門し、1906年(明治39年)に入幕、1908年(明治41年)1月場所では小結に昇進したが負け越し、6月場所では平幕に下がり、四股名を九紋竜に改めた。 博打好きで借金を重ね、喧嘩も繰り返し、人を騙すなど素行が悪い事から、1909年(明治42年)1月場所の前に、親方から「世の中の妨げばかりするので、四股名を妨(さまたげ)に改めろ」と言われ、「妨 四郎盛足」に改名した。
瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1… 瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1947年9月18日)は、日本の商学者。神戸経済大学(現神戸大学)名誉教授。初代日本経営学会理事長。 大阪府貝塚市出身。1908年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。村瀬春雄門下。1910年神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1913年英米留学。1923年欧米出張。1924年同校商業研究所調査部長。1929年神戸商業大学(現神戸大学)教授。1935年商学博士の学位を取得。1941年日本経営学会初代理事長。1942年依願退官。同年従三位。のち、東洋紡績経済研究所初代所長、神戸市助役、神戸市最高顧問を歴任した。
八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6… 八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6月27日 - 1950年(昭和25年)2月3日)は、明治末から昭和前期の大蔵官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 伯爵・油小路隆董の三男として生まれ、子爵・八条隆邦の養子となる。養父・隆邦の死去に伴い、1896年(明治29年)9月8日、家督を相続し子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業。1909年(明治42年)大蔵省に入省し、税務監督局属兼大蔵属、同監督局事務官、東京税務監督局経理部長などを歴任。1915年(大正4年)7月15日、依願免本官となり退官した。その後、産業組合中央金庫理事長、日本銀行監事、住宅営団監事、内閣顧問、大蔵省顧問、帝国農会特別議員、国民貯蓄奨励委員会委員、学習院評議会会員などを務めた。
西村 卯(にしむら う(しげる)、明治16年(1883年)6… 西村 卯(にしむら う(しげる)、明治16年(1883年)6月27日 - 昭和46年(1971年)5月17日)は、日本の検察官、弁護士。勲二等。鳥取県士族。鳥取県米子市内町出身。 外科医中村徳吉の実兄。鳥取県士族西村佐司衛の長男 趣味は弓道、謡曲、和歌 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 … 万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 - 1959年3月28日)は、日本の実業家、明治から昭和期の銀行家である。全国銀行協会連合会元会長、三井銀行元会長、帝国銀行元頭取・会長を歴任した。 岡山県勝央町出身。作東義塾(現・岡山県立勝間田高等学校)を経て、1907年(明治40年)、青山学院高等科(現・青山学院大学)を卒業。同年、米山梅吉の誘いで三井銀行に入社し、1937年(昭和12年)に同銀行会長に就任する。1943年(昭和18年)に帝国銀行を設立して取締役頭取となる。その2年後に同銀行の会長、全国銀行協会連合会会長に就任。1953年(昭和28年)には、東京通信工業(現・ソニー)会長などを歴任。
原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日… 原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日 - 1958年〈昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者。第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中。 大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる。第三高等学校を経て1907年に京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社。 第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した。1940年には取締役を務めていた東武鉄道で根津嘉一郎、吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月… 大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月15日 - 1973年(昭和48年)2月10日)は、日本の大蔵官僚。銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る。 鹿児島県に生まれる。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる。 官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国、英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった。
奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 19… 奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 1955年10月27日)は、日本の陶磁器研究家。三重県津市西新町出身。三重県尋常中学、東京帝国大学文科大学心理学科卒。号は次郎坊、無背庵、無背道人、無背廬。東大心理学科副手、東大美術史研究室助手を経て、特許局勤務、農商務省技師を兼任した。古陶磁を研究し、1914年、東京帝国大学文科大学心理学教室内に大河内正敏らと陶磁器研究会を開設。のち、同会に属する大河内正敏、佐藤功一ら会員有志により結成された彩壺会に参加。1924年、東洋陶磁研究所を創設。国宝保存会委員、文化財専門審議会専門委員、重要美術品等調査会委員、東大講師、工大講師、帝室博物館学芸課学芸委員。
二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月… 二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月14日 - 1927年〈昭和2年〉9月11日)は、日本の政治家、華族。貴族院公爵議員。 公爵・二条基弘の二男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学で学ぶ。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した。当選後は無所属だったが、1922年(大正11年)9月27日、研究会に所属した。 1917年(大正6年)以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。 1927年(昭和2年)9月11日、議員在職中のまま死去。実子がいなかったため相続争いが起こったが、二条正麿の三男である弼基が養子となり襲爵した。
神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月… 神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 石見津和野(現・島根県津和野町)出身。松江師範学校を卒業して教師となる。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する。後に明治文化研究会の一員となる。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する。
宮本 和吉(みやもと わきち、1883年6月10日 - 19… 宮本 和吉(みやもと わきち、1883年6月10日 - 1972年10月22日)は、日本の哲学者。 1883年(明治16年)、山形県東田川郡下名川村(後の朝日村、現・鶴岡市)生まれ。荘内中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)では阿部次郎と友人となった。父の転勤で阿部が転校すると、意気消沈したという。松嶺小学校の代用教員を1年間勤め、上京して第一高等学校一部に入学。同級生には、鶴見祐輔がおり、寮では斎藤茂吉と同室であったという。1909年(明治42年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、大学院に進んだ。在学中より研究の一方で、岩波書店の『哲学叢書』編集に携わったりして生計を立てていた。1912年には、東京農業大学で英語講師を務めた。
田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 19… 田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 1946年12月13日)は、日本の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に東京音楽学校師範科を卒業、東京市誠之小学校に勤務した。 書家としては1904年に丹羽海鶴に入門し、その後巖谷一六、日下部鳴鶴、比田井天来らの影響を受けて六朝書や顔真卿の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に二松學舍(現二松學舍大学)に入学。その後東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験(文検)検定委員、興亜書道連盟理事・総務を務めた。
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)… 橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 父橋本昌世は京都府士族で、軍人となり陸軍中佐まで進んだ。陸軍士官学校14期卒業(同期には古荘幹郎大将、西尾寿造大将、山田乙三大将、宇佐美興屋中将)。陸軍大学校22期生で卒業時13番。陸大同期に畑俊六元帥(首席)、杉山元元帥、小磯國昭大将らがいる。 陸軍きってのロシア通として知られている。同国へ留学したり、第一次世界大戦時にロシア軍に観戦武官として従軍経験もしている。駐露日本大使館附武官補佐官、附武官などを歴任した。
芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月… 芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月6日 - 1962年(昭和37年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選山梨県知事、川崎市長、沼津市長。 千葉県安房郡北条町長須賀(現:館山市長須賀)で、旧龍野藩士・芝辻勝の長男として生まれる。北条町尋常高等小学校、千葉中学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年9月、内務省に入省し東京府属となる。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、神奈川県理事官、同県三浦郡長、同愛甲郡長、福島県北会津郡長、同県伊達郡長、富山県事務官・学務部長、愛媛県警察部長、宮崎県書記官・内務部長、三重県書記官・内務部長などを歴任。
諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4… 諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4日 - 1982年〈昭和57年〉12月8日)は、日本の漢学者・漢字学者。号は止軒。学位は、文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学学長・都留文科大学初代学長を歴任。大著『大漢和辞典』、『広漢和辞典』(各・大修館書店刊)の編者代表として知られる。直江兼続の子孫を称した。 新潟県南蒲原郡庭月村(後に四ツ沢村→森町村→下田村、現在の三条市庭月)の大庄屋の二男に生まれた。1908年に東京高等師範学校を卒業後、漢学の教員として同校に勤める。青年時代には中国に留学したが、このときに満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和辞典』の製作に繋がっていった。
小畑 惟清(おばた これきよ、1883年〈明治16年〉6月2… 小畑 惟清(おばた これきよ、1883年〈明治16年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉7月23日)は、日本の医学者(医学博士)、産婦人科医(浜田産科婦人科病院院長)。東京都特別区公安委員、実践女子学園理事長、日本産科婦人科学会会長、東京都医師会会長、日本医師会会長を歴任。 熊本県宇土郡宇土町にて漢方医小畑宗憲の次男として生まれる(長男は夭逝)。宇土尋常小学校卒業後、鶴城学館予科(高等小学科)及び本科(中学科)、さらに熊本市の私立済々黌へ編入。1901年(明治34年)に県立熊本中学校(第二済々黌より改称)、1904年(明治37年)に第五高等学校、1908年(明治41年)12月に東京帝国大学医科大学を卒業。
名川 侃市(ながわ かんいち、1883年〈明治16年〉6月1… 名川 侃市(ながわ かんいち、1883年〈明治16年〉6月1日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(広島県第一区選出、当選6回)。鉄道政務次官。司法参与官。第一東京弁護士会会長。松竹監査役。 東京弁護士会会長、国家公安委員を務めた名川保男の兄。 広島県高田郡坂村(のち向原町、現安芸高田市)に生まれた。名川次郎平の長男。1903年(明治36年)、明治法律学校(現明治大学)卒業。1906年(明治39年)、法政大学卒業。 判事検事登用試験合格。1909年(明治42年)、東京地方裁判所判事に任官。1917年(大正6年)に退官し弁護士となる。一般訴訟事務を取り扱う。
中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 191… 中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 1914年8月2日)は、日本の文筆家。 長野県諏訪郡米沢村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校に試験の成績一番で入学。同期に鶴見祐輔がいた。東京帝国大学法科大学卒業。中島菫畝の筆名で執筆をしている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - … 小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - 1968年11月3日)は、日本の医学者、内科医。岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身。小野寺式圧診法の考案者。 旧制盛岡中学校、第一高等学校を経て、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部の前身)卒業。30歳の若さで九州帝国大学教授に就任。消化器研究に尽力し、特に胃運動曲線照射法で恩賜金記念賞を授与される。「胃運動曲線に関する研究」「圧診法に関する研究」は医学会不滅の業績とされる。 1943年(昭和18年)に退官後は、満州国にわたり新京特別市立第一病院長に就任。1945年(昭和20年)8月19日、第二次世界大戦終結後の混乱の中、新たに発足した新京日本人会の会長に就任。
渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29… 渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29日 - 1955年〈昭和30年〉1月28日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。朝鮮農地開発営団理事長。 新潟県岩船郡関谷村(現在の関川村)出身。渡辺善俊の長男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同日高郡長、福井県理事官、神奈川県事務官を務めた。 1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道内務部長、黄海道内務部長、平安南道内務部長、全羅北道知事、京畿道知事を歴任。1931年(昭和6年)、殖産局長兼山林部長となり、翌年に農林局長に転じた。 1935年(昭和10年)に退官し、東洋拓殖理事、日魯漁業(現在のマルハニチロ)取締役、南洋興発監査役、海外興業監査役、朝鮮農地営団理事長、朝鮮食糧営団理事長などを務めた。
有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)… 有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)5月25日 - 1970年(昭和45年)4月6日)は、日本の明治時代・大正時代・昭和時代の医学者・政治家。位階は正三位。勲等は勲二等。北海道帝国大学名誉教授。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。旧姓・栗山。BCGの研究者としても知られる。 現在の福井県坂井市(旧坂井郡三国町)で旧福井藩藩医栗山英哉の次子として生まれ、1888年に有馬家の養嗣子となった。旧制福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)、第四高等学校を経て、1908年東京帝国大学医科大学卒業。その後、同大学青山内科に入局。1914年朝鮮総督府医院内科に勤務。1916年朝鮮総督府医院第2内科科長。
白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月2… 白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月25日 - 1957年(昭和32年)3月5日)は、日本の内務官僚。
柿原 政一郎(かきはら せいいちろう、1883年(明治16年… 柿原 政一郎(かきはら せいいちろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1962年(昭和37年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。宮崎市長。高鍋町長。 宮崎県児湯郡高鍋村(現在の高鍋町)出身。1904年(明治37年)に第六高等学校を卒業した後、東京帝国大学文科大学哲学科で学んだ。1907年(明治40年)に倉敷紡績に入社し、大原孫三郎の秘書となる。高鍋製糸株式会社社長、中国民報社理事、大原社会問題研究所評議員・出版部主任などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は中国民報社社長や広島臨港土地株式会社取締役などを務めたが、1935年(昭和10年)には宮崎市長に選出された。
佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5… 佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に東京府で生まれた。野州名鑑によると、栃木県足利市通二丁目に金物商の佐竹金之助の次男として生まれたとある。成城中学校から陸軍士官学校第18期、東京帝国大学建築学科卒業。1930年(昭和5年)8月1日、陸軍工兵大佐進級と同時に工兵第7大隊長に就任し、1932年(昭和7年)6月に陸地測量部三角科長、1933年(昭和8年)8月に陸軍築城部部員を歴任した。 1935年(昭和10年)3月15日に陸軍少将に進級し、澎湖島要塞司令官に着任。
鈴木為次郎(すずき ためじろう、1883年(明治16年)5月… 鈴木為次郎(すずき ためじろう、1883年(明治16年)5月24日 - 1960年(昭和35年)11月20日)は、囲碁の棋士。愛知県生まれ、巌崎健造門下、方円社、裨聖会、棋正社、日本棋院に所属、名誉九段。読みが深く粘り強い棋風で、長考派としても知られる。「旭将軍」の異名をとった。妻は鈴木秀子四段。
田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5… 田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5月20日 - 1952年〈昭和27年〉5月11日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。衆議院議員。 愛知県渥美郡高豊村(現在の豊橋市)出身。1905年(明治38年)、陸軍士官学校を卒業。その後、陸軍大学校を卒業し、第六高等学校勤務、歩兵第41連隊長、麻布連隊区司令官、第5師団司令部附、歩兵第33旅団長を歴任した。1938年(昭和13年)、陸軍中将に昇進し、下関要塞司令官を務めた。1939年(昭和14年)、予備役に編入。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選を果たした。そのため、1946年(昭和21年)に公職追放となった。
三浦 虎雄(みうら とらお、1883年(明治16年)5月19… 三浦 虎雄(みうら とらお、1883年(明治16年)5月19日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の政治家、厚生政務次官。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→東方会)、延岡市長を歴任した。 宮崎県東臼杵郡恒富村(現在の延岡市)出身の軍医監・衆議院議員三浦得一郎の長男として生まれる。1901年(明治34年)福岡県立中学修猷館を経て、1909年(明治42年)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、外務省嘱託を経て、1910年(明治43年)に海軍主計中尉に任官した。1925年(大正14年)、主計中佐で予備役となる。その間、日独戦争、シベリア出兵に従軍した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治… 斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治16年)5月18日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、福井県知事、福井市長。 宮城県出身。斎藤忠治郎の三男として生まれる。山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り警視庁見習となる。以後、徳島県理事官、福井県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、奈良県書記官・内務部長、富山県書記官・内務部長などを歴任。 1930年8月、福井県知事に就任。1931年12月18日まで在任して休職し、同月24日に依願免本官となり退官した。
堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月1… 堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月17日 - 1963年(昭和38年)6月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲民政党)。津市長。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。旧制三重県立津中学(現・三重県立津高等学校)を経て、1908年(明治41年)、早稲田大学大学部政治経済科を卒業。『東京日日新聞』記者となり、また一年志願兵として陸軍三等主計に任じられ、さらにアメリカ合衆国のコロンビア大学、イギリスのロンドン大学に留学した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1922年(大正11年)から1927年(昭和2年)まで『中外商業新報』記者を務めた。
別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5… 別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5月17日 - 1931年(昭和6年)5月16日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 山口県豊浦郡滝部村(豊北町を経て現下関市豊北町大字滝部)出身。別府玄三の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り福岡県試補となる。 以後、福岡県理事官、群馬県理事官兼視学官、内閣書記官兼国勢院書記官、法制局参事官、拓殖事務局長などを歴任。 1924年6月、島根県知事に就任。1926年9月、奈良県知事に転じた。1927年5月、栃木県知事に就任。
小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月1… 小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月13日 - 1930年〈昭和5年〉12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる。 欣一は日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12… 松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12日 - 1958年(昭和33年)7月17日)は、明治末から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)、奈良県宇陀郡松山町長(3期)、同郡大宇陀町長(1期)。 奈良県宇陀郡松山上中町(松山町大字上中、大宇陀町を経て現宇陀市大宇陀上中)で、林業・松尾徳三郎の二男として生まれた。1903年(明治36年)大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を卒業し、大和銀行(現南都銀行)に入行した。1909年(明治42年)奈良水力電気の創立に参画した。1911年(明治44年)9月、家督を相続した。奈良県農会議員、宇陀郡農会長、同教育会長に就任。実業界では、大和銀行監査役、大和電気専務取締役、大正水力電気取締役、宇治川電気取締役、三芳索道取締役、信貴生駒電気鉄道(のち信貴生駒電鉄)取締役、奈良県農工銀行取締役、南都銀行取締役、大和貯蓄銀行取締役、吉野銀行監査役、奈良信託監査役、新日本工業取締役、松尾合名会社代表社員などを務めた。
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7… 長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位勲一等功一級海軍大将。第18代台湾総督。福井県足羽郡社村(現:福井市)出身。 医師・長谷川次仲の次男。海軍を志したのは福井中学校4年在学中のこと で、退学し正則英語学校に転校。この年海軍兵学校第31期に入校した。席次は入校時196名中7番、卒業時は173名中6番。福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。
谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16… 谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1979年〈昭和54年〉11月21日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選2回)。鳥取銀行取締・相談役。 鳥取県岩美郡大路村(のち岩美郡米里村東大路、現・鳥取市東大路)の豪農の家に生まれた。谷口竫晃の長男。1902年、鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。農業を営む。 鳥取税務署管内所得調査委員、広島税務署監督局管内所得審査委員、鳥取県議、米里村議、岩美郡農会長、鳥取県農会議員となる。因伯産業社長、大正鳥取銀行取締役、鳥取新報社監査役、鳥取県米穀会副会長、鳥取銀行頭取、鳥取大丸取締役となる。