安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9… 安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1965年〈昭和40年〉8月24日)は、日本の詩人である。本名は勝(まさる)。奈良県奈良市出身。 大連で北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊。その後、「詩と詩論」の創刊に参加、新しい散文詩運動を推進した。詩集に『軍艦茉莉』(1929年)、『亜細亜の鹹湖』(1933年)、『韃靼海峡と蝶』(1947年)などがある。 旧岸和田藩士の子として生まれる。麹町小学校、堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。
松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 … 松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉7月10日)は、日本の政治家、弁護士、旧鶴岡市第8代市長。栄典は正五位・勲三等・旭日中綬章。哲学者・木田元の伯父。
三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日… 三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日 - 1982年(昭和57年)1月19日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。
橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 19… 橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 1985年9月12日)は、日本の経営者。蝶理社長、会長を務めた。大阪府出身。位階は従四位。 1919年に神戸高等商業学校を卒業。三井物産、東洋曹達工業での勤務を経て、1951年に互洋貿易社長に就任し、1960年1月には蝶理社長に就任。1970年5月に会長に就任し、1978年6月に相談役を経て、1980年6月には顧問に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年9月12日心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7… 稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本の農民運動家、政治家、衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。 北海道虻田郡喜茂別町出身。 1918年北海中学校(旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。 早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年に労働農民党に入党。 1928年の三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。 1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。 1940年に東方会、石原莞爾の東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。
松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7… 松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7日 - 1944年〈昭和19年〉9月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、星河村長、忍町長。 埼玉県北埼玉郡星河村(現行田市)で、醤油醸造業・松岡三五郎の長男として生まれる。1915年、埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)。1920年、東京帝国大学農学部農学実科を卒業した。1923年から1931年まで忍高等女学校で理科・実業科嘱託教師を務めた。 また、星河村農会長、蚕業組合長、忍貯蓄銀行取締役頭取、忍商業銀行(現・りそな銀行・埼玉りそな銀行)取締役頭取、星河村会議員、同村長、忍町会議員、同議長、同町長、埼玉県会議員、帝国在郷軍人会北埼玉郡連合分会長などを歴任。
妹尾 芳太郎(せのお よしたろう、1898年(明治31年)3… 妹尾 芳太郎(せのお よしたろう、1898年(明治31年)3月7日 - 1969年(昭和44年)1月19日)は、日本の政治家。徳島県吉野川市出身。 麻植郡山瀬町山崎(現在の吉野川市)生まれ。1917年(大正6年)、徳島県師範学校(現在の徳島大学)を卒業。 師範学校卒業後、麻植郡山崎尋常高等小学校訓導、師範学校付属小学校訓導、三好郡加茂尋常高等小学校長、徳島県視学、徳島県学務部学務課長、美馬高等女学校長を歴任。 1939年(昭和14年)に徳島市助役に就任。1947年(昭和22年)には公選により選ばれた初めての徳島市長に就任、1948年(昭和23年)まで務めた。 市長退任後は長崎県に行き、高田水産副社長などを務めた。
杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月… 杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月5日 - 1983年〈昭和58年〉3月30日)は、日本の瞽女。晩年は「高田瞽女最後の親方」と呼ばれた。8歳で巡業に出て以降、1973年(昭和48年)に廃業するまで、主に新潟県の頸城三郡と長野県の上田地方を巡った。名前はキクエ、キクヱともされる。 1898年(明治31年)3月5日、新潟県中頸城郡諏訪村東中島(現在の上越市東中島)に青木久治・ウミの長女として生まれた。6歳の時にはしかを患い、医師の誤診のため失明した。 1904年(明治37年)3月9日、7歳のキクイは杉本マセに正式に弟子入りし、瞽女となった。1か月後の4月2日には西頸城への旅に連れていかれた。
前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年… 前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。 鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。鹿児島県立加治木中学校(旧制)卒業後、海軍兵学校に入学(第46期)。同期生に山階宮武彦王、猪口敏平らがいる。 1918年(大正7年)11月21日卒業。翌年8月、少尉に任官。オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。
田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989… 田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989年12月19日)は広島文理科大学(現広島大学)の理学研究者。 福島県出身。X線および電子線による結晶解析の研究においてで、メタ硼酸の結晶構造の解析にフーリエ解析法を用いる方法を提案した。 広島大学退官後は、大阪電気通信大学学長に就任し、持ち前の温厚な性格と冷静な発言で、学生紛争を平和裏に終結に導いた。1970年、勲三等瑞宝章受章。1989年、腎不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
宮里 栄輝(みやさと えいき 、1898年(明治31年)3月… 宮里 栄輝(みやさと えいき 、1898年(明治31年)3月2日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の政治家。沖縄県真和志市(現・那覇市)長。立法院議員。 沖縄県真和志間切(のち島尻郡真和志村→真和志市、現・那覇市)与儀に生まれる。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を経て、熊本の第五高等学校に入るが、1年で中退する。東京の私立大学(大学名不明)に入るが、ここも中退した。その後は沖縄県立図書館に勤務する。以後は沖縄文化の研究に没頭する。1940年に図書館を退職。翌年開南中学校講師となる。1942年、小学校教師の石川初子と結婚する。1945年、熊本に疎開し、終戦を迎える。終戦後は沖縄県の疎開者の生活を守る活動をし、沖縄人連盟の九州本部の会長に選ばれ、1946年に沖縄に戻った。
喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983… 喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983年5月2日)は日本の詩人、作詞家。 長男は京都大学文学部名誉教授の喜志哲雄。 1898年(明治31年)大阪府堺市に生まれる。1915年(大正4年)大阪府立堺中学校を卒業後、早稲田大学高等予科入学。翌年英文学科第二部に入学。1917年(大正6年)在学中に三木露風が主宰する第三次「未来」「リズム」の同人となる。1919年(大正8年)早稲田大学卒業、同年に大阪時事新報社に入社。1925年(大正14年)大阪時事新報社を退社し、神戸女学院大学部専任講師に就任。以降、中断期間も挟みながら1963年(昭和38年)定年まで教授を務める。1966年(昭和41年)園田学園女子大学文学部教授に就任。
安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1… 安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1日 - 1943年(昭和18年)1月2日)は、日本の海軍軍人。大田実と共に海軍を代表する陸戦の権威として知られた人物で、太平洋戦争において戦死後2階級特別進級した海軍中将である。 広島県府中市出身、広島高等師範附属中学を経て1918年(大正7年)海軍兵学校第46期を卒業。席次は124名中66番。同期生の山本親雄は安田の人柄を「剛毅闊達、稚気愛すべき好漢」としている。 砲術学校高等科学生を修了し、「比叡」・「陸奥」の各分隊長を歴任。次いで砲術学校専攻科学生となり、陸軍歩兵学校に派遣された。砲術学校専攻科学生は数年に一人という存在で、この課程を経た陸戦専門家は1942年(昭和17年)で7名のみである。
大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年… 大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年)3月1日 - 1967年(昭和42年)11月23日)は、日本の工学者、官僚。工学博士。室蘭工業大学元学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水理工学・河川工学。富山県黒部市出身。河川水理学の権威で北海道開発における技術的指導者であった。 1922年(大正11年)九州帝國大學工学部土木工学科を卒業し、東洋アルミナムや、日本電力に勤務。1925年(大正14年)5月に北海道帝國大學工学部講師。1925年7月に同助教授。1942年(昭和17年)に論題「段落個所に於ける流体運動」で北海道帝国大学より工学博士号受く。1942年北海道帝國大學工学部教授(水理工学・河川工学講座を担当)。
小林 良正(こばやし よしまさ、1898年3月1日 - 19… 小林 良正(こばやし よしまさ、1898年3月1日 - 1975年12月29日)は、日本の経済学者。経済学博士。専修大学名誉教授(第一号)。いわゆる『講座派』に属し、マルクス経済学の立場から日本資本主義の分析をおこなった。 東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、1923年(大正12年)に専修大学講師、1929年(昭和4年)には同学教授になった。1930年(昭和5年)、山田盛太郎、平野義太郎とともに治安維持法違反の名目で検挙、不起訴となるが教授を辞任して社会評論家として活動する。1932年(昭和7年)から岩波書店で刊行された『日本資本主義発達史講座』に論文を執筆、『講座派』の有力なメンバーとして労農派との論争を行う。
小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 19… 小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 1984年2月11日)は、日本の政治家・官僚。郵政大臣。 神奈川県足柄上郡酒田村(現・開成町)に、酒造業・小金仁左衛門の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、一高を経て、1922年東京帝国大学法学部を卒業、農商務省に入省する。特許局属。商工省鉱山局長、鉄鋼局長、燃料局長官を歴任した。 戦後の1949年第24回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から無所属で立候補し当選する(当選同期に佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・有田喜一など)。
石井 政一(いしい まさかず / せいいち、1898年(明治… 石井 政一(いしい まさかず / せいいち、1898年(明治31年)2月28日 - 1997年(平成9年)2月24日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選福島県知事。 奈良県出身。石井庄太郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 以後、大阪府監察官、岡山県書記官・警察部長、内務事務官兼内務書記官、内務省土木局港湾課長、同道路課長、大臣官房文書課長、神社局総務課長などを歴任。 1944年4月、福島県知事に就任し終戦を迎えた。1945年10月27日、知事を依願免本官となり退官。1946年1月に公職追放となった。
河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2… 河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月28日)は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 茨城県東茨城郡吉田村吉沢(現水戸市堀町 )で、河原田太三郎の三男として生まれる。東京世田谷自動車学校を卒業した。 福島自動車学校教授を経て、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任。
武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 197… 武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 1972年6月20日)は、日本の外科医。専門は、消化器外科学。医学博士。東北大学名誉教授。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)生まれ。茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を経て、東北帝国大学医学部を卒業した。同医学部第一外科学教室教授として多くの門下生を育て、日本外科学会の重鎮として長く活躍した。終生のテーマは「胃癌の外科療法」であり、同大学医学部第三内科(黒川利雄教授)との公私とも綿密な連携により生涯で2000例の手術を行った。定年退官後は、福島県立医科大学学長及び宮城県成人病センター(現在の宮城県立がんセンター)院長を務めた。
三浦 義一(みうら ぎいち、1898年〈明治31年〉2月27… 三浦 義一(みうら ぎいち、1898年〈明治31年〉2月27日 - 1971年〈昭和46年〉4月10日)は、日本の右翼。フィクサー。 日本銀行総裁だった一万田尚登の親戚筋の立場を利用して、戦時中に日本金銀運営会に入り込み、その組織と利権を掌握した。 大分県出身。父の三浦数平(大分県士族)は大分市長、衆議院議員を務めた。 旧制大分中学から早大予科に進む。文学を志し、北原白秋の門下生として住み込むようになる。だが、肺結核に罹患し帰郷。父が法律顧問をする九州水力電気(後の九州電力)に入社。酒とドストエフスキーに浸る日々をすごす。 再上京すると同郷の後輩の波津久剣が経営する「やまと新聞」の編集長矢部周と知り合い、国家主義運動に参加するようになる。
植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月… 植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月27日 - 1988年〈昭和63年〉5月20日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。帝国造林社長。位階は正三位。 東京都出身。藤井鼎・貞子の七男に生まれ、植竹三右衛門の養子となる。1924年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 日本大学講師、東邦電力勤務を経て1935年に東野鉄道(現・東野交通)支配人となり、以来専務社長を歴任して1948年に会長となる。1947年以来5回参議院議員に当選。民主党自由党各総務、党政調会副会長、副幹事長、党紀委員長を歴任。 1951年、参議院運輸委員長として運輸事情調査のため渡米。1959年6月、第2次岸内閣改造内閣の郵政大臣に任命され、同年9月万国電気通信会議政府首席全権として渡欧。
岡崎 源一(おかざき げんいち、1898年〈明治31年〉2月… 岡崎 源一(おかざき げんいち、1898年〈明治31年〉2月26日 - 没年不明)は、日本の弁護士、検察官。東京弁護士会理事。 三重県河芸郡一身田村字上津部田(現・津市)出身。岡崎和吉の長男。1918年、第二高等学校を卒業。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、司法省に入り司法官試補となり、同年12月に判事に任官する。 裁判所に勤務する。1926年1月に官を辞し、弁護士となる。日本橋区本銀町四丁目に事務所を開く。高木益太郎の長女と結婚する。 1929年12月11日に高木益太郎が亡くなると、その法律事務を岡崎法律事務所が引き継ぐ。また法律新聞社長となる。1952年5月から1954年4月まで司法研修所教官をつとめた。
高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月… 高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月25日 - 1966年〈昭和41年〉5月31日)は、日本の政治家。長男は元和歌山市議会議員の高垣弼。曾孫はテレビ朝日アナウンサーの島本真衣[要出典]。 1898年(明治31年)2月25日、和歌山県有田郡田殿村(現在の有田川町)で高垣紋之助の長男として生まれる。父が事業に失敗したため、1912年(明治45年)から地元の郵便局に勤務し、新宮郵便局、和歌山郵便局を経て、大阪中央電話局に転任した。1916年(大正5年)、退職して南海鉄道に入社したが、1918年(大正7年)には鉄道院に転職した。 1925年(大正14年)からは和歌山市三番丁の中村愛三郎法律事務所に勤め、関西大学で法律学や政治学について学んだ。
宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 -… 宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 - 1985年8月9日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1920年に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、東邦電力(現・九州電力)での勤務を経て、西日本鉄道の前身である福博電車に入社した。 旧帝国大学出身者が学閥を組んで経営の中心となっていた西鉄の中で、高商卒の宮田はまさに「叩き上げ」で出世していく。常任監査役、常務、専務を経て、1960年から1963年11月までに社長を務めた。在任中に西鉄ライオンズのオーナーも務めた。 西鉄不動産、筑豊電気鉄道、大分交通、テレビ西日本、福岡スポーツセンターなどの各取締役を歴任した。
今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23… 今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23日 - 1982年〈昭和57年〉6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は少将。 長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。
相田 長平(あいだ ちょうへい、1898年2月22日 - 1… 相田 長平(あいだ ちょうへい、1898年2月22日 - 1983年8月8日)は、日本の経営者。富士電機製造社長、会長を務めた。 栃木県出身。1919年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に富士電機製造(現在の富士電機)に入社。1946年に取締役に就任し、1953年12月に常務を経て、1964年11月に副社長に就任し、1965年に社長に昇格。1968年11月に会長を就任。 1968年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月8日心不全のために死去。85歳没。
東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月… 東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月22日 - 1978年(昭和53年)4月4日)は、東京都生まれの浪曲師。本名は野口 金蔵。10年以上途絶えていた浪曲の寄席定席を木馬亭で復活させた貢献者。 東京市日本橋区生まれ。1919年(大正8年)、二代目東家楽遊門下の東家小楽遊に入門。1923年(大正12年)に真打。 情感たっぷりの節回しと、タンカのうまさで(劇場を満杯にするような大看板ではないが)「寄席打ちの名人」の名をほしいままにする。正岡容によれば「東家一門においては東家楽鴈以来の」芸達者で「諧謔」味や「憂愁」味の節回しを自在にこなし、長谷川伸が『芸がうま過ぎるのが処世では却って不利みたいな』と評したという。
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年… 柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。 旧制長野県野沢中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第30期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第46期入校。入校時成績順位は131名中第6位、卒業時成績順位は124名中第16位。 柳澤は、海軍通信学校高等科課程を修了しているが、当時の日本海軍で通信関係に進むものに、成績優秀かつ健康に恵まれた者は比較的少なく、このことが海軍の情報軽視の背景の一つであったとされる。柳澤は首席で卒業している。
永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月2… 永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月20日 - 1984年(昭和59年))は、日本の内務官僚・実業家。高知県知事。1953年(昭和28年)12月25日の奄美群島本土復帰立役者のひとり。 鹿児島県大島郡笠利村の佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校卒業、1922年(大正11年)旧制第七高等学校造士館卒業、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。 愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。
田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月2… 田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月20日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府河内郡で、田中秀吉の長男として生まれる。1921年(大正10年)関西大学専門部法律科を卒業した。 1922年(大正11年)弁護士を開業。1931年(昭和6年)大阪府会議員に選出され3期在任し、同副議長も務めた。1937年(昭和12年)大阪市会議員に当選。その他、南方経済協会理事長、高津町会連合会長、高津警防団長、三和信用組合理事長なども務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
浜田 観(はまだ かん、旧字体: 濱田 觀、1898年(明治… 浜田 観(はまだ かん、旧字体: 濱田 觀、1898年(明治31年)2月20日 - 1985年(昭和60年)10月6日)は、日本画家、日本芸術院会員。本名は浜田 仙太郎(はまだ せんたろう)。位階は正五位。 兵庫県(現在の姫路市手柄)生まれ。京都絵画専門学校卒。金島桂華の紹介で竹内栖鳳に師事。在学中に帝展入選。戦後は日展に出品。1965年(昭和41年)日本芸術院賞受賞。1984年(昭和59年)芸術院会員。勲四等旭日小綬章、紺綬褒章受章。日展顧問。1985年死去。死没日付をもって正五位に叙された。花鳥画を得意とした。日本画家浜田昇児は子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月1… 藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月19日 - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。1938年の飛行によって、距離と1万キロ速度において、当時の世界新記録を達成した。 本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。 1924年(大正13年)10月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任官し所沢陸軍飛行学校付となる。1926年(大正15年)1月、第21期操縦学生となり操縦訓練を受ける。
河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月… 河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月19日 - 1974年〈昭和49年〉5月20日)は、日本の居合道家、剣道家、武道家。無双直伝英信流第20代宗家。段位称号は全日本居合道連盟範士、名人位。旧大日本武徳会剣道錬士。現大日本武徳会剣道九段。百錬は号で、本名は稔。 無双直伝英信流第18代宗家、穂岐山波雄ならびに第19代宗家、福井春政に師事し、その後第20代宗家を継いだ。居合に関する書籍を多数出版しており、中でも『大日本居合道図譜(1943年)』、『無雙直傳英信流居合兵法叢書(1955年)』、『居合道真諦(1962年)』などは名著であり、半世紀以上経った現在でもこれをバイブルとする居合道家は少なくない。
石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 -… 石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 - 1979年8月22日)は、日本の英語学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1965年)(学位論文「英文法論」)。東京教育大学名誉教授。 福岡県福岡市出身。東京高等師範学校卒。旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)教諭をへて東京教育大学教授、1959年定年退官、名誉教授、日本大学教授、1968年大妻女子大学文学部長。1965年「英文法論」で日本大学より文学博士の学位を取得。 1979年8月22日、肝硬変のため東京女子医科大学病院で死去。81歳。
中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 19… 中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 1969年8月24日)は、大正時代から昭和時代にかけての女流歌人。 旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている 。 1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。
本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 197… 本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 1978年4月10日)は、日本の教育者。官僚。 1898年、熊本県に生まれる。1916年、第五高等学校一部甲類に進学、1922年、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学。1925年に大学院に進学、同時に龍谷大学講師となった。1926年、福岡県女子専門学校教授、1928年に旧制静岡高等学校教授に就任。1936年に文部書記官、専門学務局学芸課長を務めた後、1945年7月、京都帝国大学事務監に転出。1949年に日本学術振興会事務局長となる。 1964年から1965年に熊本大学学長、文化財保護審議会委員、日本学術会議理事などを経て、1974年から1978年3月まで中九州短期大学の初代学長を務める。
戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月1… 戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月17日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福岡県出身。福岡県立中学修猷館を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。その後、東京帝国大学造兵学科を卒業する。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進級と同時に陸軍航空技術研究所哈爾濱支所員を発令される。1944年(昭和19年)5月、南方軍航空技術部員を経て、同年7月より第3陸軍技術研究所員を兼ねた。その後、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
宗藤 圭三(むねとう けいぞう、1898年2月16日 - 1… 宗藤 圭三(むねとう けいぞう、1898年2月16日 - 1989年9月29日)は、日本の統計学者。 広島県賀茂郡寺西町(現東広島市)出身。1921年同志社大学法学部経済科卒、同助手、1922年講師、1927年教授、1933年法学部長、1937年「統計学原理」で京都帝国大学経済学博士。1949年同志社大学経済学部長、教授、1968年定年、名誉教授となる。
藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15… 藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の実業家。日本電力を経て富山軽銀社長となる。その後、自身の会社が武蔵野化学研究所へ買収され同社の取締役となり、協和発酵(現:協和キリン)の設立時従業員となり、後に同社の専務取締役となった。岡山県矢掛町出身。 1898年(明治31年)岡山県小田郡小田村(現:矢掛町)の河上寅三郎の次男として生れる。幼くして、岡山県上房郡川面村の藤井浅之助の養子となる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1916年(大正5年)同校を卒業し、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。 1919年(大正8年)六校を卒業し、九州帝国大学工学部へ進学する。
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15… 井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。 1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年(嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ土居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。 1905年、加茂小学校入学。
佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日… 佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1999年〈平成11年〉9月26日)は、大正時代から昭和時代の北海道の経営者・教育者。位階は正四位。 北海道興農公社の設立に関わり、後身の雪印乳業の初代社長を務めた。また、長らく学校法人酪農学園の理事長を務めた。 札幌市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校・ 北海道帝國大學農学部卒業。アメリカのオハイオ州立大学農科大学で細菌学と乳業を学び、1922年(大正11年)に帰国。家業である農業を継ぐ。 1925年(大正14年)、父・善七が設立者の一人であった有限会社北海道製酪販売組合の技師となり、雪印の名で「北海道バター」を製造販売。1940年(昭和15年)から有限会社北海道興農公社の専務を務め、1946年(昭和21年)には経済安定本部勤務。
青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月1… 青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1976年〈昭和51年〉8月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の実業家、財界人。品川白煉瓦社長、東京電力社長・会長として会社経営に当たり、公職では日本経営者団体連盟(日経連)理事、国家公安委員会委員長などを務めた。著書も残している。 父母は東京で世帯をもっていたが、母だけが父の実家に帰ってお産したため静岡県静岡市で生まれた。青木儀助の長男。仔細あって母は父と別れた。父は日本統治時代の朝鮮に行ってしまい、祖母と一番末の叔母との三人暮らしだった。小石川の富坂の近くで育つ。父と別れたのは四ツのときで、おぼろげに印象が残っているだけである。
山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治… 山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月10日)は、日本の旧皇族。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第一王子。海軍軍人で、最終階級は海軍少佐。皇族で初めて海軍航空隊に所属し、空の宮様と呼ばれた。 実母の範子は、貞明皇后の実姉であるため、武彦王は昭和天皇といとこ同士にあたる。 1898年(明治31年)2月13日、山階宮菊麿王と同妃範子の第1男子として誕生。誕生間もなく2月17日に、祖父山階宮晃親王が薨去しており、御七夜を待たず2月16日に「武彦」と命名された。 1908年(明治41年)5月、父菊麿王の薨去を受け、葬儀では喪主を務めた。
安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月… 安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1983年〈昭和58年〉12月13日)は、日本の易学者、陽明学者、思想家。私塾「金鶏学院」の設立、右翼政治団体「国維会」や学術団体「師友協会」の創立など、日本の伝統的な哲学・思想の「日本主義」の立場から保守派の長老として戦前から戦後に亘って活躍した。吉田茂(元内閣総理大臣)などの大物政治家とも深い交流があった。 1898年(明治31年)に現在の大阪府大阪市中央区長堀(旧順慶町)において、素封家の父・堀田喜と母・悦子の四男として誕生。堀田家は尾張の出身で紀氏の流れである。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主の堀田真快がいる。 1904年(明治37年)に大阪市芝尋常小学校入学。
伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12… 伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12日 - 1988年〈昭和63年〉10月2日)は、日本の内務官僚、政治家。長野県知事(官選第31代)、群馬県知事(公選第2代)、参議院議員(1期)。 1898年(明治31年)、群馬県吾妻郡中之条町に、伊能八平の三男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、東北帝国大学農科大学予科へ進学。1923年(大正12年)東北帝国大学理学部地質学科を卒業。1924年(大正13年)高等文官試験行政科に合格、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省入省。警視庁警部補からキャリアを積み、警視庁警衛課長を務めた。
小林 利一(こばやし りいち、1898年(明治31年)2月1… 小林 利一(こばやし りいち、1898年(明治31年)2月12日 - 没年不明)は、大正から昭和にかけての満鉄職員、鉄道官僚。朝鮮総督府交通局長を務めた。 大分県速見郡別府町で小林豊蔵の次男として生まれる。1922年11月大学の卒業を待たずして高等文官試験行政科に合格し、1923年3月東京帝国大学政治学科を卒業。満鉄に入り、経理課勤務、京城鉄道学校講師を務めたのち、1925年、朝鮮総督府鉄道局に転じて書記になった。1926年3月には鉄道局副参事、1927年5月には鉄道局参事、1932年6月には鉄道局経理課長に就任。その後、鉄道局理事、京城地方鉄道局長を経て、1942年11月に鉄道局総務課長に就任。
坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月1… 坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月11日 - 1984年(昭和59年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。農業・坂間重次郎の長男として生まれる。厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)までシベリアに派遣された(ロシア語研究)。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となり、1930年(昭和5年)12月、ポグラニチナヤ特務機関長に転じた。
斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1… 斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1970年10月31日)は、日本の実業家・政治家。TDKの創業者で衆議院議員・科学技術政務次官を務めた。 1898年(明治31年)斎藤宇一郎とミネの三男として、秋田県由利郡平沢村(現にかほ市)に生まれた。父の宇一郎は秋田の農業の発展に尽力し、代議士にもなった人である。憲三は地元の平沢小学校を卒業した後、本荘中学(現:秋田県立本荘高等学校)への進学を希望していたが、父の勧めにより大阪の私立学校である桃山中学(現:桃山学院高等学校)に入学した。 1922年(大正11年)早稲田大学商学部を卒業後、農家の副業奨励のため炭焼きや養豚などの事業に取り組むが、いずれも失敗する。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984… 泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日)は、第二次世界大戦中の官選沖縄県・香川県知事。沖縄県知事として、沖縄戦前の住民保護や防衛態勢構築に携わったが、連合国軍上陸前に転任した。 山梨県北都留郡大原村(現・大月市)に教育者泉文作の三男として生まれる。旧制第七高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、青森県庁への赴任を皮切りに、全国各地の警察畑を歩む。この間に妻となる女性との交際を深めるが、親族の反対で入籍はできず、内縁関係として結婚生活を始めた。 1943年7月、北海道庁内政部長を務めていた泉に、沖縄県知事の辞令が下り、7月26日に赴任した。
島田 芳文(しまだ よしふみ、1898年(明治31年)2月1… 島田 芳文(しまだ よしふみ、1898年(明治31年)2月11日 - 1973年(昭和48年)5月3日)は昭和期の作詞家。本名は島田義文。 福岡県豊前市黒土生まれ。島田芳文の実家は黒土の大地主の家であった。早稲田大学出身。中学時代に島田青峰、若山牧水に短歌を学ぶ。1927年(昭和2年)、処女詩集「農土思慕」刊行。 1929年(昭和4年)、コロムビアレコードの専属作詞家になる。1931年(昭和6年)には、古賀政男と組んだ一連の作品「キャンプ小唄」、「丘を越えて」、「スキーの唄」が大ヒット。藤山一郎の歌声でたくさんの人々に愛唱された。 1941年(昭和16年)に「雪の満州里」を発表後、しばらくの間作詞家としての活動を休業。