大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1… 大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1928年3月25日)は、大正から昭和初期にかけての日本の登山家・作家。登山に関する多くの文章を著したが、登山中の遭難により死亡した。 東京府東京市芝区桜川町(現在の東京都港区虎ノ門)で大島善太郎・さく夫婦の三男として生まれる。祖父・大島善十郎は越中八尾出身で、東京に出て煙草の販売業を営んできたが、煙草の専売化によって廃業に追い込まれた。しかし、それまでの利益で買った貸家からの収益で、家族はそれなりの生活ができていたという。12歳の時に喘息の発作で倒れ、八尾に住んでいた伯母の元で療養生活を送っている。1914年、八尾尋常高等小学校高等科を卒業したのを機に帰京して慶應義塾商工学校に入学する。
蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975… 大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)は、日本の考古学者。國學院大學教授。旧姓は谷川だが、昭和3年(1928年)、母方の大場家を相続し、以後、大場姓となる。楽石と号す。 古代日本の信仰あるいは精神世界に関心を持ち、神道や祭祀遺跡などの遺跡を研究した。中でも、神道考古学を体系化した。本人が「私の考古学はただの考古学ではない。考古民俗学(または民俗考古学)だ」と言うように、文献史学・民俗学・考古学三位一体のスケールの大きな古代日本の研究が特徴である。主著は『大場磐雄著作集』(全8巻)にまとめられている。
都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 … 都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 - 1991年(平成3年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。陸士33期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少将。 大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身。農業・都甲喜佐久の三男として生まれる。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第64連隊付となる。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。 1932年(昭和7年)12月、歩兵第37連隊中隊長に就任。1933年(昭和8年)12月、参謀本部付勤務(支那課)となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、北京・太原・長沙駐在)、中国駐在を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 19… 川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 1988年4月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県出身。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。1922年日本共産党に参加、モスクワのコミンテルン第4回大会に出席した。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会などに在籍し、マルクス主義文献の翻訳などを行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
碓井 忠平(うすい ちゅうへい、1899年〈明治32年〉9月… 碓井 忠平(うすい ちゅうへい、1899年〈明治32年〉9月 - 没年不明)は、昭和時代の朝鮮総督府官僚。弁護士。黄海道知事。 碓井忠治の長男として山口県に生まれる。1922年(大正11年)高等試験に合格し、翌年東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、警察講習所教授、専売局事務官、農林局土地改正課長、殖産局商工課長、総督官房人事課長などを経て、1940年(昭和15年)10月、総督官房審議室主任となる。その後、1942年(昭和17年)10月、黄海道知事に就任した。1944年(昭和19年)退官した。 朝鮮飛行機工業専務を経て、終戦後は弁護士を開業した。
簾 彦次郎(すだれ ひこじろう、1899年9月 - 没年不明… 簾 彦次郎(すだれ ひこじろう、1899年9月 - 没年不明)は、日本の発明家。 愛媛県桜井町(現在の今治市)出身。1918年に大阪市関西電業株式会社に機械仕上工として入社した。1919年に大阪電灯安治川発電所に機械修繕工に転職し、1922年に技手補となった。大阪電灯解散後は大同電力株式会社に引き継がれ、1928年3月まで勤務した。その後、大阪製図学校特許部を経て、針布製造機の試作を行った。 1933年(昭和8年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
服部 直彰(はっとり なおあき、1899年(明治32年)9月… 服部 直彰(はっとり なおあき、1899年(明治32年)9月 - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事、陸軍司政長官、中国地方副総監。 熊本県鹿本郡大道村藤井(現山鹿市)出身。熊本県立鹿本中学校、第五高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、大分県警察部勤務、山梨県警察部勤務、大阪府警察部勤務、京都府事務官、鹿児島県書記官・警察部長、警視庁保安部長、同刑事部長、福岡県総務部長、大阪府総務部長などを歴任。 1941年1月、高知県知事に就任。戦時体制の整備などに尽力。
不破 武夫(ふわ たけお、1899年9月 - 1947年12… 不破 武夫(ふわ たけお、1899年9月 - 1947年12月27日)は、日本の法学者。 東京府東京市出身。第一高等学校を卒業し、1923年東京帝国大学法学部法律科を卒業。1925年3月に司法官試補となり、1926年11月に東京地方裁判所判事・東京区裁判所判事となる。同助手(恩師:牧野英一)を経て、1929年2月、京城帝国大学助教授に着任。1930年6月に教授昇進。1939年、九州帝国大学教授となり、同法文学部長をつとめた。1947年、学習院次長。1948年、「未必の故意」を九州帝国大学に提出して法学博士号を取得。
森 八三一(もり やそいち、1899年(明治32年)8月31… 森 八三一(もり やそいち、1899年(明治32年)8月31日 - 1990年(平成2年)6月9日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)。参議院副議長(第12代)。 1917年(大正6年)愛知県立農林学校(現愛知県立安城農林高等学校)卒業。栃木県産組課長、中川農業協同組合組合長、全国購買農協連合会農産課長及び常務理事、日本藁工芸品統制常勤理事、全国農業会農産局長、全国農業協同組合連合会参事を歴任し、1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補し、初当選(無所属)、以降4期務める。 1954年(昭和29年)参議院農林委員長、1971年(昭和46年)参議院副議長。1972年(昭和47年)春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。
島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月3… 島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月30日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、昭和期の日本の実業家、政治家、華族(男爵)。貴族院男爵議員、参議院議員(2期)。重富島津家第8代当主(越前島津家第23代当主)。 鹿児島県鹿児島市清水町出身。男爵・島津壮之助の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)4月15日、男爵を襲爵した。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制) を経て、1923年(大正12年)成蹊実業専門学校本科を卒業。三菱銀行に勤務(約10年間)。以後、三和電機社長、鈴木商店代表者、鹿児島製紙興業社長などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治… 鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治32年〉8月30日 - 1978年〈昭和53年〉5月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。 衆議院議員(3期)、労働大臣。 山梨県北巨摩郡出身。1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済学部を卒業。 朝日新聞社に入社し海外特派員となる。京城支局長を経て、1940年(昭和15年)、論説委員に就任し1941年(昭和16年)に退社。その後、日本印刷文化協会理事、山梨日日新聞論説委員を務める。 戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から山梨県全県区(当時)で立候補するが落選した。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山梨県全県区で立候補し当選。
岡 俊二(おか しゅんじ、1899年(明治32年)8月29日… 岡 俊二(おか しゅんじ、1899年(明治32年)8月29日 - 1974年(昭和49年)10月22日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 医師・岡玄卿の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)5月1日、男爵を襲爵した。 1925年、東京帝国大学経済学部を卒業した。同年、第一生命保険に入社し、その後、同社秘書役を務めた。 1945年(昭和20年)10月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小林 武治(こばやし たけじ、1899年(明治32年)8月2… 小林 武治(こばやし たけじ、1899年(明治32年)8月28日 - 1988年(昭和63年)10月12日)は、昭和期の政治家。静岡県知事・厚生大臣・郵政大臣・法務大臣。参議院議員3期。 長野県北佐久郡南大井村平原(現小諸市)に、農家の二男として生まれる。旧制野沢中学校、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科に入学。五高時代は池田勇人・佐藤栄作と同級生であった。また東大時代は濱口雄幸の息子・濱口巌根(元・日本長期信用銀行頭取)と机を並べた。 1923年高等試験行政科に合格する。逓信次官を務めたことのある濱口雄幸の勧めもあり、翌1924年に東大卒業後、逓信省に入省する。以後秘書課長、逓信省総務局、熊本逓信局、逓信院次長と順調に昇進を重ねた。
杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 19… 杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 1982年1月20日)は、日本の政治家、外交官。参議院議員(4期)。防衛庁長官(第3代)。 佐賀県杵島郡中通村(後の山内町、現武雄市)に生まれる。 1917年旧制鹿島中学校卒業。旅順中学校を経て1922年大阪市立高等商業学校(後の大阪市立大学)を卒業後。外務省に入省。アメリカ合衆国ヴァーモント大学に留学、卒業する。 帰朝後は南京総領事、本省法規課長、企画課長、大東亜省総務局長、外務省調査局長、同条約局長を歴任。 戦後、首相となった吉田茂とは何かと対立し、1946年いわゆる“Y項パージ”で外務省を追放され、弁護士となる。 1950年、第2回参議院議員通常選挙に自由党から佐賀選挙区にて立候補し当選を果たす。
橋本 朝秀(はしもと ちょうしゅう、1899年(明治32年)… 橋本 朝秀(はしもと ちょうしゅう、1899年(明治32年)8月26日 - 1960年(昭和35年)1月31日)は、日本の彫刻家。福島県安達郡二本松町(現・二本松市)出身。本名は秀次。 戦後に山崎朝雲門下の逸材として頭角を現した。また人格の誠実さ、円満さと制作に関する一途さ、精進への努力に関しては友人たちの誰しもが敬服していた。 木彫彫刻界の有力者として活躍し、伝統木彫を基盤に仏教彫刻に関する造詣を深め自作に活かした。 1919年(大正8年)上京し山崎朝雲の元で1928年(昭和3年)まで木彫を学ぶ。また同時期に本郷絵画研究所でデッサンを学んだ。 1925年(大正14年)、第6回帝展(現日展)に出品した「幻想」が初入選。
沖森 源一(おきもり げんいち、1899年8月25日 - 1… 沖森 源一(おきもり げんいち、1899年8月25日 - 1951年8月14日)は、大正・昭和期の内務官僚・政治家。最終学歴は高等小学校ながら、高等文官試験に合格して内務官僚となり、最後は佐賀県知事を務めた。 広島県御調郡市村(現在の尾道市)出身。高等小学校卒業後、苦学の末に高等文官試験に合格して内務省へ入った。香川県経済部長・岡山県経済部長・長野県内務部長を歴任後、1945年10月27日に官選知事として佐賀県知事に就任した。ところが翌1946年7月8日になって食糧供出に非協力的であるとして更迭された。その後、新憲法下の最初の知事選挙に立候補し、沖森の後任官選知事であった戸沢盛男らを破って当選を果たした。
木川田 一隆(きかわだ かずたか、1899年8月23日 – … 木川田 一隆(きかわだ かずたか、1899年8月23日 – 1977年3月4日)は、1950年代から1960年代にかけて活躍した日本の実業家。東京電力社長や、経済同友会代表幹事(1960年 - 1962年(複数代表幹事制)、1963年 - 1975年)を歴任した。「企業の社会的責任」を唱導した哲人的財界人として知られる。 福島県伊達郡梁川町で生まれ、旧制角田中学、旧制山形高校を経て、東京帝国大学経済学部で学び、在学中に河合栄治郎の講義を最前列で聴いて、河合が唱える理想主義的自由主義に傾倒した。1926年に卒業後、三菱鉱業の採用面接で河合直伝の労働法を披露し、警戒されて不採用となる。やむなく第2志望の東京電燈へ入社し、「電力の鬼」松永安左エ門に師事して民間企業人の闘魂を学ぶ。
塩田 正洪(鹽田 正洪、しおた せいこうあるいはまさひろ、1… 塩田 正洪(鹽田 正洪、しおた せいこうあるいはまさひろ、1899年〈明治32年〉8月23日 - 1972年〈昭和47年〉8月)は、朝鮮総督府官僚。 1899年8月23日、東京府で楠眞道の四男として生まれ、塩田武夫の養子となる。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。 朝鮮総督府農務課長務官、林政課長総督官房秘書官兼文書課事、農林局農務課長、江原道内務部長、殖産局鉱産課長、企画部長を経て、1942年10月23日農林局長に就任。1943年12月1日、農商局長。1944年8月17日、鉱工局長に就任し、終戦まで務めた。 アジ歴グロッサリー 植民地官僚経歴図
小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年… 小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年(明治32年)8月21日 - 1977年(昭和52年)12月11日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 茨城県新治郡九重村生まれ、同県河内郡龍ケ崎町出身。旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)、慶應義塾大学部理財科を卒業後、興亜製作所社長、茨城県塩業株式会社取締役。 次いで茨城県肥料卸商業組合、竜ヶ崎地方生活必需品配給統制組合、同食料品配給統制組合、同食糧営団格理事長。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に茨城全県区から出馬し当選。衆議院経済安定委員長となり、茨城県司法保護委員。日本進歩党院内総務、民主党民情部長、民主自由党会計監督を務める。
稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月2… 稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月20日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家。鉄道建設興業(現在の鉄建建設)元社長。 鉄道建設業協会(現在の日本建設業連合会)元会長。位階は正四位。勲四等旭日小綬章受章者。弾丸列車計画に主任技師として任命され、計画のまとめ役となった。 茨城県水戸市出身。茨城県士族、奈良女子高等師範学校名誉教授の稲葉彦六の長男として生まれる。旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省に入省した。 1925年(大正14年)鉄道技師となり、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)8月まで欧米に留学した。
間 直之助(はざま なおのすけ、1899年(明治32年)8月… 間 直之助(はざま なおのすけ、1899年(明治32年)8月20日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の動物学者、フィールドワーカー(動物生態学)、株式会社間組取締役。理学博士。 日本の霊長類学研究の黎明期より、京都大学理学部の研究員として活動し、その研究史上に大きな功績を残した。20年以上ニホンザルと生活を共にし、人間とサルとの共存の道を、生涯をかけて模索し続けた。遠藤周作の長編小説『彼の生きかた』(新潮社〈新潮文庫〉、1975年)の主人公・福本一平のモデルとして知られる。 1899年(明治32年)間組創業者・間猛馬の次男として熊本県に生まれた。 4歳のときに母が死去し、父も日露戦争後に流行した疫病を患い、事業を引退して本拠の下関から別府へ転地した。
小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 199… 小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 1996年6月10日)は、日本の日本史・日本文学研究者、広島大学名誉教授。 千葉県市川真間に生まれる。野田小学校から千葉師範学校を経て広島高等師範学校を卒業。奈良女子高等師範学校教官の後、広島文理科大学を卒業し、姫路高等学校教授を経て広島文理科大学助教授となる。1945年に広島市への原子爆弾投下により被爆、妻を失う。教授に昇任した後、学制改革に伴う大学の改組で広島大学教授に就任。1965年に定年退官し、名誉教授となる。広島大学を退いた後は親和女子大学教授を務めた。 被爆死した妻・文子への私信の形をとる被爆体験記『絶後の記録』を著したことで知られる。
鈴木 仙八(すずき せんぱち、1899年8月19日 - 19… 鈴木 仙八(すずき せんぱち、1899年8月19日 - 1967年5月14日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(5期)。 1899年東京府北豊島郡王子村(現東京都北区)に鈴木八五郎の三男として生まれる。王子町議、東京市議、東京府議を歴任する。1942年の第21回衆議院議員総選挙では東京6区(当時)から非推薦で立候補して落選した。翌年、東京都発足による第1回東京都議会議員選挙では王子区から立候補して当選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区(当時)から日本自由党公認で立候補して初当選。鳩山一郎派に属した。1947年の第23回衆議院議員総選挙からは、東京都第5区で立候補した。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1… 花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1994年10月8日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 千葉県出身。1927年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、1928年に住友海上火災保険に入社。1948年6月に取締役に就任し、同年10月に常務、1949年6月に専務を経て、1950年6月には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1964年6月には相談役に就任。 1972年6月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年10月8日、急性肺炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
井上 五郎 (いのうえ ごろう、1899年(明治32年)8月… 井上 五郎 (いのうえ ごろう、1899年(明治32年)8月16日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の実業家。中部電力会長、中部経済連合会会長を務めた。 実業家・政治家の井上角五郎の五男として東京府東京市芝区[要出典](現・東京都港区[要出典])三田[要出典]に生まれる。慶應義塾幼稚舎(1912年(明治45年)卒業)を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学工学部を卒業し、東邦電力に入社する。 1951年(昭和26年)に中部電力設立とともに、初代社長に就任する。のち会長に就任する。 1957年(昭和32年)社長時代に推進した井川ダムは施工を担当した間組社長 神部満之助の提案により自身の名「五郎」を冠した「井川五郎ダム」と名付けられた。
加藤 鐐造(かとう りょうぞう、1899年(明治32年)8月… 加藤 鐐造(かとう りょうぞう、1899年(明治32年)8月15日 - 1971年(昭和46年)7月5日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(5期)。 岐阜県土岐郡妻木村(現土岐市妻木町)で生まれる。1919年、名古屋中学校を卒業。 日本労農党に加わり、1930年、全国労農大衆党岐阜県連書記長となる。その他、妻木村会議員、同町会議員、岐阜県会議員、同参事会員を歴任。1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に岐阜県第三区から社会大衆党所属で出馬し当選した。 戦後、日本社会党に加わる。1946年4月、第22回総選挙で岐阜県選挙区から出馬して当選。以後、第24回、第26回、第28回総選挙で岐阜県第2区から当選し、衆議院議員を通算五期務めた。
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 … 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 「川石メソッド」 (Méthode de Judo Kawaishi) 、「メトードK」と呼ばれる。パリの道場に迎えられた川石は柔道の技の系統的分類を、従来の講道館五教の技よりも多い147の技数でまとめた。川石は技の分類の上で、技毎に番号をつけ記号化したものを教えることで外国人に教授することに奏功した。ボルドー大学教授ミッシェル・ブルースの研究によると川石メソッドは科学者でありヨーロッパで最初の黒帯取得者と言われているモーシェ・フェルデンクライスの影響を受けていることが言及されている。
斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月… 斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉9月19日)は、日本の日本犬研究家、芸術家、古美術研究家である。 東京都渋谷駅前の『忠犬ハチ公』を広く知らしめたことや、第1次南極地域観測隊の『タロとジロ』他の樺太犬救出のために尽力した事でも知られる。ペンネームは、斎藤弘。 社団法人日本犬保存会初代会長。財団法人日本動物愛護協会理事長。社団法人日本庭園協会常務理事。日本哺乳動物学会理事。世界動物保護連盟日本代表理事。動物友の会代表。空気銃対策協議会代表。ハチ公銅像維持会顧問。 洋画家を目指して東京美術学校を卒業したが、病気療養中に日本犬と出会い、当時、絶滅が危惧される状況にあった日本犬の保存活動をする事を決めた。
藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13… 藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、甲賀流忍術を受け継いだ忍術家・武術家。甲賀流忍術第14世(甲賀二十一家の和田惟政から14代目と称した)。本名は「藤田 勇治」(ふじた ゆうじ)。生涯本名を嫌い、著書では「藤田 勇」(ふじた いさむ)を本名とし「藤田 西湖」(ふじた せいこ)と称す。「西湖」は画家(忍術修行の一つとして画業にも熟達していた)としての雅号。幼少より家伝の忍術を修行し継承、「最後の忍者」という異名を持つ。甲賀流忍術以外に南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術も継承。 東京・浅草出身。日本大学宗教科卒業。
柴田 等(しばた ひとし、1899年8月12日 - 1974… 柴田 等(しばた ひとし、1899年8月12日 - 1974年2月17日)は、昭和期の農林官僚。戦後、千葉県知事となる。宮崎県出身。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学農学部から農林省に入る。戦時中は大東亜省に出向してハノイ・サイゴンの両総領事を務める。戦後は物価庁に移った。 日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)、旧知であった千葉県の元県議会議長・川口為之助が初代民選県知事となると、農業再建を掲げる川口の依頼で千葉県副知事となった。ところが、3年後の1950年(昭和25年)に川口が突如知事を辞任すると、国民民主党・日本社会党両党の支援を受けて県知事に初当選して以後3期務めた。だが、県議会の大半を抑えた自由党を野党にした事から県政運営に苦慮してきたが、当時は保守・革新両陣営ともに離合集散の時代が続き、県議会でもこれに中立な立場を取る立場を取る無所属会派「千葉クラブ」の台頭もあり、不安定ながらも知事の地位を維持してきた。
小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日… 小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の彫刻家。 1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・柴田町)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。 1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ。 第4回帝展(帝国美術院展覧会、現日展)に「想」を初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。第6回の帝展には「構想」を出品し、特選となった。
加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治3… 加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治32年)8月10日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、日本の実業家。協和醱酵工業(現:協和キリン)会長。従三位勲一等。工学博士。 島根県簸川郡荒茅村(現:出雲市荒茅町)に加藤伊三郎の長男として生まれた。生家は代々清酒醸造業を営んでいたが祖父の代に没落。父は村役場の書記をしていた。1923年京都帝国大学工学部卒業。四方合名会社(現:宝ホールディングス)に入社。1949年協和醱酵工業株式会社が発足。代表取締役社長に就任。1968年同社取締役会長に就任。 1952年在家仏教協会を設立。1961年東レ科学技術賞受賞。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
風早 八十二(かざはや やそじ、1899年8月10日(戸籍上… 風早 八十二(かざはや やそじ、1899年8月10日(戸籍上は8月24日) - 1989年6月19日)は、日本の法学者、弁護士(登録は1949年12月8日)。専門は刑事法、社会政策。衆議院議員(1949年1月-1952年7月)。岡山県都窪郡山手村(現・総社市)出身。1922年、東京帝国大学法学部卒業。 日本の刑事法学において、罪刑法定原則(罪刑法定主義)復活の重要性をいち早く唱えた。ベッカリーアの不朽の名著『犯罪と刑罰』の完訳を成し遂げたことで有名である(単独翻訳は1929年出版の刀江書院版。後1938年、岩波文庫の一冊として出版。戦後の1959年、妻・風早二葉との共訳として改版された)。 日本における新派刑法学(近代派)の巨頭・牧野英一の刑法研究室(東京帝国大学法学部)の助手になる(1922年-1924年3月)も、師説から離れ、日本における、いわゆるマルクス主義法学の先駆者の一人となる。
倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 197… 倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 1976年5月2日)は、日本のドイツ語学者。成蹊大学名誉教授。中国文学者の倉石武四郎の弟でもある。
由利 正通(ゆり まさみち、1899年(明治32年)8月7日… 由利 正通(ゆり まさみち、1899年(明治32年)8月7日 - 1963年(昭和38年)9月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・由利公通の二男として生まれ、兄・公真の養子となる。兄の隠居に伴い、1926年(大正15年)11月1日、子爵を襲爵した。 1923年(大正12年)3月、東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、三菱銀行に入社。その後、三井信託に勤務した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1946年(昭和21年)7月22日まで1期在任した。
紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 197… 紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。宇部市長を務めた紀藤閑之介の長男。妻は渡辺好延の次女・キク子。 山口県出身。1924年東京農業大学卒。宇部農業実践学校校長兼教諭となり、宇部市農会長、同信用購買販売利用組合長、同畜産組合長、山口県議、山口県農会長、同畜産組合連合会評議員、大政翼賛会山口県支部常務委員、また朝鮮セメント、宇部銀行、山口銀行、宇部重工業、宇部興産、宇部物産各(株)監査役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では山口1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 … 今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 - 1970年(昭和45年)12月18日)は、日本のジャーナリスト、教育者、政治家。衆議院議員、法学博士。旧姓・小林。 兵庫県加東郡河合村(現小野市)で、小林兵太郎の6男として生まれ、京都府の画家・今尾政之助の養子となる。1924年(大正13年)同志社大学法学部政治学科を卒業した。 大阪毎日新聞社に入社。その後、渡米しコロンビア大学で学んだ。帰国後、大阪毎日新聞本社、京城支局、大連支局、京都支局で勤務。東京日日新聞社に転じ、政治部副部長、事業課長、講演課長、横浜支局長、編輯局参事などを歴任。従軍記者として済南事件、満州事変、日中戦争(支那事変)を取材し戦傷も受けた。
二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8… 二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家。キッコーマン中興の祖。同社社長として、個人醸造家の集合体を近代経営化し業界トップ化した。旧名は飯田勝次。 千葉県海上郡富浦村(現旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。飯田庄作の弟である。 成東中学(現千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、野田醤油(現キッコーマン)に入社。大学では上田貞次郎ゼミに参加。上野喜左衛門(南国殖産創業者、元参議院議員)とは大学時代からの親友。入社後まもなく、労働争議を解決し、親友上野が橋渡し役となり、先代茂木啓三郎の養子となり1935年に家督を相続した。
佐山 済(さやま わたる、1899年8月4日 - 1965年… 佐山 済(さやま わたる、1899年8月4日 - 1965年5月14日)は、日本の国文学者。 東京府生まれ。東京帝国大学国文科卒。日本女子大学教授。古典を中心に日本文芸全般を論じた。
神納 照美 (じんのう てるみ、1899年(明治32年)8月… 神納 照美 (じんのう てるみ、1899年(明治32年)8月4日 - 1987年(昭和62年)9月14日)は、トロンボーン奏者、指揮者であり、日本吹奏楽指導者協会会長、日本国民音楽振興財団(現日本音楽財団)副会長、東海吹奏楽連盟理事長、中部日本吹奏楽連盟理事長、全日本吹奏楽連盟副理事長を務めた。 明治32年(1899年)、愛知県東加茂郡(現豊田市)に生まれる。大正8年(1919年) 陸軍戸山学校を卒業し、軍楽隊で活動する。大正13年(1924年)に愛知に戻り、大正14年(1925年)から名古屋市教育部社会教育課に勤務しながら、市青年音楽隊の組織、音楽協会やボーイスカウト連盟の創立等の文化事業に貢献する。
西原 寛一(にしはら かんいち、1899年8月2日 - 19… 西原 寛一(にしはら かんいち、1899年8月2日 - 1976年2月29日)は、日本の法学者。専門は商法。関西学院大学教授。 日本を代表する商法学者。第六高等学校時代の恩師であり法哲学者であった三谷隆正の紹介で、田中耕太郎に師事する。その最大の功績は「商法企業法論」の確立である。また大阪市立大学法文学部(現在は法学部と文学部に分離)や神戸学院大学法学部の創設にも関与している。妻はアララギ派の歌人である西原須磨。親族に法学者が多く、民法学者の西原道雄は息子、刑法学者の西原春夫は親戚である。 商法企業法論とは、実質的意義の商法を、企業に特有の生活関係を対象とする私法と考え、体系化する立場である。 京城帝国大学赴任当時、実質的意義の商法をどう定義するかに関しては、師である田中耕太郎博士が提唱した商的色彩論が通説であった。
細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989… 細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989年5月6日)は、日本の医者。東洋医学の発展に貢献した人物の一人。 京都府綾部市出身。1927年京都帝国大学医学部卒業。幕末から明治時代にかけて活躍した浅田宗伯の流れを汲む漢方医学の医師新妻良輔の弟子となり、東洋医学を学んだ。弟子には坂口弘らがいる。1950年に日本東洋医学会が設立され、坂口らとともに参加した。また、漢方エキス製剤の臨床研究を重ね、今日のエキス製剤による漢方治療の道を開いた。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。
瀬戸 道一(せと みちかず、1899年(明治32年)8月1日… 瀬戸 道一(せと みちかず、1899年(明治32年)8月1日 - 1974年(昭和49年)10月17日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。 瀬戸新左衛門の六男として広島県に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部独法科を卒業し高等試験に合格。同年朝鮮総督府に出仕し、全羅北道内務部学務課長、同地方課長、江原道財務部長、京畿道財務部長、新義州税関長、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚北道内務部長、京畿道警察部長などを経て、1942年(昭和17年)4月、咸鏡南道知事に就任した。のち京畿道知事となった。
伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967… 伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967年3月31日)は、日本の舞台美術家、美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。 1899年(明治32年)8月1日、東京市神田区(現東京都神田)三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。 旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年(大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座、新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。
木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月3… 木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月30日 - 1993年〈平成5年〉12月5日)は、日本の経済評論家、日蓮宗徒、国際勝共連合代表世話人。位階は従三位。 木内重四郎・磯路夫妻の次男として東京府(現在の東京都)に生まれる。父・重四郎は内務官僚で、母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。従って三菱の3代目総帥・岩崎久弥は母方の伯父にあたり、エリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜は母方の従妹ということになる。また妹・登喜子は渋沢敬三に嫁ぎ、妻の多代は福澤諭吉の孫娘にあたる。兄・良胤と甥・昭胤(良胤の長男)はともに外交官。元衆議院議員の木内孝胤は昭胤の次男なので、信胤は孝胤の大叔父にあたる。
奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1… 奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人・俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。 雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。
高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月… 高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月27日 - 1987年(昭和62年)5月27日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県芦品郡、のちの福山市芦田町で生まれる。栄治の長男。1925年(大正14年)、日本大学専門部法律科を卒業した。 司法省に入省し、大阪地方裁判所などの検事、水戸地方裁判所次席検事、水戸保護観察所長、東京控訴院(現東京高等裁判所)検事などを歴任。退官後に弁護士を開業した。 1948年(昭和23年)4月の第23回衆議院議員総選挙・広島県第3区補欠選挙に民主党公認で立候補して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選。 1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で再選され、以後、第28回総選挙まで当選した。