スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
木村 隆文(きむら たかふみ、1940年1月2日 - 201… 木村 隆文(きむら たかふみ、1940年1月2日 - 2011年11月28日)は、日本の教育者。学校法人青森山田学園の理事長や青森山田高等学校の校長を務めていた。スポーツに力を入れ、卓球や野球、サッカーなどで青森山田高等学校の名前を全国に知らしめた。日本卓球協会副会長を務めており、10段を授与されている。 青森県出身。青森県立青森高等学校、日本大学法学部を卒業、1962年に当時母親が校長だった青森山田高等学校の教諭に赴任し、1995年に同校の校長となった。校長就任後はスポーツに力を入れて、野球の渋谷良弥や卓球の吉田安夫など優れた指導者を招くとともに、優秀な生徒を集め、バドミントンや卓球、サッカー、野球などで実績をあげた。
たむら まさき(1939年1月26日 - )は、日本の撮影監… たむら まさき(1939年1月26日 - )は、日本の撮影監督。青森県出身。
沢田 教一(さわだ きょういち、戸籍上の表記は澤田 教一、1… 沢田 教一(さわだ きょういち、戸籍上の表記は澤田 教一、1936年〈昭和11年〉2月22日 - 1970年〈昭和45年〉10月28日)は、日本の報道写真家。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でハーグ第9回世界報道写真大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞した。位階は従五位。 日本光学工業(現ニコン)は「1971年度(原文ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信社の沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である」と主張していたが、実際には日本製カメラをどんなに勧められても「日本のカメラは写りが悪い」「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」といって日本製のカメラを使いたがらなかったという。
京武 久美(きょうぶ ひさよし、1936年2月4日 - 20… 京武 久美(きょうぶ ひさよし、1936年2月4日 - 2023年7月6日)は俳人。青森県出身。 青森市立野脇中学校2年のとき同級だった寺山修司と友人となり、青森県立青森高等学校時代は文芸部にて共に活動し俳句・短歌に熱中した。高校1年のとき、京武の俳句が地方新聞の俳壇に掲載されたことへの競争意識が寺山の句作の原点であり、ライバルであった。 1954年、第1回全国高校生俳句コンクール1位。ちなみに2位は寺山。10代の若者のための全国的俳誌『牧羊神』を寺山とともに始めたことで名を知られている。 1954年、青森高校卒業後、東北海運局職員。金子兜太の「海程」で活躍。2009年に第一句集『二月四日』を発表した。
佐々木 敬介(ささき けいすけ、1936年(昭和11年) -… 佐々木 敬介(ささき けいすけ、1936年(昭和11年) - 1998年(平成10年))は、日本の工学者。工学博士(慶應義塾大学)。慶應義塾大学名誉教授、千歳科学技術大学初代学長。北海道函館市出身。
寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12… 寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の歌人・劇作家。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。 「言葉の錬金術師」「アングラ演劇・四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。 1935年(昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務の特高警察刑事を務めていた。父の転勤のため、県内各所を転々とする。本人は出生について「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記していたが、ハツと元妻の九條今日子によると、青森県弘前市紺屋町生まれとされ、戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。
海渡 英祐(かいと えいすけ、1934年9月24日 -)は、… 海渡 英祐(かいと えいすけ、1934年9月24日 -)は、日本の小説家・推理作家。日本推理作家協会現会員。本名広江純一。筆名は「成吉思汗=源義経」(海を渡った英雄)にちなむ。 1934年、東京市(現東京都)目黒区に生まれる。少年時代を満洲で過ごし、1946年に引き揚げて青森市に居住。青森県立青森高等学校では寺山修司、沢田教一と同級生。東京大学法学部卒業後、推理小説家の高木彬光の『成吉思汗の秘密』執筆を手伝い、アルバイトで資料収集や原稿整理を助けたことから推理作家志望となる。 その後、初の自作小説『極東特派員』を1961年に刊行した。1967年には森鷗外やビスマルクなどを交え展開する殺人事件を描いた本格推理小説『伯林―一八八八年』で第13回江戸川乱歩賞を受賞する。
新高 恵子(にいたか けいこ、本名:工藤 琳子(くどう たま… 新高 恵子(にいたか けいこ、本名:工藤 琳子(くどう たまこ)、1934年4月18日 - )は、日本の元女優。 青森県青森市出身。名門・青森高校時代は、寺山修司の一年上級生だったが、お互いに面識はなかったという。 やがて彼女は上京、新藤孝衛監督にすすめられ、当初はピンク映画の人気女優として活躍した。しかし、やがて同じセットで2本の映画を同時に撮影するというような現場に遭遇し、虚しさを感じるようになった。同郷の寺山修司と会った際には彼は、あの映画の演技はこうだったよね、と詳細に新高を演技について語ったため、彼女は感動したという。彼女は、寺山の主宰する劇団、「天井桟敷」に参加し看板女優になっていった。
佐々木 誠造(ささき せいぞう、1932年10月30日 - … 佐々木 誠造(ささき せいぞう、1932年10月30日 - )は、日本の政治家。前青森市長。旧青森市長を4期(新設合併により途中失職)、新設合併した青森市長を1期務めた。コンパクトシティ構想を推進。
川崎 祥悦(かわさき しょうえつ、1932年(昭和7年)9月… 川崎 祥悦(かわさき しょうえつ、1932年(昭和7年)9月29日 - )は、日本の作曲家。青森県出身。東京藝術大学音楽部作曲科卒業。多くの合唱曲を作曲している。作曲家の川崎絵都夫は息子にあたる。
吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 198… 吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 1989年5月9日)は、日本の脚本家、劇作家である。初期の別名に吉田 貴彰(よしだ たかあき)がある。日本脚本家連盟信託者。『山ねずみロッキーチャック』、『アルプスの少女ハイジ』、『フランダースの犬』等のテレビアニメーションの脚本のメイン作家として知られる。 日本映画データベース等で混同されている、同時代に活動した脚本家の吉田喜昭(1937年 - 2001年)は同音異字の別人。また、第20回小野十三郎賞(2018年)を受賞した詩人の吉田義昭も別人。 1932年(昭和7年)1月8日、青森県青森市に生まれる。 1950年(昭和25年)3月、青森県立青森高等学校を卒業、満20歳を迎えた1952年(昭和27年)に東京に移る。
成田 亨(なりた とおる、1929年9月3日 - 2002年… 成田 亨(なりた とおる、1929年9月3日 - 2002年2月26日)は、日本のデザイナー、彫刻家。青森県出身。 神戸市生まれで、翌年より両親の故郷青森県に移り父方の出身地である青森市にて育つ。俳優の成田浬は息子、漫画家の成田美名子は従兄弟の娘。 生後8ヶ月の時、青森市の自宅で囲炉裏の炭をつかんで左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかった。1936年4月、青森市立古川尋常小学校(現:青森市立古川小学校)に入学。8歳の時に兵庫県武庫郡大庄村(現:尼崎市)へ移り、大庄村立大庄尋常小学校(現:尼崎市立大庄小学校)に転校。4年生時の学校分離により大庄村立大庄尋常第二小学校(旧:尼崎市立西小学校)に通い、14歳までの6年間を尼崎市で過ごす。
間宮 芳生(まみや みちお、1929年6月29日 - 202… 間宮 芳生(まみや みちお、1929年6月29日 - 2024年12月11日)は、日本の作曲家。 北海道旭川市生まれ、青森県青森市育ち。東京音楽学校(現:東京芸術大学)作曲科にて池内友次郎に師事するが、同校入学までは作曲もピアノも独学であった。 1953年、外山雄三、林光と共に『山羊の会』を結成する。 1970年代、谷川雁が創設したラボ教育センターの物語テープに音楽を提供。1981年「十代の会」の発起人の一人として同会創立に参加。 2024年12月11日、肺炎のため死去。95歳没。 ()内の人物は台本作者、作詩者、または献呈者。
竹内 黎一(たけうち れいいち、1926年8月18日 - 2… 竹内 黎一(たけうち れいいち、1926年8月18日 - 2015年9月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲章は勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第38代)、原子力委員会委員長(第38代)、衆議院外務委員長・環境委員長等を歴任した。 父は青森県知事や衆議院議員を務めた竹内俊吉。 青森県黒石市生まれ。旧制青森中学校、旧制弘前高等学校、東京大学経済学部卒業。東大卒業後、毎日新聞社に入社。毎日新聞の政治記者、運輸大臣秘書官を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に、青森県知事に転身した父・俊吉に代わって旧青森2区(定数3)から無所属で立候補し、得票数トップで初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・奥野誠亮らがいる)。
坂本 慶一(さかもと けいいち、1925年5月20日 -20… 坂本 慶一(さかもと けいいち、1925年5月20日 -2017年3月24日)は日本の経済学者。京都大学名誉教授。農業経済学を専門とし、農政問題について活発に発言した。またフランスの初期社会主義研究でも知られる。農学博士(京都大学、1965年)。青森県生まれ。
古寺 宏(こでら ひろし、1925年5月 - 1989年7月… 古寺 宏(こでら ひろし、1925年5月 - 1989年7月26日 )は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。
関 晴正(せき はれまさ、1923年11月26日 - 200… 関 晴正(せき はれまさ、1923年11月26日 - 2008年10月26日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(4期)。 青森県五所川原市出身。旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)を経て1945年青森師範学校を卒業。小学校教師となり、日教組中央委員。1951年青森市議に初当選。のちに青森県議を経て、1977年の参院選に青森県選挙区から出馬するが、3位で落選。 1979年の総選挙で青森県第1区から立候補して初当選。当選3回を数えたが、1986年の総選挙で落選。1990年の総選挙で復帰、1993年に引退。地盤を今村修に譲った。 2008年10月26日、脳梗塞後遺症のため青森市内の病院で死去。
高木 彬光(たかぎ あきみつ、1920年〈大正9年〉9月25… 高木 彬光(たかぎ あきみつ、1920年〈大正9年〉9月25日 - 1995年〈平成7年〉9月9日)は、日本の推理作家。本名は高木 誠一(たかぎ せいいち)。津軽方言詩人・医師の高木恭造の甥に当たる。 青森県青森市生まれ。4代続いた医者の家系だった。幼少時に母親と死別。 旧制青森中学校(現:青森県立青森高等学校)から四修で第一高等学校理科乙類に入学。東京帝国大学理学部化学科の受験に失敗し、京都帝国大学薬学部に進んだが1年で中退、京都帝国大学工学部冶金学科卒。 非嫡出子として生まれ、一高入学の年に父親が亡くなり、家は破産して一家は離散し、親族からの援助で学業を続けた。その暗い生い立ちのせいもあってか、「出身地・青森」には生涯思い入れを見せなかった。
竹中 修一(たけなか しゅういち、1918年4月20日 - … 竹中 修一(たけなか しゅういち、1918年4月20日 - 1997年7月31日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(5期)。青森県出身。経世会所属であった。
成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - … 成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - 1989年10月17日)は、青森県青森市出身のプロ野球選手、政治家。 青森中学校から専修大学へ進学も中退。仙台鉄道局から青森林友を経て1936年に東京巨人軍へ入団。選手としての才能はなかったが、何となく好感のもてる選手だった。1938年秋季頃に体調を崩し、療養に努めたが同年で退団。 1974年に青森市議会へ自由民主党から出馬し当選。4期議員を務めた。
小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11… 小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11月29日 - 2003年(平成14年)10月8日)は青森県出身の洋画家。梶井基次郎の作品「檸檬」に因んで檸檬をモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれる。 青森市生まれ。旧制青森中学校(青森県立青森高等学校)在学中、南部公鎮に師事。1932年(昭和7年)に旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上卒業。同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師。 1938年(昭和13年)、第13回国画会展に初入選。
関野 凖一郎(せきの じゅんいちろう、1914年10月23日… 関野 凖一郎(せきの じゅんいちろう、1914年10月23日‐1988年4月13日)は昭和時代の日本の版画家、洋画家。 青森県青森市の魚粕の肥料問屋の家に生まれる。旧制青森中学校卒業。1932年に今純三に銅版画を学んだ。1936年に官展に初入選を果たす。1938年に第8回日本版画協会展において会員に推される。翌1939年に東京へ出て恩地孝四郎に師事、新宿鈴木研究所において油絵を学んだ。作品は木版画、銅版画、石版画、油絵に及んでいる。1940年に日本エッチング協会を設立、その会員となった。1953年、ルガノ国際版画展に作品を出品、1960年、アメリカ・ノースウェスト国際版画展で受賞する。1957年に調布市下布田に移住する。
小野 正文(おの まさふみ、1913年(大正2年)1月4日 … 小野 正文(おの まさふみ、1913年(大正2年)1月4日 - 2007年(平成19年)9月21日)は、日本の教育者、太宰治研究家。筆名は斧稜(おのりょう)。日本近代文学研究者の小野隆祥は兄。 青森県北津軽郡生まれ。青森中学在学中に、先輩の太宰治と知り合う。1938年東京帝国大学法学部卒業。青森県で教職につく。青森県立図書館長、1963 - 69年青森県立弘前南高等学校初代校長、青森中央短期大学教授、1982年同学長。青森中央学院大学客員教授。長年にわたる太宰治研究を評価され、2005年弘前大学から名誉博士号が授与された。多くの学校の校歌を作詞した。
田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 19… 田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 1982年12月20日)は、日本の政治家。北海道知事。青森県出身。
阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9… 阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9月27日)は青森県青森市出身の料理研究家。本名は阿部チヨ。 青森高等女学校卒業。故郷で洋画家阿部合成と結婚して上京。26歳の時、人間国宝の堀柳女に師事し人形作家となる。日展、伝統工芸展などに次々と入選し、人形作家としての地位を築いた。3人の子に恵まれたが、離婚することとなり、人形では生活できないため料理の道に入った。1959年に東京上野のみちのく料理店「北畔(ほくはん)」を構えた。料理家としてテレビ番組出演や原稿執筆で活躍した。 娘は山口絵里、孫は河合真理。
中村 拓道(なかむら たくどう、1911年(明治44年)4月… 中村 拓道(なかむら たくどう、1911年(明治44年)4月22日 - 1974年(昭和49年)5月28日)は、日本の政治家。青森県八戸市の12代目市長。 1911年(明治44年)4月、 青森市に生まれる。旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)を経て、1930年(昭和5年)、青森県師範学校を卒業し、小学校で教鞭を執る。1941年(昭和16年)、 青森県庁に入庁。地方事務所長などを歴任する。1951年(昭和26年) 、青森県議会議員に立候補して初当選、連続四期在職する。農林商工水産農地副委員長、予算特別委員長、水産商工公安副委員などを経て、1961年(昭和36年)、 県議会副議長に就任。1964年(昭和39年)、東北電力(株)監査役に就任。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15… 相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15日 - 昭和11年〈1936年〉1月28日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。 青森県南津軽郡野沢村(現在の青森県青森市)吉野田字木戸口2番地に生まれる。相沢家は3代続く藩医の家であった。家族は、父・武良、母・秀、祖母、姉・千代、妹・京、弟・企救麿。父の助手や看護婦も住み込みで働いていた。 1923年(大正12年)4月、県立青森高等女学校に進学。小学生当時の相沢良は、2つ年長の青森高女の姉・千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。 1927年(昭和2年)3月卒業後、英語を習得するため黒石の親戚の家から弘前女学校に1年間通う。
小野 隆祥(おの りゅうしょう、1910年〈明治43年〉 -… 小野 隆祥(おの りゅうしょう、1910年〈明治43年〉 - 1986年〈昭和61年〉)は、日本近代文学研究者。太宰治研究家の小野正文の兄。 青森県下北半島生まれ。旧制青森中学校(現:青森県立青森高等学校)、旧制弘前高等学校を経て、1932年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。 1953年、労働者農民党より第26回衆議院議員総選挙に岩手1区から出馬するが、候補者中最下位得票で落選。その後修紅短期大学教授を務めた。
米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年(明治42… 米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年(明治42年)11月4日 - 1992年(平成4年)10月5日)は、昭和から平成初期の農民運動家、社会運動家、政治家。衆議院議員、青森県上北郡浦野舘村長。 青森県上北郡浦野舘村(上北町を経て現東北町)で、歯科医師・米内山健助、ミキの長男として生まれる。1923年(大正12年)4月、青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)に入学。同級に津島修治(太宰治)、阿部合成らがいた。 1926年(大正15年)10月、青森中学校を中退して帰郷し青年団活動に従事。1927年(昭和2年)6月、社会民衆党に入党し小作争議に加わる。1928年(昭和3年)全国農民組合青森県連合会の創立に加わり執行委員に就任し、上北地方の農民運動を指導した。
太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ… 太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。 太宰治はペンネームであり、1933年(昭和8年)に短編小説『列車』で初めて太宰治の名が使われた。弘前高等学校(現:弘前大学)の学生時代に始めた左翼活動は3年程で挫折し、その後は自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。
柴田 治三郎(しばた じさぶろう、1909年2月17日 - … 柴田 治三郎(しばた じさぶろう、1909年2月17日 - 1998年7月27日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、東北大学名誉教授。
千葉 元江(ちば もとえ、1909年(明治42年)1月15日… 千葉 元江(ちば もとえ、1909年(明治42年)1月15日 - 1992年(平成4年)11月5日)は日本の政治家。青森県青森市長(1期)。 青森県青森市出身。青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)、官立弘前高等学校を経て、1933年、東京帝国大学法学部を卒業する。卒業後は陸軍に入り、翌年満期除隊。1937年に高等文官試験行政科に合格、翌年台湾総督府に入り、台中妙農林課長などを歴任した。太平洋戦争中の1942年に陸軍司政官となり、ビルマに派遣され、終戦を迎えた。1946年に復員した。 1947年、青森県庁に入り、人事課長、総務、商工水産の各部長などを経て、1949年に副知事に就任した。副知事は1952年まで務め、その後は青森県北洋漁業協同組合理事、同副組合長、鮭鱒漁業協同組合理事などを務めた。
淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 19… 淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。
木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 19… 木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 1965年3月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(3期)。息子は青森県知事や衆議院議員を務めた木村守男。孫は元衆議院議員の木村太郎、木村次郎。 青森県南津軽郡藤崎町出身。父健一は藤崎町の助役や町長を務めた。1925年青森県師範学校を卒業。卒業後は教員となり、その後は青森県属、小学校校長、地方事務官などを務めた。 戦後、政治家を志し、1947年に青森県議に当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で青森2区から自由党公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した(その後、所属は日本民主党→自由民主党)。この間、第1次鳩山内閣で北海道開発政務次官に就任した。
三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月1… 三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月15日 - 2006年(平成18年)1月5日)は、日本のプロスキーヤー。 青森県青森市生まれ。青森県立第三中学校(現 青森県立青森高等学校)、北海道帝国大学(北海道大学)農学部卒業。 北大在学中に八甲田山での山スキーに魅せられ、卒業後、青森営林局に勤務。八甲田のフィルム記録にスキー滑降で参加した。青森林友スキー部に所属し、選手、監督、部長を経験した。全日本スキー連盟の技術委員を務めたこともある。 1955年(昭和30年)、51歳で青森営林局を退職し、東京都練馬区に移住。この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行った。また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残し、イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞する。
高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10… 高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10月12日 - 1987年(昭和62年)10月23日)は、日本の方言詩人(津軽弁)、医師。推理作家の高木彬光は恭造の甥にあたる。 1903年、青森県青森市に三代続いた開業医の末っ子として生まれた。橋本尋常小学校、青森県立青森中学校を卒業後、一本木村袰月へ代用教員として赴任する。袰月での生活は4ヶ月間ではあったが、後の『まるめろ』のモチーフとなる。高木の没後、当時の教え子たちによって袰月集落を見下ろす高野崎に文学碑が建立されているほか、袰月集落内の国道280号沿いにも文学碑が建立されている。 1926年に弘前高等学校を卒業した後、青森日報社へ入る。
北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月… 北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月5日 - 1982年(昭和57年)3月18日)は日本の作家、児童文学者、詩人。本名、北畠美代。 10人きょうだいの6番目の次女として青森市に生まれる。父は青森大林区署の役人。 1920年、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす。1922年、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。 恢復後、1924年から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年に退職。
長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10… 長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1978年(昭和53年)3月10日)は、時事通信社の初代代表取締役。時事画報社、内外ニュースの創業者。善本社会長。勲一等瑞宝章受章。 同盟通信社在職中から記者として活動し、戦後は保守系言論人としても活動した。1945年の時事通信社創業以来、四半世紀余りにわたって同社を率いたが、労使対立を招いた責任を取って1971年に辞任した。 青森県青森市の質屋業を営む家に、男3人、女4人のきょうだいの3男として生まれた。父は三井銀行(のち第五十九銀行に転職)に務める銀行員であったが、男子のいない長谷川家に婿養子として入り、質屋業を継いだ。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1… 横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1989年8月22日)は昭和時代日本の歌人、作詞家。元青森県副知事、青森県立図書館館長。 1901年(明治34年)、青森市で日本鉄道(のち鉄道院→鉄道省を経て国鉄)職員の家庭に生まれる。1915年(大正6年)に有志で短歌誌『樹焔』を創刊し若山牧水、太田水穂らの寄稿・指導を受けた。旧制青森中学校を経て1924年(大正13年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。青森へ帰郷後、県内の旧制中学校各校で教員を務める傍ら1928年(昭和3年)に短歌誌『羅漢柏』(アスナロ)を創刊、自ら主宰する。 1946年(昭和21年)に旧制青森中学校校長を退職後、県教育次長を経て津島文治知事に請われ、副知事に就任する。
石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1… 石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は、日本の薬学者、薬理学者。日本の薬学界のパイオニア。ハンセン病治療薬「プロミン」を合成し、多くのハンセン病患者を救った。また、日本初のがん化学療法剤ナイトロミン(ナイトロジェンマスタードN-オキシド)を創製した。東京大学薬学部初代学部長、名誉教授、薬学博士、元日本薬剤師会会長。 放送作家・アニメーション監督の石ダテコー太郎は孫。 1901年、青森県青森市、喜久造・みきの三男として薬種商を営む裕福な商家に生まれた。1918年、青森県立青森中学校を卒業、1919年第二高等学校理科二類に進学。中学を卒業して浪人中の夏、療養所でハンセン病患者に初めて遭遇し、衝撃を受ける。
柿崎 守忠(かきざき もりただ、1900年(明治33年)11… 柿崎 守忠(かきざき もりただ、1900年(明治33年)11月5日 - 1977年(昭和52年)8月)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県青森市出身。青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)を経て、1933年、東京高等師範学校を卒業する。卒業後は青森中学、青森県女子師範学校各教諭、県視学官、青森市立高等女学校(現・青森県立青森中央高等学校)、青森中学、青森青年師範学校各校長などを歴任した。 1945年7月28日、青森市長に就任。市長就任当日に青森空襲が起こり、市内は焦土と化した。翌月に終戦を迎え、青森市に米軍が進駐、柿崎は進駐軍との折衝に当たらなければならなかった。市役所は空襲で焼失し、市公会堂を庁舎と使用していたが、進駐軍に接収された。
柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27… 柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27日 - 1969年(昭和44年)6月7日)は、日本の明治文学研究者・翻訳家。明治文学に関する資料収集・編纂、実証研究で多大な成果がある。 1894年、青森県中津軽郡豊田村(現・弘前市)生まれ。1918年に早稲田大学英文科を卒業。トルストイの小説や、『カーライル全集』、『ホイットマン全集』、『アミエルの日記』など英訳版からの重訳を含め、多くの思想哲学書を翻訳出版した。当初は英文学史研究を志したが、関東大震災で多くの書籍を火災で失ったことをきっかけに明治文学研究へと転向した。1924年には、吉野作造を中心に結成された「明治文化研究会」に参加。
松田 義之(まつだ よしゆき、1891年11月9日 - 19… 松田 義之(まつだ よしゆき、1891年11月9日 - 1981年9月9日)は、版画家、教育者。 愛知県北設楽郡出身。号は芳雪。1917年東京美術学校図画師範科卒。青森高等女学校(現青森県立青森高等学校)教員、三重県で公立学校教師となり三重県立神戸中学校(現三重県立神戸高等学校)教員、1920年東京美術学校助教授、40年教授。51年東京藝術大学教授、59年定年退官、名誉教授。文部省教科書編集委員など。銅版画では、1932年から帝展、日本版画協会展などに出品した。
平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月1… 平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月19日 - 1965年〈昭和40年〉12月12日)は、将棋棋士。贈七段。大崎熊雄門下。青森県出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1891年(明治24年)青森市大町生まれ。青森中学卒業後、第一高等学校の三部を受験し不合格となり、第二高等学校に進学、医学を志すも18歳の時に初期の肺結核となり進学を断念し高校中退。 青森帰郷後に杉野岩太郎(当時二段)と知り合い、杉野を目標に棋力を付ける。平野の棋力を認めた杉野の勧めで上京し、1918年(大正7年)4月に井上義雄の内弟子となり、付け出し四段となる。同じころ、将棋同盟社に入会。
4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年(明治23… 4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年(明治23年)3月 - 1962年(昭和37年)12月29日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。青森県青森市長。青森県多額納税者。前名は覚郎。 白鳥鴻彰の三男として青森県東津軽郡荒川村(現青森市)に生まれる。1909年(明治42年)青森中学校を卒業し日本大学、大原簿記学校、津田英文簿記学校に学んだ後、帰郷する。青森市役所に奉職したのち1910年(明治43年)魚問屋・千葉家の養子となり、1919年(大正8年)前名を改め4代伝蔵を襲名した。1920年(大正9年)青森製氷の創立に当たって出資し取締役に就任、1922年(大正11年)東京共同水産取締役となり東京隅田運送の取締役も務めた。
福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1… 福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1946年10月11日)は、日本の詩人。
山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - … 山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - 1982年7月23日)は、日本光学界の先駆者、海軍軍人、理学博士。最終階級は海軍技術少将。主に幾何光学中心に、光学機械、光学兵器の開発に寄与した。 青森県青森市出身。旧制青森県第三中学校(現青森県立青森高等学校)・旧制第一高等学校・東京帝国大学卒業。大学院で長岡半太郎に師事して輻射学を研究、長岡の推薦で技術士官(造兵官)として海軍に入り、光学兵器の研究を推進させた。青木小三郎、丸山修治らを育て、日本の光学兵器の水準を世界水準にまで高めた。 敗戦後、公職追放処分を受け、一時期は進駐軍の通訳などをして不遇の時期を過ごしたこともあった。 ロチェスター大学の客員教授となって以降は公職に復帰し、企業の取締役や大学教授などを歴任した。
山谷 清和(やまや きよかず、5月3日 - )は、元青森放送… 山谷 清和(やまや きよかず、5月3日 - )は、元青森放送 (RAB) のアナウンサー。 青森県青森市出身。青森市立橋本小学校、青森市立浦町中学校、青森県立青森高等学校、同志社大学卒業。父親は青森県議会議員の山谷清文。伯父は政治学者の山谷清志。 小中学校時代には軟式野球をしていた。浦町中野球部在籍時に出場したジャイアンツカップ青森県中学野球大会の決勝戦では、部は優勝を逃すものの、山谷個人はこの大会での活躍を評価されて優秀選手に認定された。 高校への進学後には野球を続けず、青高の生徒会である中央委員会に所属。2年時には、地方自治体の一部と経済界と学界によって設立された人財育成サマースクール「日本の次世代リーダー養成塾」に参加した。