スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
栢原 英郎(かやはら ひでお、1940年〈昭和15年〉2月1… 栢原 英郎(かやはら ひでお、1940年〈昭和15年〉2月13日 - 2025年〈令和7年〉5月6日)は、日本の運輸技官、土木技術者。技術士、工学博士、土木学会認定特別上級土木技術者(調査・計画)。 運輸省港湾局長や、同省技術総括審議官、北海道大学公共政策大学院特任教授、日本港湾協会会長、土木学会会長等を歴任した。土木学会功績賞受賞。 東京都立小山台高等学校を経て、1964年(昭和39年)北海道大学工学部土木工学科卒業、運輸省(現国土交通省)入省。1980年(昭和55年)国際臨海開発研究センター主任研究員。1984年(昭和59年)国土庁計画・調整局計画官。1987年(昭和62年)運輸省港湾局開発課長。
滝 久雄(たき ひさお、1940年2月3日 - )は、日本の… 滝 久雄(たき ひさお、1940年2月3日 - )は、日本の実業家。株式会社エヌケービー取締役会長、株式会社ぐるなび取締役会長、公益財団法人日本交通文化協会理事長、文化功労者。 三菱金属鉱業株式会社、交通文化事業株式会社での勤務を経て、財団法人日本交通文化協会専務、株式会社エヌケービー社長、株式会社ぐるなび社長などを歴任した。 東京府出身の実業家である。ぐるなび創業者で同社代表取締役会長兼社長、ぐるなびの母体であるエヌケービー取締役会長、日本交通文化協会理事長などを務めた。文化功労者。ペア碁考案者。1パーセントフォーアートを提唱し、パブリックアートの振興なども行った。 東京府東京市渋谷区神泉町生まれ。
高木 実(たかぎ みのる、1939年9月7日 - 2009年… 高木 実(たかぎ みのる、1939年9月7日 - 2009年4月3日)は、日本の地図切手研究家。 神奈川県横浜市出身。学校法人高木学園創立者・高木君の孫。横浜国立大学学芸学部附属横浜中学校、東京都立小山台高等学校を経て、1964年早稲田大学政治経済学部卒業、八幡製鉄(のち新日本製鐵)勤務。1987年経済広報センター研究員として出向。1991年退社、学校法人高木学園理事長。趣味で地図切手を収集し、著作をなした。
森下 一徹(もりした いってつ、1939年〈昭和14年〉7月… 森下 一徹(もりした いってつ、1939年〈昭和14年〉7月1日 - 2021年〈令和3年〉5月4日)は、日本の写真家。 戦時中は福島県二本松に疎開していた。自動車工場の旋盤工をしながら東京都立小山台高等学校(定時制)を卒業。東京綜合写真専門学校で写真を学び、卒業後同校講師となる。 1964年、写真評論家、重森弘淹のすすめで原水爆禁止世界大会の記録を撮影していた時、被爆者のスピーチを初めて聞く。それまでの森下は、被爆者を原子爆弾で心身ともに破壊され、仕事もできずあわれでみじめな生活をしている人たちだと思っていた。しかし、彼らの核廃絶にかける強い意志と生きる力に満ちあふれたスピーチを聞いて深い感銘を受け、自分を恥じる気持ちでいっぱいになる。
富永 英義(とみなが ひでよし、1939年(昭和14年)4月… 富永 英義(とみなが ひでよし、1939年(昭和14年)4月1日 - )は、日本の工学者。専門は、情報通信網工学。公益財団法人電磁応用研究所理事長。早稲田大学名誉教授。 情報通信技術の分野において、ディジタルマルチメディアに対する各種の符号化方式の提案と国際標準化のための体系化を行い、その成果として、磁気記録と画像通信の研究分野において画期的な情報の符号化方式を創案して国際準備化に貢献するなど、この学問領域において世界を代表する著名な研究者である。代表的な成果を三つ列挙する。 また同時に、若い研究者育成にも非常に熱心に取り組み、平成10年に早稲田大学国際情報通信研究センター(GITI)所長として、研究独立大学院を設立して、早稲田大学内における情報通信研究教育の基盤を確立し、アジア諸国を中心とした研究教育の連携と共に、産官学の共同研究体制を構築するなど、情報通信分野における人材育成にも多大な貢献をした。
御手洗 肇(みたらい はじめ、1938年10月5日 - 19… 御手洗 肇(みたらい はじめ、1938年10月5日 - 1995年8月31日)は、元キヤノン社長。 東京都出身。マサチューセッツ工科大学大学院電子工学科、スタンフォード大学修了。キヤノン創業者御手洗毅の子。 1974年にキヤノンに入社。中央研究所所長などを務めた後、1993年に山路敬三の突然の退任を受け第五代社長に就任。社長として辣腕を振るったが、1995年に間質性肺炎のため、在職のまま死去。後任社長には従兄の御手洗冨士夫が就任した。
中平 卓馬(なかひら たくま、1938年7月6日 - 201… 中平 卓馬(なかひら たくま、1938年7月6日 - 2015年9月1日)は、日本の写真家、写真評論家。 東京の原宿に生まれる。父は、書道家の中平南谿(本名:恵)。 東京都立小山台高等学校を経て、東京外国語大学スペイン語学科卒業。 『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した。 作家の辺見庸は、2002年に出版した「永遠の不服従のために」で、「私の長く敬愛する写真家」と述べ、中平の『来たるべき言葉のために』について「その比類ない映像はほぼ三十年近くも私の胸の中に着床したままだ」と書き、自作品への影響を認めた。
青木 昌彦(あおき まさひこ、1938年〈昭和13年〉4月1… 青木 昌彦(あおき まさひこ、1938年〈昭和13年〉4月1日 - 2015年〈平成27年〉7月15日)は、日本の経済学者。専門は比較制度分析。スタンフォード大学名誉教授、京都大学名誉教授、中国人民大学名誉客員教授、東京財団特別上席研究員、VCASI(東京財団仮想制度研究所)主宰。 1938年、愛知県名古屋市に生まれる。湘南学園中学校、東京都立小山台高等学校を経て、1956年東京大学に入学。学生時代は共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人であり、東大在学中に姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、共産主義者同盟の理論的支柱となり、「姫岡国独資」と略称された。
秋山 隆(あきやま たかし、1937年7月4日 - 2025… 秋山 隆(あきやま たかし、1937年7月4日 - 2025年12月29日)は、元NHKアナウンサー。 東京府出身。東京都立小山台高等学校、早稲田大学卒業。1962年にNHKへ入局。 現職時代は佐賀、名古屋、東京アナウンス室などで勤務した。佐賀時代は放送部アナウンス担当副部長として、山本哲也を指導。鉄道好きらしく(鉄道ピクトリアルに執筆経験有り)、ラジオ深夜便では自身の担当回に放送されるコーナー「深夜便アーカイブス」において駅の様子や車両の走行音を取り上げたり、リスナーから寄せられた鉄道に関する投稿を紹介したこともある。後年は日本語センターに所属して後進の育成に努め、朗読講座などを受け持っていた。
西尾 清光(にしお きよみつ、1937年1月2日 - )は、… 西尾 清光(にしお きよみつ、1937年1月2日 - )は、日本のプロジェクトマネージャ、プロジェクトマネジメントコンサルタント。千代田化工建設代表取締役社長や、日本プロジェクトマネジメント協会会長を務めた。 渋谷区立大和田小学校、海城中学校、東京都立小山台高等学校を経て、1959年東京工業大学化学工学課程卒業、千代田化工建設入社、プロジェクト部配属。プロジェクトマネージャとしてプラント建設事業に携わり、1983年取締役に昇格。1999年から代表取締役社長を務め、KBRの資本参画を得て経営再建にあたった。2001年特別顧問に退いた。2004年プロジェクトマネジメント・コンサルタントを開業。2011年日本プロジェクトマネジメント協会会長、西尾コンサルタント代表取締役社長。
御手洗 冨士夫(みたらい ふじお、1935年9月23日 - … 御手洗 冨士夫(みたらい ふじお、1935年9月23日 - )は、日本の経営者・実業家。キヤノン代表取締役会長。 第6代、第8代キヤノン社長を経て、同会長。第2代日本経済団体連合会会長を務め、現在は名誉会長。内閣府経済財政諮問会議議員。若者の人間力を高めるための国民会議議長。鉄道貨物協会会長。読売新聞グループ本社監査役。ラグビーワールドカップ2019組織委員会会長。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会名誉会長。 大分県立佐伯鶴城高等学校から転入して東京都立小山台高等学校、中央大学法学部卒業。「財界総理」といわれる日本経済団体連合会会長職に私立大学出身者として初めて就任した。
筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年〈昭和10年〉6月23… 筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年〈昭和10年〉6月23日 - 2008年〈平成20年〉11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ちつづけ、日本のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした業績により日本記者クラブ賞を受賞。朝日新聞社政治部記者、ワシントン特派員、テレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』メインキャスター、朝日ジャーナル編集長などを経て、TBSテレビ『筑紫哲也NEWS23』キャスター編集長を18年あまり務めた。 大分県日田郡小野村(現在:日田市)で筑紫和臣・文子夫妻の長男として生まれた。静岡県立沼津東高等学校、東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。
山本 和郎(やまもと かずお、1935年2月6日 - 201… 山本 和郎(やまもと かずお、1935年2月6日 - 2016年7月12日)は、日本の心理学者。慶應義塾大学名誉教授。日本コミュニティ心理学会初代会長。日本・精神技術研究所心理臨床学院長。専門はコミュニティ心理学。 新潟県新潟市生まれ。1950年大田区立大森第六中学校卒業、1953年東京都立小山台高等学校卒業、1958年東京大学文学部心理学科卒業、1963年同大学院人文科学研究科心理学専攻博士課程単位取得退学、1963年国立精神衛生研究所研究員、1965年ハーバード大学医学部リサーチ・フェロー(1966年帰国)。 慶應義塾大学文学部助教授、1981年教授。2000年定年退任、名誉教授、大妻女子大学人間関係学部教授。
藤井 克彦(ふじい かつひこ、1934年12月20日 - 2… 藤井 克彦(ふじい かつひこ、1934年12月20日 - 2023年10月28日)は、日本の映画監督。広島県広島市平野町(現・中区)出身。 1945年8月6日の広島の原爆投下時は、広島市郊外の国民学校にいて被爆は免れたが、幼い目で"ピカドン"を目撃し、大きなショックを受ける。作品にはうかがえないが、原爆の切実な体験は創造行為のテーマとして結実できないか、という自問自答を持ち続けた。終戦後、東京自由が丘の本籍地へ移る。目黒区立緑ヶ丘小学校卒業後、新制中学校の第一期生として、目黒区立第十一中学校に入学。実家の近くにあった映画館「南風座」などで活劇ほかに親しむ。東京都立小山台高校~1958年慶應義塾大学文学部卒。
海老坂 武(えびさか たけし、1934年12月7日 - )は… 海老坂 武(えびさか たけし、1934年12月7日 - )は、日本のフランス文学者、評論家。 東京・大森生まれ。 東京都立小山台高等学校を経て東京大学入学。在学中は東京大学運動会硬式野球部に所属し、一番打者・遊撃手を務め1956年秋リーグ戦の東大通算100勝に貢献した。シーズンによっては同世代の長嶋茂雄よりも海老坂の方が打率成績が良かった。俊足選手であり、1957年春リーグ戦の対明大2回戦では、東大野球部の1試合最多盗塁記録4個をマークした。1959年、東京大学文学部仏文科卒業。1963年から2年間フランスに留学。1966年、同大学院博士課程単位取得退学、同年より一橋大学勤務、のち教授。1996年、定年退官ののち、関西学院大学文学部教授。
竹内 敬人(たけうち よしと、1934年〈昭和9年〉8月28… 竹内 敬人(たけうち よしと、1934年〈昭和9年〉8月28日 -2024年〈令和6年〉3月31日 )は、日本の化学者。東京大学名誉教授、神奈川大学名誉教授。 東京生まれ。東京都立小山台高等学校卒、1960年東京大学教養学部教養学科卒業。1962年東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。1967年理学博士。1962年東大教養学部助教授、1984年教授、1995年定年退官、名誉教授、神奈川大学教授、2005年退任、名誉教授。
神馬常郎(じんま つねお、1933年9月27日 - )は日本… 神馬常郎(じんま つねお、1933年9月27日 - )は日本の大蔵官僚。東京税関長、国土庁計画・調整局次長、明光証券経済研究所会長などを務めた。 埼玉県出身。東京都立小山台高等学校、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業。1956年 大蔵省入省(大臣官房秘書課)。1957年5月 大臣官房秘書課調査係長心得。1960年7月 主計局総務課企画係長。1962年7月 主計局調査課計画係長。1963年7月 四日市税務署長。この後は富山県に出向。1981年6月 東京税関長。1982年6月 国土庁計画・調整局次長。1983年9月 退官。地域振興整備公団理事。1988年7月 明光証券顧問。1989年 明光証券特別顧問。
中川 嘉美(なかがわ よしみ、1933年(昭和8年)9月17… 中川 嘉美(なかがわ よしみ、1933年(昭和8年)9月17日 - 2005年(平成17年)12月7日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員、参議院議員。 兵庫県芦屋市出身。都立小山台高校を経て、1956年(昭和31年)慶應義塾大学法学部を卒業する。住友商事勤務を経て、1969年(昭和44年)第32回衆議院議員総選挙に公明党公認で衆院旧東京8区から立候補し初当選する。以後衆議院議員当選4回。公明党国際局次長などを歴任する。1986年(昭和61年)第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)で落選し、1989年(平成元年)第15回参議院議員通常選挙に回り、比例区で当選し、1期務める。参議院では運輸委員長、科学技術特別委員長などを務めた。
山川 千秋(やまかわ ちあき、1933年(昭和8年)9月16… 山川 千秋(やまかわ ちあき、1933年(昭和8年)9月16日 - 1988年(昭和63年)10月9日)は、日本のジャーナリスト。フジテレビ解説委員・ニュースキャスター。 東京都立小山台高等学校、東京大学法学部を卒業後、1959年フジテレビに入社。 1960年フルブライト留学生として渡米、イリノイ州のノースウェスタン大学院ジャーナリズム科で学んだ。1968年ニューヨーク特派員、その後ロンドン特派員。この間、欧州・中東諸国を歴訪、取材。ドバイでの日航機ハイジャック事件では、ロンドンから駆けつけるなどした。キャスターを務めた後ワシントン支局長を経て、1986年2月に帰国。帰国後は解説委員及びニュースキャスターに就いた。
河上 和雄(かわかみ かずお、1933年4月26日 - 20… 河上 和雄(かわかみ かずお、1933年4月26日 - 2015年2月7日)は、日本の検察官・弁護士・法学者。 東京地検特捜部長、法務省矯正局長などを歴任し、最高検公判部長を最後に退官し、弁護士となった。駿河台大学名誉教授。位階は従三位。 検察官時代は刑法、刑事訴訟法に渡って多くの論文を執筆した。有名なものに、放火罪の既遂時期における新効用消失説がある。判例は、当該物が独立して燃焼に至った場合に既遂になるという独立燃焼説を採用しているが、これを現代の不燃性建造物の増加に対応できないと批判した上で、目的物の燃焼を必要とせず、火力によって効用を失うに至った場合に既遂になるとの説を提唱した。 テレビ番組は、日テレ系の番組に限って出演している。
大堀 太千男(おおほり たちお、1933年〈昭和8年〉3月3… 大堀 太千男(おおほり たちお、1933年〈昭和8年〉3月3日 - 2016年〈平成28年〉7月7日)は、日本の官僚。警視総監、阪神高速道路公団理事長などを務めた。
野沢 清(のざわ きよし、旧字体: 野澤 淸、1932年(昭… 野沢 清(のざわ きよし、旧字体: 野澤 淸、1932年(昭和7年)11月 - 2006年(平成18年)8月)は、日本の造園家。東京生まれ。日本造園アカデミー会議議長、「園学むだん塾」を主宰した。 1958年(昭和33年)、東京農業大学農学部造園学科卒業。荒木芳邦や中島健に師事した後、鈴木崇と野沢・鈴木造園設計事務所を設立した。 1982.4-2006年まで、日本造園アカデミー会議 運営委員。2003.4からは議長を務める。 1990年から1年間は中央技能検定委員(造園職種)を歴任。 六人兄弟の五番目として昭和七年(1933年)、東京杉並区荻窪生まれ。小学校二年の時、サラリーマンであった父親の転勤に伴って宇都宮市に転校していく。
黒田 眞(黒田真、くろだ まこと、1932年10月1日 - … 黒田 眞(黒田真、くろだ まこと、1932年10月1日 - 2026年4月5日)は、日本の通産官僚。通商産業審議官などを歴任。 東京都出身。東京都立小山台高等学校を経て、1955年に東京大学法学部卒業、同年、通商産業省入省。ジュネーブ代表部一等書記官、通商政策局国際経済課長、通商政策局長など通商畑を歩む。 1980年代半ばから半導体をめぐり激化した日米貿易摩擦における日本側当事者の一人。当時の交渉過程で米国側から「タフ・ネゴシエーター」の異名を付けられたことで知られている。 通産審議官在任中の1987年4月17日、日米半導体協定交渉の最終段階における「対日措置」発動の際の、日本側責任者の一人であった。
福川 伸次(ふくかわ しんじ、1932年3月8日 - )は、… 福川 伸次(ふくかわ しんじ、1932年3月8日 - )は、日本の通産官僚・実業家。学校法人東洋大学総長(2018年12月より)。通商産業事務次官・株式会社神戸製鋼所副会長・株式会社電通総研社長・学校法人東洋大学理事長などを歴任した。 東京府出身。父の福川篤四郎は鉄道官僚で運輸省鉄道総局総務長官などを務めた。東京都立第八高等学校(現:東京都立小山台高等学校)から慶應義塾大学工学部に進むも転学し、1955年3月に東京大学法学部卒業。 大臣官房企画室長、大平正芳内閣総理大臣秘書官、貿易局長、通産大臣官房長、産業政策局長を経て、1986年6月から1988年6月まで事務次官。中曽根内閣からの要請で、1986年4月に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故をきっかけに、省内で台頭してきた原発撤退派を排除する使命を担ったとされる。
山田 洋次(やまだ ようじ、1931年〈昭和6年〉9月13日… 山田 洋次(やまだ ようじ、1931年〈昭和6年〉9月13日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家。 大阪府豊中市出身。東京大学法学部卒業。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て1961年に『二階の他人』でデビュー。『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督。紫綬褒章(1996年)、文化功労者(2004年)、日本芸術院会員(2008年)。文化勲章(2012年)受章。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科および立命館大学映像学部の客員教授、文化学院の特別講師。日本映画監督協会会員。 妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。
三村 恪一(みむら かくいち、1931年8月16日 - 20… 三村 恪一(みむら かくいち、1931年8月16日 - 2022年2月19日)は、日本出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。 第二次世界大戦後に都立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)に編入しサッカーを始める。卒業後は中央大学に進学し、1953年には長沼健と共に日本学生選抜に選出され、ドイツのドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場した。 大学卒業後は東邦チタニウムに入社し、同社にサッカー部を設立。選手兼指導者として選手強化や環境作りに奔走した。 日本代表としては、1955年1月の東南アジア遠征で代表デビュー。同月11日のビルマ(体協選抜)戦で国際Aマッチ出場を果たし(後の日本代表データの見直しで2日のビルマ(保険大臣チーム)戦が国際Aマッチと認められたため、現在はこの試合が国際Aマッチデビュー戦)、同年11月のメルボルンオリンピック代表メンバーに選出された。
平井 照敏(ひらい しょうびん、1931年(昭和6年)3月3… 平井 照敏(ひらい しょうびん、1931年(昭和6年)3月31日 - 2003年(平成15年)9月13日)は、日本の俳人・フランス文学者。青山学院女子短期大学名誉教授。本名・てるとし。 東京都生まれ。1954年(昭和29年)東京大学文学部仏文科卒業、同大学院比較文学比較文化修士課程入学。1959年(昭和34年)詩集『エヴァの家族』を刊行、詩人として活動を始め、またフランス詩の研究も行う。青山学院短期大学に勤務しのち教授。2001年(平成13年)青山学院女子短期大学名誉教授。 1965年(昭和40年)ごろから俳句を作りはじめ、加藤楸邨に師事、「寒雷」に入会。寒雷賞受賞、同誌編集長になる。1974年(昭和49年)句集『猫町』を刊行、主宰誌「槇」を創刊する。
金子 仁洋(かねこ じんよう、1930年 - )は、日本の警… 金子 仁洋(かねこ じんよう、1930年 - )は、日本の警察官僚。筆名は島一芳。 新潟県で生まれ、中学2年生の時に上京。東京都立小山台高等学校を経て、東京大学法学部卒業。1955年、官界に入る。厚生省、警察庁、内閣官房、警察大学校校長等を歴任。その後、文筆、講演、ラジオ、テレビ出演等幅広く活躍。趣味にスキー。 国際刑事課の新設に尽力して、初代課長に推され、シンガポール警察の交番制導入に現地調査団長を務める。主として新規事業の中心となって活躍。また、岩手、栃木、大阪、兵庫の各府県警本部で地方の経験を積み、科学警察研究所総務部長、警察大学校校長等を歴任、警察官教育に精力を割く。一方で中曽根内閣の内閣広報室長としても活躍。
久保 欣哉(くぼ きんや、1929年(昭和4年)10月5日 … 久保 欣哉(くぼ きんや、1929年(昭和4年)10月5日 - 2008年(平成20年)8月5日)は、日本の法学者。専門は、商法・経済法・企業会計法。学位は、法学博士(一橋大学・1959年)(学位論文「株式配当と無償交付の研究」)。元一橋大学法学部長、元青山学院大学法学部長。一橋大学名誉教授。吉永榮助門下。指導学生に山部俊文一橋大学名誉教授、長塚真琴一橋大学教授、平川幸彦元明治学院大学教授、シュテファン・ヘルツベルク元駐日ドイツ大使館首席公使など。
水野 幸男(みずの ゆきお、1929年7月16日 - 200… 水野 幸男(みずの ゆきお、1929年7月16日 - 2003年1月24日)は、元情報処理学会会長・日本オペレーションズ・リサーチ学会会長・NEC副社長である。藍綬褒章受章者。 日本の情報処理分野に対し、先駆的に多くの技法・技術・技能を持ち込み、情報処理分野の発展につくし、日本の情報処理分野の父といわれる。日本の汎用機黄金期及び情報システム構築法の基礎を築いた点から、没後に富士通の池田敏雄・NECの水野幸男の双璧として譬えられることも多い。 なお、阪大MACの研究などでNTT中央研究所(現NTT先端研究所)の研究者との共同開発などが多い。(現NTTデータの前身のデータ通信処理事業本部ではない)
関屋 晋(せきや しん、1928年7月6日 - 2005年4… 関屋 晋(せきや しん、1928年7月6日 - 2005年4月9日)は、日本の合唱指揮者である。ほぼ独学で合唱指揮者になった。本名は関屋晋(すすむ)。東京都生まれ。 東京都立小山台高等学校を卒業し、早稲田大学政治経済学部に在学中の1949年、学生合唱団「早稲田大学コール・フリューゲル」を設立。大学在学時よりアマチュア合唱団の指揮者として活躍する。1951年、早稲田大学を卒業。卒業後は一時期会社勤めをしたが、合唱に専念するため、1957年に退職。主に大学、一般合唱団(市民合唱団、職場合唱団)の指揮・指導に携わった。 関屋は「専業合唱指揮者」の草分け的存在であった。彼以前の合唱指揮者は他に主たる仕事(教職や作曲、声楽など)を持っていたり、オーケストラや吹奏楽の指揮もしていた。
ジョージ・フィールズ(George Fields、日本名・宮… ジョージ・フィールズ(George Fields、日本名・宮田譲治/みやた じょうじ、1928年 - 2008年10月2日)は、日本東京府生まれのオーストラリアの事業家、国際ビジネスコンサルタント。フィールズ・アソシエイト代表。産能大学客員教授。 1928年に、東京で生まれる。父親が日本人で母親がオーストラリア人のハーフ。初等教育、中等教育は日本で受ける。都立八中卒業。東京が空襲を受けた後、父の勧めでオーストラリアへ移住し大学へ進むことになった。パスポートを取得するまでの1年間は父親の知人の紹介で撮影所で働く。1954年、シドニー大学経済学部卒業。英国ユニリーバ勤務を経て、1964年ASIマーケットリサーチ日本支社赴任とともに来日、以後日本に居住。
渡辺 祐介(わたなべ ゆうすけ、1927年7月17日 - 1… 渡辺 祐介(わたなべ ゆうすけ、1927年7月17日 - 1985年10月15日)は、日本の映画監督である。 1927年(昭和2年)7月17日、東京都蒲田に生まれる。東京都立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)を経て、静岡高等学校に入学。一級下の吉行淳之介らと同人雑誌『くたかけ』を発刊し、最初のシナリオを発表する。東京大学文学部美術科に進み、1951年卒業。在学中の1950年、新東宝助監督部に入社。助監督として中川信夫、佐伯幸三、斎藤寅次郎、市川崑、松林宗恵らにつく。1960年、『少女妻・恐るべき十六才』で監督デビュー。翌1961年、東映東京撮影所に移籍。『二匹の牝犬』『悪女』『牝』といった緑魔子主演の"悪女"シリーズを手掛ける。
皆川 達夫(みながわ たつお、1927年〈昭和2年〉4月25… 皆川 達夫(みながわ たつお、1927年〈昭和2年〉4月25日 - 2020年〈令和2年〉4月19日)は、日本の音楽学者。立教大学名誉教授。西洋音楽史家。日本キリシタン音楽史家。芸術学博士。ヨーロッパの中世・ルネサンス音楽史、日本キリシタン音楽史の研究で、第一人者・権威として知られる。 1927年(昭和2年)東京市で水戸藩士・皆川氏の家系に生まれ、幼少期から謡曲を習う。1940年(昭和15年)東京府立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)に入学。能に心酔して、しばしば能楽堂や歌舞伎座に通い、級友からは「アブちゃん」(abnormalから)という綽名で呼ばれた。また、偶然の機会に中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会の典礼聖歌をSPレコードで聴き、日本の伝統芸能とヨーロッパ音楽との関連性に強い興味を抱く。
熊倉 一雄(くまくら かずお、1927年〈昭和2年〉1月30… 熊倉 一雄(くまくら かずお、1927年〈昭和2年〉1月30日 - 2015年〈平成27年〉10月12日)は、日本の俳優、声優、演出家。テアトル・エコー所属で、生涯に渡って代表取締役演劇担当を務めていた。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)三ノ橋出身。父は工作機械のセールスマン。母方の祖父は傘の会社の技師長。青山で1年ほど暮らして、5歳の時、一家は下町、東京府東京市京橋区入船町(現在の東京都中央区入船)に越して父の両親と同居。この町で小学校時代を送っていたが、元々虚弱体質であり、小学2年生の時に肋膜炎を罹り3ヶ月ほど自宅療養し、本ばかり読んでいた。将来は発明家になりたいと考えており、エジソンが好きだった。
川崎 展宏(かわさき てんこう、本名ではのぶひろ、1927年… 川崎 展宏(かわさき てんこう、本名ではのぶひろ、1927年1月16日 - 2009年11月29日)は、日本の俳人・国文学者。広島県出身。 呉市生まれ。父は海軍士官。1953年、東京大学文学部国文学科卒業。1958年、同大学院満期退学。米沢女子大学、共立女子大学を経て、明治大学法学部教授。 東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)で加藤楸邨に教わり、のちに俳句を楸邨に師事、「寒雷」に参加する。1970年、森澄雄の「杉」創刊に参加、編集を務める。1980年、超結社の同人誌「貂」を創刊、2003年まで代表を務め、2004年より名誉代表となる。1991年、句集『夏』で読売文学賞受賞。1998年、句集『秋』で詩歌文学館賞、評論『俳句初心』で俳人協会評論賞受賞。
佐田 登志夫(さた としお、1926年1月8日 - 2010… 佐田 登志夫(さた としお、1926年1月8日 - 2010年4月13日)は、日本の生産工学者。1996年「コンピューターモデルによる設計生産の総合化」(共同研究)で日本学士院賞を受賞。東京都出身。 父は内務省復興局勤務中に聖橋の橋梁設計に関わった土木設計者の佐田昌夫。息子は日本機械学会会長佐田豊 専門は生産加工学。機械磨耗、切削加工、研削加工、工作機械、フレキシブル生産システムなど広い分野で独創的な研究を行う。また、その成果は工作機械メーカや自動車メーカに導入され、生産設備の高精度化と自動化に直接結びつき、さらにコンピュータメーカと機械メーカからなる統合化設計生産システムのコンソーシアムを組織するなど、日本のものづくりをリードする。
一柳 東一郎(ひとつやなぎ とういちろう、1925年3月8日… 一柳 東一郎(ひとつやなぎ とういちろう、1925年3月8日 - 2016年6月7日)は、日本のジャーナリスト。元朝日新聞社社長。 東京都出身。東京帝国大学文学部卒。1948年朝日新聞東京本社入社。札幌支局、政治部を経て、1964年論説委員、1966年政治部長、1967年東京本社編集局次長、1970年7月西部本社編集局長、1973年9月東京本社編集局長、1977年12月取締役・東京本社編集局長、1978年12月常務取締役・大阪本社代表、1982年6月代表取締役専務取締役・大阪本社代表、1983年10月副社長と歴任して、1984年12月社長に就任。営業成績の伸び悩みから、1985年3月に常務会メンバーを中心とする「長期ビジョン懇談会」を設置し、全社員にアイディアを求めて長期経営戦略をまとめ、新聞という単一商品依存型の経営から脱皮し、総合情報産業として立つことを目指し、新媒体として1988年に『AERA』、『ASAHIパソコン』、1989年に『月刊ASAHI』を創刊したが、1989年4月に朝日新聞社のカメラマンが沖縄県西表島で珊瑚に傷を付け、その写真を基に記事を捏造した珊瑚事件で同年6月に引責辞任した。
中尾 英俊(なかお ひでとし、1924年9月10日- 201… 中尾 英俊(なかお ひでとし、1924年9月10日- 2014年12月21日)は、日本の法学者で、弁護士。西南学院大学名誉教授。湘潭大学名誉教授。法学博士(九州大学、1962年)。2001年勲三等瑞宝章受章。 東京市(東京都)生まれ福岡県育ち。父の勤務の都合で、主に東京と郷里福岡で幼少年時代を過ごす。東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)卒業後、1943年4月東京商科大学商学専門部(現一橋大学)に入学する。翌年8月東京商科大学商学専門部在学のまま海軍予備生徒、1945年6月海軍少尉候補生を命ぜられ、特殊潜航艇蛟龍艇長として訓練を受け、出撃待機中に終戦を迎える。同年9月少尉任官、復員。郷里の福岡に帰り約1年間実家にて農業に従事する。
長谷川 正安(はせがわ まさやす、1923年1月24日 - … 長谷川 正安(はせがわ まさやす、1923年1月24日 - 2009年8月13日)は、日本の法学者(憲法・フランス近代憲法)。名古屋大学名誉教授。日本科学者会議代表幹事、原水爆禁止日本協議会理事長、世界科学者連盟副会長等を歴任した。田上穣治門下。 1923年茨城県土浦市で、4人兄弟の末っ子として生まれる。関東大震災後に品川区武蔵小山の長屋に家族で移住。1943年徴兵。1945年乗船中の輸送船が機雷により大破、舞鶴のドックで終戦を迎える。この戦争体験から日本軍に反感を持ち、軍隊、組織嫌いとなり、企業就職を拒否し、研究者の道を歩むことを決意するようになる。 1946年(昭和21年)東京商科大学(現一橋大学)卒業後、1949年同窓の酒井正兵衛学部長の下、26歳で新設の名古屋大学法経学部助教授に就任。
松前 健(まつまえ たけし、1922年(大正11年)9月5日… 松前 健(まつまえ たけし、1922年(大正11年)9月5日 - 2002年(平成14年)3月24日)は、日本の宗教学者、神話学者。天理大学教授、立命館大学教授、大阪成蹊女子短期大学教授、奈良大学教授。 都立高教諭・大学非常勤講師だった1960年に『日本神話の新研究』を刊行し、翌年日本宗教学会の姉崎正治記念賞を受賞。こうした初期の成果が三品彰英らに高く評価され、のち関西に拠点を移した。『日本神話の形成』(1970年)で文学博士号を取得して以降、天理大学をはじめ関西の各大学でそれぞれ教授をつとめた。 1922年、日本統治時代の朝鮮全羅南道木浦の栄町(日本人街)で貿易を営んでいた商家に生まれた。原籍は山口県熊毛郡室津村。
加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 200… 加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 2000年6月4日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(左ウイング)。 左足のボールテクニックとスピードを生かしたドリブル突破が持ち味のウインガー。戦前、戦後を通じて日本代表として活躍し、インナー(現在の攻撃的MF)の岩谷俊夫とは名コンビとして知られた。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代の1937年1月に開催された第18回全国中等学校蹴球選手権大会に出場。卒業後は早稲田大学理工学部へ進学しア式蹴球部に所属。早大WMW(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1940年の全日本蹴球選手権大會 (第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の準優勝に貢献した。
秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年〈大正9年〉… 秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年〈大正9年〉6月8日 - 2003年〈平成15年〉1月16日)は、日本の写真家。 日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、全日本写真連盟副会長、日本写真協会副会長、日本写真芸術専門学校初代校長、日本デザイナー学院校長を歴任。二科会写真部創立会員。 紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。 中学生の時に好きな女の子ができ、その子の顔をいつも眺めていたかったためにカメラに興味を持ち、パーレットを買ってもらったが、使い方が難しく、ぶつけてタスキを曲げてしまいピントが出なくなってしまった。その次に入手したのはバルディで、中学の修学旅行にて奈良の若草山でススキが逆光に光るのを撮影し想像以上の良い写真ができたことから写真が面白くなり始めた。
栗原 祐幸(くりはら ゆうこう、1920年〈大正9年〉6月5… 栗原 祐幸(くりはら ゆうこう、1920年〈大正9年〉6月5日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。 防衛庁長官、労働大臣、衆議院議員(7期)、参議院議員(2期)を務めた。長男は沼津市長や衆議院議員を務めた栗原裕康。 静岡県田方郡中郷村(現三島市)の生まれ。東京府立第八中学校、佐賀高等学校文科甲類を経て1944年東京帝国大学法学部卒業。学徒出陣により中国に出征する。軍隊時代に上官を殴打するなど、若い頃から鼻っ柱が強い性格だった。 戦後、栗原は東大時代の恩師である南原繁より、「戦前の日本は優秀な人材が官僚組織や軍部に集中して民間の裾野が手薄になり、権力の暴走をくい止めることができなかった。
鈴木 文彦(すずき ふみひこ、1919年〈大正8年〉9月13… 鈴木 文彦(すずき ふみひこ、1919年〈大正8年〉9月13日 - 没年不詳)は、日本の外交官、国際公務員。外務省経済局次長、外務省国際連合局長等を経て、1979年から82年までジュネーヴ国際機関日本政府代表部特命全権大使を務めた。 東京出身。東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、1940年浦和高等学校文科甲類卒業。1942年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。1946年に解員(復員)した。 外務省経済局国際機関課長等を経て、1962年在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部一等書記官。
渡邉 暁雄(わたなべ あけお、1919年(大正8年)6月5日… 渡邉 暁雄(わたなべ あけお、1919年(大正8年)6月5日 - 1990年(平成2年)6月22日)は、日本の指揮者、教育者。鳩山一郎は義父にあたる。 1919年、巣鴨のルーテル教会の日本人牧師・渡邉忠雄を父とし、フィンランド人の声楽家・渡邉シーリを母として、東京府で生まれた。兄は共同通信社で重責を歴任したジャーナリストの渡邉忠恕。妻の信子は鳩山一郎の五女。長男の渡邉康雄(指揮者)、次男の渡邉規久雄(ピアニスト)とも芸術系の大学教授を務める音楽家。声楽家の母に幼少時から音楽の手ほどきを受けたほか、5歳でピアノを、10歳でヴァイオリンを始める。1940年、東京音楽学校(現東京芸術大学)本科器楽科(ヴァイオリンを専攻)卒業後、研究科に進みヴァイオリン・ヴィオラ奏者として活動。
大和 英成(やまと ひでしげ、1919年2月8日 - 197… 大和 英成(やまと ひでしげ、1919年2月8日 - 1973年5月30日)は、日本の地理学者。理学博士(東京大学・1959年)(学位論文『低湿地の農業地理学的研究』)。駒澤大学教授等を歴任。 東京都出身。1936年東京府立八中(現・都立小山台高校)、1940年 駒澤大学専門部歴史地理科卒業。日本学園、都立武蔵丘高校で教鞭をとる。1948年 東京外国語専門学校専修科独語科卒業。1951年 法政大学文学部(旧制)地理歴史学科卒業。1951年 駒澤大学文学部兼任講師。1955年 東京大学大学院数物系研究科修士課程を修了し、駒澤大学専任講師。1958年 東京大学大学院博士課程修了し、駒澤大学文学部助教授。
冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2… 冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2005年(平成17年)1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。 富山県生まれ。府立八中(現東京都立小山台高等学校)を経て、1938年海軍兵学校(第65期)卒業。戦艦「金剛」、重巡洋艦「熊野」、「利根」乗組。1939年海軍練習航空隊飛行学生。航空母艦「飛龍」乗組を経て、1941年霞ヶ浦海軍航空隊司令承命服務。1944年海軍少佐。1945年台湾第29航空戦隊(新竹)参謀、1946年第2復員省臨時調査部勤務。以後、法廷係として極東国際軍事裁判(東京裁判)のほとんどを傍聴。この間、「海軍少佐」の経歴のため公職追放となる。
都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月… 都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月27日 - 2000年(平成12年)7月4日)は、日本の外交官。イスラエル、ハンガリー、スウェーデン、アイスランドの大使を務めた。イスラエル大使時代にテルアビブ空港乱射事件に遭遇。位階は正三位。息子に作曲家の都倉俊一。孫に女優の都倉伶奈とJリーガーの都倉賢。 神奈川県出身。旧制東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、ロシア文学に惹かれて東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に進む。 1934年、外務省入省。外務書記生となる。 ハイデルベルク大学留学、在ドイツ日本大使館勤務を経て、1936年、在ウラジオストク日本領事館に勤務。
河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1… 河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1998年8月12日)は、日本の俳優、声優である。本名は河村 弘仁(読み同じ)。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)出身。府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)卒業。創作座、P.C.L映画製作所、文学座、東宝、森の会、プレーヤーズセンター、東京俳優生活協同組合に所属していた。 3人兄弟の次男で、兄は医者の金田義人、妹は女優の河村久子。 中学校卒業後、劇団プレイボーイズを経て、創作座に入団し『デット・エンド』『大地』などに出演する。 1936年、P.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『彦六大いに笑ふ』で映画デビュー。