スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年〈昭和26年〉3月2… ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年〈昭和26年〉3月25日 - 2000年〈平成12年〉5月13日)は、日本のプロレスラー、スポーツ科学研究者。本名及び旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。 全日本プロレスで活動した三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初の第30代AWA世界ヘビー級王者である。 1972年ミュンヘンオリンピックのレスリングである、グレコローマンスタイル最重量級日本代表を経て、その後全日本プロレスへ入門する。ジャイアント馬場の後を継ぐ次世代・全日本プロレスの若き大型エースとしても期待され、順調に頭角を現しトップレスラーの1人として活動した。しかし後にB型肝炎を発症したことにより第一線を退く形となる。
有賀 健(あるが けん、1951年2月24日 - )は、ラグ… 有賀 健(あるが けん、1951年2月24日 - )は、ラグビーの元日本代表選手。ポジションは左ウィング。
風間 深志(かざま しんじ、1950年9月26日- )は、山… 風間 深志(かざま しんじ、1950年9月26日- )は、山梨県山梨市出身の冒険家。オートバイによる史上初の北極点・南極点到達、チョモランマ挑戦時の世界最高高度記録(6,005m)など3つの世界記録を持つ。パリ・ダカールラリーにおいて二輪部門での日本人初参戦など、オートバイラリーのパイオニア。ホリプロ所属、日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ) 評議員、山梨県観光大使、山梨市観光大使、全日本そり連盟会長と、多岐にわたって活動中。三男は俳優でモトクロスライダーの風間晋之介。
清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - … 清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - )は、山梨県塩山市(現:甲州市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、ラグビー選手、法政大学スポーツ健康学部教授。サッカー選手時代のポジションはDF。 中学時代までは野球をしていた。山梨県立日川高校入学後、クラス対抗ラグビー大会の活躍によりまずラグビー部からスカウトされ、その後サッカー部にも入り、両部を掛け持ちするようになる。サッカーでは県大会3位止まりだったが、主にフルバックやウイングとしてプレーしたラグビーでは3年生の時に全国高校ラグビー大会で準々決勝まで進出し、大会ベストフィフティーンにも選ばれた。高校時代の同級生には有賀健、風間深志、ジャンボ鶴田がいる。
武井 美男(たけい よしお、1950年9月3日 - 2006… 武井 美男(たけい よしお、1950年9月3日 - 2006年6月4日)は、日本のアマチュア相撲指導者、明治大学付属中野中学校・高等学校相撲部元監督、教員。山梨県出身。 相撲の基礎からの徹底指導に定評があり、若乃花勝・貴乃花光司兄弟や栃東大裕、玉力道栄来などの力士を育て上げ、角界に送り出した名監督として知られている。 山梨県立日川高等学校を経て明治大学に進むと相撲部の主将を務めた。同大学卒業後は明治大学付属中野中学校・高等学校の教員となり、教鞭をとりながら相撲部の監督として後進の指導にあたってきた。2006年6月4日、学校近くに仕事用として借りていた住居で、55歳という若さで死去した。人工透析を受けるなどの持病があったが、亡くなる直前まで教壇に立っていたという。
高木 晴雄(たかぎ はるお、1950年〈昭和25年〉7月24… 高木 晴雄(たかぎ はるお、1950年〈昭和25年〉7月24日 - )は、日本の政治家。山梨県山梨市長(3期)。元山梨県議会議員(2期)。 山梨県山梨市出身。山梨県立日川高等学校卒業。リフォーム・ガス会社「株式会社タカギ」の社長を務めた。 2011年(平成23年)の山梨県議会議員選挙に無所属・民主党推薦で出馬し初当選した。2015年(平成27年)の県議選で再選。 2017年(平成29年)8月7日、前年に行われた市職員採用試験を巡り、山梨市長の望月清賢が虚偽有印公文書作成・同行使の容疑で逮捕された。同年8月13日、望月は辞職。8月23日、望月の辞職に伴う市長選挙に立候補する意向を表明し、同日、県議を辞職した。
吉沢 やすみ(よしざわ やすみ、1950年〈昭和25年〉1月… 吉沢 やすみ(よしざわ やすみ、1950年〈昭和25年〉1月8日 - )は、日本の男性漫画家、同人作家、実業家。 娘は漫画家の大月悠祐子(かなん)。義理の息子(悠祐子の夫)は漫画家の大井昌和。 山梨県山梨市出身、父親はギャンブル狂いの果てに失踪したため母子家庭で育つ。 山梨県立日川高等学校に進学、高校在学時より同人作家として活動を開始し、貝塚ひろしが主催する同人誌「まんがマニア」に漫画を投稿。高校卒業後に弟と母に向かって「絶対マンガ家になる」と発して旅立ち、上京。貝塚に師事する。なお、高校での1年後輩にプロレスラーのジャンボ鶴田がいた。 1970年(昭和45年)、貝塚の紹介で『週刊少年ジャンプ』に『ど根性ガエル』の読切り(吉沢 保己名義)を投稿。
中村照人(なかむら てるひと、1949年(昭和24年)10月… 中村照人(なかむら てるひと、1949年(昭和24年)10月1日 - 2009年(平成21年)12月28日)は、日本の政治家。元山梨市長(新市制、1期)。 山梨県山梨市出身。山梨県立日川高等学校を経て山梨大学工学部精密工学科卒。同じく山梨県出身の田邊圀男の国会秘書を経験したのちに1987年、山梨市より山梨県議会に初当選した。その後4期県議会議員(自由民主党所属)を務めた。この間、1997年10月28日から1998年12月4日まで県議会議長を務めた。 2002年4月12日、山梨市長選挙への立候補を正式に表明した。6月4日、県議を辞職し、自民党も離党した。7月20日、元県議同士の一騎討ちを制して、初当選を果たした。
内藤 久(ないとう ひさし、1948年7月5日 - 2025… 内藤 久(ないとう ひさし、1948年7月5日 - 2025年2月2日)は、山梨県出身のプロ野球選手(外野手)。右投両打。 山梨県立日川高等学校では、高校三年間の通算打率四割、スイッチ・ヒッター、ベース一周14秒1の快足の持ち主だった。 東京六大学入りを希望していた内藤を渡辺スカウトが説得。1966年第1次ドラフト会議にドラフト10位にて西鉄ライオンズへ入団。しかし、僅か1年で西鉄を退団した。 1969年は中南米で新たに発足したグローバルリーグの東京ドラゴンズに参加。しかし、同年限りでリーグが解体したため、帰国を余儀なくされた。 東京ドラゴンズ解散後、玉沢運動具店に入社すると納入企業であった縁から川上哲治監督に素質を見いだされ巨人へ入団。
望月 清賢(もちづき せいき、1947年(昭和22年)6月3… 望月 清賢(もちづき せいき、1947年(昭和22年)6月30日 - )は、日本の実業家・石材会社である差出石材の元社長、政治家・前山梨市長(1期)、元山梨県議会議員(4期)、元山梨市議会議員(3期)。山梨市職員採用を巡る不正事件で、有罪が確定している。 山梨県山梨市出身。山梨県立日川高等学校卒業。1974年(昭和49年)、金沢工業大学工学部卒業。父親が経営する差出石材に就職。 1983年(昭和58年)、旧山梨市の市議会議員選挙に初当選。3期務めた。1999年(平成11年)、亡くなった父親の後を継いで差出石材の社長になった。 2002年(平成14年)7月20日に行われた山梨県議会議員補欠選挙に出馬し初当選。
海野 一幸(うみの かずゆき、1946年1月1日 - )は、… 海野 一幸(うみの かずゆき、1946年1月1日 - )は、日本の実業家。これまで山梨日日新聞の記者や山梨放送の取締役、ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ社長および会長、最高顧問、およびJリーグ理事会の理事に就いていた。 山梨県出身。山梨県立日川高等学校、東京農業大学卒業、外国留学を経て1970年に山梨日日新聞へ記者として入社する。山梨日日新聞では国政・県政において強い影響力を持っていた金丸信の番記者を任されるなど才能を買われ、1991年には同社の取締役編集局長に就任する。その後は山梨放送取締役、アドブレーン取締役を歴任する。2001年、ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ代表取締役社長に就任する。2012年から同社代表取締役会長に就任(2016年から「代表」の肩書が外れている)。
早河 洋(はやかわ ひろし、1944年1月1日 ‐ )は、日… 早河 洋(はやかわ ひろし、1944年1月1日 ‐ )は、日本のディレクター、プロデューサー、実業家。株式会社テレビ朝日ホールディングス代表取締役会長、株式会社テレビ朝日取締役会長、一般社団法人日本民間放送連盟会長。東映株式会社社外取締役、朝日放送株式会社社外取締役、公益財団法人朝日新聞文化財団評議員、東映アニメーション株式会社社外取締役を歴任した。 山梨県笛吹市(旧・一宮町)出身。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学法学部卒業。テレビ朝日の前身である株式会社日本教育テレビ(NETテレビ)に入社。「ANNニュース」を始めとして主に報道畑を歩む。1980年には轡田隆史、内田忠男、安藤優子をキャスターに起用した『BIG NEWS SHOW いま世界は』のディレクターを務め、1983年からは筑紫哲也の『TVスクープ』等も担当。
横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、… 横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、山梨県東山梨郡勝沼町(現・山梨県甲州市)出身の元サッカー選手および現サッカー指導者・解説者。 山梨県立日川高等学校在学中よりサッカーを始め、日本体育大学入学後もサッカー部に入部した。大学卒業後は高校教諭となり、1968年に(昭和43年)山梨県立谷村工業高等学校に赴任してサッカー部の監督に就任し、関東大会に出場した。その傍ら甲府サッカークラブで1973年 (昭和48年)6月までプレーして主将も務めた。 現役を引退した1973年(昭和48年)より山梨県立韮崎高等学校に赴任となり、サッカー部の監督に就任。1975年(昭和50年)に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝した。
萩原 千秋(はぎわら ちあき、1938年12月1日 - 20… 萩原 千秋(はぎわら ちあき、1938年12月1日 - 2018年10月5日)は、山梨県出身のプロ野球選手、(外野手)。 日川高校から駒澤大学へ進学。当時の東都大学野球リーグは、専大、日大の二強時代で、在学中の優勝はならず、2位2回にとどまる。1959年春季リーグ、1960年春季リーグでベストナイン(外野手)に選出された。 1961年に東映本社入社と同時に東映フライヤーズへ入団。右足骨折で2年間を棒に振るが、1963年には一軍に定着。同年は毒島章一の長期欠場もあり、7月以降は右翼手として40試合に先発出場を果たす。東映には張本勲、白仁天、毒島といった実力者がおり、その後もレギュラーには届かなかったが、控え外野手や代打要員として長く活躍した。
太刀川 恒夫(たちかわ つねお、1937年(昭和12年) -… 太刀川 恒夫(たちかわ つねお、1937年(昭和12年) - 2025年(令和7年)2月13日)は、日本の実業家。神奈川県横浜市出身。東京スポーツ新聞社の社長・会長を歴任した。 なお戸籍上の名字の表記は「大刀川」であり、毎日新聞など一部のマスメディアでは同表記を用いている。 1955年、山梨県立日川高等学校を卒業後、児玉誉士夫の著作を読んで「共鳴し」、児玉のような人間になろうと考え上京、1960年に児玉宅に書生として住み込んだ。その後、児玉から政治の勉強をするよう指示され、河野一郎代議士を通じて中曽根康弘を紹介され、中曽根の書生となり、中央大学法学部政治学科二部に入学。昼は中曽根事務所で働き、夜は大学に通った。
松澤 友久(まつざわ ともひさ、1936年9月15日 - )… 松澤 友久(まつざわ ともひさ、1936年9月15日 - )は、日本のラグビー指導者。山梨県出身。 日川高校卒業後、日本体育大学に入る。 日本体育大学卒業後、川崎の高校教師を経て1971年、相模台工業高校のラグビー部監督に就任。監督として在籍期間中花園1度の優勝、2度の準優勝に貢献。なお総監督を務めた1994年も花園連覇した。 監督退任後は山梨学院大学の監督就任。関東大学ラグビーリーグ戦グループ1部初昇格に貢献。相模原市ラグビーフットボール協会の会長を務めた。
雨宮 眞也(あめみや まさや、1935年1月7日 - 202… 雨宮 眞也(あめみや まさや、1935年1月7日 - 2022年3月18日)は、日本の弁護士、法学者。駒澤大学名誉教授。同大学学長、中国遼寧大学名誉教授など歴任。 山梨市出身。1953年、山梨県立日川高等学校卒業。同年山梨中央銀行入行。1956年 中央大学法学部法律学科に入学。在学中の1959年に司法試験合格。1960年、中央大学卒業。1962年、弁護士登録(東京弁護士会14期)。 1969年、駒澤大学法学部講師。助教授を経て1974年、法学部教授に就任。 1983年、日本比較法研究所客員研究員。駒澤大学法学部長、1994より副学長。 1998年~2002年、駒澤大学学長。2001年から2009年まで日本ディスクロージャー研究学会会長。
日向隆(ひなた たかし、1934年11月16日 - 2019… 日向隆(ひなた たかし、1934年11月16日 - 2019年2月8日)は日本の大蔵官僚。国税庁次長、東京国税局長、さわやか信用金庫初代理事長などを歴任。血液型はB型。 山梨県北巨摩郡出身(父母も山梨県)。山梨県立日川高等学校、東京大学法学部卒業。1959年 大蔵省入省(主税局調査課)。1965年7月 三原税務署長。1983年6月 国税庁長官官房総務課長。1984年6月27日 広島国税局長。1985年6月 国税庁調査査察部長。1987年6月25日 国税庁次長。1988年6月15日 東京国税局長。1989年6月23日 退官。同年7月 国民金融公庫理事。1991年7月 証券投資信託協会副会長兼専務理事。
齊藤 寛(さいとう ひろし、1934年〈昭和9年〉3月21日… 齊藤 寛(さいとう ひろし、1934年〈昭和9年〉3月21日 - 2024年〈令和6年〉8月10日)は、日本の実業家。シャトレーゼホールディングス創業者。 1934年、山梨県東山梨郡勝沼町(現:甲州市)生まれ。山梨県立日川高等学校卒業。1954年に今川焼き風の焼き菓子店「甘太郎」を出店し、創業。1959年に有限会社甘太郎を設立し、代表取締役に就任。1964年に大和アイス株式会社を設立し、1967年に2社を合併して株式会社シャトレーゼを設立。代表取締役に就任し、2008年に会長に昇格。2010年に株式会社シャトレーゼを株式会社シャトレーゼホールディングスに商号変更し、代表取締役社長に。2018年社長職を次女の齊藤貴子に譲り、同社の会長に。
弦間 明(げんま あきら、1934年 - )は、株式会社資生… 弦間 明(げんま あきら、1934年 - )は、株式会社資生堂相談役である。山梨県出身。山梨県立日川高等学校卒。早稲田大学卒。2002年フランス国家功労章受章。2005年旭日中綬章受章。
松川 洋右(まつかわ ようすけ、1933年2月27日 - )… 松川 洋右(まつかわ ようすけ、1933年2月27日 - )は、元NHKのアナウンサー。現在はNHK放送博物館の職員として在籍。
保坂 幸永(ほさか ゆきなが、1931年8月13日 - )は… 保坂 幸永(ほさか ゆきなが、1931年8月13日 - )は、山梨県塩山市赤尾出身の元プロ野球選手(捕手、投手)。 山梨県立日川高等学校では、捕手として1949年の春の選抜に出場。1回戦で北野高に敗退。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜き山静大会決勝に進むが、静岡城内高に敗れ甲子園出場を逸する。 卒業後は立教大学へ進学。1年上に堀川瑛(東洋レーヨン)がおり、4年生から正捕手となる。東京六大学野球リーグでは、1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に圧倒され、優勝には届かなかった。大学同期に大沢昌芳、古田昌幸がいる。2年後輩の杉浦忠ともバッテリーを組んだことがあった。 1956年大映スターズに入団。
田辺 哲夫(たなべ てつお、1929年3月9日 - 1995… 田辺 哲夫(たなべ てつお、1929年3月9日 - 1995年8月8日)は、日本の法律家、政治家。弁護士、元参議院議員(2期)。
小佐野 政邦(おさの まさくに、1928年(昭和3年)9月9… 小佐野 政邦(おさの まさくに、1928年(昭和3年)9月9日 - 2001年(平成13年)2月18日)は、日本の実業家である。 歌人、小説家、実業家の小佐野彈は血縁上の孫であり、養子。 1982年(昭和57年)、国際興業第四代社長に就任。1986年(昭和61年)、急逝した創業者小佐野賢治の全事業を継承し、グループ総裁となる。 「北海道いすゞ」「馬門温泉」「秋北ホテル」「十和田観光電鉄」「花巻温泉」を任され、一か月の半分は北海道、残り半分は東北というハードスケジュールで、賢治の信頼を勝ち取った。 身長178センチで、当時としては背が高く体操の時は常に先頭であった。 山梨県勝沼町生まれ。幼い頃は家で水田と養蚕をしていた。
土屋 嘉男(つちや よしお、1927年5月18日 - )は、… 土屋 嘉男(つちや よしお、1927年5月18日 - )は、日本の俳優。本名同じ。身長173cm、体重72kg。
永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 19… 永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 1975年5月17日)は、日本の広告研究者、評論家。 山梨県塩山市郊外に生まれる。山梨県立日川中学校、多摩美術大学卒業。台糖株式会社宣伝課長、日本経済新聞社『日経広告手帖』編集長、中部日本放送「CBCレポート」編集長、「週刊明星」創刊にかかわり、市場調査機関・永田オペレーション・センターを設立、のち電通PRセンターとし、初代社長となる。1970年株式会社ジャパーク(JPRC)を創立。評論家として著書多数を著した。 1960年代、永田が電通PR(現電通パブリックリレーションズ)社長時代提唱したとされる。
深沢 七郎(ふかざわ しちろう、1914年〈大正3年〉1月2… 深沢 七郎(ふかざわ しちろう、1914年〈大正3年〉1月29日 - 1987年〈昭和62年〉8月18日) は、日本の小説家、ギタリスト。 山梨県出身。職を転々とし、ギター奏者として日劇ミュージックホールに出演。『楢山節考』が正宗白鳥に激賞され、異色の新人として注目を集めた。「中央公論」に発表した『風流夢譚』に関わる右翼テロ事件(嶋中事件)後、筆を折った時期もあったが、土俗的な庶民のエネルギーを描いて独自の作品を発表し続けた。農場や今川焼屋を経営したり、ギター・リサイタルを開催したりと多くの話題を残した。他に代表作『笛吹川』『東京のプリンスたち』『庶民烈伝』『みちのくの人形たち』など。 1914年(大正3年)1月29日、印刷業の父・隣次郎、母さとじの四男として、山梨県東八代郡石和町(現笛吹市石和町)市部に生まれる。
田邊 國男(田辺 国男、または田邉 國男、たなべ くにお、1… 田邊 國男(田辺 国男、または田邉 國男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党衆議院議員、山梨県知事、鈴木改造内閣の総理府総務長官、沖縄開発庁長官を歴任したほか、田辺酒造店主でもある。 山梨県塩山市下於曽(現在の甲州市)に生まれる。造酒業を営む田辺家の次男。田邊宗英の甥にあたる。父の田邊七六は戦前に実業界から衆議院議員となった人物で、立憲政友会に所属し幹事長を務め、戦後も日本進歩党に所属し、自民党山梨県連初代会長を務め山梨県政に影響力を持っていた。 1938年(昭和13年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、1958年(昭和33年)に第28回衆議院議員総選挙において旧山梨全県区から立候補し初当選して以来、通算当選9回(当選同期に安倍晋太郎・倉成正・斎藤邦吉など)。
田邊 圀男(田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日… 田邊 圀男(田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員、山梨県知事、鈴木改造内閣の沖縄開発庁長官、総理府総務長官を歴任したほか、田辺酒造店主。
小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月… 小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月27日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡松里村上井尻(塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山上井尻)出身。日川中学校(現山梨県立日川高等学校)を経て、1926年(大正15年)山梨県師範学校第2部を卒業した。 南都留郡盛里小学校訓導、旭尋常高等小学校訓導、山梨国民学校教頭、峡東青年学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)松里中学校長に就任。1948年(昭和23年)山梨県教職員組合執行委員長となり、山梨県連合教育会副会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から無所属で出馬して当選。
赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 198… 赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 1985年9月11日)は山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)出身の出版人、放送人である。
遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2… 遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2004年2月27日)は、日本の農学者・園芸学者。鳥取大学名誉教授。中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠の約2万ヘクタールの砂漠の緑化に成功し、その取り組みが高く評価されている。 1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村新倉(後の旧下吉田町新倉、現・富士吉田市新倉)に生まれる。実家は浄土真宗本願寺派の寺院である大正寺で、6人兄弟の3番目だった。旧制山梨県立日川中学校(現:山梨県立日川高等学校)、旧制第二高等学校を卒業。高校時代に旧制第二高等学校の先輩である、菊池秋雄教授に出会い農学を志す。京都帝国大学農学部農学科に入学。京都大学で卒業後は同大で助手として働いた。
前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 19… 前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。 1903年、山梨県笛吹市八代町に生まれた。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に進んだ。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学んだ。1928年に同大学を卒業。 卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務めた。1940年、南満洲鉄道東亜経済調査局に勤勤。このことで厖大なイスラム文献を自由に手に取り研究する機会を得た。 1953年、学位論文『東西交渉史上におけるイスラム教徒勢力の消長に関する研究』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 199… 金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 1991年5月25日)は、日本の法学者・元裁判官・元外交官。専門は、民事手続法(民事訴訟法・民事執行法・民事保全法)。法学博士(中央大学)。中央大学名誉教授。 山梨県甲府市出身。山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)卒業。1926年高等文官試験司法科合格。1927年中央大学法学部卒業。司法官試補。1928年東京地方裁判所判事に就任。その後、福島地方裁判所判事、仙台地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を経て、1936年中華民国南京日本総領事館領事に就任。1942年中華民国天津日本総領事館領事。1946年東京控訴院判事。1948年中央大学法学部教授。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
大村 勇(おおむら いさむ、1901年 - 1991年)は日… 大村 勇(おおむら いさむ、1901年 - 1991年)は日本の牧師、日本基督教団第6代総会議長。日本キリスト教協議会の議長も務めた、エキュメニカル派の牧師。日本基督教団阿佐ヶ谷教会の牧師を務める。
小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 19… 小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 1929年12月28日)は地質学者、古生物学者。東京帝大助教授。 1899年、山梨県東山梨郡日下部村の大地主の家に生まれた。1916年、日川中学校を卒業し、第一高等学校に入学。中学時代より地学に関心があり、高校では科学会に所属して坪井誠太郎と共に活動した。高校1年次にすでに東京地質学会創立第20周年記念総会に出席した記録が残っている。1920年、東京帝国大学地質学科に入学。トマス・ヘンリー・ハクスリーの『白亜の一片(On a piece of chalk)』を読んで、地史学・古生物学の道を志したという。在学中より第二講座の横山又次郎の指導を受け、山口県秋吉台周辺の化石層序を研究した。
名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月… 名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月26日 - 1977年(昭和52年)2月20日)は、日本の経営者。戦後の山梨中央銀行頭取。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)に広瀬久政の三男として生まれ、繁と命名される。山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て大正11年(1922年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行し神戸支店に勤務したが、胸を患い退職。その後、療養しながら東京帝国大学の大学院に在籍し工場経営学を専攻し、東京高等商船学校(現在の東京海洋大学)の講師を務めた。 その間、甲府市長、貴族院議員を務めた甲府市山田町(ようだまち)の商家名取忠愛の二女淑子と大正13年(1924年)11月に結婚し、名取繁と名乗ることとなった。
矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 19… 矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 1953年4月7日)は日本の哲学者、美術史家。
須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 196… 須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 1964年9月16日)は、日本のイスラム教研究者。日中戦争期には、外交官として内蒙古に派遣されて諜報活動をおこなった。 「国士的人物」であり、「とにかく独立独歩、他からの制肘を好まず」、晩年に至っても「意気軒昂たる」ものがあったとされる。 山梨県東八代郡一桜村小城(後の一宮村→一宮町→笛吹市の一部)に生まれる。 旧制の日川中学校(山梨県立日川高等学校の前身)から東京府豊島師範学校に進んだが、さらに東京外国語学校に学び、ロシア語部選科を修了した。 1918年のシベリア出兵の際には、通訳として従軍し、沿海州からザバイカル州までを転戦した。この3年に及ぶシベリアでの活動の間に、白軍の一翼を担っていたアタマン・セミヨノフをリーダーとする中央アジア系ムスリム兵の部隊と接触し、イスラム教に帰依したといわれる。
中沢 三夫(なかざわ みつお、1891年11月23日 - 1… 中沢 三夫(なかざわ みつお、1891年11月23日 - 1980年11月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県出身。農業・中沢勘四郎の三男として生まれる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第50連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1922年(大正11年)4月から翌年3月まで陸軍委託学生として東京外国語学校でドイツ語を学んだ。1923年(大正12年)7月、ドイツに留学。1924年(大正13年)5月、参謀本部付となり、参謀本部員、陸大教官、歩兵第44連隊付、陸士教官、参謀本部員(戦史課)などを経て、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し歩兵第18連隊長に就任。
山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1… 山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)中、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。 山梨県南都留郡禾生村(現:都留市)出身。現在の都留市四日市場の岩生山保寿院住職の山崎玄洞の二男として生れる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊附となる。 1918年(大正7年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。同連隊の大隊副官、中隊長を務め、1928年(昭和3年)5月、済南事変に出動。
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3… 樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。位階は正三位。 保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。 山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。 1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて立候補し、当選する。
羽生 雅則(はにゅう まさのり、1889年(明治22年)12… 羽生 雅則(はにゅう まさのり、1889年(明治22年)12月10日 - 1971年(昭和46年)8月8日)は、日本の内務官僚。第1次近衛内閣の内務次官、県知事。旧姓、奥秋。 山梨県出身。奥秋茂兵衛の五男として生まれる。1922年、羽生家の入夫となり改姓。日川中学、第一高等学校を経て、1916年5月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1915年10月、文官高等試験に合格した。 1916年7月、台湾総督府に入り同府属となる。以後、台湾総督府事務官・民政部殖産局商工課、同局水産課長、同商工課長などを歴任。 1923年11月、帝都復興院に転じ事務官として総裁官房に勤務。1924年2月、帝都復興院が復興局に改組されると引続き勤務し、長官官房文書課、横浜出張所、復興局書記官・土木部庶務課長などを務めた。
広瀬 久忠(廣瀬、ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)… 広瀬 久忠(廣瀬、ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)1月22日 - 1974年(昭和49年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県出身。位階は従二位。 山梨県東山梨郡七里村(現甲州市)の県内有数の旧家である広瀬家に、父広瀬久政、母さとの長男として生まれる。 山梨県立日川中学校(現山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。文官高等試験を173人中32番目で合格。内務省に入省し、千葉県属を振出しに、1917年(大正6年)5月に岐阜県警視、1918年(大正7年)10月に同理事官、1919年(大正8年)8月に警視庁理事官、1923年(大正12年)3月に警視庁警視、同年10月に滋賀県警察部長、1924年(大正13年)5月に内務省社会局書記官、同年12月に福井県書記官・内務部長、1925年(大正14年)10月に内務省復興局書記官、1929年(昭和4年)5月に東京市助役、1930年(昭和5年)8月に東京府書記官・内務部長となる。
水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明… 水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明治21年)9月26日 - 1944年(昭和19年)8月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東八代郡一宮町(現笛吹市一宮町)出身。水上長光の三男として生れる。旧制日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、1911年(明治44年)5月、同校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1919年(大正8年)3月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。 その後、歩兵第66連隊中隊長、日川中学校配属将校、第1師団司令部付、歩兵第49連隊副官、歩兵第78連隊大隊長、第8国境守備隊第4地区隊長、歩兵第66連隊長、津連隊区司令官、歩兵第110連隊長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。