スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小林 隆児(こばやし りゅうじ、1949年〈昭和24年〉- … 小林 隆児(こばやし りゅうじ、1949年〈昭和24年〉- )は、日本の発達心理学者、児童精神科医。 鳥取県米子市生まれ。鳥取県立米子東高等学校を経て、1975年に九州大学医学部を卒業。福岡大学医学部精神医学教室に入局、力動精神医学および児童精神医学を研修。助手、講師を経て、1985年に「自閉症児の精神発達と経過に関する臨床的研究」で福岡大学医学博士。1988年、大分大学教育学部助教授(養護学校教員養成課程)。1994年、東海大学健康科学部社会福祉学科教授となり、1999年に健康科学研究科教授。2002年、松前重義賞受賞。2008年、大正大学教授、2012年より西南学院大学教授。70歳で定年退職後は、感性教育臨床研究所代表として、定期的にオンライン形式での講座を開催。
冨山 太佳夫(とみやま たかお、1947年9月5日 - )は… 冨山 太佳夫(とみやま たかお、1947年9月5日 - )は、日本の英文学者、翻訳家。青山学院大学名誉教授。立正大学文学部文学科(英語英米文学専攻コース)元教授。専門はヴィクトリア朝小説を中心とした英文学および文化研究。文学理論や現代思想、歴史研究にも造詣が深い。 父は税理士の冨山實。 鳥取県西伯郡日吉津村出身。鳥取県立米子東高等学校を経て、東京大学文学部英文学専修課程卒業。1973年同大学院修士課程修了、同大助手、お茶の水女子大学専任講師・助教授、成城大学助教授・教授を経て2001年青山学院大学文学部英米文学科教授。2016年退職、名誉教授、立正大学文学部教授、2018年退職。 1993年、『シャーロック・ホームズの世紀末』で芸術選奨新人賞、2004年、『書物の未来へ』で毎日書評賞受賞。
福益 敏(ふくます とし、1946年1月26日 - )は、鳥… 福益 敏(ふくます とし、1946年1月26日 - )は、鳥取県旧法勝寺村(現南部町)出身の元ボート選手(ローイング選手)。 法勝寺中学校から米子東高校に進学すると、体格の良さを見込まれて端艇部に入部する。1963年のインターハイで7位入賞、翌1964年にも準決勝まで進出した。 その後同志社大学漕艇部からの誘いを受け進学、エイト(8人乗り)で2番を漕いだ。4回生のとき、全日本選手権(戸田)で同大は強豪を下して、関西勢初優勝を飾る。この結果1か月後のメキシコシティオリンピック日本代表に急遽選出されたが、高地練習のできないまま本番に臨むことになった。日本から送った使用艇が台風のため到着が遅れる不運もあり、競技結果は予選6位、敗者復活戦5位、順位決定戦6位といずれも最下位に終わった。
中本 晃(なかもと あきら、1945年11月25日- )は、… 中本 晃(なかもと あきら、1945年11月25日- )は、日本の技術者、実業家。島津製作所代表取締役社長を経て、同社代表取締役会長、京都工業会元会長。 鳥取県生まれ。鳥取県立米子東高等学校を経て、1969年大阪府立大学工学部卒業、島津製作所入社。品質保証部長、LC部長等を経て、2000年執行役員。2001年取締役。2007年専務取締役。2009年から代表取締役社長を務め、自己資本利益率の向上にあたった。2015年代表取締役会長。2018年京都工業会会長。日本産業機械工業会常任幹事、日本機械輸出組合理事、日本計量機器工業連合会会長等も歴任した。 2023年4月旭日重光章受章。
福島 幹雄(ふくしま みきお、1945年10月2日 - 20… 福島 幹雄(ふくしま みきお、1945年10月2日 - 2022年4月22日)は、日本の実業家。JFEスチール代表取締役副社長や、JFE商事ホールディングス代表取締役社長兼JFE商事代表取締役社長、日本貿易会常任理事などを務めた。 鳥取県倉吉市生まれ。鳥取県立米子東高等学校を経て、1968年神戸大学経済学部卒業、川崎製鉄入社、水島製鉄所配属。1992年営業総括部主査。1993年薄板営業部長。1994年自動車・薄板営業部長。1997年営業総括部長。1998年取締役に昇格。2001年常務取締役。2003年JFEスチール専務執行役員。2005年JFEスチール代表取締役副社長。 2007年からJFE商事ホールディングス代表取締役社長兼JFE商事代表取締役社長を務め、JFEホールディングスの完全子会社化にあたり、新戦略の展開などにあたった。
朝妻 基祐(あさづま もとすけ、1945年4月14日 - )… 朝妻 基祐(あさづま もとすけ、1945年4月14日 - )は、NHKの元アナウンサー。 米子東高等学校、東京教育大学卒業後、1970年NHK入局。初任地は富山。大分、札幌(3度勤務)、ラジオセンター、大阪と勤務。趣味、特技はビデオカメラ。2005年退職により嘱託移行。2021年3月をもって勇退。
近藤 宏樹(こんどう ひろき、1945年(昭和20年)1月1… 近藤 宏樹(こんどう ひろき、1945年(昭和20年)1月14日 - 2025年(令和7年)3月31日)は、日本の政治家。元島根県安来市長(3期)。 島根県能義郡安来町(現・安来市)に生まれる。安来市立安来小学校、米子市立第一中学校(現・米子市立東山中学校)、鳥取県立米子東高等学校卒業。1967年(昭和42年)、法政大学法学部政治学科卒業。 1997年(平成9年)に(旧)安来市議会議員に当選する(2期)。2004年(平成16年)に安来市議会議員に当選する(2期)。 2008年(平成20年)10月、安来市長選挙に初当選。2012年(平成24年)10月、再選。2016年(平成28年)、3選。 2020年(令和2年)10月18日投開票の同選挙で4選を目指すも元市議の田中武夫に敗れ落選。
岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - … 岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之監督の指揮の下、2年生の時、1961年の春の選抜に一塁手として出場。エース矢滝伸高(関大-米子東監督)が準々決勝で敦賀高を相手に延長16回23奪三振の1試合最多記録を達成、準決勝に進むが高松商に敗退した。1962年夏も東中国大会準決勝に進出するが、槌田誠のいた倉敷工に惜敗、甲子園出場を逸する。高校の2期先輩に1960年春の選抜準優勝メンバーの宮本洋二郎、清水賢がいる。 1963年に亜細亜大学に進学、野球部に入部すると同時に中心選手として活躍し、三塁手として出場した。
小灘 一紀(こなだ いっき、1944年3月7日 - )は、日… 小灘 一紀(こなだ いっき、1944年3月7日 - )は、日本の洋画家。日本藝術院賞受賞者。 鳥取県境港市に生まれる。鳥取県立米子東高等学校時代に金畑実に師事し、卒業後に芝田米三に師事した。1963年に金沢美術工芸大学へ入学し、のちに同大学彫刻科を卒業した。 日展作家として活動し、29歳で日展に初入選した。その後、古事記・記紀神話を主題とする作品を描き続けている。 2017年、改組新第4回日展で「伊須気余理比売命」により内閣総理大臣賞を受賞した。2023年、令和4年度(第79回)日本藝術院賞を、「伊邪那岐命の悲しみ」により受賞した。2026年、鳥取県文化功労賞知事表彰を受けた。
河合 伸光(かわい のぶてる、昭和17年(1942年)3月2… 河合 伸光(かわい のぶてる、昭和17年(1942年)3月21日 - )は日本の実業家。河合商事(株)の元代表取締役社長。 父は元米子市長の河合弘道。 昭和36年(1961年)県立米子東高校卒。 昭和40年(1965年)日本大学文理学部心理学科卒。小林脳行(株)東京本社勤務。昭和45年(1970年)同社退職。 昭和47年(1972年)河合商事を個人創業。昭和48年(1973年)株式会社に法人化。
岡本 おさみ(おかもと おさみ、1942年1月15日 - 2… 岡本 おさみ(おかもと おさみ、1942年1月15日 - 2015年11月30日)は、日本の作詞家。 鳥取県米子市出身。鳥取県立米子東高等学校、日本大学卒業。兄は浅見光彦ミステリーなどを手掛けた脚本家の岡本克己。 放送作家から作詞家に転身し、主にフォーク黎明期に活躍した。作曲者としての吉田拓郎とのコンビで知られ、森進一が歌って第16回日本レコード大賞を受賞した「襟裳岬」をはじめ多くの作品を生んだ。 1980年にリリースされた吉田拓郎のアルバム『アジアの片隅で』では、岡本らしいメッセージ性の濃い歌詞を提供している。強烈なメッセージ性を有した表題曲「アジアの片隅で」は12分を超える大作である。 SIONとはデビュー前から交流があり、音楽雑誌の新譜ジャーナルで連載していた『うたのことばが聴こえてくる』でデビュー前のシオンや共同作業中の詞を紹介している。
清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1… 清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1日)は、鳥取県出身のプロ野球選手。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之の指導を受け、3年春の選抜に出場。山陰勢初の甲子園決勝進出を果たしたが、バッテリーを組んだ宮本洋二郎が高松商業高校の山口富士雄に左翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を浴び、準優勝に終わる。夏の甲子園でも1勝したが、2回戦で徳島商業高校に完敗した。秋の熊本国体でも準優勝。 その後東映フライヤーズに入団したが、2年間出場なしに終わった。 2009年10月1日死去。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
梶田 叡一(かじた えいいち、1941年(昭和16年)4月3… 梶田 叡一(かじた えいいち、1941年(昭和16年)4月3日 - )は、日本の教育心理学者。兵庫教育大学名誉教授。 島根県松江市生まれ、鳥取県米子市育ち。1960年鳥取県立米子東高等学校卒業。1964年京都大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1971年「自己意識の社会心理学的研究 特に対人認知および対人関係の規定因としての自己意識について」で文学博士の学位を取得。1966年国立教育研究所勤務、主任研究官、1977年日本女子大学文学部助教授、1981年大阪大学人間科学部助教授、教授、1994年京都大学高等教育教授システム開発センター教授、98年同センター長。同10月京都ノートルダム女子大学学長、2002年4月学校法人聖ウルスラ学院理事長兼務(現職)、2004年4月-2019年3月学校法人松徳学院理事長兼務、2006年兵庫教育大学学長、2010年-2012年環太平洋大学学長。
義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2… 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。
渡部 恵一郎(わたなべ けいいちろう、1932年3月2日 -… 渡部 恵一郎(わたなべ けいいちろう、1932年3月2日 - 2001年12月11日)は日本の音楽学者。鳥取県出身。特にヘンデルを研究。 母校・鳥取県立米子東高等学校の校歌作曲者の一人。東京藝術大学音楽学部楽理科にて、音楽学を服部幸三に学んだ。1967年から1969年まで、および1987年にはアレクサンダー・フォン・フンボルト財団の招聘によりドイツおよびイギリスでヘンデル研究に携わる。1972年から桐朋学園大学助教授、教授。 1994年以来様々な団体とともにヘンデルの劇作品の企画構成演出に携わり、1998年に日本ヘンデル協会(The Handel Institute Japan)を創設、同協会代表を務めた。
3代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、1930年(昭和5年)… 3代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、1930年(昭和5年)2月15日 - 2012年(平成24年)6月14日)は、日本の実業家。坂口合名会社(坂口財閥)代表社員会長。米子商工会議所会頭。旧名平吉郎。 2代坂口平兵衛の長男として、鳥取県米子市尾高町に生まれる。 1954年(昭和29年)東京大学法学部政治学科卒業後、坂口合名会社入社。1964年代表社員副社長、1965年代表社員社長に就任。 1980年(昭和55年)米子商工会議所会頭に就任。 2012年6月14日、病気のため米子市内で死去。81歳没。
青砥 順(あおと じゅん、昭和4年(1929年)1月11日 … 青砥 順(あおと じゅん、昭和4年(1929年)1月11日 - 平成20年(2008年)3月31日)は、日本の実業家。元米子信用金庫会長。位階は正六位。旭日双光章。 父は元米子信用金庫会長青砥喜三郎、兄は元山陰放送社長青砥昇。 鳥取県米子市出身。米子中学校を経て、昭和27年(1952年)関西大学経済学部卒業。昭和32年(1957年)米子信用金庫入庫。昭和43年(1968年)同審査部長、常勤理事。昭和45年(1970年)常務理事。昭和49年(1974年)専務理事。昭和58年(1983年)理事長。 平成20年(2008年)3月31日、79歳で死去。死没日付をもって正六位に叙され、旭日双光章を追贈された。
森 納(もり おさむ、昭和3年(1928年)9月1日 - 平… 森 納(もり おさむ、昭和3年(1928年)9月1日 - 平成24年(2012年))は、日本の医師、郷土史研究家。森医院理事長。医学博士。 鳥取県西伯郡夜見村(現・米子市夜見町)に生まれる。鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)を経て、昭和26年(1951年)米子医学専門学校卒業。昭和27年(1952年)鳥取大学医学部第二内科研究生、西伯病院勤務。 昭和36年(1961年)島根県大田市祖式診療所長。昭和41年(1966年)鳥取県岩美郡国府町糸谷で開業。岩美郡医師会理事、鳥取県東部医師会理事、鳥取県医師会理事を歴任した。 森が20歳になる前、米子医学専門学校3年の時に父が死去。残されたものは先祖伝来の土地の一部、五反ほどの畑と借金だけであった。
森田 隆朝(もりた たかとも、1925年(大正14年)9月2… 森田 隆朝(もりた たかとも、1925年(大正14年)9月28日 - 2007年(平成19年)5月13日)は、日本の医師、政治家。産婦人科森田医院院長。鳥取県医師会常任理事。鳥大医学部同窓会名誉会長。日本・ネパール人づくり協力会会長。日野郡人会会長。米子市長。旧姓新出(にいで)。位階は従五位。 大正14年(1925年)、鳥取県日南町の寺院の3男として生まれた。同年、一家で現在の境港市に移住。父は托鉢をして集めた浄財で託児所を作り、孤児や恵まれない子どもを養育した。昭和18年(1943年)鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)卒業。昭和29年(1954年)米子医科大学(現・鳥取大学医学部)卒業、産婦人科教室に入局。
門脇 卓爾(かどわき たくじ、1925年(大正14年)2月2… 門脇 卓爾(かどわき たくじ、1925年(大正14年)2月22日 - 2012年(平成24年)12月28日)は日本の哲学者。学習院大学名誉教授。米子日独協会会長。カント哲学の研究者。ボン大学より学位「Doktor der Philosophie」を取得。宗教家・実業家門脇章太郎の長男。門脇家第11代当主。 子息の一人は鳥取県内で教職についている。
西村 清則(にしむら きよのり、1924年〈大正13年〉6月… 西村 清則(にしむら きよのり、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2003年〈平成15年〉2月5日)は、日本の政治家、実業家、教育者。鳥取県議会議員(日本社会党)。米子友好貿易代表取締役。日本中国友好協会鳥取県西部支部長。 鳥取県西伯郡夜見村上谷(現・米子市夜見町)に生まれる。武則の長男。米子中学校(現・米子東高校)を卒業、鳥取師範学校に入学。1945年、広島に野砲兵として入隊、6月に甲種幹部候補生として高知に行き、原爆の被災を免れる。 終戦後帰郷し、富益国民学校に勤務する。教員組合運動が盛んとなり、竹中栄、安田貞栄(のちの境港市長)らと共に運動に参加する。1947年に弓ヶ浜中学校に、1949年に美保中学校に、1954年に米子一中に転勤する。
青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日… 青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日 - 1986年(昭和61年)5月4日)は日本の実業家。元山陰放送社長。 父は元米子信用金庫会長青砥喜三郎、弟は元米子信用金庫会長青砥順。 鳥取県米子市出身。旧制鳥取県立米子中学校、旧制広島高等学校を経て、1945年(昭和20年)京都帝国大学工学部卒業。1948年(昭和23年)米子大栄社長、昭和28年(1953年)ラジオ山陰(現:山陰放送)創設と同時に取締役に就任。1955年(昭和30年)常務取締役を経て昭和49年(1974年)山陰放送社長に就任。 1980年(昭和55年)~昭和61年(1986年)米子商工会議所副会頭のほか鳥取県経営者協会副会長、米子市監査委員、米子ライオンズクラブ会長、日本民間放送連盟理事、ビーエスエス企画・山陰興発・米子空港ビル各取締役などを歴任した。
村上 一平(むらかみ いっぺい、大正10年(1922年)1月… 村上 一平(むらかみ いっぺい、大正10年(1922年)1月8日 - )は、日本の実業家。医療法人 同愛会 博愛病院理事長。ハクアイ社長。裁判所調停委員。 元米子市長野坂寛治は、父常三のいとこにあたる 鳥取県米子市尾高町出身。 啓成小学校、米子中学校(現在の米子東高校)を経て昭和19年(1944年)京都帝国大学経済学部卒業。昭和21年(1946年)米子市国民健康保険組合常務理事。昭和23年(1948年)米子信用金庫勤務、昭和29年(1954年)米子駅前支店長(初代)、昭和33年(1958年)米子西支店長。 昭和36年(1961年)市長である野坂が大山観光開発の社長になったので手伝うために入社する。
杵島 隆(きじま たかし、1920年12月24日 - 201… 杵島 隆(きじま たかし、1920年12月24日 - 2011年2月20日)は、日本の写真家。 以降安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』245頁により
小谷 守(こたに まもる、1915年(大正4年)9月23日 … 小谷 守(こたに まもる、1915年(大正4年)9月23日 – 2008年(平成20年)11月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鳥取県出身。1933年(昭和8年)米子中学校、1936年(昭和11年)関西大学大学専門部法科を卒業した。1940年(昭和15年)から神戸市の旧制中学校で教員を務めた。 戦後すぐに教職員組合の結成に取り組み、神戸市教職員組合の役員を務めた。1950年(昭和25年)日本社会党に入党。同党兵庫県本部書記長、同委員長、同顧問を歴任。1951年(昭和26年)兵庫県議会議員に選出され5期在任した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から社会党公認で出馬して初当選。
永井 準(ながい じゅん、1915年(大正4年)1月5日 -… 永井 準(ながい じゅん、1915年(大正4年)1月5日 - 没年不詳)は、日本の実業家。米子今井書店元社長である。社団法人全国教科書供給協会 元理事副会長。 父は元鳥取県議会副議長永井貞録。境港市長を務めた安田貞栄の実兄。 1915年、永井貞録の三男として鳥取県境港市にて生まれた。鳥取県立米子中学校(現・県立米子東高等学校)、旧制山口高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部卒業。同年、兵役に就く(陸軍主計中尉)。 1947年に鳥取県教科図書販売社長、1952年に富士書店社、1954年に全国教科書供給協会理事副会長、1971年に鳥取県書店組合理事長、日書連理事を歴任し、同年鳥取県印刷工業組合理事・副理事長に就任した。
黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 … 黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 - 没年不詳)は日本の建築学者。熊本大学名誉教授。工学博士。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)栄町出身。 境尋常高等小学校(現・境港市立境小学校)、鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)、旧制松江高等学校理科甲類を経て1938年(昭和13年)、東京工業大学工学部建築学科卒業。 1943年(昭和18年)、熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)教授。 1960年(昭和35年)、工学博士(東京工業大学)。論文は「建築における大きさと形の恒常視に関する実験的研究」。
植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 20… 植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。 出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。生家は履物店(商号は「下駄屋」)である。 小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。特に1980年代以降、多数の展覧会開催や写真集出版を行った。数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。
田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 -… 田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 - 昭和53年(1978年))は、日本の病理学者。医学博士。黄疸発生に関する病理学的研究者として著名であった。正四位勲三等。 鳥取県米子市博労町に生まれた。田中猗猗(いい)の長男。 米子中(現在の米子東高校)、松江高を経て1937年九州帝国大学医学部を卒業し、同病理学教室に入る。 1942年医学博士の学位を受ける(論文の題は 「ワイル氏病黄疸の成因に関する実験的研究 」)。翌年旅順医専教授となる。 1947年米子医専(現鳥取大学医学部)教授となり病理学を担当する。翌年米子医科大(現鳥取大学医学部)助教授。 1951年に鳥大教授となり、第2病理学教室を主宰した。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
石田 哲一(いしだ てついち、1910年〈明治43年〉1月3… 石田 哲一(いしだ てついち、1910年〈明治43年〉1月3日 - 没年不明)は、日本の裁判官。日本で最初のプライバシー侵害裁判(被告・三島由紀夫)の裁判長だった。父は石田運送(名)代表社員の石田章之進。 鳥取県西伯郡成実村大字西大谷(現・米子市明治町)出身。 旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部卒業。1933年(昭和8年)、司法官試補。1934年(昭和9年)、予備判事に任官。 1949年(昭和24年)、東京高等裁判所判事。1955年(昭和30年)、東京地方裁判所判事。 趣味は歌舞伎、長唄。宗教は神道。 (鳥取県米子市糀町・米子市明治町)
岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5… 岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。岡田商店の元代表取締役会長。元境港商工会議所会頭。元境港魚市場顧問、境港海陸運送相談役。元鳥取県会議員、境町会議員。 父親の岡田庄作は境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした。叔父岡田信吉朗も海運業者である。 鳥取県西伯郡境町栄町(現在の境港市)出身。父は岡田庄作。 米子中学(現米子東高校)を経て、昭和9年(1934年)旅順工科大学機械科卒業。新潟県立長岡工業学校、米子高等女学校(現米子西高校)に勤務。昭和14年(1939年)岡田回漕店勤務。昭和19年(1944年)境港海陸運送を日本通運と創業、常務を経て社長に就任。
菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 198… 菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 1988年7月13日)は日本の工学者。工学博士。 国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。 鳥取県米子市米原出身。 福米小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て推薦で大阪高等工業学校に入学するが、同校が1929年に大学に昇格したのにともない、彼もまた大学に進学して 1932年に卒業、鉄道省への入省が決まっていたがあまりに成績が優秀ということで、そのまま講師として残った。 1933年大阪帝国大学工学部専任講師に迎えられると、電子顕微鏡の研究一筋に打ち込み、1940年、国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。倍率一万倍、今から見れば幼稚であるが当時としては、驚くべき性能であった。
岡本 哲史(おかもと てつし、1908年2月13日 - 19… 岡本 哲史(おかもと てつし、1908年2月13日 - 1996年10月23日)は、日本の航空工学者。専門分野はは流体力学。鳥取県出身。 旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高等学校を経て、1931年東京帝国大学工学部航空工学科卒業。39年東京工業大学助教授となり、44年工学博士、45年東京工大教授。日本のロケット開発のパイオニアの一人で、66年に日本で初めて液体酸素・液体水素を使ったロケットエンジンの実験を行ったことで知られる。
河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月… 河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)12月15日)は日本の政治家。鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。位階は従五位。 鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市)道笑町に生まれる。 明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する。 1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる。 1946年(昭和21年)故郷米子に帰り、金光教米子教会長に就任。 戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した。
田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月… 田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月4日 - 2000年〈平成12年〉)は、日本の政治家、実業家。久米桜酒造会長。鳥取県公安委員会委員長。 鳥取県米子市糀町出身。父・田村源太郎、母・あさの長男。家業は肥料商、酒造業。米子中学校を経て1929年、神戸高商を卒業、同年に田村源太郎商店に入り、酒造肥料商に従事する。1939年に米子市会議員に当選、1943年に再選する。米子市翼賛壮年団長をつとめる。 企業整備により家業を転廃業、米子境商業統制組合、米子市総合配給所の各専務理事に就任する。1947年、公職追放を受け、同年に久米桜酒造を創立し社長に就任。1952年、米子市教育委員に当選する。
赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治… 赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治40年)7月26日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の実業家、政治家。赤沢組会長。自治大臣兼国家公安委員長。 山陰労災病院の誘致、国道9号の拡幅、美保基地周辺の民生安定事業など、郷土に残した足跡は多い。衆議院議員で、経済産業大臣などを務める赤沢亮正は孫。 鳥取県米子市西倉吉町に生まれた。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。旧徳島藩士である。明治30年代から始まった山陰本線の建設に参加するため米子に進出、業界のリーダーとして業績を積み上げた。 また康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれ、赤沢家は市民から一目置かれる家庭だった。
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月1… 安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した。このことは全国的に注目された。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った。 鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15… 木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の政治家。初代名和町長。 鳥取県出身。木下鶴吉の養嗣子となった。米子中学校(現・米子東高校)卒業後、農耕に精励する。民生委員、農業会常務理事、農業委員、県郡養蚕連副会長監事、小学校PTA会長、村会議員、鳥取県町村長会副会長等を歴任した。 1950年(昭和25年)11月から1954年(昭和29年)3月まで光徳村長を務めた。その後、合併で発足した名和町長を同年4月から1966年(昭和41年)4月まで務めた。 住所は鳥取県西伯郡名和町大字東坪(現・大山町東坪)。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。
古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 20… 古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 2003年2月6日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 鳥取県西伯郡法勝寺村(現・南部町)出身。小学校高等科まで剣道に励み、旧制米子中学校(現・県立米子東高校)でも剣道部に入部するが上級生に気の合わない者がいて退部、阿部信文の勧誘もあり柔道部へ転入部した。阿部や山根英師など諸先輩の胸を借りて学業成績が下がるほど柔道に熱中し、親や兄弟が柔道をやめるよう言ったが親の目を盗んでは稽古に励んだ。1924年、旧制松江高校主催の山陰中学校大会の選手に選ばれて出場、旧鳥取一中学校(現・県立鳥取西高校)相手に2人勝ち抜き、選手としての地位は確立された。
2代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、明治39年(1906年… 2代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、明治39年(1906年)2月15日 - 昭和61年(1986年)2月17日)は日本の実業家、政治家。坂口合名会社・代表社員会長。米子商工会議所名誉会頭。衆議院議員。幼名清太郎。 平兵衛によれば、「その頃の私は一種のやんちゃもんでして、柔道家の山根、佐伯、永見というような荒らくれ者とばかりつきあっていました。急に私が帰らなくてはならなくなった。先代の合名社長豊蔵が五十九歳で昭和五年に死亡し、私は豊蔵の養子になっていた。二十五歳だったが相続することになった。相続は(プラスの)財産を受けるのが当たり前ですが、私は十に余る会社の社長を引き受けた。それは借金を引き受けるということで、苦労を相続したのです。
岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月… 岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月31日 - 1988年4月28日)は、日本のイギリス文学者、法政大学名誉教授。 鳥取県米子市東町出身。父は薬剤師の岡本正。 良善幼稚園、啓成尋常小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て昭和5年(1930年)法政大学文学部英文科卒業。34年法政大講師、日本出版文化協会勤務ののち、46年法政大教授。60年「イギリスに於ける近代小説の形式 その系譜と要因」で法政大文学博士。文学部長をへて76年定年退職、名誉教授。埼玉医科大学の創立にかかわり教養部教授。 宗教は曹洞宗。趣味は野球、その他のスポーツ。 実業家の坂口平兵衛 (2代)とは幼稚園、小学校、中学校と同期であり、親しい関係にあった[要出典]。
増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年… 増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年)2月23日 - 昭和45年(1970年)12月13日)は日本の実業家、政治家。境港商工会議所第2代会頭。元増谷薬局代表取締役。元境町会議員。三代目当主。本名は正巳。 鳥取県境港市出身。実家は薬種商。 米子中学校(現米子東高校)、金沢医科大学付属薬学専門部(現在の金沢大学薬学部)卒業。 大正14年(1925年)から大阪で自家製剤を修行して帰郷し、家業の薬種商・増谷薬店“杏花堂”を手伝う。昭和22年(1947年)境町の町会議員を務める一方、境港商工会議所初代会頭松本豊の後を受けて2代目会頭に就任する。 昭和25年(1950年)境町だけでなく米子駅前にも出店し、実弟・芳郎とともに有限会社増谷薬局を設立するなど、会社を大きく発展させた。
面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31… 面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31日 - 昭和46年(1971年))は日本の実業家。銘酒暁山醸造元、面谷合名会社代表社員。元境港商工会議所会頭、顧問。 鳥取県境港市出身。米子中学校(現米子東高校)卒業後、東京大蔵省醸造試験所に入所。翌年、試験所の課程を修了すると、帰郷して家業に従事する。 昭和19年(1944年)面谷合名会社の代表社員に就任。鳥取県酒造組合理事、鳥取県醤油工業協同組合理事を歴任。酒造業界の発展に尽力。 昭和23年(1948年)境港商工会議所会頭に就任。 境町学務委員をはじめ、境高等学校水産教育振興会会長も務め、教育会でも活躍した。 酒面谷酒類醤油醸造場として、明治4年(1871年)創業、昭和17年(1942年)根平、面谷支店、生中各店の権利を譲り受ける。
佐中 壮(さなか そう、1903年(明治36年)6月11日 … 佐中 壮(さなか そう、1903年(明治36年)6月11日 - 1992年(平成4年)4月13日)は、日本の東洋史学者。大阪府立大学名誉教授。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現・境港市福定町)に生まれる。父の佐中廉は、弓浜高等小学校長、余子小学校長、境小学校長、余子村長などを務めた教育者で、壮はその次男であった。 米子中学校、松江高等学校を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科において藤田豊八や池内宏らに学ぶ。1928年(昭和3年)に卒業し、山口高等学校講師、ついで同教授となり、1931年(昭和6年)より広島高等学校教授に転じる。1944年(昭和19年)、松山高等学校教授となるが、終戦によりただちに辞表を提出、同校の再開整備にあたった後に退官し、帰農。
八原 博通(やはら ひろみち、1902年(明治35年) 10… 八原 博通(やはら ひろみち、1902年(明治35年) 10月2日 - 1981年(昭和56年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄戦で第32軍の高級参謀として戦略持久作戦を立案、指揮した。アメリカ軍からは「すぐれた戦術家としての名声をほしいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されている。 鳥取県米子市皆生出身。生家は養蚕農家(自作農)。父・八原宇三郎は役場吏員。 父・宇三郎の生家は村一番の地主ではあったが、次男の父は役場のささやかな給料、それに一町歩近い桑畑から上る養蚕の収入で生活をまかなっていた。水田や果樹園からの収入はごくわずかなもので、子どもがふえるに従い、自家飯米も確保できず、端境期には当時、南京米といった外米などを買わねばならぬといった状態だった。
西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日… 西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、思想家。 日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、1936年(昭和11年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌1937年(昭和12年)、北とともに刑死した。 鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。 1914年(大正3年)3月、啓成尋常小学校(現・米子市立啓成小学校)を卒業。
松岡 忠男(まつおか ただお、明治34年(1901年)4月2… 松岡 忠男(まつおか ただお、明治34年(1901年)4月24日 - 昭和61年(1986年)6月6日)は日本の教育者。元鳥取県中学校長会長、元米子市教育長。 教育長在任中は福市遺跡の史跡指定、校区再編成問題、カギっ子学級の開設、陸上競技場の新設、中国オリンピック大会開催など、大きな業績を残した。 鳥取県西伯郡大篠津村(現在の米子市大篠津町)の農家に生まれた。父は3歳頃渡米したので、母が中心で下男を雇って農業経営(養蚕業)をし、祖父は町の名誉職で毎日を費やしていた。 愛労小、米子中学校(現米子東高校)を経て大正10年(1921年)鳥取県師範学校卒業。愛労小、中浜小訓導。 米子市立青年学校校長、米子市立第二中学校校長等を歴任し、昭和31年(1956年)退職。