スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
石橋 幹一郎(いしばし かんいちろう、1920年(大正9年)… 石橋 幹一郎(いしばし かんいちろう、1920年(大正9年)3月1日 - 1997年(平成9年)6月30日)は、日本の実業家。ブリヂストンの社長・会長を務めた。ブリヂストンタイヤ創業者の石橋正二郎の長男。 石橋正二郎の長男として福岡県久留米市に生まれる。旧制・中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)、福岡高等学校 (九州大学教養部の前身)を卒業後、1年間の浪人を経て1937年、東京帝国大学に進学。1943年に東京帝国大学法学部を卒業後、海軍主計科の短期現役(略称「短現」、短期現役海軍主計科士官(10期))に志願して、同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に卒業。東京監督官事務所監査官付となる。
近藤 四郎(こんどう しろう、1918年12月13日 - 2… 近藤 四郎(こんどう しろう、1918年12月13日 - 2003年2月6日)は、日本の人類学者。 長崎市生まれ。大分県亀川の小学校を卒業後、台北第一中学校、福岡県中学明善校を経て、第五高等学校理科乙類を卒業。1941年、東京帝国大学理学部人類学科に入学。長谷部言人に師事した。1943年、繰り上げ卒業と同時に同学部副手、1945年助手、1960年助教授。1957年、「ヒトの姿勢及び歩行運動の人類学的研究 主として筋活動電流より見たる」により、東京大学理学博士。1967年、京都大学霊長類研究所初代所長に就任。1982年、京都大学を定年退官、大妻女子大学人間生活科学研究所教授。1993年、大妻女子大学を退任。
松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月2… 松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月25日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、日本の柔道家。段位は講道館8段。 昭和天覧試合(1940年)準優勝者、第1回全日本選手権大会(1948年)優勝者であり、後に天理大学等で柔道師範や1964年東京オリンピック日本代表の監督を務めた。 福岡県久留米市で洋品雑貨の卸売業を営む家の長男として生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった。 1937年4月に武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる。
孫 権培(ソン・グォンベ、朝鮮語: 손권배/孫權培、1916… 孫 権培(ソン・グォンベ、朝鮮語: 손권배/孫權培、1916年10月6日 - 1990年2月19日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は密陽孫氏(朝鮮語版)。号は民斉(ミンジェ、朝鮮語: 민제/民齊)。 日本統治時代の全羅北道完州郡出身。久留米の明善中学校卒。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として国会議員に当選し、裵恩希の一級参謀を務めたが、裵の失脚後は自由党を離党し民主党に移籍した。他には太白新聞主幹、三南日報社社長、大韓独立促成国民会全羅北道支部宣伝部長、独立闘争委員会全羅北道団団長、大韓青年団全羅北道団団長、国民会全羅北道支部委員長、自由党完州乙区党委員長・全羅北道党副委員長を歴任した。
丸山 豊(まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 198… 丸山 豊(まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 1989年8月8日)は、日本の医師、詩人。現代日本における代表的な詩人の一人。 福岡県八女郡広川町出身。福岡県中学明善校在学中より野田宇太郎らと同人誌「日時計」を発行。1932年第一早稲田高等学院に進学するも中退し、父と同じく医学を志して、1937年九州医学専門学校卒業。 1941年以降、軍医として中国、フィリピン、ビルマを転戦した。復員後の1946年、久留米市にて豊泉会丸山病院を開業。医師として働く傍ら詩作を行う。1947年、安西均、野田宇太郎らと詩誌「母音」を創刊。谷川雁、川崎洋、有田忠郎ら九州の詩人たちが参加した。1966年、福岡県詩人会を設立して代表幹事に就く。
河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - … 河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - 1995年10月30日)は、日本の美術評論家。京都国立近代美術館館長、京都造形芸術大学学長を歴任。佐藤達夫は従兄。 福岡県浮羽郡山春村(現:うきは市)生まれ。福岡県中学明善校、第五高等学校、1938年京都帝国大学文学部哲学科卒。1943年文部省美術研究所に勤務。自身と同じ明善校にも学んだこともある久留米出身の夭逝の洋画家青木繁を研究テーマとし、日本美術史上にその評価を定めた。その後も近代日本美術史の研究を精力的に進め、1952年国立近代美術館事業課長、1963年次長、1969年京都国立近代美術館館長となる。1986年退官、同年秋、勲二等旭日重光章受勲。
片山 摂三(かたやませつぞう、1914年3月22日 - 20… 片山 摂三(かたやませつぞう、1914年3月22日 - 2005年3月23日)は、日本の写真家である。 1914年(大正3年)3月22日にシベリア(ロシア)・ブラゴヴェシチェンスクで生まれ、福岡県久留米市で育つ。1932年(昭和7年)県立中学明善校卒業、西南学院専門学校を卒業した。家業は福岡市中央区の営業写真館。1929年(昭和4年)、シベリアで父が死去。1932年(昭和7年)、疋田晴久に写真の技術を学び、1935年(昭和10年)、21歳で営業写真を撮影し始める。戦時中、日本写真サロンや日本写真美術展、国際写真サロンなどで入選を続ける。日本写真家協会に加入。専門分野は肖像写真で、1960年(昭和35年)頃から河北倫明の紹介によって、志賀直哉、梅原龍三郎、武者小路実篤、白洲正子、片岡球子、鈴木大拙といった昭和時代の日本を代表する人々の姿を撮影した。
牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 20… 牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 2002年5月29日)は、日本の作家。福岡県久留米市出身。結婚後満州国に渡り、『祝という男』で1941年芥川賞次席。戦後、日本に引き揚げてのち、菅生事件などの作品を書いた。 以下は参考文献(多田、2009年)のpp.231 - 239による。 久留米市本町で洋品店を営む牛島丞太郎・あやめ夫妻の二女として生まれる。1927年、10歳年上の兄の影響を受け、処女作「合歓の花」を書く。1929年、久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)を卒業し、奈良女子高等師範学校を受験したが失敗。1930年、久留米の文芸誌『街路樹』に参加する。1931年に久留米の日本足袋(現在のブリヂストン)に就職。
真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003… 真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003年1月26日)は、日本の実業家。福岡県久留米市出身。石川島播磨重工業(現:IHI)の社長、電電公社の最終代総裁、NTT初代社長・会長を務めた。また、ドクター合理化の異名を取った。 中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1934年春、九州帝国大学工学部造船学科を卒業後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」、ダニエル・ラドウィックと手を組み、当時としては画期的な手法で数々の船舶を建造し、専門の船ではそれまでの常識を破った「ズングリムックリ」型のタンカーを考え出したり、従来の貨物船が一隻ごとにオーナーと仕様を決めるオーダーメイドであったのを、あらかじめ造船所が主要スペックを決めてカタログ販売する標準船を世に送り出した。
斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年… 斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年4月29日)は山口県阿東町(現:山口市)出身の作家で、本名は柴田 四郎である。
高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1… 高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1934年7月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県三井郡合川村(現久留米市)で、造り酒屋の二女に生まれた。福岡県立久留米高等女学校(現福岡県立明善高等学校)を経て、1926年日本女子大学に入学。労働農民党の活動に参加していた長兄・日郎(じつろう)の影響で、在学中の1929年頃から学生社会科学連合会(学連)目白班の運動に参加し、卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟。同大学国文科を卒業、1930年4月より機関紙『無産青年』編集局で働くかたわら、各地でオルグ活動を行なった。結核のため1931年暮れから1932年にかけて入院したが、途中で病院を抜け出し活動に復帰。
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979… 上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979年2月13日)は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。 1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる。 1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する。 1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する。 1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝。 1946年、調教師免許を取得。 1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇。
大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - … 大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - 1944年12月9日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名小島 武夫(こじま たけお)、大伴 龍三(おおとも りゅうぞう、新漢字表記大伴 竜三)とも名乗った。 1907年(明治40年)10月20日、佐賀県杵島郡(現在の同県武雄市)に生まれる。 旧制・福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)卒業後、帝国キネマ演芸に入社、古海卓二に助監督として師事する。 1927年(昭和2年)、20歳にして、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所製作の市川右太衛門主演作『笑ふな金平 後篇』で監督としてデビュー、同作は同年9月15日に公開された。
納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 199… 納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 1991年1月4日)は、日本の陸上競技(短距離走・中距離走)選手。 東京高等師範学校在学中の1920年代半ばに400メートル・800メートルの日本記録をたびたび更新、1924年パリオリンピックに両種目と十種競技で出場した。卒業後は福岡日日新聞社(のち西日本新聞社)に入社、1952年に九州一周駅伝を創設するなど、九州の陸上競技の振興に努めた。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に生まれる。筑後川やクリーク(水路)を泳いで遊ぶ少年時代を過ごし、中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)在学中には野球部・庭球部・徒歩部・剣道部で選手を務めるスポーツ万能ぶりを見せていたという。
山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1… 山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1964年10月22日[要出典])は、日本の歴史学者。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。明善中等学校、佐賀高等学校卒、1929年京城帝国大学法文学部史学科卒。平壌高等女学校教諭。1931年京城中学校教諭。1933年李正職編修官兼務。1945年日本へ帰国。1947年滋賀県大津高等女学校教諭。1949年大津市教育委員会教育長。1956年滋賀県立甲賀高等学校長。1958年滋賀県立虎姫高等学校長。1960年彦根市教育委員会教育長。1964年退職。 教職のかたわら、日本キリシタン史などの著作をものした。
井上 満(いのうえ みつる、1900年12月16日 - 19… 井上 満(いのうえ みつる、1900年12月16日 - 1959年5月14日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。筆名は落合 文雄など。 福岡県久留米市米屋町(現・同市中央町)に生まれる。1920年、19歳の時に福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業、同年、福岡県派遣留学生として日露協会学校に入学。1924年同校卒業。同年、神代ちとせと恋愛結婚。その後、兵役に服すが、病気のために除隊。1926年上京して文筆活動に入り、主に社会科学文献を翻訳。 1930年から6年間、当時の東京市麻布区麻布狸穴町にあった駐日ソ連大使館に勤務し(外交交渉通訳などに携わる)、二・二六事件直後の1936年3月に軍機保護法違反で逮捕されて、1938年10月まで2年7か月間投獄される。
杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1… 杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1987年1月2日)は日本の政治家。衆議院議員、福岡県知事などを務めた。 福岡県福岡市出身。1914年、中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1921年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 九州帝国大学、福岡高校、福岡女子専門学校の各講師、西南学院専門学校(現・西南学院大学)校長を経て、1946年4月、戦後初の衆議院議員総選挙に福岡1区から社会党所属で出馬し当選、1期務める。1947年4月から2期、福岡県知事を務めて石炭政策を推進した。福岡県知事の任期満了後に両派社会党の推薦で福岡市長選に出馬するが保守系現職の小西春雄に敗れて落選、翌1956年3月から久留米市長となる。
古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933… 古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933年9月10日)は大正から昭和初期に活躍した洋画家である。日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家として知られる。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」は通称である。 1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった(古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月1… 諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月11日 - 1990年(平成2年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 福岡県出身。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 官吏・諫山虎鹿の二男として生れる。中学明善校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業。1915年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。 1925年8月、歩兵第38連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス大使館付武官補佐官などを経て、1930年8月、歩兵少佐に昇進。
髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年… 髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。 東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館で初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。 福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10… 松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉12月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。「五省」の考案者。 福岡県出身。松下丈吉の長男として生れる。中学明善校を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を卒業し、翌年9月、海軍少尉任官。日露戦争では「松島」乗組として出征し、日本海海戦では「八雲」乗組であった。1910年5月、海軍砲術学校高等科を卒業。「高雄」砲術長、「薩摩」分隊長、第1艦隊参謀などを歴任し、1914年5月、海軍大学校(甲種12期)を卒業した。 「阿蘇」砲術長、艦政局局員、イギリス出張、第4戦隊参謀などを経て、1921年1月、海相秘書官兼副官となり、加藤友三郎大臣に仕えた。
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日… 青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 -… 坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。
菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 -… 菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 - 1937年7月21日)は、福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件に際し、福岡日日新聞の紙上で軍部批判・憲政擁護の論陣を張ったことで知られる。六鼓(六皷)は号で、本名は淳(すなお)。兄に政治家の菊竹博之がいる。 菊竹六鼓の論説は、昭和初期に軍が議会制民主主義をないがしろにした日本近代政治史の転換点において、一貫してメディアを通して戦う姿勢を見せたものであった。その代表は、大正期から護憲運動の擁護者で軍備縮小を進めた犬養首相を暗殺した五・一五事件についての論説であり、全国の大手新聞社が軒並み軍部支持の記事を掲げ、世論を軍国主義へ誘導し、あるいは軍国主義世論に迎合する中でのものであった。
有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月… 有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉- 1954年〈昭和29年〉12月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 筑後国三潴郡久留米城下(現:福岡県久留米市)で、久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、同藩重臣・有馬孝三郎の養嗣子となる。1889年(明治22年)、久留米尋常中学校を卒業し、1892年(明治25年)、帝国大学農科大学実科を卒業。 その後、旧藩主・有馬伯爵家の家令となり、同家の財政の立て直しに尽力した。久留米六十一銀行の頭取を務め、旧久留米藩の士族授産企業・赤松社の活動にも貢献した。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で福岡県久留米選挙区から出馬して当選。
宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - … 宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - 没年不明)は、幕末の幕臣、大陸浪人。
内藤 新吾(ないとう しんご、天保12年10月11日(184… 内藤 新吾(ないとう しんご、天保12年10月11日(1841年11月23日) - 大正6年(1917年)8月2日)は、初代久留米市長、衆議院議員。諱は敏樹、字は子敏、号は寒山。 久留米藩国家老有馬氏の臣下の家に生まれ、藩校明善堂で学んだ。真木和泉・水野正名らの尊王攘夷論に傾倒し、福岡藩の平野国臣と交わった。1862年(文久2年)、江戸に出て安井息軒の門に学んだ。翌年に帰郷すると、同志とともに藩の執政有馬監物に尊王攘夷を藩論とするように説いたが、八月十八日の政変で公武合体が藩論となると、幽囚の身となった。 1867年(慶応3年)、5年に及んだ幽囚を解かれた。1868年(明治元年)、明善堂寮長に起用され、翌年には民政判事となった。
竹ヶ原 敏之介(たけがはら としのすけ、生年月日非公表)は日… 竹ヶ原 敏之介(たけがはら としのすけ、生年月日非公表)は日本のシューズデザイナー。 福岡県立明善高等学校卒業。東京造形大学中退。大学在学中に独学で靴のデザインを開始。 1994年ドレスシューズブランド「竹ヶ原敏之介」(現「AUTHENTIC SHOE & Co.」)を設立。 渡英しイギリスの靴メーカー「GEORGE COX」や「GRENSON」との協業。 「Tricker's」にて製作に携わる。 2004年、英国北部に位置する靴博物館「Northampton Museum and Art Gallery」に制作した靴が永久保存として収蔵される。 無類の靴好きで革靴からスニーカーに至るまで、コレクションしている靴の量は一時期2000足を超え、専用コンテナと倉庫にナンバリングして保管していると雑誌のインタビューで語った。
椿 宜高(つばき よしたか) は、日本の生態学者。京都大学名… 椿 宜高(つばき よしたか) は、日本の生態学者。京都大学名誉教授。京都大学生態学研究センター長や、個体群生態学会会長を務めた。 福岡県生まれ。1967年福岡県立明善高等学校卒業。1971年九州大学理学部生物学科卒業。1973年九州大学大学院理学研究科修士課程修了。1974年九州大学大学院理学研究科博士課程中退、九州大学理学部教務職員。1977年九州大学理学部助手。1980年名古屋大学農学部助手。1982年グリフィス大学客員研究員。1990年環境庁国立環境研究所総合研究官。1997年環境庁国立環境研究所上席研究官。2000年東京大学大学院農学生命科学研究科教授併任。2006年京都大学生態学研究センター教授。