スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年… 宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学者。専門は産婦人科。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校を経て熊本医科大学を卒業した。1933年に熊本医科大学産婦人科教室に入局し、講師や医学専門部の教授を歴任した。この間、1945年10月には論文「副腎の組織呼吸に関する研究」で熊本医科大学から医学博士号を取得した。 戦後の1950年から国立熊本病院の副院長兼産婦人科部長となった。1957年、熊本市内で産婦人科医院を開業した。
五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 19… 五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 1978年3月29日)は日本の理学者。 熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、九州帝国大学臨時教員養成所、大阪帝国大学理学部卒業。 宮崎県立延岡高等女学校、熊本県立八代高等女学校教諭などを経て、奈良女子高等師範学校教諭となる。 1949年(昭和24年)、私立暁女子短期大学学長、奈良女子大学教授となり、1953年(昭和28年)に理学部長となる。 1960年(昭和35年)に3度目の理学部長に就任した。1965年(昭和40年)に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。
池上 二男(いけがみ つぐお、1905年 - 没年月日不詳)… 池上 二男(いけがみ つぐお、1905年 - 没年月日不詳)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。熊本県出身。 大正9年、熊本県立玉名中学校(現熊本県立玉名高等学校・附属中学校)卒業、海軍兵学校入学(51期)。海兵卒業後、34期生として海軍大学校を卒業した。同級生には高松宮がいた。その後、昭和12年に海軍少佐で早くも連合艦隊参謀に任ぜられる。その後、支那方面艦隊参謀、海軍航空本部部員、軍務局局員などを経て、昭和19年に海軍大佐に進級。また、海軍T事件では大森仙太郎少将、直井俊夫大佐と共に調査員を務めた。その後、海軍航空本部総務部部員、大本営海軍参謀、軍令部部員、海軍技術会議議員などを経て、昭和20年6月に海軍航空本部第一課長に就任。
吉永 武男(よしなが たけお、1904年〈明治37年〉10月… 吉永 武男(よしなが たけお、1904年〈明治37年〉10月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月1日)は、日本の銀行家。長崎県長崎市出身。 熊本県立玉名中学校(1922年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業した。 大学卒業後に三十四銀行に入る。1933年に三十四銀行は他の銀行との統合により、三和銀行となる。1952年に東京事務所長に就任し、以後、経理部長、神戸支店長、取締役、常務取締役などを歴任した。 1963年三和銀行退任後、日本火災海上保険に取締役副社長として入り、1969年に取締役会長に就任。1974年、勲四等旭日小綬章を受章。 1978年5月1日、閉塞性黄疸のため東京都文京区本駒込の宮入外科病院で死去。
宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5… 宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5月23日 - 1995年)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞記者を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世民の実弟、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を経て(1922年卒業)、東亜同文書院大学(当時は旧制専門学校の扱い)を卒業した。 朝日新聞社に入社し、上海通信局員として第一次上海事変を取材した。1935年には、日本人記者として初めて蔣介石と単独会見をおこなう。1943年に朝日新聞社南京支局長兼上海総局次長、1945年に上海総局長となった。 戦後は朝日新聞東京本社東亜部長、編集局次長、朝日新聞社社友などを歴任した。
笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13… 笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉3月16日)は、日本の俳優。身長171cm。 1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演した。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも、木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、貴重なバイプレーヤーとして活動した。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。 熊本県玉名郡玉水村(天水村、天水町を経て、現在の玉名市)立花で父・淳心、母・トシの次男として生まれる。
永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985… 永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985年2月7日)は、日本の作家、英文学者。熊本女子大学(現・熊本県立大学)名誉教授。熊本県玉名郡出身。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部を卒業した。在学中、上林暁らと同人誌『風車』を創刊して創作活動をおこなった。 1930年、伊藤整・辻野久憲とともにジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を初めて邦訳する。三好達治・北川冬彦の『詩・現実』に連載し、単行本として刊行する。このほか『ダブリンの人々』『万有引力』『ロレンス芸術論』などを出版した。 1937年強烈な神経衰弱に陥り、熊本県へ帰郷する。1940年、母の死をきっかけに英語教師として働く。
川本 邦雄(かわもと くにお、1903年3月28日 - 19… 川本 邦雄(かわもと くにお、1903年3月28日 - 1945年)は、昭和期の日本の官僚。妻は西四辻公堯の長女壽榮子。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1920年卒業)、第五高等学校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 卒業後は朝鮮総督府に勤務の後、拓務省の高官となり、文書課長などを歴任した。その後、新たに発足した大東亜省の文書課長となり、1945年に中国地区統監府官房参事官として広島市に赴任中に広島市への原子爆弾投下に遭遇して被爆死した。 南方(東南アジア)政策を専門とし、『南方への指標』(朝日新聞社、1942年)や『大南洋の話』(偕成社・偕成社少年少女文庫、1942年)といった一般向けの著作を残している。
堀川 芳雄 (ほりかわ よしお、1902年10月6日 - 1… 堀川 芳雄 (ほりかわ よしお、1902年10月6日 - 1976年3月18日)は、日本の植物学者。蘚苔類の分類学的研究で知られる。理学博士(東京帝国大学・1934年)。元広島大学教授。 熊本県玉名郡出身で、熊本県立玉名中学校、広島高等師範学校、東北帝国大学を卒業した。広島高等師範学校の教授となり、1934年に東京帝国大学より理学博士の学位を取得した(学位論文は「Monographia hepaticarum australi-japonicarum (南日本産苔類植物誌)」)。 日本各地や樺太、ミクロネシアで採集研究を行い、1936年に"Studies on the Hepaticae of Japan"(「日本産苔類の研究」)を発表した。
徳永 郁介(とくなが いくすけ、1902年8月31日 - 没… 徳永 郁介(とくなが いくすけ、1902年8月31日 - 没年月日不詳)は、日本の大学教授。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、第五高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科(美学及び美学史専攻)卒業。 昭和3年、京都市主事、同4年、日本大学講師となり、応召を経て同15年、山口師範学校教諭、次いで小郡農業学校教諭などを歴任した。 その後、再度の応召を経て、昭和21年5月に復員し、同23年3月に熊本女子専門学校教授を経て熊本女子大学(現・熊本県立大学)の教授(美学)となった。 昭和43年に定年退官し、同年7月2日に名誉教授となった。 著書に「ルネサンス」やその他、多数の訳書がある。
一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4… 一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4日 - 1953年〈昭和28年〉ごろ)は、日本の物理学者。 1902年、熊本県玉名郡小田村に生まれる。熊本県立玉名中学校(1919年卒業、同級生に宮崎世民がいる)、旧制第五高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 京大卒業後は南満洲鉄道に勤務し、1927年より旧制名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の教授となり、1941年に従五位に叙された。 主著に『誤差論』(培風館、1953年)がある。
宮崎 世民(みやざき せいみん、1901年10月17日 - … 宮崎 世民(みやざき せいみん、1901年10月17日 - 1985年8月19日)は、日本の政治家。日中友好協会理事長を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世龍の実兄、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(1919年卒業)を経て、1924年に東京帝国大学法学部を卒業した。1913年に、孫文が革命成功の謝礼として、熊本県荒尾市の民蔵宅を訪問したときの記念写真に、孫文の隣にいる姿が残されている。『土地農民にかえる』などを翻訳した。 日中友好運動に貢献し、日中友好協会結成に尽力。1963年5月13日に、日中友好協会第13回全国大会で専従の理事長に就任し、17年間その職を務めた。 理事長就任時には、岸内閣・佐藤内閣の反中国政策のために、中華人民共和国との民間交流も断絶していた。
土井正徳(どい まさのり、1900年1月20日-1966年8… 土井正徳(どい まさのり、1900年1月20日-1966年8月18日)は、日本の精神医学者。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、1925年東北帝国大学医学部卒、29年医学博士となる。満州医科大学(現・中国医科大学)助教授を務め、戦後は最高裁判所家庭局法務技官をへて、1965年東洋大学文学部教授となる。フロイトの著作の翻訳も行った。
片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1… 片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1日 - 1994年〈平成6年〉)は日本の農学者。 熊本県立玉名中学校(1918年卒業)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学農学部を卒業した。 農林省農事試験場鴻巣試験地勤務から、1936年に九州帝国大学農学部助教授となり、1939年に教授に昇任した。太平洋戦争中の1943年12月から翌年7月まで、南方軍総監部付を兼務して、占領地域の農業指導にも当たった。1963年に定年退官し、名誉教授となった。 イネ科植物の分蘖(ぶんけつ)した茎と主茎の間で、縦に並んだ葉(同伸葉)が同時に規則的に生じることを1951年に報告し、「同伸葉理論」と名付けられた。
坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月2… 坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月20日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、熊本市長(2期)を歴任した。 熊本県玉名郡賢木村(現・南関町)出身。1917年(大正6年)熊本県立玉名中学校、旧制第五高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。台湾総督府に入り、高雄、台北の各州の知事などを務め、台湾新報社社長に就任する。 帰国後、郷里の賢木村長に就任。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に旧熊本1区(定数5)から民主党公認で立候補し、初当選した。1949年(昭和24年)に再選。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙の旧熊本1区では改進党は坂口を含め5人の候補者を擁立。
弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年… 弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年6月19日)は昭和期の日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1917年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。1926年から1929年まで東京帝国大学大学院に在学。1930年に医学博士を取得。 札幌市立病院の小児科医となり、田坂重元とともに風疹ウイルスを日本で初めて発見した。また、日本における臨床ウィルス学の先駆者と呼ばれている[誰によって?]。1934年から1936年まで欧米に留学し、主にベルリン大学小児科教室・病理科教室で研究に当たった。1947年熊本医科大学医学部教授及び熊本医科大学附属病院院長、1950年北海道大学医学部教授となった。
森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年… 森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年不詳)は、日本の医学者、医師。専門は内科、物理学。 熊本県玉名市出身。熊本県立玉名中学校卒業、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を1923年(大正12年)に卒業。卒業後、東京帝国大学医学部病理学教室の助手となり、1932年(昭和7年)に医学博士号を授与された。 東京帝国大学医学部が外来医長制度を敷くに当たり、1935年(昭和10年)に初代の内科の外来医長となり、1938年(昭和13年)まで勤めた。1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)まで京橋病院の内科医長を勤め、辞任後は東京都で開業した。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月2… 中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる。 熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て(同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 19… 塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 1973年〈昭和43年〉12月7日)は、昭和期の日本の外交官。 熊本県玉名郡に生まれる。熊本県立玉名中学校(1916年卒業)を経て、1921年(大正10年)に東京高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業した。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格し、1921年に外務省に入省した。若手の頃から白鳥敏夫らとともに革新派官僚と呼ばれる。 外務省アメリカ局第二課長、スイス公使館書記官、外務省南洋局長心得、拓務省拓南局参与、ハルビン総領事や、スイス公使、外務省通商局勅任事務官、サイゴン公使、仏印総督府総務長官などを経て、1945年(昭和20年)から翌年にかけて最後の仏印大使を務めた。
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は… 広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1895年に熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校を1915年に卒業(同級生に中川州男)後、海軍機関学校に進む(第27期)。 海軍機関少尉に任官後は特別演習審判官、海軍艦製本部部員、海軍省教育局局員、海軍大学校教官、海軍技術会議議員などを歴任した。この間、海軍大学校機関学科を卒業している。 1943年に第六艦隊の機関長となり、1945年5月に海軍少将に昇進した。最終ポストは佐世保軍需部長だった。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。1950年に54歳で死去。
高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 196… 高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 1966年1月31日)は日本の実業家。 現在の熊本県玉名市に生まれる。熊本県立玉名中学校(1913年卒業)を経て、[要出典]1917年に神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業した。 1917年、三菱合資会社に入社して炭鉱部に所属し、翌年三菱鉱業が設立されると移籍した。1950年に社長に就任する。武甲セメントでも社長を務めた。 社外では日本石炭協会会長のほか、経済団体連合会や日本経営者団体連盟(いずれも日本経済団体連合会の前身)の理事などを歴任した。
田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年… 田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年不明)は、日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1911年卒業)を経て、岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)を卒業した。 1929年に東京帝国大学から医学博士号を取得した。 長く東京帝国大学伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に務め、1933年には東京帝国大学医学部助教授となる。主にハンセン病の研究者であった。その後、熊本県の国立菊池療養所の所長に任命されたが3か月で辞任し、日本医科大学の教授となった。
薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5… 薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5月17日 - 1985年(昭和60年)12月8日)は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。 熊本県出身。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業。弁護士となり、岸清一法律事務所で勤務した。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。
多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - … 多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - ?)は、日本のスポーツ黎明期の陸上競技(中距離走・長距離走)選手。 熊本県生まれ。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業し、東京高等師範学校に入学。玉名中・東京高師で金栗四三の1年後輩にあたり、全盛期の金栗に鍛えられた「金栗門下生」と評される選手である。 1914年(大正3年)11月2日の全国陸上競技大会(現在の日本陸上競技選手権大会)では1500m走で4分44秒2を記録した(当時の日本記録)。1915年(大正4年)5月2日の第2回日本オリンピック大会(豊中運動場)でも1500m走で優勝している。1915年(大正4年)5月の極東選手権競技大会(第2回大会、上海)に出場。
金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891… 金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。位階は従五位。 青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加した。また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりするなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される。 名前の読みは文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と一致しない。これについて熊本県和水町社会教育課では「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。
美川 秀信(みかわ ひでのぶ、1891年?(明治24年?) … 美川 秀信(みかわ ひでのぶ、1891年?(明治24年?) - 1940年(昭和15年)1月11日)とは、戦前の日本及び日本統治時代の朝鮮の水産業技師である。 また「日本マラソンの父」金栗四三と共に東京高等師範学校に入学した、金栗四三の熊本県の同郷の同級生として有名である。 熊本県玉名郡南関町の士族・美川家に生まれる。 玉名北高等小学校(現在の南関町立南関第三小学校)、旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校)を通して金栗四三の同級生であった。 そして1909年(明治42年)、美川は両親の勧めもあったが「東京へ行きたい」がために金栗を誘い、熊本県で行われた東京高等師範学校の出張入学試験を共に受け、熊本県からは4人の、そして玉名中学校から金栗四三と共に「たった2人の合格者」として東京高師に合格した。
福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11… 福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11月1日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第122位、卒業成績順位は149名中第50位。 福田は海軍大学校甲種課程修了後も艦船乗組ばかりで、本省勤務や在外公館駐在勤務の類が全く無く、特に目立った経歴は見出せない。海軍中佐に任官した頃から中国方面の勤務が多くなる。昭和14年に海南島根拠地隊司令官に就任した際に、同島の治安状態が極めて悪く、高級士官が狙い撃ちされ作戦遂行への懸念から、周囲が猛反対する中で指揮官先頭の精神を自ら発揮して渡名喜守定参謀長と共に匪賊討伐に当る。
富田 義信(とみた よしのぶ)は日本の軍人。最終階級は陸軍大… 富田 義信(とみた よしのぶ)は日本の軍人。最終階級は陸軍大佐。熊本県生まれ。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)を経て、陸軍士官学校(31期)を大正8年に卒業した。 その後、陸軍歩兵少尉に任官した。 累進して陸軍中佐となり、太平洋戦争が始まると、新たに編成された南海支隊の参謀附副官となった。 小田健作少将の下で軍務(ポートモレスビー作戦)に従事した。 南海支隊幹部が撤退に失敗すると、小田健作少将と共に自決した。 死後、陸軍中佐から陸軍大佐に昇任した。
坂東 正明(ばんどう まさあき)は日本の海軍軍人。最終階級は… 坂東 正明(ばんどう まさあき)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)を経て、海軍兵学校を卒業した。(海兵56期) その後、海軍少尉、海軍中佐となり、海軍航海学校を卒業した。 開戦時は第二艦隊の気象長。 その後、新たに編成された第七六二海軍航空隊の気象長を経て、海軍航海学校教官などを歴任し、終戦を迎えた。 終戦後は、海軍省軍務局に勤務し、戦後処理に従事した。
松浦 九州男(まつうら くすお、? - 1950年)は、日本… 松浦 九州男(まつうら くすお、? - 1950年)は、日本の軍人。最終階級は陸軍少佐。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校、陸軍士官学校卒業。陸士卒業後、終戦時は関東軍暗号課長だった。満洲に侵攻して来たソビエト軍の捕虜となった。 1946年にA級戦犯を裁く東京裁判のソビエト側の証人として、満州国総務長官・武部六蔵、瀬島龍三陸軍中佐と共に証言台に立たされた。主に日本軍の人体実験についての証言であった。 1950年に死去(自殺)した。
吉田 宣弘 は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員(… 吉田 宣弘 は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員(5期)。
余田 弦彦(よでん つるひこ、生年不明 - 1927年)は、… 余田 弦彦(よでん つるひこ、生年不明 - 1927年)は、日本の詩人。旧制高知高等学校の寮歌「豪気節」の作詞者である。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1921年卒業)から、旧制高知高等学校に進学する。高知高等学校では応援団長を務めた。寮歌「豪気節」を作詞し、1923年の第1回高知高等学校運動会で発表した。運動会では同年から1924年にかけて「ダクダク踊りの歌」として、全身に墨を塗り、腰みのに竹やりを突いて踊り、大評判になったとされる。この「ダクダク踊りの歌」は、後の流行歌「酋長の娘」の元歌になったとされる。 旧制高知高等学校では同級生に秋田大助がおり、親友だった。 高知高等学校卒業後に京都帝国大学法学部に進学したが、在学中の1927年に死去した。
谷口 興一(たにぐち こういち、生誕年不詳 - 2012年(… 谷口 興一(たにぐち こういち、生誕年不詳 - 2012年(平成24年)11月25日)は、熊本県出身の躰道指導者、医師。玄制流空手道、躰道を創始した祝嶺正献の一番弟子とされ、東京医科歯科大学空手道部(後に躰道部)を設立した。 熊本県出身。熊本県立玉名高等学校を経て、東京医科歯科大学医学部卒業。大学入学後に玄制流空手道師範の祝嶺正献と出会い入門、そして東京医科歯科大学空手道部を自ら設立した。現役を退いたのちも躰道の指導、普及に尽力し、躰道本院最高会議議長を務めた。 1956年(昭和31年)、東京医科歯科大学に入学。当時の医学部進学課程、歯学部進学課程(現在の教養課程にあたる)は千葉大学文理学部に委嘱されていた。
生田 琢己(いくた たくみ)は、日本の医師、医学者。専門は精… 生田 琢己(いくた たくみ)は、日本の医師、医学者。専門は精神医学。熊本県出身。 熊本県立玉名高等学校、九州大学医学部卒業。九州大学大学院医学研究科修了。医学博士号を取得した。 1967年(昭和42年)九州大学医学部助手、1973年(昭和48年)講師を経て1974年(昭和49年)に徳島大学医学部教授となった。同11月16日に徳島大学精神科神経科に就任し、1998年(平成10年)3月31日に教授退官する。退官後は名誉教授に推された。
井島 博之(いじま ひろゆき)は日本の大学教授。 現在は九州… 井島 博之(いじま ひろゆき)は日本の大学教授。 現在は九州大学大学院教授を勤めている。 専門はものづくり技術やライフサイエンスなど。 熊本県立玉名高等学校を経て九州大学大学院修了。九州大学から博士号も取得している。 日本再生医療学会代議員や日本動物細胞工学会評議員なども歴任した。 2014年には日本生物工学会の第22回論文賞も受賞した。
入江 克雅(いりえ かつまさ)は、日本の理学者。構造生物化学… 入江 克雅(いりえ かつまさ)は、日本の理学者。構造生物化学者。熊本県出身。 熊本県立玉名高等学校、京都大学理学部卒業。京都大学大学院修了。 2012年より名古屋大学細胞生理学研究センター・基礎生物学研究部門特任教授、2014年より助教授。 2021年より和歌山県立医科大学薬学部・薬品物理化学研究室准教授を務めている。
上野 文男(うえの ふみお)は、日本の制御工学者。 熊本県立… 上野 文男(うえの ふみお)は、日本の制御工学者。 熊本県立玉名高等学校を経て熊本大学工学部を卒業後、九州大学大学院を修了した。大学院終了後の1974年から熊本大学工学部に勤務し、講師、助教授、教授を歴任したのち工学部長に就任した。また、情報センター長や評議員も務めた。 熊本大学を退官後は熊本大学名誉教授となり、崇城大学の教授に転じた。崇城大学でも名誉教授となっている。 1994年から2001年まで、熊本電波工業高等専門学校校長を務めた。
内野 明徳(うちの あきのり)は日本の大学教授、理学博士。 … 内野 明徳(うちの あきのり)は日本の大学教授、理学博士。 また、熊本大学教育研究センター長なども歴任した。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名高等学校を経て熊本大学理学部卒業。九州大学大学院理学研究科修了。 北海道大学から理学博士号を授与された。その後、熊本大学理学部の教員となり、助教授から教授に昇任した。 1994年など3回に渡り、熊日出版文化賞を受賞。2004年には地域環境保全功労者環境大臣表彰を受賞。
太田 善郎(おおた よしろう)は、日本の医師、医学者。熊本県… 太田 善郎(おおた よしろう)は、日本の医師、医学者。熊本県出身。 熊本県立玉名高等学校、九州大学医学部卒業。九州大学大学院修了(医学系・内科)。 九州大学医学部講師、愛媛大学医学部助教授、佐賀県立病院・内科医長などを経て佐賀県立病院の10代目院長(好生館館長)に就任した。 その後、国際医療福祉大学リハビリテーション学部長・教授などを歴任し、現在[いつ?]は藤井整形外科の介護老人保健施設の施設長を務めている。
岡村 一郎(おかむら いちろう)は日本の医学者、寄生虫学者。… 岡村 一郎(おかむら いちろう)は日本の医学者、寄生虫学者。 熊本県立玉名中学校(1928年卒業)、第五高等学校を経て、熊本医科大学を卒業した。 1942年に熊本医科大学より医学博士号を取得した。 熊本医科大学助教授、熊本医科大学附属医専教授を歴任した。長崎に原子爆弾が投下された際には国の命令で派遣されている。戦後は熊本大学医学部教授となり、寄生虫学を専門とする。 日本学術会議議員なども務めた。熊本大学医学部教授を退官後は名誉教授となり、1980年から熊本女子大学(現。熊本県立大学)の学長を1986年まで務めた。学長在任中の1985年に大学を会場として日本英学史学会全国大会が開催された折「大会会長」となり、その縁で夏目漱石の熊本時代を題材にした文章を学会誌『英学史研究』に寄稿した。
金堀 伸夫(かなぼり のぶお)は、日本の医師、ソングライター… 金堀 伸夫(かなぼり のぶお)は、日本の医師、ソングライター。 宮崎県高鍋に生まれる。熊本県立玉名中学校(1926年卒業)、第五高等学校を経て、熊本医科大学を卒業した。 医師業の傍ら多くの学曲を作詞した。金堀は第五高等学校在学中から作詞を始めていた。五高の寮歌「荒れろ黄煙」をはじめ、熊本に駐屯する第6師団の歌まで幅広く作詞した。また作曲もおこなっており、五高の寮歌「椿花咲く」や複数の学校の校歌、小林市(広域合併以前の旧小林市)の「市民歌」を手がけている。 戦後は、故郷の高鍋で病院を開業する傍ら、コーラス団を結成して病院の2階で練習をおこなった。
坂口 秀哉(さかぐち ひでや)は、日本の研究者、医学者(神経… 坂口 秀哉(さかぐち ひでや)は、日本の研究者、医学者(神経内科医)。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名高等学校、熊本大学医学部、京都大学大学院医学研究科修了。 2008年より熊本大学医学部附属病院・研修医、2012年より理化学研究所・発生再生化学総合研究センター・リサーチアソシエイト、2016年より京都大学iPS細胞研究所特定研究員などを経て2020年より理化学研究所・上級研究員(研究リーダー)を務めている。
櫻井 倫(さくらい りん)は日本の林学者、農学者、大学教員。… 櫻井 倫(さくらい りん)は日本の林学者、農学者、大学教員。 熊本県立玉名高等学校を経て1996年に東京大学農学部を卒業した。東京大学大学院農学生命科学研究科に進学・修了後,2007年に東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻の特任助手となった(同年に特任助教)。その後、2009年に助教となった 。 2015年からは宮崎大学農学部に移り、森林緑地環境科学科の准教授を務めている。 他の職歴として、森林利用学会の理事などを務めている。
曾布川 征夫(そふかわ ゆきお)は、日本の実業家。大日本帝国… 曾布川 征夫(そふかわ ゆきお)は、日本の実業家。大日本帝国陸軍の司政官も務めた。 熊本県立玉名中学校(1913年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。東京帝大時代には剣道部に所属した。 日本郵船に入社して1927年から上海支店に勤務した。その後ニューヨーク支店長代理、シンガポール支店長、門司支店長、監査役を歴任する。監査役を退任後に、日本郵船興行の社長となった。また、太平洋戦争中には陸軍司政官も務めた。
高田 明(たかだ あきら)は、日本の医師(脳神経外科)。熊本… 高田 明(たかだ あきら)は、日本の医師(脳神経外科)。熊本県出身。 熊本県立玉名高等学校、熊本大学医学部卒業。 2006年より熊本市立熊本市民病院に勤務し、脳神経外科部長、診療部長、首席診療部長、副院長などを歴任した。 2013年に熊本市民病院の院長に就任し、2022年に退任するまで9年間務めた。
竹下 武雄(たけした たけお)は、日本の教育者。 熊本県に生… 竹下 武雄(たけした たけお)は、日本の教育者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1911年卒業、同級生に薬師寺尊正がいる)、第五高等学校を経て、東京帝国大学を卒業した。 鳥取高等農林学校(現・鳥取大学農学部)教授、福岡県立女子専門学校教授、熊本県第一高等女学校教授、主任教授などを歴任した。長年にわたり、熊本県区の女子教育に携わった。熊本県立第一高等学校の記念誌[要文献特定詳細情報]によると、時には生徒が驚くような出で立ちで授業をすることもあったとされる。