酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明… 野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明治20年)10月18日 - 1954年(昭和29年)2月14日)は、日本の実業家。野村銀行頭取や、同行会長、野村生命取締役、大阪ガス監査役等を歴任した。 大阪府で初代野村徳七の四男として生まれる。二代野村徳七は兄。1908年大阪高等商業学校(現大阪公立大学)卒業。1909年から6年間イギリスに留学した。1917年に家業が株式会社化され野村商店が設立されると監査役に就任した。 1918年に大阪野村銀行が設立されると頭取に就任し、昭和金融恐慌や昭和恐慌下でも順調に業容を拡大させた。1925年大阪瓦斯監査役。1934年野村生命取締役。1943年野村銀行会長。
二瓶 泰次郎(にへい たいじろう/やすじろう、1887年(明… 二瓶 泰次郎(にへい たいじろう/やすじろう、1887年(明治20年)10月18日 - 1963年(昭和38年)8月4日)は、大正から昭和時代の政治家。貴族院多額納税者議員。宮城県伊具郡丸森町長。 二瓶泰吉の長男として宮城県伊具郡丸森村(現丸森町)に生まれる。1907年(明治40年)角田中学校を卒業。家業の醤油醸造業に従事する。1925年(大正14年)丸森信用組合監査役に就任。1929年(昭和4年)には丸森町会議員に当選し、ついで丸森町長を3期務めた。1939年(昭和14年)私有地を寄付し伊具農蚕学校の県立移管に尽力した。ほか、伊具郡養蚕業組合長、同農会長、宮城県信用組合連合会理事、同県農業会長、全国農業会東北支部長などを歴任した。
坂井 大輔(さかい だいすけ、1887年(明治20年)10月… 坂井 大輔(さかい だいすけ、1887年(明治20年)10月16日 – 1932年(昭和7年)5月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、逓信参与官。武道教師[3]。
土屋 直幹(つちや なおき、1887年10月16日 - 19… 土屋 直幹(つちや なおき、1887年10月16日 - 1968年6月19日)は、日本の実業家。玄洋社社員。 久留米藩士・土屋新三郎の長男として、福岡県久留米市に生まれる。1897年福岡市に転居し、1908年福岡県立中学修猷館を卒業。在学中は修猷館野球部に所属し、玄洋社の柔道道場明道館で柔道を学んだ。1912年長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業。 卒業後、神戸の川崎造船所に入社。ここで同僚であった成瀬正行が、1914年に機械商社である盛興商会を設立するとこれに入り、1918年同社博多支店長となる。成瀬が巨万の富を得て盛興商会を廃業すると、直幹はこれを引き継ぎ、1921年正興商会を創立し社長となる。
松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15… 松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月22日)は、日本の実業家、弁護士、弁理士、政治家。位階は正三位。 第45代衆議院議長。第76代文部大臣。さいたま市名誉市民。 長崎県南高来郡北串山村(のち小浜町、現雲仙市)の農家に生まれる。松永道広の長男。鎮西学院を卒業。1905年、上京した。弁護士事務所の書生をしたり、新聞配達をした。 早稲田実業学校出身。早稲田大学商科に学び中退した(1934年に推薦校友)。また日本大学に学び、法律の勉強をした。1911年、家督を相続した。弁護士試験に合格後弁護士、弁理士を開業した。傍ら武州鉄工所社長、武州瓦斯取締役を兼ねた。
木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 19… 木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 1969年10月30日)は、日本の歴史学者、教育家。 静岡県浜名郡入野村(現・浜松市中央区)に、龍雲寺 (浜松市)の二男として生まれる。1913年、東京帝国大学文科大学史学科国史学専修を卒業し、1915年に「足利時代ノ文化」の研究のため、京都帝国大学大学院に入学。1920年山形高等学校教授、1923年水戸高等学校教授、1927年静岡高等学校教授となり、1946年同校長事務取扱を最後に退官し、静岡に静岡女子高等学院(のち学校法人常葉大学)を創立。1959年同理事長となり、1966年常葉女子短期大学を設立し、学長を務めた。日中関係史の研究で知られる。
前田 穰(まえだ みのる、1887年〈明治20年〉10月15… 前田 穰(まえだ みのる、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1955年〈昭和30年〉6月28日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県四日市出身。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。鉄道院(のち鉄道省)に入り神戸鉄道管理局書記に任官。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局課長、門司鉄道局課長、運輸局総務課長、大臣官房人事課長、大阪鉄道局長、仙台鉄道局長、鉄道省運輸局長などを歴任。1934年(昭和9年)8月、同省監督局長に就任し、1937年(昭和12年)7月まで在任して退官した。 その後、阪和電鉄監査役、南海電鉄常任監査役、都市計画三重地方委員、三重県労働調停委員、三重交通社長、ユネスコ三重協力会会長、三重県経営者協会会長、同県社会福祉協議会会長などを務めた。
小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)1… 小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)10月15日 - 1943年(昭和17年)3月3日)は、山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は後藤 鶴松(ごとう つるまつ)。最高位は小結。 1887年10月15日に山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)で生まれる。上京して二十山部屋へ入門後、1901年5月場所で初土俵を踏んだ。四股名は出身地に因んで「山泉」と名乗った。当初は苦戦して出世まで時間が掛かったが、両國國技館(初代)のこけら落としとなった1909年6月場所で新入幕を果たし、この場所で7勝2敗1預の好成績を収めると、1910年1月場所では梅ヶ谷藤太郎(2代)を破って金星を獲得するなど、上位に通用するまでに力を付けた。
小出 楢重(こいで ならしげ、1887年〈明治20年〉10月… 小出 楢重(こいで ならしげ、1887年〈明治20年〉10月13日 - 1931年〈昭和6年〉2月13日)は、日本の洋画家。大正から昭和初期に活躍した。 1887年(明治20年)、大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。1907年(明治40年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1919年東京藝術大学の西洋画家で、和田英作、藤島武二らに師事。(大正8年)、二科展出品作の『Nの家族』で樗牛賞を受ける。翌年は『少女お梅の像』が二科賞を受賞。
今村 荒男(いまむら あらお、1887年(明治20年)10月… 今村 荒男(いまむら あらお、1887年(明治20年)10月13日 - 1967年(昭和42年)6月13日)は、日本の内科医学者。学位は、医学博士。大阪大学名誉教授。大阪大学総長。日本学士院会員。文化功労者。 奈良県生駒郡安堵町出身。衆議院議員今村勤三の四男。今村幸男、今村奇男の弟。1912年、東京帝国大学医科大学卒業。東京帝国大学伝染病研究所に入る。1922年、医学博士の学位を取得。1925年、大阪府立医科大学教授に就任。1931年、大阪帝大教授。微生物病研究所長、奈良県立医学専門学校(奈良県立医科大学の前身)初代校長、大阪大学学長を歴任する。1951年、日本学士院会員。1960年、文化功労者。
斎藤 元宏(さいとう もとひろ、1887年10月10日 - … 斎藤 元宏(さいとう もとひろ、1887年10月10日 - 1916年5月25日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。 山形県飽海郡南平田村(現酒田市)に生まれ、英次郎(後に元宏と改名)といった。鶴岡の荘内中学校(現鶴岡南高等学校)を中途退学して陸軍幼年学校へ進み、明治42年に陸軍士官学校を卒業(第21期生、石原莞爾と同期)。 卒業後旭川歩兵第26連隊に配属され、朝鮮虎島守備隊に派遣されるが、連隊の推挙により陸軍大学校へ進学。在学中青柳勝敏(大尉)等との交友関係から、中国大陸における袁世凱打倒の第二革命運動に関心を持ち、粛親王善耆(清朝太宗の長子豪格に始まる世襲親王家の第10世)が川島浪速等と図って結成した宗社党運動に共鳴。
児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治… 児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治20年〉10月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月5日)は、白樺派の画家、美学・美術史の研究者。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究により知られている。東北帝国大学助教授を経て、東京帝国大学・東京大学教授。 1887年(明治20年)、東京府四谷区舟町(現在の東京都新宿区舟町)で児島益謙の五男として出生。学習院初等科在学中より里見弴と親しく、1903年、16歳の時に画家の三宅克己に入門。1908年、里見らの回覧雑誌『麦』に参加。第一高等学校在学時には、岩元禎の指導も受けた。 1909年、東京帝国大学文科大学文学科に入学。哲学科で美学を専攻した。
大島 定吉(おおしま さだきち、1887年10月8日 - 1… 大島 定吉(おおしま さだきち、1887年10月8日 - 1977年10月28日)は、日本の政治家。位階は正五位。 衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。栃木市長。 栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木市)出身。足利工業学校卒。家業の染色業に従事し、のち煙草小売業に転身する。県懐炉灰組合、栃木煙草協同組合各理事長を務める。栃木町議から栃木県議を経て、1945年7月栃木市長に就任する。翌1946年3月に退任。4月の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に民主党から立候補して当選した。1953年の第3回参議院議員通常選挙で自由党公認で立候補したが落選した。
大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5… 大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5日 - 1942年7月12日)は、現在の滋賀県草津市出身で八角部屋、雷部屋に所属した大相撲力士。本名は川合 文治郎。3代八角。最高位は西関脇。178センチメートル、103キログラム。 尋常小学校を卒業後、実家の飲食店を手伝っていたが、巡業でやってきた東京相撲の関係者の目にとまり勧誘される。入門をめぐっては先代大鳴門の八角と、元横綱初代西ノ海の井筒の間で争いが起こったが、結局八角に入門する。 1902年5月場所、「司天龍」の四股名で初土俵。1908年5月場所で十両に昇進すると、4勝1敗1分4休、5勝1敗2分1預1休と続けて2場所で入幕を果たす。
吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 19… 吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 1987年5月1日)は、日本の洋画家。吉田博の妻であり、夫婦ともに洋画家である。 洋画家である吉田嘉三郎と、その妻の吉田るい(英語版)の三女。小学生の頃に上京し、11歳で小山正太郎の画塾不同舎に入門。当時はまだ義兄であった吉田博とともに1903年にアメリカへ渡り、ともに展覧会を開いたことでアメリカ各地で高評価を得た。1907年に文展に入選している。帰国後は、文展や太平洋画会、日本初の女性による洋画団体「朱葉会」などで活躍し、朱葉会では名誉会長を務めた。戦後には油彩画や木版画なども描き、花を題材とした作品などを生み出した。2002年、府中市美術館で「吉田ふじを展」が開催され、翌年には福岡市美術館でも同じ展覧会名の展覧会が開かれた。
春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976… 春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976年2月11日)日本の帝国海軍提督。最終階級は海軍少将。 戦艦「陸奥」艦長。重巡洋艦「鳥海」艦長。第1潜水戦隊司令官。佐世保防備戦隊司令官。グアムの戦いにおけるグアム島攻略部隊指揮官及びマリアナ方面防衛部隊第5根拠地隊司令官。第5特別根拠地隊司令官。 長野県下高井郡穂波村佐野(現在、山ノ内町)出身。長野県会議員(第1回県議選~第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の息子として生まれる。穂波小学校から旧制長野中学(長野県長野高等学校)に進学して卒業。1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。
国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 19… 国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 1943年4月8日)は日本の小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説、戯曲なども執筆。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に、県庁・郡役所勤めの父の四男に生まれる。父の仕事の都合で小学校を点々とし、旧制長野中学に入学、剣道に熱中する。しかし蛮勇が元で放校処分を受け、海軍士官の兄により東京に引き取られ、郁文館中学校入学。 1908年中学卒業後、海軍兵学校を受験するが失敗し、早稲田大学英文科に入学。詩や演劇などの創作活動に熱中し、『文庫』『三田文学』『太陽』などに小説を寄稿、大学の先輩小川未明の主宰した青鳥会にも参加。
丸谷 喜市(まるや きいち、1887年(明治20年)10月3… 丸谷 喜市(まるや きいち、1887年(明治20年)10月3日 - 1974年(昭和49年)7月10日)は、日本の経済学者。神戸経済大学(現・神戸大学)初代学長、神戸大学名誉教授、甲陽学院中学校・高等学校第四代校長。 北海道函館区(現・函館市)出身。北海道庁立函館商業学校(現・北海道函館商業高等学校)では宮崎郁雨と同級であった。 同校卒業後、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進み、1910年に卒業。続いて東京高等商業学校(現・一橋大学)に進学する。東京高商在学中に石川啄木との交友が始まる。1912年に東京高等商業学校専攻部を卒業。同年4月13日に啄木が死去し、丸谷はその葬儀(4月15日)に参列後、徴兵検査のために帰郷、甲種合格となり、旭川の歩兵連隊で1年間軍務に就いた。
深田 千代子(ふかた ちよこ、1887年〈明治20年〉10月… 深田 千代子(ふかた ちよこ、1887年〈明治20年〉10月3日 - 1925年〈大正14年〉1月6日)は、日本の宗教家、円応教教祖。兵庫県氷上郡小川村字井原(現・丹波市山南町井原)出身。法名は「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」。 1887年(明治20年)10月3日、兵庫県氷上郡小川村字井原(現・丹波市)の茶屋店主深田難吉・カルの長女として生まれた。千代子は家計を助けるため子守り奉公などをして育ち、1907年(明治40年)に笹倉三治と結婚。翌1908年(明治41年)3月25日には長男の長治(1908年3月25日 - 1976年(昭和51年))4月3日)を儲けるも、同年、三治が旅先で金品を奪われ毒殺されるという不幸に見舞われ、1909年(明治42年)、長治を深田家に残し、村に巡業に来た旅役者の河合静雄と大阪市で再婚した。
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治2… 朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治20年〉10月2日 - 1981年〈昭和56年〉4月12日)、または朝香 鳩彦(あさか やすひこ)は、日本の旧皇族。旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子。明治39年3月、朝香宮家を創設。妃は明治天皇第8皇女允子内親王。兄に久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、弟に東久邇宮稔彦王。長男孚彦王、二男音羽正彦。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した。最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。「ゴルフの宮様」と呼ばれた。第125代天皇明仁の大叔父にあたる。陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた。 1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。
松村 蒼石(まつむら そうせき、1887年10月2日 - 1… 松村 蒼石(まつむら そうせき、1887年10月2日 - 1982年1月8日)は、滋賀県出身の俳人。本名は増次郎。滋賀県蒲生郡清水鼻(現東近江市)生。13歳で京都の織物問屋へ奉公に出る。17歳の頃より新聞の俳句欄に投句。1906年より東京の支店に勤務し作句を中断したが、関東大震災に被災した後再開。「鹿火屋」「枯野」に投句ののち、1925年に「雲母」に入会、飯田蛇笏、龍太に師事する。戦後は「玉虫」を発行。「雲母」にて1966年および1973年に山廬賞を受賞。1973年、句集『雪』その他の業績により第7回蛇笏賞を受賞。代表句に「たわたわと薄氷に乗る鴨の脚」など。句集に『寒鶯集』(1950年)、『露』(1960年)、『春霞』(1967年)、『雪』(1972年)、『雁』(1975年)がある。
田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月… 田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位、勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章。 子息には光祐(陸士46期)、俊資(48期)、祐輔(51期)、静雄(53期)がおり、いずれも陸軍少佐(終戦時)であった。また、第三次ソロモン海戦にて戦艦「比叡」艦長として戦った海軍大佐西田正雄(海兵44期)は義弟である。田中、西田両名とも陸大・海大の軍刀組であったことから、『郷土龍野の誉れ』と地元の新聞にその逸材ぶりを報道された。 1887年(明治20年)10月1日、田中菊太郎の次男として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。
大野 緑一郎(おおの ろくいちろう、明治20年(1887年)… 大野 緑一郎(おおの ろくいちろう、明治20年(1887年)10月1日 - 昭和60年(1985年)9月2日)は、日本の内務官僚、弁護士。第37代警視総監、朝鮮総督府政務総監など歴任。 第82代・第83代内閣総理大臣・橋本龍太郎の外祖父。衆議院議員・橋本岳の曾祖父。 明治20年(1887年)10月1日、現在の埼玉県さいたま市(旧浦和市)に農業・大野安之助の四男として生まれた。旧制一高を経て、明治45年(1912年)7月東京帝国大学法科大学(独法)卒業。内務省入省。 大正3年(1914年)7月、秋田県庶務課長。大正5年(1916年)11月、香川県勧業課長。 大正15年(1926年)9月、徳島県知事。
山口 安憲(やまぐち やすのり、1887年(明治20年)10… 山口 安憲(やまぐち やすのり、1887年(明治20年)10月 - 1962年(昭和37年)1月22日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 徳島県出身。山口源三郎の長男として生まれる。第三高等学校を首席で卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し香川県試補となる。 以後、香川県事務官、兵庫県事務官、朝鮮総督府兼関東庁事務官、東京市助役、復興局書記官、同局経理部購買課長、同局長官官房勤務、同局部長などを歴任。 1929年7月、鹿児島県知事に就任。1931年末に熊本県で陸軍大演習が実施され、それに伴い地方行幸の一環として昭和天皇が来鹿することとなったが、一カ月ほど前に腸チフスとなり、同年10月に急遽、窪田治輔と交代となり山形県知事に転じた。
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)… 岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)9月30日 - 1946年(昭和21年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。北支那方面軍司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 広島県広島市袋町(現中区袋町)に於いて、陸軍書記を務めていた岡部栄次郎の三男として生まれる。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)と進み、陸軍大学校(27期)卒業。陸士同期生には山下奉文、藤江恵輔、阿南惟幾、山脇正隆、安井藤治、小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年(大正7年)にハバロフスク特務機関(砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。
上原 吉之助(うえはら きちのすけ、1887年(明治20年)… 上原 吉之助(うえはら きちのすけ、1887年(明治20年)9月28日 - 1971年(昭和46年))は、昭和期の政治家。長野県須坂市長(初代)。幼名・菅太郎。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)生まれ。のち吉之助を襲名した。須坂町消防組頭、須坂町警防団長を務めた。1929年(昭和4年)須坂町会議員となり連続5期在任。 1947年(昭和22年)須坂町長に当選し、高井郡町村会長、長野県治山協会常任理事を務めた。昭和の大合併では上高井郡1町2村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)4月、市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)3月まで1期務めた。在任中は百々川の河川災害防止のための抜本的改修や、全市水道の敷設、新制中学校の建設などに尽力した。
城倉 義衛(しろくら よしえ、1887年(明治20年)9月2… 城倉 義衛(しろくら よしえ、1887年(明治20年)9月27日 - 1945年(昭和20年)9月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1887年(明治20年)に長野県で生まれた。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校第20期を優等で卒業し、12月25日に歩兵少尉任官。その後歩兵科から憲兵科に転科し、1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部法学科卒業。1934年(昭和9年)に陸軍憲兵大佐に進級、憲兵司令部警務部長に就任し、二・二六事件の処理に当たった。1936年(昭和11年)に京城憲兵隊長、1937年(昭和12年)に関東憲兵隊総務部長を歴任。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、7月に関東憲兵隊司令官に就任。
入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 194… 入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 1948年6月9日)は、日本画家。 本名幾治郎。京都市上京区に生まれる。1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校研究科で竹内栖鳳らに師事し修了。1915年(大正4年)同窓生であった岡本神草、甲斐荘楠音や玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加。1918年(大正7年)母校絵画専門学校の助教授に就任し古画の模写にあたる。この年国画創作協会展に『降魔』を出品して国画賞を受賞、翌年同人に推された。1922年に京都府の命で菊池契月らとともに外遊。1928年(昭和3年)国画創作協会日本画部解散後は画壇を離れ、後進の育成と再び模写に打ち込んだ。
服部 亮英(はっとり りょうえい、1887年9月26日 - … 服部 亮英(はっとり りょうえい、1887年9月26日 - 1955年9月28日)は、日本の洋画家、漫画家である。本来は洋画家であるものの、岡本一平らと東京漫画会で活躍した漫画家として、または、似顔絵画家としてむしろ知られている。三重県の真宗高田派慈教寺の長男として生まれるが、東京美術学校を卒業したのちには東京都大田区の馬込に住み、今でいう馬込文士村在住の芸術家とも交流があった。 仏教学者の服部正明は息子。
天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25… 天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25日 - 1921年(大正10年)10月10日)は、日本の社会事業家、教育者。処女会創設者。 1887年(明治20年)、静岡県庵原郡庵原村(現・静岡市)に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。庵原小学校の代用教員を務める。宮内省に出仕していた漢詩人国府種徳(犀東)に才能を認められて内務省嘱託となり、同省の地方局に勤務。青年団や処女会の指導に当たり、1918年(大正7年)、処女会中央部を結成して雑誌「処女の友」や「青年団及び処女会」「大正新処女読本」などを発行・編集。 また、映画「都に憧れて」(監督:金森萬象)を製作し好評を博すなど、処女会の普及・発展に大きく貢献した。
永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17… 永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17年(1942年)7月24日)は、日本の政治家、実業家。元鳥取県議会議員。元中浜村会議員。 弓浜組合製糸組合長、西伯郡米子市連合養蚕組合組合長、伯西社組合長、鳥取県養蚕組合長などを勤め、全国屈指の養蚕王国といわれた県下の大御所的存在として、大日本蚕糸会副総裁でもあった。元鳥取県境港市長安田貞栄・元今井書店社長永井準の父、鳥取県議会議員安田優子の祖父。 旧麦垣集落(現在の鳥取県境港市麦垣町)の大農家に生まれる。綿に代わって蚕が主要作物になっていく頃であった。 昭和2年(1927年)鳥取県議会議員となり4期連続当選、昭和9年(1934年)副議長となる。
佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 19… 佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 1935年4月16日)は、日本の牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である。 1887年(明治20年)福島県会津若松市に生まれる。1907年(明治40年)に第一高等学校に入学する。 同年キリスト教に入信して、組合教会の指導者の海老名弾正から本郷教会で洗礼を受ける。1910年(明治43年)に東京帝国大学に入学するが、同年京都帝国大学に転校する。1913年(大正2年)、京都帝大卒業後、東京帝大大学院でルターの研究を始めた。大学院時代は、日本基督教会の神学校の東京神学社でも学び、富士見町教会で牧会する植村正久に師事した。
浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9… 浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1965年(昭和40年)3月8日)は、大正から昭和時代の政治家・実業家。千葉県東葛飾郡市川町長、初代市川市長。北総鉄道支配人。 浮谷権兵衛の弟として千葉県に生まれる。浮谷家は葛飾郡市川新田で農業を営み、当主は代々権兵衛を名乗っていた。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、東北帝国大学農科大学予科を経て、1913年(大正2年)7月に同大畜産科を卒業する。卒業後、志願兵として1年従軍し、1917年(大正6年)陸軍騎兵少尉に進んだ。 ついで、北海道技手、東北帝国大学農科大学予科講師、宮城県農業技師、京成電軌重役秘書、会計・工務課長、北総鉄道支配人、成田鉄道会社取締役建設部長などを歴任。
中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)… 中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1946年(昭和21年)12月31日)は、日本の俳人。本名・直三(なおぞう)。俳号は他に一碧(いっぺき)。 岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生まれる。 1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。 帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23… 下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 本籍地は高知県。旧土佐藩士で、陸軍中佐・金沢聯隊区司令官の下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月7日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。有栖川宮家の嗣子であったが、継承することなく薨去した。 有栖川宮威仁親王の第一王子(第2子)で、 母は加賀金沢藩主前田慶寧の四女・慰子。徳川實枝子(徳川慶久公爵夫人)は実妹で、その次女高松宮妃喜久子は姪。 1887年(明治20年)9月22日午後11時30分、有栖川宮威仁親王と同妃慰子の第1男子として誕生し、同月28日の御七夜で「栽仁」と命名される。 1901年(明治34年)6月、威仁親王とともに参内した栽仁王に、明治天皇は父宮と同じく帝国海軍士官を志すよう命じた。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月3日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。
稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月2… 稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月20日 - 1973年(昭和48年)3月8日)は、日本の内務官僚、教育者。官選秋田県知事。 熊本県下益城郡海東村南海東小園に、海東村長・稗方惟一の長男として生まれる。熊本県立中学済々黌、第五高等学校を経て、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し熊本県属となる。以後、大正4年(1915年)に山口県警視、大正6年(1917年)に山口県佐波郡長、大正7年(1918年)に宮城県理事官、大正10年(1921年)に福岡県理事官から内務省に異動し国勢院書記官となり、大正13年(1924年)11月に山梨県書記官・内務部長となり、その後、神奈川書記官・内務部長などを歴任。
早坂 力(はやさか ちから、1887年〈明治20年〉9月20… 早坂 力(はやさか ちから、1887年〈明治20年〉9月20日 - 1963年〈昭和38年〉5月20日)は、昭和期の実業家。岩手県出身。東京高等工業学校(現・東京工業大学)卒。 『工作機械と文明―早坂力全集』による。
野口 喜一郎(のぐち きいちろう、1887年〈明治20年〉9… 野口 喜一郎(のぐち きいちろう、1887年〈明治20年〉9月18日 - 1972年〈昭和47年〉2月11日)は、日本の実業家。2015年(平成27年)まで北海道小樽市に存在した酒造会社・北の誉酒造の2代目社長であり、同社創業者である野口吉次郎の次男。北海道小樽市出身。 小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)卒業後、間もなく旭川市の第7師団に入隊した。除隊後の1908年(明治41年)、父の経営する野口吉次郎商店(後の北の誉酒造)を継ぎ、社長として酒造部門を拡張させた。 1924年(大正13年)、アルコール4社合併の合同酒精に相談役で迎えられ、1929年(昭和4年)から1958年(昭和33年)まで同社社長、1964年(昭和39年)まで会長を務めた。
唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9… 唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9月18日 - 1973年〈昭和48年〉7月30日)は、日本の神職、華族(子爵)。正四位。殿掌、掌典。 1887年、貴族院子爵議員・唐橋在正の次男として生まれる。 明治大学政経科卒業。1931年、父・在正の隠居に伴い子爵を襲爵し、華族制度廃止まで爵位を保有した。 また、神職を務め、霊山神社の宮司に就任した[要出典]。 出典が無い限り、霞会館 1996a, pp. 455–456を参照した。
嶺田 丘造(みねた きゅうぞう、1887年(明治20年)9月… 嶺田 丘造(みねた きゅうぞう、1887年(明治20年)9月17日 - 没年不詳)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 愛知県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。税務監督局属、大蔵属、税務監督局事務官、大蔵事務官、税務監督官、税関事務官、神戸税関監視部長、長崎税関長、熊本税務監督局長、名古屋税務監督局長などを歴任。1936年(昭和11年)、台湾総督府財務局長に転じた。 1939年(昭和14年)に退官した後は、日本米穀株式会社理事を務めた。
本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(また… 本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(または1888年-1893年頃4月8日の可能性あり) - 2003年10月31日)は、かつて世界最高齢の人物としてギネス世界記録に認定されていた鹿児島県徳之島在住の日本人女性。戸籍上は1887年9月16日生まれで死去時には116歳であったが、年齢に異論が唱えられ2012年に世界記録の認定を取り消された。通称「かまとバア」。 鹿児島県大島郡徳之島面縄方(現在の伊仙町、徳之島の南部)出身。戸籍上は9月16日生まれだが、ひ孫によると実際の誕生日は4月8日であるという。1908年(明治41年)、本郷福佑と結婚。7児の母となる。その後曾孫、さらには玄孫(やしゃご)にも恵まれた。
増井 清(ますい きよし、1887年〈明治20年〉9月14日… 増井 清(ますい きよし、1887年〈明治20年〉9月14日 - 1981年〈昭和56年〉8月6日)は、日本の獣医学者、畜産学者。世界で初めてひよこの雄雌の鑑別法を発見した。獣医学博士。東京大学名誉教授。名古屋大学名誉教授。位階は従三位。 静岡県立静岡中学校卒業。第二高等学校 (旧制)を経て、1915年、東京帝国大学農科大学獣医医学科を卒業。1921年、獣医学博士、1922年、助教授(解剖学)。1924年に『雄鶏ニ於ケル退化交尾器官並ニ初生雛ノ雌雄鑑別ニツイテ』(農林省畜産試験場橋本重郎、大野勇両技官と共著)発表。1927年ドイツに留学、カイザー・ウィルヘルム生物学研究所(現、マックス・プランク研究所)においてリチャード・ゴールドシュミットのもとで「性の決定」に関する研究を行った。
長沼 権一(ながぬま ごんいち、1887年(明治20年)9月… 長沼 権一(ながぬま ごんいち、1887年(明治20年)9月12日 - 1952年(昭和27年)4月26日)は、大正から昭和時代の政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡道上村長、陸軍軍人。 新潟県西蒲原郡河間村(道上村、中之口村を経て現新潟市西蒲区河間)出身。長沼喜八の長男として生まれ、1940年(昭和15年)家督を相続する。1904年(明治37年)県立新潟中学校卒業。陸軍に入り、歩兵少尉に進む。 在郷軍人会西蒲原郡連合分会副長、同分会長、軍人後援会新潟支部理事、道上村長、新潟県翼賛壮年団副団長、大政翼賛会新潟県支部常務委員、道上村収入役、金銭債務、小作、人事、戦時特別各調停委員を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では新潟県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月… 堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月12日 - 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、熊本県熊本市出身の日本画家。本名は堅山 熊次。 横山大観に認められ、院展、日展などで活躍した。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた。1914年(大正3年)の日本芸術院再興にも加わり、同芸術院常務理事、日展参事などを務めた。ほか、熊本市名誉市民、文化功労者、文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけての日本画界を支える中核だった。代表作に「白雨」。 1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。
半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月… 半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月10日 - 1945年(昭和20年)5月19日)は、日本の歌人。 栃木県上都賀郡北犬飼村深津(鹿沼市深津)出身。北犬飼東尋常小学校(現・鹿沼市立津田小学校)、姿川尋常高等小学校(現・宇都宮市立姿川中央小学校)卒。宇都宮中学在学中に下級生の千葉省三と親交を結ぶ。短歌欄の投稿を通じて松村英一、植松寿樹らと知り合い、窪田空穂を中心に結成された十月会に参加。旧制第二高等学校を経て東京帝国大学英文科を卒業。同大学院に進学するも、現役補充兵として召集されたため、退学。その後、空穂主宰の短歌結社である「国民文学」の中心的人物となり、中学の英語教師のかたわら短歌・評論などを多く書いた。
杉本 良(すぎもと りょう、1887年(明治20年)9月10… 杉本 良(すぎもと りょう、1887年(明治20年)9月10日 - 1988年(昭和63年))は、朝鮮総督府官僚。台湾総督府官僚。静岡県金谷町長。 静岡県小笠郡日坂村(現在の掛川市)出身。1912年(大正元年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。朝鮮総督府試補、同事務官、台湾総督府専売局事務官、同参事、煙草課長、酒課長などを歴任し、1929年(昭和4年)に文教局長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、金谷町長、静岡市助役、拓殖協会事業部長、大政翼賛会静岡県支部事務局長などを務めた。 掛川信用金庫の理事長などを勤めた杉本周造(1921年(大正10年)-2015年(平成27年))は長男。
戸田 保忠(とだ やすただ、1887年(明治20年)9月10… 戸田 保忠(とだ やすただ、1887年(明治20年)9月10日 – 1938年(昭和13年)12月18日)は、農商務官僚、農林官僚。 茨城県出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。島根県属試補、島根県理事官、農務局事務官・臨時米穀管理局事務官、農商務書記官・参事官、同副業課長、農務課長、大臣官房会計課長、畜産局長、水産局長、農務局長を歴任した。1937年(昭和12年)、農林次官に就任した。 退官後は日本勧業銀行参与理事、漁業組合連合会会長を務めた。