姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月… 姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月17日 - 1941年(昭和16年)10月10日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。日本統治下の台湾で活動した。 1885年(明治18年)、宮城県栗原郡長岡村大野(現在の大崎市古川、旧・古川市)に、姉歯五郎左衛門の五男として生まれた。 中学生のとき、学費が払えず中学校を中退し、のちに上京し、弁護士飯田宏作の事務所で写字生として活動した。 1906年(明治39年)6月、中央大学専門科卒業後、1907年、1908年、1909年、1910年の4回にわたって判事検事登用試験を受験したものの 、いずれも失敗し、1911年(明治44年)にようやく合格を果たした。
もっと読む
2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5… 2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5月16日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、小樽市長。旧名・真吉。 北海道出身。実業家、初代・宮吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)早稲田大学商科を卒業。 1912年、板谷商船取締役に就任。1924年(大正13年)先代の死去により家督を相続して2代・宮吉を襲名し、板谷商船社長、樺太銀行頭取に就任。その他、板谷生命保険社長、 (株) 十合呉服店会長、北海貯蓄銀行頭取、尾張時計監査役、黒姫汽船 (資) 代表社員、肥料調査委員会委員、北海道拓殖計画調査会委員などを務めた。 1926年(大正15年)北海道多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年6月25日に就任し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
もっと読む
安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(… 安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(1885年)5月16日 - 昭和34年(1959年)5月6日)は、大正から昭和初期にかけての彫刻家。本名は和吉(わきち)。主に象牙彫刻(牙彫)の分野で活動し、萬蔵、萬造、萬象の号を使用した。 明治18年(1885年)、浅草で父・小澤卯之助と母・せんの次男として生まれる。父の死後、3歳で安藤家に養子に入った。 高等小学校卒業後に象牙彫刻を習って独立した。師匠は大谷光利とされ、東京彫工会に所属。明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現・台東区西部)に住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災で自宅を焼失したことを機に雑司が谷に転居し、昭和14年(1939年)には板橋区向原に転居した。
もっと読む
野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月1… 野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月15日 - 1973年〈昭和48年〉12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣にて6日間だけ海軍大臣を務めた。これは戦前の閣僚在任期間の最短記録であった。旧名:仁蔵。 鹿児島県日置郡吉利村(現在の日置市日吉町吉利)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校より海軍兵学校第35期入校。入校成績順位は183名中第125位、卒業成績順位は171名中第43位。 1920年(大正9年)海軍大学校(第18期)を次席で卒業。卒業後は第1潜水隊参謀を務め、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで大使館付武官としてドイツに駐在し、潜水艦の研究に没頭する。
もっと読む
岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月… 岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月13日 - 1943年(昭和18年)6月4日)は、日本の陸軍法務官。最終階級は陸軍法務中将。軍法の権威として知られた。 1885年(明治18年)5月、高知県幡多郡平田村(現在の宿毛市)に生まれた。海南中学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。 第2師団法官部理事、陸軍法務官近衛師団軍法会議法務官、兼憲兵練習所教官、兼法務部司法事務官、関東軍軍法会議法務官、陸軍法務官、兼陸軍司法事務官、兼陸軍監獄長、朝鮮軍軍法会議法務官、朝鮮軍法務部部長、兼第24師団法務部長、朝鮮衛戍刑務所所長などを歴任。 1942年(昭和17年)4月、陸軍法務少将に昇進し、南方軍法務部長に就任。
もっと読む
長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13… 長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13日 - 1949年(昭和24年)5月5日)は、詩人、小説家、劇作家。 東京出身。獨協中学校卒業後、明治大学にて学ぶ。『明星』の詩人として北原白秋、木下杢太郎らとともに活躍。パンの会、『スバル』にも参加。最初の戯曲「歓楽の鬼」が自由劇場で上演され、以後劇作家として活躍、新劇運動に加わった。1920年(大正9年)には大作「大仏開眼」を発表、以後多くの歌舞伎劇の史劇を書く。1939年築地小劇場が会社組織となるに際して代表取締役。新協劇団(第一次)の代表者にも就任。1936年(昭和11年)には、井上正夫が立ち上げた井上演劇道場にも参加した。 1940年(昭和15年)8月20日、警視庁特高第一課は長田を呼び出し、社会主義思想を基調とした新協劇団を自発的に解散するように強要した。
もっと読む
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路… 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。名誉三鷹市民。贈従三位(没時叙位)。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。
もっと読む
畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 … 畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 - 1936年(昭和11年)12月19日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部)。 長野県東筑摩郡松本町(現在の松本市)出身。東京帝国大学法科大学政治科選科修了。1913年(大正2年)に中華民国を漫遊した。衆議院議員尾崎行雄の秘書となり、第2次大隈内閣で尾崎が司法大臣に就任すると司法大臣秘書官となり、大礼使典儀官を務めた。1922年(大正11年)から翌年まで欧米諸国を訪問し、政治・経済情勢を視察した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
もっと読む
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ… 野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 フンドーキン醤油の創業家に生まれた。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。漱石と直接会うことは少なかったが主に書簡を通じて指導を受け、1907年、漱石の推薦によって『ホトトギス』に『縁』を発表し、作家デビューを果たした。
もっと読む
石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 … 石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 - 1959年(昭和34年)1月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事、警視総監。 山口県都濃郡徳山村(徳山町、徳山市を経て現周南市)出身。石田清次の長男として生まれる。徳山中学、第五高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年12月、内務省に入り新潟県属となる。その後、新潟県理事官、福岡県視学官、東京府学務課長、青森県警察部長、内務省地方局府県課長、栃木県書記官・警察部長、岡山県書記官・内務部長、警視庁官房主事、警視庁保安部長、京都府内務部長などを歴任。 1929年(昭和4年)7月、宮崎県知事に就任。
もっと読む
田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1… 田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1日/9日 - 1955年〈昭和30年〉12月15日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍軍医学校校長を務めた。医学博士。埼玉県坂戸市出身。 1885年(明治18年)5月1日、埼玉県入間郡大家村(現在の坂戸市)に生れる。旧制川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業後、1909年(明治42年)に千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)を卒業し、1910年(明治43年)海軍軍医学校を卒業する。その後、海軍軍医となり、1923年(大正12年)アメリカのシカゴ大学へ留学。帰国後、1926年(大正15年)東京帝国大学より医学博士号を授与される。
もっと読む
上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1… 上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1日 - 1946年〈昭和21年〉4月9日)は、日本の政治家。尼崎市長(官選第2代)。 兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年(明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党)。 明治大学(旧制大学)法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併)記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て、1922年(大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長だった。1928年(昭和3年)1月22日まで務めた。 任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。
もっと読む
神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月… 神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月 - 1969年〈昭和44年〉2月27日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、実業家。官選鳥取県知事。 山口県出身。神田柳助の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入府し内務部試補となる。 以後、朝鮮総督府事務官、同書記官、長崎県理事官、陸軍省航空局書記官、関東庁内務局長、大連民政署長などを歴任。 1930年8月26日、鳥取県知事に就任。県財政の健全化のため緊縮政策を推進した。1931年12月18日、知事を休職。1932年1月29日、依願免本官となり退官した。
もっと読む
杉野 繁(すぎの しげる、1885年(明治18年)5月 - … 杉野 繁(すぎの しげる、1885年(明治18年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。鹿児島県属、同警視、同理事官、岡山県理事官、同視学官を経て、1919年(大正8年)に福井県警察部長・港務部長、1921年(大正10年)に三重県警察部長、1923年(大正12年)に群馬県内務部長、1924年(大正13年)に栃木県内務部長を務めた。 退官後は、神戸市助役、同電気局長を務めた。1942年(昭和17年)からは関西配電株式会社理事・神戸支店長に就任した。
もっと読む
近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月… 近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月30日 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の俳人、弁護士。鳥取県弁護士会副会長。 鳥取県気高郡美穂村大字下味野(現・鳥取市)出身。近藤寛次郎の長男。近藤家は分家筋で、美穂村にて代々農業を営む。1904年に鳥取一中を卒業。1908年に第一高等学校を卒業。 1912年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。東京有楽町で弁護士開業。父親がやっていた朝鮮忠清北道の農場経営を手伝うため朝鮮にわたり、傍ら京城で法律事務所を開く。 忠清北道官選道評議員に選ばれる。1929年に郷里の鳥取に帰り、西町で弁護士事務所を開設する。 「鳥取県下法曹界の第一人者」と評される。
もっと読む
儀峨 徹二(ぎが てつじ、1885年(明治18年)4月29日… 儀峨 徹二(ぎが てつじ、1885年(明治18年)4月29日 - 1965年(昭和40年)1月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。儀峨秀霊の二男として生まれる。小浜中学卒業を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。歩兵第67連隊付などを経て、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。 1915年(大正4年)8月、参謀本部付勤務となり、1917年(大正6年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校専修科(英語)を修了。その後、参謀本部付、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、陸軍航空部員を歴任。
もっと読む
瀬戸山 兼斌(せとやま けんびん、1885年(明治18年)4… 瀬戸山 兼斌(せとやま けんびん、1885年(明治18年)4月29日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。旧姓は加藤。 加藤里志の三男として鹿児島県大島郡東方村(現・瀬戸内町古仁屋)に生まれ、瀬戸山瀬助の養子となる。1904年(明治37年)大島郡古仁屋村外12箇村立戸長役場に奉職し、学務係および衛生係主任を務めたのち、1905年(明治38年)渡台し、澎湖庁雇として通信事務員となり、1910年(明治43年)2月、府通信手に進んだ。 ついで基隆郵便局勤務に転じ、府属秘書課勤務、台北州勤務、台北州海山郡守、高雄州旗山郡守、新竹州中壢郡守を歴任し、1932年(昭和7年)3月、退官する。
もっと読む
菊池 寛実(きくち ひろみ、通称:かんじつ、1885年〈明治… 菊池 寛実(きくち ひろみ、通称:かんじつ、1885年〈明治18年〉4月28日 - 1967年〈昭和42年〉3月12日)は日本の実業家であり投資家。戦前は辰ノ口炭鉱、三友炭鉱、高萩炭鉱などを創業し、戦後は帝国石油などに関係した。 栃木県那須郡健武村(現・那珂川町)出身。東京法学院中退後、田中正造の書生をしながら岩崎清七や竹内明太郎の知遇を得る。明治42年(1909年)に鬼怒川での水力発電事業に加わるが程なく浅野総一郎によって買収され、その売却益を元に常磐炭田の辰ノ口炭鉱・三友炭鉱を買収。第一次世界大戦の好景気もあって水郷汽船の経営にも進出したが、世界恐慌の影響をもろに受けて昭和8年(1933年) に破産。
もっと読む
飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26… 飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日)は、山梨県出身の日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人であり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。句集に『山廬集』(1932年)、『椿花集』(1966年)、ほかに随筆集なども多数。 山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。飯田家は名字帯刀を許された旧家で、大地主である。
もっと読む
成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 19… 成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都帝国大学名誉教授。本名は清。 東京根岸生まれ。東京帝国大学独文科卒。1908年京都帝国大学講師、1919年助教授、1930年教授、1931年日本ゲーテ協会を創立。1945年4月定年退官、名誉教授。 ドイツ文学の研究、翻訳のほか、劇作、評論、随筆などで活躍した。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人物とも言われる。 息子はドイツ史学者の成瀬治。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
もっと読む
岡田 素臣(おかだ そしん、1885年4月26日 - 193… 岡田 素臣(おかだ そしん、1885年4月26日 - 1934年3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。1910年、東京慈恵医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)卒。東京慈恵病院、東京病院、佐世保海軍共済会病院に勤務する。のち陸軍三等軍医となる。大垣市議、同副議長、岐阜県議、同副議長、同参事会員を歴任し、また大垣市医師会幹事、西濃鉄道、大垣土地各(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1934年死去。
もっと読む
高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 … 高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 - 1934年4月3日)は、日本基督教会の神学者、牧師。植村正久の後継者。 京都府何鹿郡綾部町字南西町101番地に生まれる。父は高倉平兵衛、母はさよ。平兵衛の養蚕の仕事による不在と、夫のキリスト教信仰のために、母さよは夫と子供を棄てた。そのとき徳太郎は5歳だった。 1903年9月金沢の四高(現金沢大学)に入学し、西田幾多郎の三々塾に入り、1906年6月卒業。「最も愛すべきものは自己なり」と書いた。 綾部の日本組合基督教会牧師の次女内田光恵に恋愛感情を持ち、結婚を考えるようになる。この少女は綾部一の麗貌だった。やがて婚約式を挙げたが、裕福な商家の長男で秀才の誉れ高く、外交官、政治家としての将来を嘱望されていた高倉が、立身出世の望みを捨てて牧師になろうとしたとき、貧乏牧師の妻にはさせないという光恵の母から婚約を破棄された。
もっと読む
西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 196… 西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 1960年9月21日)は日本の銀行家、外交官。満州中央銀行総裁、終戦連絡中央事務局次長等を務めた後、戦後 GHQにより公職追放を受ける。追放解除後は初代駐インド大使を務めた。高知県出身。
もっと読む
本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月1… 本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月18日 - 1948年(昭和23年)10月4日)は、衆議院議員(立憲民政党→日本自由党)、弁護士。 長崎市出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。司法官試補を経て、鹿児島地方裁判所や長崎地方裁判所で判事を務めた。退官後は弁護士事務所を開業し、長崎市会議員を3期、長崎県会議員を2期務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、第1次吉田内閣で外務政務次官に就任した。
もっと読む
富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月… 富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年(昭和54年)2月22日)は、日本の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。愛知県出身。 愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)生まれ。豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。卒業後は逓信省に入り、のち逓信次官。1912年に平塚の杏雲堂で療養。 俳句をはじめたのは遅く、1918年、34歳のとき福岡貯金支局に支局長として赴任した時期に吉岡禅寺洞の手引きを受けたことに始まる。翌年に福岡に来た高浜虚子に接し、「ホトトギス」に投句。同年に本省に転勤。
もっと読む
岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(… 岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(明治18年)4月15日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、明治期から昭和期の小説家、雑誌記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に、備後銀行頭取などを務めた地元の有力者であった岡田胖十郎の長女として生まれる。第一高等学校・明治大学で教鞭を取り、草創期の駿台高等豫備學校講師だった岡田實麿は兄。妹萬寿代は、北海道帝国大学教授や庄原市長を務めた八谷正義に嫁いだ。クリスチャンの家であった。 1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学。佐々城信子が同時期に通っており、面識があった。
もっと読む
池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月1… 池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月12日 - 1935年(昭和10年)9月21日)は、大正・昭和期の日本海軍の軍人。連合艦隊主計長、海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部長などを歴任した。最終階級は海軍主計少将。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部に所属した。東京帝国大学法科大学卒業。 1911年7月、中主計任官、経理学校乙種学生。1912年3月、浪速乗員、7月、横須賀水雷団付、10月、第2駆逐隊付、12月、横須賀水雷団付。1913年4月、第1駆逐隊付、8月、主計長心得。12月、大主計、嵯峨主計長。1915年2月、佐世保経理部第1兼第2課員。1917年2月、第2特務艦隊司令部付。
もっと読む
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
もっと読む
井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10… 井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10日 - 1971年〈昭和46年〉7月26日)は、日本の最高裁判所判事。千葉県出身。 井上義行の息子として生まれる。1913年(大正2年)3月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1917年(大正6年)に判事となる。1926年(大正15年)、東京地方裁判所部長時代に、ジュネーブで開催された第八回国際労働会議に政府代表顧問として参加。1927年(昭和2年)12月に東京控訴院判事、1933年(昭和8年)に大審院判事、1937年(昭和12年)に司法省の初代調査部長となる。1939年(昭和14年)から再び大審院判事を務め、在官中は慶応、明治、専修大学で民事法を講義した。
もっと読む
戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 196… 戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 1961年11月20日)は、日本の衛生学者、京都大学名誉教授、金沢大学初代学長、医学博士。実用的な衛生学の樹立をめざし研究した人物として知られ、食生活、服装、住宅、上下水道などを日本の風土に適した形で普及させることを目指した。戸田式開襟シャツの発明者としても知られる。 兵庫県朝来郡中川村生まれ。旧制兵庫県立豊岡中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1910年に京都帝国大学医科大学を卒業。1912年から4年間欧米各国(独英仏米)に留学。1916年、京都帝国大学教授(衛生学担当)に就任。1923年、雑誌『国民衛生』を創刊。関東大震災後の1925年、東京市保健局長を兼務して復興に尽力。
もっと読む
渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治… 渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治18年)4月8日 - 1933年(昭和8年)4月26日)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 会計検査院長・渡邊昇の長男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)慶應義塾大学部法律科を卒業。1921年(大正10年)大日本武徳会商議員に就任した。 1924年(大正13年)3月8日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで3期在任した。 1933年(昭和8年)に七郎が没した後は、長男の武宣が襲爵。さらに1938年(昭和13年)に武宣が没すると、弟の武治が襲爵した。
もっと読む
谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月… 谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月7日 - 1957年(昭和32年)8月13日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務技監。 広島県佐伯郡五日市村(現広島市佐伯区五日市町)に生まれた。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、北海道庁に入り、小樽、留萌の築港工事を担当する。1915年(大正4年)内務省に転じ、1918年(大正7年)大阪土木出張所勤務を発令され、10余年に渡り淀川改修工事に従事した。1934年(昭和9年)土木局第一技術課長、1936年(昭和11年)東京土木出張所長を経て、1939年(昭和14年)に内務技監となり、1942年(昭和17年)に退官した。
もっと読む
藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日… 藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日 - 1974年(昭和49年)3月17日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(3期)。 長崎県南高来郡神代村(国見町を経て現雲仙市)で藤野小三の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。 長崎県農林主事、同県産業組合連合会長、同県生活物資配給統制組合連合会長、同県農業会長、同県指導農業協同組合連合会長、全国農業会監事、家の光協会理事、全国指導農業協同組合連合会理事・監事、全国土地改良協会理事・監事、全国農業協同組合監事協議会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から無所属で出馬して当選。
もっと読む
ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚… ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚正治(本名:遠藤章二)、1885年4月6日 - 1933年6月21日)は、日本で生まれアメリカで活躍した実業家。大判カメラ写真家、山岳写真家。グレートスモーキー山脈の国立公園指定に尽力したことで知られる。東京都出身。 東京の地主、高橋家の次男として生まれる。母は出産後、死去。幼少期に静岡市の弁護士遠藤靖の養子となった。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。静岡中学在学中は、明治35年に校内で作られた親睦グループ両道倶楽部で活動した。倶楽部内で野球の腕を上げると野球部に入部するなど、両道倶楽部は静中野球部の選手育成の苗圃の役割も果たしていた。
もっと読む
小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18… 小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18年)4月5日 - 1967年(昭和42年)12月13日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。商工大臣(第26代)、農林大臣(第15代)、通商産業大臣(第7代)、大蔵大臣(第57代)、衆議院議員(6期)。西尾市名誉市民。 経済人としては華南銀行専務、日本貿易振興会、財団法人東京連合防火協会、南方農林協会各会長、極洋捕鯨(現・極洋)社長・取締役・相談役・監査役、太平洋海運社長・会長・相談役などを務めた。 愛知県幡豆郡、のちの室場村(現西尾市)に、父小笠原長左衛門と母せいの間に誕生。三男三女の末子であった。室場尋常小学校、西尾高等小学校に入学。
もっと読む
大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 19… 大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。 1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。 刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。
もっと読む
原田 淑人(はらだ よしと、1885年4月5日 - 1974… 原田 淑人(はらだ よしと、1885年4月5日 - 1974年12月23日)は、日本の考古学者。東大教授。浜田耕作・島村孝三郎とともに東亜考古学会を設立。「日本近代東洋考古学の父」と呼ばれる。 東京神田に生まれる。白鳥庫吉の下で東洋史を学び、1908年(明治41年)に東京帝国大学文科大学史学科を卒業した。原田の学生時代には考古学を講じる講師は文科大学にはおらず、原田の卒業論文は「明代の蒙古」という文献学的研究であった。大学院進学後は、中国の風俗史や服飾史に方向を転じる。目の疾病により、文献研究に困難を生じたからという。豊富な漢籍の知識を考古遺物および遺跡の分析研究に生かした原田独特の考古学はここから始まった。
もっと読む
宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5… 宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5日 - 1962年(昭和37年)3月29日)は、日本の歌人。本名は大四郎(だいしろう)。 石川啄木夫人・石川節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発足させるなどの実績がある。 新潟県北蒲原郡荒川村で宮崎竹四郎の長男として生れる。郁雨の祖父が没して竹四郎が継いだ頃には、借金を抱えて没落していた。 郁雨が2歳の頃に竹四郎は家と田畑を債権者に譲って松前に渡り、母と共に母の実家に預けられる。1889年(明治22年)春[要出典]、父とともに宮崎一家は函館に移住した。竹四郎は「浜かせぎ」や日雇いなどでしのぐ苦しい生活が続いたが、醸造業で成功、「金久(かねきゅう)」を屋号とする味噌製造所の経営者となった。
もっと読む
本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4… 本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4日 - 1945年(昭和20年)10月14日)は、日本の作曲家。数々の童謡で知られる。晩年は長豫と称した。 1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町(現:東京都台東区)に生まれる。血の繋がりは無いが、国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。 母は並子、父は本居家の婿養子である国学者の雨宮干信(ゆきのぶ)。生後1年で母と死別。並子の死後、婿養子であった父は本居家に馴染めず、やむなく家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1902年(明治35年)東京音楽学校予科に入学。
もっと読む
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
もっと読む
藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4… 藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4月2日 - 1957年〈昭和32年〉1月5日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、浜松市長。 石川県出身。藤岡明郷の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県事務官、山口県事務官、同理事官、静岡県理事官、鳥取県警察部長、群馬県警察部長、宮城県警察部長、広島県警察部長、内務事務官兼内務書記官などを歴任。 大正12年(1923年)9月、高知県知事に就任。在任中の同年12月5日、高知城公園内の板垣退助銅像が建立され、退助令孫・板垣守正の手により除幕されている。
もっと読む
玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 … 玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 - 1924年11月20日)は、現在の東京都あきる野市(当時は神奈川県)出身で佐渡ヶ嶽部屋、伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は加藤 脇太郎。9代佐渡ヶ嶽。164cm、79kg。最高位は西前頭17枚目。 1903年1月初土俵、1911年6月十両昇進。またこの時から二枚鑑札。1915年6月に入幕したが、在位2場所に終わり、その後は十両に低迷して最後は幕下に陥落し、1918年5月引退した。年寄専任となったが、若くして亡くなった。小兵であり、もぐらなければ相撲にならなかった。
もっと読む
城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年… 城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の政治家。第5代八王子市長。東京府会議員、八王子市議(2期)。 1885年(明治18年)4月1日 - 神奈川県西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)の旧家である馬場家の次男として生まれる。幼くして両親が死去、祖父母に引き取られる。五日市勧能学校を卒業後1906年(明治39年)の時に八王子の商家城戸家の養子となる。 1917年(大正6年)11月3日八王子町会議員であった養父荘治郎の跡を継ぎ八王子市会議員選挙に立候補当選。京王電気軌道の誘致運動を起こし2期目に当選した後玉南電気鉄道株式会社を設立商議員に就任するなど八王子への鉄道乗り入れを推進する。
もっと読む
丹羽 七郎(にわ しちろう、1885年(明治18年)3月31… 丹羽 七郎(にわ しちろう、1885年(明治18年)3月31日 - 1935年(昭和10年)7月7日)は、日本の内務官僚。岡田内閣の内務次官、県知事。 福島県出身。丹羽家は織田信長の重臣であった丹羽長秀の一族で、祖父は幕末の会津藩士・丹羽族、父は西南戦争で抜刀隊に参加した丹羽五郎である。 1903年(明治36年)会津中学を卒業し、検定試験を経て、東北帝国大学農科大学を卒業。京都帝国大学在学中の1913年(大正2年)11月、文官高等試験に180名中次席で合格した。1914年(大正3年)7月、京都帝大法科大学政治学科を優等で卒業し銀時計を授与された。 1914年8月、内務省に入り東京府属として内務部庶務課に配属された。
もっと読む
中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月2… 中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月29日 - 1956年(昭和31年)7月14日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、津山市長、医師。 岡山県苫田郡高野村(現在の津山市)出身。1906年(明治39年)、第一高等学校を卒業。1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学を卒業した。東京帝国大学医科大学内科に勤務した後、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)教授・附属病院内科部長に就任した。1914年(大正3年)、津山に中島病院を開院。苫田郡医師会長、美作五郡連合医師会長を歴任した。 1929年(昭和4年)、津山市会議員に当選し、議長に選出された。翌年の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
もっと読む
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月… 黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業、現在の雪印メグミルク)創業者、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、日本酪農の父、北海道開発の父と呼ばれる。 1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現:常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父による過度の飲酒がもとで負債をつくり、家計は常に苦しかった。
もっと読む
百溪 禄郎太(ももたに ろくろうた、1885年3月28日-1… 百溪 禄郎太(ももたに ろくろうた、1885年3月28日-1977年12月15日)は、日本の物理学者。 宮崎県東杵杵郡出身[信頼性要検証]。父親は宮崎県延岡で医師と裁判官をしていた百溪龍蔵で、母は冨の5男として誕生。 宮崎県の旧制宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)では若山牧水と同窓で、校内の文学愛好会「曙会」に所属した。 延岡中学の校友会の雑誌部長として若山牧水が就任した時、その時の雑誌部校友会役員は、古川正雄、百溪禄郎太、甲斐猛一、松本庫太郎、乗秀小三郎の五人が幹事に選ばれている。 延岡中学卒業後鹿児島に滞在し、その後、東京に出て東京大学で物理学を学んだ。恩師の一人、寺田寅彦を物理学と文学に優れた師として尊敬して、文学者への憧憬も強かった。
もっと読む
沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 -… 沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 - 1945年7月7日)は、英文学者、東京帝国大学助教授。
もっと読む
小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年… 小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年)3月28日 - 1976年(昭和51年)3月17日)は、大正から昭和時代の政治家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 茨城県信太郡木原村(稲敷郡木原村を経て現美浦村)出身。小沢金蔵の長男として生まれ、1934年(昭和9年)家督を相続する。1904年(明治37年)成城学校を卒業し、のち東京専門学校に学ぶ。陸軍に入り歩兵中尉に進んだ。 茨城県会議員となり、帝国在郷軍人会稲敷郡連合分会長、稲敷郡養蚕組合長、同農会長、同壮年団長を歴任した。ほか、東邦産金会社専務取締役、松本電機計器監査役を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
もっと読む
原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 19… 原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 1964年2月10日)は、日本のジャーナリスト。貴族院勅選議員。 岡山県後月郡西江原村(現・井原市)出身。1907年早稲田大学卒。報知新聞社に入り、1915年、東京朝日新聞社に入る。社会部長を経て、1925年、大阪朝日新聞社に入る。同社では編集局長から専務となり、1946年8月14日、貴族院勅選議員となった。貴族院議員は交友倶楽部に所属し翌1947年5月2日の貴族院廃止まで在職した。同年12月に公職追放を受けた。その後、追放解除となり、1964年に死去した。
もっと読む