日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月… 日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 愛知一中を経て、鳥羽商船学校本科修了後、1906年11月海軍兵学校(34期)を卒業し、1907年に少尉任官。1912年海軍砲術学校高等科を卒業後、第3艦隊副官、「鞍馬」分隊長を歴任。1917年、海軍大学校(甲種)を卒業。以後、「春日」乗組、軍令部第3班第5課参謀、アメリカ大使館付武官補佐官、「鬼怒」副長などを歴任。 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長、海軍大学校教官、「日向」艦長を歴任し、1932年海軍少将に進級。以後、第1戦隊司令官、第11戦隊司令官を務め、1936年に海軍中将・駐満海軍部司令官を拝命。
和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年… 和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年12月30日)は日本の美容師、政治家。衆議院議員(1期)を歴任した。旧姓、栗谷。 秋田県秋田市楢山南新町出身。1904年秋田県立秋田高等女学校(現・秋田県立秋田北高等学校)卒業。上京して女子音楽学校で学ぶ一方、キリスト教小学校に勤務する。在学中に陸軍騎兵将校和崎豊之と結婚する。1921年に美容師となり、1922年に夫が死去すると故郷の秋田に戻る。秋田初の美容師として生計を立てたと言われる。 和崎の美容院は評判を呼び、秋田魁新報社の身の上相談欄の回答者に和崎が選ばれるほどであった。同年、早川かいらと日本基督教婦人矯風会秋田支部を設立し、公娼廃止運動に尽力した。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月… 岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月25日)は、日本の政治家。衆議院議員。 山形県飽海郡漆曽根村(現酒田市)で岡本敏貞の二男として生まれる。1902年(明治35年)、山形県立荘内中学校を卒業し、さらに1906年(明治39年)、東京高等商業学校を卒業した。同年7月、三井物産会社に入社し、札幌出張所、本店営業部などで勤務。1914年(大正3年)8月、日本製鋼所に移り、横須賀出張所長、室蘭支店会計主任、同支店商務主任、同事務部次長、同労務係長を歴任。その他、室蘭商業会議所特別議員、(株) 瑞穂商会顧問を務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙において北海道第5区から憲政会所属で出馬し当選。
塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18… 塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)12月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、内務官僚。弁護士。 静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、静岡県警部、同保安課長、岡山県後月郡長、同吉備郡長、同小田郡長、同水産課長を歴任した。1921年(大正10年)、東京市主事となり、商工課長、土木局庶務課長などを務めた。さらに麻布区長、本郷区長、京橋区長を歴任し、1935年(昭和10年)に東京市理事に就任した。退職後は弁護士を開業した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会で出馬し、当選を果たした。
田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(… 田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(明治18年)2月1日 - 1947年(昭和22年)5月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、地主、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第1区選出、当選1回)。旧姓は渡邊、旧名は眞吉、あるいは真吉。 神奈川県鎌倉郡戸塚駅(戸塚町を経て現横浜市戸塚区)に生まれる。渡邊三左衛門の弟。1909年(明治42年)長崎高等商業学校を卒業。横浜石川中村町(現南区中村町)の地主で金融業を営む田辺徳五郎の養嗣子となり、先代の没後に襲名する。 1914年(大正3年)田辺合資会社を設立。1922年(大正11年)横浜市会議員に当選し、1942年(昭和17年)まで務めた。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
岩崎 清行(いわさき きよゆき、1885年(明治18年)2月… 岩崎 清行(いわさき きよゆき、1885年(明治18年)2月 - 1970年(昭和45年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 宮崎県西諸県郡真幸村(真幸町、えびの町を経て現えびの市)出身。岩崎泰蔵の長男として生まれ、1904年(明治37年)家督を相続する。1914年(大正3年)東京帝国大学農科大学林学科卒業。 農業を営み、1919年(大正8年)以降、球磨川電気取締役、真幸村会議員、宮崎県会議員、同参事会員、都市計画宮崎地方委員会委員などを歴任した。 1932年(昭和7年)9月には宮崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで務めた。
中馬 猪之吉(ちゅうまん / ちゅうま いのきち、1885年… 中馬 猪之吉(ちゅうまん / ちゅうま いのきち、1885年(明治18年)1月31日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県国分市長(第2代)、鹿児島県会議長。 鹿児島県囎唹郡国分郷(現・霧島市)で、中馬猪之助の長男として生まれる。1906年(明治39年)12月、神戸高等商業学校(現神戸大学)を中退した。1922年(大正11年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 青年団長などを務め、1923年(大正12年)9月、鹿児島県会議員に選出され1947年(昭和22年)まで連続5期在任した。この間、副議長、議長、東国分村長、大政翼賛会鹿児島県支部常務委員などを務めた。
福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月… 福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。中華電気製作所、支那興業各取締役。住友本社、呉服販売店支配人。上海居留民団長。族籍は広島県士族。 広島県士族・福田千次郎の四男。広島市西白島町出身。1904年、県立広島中学校卒業。直に広島県より推選され清国留学生を命ぜられた。1907年、上海東亜同文書院商務科を卒業した。上海に在住し、支那貿易事務に従った。1935年、甥・光次郎方より分家した。 宗教は神道。趣味は大弓、漢籍。住所は広島市西白島町、上海市。
小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 195… 小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 1959年8月30日)は、日本の政治家。岡山県阿哲郡新見町(現・新見市)生まれ。近藤鶴代は妹。 新見の旧家・近藤家に生まれ、8歳の時に真庭郡八束村(現・真庭市)の小谷家の養子となる。岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)卒業後、1906年に上海の東亜同文書院入学(第5期生)。古河鉱業(現・古河機械金属)を経て、1914年に青島で『大青島報』(後の『青島大新民報』)を創刊、1916年には貿易会社「天佑公司」を創立した。帰国後、1928年に衆議院議員に当選し、1945年の日本の敗戦後に公職追放された。岡山では親切運動を展開した。
大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月… 大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月28日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の鉄道官僚。樺太庁豊原市長。 富山県下新川郡道下村(現在の魚津市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。鉄道院書記、同参事補、同参事、鉄道省参事を務め、仙台鉄道局庶務課長、札幌鉄道局教習所長、室蘭運輸事務所長を歴任した。1930年(昭和5年)に樺太庁鉄道事務所長に就任した。 退官後、富山県で弁護士を開業し、1940年(昭和15年)には魚津町(現在の魚津市)の町長に就任した。 1942年、豊原市長に就任。終戦後はソ連軍との折衝に尽力し、1947年(昭和22年)に引き揚げた。
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月2… 前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月27日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本画家。位階は従三位。岐阜県中津川市出身。本名、前田 廉造(まえだ れんぞう)。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和。 青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった。
向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 19… 向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 1982年12月19日)は実業家。太平洋戦争期における三井財閥の指導者。1970年勲一等旭日大綬章。
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - … 北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - 1942年11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。 1885年(明治18年)1月25日、熊本県玉名郡関外目村(現:南関町)に長男として生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現:柳川市)にある家に帰る。
板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉… 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉1月21日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務め、関東軍防疫給水部(731部隊)の設立にも関わった[要出典]。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 征四郎の曽祖父・佐々木伊兵衛は、盛岡藩上士(御徒目付を務めた)。 征四郎の祖父・佐々木直作(文化14年〈1817年〉- 明治27年〈1894年〉)は、漢学の素養が深く、嘉永3年(1850年)に侍講として盛岡藩に出仕し、藩校作人館助教を経て、明治元年(1868年)に盛岡藩首席家老・楢山佐渡が鳥羽・伏見の戦いの直後に上洛した際に 勘定奉行 兼 京都留守居役 として随行するなど、藩の中心人物の一人であった。
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひで… 尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。 鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎合併症、湿性咽喉カタル。 種田と並ぶ「自由律俳句の雄」。活動の場を荻原の主宰する『層雲』に求め、僧形に身をやつし、貧窮のうちに病没した点でも共通している。 一高俳句会に属し、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)在学中も『ホトトギス』や『國民新聞』に投句していたが、いずれも定型律で、ほどなく句作からも離れた。
下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1… 下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1月20日 - 1966年(昭和41年)4月25日)は、日本の政治家、内務官僚、統計学および社会学者。経済学博士。貴族院議員、参議院議員、吉田茂内閣の文部大臣を歴任した。
鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1… 鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1970年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
田崎 信蔵(たざき しんぞう、1885年〈明治18年〉1月2… 田崎 信蔵(たざき しんぞう、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1942年〈昭和17年〉4月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府若江郡、のちの中河内郡八尾村(八尾町を経て現八尾市)出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。卒業後は法政大学で学んだ。京都商工信用組合常務理事、(株)小川合金製作所取締役、京都建築工匠組合長、京都勧業無尽(株)取締役となり、京都市会議員、同副議長となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において京都2区から革新倶楽部公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では京都1区から革新党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。
山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月… 山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月19日 - 1944年(昭和19年)10月29日)は日本の建築家、能楽研究者、能楽評論家。法政大学教授。本名は静太郎(せいたろう)。息子は、能楽評論家で前横浜能楽堂館長の山崎有一郎。 1885年(明治18年)1月19日、和歌山県に生まれる。山崎家は旧紀州藩士の家で、父・九一郎は大蔵流の名家松井氏に狂言を学び、楽堂も幼時から能・狂言に親しんだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期に後藤慶二、長谷部鋭吉などがいる。千葉高等園芸学校講師、法政大学教授などを務め、梅若能舞台、細川家能舞台、染井能楽堂、久良岐能舞台の設計に携わる。
大塚 淳(おおつか すなお、1885年(明治19年)1月19… 大塚 淳(おおつか すなお、1885年(明治19年)1月19日 - 1945年)は日本の指揮者。 代々医師の家系の一人息子として生まれる。父は医師大塚長寿郎正心。 東京音楽学校(後の芸大)入学バイオリン専攻。卒業後、同校教授となる。明治39年東京音楽学校の生徒時、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの初代指揮者となり、以後、渡満するまで指揮者を務めた(石坂洋次郎「日本はカルーソーを失ったという話」内に慶應ワグネル・ソサエティ入部の下りがある)。 1938年(昭和13年)、満州国新京市からの招聘により満州国国立音楽学校創設のため渡満する。渡満前に慶應ワグネル・ソサエティ第60回定期公演「ベートーヴェンの夕」に指揮棒を揮う。
吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 … 吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は、日本の鉄道官僚。朝鮮総督府官僚。 福島県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。鉄道院書記、同副参事、同参事、鉄道局参事、鉄道書記官・運輸局貨物課長、門司鉄道局長、東京鉄道局長を歴任した。その後、朝鮮総督府鉄道局長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官し、華北交通株式会社監事、北支那開発株式会社理事を経て、1942年(昭和17年)より鉄道軌道統制会理事長を務めた。戦後は、日本交通協会長、鉄道弘済会顧問を務めた。
野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治… 野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1965年〈昭和40年〉4月24日)は、岩手県二戸郡福岡町(現二戸市)出身の児童文学者、キリスト教牧師、伝道師である。渡辺善太は義兄である。 1885年(明治18年)1月17日、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれ、1890年(明治23年)に郵便局勤務であった父の転勤により盛岡市へ転居。1889年(明治22年)、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)へ入学した。同級生には石川啄木、伊藤圭一郎(『人間啄木』の著者)らがいた。 幼いころから教会に通い、1899年(明治32年)に洗礼を受けた。その年11月盛岡で行われた中田重治の集会での説教を聞いて献身を決意する。
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉… 大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。 愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよ(豊)と結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。
黒田 鵬心(くろだ ほうしん、1885年(明治18年)1月1… 黒田 鵬心(くろだ ほうしん、1885年(明治18年)1月15日 - 1967年(昭和42年)3月15日)は美術評論家である。建築や都市についての評論も行ない、日本において美的観点から都市について言及した最初の論者とされる。本名は黒田朋信。
池田 繁治(いけだ しげじ、1885年(明治18年)1月15… 池田 繁治(いけだ しげじ、1885年(明治18年)1月15日 - 1956年(昭和31年)8月15日[要出典])は、日本の内務官僚。弁護士。 新潟県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。山形県西村山郡長、同牡鹿郡長、同理事官、群馬県理事官、愛知県理事官、同事務官、北海道庁書記官・学務部長、高知県警察部長、和歌山県警察部長、福島県内務部長、長野県学務部長を歴任した。 退官後は台北女子高等学院院長、姫路市助役を経て、弁護士を開業した。
山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1… 山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1951年6月27日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 佐賀県出身。山下範左衛門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り千葉県属となる。 以後、千葉県印旛郡長、朝鮮総督府忠清北道事務官・内務部長、岡山県書記官・内務部長、徳島県書記官・内務部長、千葉県書記官・内務部長などを歴任。 1928年5月、徳島県知事に就任し、1929年7月まで在任。その後、1931年12月、熊本県知事に着任。1932年6月28日、知事を休職となる。
木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 194… 木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 1940年4月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家、建設業者。木田組(後の木田建業)の創始者。深礎工法の発明者。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960… 佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960年8月15日)は、日本の詩人・英文学者。 1885年、宮城県仙台市生まれた。旧姓・岡。東京帝国大学英文科を卒業。関西学院に勤務したのちに英国留学し、1923年より東京女子高等師範学校教授となった。1924年の京城帝国大学創設に伴い、その教授就任に備えるため再び英国留学を命ぜられ、その後赴任した。1945年、定年退官。 戦後、青山学院大学教授として教鞭をとった。墓所は多磨霊園(21-1-23)にある。 キーツ、ワーズワース、シェリーなど英国ロマン派の詩人を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1… 内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1959年9月20日)は、日本の書店主・文化人。1930年代以降、中華民国と日本の両方で書店経営者として成功し、日中文化人交流に大きな影響を与えた。内山書店は現在も、東京の神田神保町で中国・アジア関連書籍を多く扱っている。 出身地は岡山県後月郡芳井村(現・井原市)で、村長の家に生まれた。 内山は高等小学校を4年で中退。京都と大阪の商家で10数年間店員を勤めた後、1913年3月に上海へ渡った。入信したキリスト教会の牧師の紹介で、大学目薬・参天堂(現在の参天製薬)の出張販売員となるためである。各地を営業するうちに、粗衣粗食に耐える勤勉な苦力(クーリー)や信用を重んじる商人など中国の庶民に深い共感を覚えた。
小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10… 小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1961年〈昭和36年〉8月18日)は、日本の実業家。昭和石油第2代社長、元住友海上火災保険専務取締役。 新潟県新潟区古町通5番町(現 新潟市中央区古町通5番町)出身。 1898年(明治31年)3月に新潟高等小学校を卒業、1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校本科を卒業。 1907年(明治40年)8月に住友本店に入社、主計課に勤務、1916年(大正5年)3月に住友東京販売店支配人に就任、1919年(大正8年)3月に住友伸銅所副支配人に就任、1925年(大正14年)2月に住友合資会社伸銅所支配人に就任、1927年(昭和2年)4月に住友合資会社製銅販売店支配人に就任、1928年(昭和3年)7月に住友別子鉱山支配人兼大阪支店長に就任。
清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 19… 清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 1964年9月13日)は、日本の歴史学者。広島文理科大学教授。神道史、国体論史の研究で知られる。 1885年、大分県速見郡南杵築村(現・杵築市)で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1910年に卒業。同大学大学院に進んだ。 京都帝国大学大学図書館司書、内務省神社局嘱託を経て、日本大学講師に就いた。1922年より広島高等師範学校教授。1926年に学位論文『徳川幕府神社制度ノ研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。1929年に広島高等師範学校が広島文理科大学に改組となって以降は同校教授。1943年に広島文理科大学を筆禍事件のため辞した。
加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1… 下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 日中関係が不穏な時期に下村は第10戦隊司令官に就任した。下村は日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲から、佐世保、高雄を省略することで、日華事変が勃発した当日に出雲艦上においていち早く事変発生の情報を入手した。第三艦隊司令長官長谷川清と会談中のことであった。
木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951… 木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951年4月24日)は日本の洋画家、およびHenry Y. Kiyamaのペンネームで主にアメリカ合衆国で活動した漫画家。鳥取県日野郡出身。 1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。
工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日… 工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日 - 1940年(昭和15年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 岡山県出身。工藤敏夫の二男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1916年(大正5年)12月、教育総監部付となり、同課員、陸軍兵器本廠付兼陸軍省軍務局課員、軍務局課員兼参謀本部員、歩兵第9連隊大隊長、同連隊付、陸士教官、参謀本部員などを務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第6連隊長に就任。
西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8… 西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8月17日)は、日本の解剖学者、エスペラント運動家。東京帝国大学名誉教授。医学博士。西成度の孫。 東京出身。早稲田中学、第一高等学校、東京帝国大学医学部卒。大沢岳太郎に師事。1911年ハイデルベルク大学へ留学し、M. Furbringer, H. Brausに師事。1915年東北帝国大学教授、1922年東京帝国大学教授、1945年定年退官、名誉教授、49年群馬大学学長。1945-1966年日本エスペラント学会理事長。弟子には浦良治など。祖父は裁判官で第6代大審院長を務めた西成度。 1978年8月17日、心不全のため神奈川県横浜市の国立横浜病院にて死去。
井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日… 井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に伊藤正誼の四男として生まれ、井上周富の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。朝鮮総督府臨時土地調査局監査官、忠清南道第二部長、咸鏡北道第一部長、財務局税務課長、咸鏡南道内務部長、京畿道内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)より朝鮮煙草元売捌株式会社専務取締役、同社長を務めるが、1931年(昭和6年)に京城府尹に任命された。1933年(昭和8年)には逓信局長に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、南朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電力株式会社専務取締役などを務めた。
朝倉 八郎(あさくら はちろう、旧姓・杉浦、1885年〈明治… 朝倉 八郎(あさくら はちろう、旧姓・杉浦、1885年〈明治18年〉1月6日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の商人(米穀商)、恵美須米穀問屋組合長、地主、家主、東洋青物市場会社員。合名会社常磐松商会代表社員。 愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)生まれ。杉浦太市の八男。朝倉徳次郎の養子。1908年、家督を相続した。米穀商を営む。また地家主で、東洋青物市場会社員であった。 宗教は日蓮宗。趣味は書画、旅行。東京在籍。住所は東京市渋谷区猿楽町、同区向山供託社アパート内。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年… 瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年)は、岩手県出身の医師、歌人・俳人である。雅号として藻外を名乗った。 1885年(明治18年)1月5日、岩手県江釣子村(現・北上市)の瀬川早水の三男に生れる。のちに、同族の医師の瀬川雅夫の養子となった。実父の早水は1846年(弘化3年)に村宿の長男として生まれ、のちに江釣子小学校を創設。1899年から1903年まで同村の助役を務めたのち板垣退助が率いる自由党のもとでの自由民権運動を推進した。 深は旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同学年にはともに医師を志した小林茂雄や岡山儀七、一級上には歌人の石川啄木がおり、さらに先輩には金田一京助や及川古志郎、野村胡堂らがいた。
山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月… 山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月5日 - 1952年〈昭和27年〉7月1日)は、日本のジャーナリスト。改造社社長。雅号は亀城。 鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校を自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。 1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年(大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。
宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月… 宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月5日 - 1944年(昭和19年)3月25日)は、昭和期の政治家、柔道家。衆議院議員。
広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治1… 広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。 実業家・広野織蔵の長男として滋賀県犬上郡彦根江戸町(彦根町を経て現彦根市)に生まれる。彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)京都帝国大学法科大学政治科を卒業。横浜正金銀行に入行し、本店、大阪、神戸各支店にて勤務。1920年(大正9年)1月、父が頭取を務める百三十三銀行に移り専務取締役に就任した。 のち百三十三銀行、滋賀貯蓄銀行、近江信託、琵琶湖ホテル各取締役、滋賀銀行取締役、同頭取、同会長を歴任する。
伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1… 伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)7月7日)は、日本の哲学者。 1885年、山形県酒田市で生まれた。旧姓は須田。生家は雑貨卸商であった。 1903年に山形県立荘内中学校を卒業し、第一高等学校 に入学。一高を卒業後は東京帝国大学文学部哲学科に進学。同期生には安倍能成、小山鞆絵、宮本和吉らがいた。また、同郷であった阿部次郎と宮本和吉と合わせて「庄内の哲学三羽烏」と呼ばれた。1909年、卒業論文「カントを中心とした空間論」を提出して同大学を卒業。卒業後は同大学大学院に進み、5年間在籍した。 1911年から1918年まで、東京帝国大学副手を務めた。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉… 佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉1月3日 - 1957年〈昭和32年〉11月23日)は、日本の商人(米穀商、味噌商)、政治家。大阪府貝塚市長(初代)。 大阪府泉南郡麻生郷村津田(現・貝塚市)出身。仙右衛門の長男。米穀商人となり、岸和田市本町に玄米問屋を開いて江州米などを売り、堂島北浜に乗出す。玄米問屋を見切ると津田に帰り、精米所、精麦所を起す。 味噌製造販売業を営む。貝塚町助役となる。1937年3月に岡本市治郎貝塚町長が急逝、後任に町長代理助役佐々木が指名され、同年5月に貝塚町長に就任する。1941年、貝塚町長に留任する。 1943年5月に貝塚町市制を施行、市長臨時代理者に佐々木が任命され、同年7月に初代貝塚市長に就任する。
中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2… 中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。専門は日本近世史。文学博士(東京帝国大学、1926年)。群馬県出身。 1885年(明治18年)1月、群馬県高崎に生まれる。父は士族で小学校教員の中村勝弥、母は小学校嘱託教員の中村とく。「孝也」の名は、『孝経』を典拠とした。幼少の頃から漢籍に造詣の深かった父より漢学を学び、5歳の時、母が勤務する神戸尋常小学校へ見学児として通学、以後複数の学校に転校するも、いずれも抜群の成績で進級した。1899年(明治32年)、14歳の時に小学校准教員検定試験に合格。
福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月… 福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月2日 - 1929年〈昭和4年〉1月30日)は、日本の内務官僚。県知事。 北海道厚岸郡太田村で福永磨理輔の長男として生まれる。山口高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り樺太庁属となる。 以後、樺太庁事務官、同理事官兼専売局副参事(函館専売支局樺太出張所長)、青森県理事官、和歌山県警察部長、警視庁衛生部長、東京府内務部長などを歴任。 1924年6月、清浦内閣により福井県知事に登用されたが、翌月、加藤高明内閣により更迭された。1927年5月、千葉県知事に就任。
藤井 真信(ふじい さだのぶ、1885年(明治18年)1月1… 藤井 真信(ふじい さだのぶ、1885年(明治18年)1月1日 – 1935年(昭和10年)1月31日)は、日本の財政家、大蔵官僚。大蔵大臣。 徳島県麻植郡牛島村(現・吉野川市)に、藤井市三郎の四男として生まれる。生家は古くから藍商を営む名家であった。徳島中学校、第三高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学独法科を首席で卒業。高文試験16番目(180人中)で大蔵省に入省する(配属先は専売局書記)。主に税務畑を歩み、1923年9月19日、蔵相事務担当秘書官(〜1926年11月11日)、1924年6月6日、主税局国税課長併任(〜1926年11月11日)、同年12月20日、大臣官房秘書課長併任(〜1926年11月11日)、1926年11月5日、東京税務監督局長、1927年7月17日、主税局長、1929年7月4日、主計局長と順調に昇進を重ね、1934年5月に高橋是清蔵相の下で大蔵次官に就任する。