大塚 惟精(おおつか いせい、1884年〈明治17年〉12月… 大塚 惟精(おおつか いせい、1884年〈明治17年〉12月11日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員。熊本県士族。 栃木・福岡・石川・広島の各県知事を歴任し、中国地方総監在任中に原爆投下により被爆死した。 細川侯爵家に仕えた書家・大塚惟一の長男として熊本県に生まれる。 済々黌中学・五高を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、11月、高等文官試験に合格し翌12月、内務省に入省、愛知県属(内務部庶務課)となった。そして徳島県・宮城県・神奈川県の警察部長を歴任したのち、栃木県知事(1924年(大正13年)6月 - 1926年(大正15年)9月)、福岡県知事(1926年(大正15年)9月 - 1927年(昭和2年)5月)、石川県知事(1927年(昭和2年)5月、ただし1日のみの在任)を務めた。
広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年〈明治17年〉12… 広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年〈明治17年〉12月11日 - 1961年〈昭和36年〉4月12日)は、日本の政治家。逓信官僚。華族。貴族院侯爵議員、皇后宮大夫。第10代広幡家当主。 東京府で侍従・広幡忠朝の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)1月23日に侯爵を襲爵。 学習院中等学科、同高等学科を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年12月10日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1910年(明治43年)2月、内閣総理大臣官房事務嘱託となる。
小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月… 小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月10日 - 1935年(昭和10年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、実業家、弁護士。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現一関市)に小野寺治平の二男として生まれる。1909年(明治42年)、明治大学を卒業。卒業後は「刑法研究会」をおこして、研究調査に励んだ。1913年(大正2年)、弁護士試験に合格し、法律事務所を開いた。また日本林産株式会社を創業して取締役に就任し、さらに京浜窯業株式会社の監査役も兼ねた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回・第18回と当選を重ねた。その間、東北振興会幹事として、昭和東北大凶作や昭和三陸地震の救済に尽力した。
小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月1… 小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月10日 - 1932年(昭和7年)8月20日)は、日本の海軍軍人。 旧名は庄之助。最終階級は海軍少将。1932年ジュネーブ会議の全権随員。和歌山県鳥屋城村(現有田川町)出身。
水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1… 水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1958年12月30日)は、日本画家、小説家、漫画家、随筆家。本名:爾保有。これは『難訓辞典』の著者である父・水島慎次郎(鳶魚斎)による命名。 また、長男の行衛(ゆきえ)は、SF作家の今日泊亜蘭である。 東京府下谷区根岸に生まれる。1909年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。 1911年、川路誠(柳虹、1912年卒業)・小泉勝爾(1908年卒業)・小林源太郎(1912年卒業)・広島晃甫ら、学校仲間を中心とした全12名で「行樹社」を結成する。同年11月1日から7日にかけて、赤坂三会堂にて第1回展覧会を開催、18人70余点が出品される。
金井 清(かない きよし、1884年〈明治17年〉12月7日… 金井 清(かない きよし、1884年〈明治17年〉12月7日 - 1966年〈昭和41年〉4月26日)は、日本の官僚、政治家。太平洋戦争前は鉄道官僚を歴任し、戦後に長野県諏訪市長を通算2期務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市上諏訪)に生まれる。諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1903年に第一高等学校に入学。3年次在学中の1905年、市河三喜に代わって動物学者のアンダーソンと行動をともにし、1906年にも協力する。1905年にアンダーソンに随行した際に、奈良県東吉野村鷲家口で、最後のものとされるニホンオオカミの捕獲個体(ただし猟師によりすでに殺されていた)に立ち会っている。
西川 正治(にしかわ しょうじ、1884年12月5日 - 1… 西川 正治(にしかわ しょうじ、1884年12月5日 - 1952年1月5日)は、東京都八王子市出身の結晶学者である。
高武 公美(こうたけ まさよし、1884年(明治17年)12… 高武 公美(こうたけ まさよし、1884年(明治17年)12月5日 - 1943年(昭和18年)5月3日)は、朝鮮総督府官僚。福岡市助役。玄洋社社員。 福岡県宗像郡在自村(現在の福津市)出身。1904年(明治37年)、福岡県立中学修猷館、1906年(明治39年)、第五高等学校独法科を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、貴族院嘱託となった。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。奈良県属、朝鮮総督府試補、同事務官、全羅南道財務部長、平安南道財務部長、専売局事業課長、同庶務課長、平壌専売局長、大邱専売局長、中枢院書記官、忠清南道内務部長、江原道内務部長を歴任した。
内海 忠司(うつみ ちゅうじ、1884年(明治17年)12月… 内海 忠司(うつみ ちゅうじ、1884年(明治17年)12月3日 - 1968年(昭和43年)11月28日)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。台北市尹、新竹州知事、高雄州知事。 京都府出身。1911年(明治44年)、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。山形県東田川郡書記、山形県属、沖縄県警部、同島尻郡長、香川県視学官、青森県理事官、島根県警察部長、群馬県警察部長、佐賀県警察部長、愛媛県内務部長、佐賀県内務部長を歴任した。1928年(昭和3年)より台湾総督府に転じ、台北州警務部長、台南州内務部長、台北市尹を経て、1932年(昭和7年)に新竹州知事に就任。
江馬 務(えま つとむ、1884年12月2日 - 1979年… 江馬 務(えま つとむ、1884年12月2日 - 1979年5月10日)は、日本の歴史学者。日本における風俗史の研究の基礎を築いた一人である。京都女子大学名誉教授。 京都市出身。江馬天江の孫、江馬章太郎(京都府立医学専門学校教授)の子。 1907年に新設の京都帝国大学文科大学史学科第1回生として入学、1910年に卒業。卒業論文は「京都市制史」。同年、「日本風俗史」の研究のため同大学大学院に進学する。卒業後、京都市立美術工芸学校の教員となり、1911年には「風俗史研究会」を設立する。有職故実の文献や史料から過去の風俗の考証を進めるだけでなく、実際に衣装などを復原・着用して考察を進める方法を採用し、1915年から毎月1回「時代扮装実演会」を開き、1916年には研究会の機関誌「風俗研究」を創刊した。
内田 清之助(うちだ せいのすけ、1884年(明治17年)1… 内田 清之助(うちだ せいのすけ、1884年(明治17年)12月1日 - 1975年(昭和50年)4月28日) は、日本の鳥類学者。 1884年(明治17年)12月1日、東京都中央区銀座(当時は東京市京橋区)五丁目角のたばこ屋に生まれた。府立一中時代の同期には中島董一郎(キューピー・アヲハタ創業者)らがいた。この中学時代から自然にあこがれ、旧制第一高等学校の二部乙類に入学。1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学獣医学科に進学、卒業後は鳥類学者となり、東大卒業後副手。獣医学士。 1918年(大正7年)に農商務省によって「狩猟法」の改正がなされ、「農林業上有益な野生鳥獣の保護繁殖と狩猟鳥獣の利用増殖」を目的とした「鳥獣調査事業」が始まり、内田はその総括・指導のため農商務省技師に任ぜられた。
林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年)12月1… 林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年)12月1日 - 昭和42年(1967年)2月2日)は、舞踏家、作家、社会運動家、実業家。 大正三美人の1人として数えられる場合もある。戸籍名は「きん」。日本女子美術学校(同校は後に公立学校化され現在の東京都立忍岡高等学校)卒業。日本舞踊協会監事。 林きむ子は、1884年12月1日、東京の柳橋に生まれた。父は狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫、母は女義太夫の初代竹本素行であった。 きむ子は7歳のときに新橋の料亭「浜の家」の女将・内田はな(花)の養女となり、跡を継ぐように望まれる、9歳で藤間流の藤間久満、11歳で正派西川流の初代西川喜洲、西川流9代目西川扇蔵に師事し西川扇紫を名乗り、三味線、踊り、お茶、お花など、ありとあらゆる芸事を身につけたという。
苫米地 英俊(とまべち ひでとし、1884年(明治17年)1… 苫米地 英俊(とまべち ひでとし、1884年(明治17年)12月1日 - 1966年(昭和41年)5月5日)は、日本の言語学者(英語学)、国際法学者、政治家、衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。 小樽高等商業学校(現小樽商科大学)、札幌短期大学、北海道自動車短期大学(現北海道科学大学短期大学部)などの校長や学長を歴任。 1884年現在の福井県大野市に生まれる。その後長野県長野市に移り、旧制長野中学(長野県長野高等学校)を卒業後、1904年に東京外国語学校英語科に入学。 長野時代から柔道で頭角をあらわし、東京外国語学校在学中に講道館に入門、嘉納治五郎の主催する嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたる。
坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月… 坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月1日 - 1971年〈昭和46年〉9月21日)は、日本の海軍軍人。海兵33期。最終階級は海軍中将。岳父は宮原二郎(海軍機関中将、男爵)。 岡山県津高郡野谷村(現・岡山市)出身。岡山県士族・坂野半四郎の二男。 岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第33期)。入校時席次は180名中第84位、卒業時席次は171名中第22位。第一次世界大戦中は、第二特務艦隊参謀として地中海に遠征し、英国海軍との連絡業務にあたった。 坂野は海軍部内で対英米協調派(条約派)の1人に数えられていた。海軍軍事普及部部長在任中に、陸軍強硬派と海軍艦隊派から買収された報知新聞記者に『海軍は宇垣一成 内閣に反対ではない』と発言 したことが海軍大臣・大角峯生の怒りを買い、いわゆる「大角人事」により予備役に編入された。
大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17… 大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17年)12月 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県新治郡石岡(現・石岡市)出身。渡邊盛作の三男として生まれ、大和田三郎左衛門の養子となる。慶應義塾大学部理財科で学んだ。 1917年(大正6年)より石岡町会議員のほか、新筑酒造、新筑醤油醸造各組合長、鹿島参宮鉄道、北総電気、茨城電気の各取締役などを歴任する。 のち茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで1期在任し、同成会に所属した。
東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25… 東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25日 - 1925年(大正14年)6月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。ジャーナリスト。号は孤竹。 鹿児島県出水郡上出水村(現在の出水市)出身。鹿児島中学校を卒業後、『鹿児島新聞』の記者となった。その後の1917年(大正6年)に中央大学を卒業した。内務省・鉄道省の嘱託として、アメリカ合衆国・メキシコ・中華民国・フィリピン・ボルネオ島・ジャワ島・マレー半島・南洋諸島・シベリアなどを調査した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。同年の第15回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
菊池 英彦 (きくち ひでひこ、1884年11月23日 - … 菊池 英彦 (きくち ひでひこ、1884年11月23日 - 1972年11月)は、日本の土木工学者、土木技術者。 士族菊池矢直の長男として、大分県直入郡玉来村(現・竹田市)に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1907年7月第五高等学校工科を経て、1910年7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1910年7月、水力発電の起業促進に向け、全国的な河川調査を実施するために設立された、逓信省臨時発電水力調査局の技師となり、その後、1913年12月東京市技師、1916年4月岐阜県土木技師、1917年10月逓信局技師、1919年5月仙台逓信局水力課長などを経て、1923年逓信技師に任ぜられ、1924年逓信局技師を兼任し、1923年8月逓信省電気局水力課および東京逓信局に勤務する。
瀬川 昌世(せがわ まさよ、明治17年(1884年)11月2… 瀬川 昌世(せがわ まさよ、明治17年(1884年)11月23日 - 昭和37年(1961年)12月31日)は、日本の医学者、小児科医、医学博士、瀬川小児病院 第2代院長、社団法人日本陶磁協会 理事。小児科の権威として知られる。
安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月2… 安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月23日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正五位。 宮城県桃生郡野蒜村山の坊(鳴瀬町を経て現東松島市)で生まれる。早稲田大学専門部政治経済科を卒業。19歳で渡米し、苦学してシカゴ大学大学院政治科、同法科などで学び、1912年(明治45年)ホイトン大学文科を卒業した。在米中は、南加州日本人会長、中央ロスアンゼルス日本人会長、商工会議所会頭などを務め、日米親善、在留邦人人権擁護などに尽力した。 帰国後、塩釜市行政顧問、宮城県地方労働委員(中立代表)、徳海屋(株)支配人、不二貿易取締役社長などを務めた。
杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治… 杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治17年)11月21日 - 1974年 <昭和49年> 5月5日)は、昭和時代前期の政治家、俳人。三重県上野市長。雅号は干柿。位階は正六位。 三重県出身。上野中学(現三重県立上野高等学校)を卒業する。 上野町助役となり、全国に先駆け上下水道の完成、町営塵芥焼却炉、町立保育園の建設、公共的企業の創設や育成、伊賀文化産業城の建設などに尽力した。 1939年(昭和14年)11月、同町長となった。1941年(昭和16年)9月に町長を退任した。同年11月29日、周辺自治体との合併で発足した上野市の初代市長となった。 町長時代には市制施行の実現、市長に就任後は市民福祉の向上、地域産業の育成、工場誘致や市域拡張の諸政策を遂行した。
奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11… 奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11月18日 - 1934年〈昭和9年〉5月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。中国語を学ぶ。日露戦争に従軍し、満州、蒙古、朝鮮に10年間滞在する。帰国後、西濃飲料水(株)社長となり、大垣市議、大垣商業会議所特別議員、営業税調査委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜2区(小選挙区)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区(中選挙区)から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。所属会派はその後第一控室会となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙では無所属で出馬したが落選した。
移川 子之蔵(うつしかわ ねのぞう、1884年11月16日 … 移川 子之蔵(うつしかわ ねのぞう、1884年11月16日 - 1947年2月9日)は、日本の民族学者、人類学者。 福島県二本松市出身。アメリカに留学して、1914年にシカゴ大学を卒業し、1917年にはハーバード大学の哲学博士の学位を獲得した。1919年に慶應義塾大学文学科講師となり、1921年には東京商科大学(現・一橋大学)付属商学専門部教授兼予科教授となった。その後台北高等学校教授に転任し、在外研究員の身分で欧米各国に赴き、1年10カ月のあいだ研究に従事した。1928年、台北帝国大学が設立されると、文政学部教授兼評議員として招聘され、土俗学と人種学の講座を設け、研究室と標本室を建設し、台湾原住民の研究と太平洋南島民族の文物の収集にあたった。
中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 19… 中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 1947年3月21日)は、東京都出身の野球選手、審判員。中野武営の子。
俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月1… 俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月13日 - 1958年〈昭和33年〉3月21日)は、日本の実業家、UBE (旧・宇部興産)初代社長。 山口県宇部市出身。士族・俵田勘兵衛の二男。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。 興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。
田中 四郎左衛門(たなか しろうざえもん、1884年〈明治1… 田中 四郎左衛門(たなか しろうざえもん、1884年〈明治17年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の商人(槌屋、織物問屋)、実業家、資産家。族籍は東京府平民。 東京日本橋浜町生まれ。田中四郎左衛門の長男。1890年、家督を相続。1908年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。東京銀行監査役となる。 1917年、男爵の前島彌等とはかり、日章火災海上再保険を創立し、専務取締役に挙げられる。1918年、日章信託会社を起し、会長となる。 日本絹絨紡織取締役社長、大日本文華社長、白木屋呉服店、関東機械ナット各取締役、横浜生命保険支配人などをつとめる。 謡曲を嗜む。宗教は浄土宗。住所は東京市日本橋区浜町1丁目、麹町区紀尾井町・同区三番町、四谷区南町。
小杉 イ子(こすぎ イね、1884年(明治17年)11月12… 小杉 イ子(こすぎ イね、1884年(明治17年)11月12日 - 1964年(昭和39年)1月6日)は、日本の看護師、助産師、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県、のちの都城市で小杉重二の娘として生まれる。1905年、大阪の梅花女学校を卒業。1913年、大阪の緒方病院に就職し会計課に配属され、のち同院産婆看護婦養成所監督を務めた。産婆看護婦試験に合格し、1917年、常盤看護婦会を立ち上げた。その後、大阪梅花女子専門学校評議員、神戸市技手補、市民神戸病院看護婦長・風紀取締、川西航空機補導課教育係寮母などを務めた。 戦後、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選(任期3年)し、その後、緑風会に所属して参議院議員を1期務め、女性の地位向上に尽力した。
山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12… 山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本の実業家。1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機技術とフッ素樹脂などを独自開発した事で知られ、ダイキンの主力となるエアコン開発の礎を築いた。位階は正五位。 1884年(明治17年)11月12日、山口県厚狭郡船木村(現:宇部市)に、かつて厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として出生したが、当時の松田家は裕福ではなかった。 船木尋常高等小学校高等科2年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた3歳年上の兄松田隆亮の誘いで小倉へ移り、2年間の受験勉強ののち福岡県立小倉工業学校機械科に入学した。
辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月1… 辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月12日 - 1925年(大正14年)5月30日)は、日本の女性医師。大分県における女性医師の先駆者の一人。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町)に、医師の高木盛胤の三女として生まれる。16歳の時、宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身で大分市で歯科医を開業していた辛島汎と結婚した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月1… 川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月11日 - 1948年〈昭和23年〉1月23日)は、日本の東京川崎財閥の実業家、ゴルファー。川崎銀行副頭取、川崎信託社長、東武鉄道取締役、阪和鉄道取締役などを歴任した。「駒沢育ち」を代表するゴルファーの一人。 初代川崎八右衛門の孫。八右衛門の娘なかとその婿の茨城県出身の川崎東作との長男で、叔父に2代目川崎八右衛門。弟の川崎甲子男は国華徴兵、日華生命、帝国火災、福徳生命の社長や明和銀行頭取などを務めた。妻のキヨは金子堅太郎の娘。 9歳で家督を相続。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - … 金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - 1974年11月21日)は、日本の地方政治家、郷土史家。戦前に旧常豊村町長を1期務め、戦後には塙町町長を2期務めた。また、郷土史家としても、地元である福島県南部の古文書の掘り起こしや、水戸天狗党の研究などに業績を残した。 当時の福島県東白川郡石井村に生まれた。生家は、かつては名主の家柄であった。福島県立安積中学校(後の福島県立安積高等学校の前身)に学んだが、父の死によって1902年に学校を中退し、農業に従事した。その後、常豊村(後の塙町)に移り、酒造業を興し、さらに発電所建設などに携わった。1925年に常豊村村会議員となり、助役を経て、1937年11月14日から1941年6月30日まで常豊村長を務めた。
当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月1… 当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月10日 - 1946年(昭和21年)8月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。
神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11… 神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11月10日 - 1954年〈昭和29年〉4月2日)は、日本の学者、裁判官、香川大学初代学長。法学士。 司法官試補、大審院判事などを務め、京都帝大・早稲田大学・中央大学で刑法・民法を教える。 昭和25年、香川大学初代学長となった。
小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925… 小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925年6月19日)は、日本のボーイスカウト運動の創始者のひとり。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)11月8日 - 1958年(昭和33年)6月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、錦鶏間祗候。 山形県南置賜郡米沢芳泉町(のち南原村大字芳泉町、現米沢市)出身。元米沢藩士・鈴木幸松の長男として生まれ、母方の祖父・鈴木伊和太の養子となる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り、石川県警部に任官した。 1910年12月、愛媛県警視となる。以後、岩手県事務官、神奈川県理事官、島根県警察部長、台湾総督府警視兼参事官、内務書記官、地方局市町村課長などを歴任した。
海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日… 海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日 - 1956年〈昭和31年〉7月10日)は、工芸家(彫金)、日本芸術院会員、人間国宝。 全日本工芸美術家協会会長、日本彫金家会会長、日本美術刀剣会常任審査員などを兼任し、彫金界の長老として長年に渡り要職を務めた。 海野勝珉の三男として東京に生まれる。1911年(明治44年)、東京美術学校金工科卒。父および加納夏雄に師事。1919年(大正8年)母校東京美術学校助教授、1928年(昭和3年)、帝展特選、1929年(昭和4年)から帝展、新文展審査員を務める。 1932年(昭和7年)母校教授に就任、のち同校在外研究員としてフランス留学し1934年(昭和9年)、帰国。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日… 渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日 - 1967年(昭和42年)1月21日)は、近代日本の建築家。元鉄道院技師。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、近畿を中心に商業ビルの秀作を多く残した。門下に村野藤吾がいる。 東京府麹町区(現東京都千代田区)生まれ。天長節(のちに明治節。明治天皇の誕生日)に生まれたことから「節」と名づけられた。父は相馬藩士、後に陸軍中将。 旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院に入り、京都駅(後に焼失)などを設計。1916年(大正5年)に独立、大阪に設計事務所を開設。1920年(大正9年)~1921年(大正10年)には欧米を視察。
石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月… 石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の商人(畳表商)、醸造家、広島県多額納税者。 広島県人・石橋喜助の二男。1917年、家督を相続する。酒造業を営み直接国税1110円を納め、広島県多額納税者に列する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は広島県呉市泉場町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 19… 川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。 鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。 1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。
五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日… 五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日 - 1964年2月12日)は、現在の千葉県印西市出身で勝ノ浦部屋に所属した力士。本名は宮澤 啓助(旧姓椎名)。7代勝ノ浦。164cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。 染物屋に奉公していたが、元力士の兄の世話で入門した。1902年5月新序、1909年1月十両昇進、2場所連続好成績で1910年6月滝ノ音の四股名で入幕を果たす。入幕2場所目に前頭4枚目まで昇進したがそれ以降は幕内下位に甘んじた。小兵だったが小手投げ、押しを得意とし、櫓投げや内無双もあった。1911年に後援者の名から五十嵐に改名。1914年には師匠の御舟潟の名を継ぎ、幕下に陥落した1917年5月に引退し、7代勝ノ浦を襲名、年寄として一時部屋も経営し、44年間在職し1961年1月に定年制実施で76歳で退職した。
栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11… 栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11月 - 没年不明)は、日本の政治家(東京目黒区会議員、碑衾町会議員)、地主。 東京府・栗山万之丞の長男。1918年、家督を相続した。農業を営み、地主であった。目黒区会議員に推された。宗教は日蓮宗。住所は東京目黒区緑ヶ丘。 目黒区古民家(目黒区指定文化財)は、緑ヶ丘一丁目の栗山重治の旧宅であった。江戸時代に「年寄」という村の重要な役職を務めた旧衾村(ほぼ現在の環七通り西側)の栗山家の主屋を、竹林が生い茂る「すずめのお宿緑地公園」内に移築・復元(昭和59年4月に開設)し、保存・公開している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 -… 原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 - 1977年(昭和52年)7月23日)は、貴族院勅選議員、日本赤十字社副社長。救護法の大家であり、方面委員(現在の民生委員制度)を考案した。旧姓・大藪。 江戸南町奉行所与力・原胤昭の養子。岐阜県安八郡大藪の庄屋青木松三郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)に慶應義塾大学理財科を卒業後、三井銀行に入社。1921年(大正10年)に米国留学。 1923年(大正12年)に欧米を視察し、1924年(大正13年)以降司法省事務嘱託、少年保護司、内務省社会局事務嘱託、保険調査会委員、中央社会事業委員会委員、軍事保護院専門委員等のほか、中央社会事業委員会理事、東京盲人会副会長、国際社会事業会議日本委員会常任理事等となり、社会保険制度調査会委員、日本赤十字社副社長となる。
藤原 咲平(ふじわら さくへい、「ふじはら」「さきへい」表記… 藤原 咲平(ふじわら さくへい、「ふじはら」「さきへい」表記もある、1884年〈明治17年〉10月29日 - 1950年〈昭和25年〉9月22日)は、日本の気象学者。学術論文などでのアルファベット表記(日本語のローマ字表記)は「Sakuhei Fujiwhara」を使用した。親族の証言によると本来は「ふじはら」姓で、本人のこだわりからFujiwhara表記をしたという。 長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれ。高島尋常小学校・諏訪高等小学校(後の諏訪市立高島小学校、2021年4月以降は諏訪市立上諏訪小学校)を卒業。高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の永田鉄山と同級であり、また同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があったとされる。
田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 197… 田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 1974年12月31日)は、日本の舞台美術家・画家。 東京府麹町区生まれ。東京帝国大学農科大学教授・田中宏(1859年鹿児島県高麗町生まれ)の長男として生まれ、学習院中等部在学中に太平洋画会研究所に通う。東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)西洋画科で5年間学んだ時期は大伯父の奈良原男爵邸に同居している。1910年(明治43年)4月に卒業。同期生に九里四郎、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治など。 帝国劇場の背景部に所属して舞台の背景を手がけたほか、伯父・奈良原三次設計による奈良原式1号機の製作を手伝っている。1919年(大正8年)にはヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国を視察する。
畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - … 畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - 1938年6月25日)は、内村鑑三門下(無教会派)のキリスト教独立伝道者。 農村伝道に従事し、またミルトン、カーライル、ブラウニング等の英文学を積極的に翻訳・紹介した。 1884年、長野県上田町(現上田市)に生まれる。1902年、旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業、早稲田大学予科入学。1904年、内村鑑三の門下生となる。1906年、早稲田大学文学部哲学科を卒業し、千葉県立千葉中学校の英語教師となる。1909年に同じ内村門下であった、成沢むつと結婚。1911年、千葉中学校を辞職。千葉県東金町の農村をベースに独立伝道を開始、また執筆・出版活動を行う。