湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4… 湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4月14日 - 1978年(昭和53年)12月2日)は、日本の政治家。1959年から1971年まで富山市長を3期務めた。位階は正五位。 富山県上新川郡東岩瀬町(現富山市東岩瀬町)出身。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)卒業。1929年(昭和4年)富山市議会議員に初当選、以後富山市議会議員(3期)、富山県議会議員(3期、自由党(現自由民主党)公認、1952年から1954年まで富山県議会議長)、自由党県連幹事長を歴任。 1959年(昭和34年)富山市長に当選就任。以後1971年まで3期にわたり市長を務めた。 全国市長会理事、加越能鉄道(現加越能バス)取締役、立山黒部貫光取締役を歴任。
矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 197… 矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 1972年3月9日)は日本の医師、医学者、衛生学者。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)生まれ。1917年旧制東京慈恵医院医学専門学校卒業。1922年からドイツのフライブルク大学に留学し、細菌衛生学を学ぶ。帰国後の1925年に東京慈恵会医科大学教授となり、衛生学教室を創設。1956年には学長に就任した。 研究では特に、生物発光に関する研究、日光紫外線に関する研究で知られ、郷里の諏訪湖産のヌカエビの発光の本態が淡水棲発光バクテリアの感染によるものであることを発見(ホタルエビも参照)、また各種魚類における共棲発光の実例を実証した。戦後は日本で最初に蛍光顕微鏡を開発し、結核菌の検出などの実績を上げた。
阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日… 阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日 - 1972年〈昭和47年〉1月2日)は、日本の技術官、実業家。 逓信省、東京市、鉄道省に勤務した後、北海道新聞社社長となり、北海道放送を設立して初代社長を務めた。 阿部宇之八の三男として札幌区に生まれる。札幌区創成尋常小学校、札幌区創成高等小学校、北海道庁立札幌中学校を経て、1911年(明治44年)第一高等学校第二部甲類に無試験検定で入学、1914年(大正3年)同校第二部工科卒業。1917年(大正6年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。 同年逓信省に入省。翌1918年(大正7年)に九州逓信局水力課長となり、九州各地の河川水を発電に利用するための水量調査を行った。
徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 19… 徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は、日本の弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長。
田中 豊(たなか ゆたか、1894年(明治27年)4月12日… 田中 豊(たなか ゆたか、1894年(明治27年)4月12日 - 1988年(昭和63年)5月16日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、長南町名誉町民を務めた。 千葉県上埴生郡庁南町(長生郡庁南町を経て現長南町)で生まれる。1912年(明治45年)千葉県立大多喜中学校(現千葉県立大多喜高等学校)を卒業した。 千葉県藁工品を設立し、埴生かます・むしろ産業の振興に尽力した。また、千葉県叺納入組合長、千葉県農水産社長、日本藁工品配給 (株) 評議員・千葉県出張所長、全国農業会千葉県藁工品事務所長、千葉運輸会長、千葉興業社長、ゆたかストアー社長、同会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で千葉県第3区から民主党公認で出馬して当選。
宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年)4月12… 宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年)4月12日 - 1970年(昭和45年)1月20日)は、日本の実業家。三井物産社長や、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。 愛媛県今治市生まれ。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産入社。1943年三井物産常務取締役。1944年から三井物産社長。同年大正海上火災保険取締役。第二次世界大戦後、三井財閥の解体にあたり、住井辰男三井本社筆頭常務理事らと、連合国軍総司令部との交渉にあたった。1946年電気化学工業特別管理人。三井物産解体後は、公職追放となり、白洋貿易社長、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12… 片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12日 - 1963年(昭和38年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。旅館業・片岡平八郎の四男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 参謀本部付、参謀本部員を経て、1928年(昭和3年)3月、陸軍兵器本廠付となり、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で1931年(昭和6年)3月まで聴講した。
堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 197… 堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 1976年2月2日)は日本の生化学者、医学博士、大学教授。名古屋大学名誉教授、一宮女子短期大学名誉学長。 愛知県名古屋市出身。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学)、東北大学医科大学卒業。生化学を専攻し、愛知医科大学・名古屋医科大学・名古屋大学教授、和歌山県立医科大学教授を歴任した。1976年2月2日、脳血栓のため愛知県名古屋市中京病院で死去。81歳。告別式は愛知県医師会講堂で行われた。 名古屋日独協会の活動に尽力。1964年から1976年に亡くなるまで協会長として活動した。晩年にはドイツ連邦共和国功労勲章(大功労十字章)を受賞している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
鶴田 常吉(つるた つねきち、1894年4月10日 - 19… 鶴田 常吉(つるた つねきち、1894年4月10日 - 1988年9月29日)は、日本の教育者。国文学者。四国女子短期大学(現四国大学)初代学長。徳島県三好市出身。広島高等師範学校卒業。 三好郡三野町(現在の三好市)出身。広島高等師範学校(現在の広島大学)卒業。 徳島師範学校学長、新制徳島大学学芸学部初代学部長、四国女子短期大学(現四国大学)初代学長等を歴任。また1964年から1972年までは徳島大学渭水会会長を務めた。 また徳島市立川内北小学校、三好市立池田小学校、三庄中学校(現東みよし町立三加茂中学校)等の校歌の作詞も手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9… 柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 兵庫県加東郡上東条村(現、加東市)森出身。旧制兵庫県立小野中学校を経て海軍兵学校卒業(43期)。アメリカ海兵隊をして「恐怖のタラワ」と言わしめた守備隊司令官である。ただし柴崎自身はアメリカ軍の攻撃初日に戦死し、海軍中将に特別進級している。柴崎の戦死は、司令部があった地下壕を負傷者の治療にあてるために移動している最中であった。このことを知った部下達は、「司令官は我々を助けるために戦死した。司令官のためにも最後まで戦う」と決意した。
金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 198… 金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。 秋田県秋田市土崎港古川町の舟問屋の四男として生まれる。本名・吉太郎。15歳で一旦上京して電気工事の仕事をするが帰郷し、19歳で秋田工業学校機械科を卒業。母校の助手を経て土崎小学校の代用教員を務める。1916年、上京して武者小路実篤の書生となる。 1921年、尋常小学校の同級生だった小牧近江や今野賢三とともに、社会主義思想の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。『解放』に発表した「地獄」が出世作となる。1924年からは『種蒔く人』の後継誌『文藝戦線』を創刊。戯曲、脚本も書いた。
三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963… 三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963年7月28日)は、日本の女優である。東京市出身。夫は映画プロデューサーの森田信義。黒澤明映画をはじめ多くの東宝映画に出演した。出生名は宮田 ハル(みやた はる)、結婚後の本名は森田 ハル(もりた はる)。 東京市神田区神保町出身。1912年、跡見高等女学校を卒業後、島村抱月が結成し、松井須磨子らが所属する芸術座の演劇学校に入校する。1915年、三好栄子の芸名を名乗り、浪花座での大阪公演『清盛と仏御前』で初舞台を踏む。トルストイ作の『復活』や『アンナ・カレニナ』などの舞台に立ち、着実にキャリアを積むが、松井須磨子と衝突して芸術座を脱退し、同じく芸術座を脱退していた沢田正二郎に誘われて、1917年、新国劇結成に参加する。
卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4… 卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4月8日 - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、新湊町長。 富山県射水郡新湊町四十物町(現射水市八幡町)で、卯尾田兵次郎、やい夫妻の長男として大井清平宅で生まれる。文珠寺尋常高等小学校高等科を経て、1914年(大正3年)3月、富山県立高岡中学校を卒業。同年4月、早稲田大学商科に入学し、1918年(大正7年)7月に卒業した。 大学卒業後、神戸市の下里貿易商会に入社。1923年(大正12年)2月、新湊立憲青年党を結成し総理に就任。1927年(昭和2年)9月、富山県会議員に当選。以後、名誉職参事会員、新湊町長(6期)、新湊町職業紹介所長、都市計画富山地方委員会委員、新湊警防団長などを務めた。
秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日… 秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日 - 1949年〈昭和24年〉3月22日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。対ソ諜報を専門とする情報将校として陸軍中野学校初代校長、星機関長、関東軍情報部長を務めた。陸士26期。最終階級は陸軍少将。 1894年(明治27年)4月6日、秋草直右衛門の4男として栃木県足利市に生まれ、幼くして東京の同族・秋草晃の養子となる。1914年(大正3年)、陸軍士官学校26期卒業。陸軍依託学生として東京外国語学校に学び、後にハルピンに留学。参謀本部付、関東軍特務機関に務めるなどして、1933年(昭和8年)、ハルピン特務機関の補佐官となり、諜報活動で活躍し対ソ諜報の第一人者となる。
中尾 都昭(なかお くにあき、1894年(明治27年)4月6… 中尾 都昭(なかお くにあき、1894年(明治27年)4月6日 - 1980年(昭和55年)9月9日)は、佐賀県出身の実業家、佐賀新聞社社長。 1894年(明治27年)、佐賀郡久保田村(現在の佐賀市久保田町)久富の網元中尾清三郎と母チヨの次男として生まれる。新田尋常小学校から青藍高等小学校に進学し、卒業後は一時漁師の家業を継いだものの18歳のときに志願兵として海軍に入り、佐世保海兵団に入団する。第一次世界大戦に従軍し勲八等瑞宝章と従軍記章を授与されて退役した。 その後1926年(大正15年)に佐賀市内にて「農村青年新聞」を発行し新聞経営を始める。翌年には「佐賀自由新聞」(週刊)に改題、1931年(昭和6年)には日刊の「佐賀毎夕新聞」とした。
尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5… 尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)出身。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、日本大学専門部法律科を1914年に中退。 その後、東京相愛女学校長、東京土地埋立常務取締役、大森乗合自動車社長、昭和鋼業専務取締役、朝日航空工業取締役、東光興業取締役、日本瓦斯開発社長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて鹿児島県第2区で民主党から出馬して当選し、第26回総選挙まで連続四回の当選を果たした。この間、衆議院予算委員長、民主自由党政調会副会長を務めた。
小泉苳三(こいずみ・とうぞう、1894年4月4日 - 195… 小泉苳三(こいずみ・とうぞう、1894年4月4日 - 1956年11月27日)は大正・昭和期日本の歌人、国文学者。文学博士。本名は小泉藤造。別号は小泉藤三。 神奈川県横浜市に生まれる。1917年(大正6年)に東洋大学国文学科を卒業。苦学し、23歳で中等学校国語国文科教員無試験検定合格、33歳で高等学校国語科教員検定に合格する。いずれも、当時はかなりの難関試験であった。 立命館大学・関西学院大学、一時は国立北京師範大学教授をも兼任する。専攻は国語国文学(近代短歌史)。古典から近代まで研究対象は多岐にわたり、『明治大正短歌資料大成』は貴重な資料として評価が高い。 和歌は尾上柴舟に師事し、歌誌『車前草』をへて『水甕』の同人となる。
北原 名田造(きたはら なだぞう、1894年(明治27年)4… 北原 名田造(きたはら なだぞう、1894年(明治27年)4月1日 - 1990年(平成2年)10月29日)は、大正から昭和期の政治家、篤農家。長野県駒ヶ根市長。号は竹雲山人。 長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)で、北原久次郎、やす の三男として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学農科大学の農地実地見習を修了、同附属果樹園主任となり、1920年(大正9年)桔梗ヶ原に北原農場を開設し、果樹野菜栽培や畜産の先駆となる。 1947年(昭和22年)長野県議会議員となり、同副議長も務めた。1951年(昭和26年)欧米各国を視察し、1952年(昭和27年)長野県人事委員会委員長、長野県総合開発審議会会長などを歴任。
京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月… 京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月1日 - 昭和60年(1985年)11月7日)は、日本の俳人、実業家。元京極運輸商事会長。旧姓桶谷。本名友助。 鳥取県米子市尾高町出身。家業は食料品商。桶谷庄蔵の次男。 大正2年(1913年)3月米子中学(現在の米子東高校)卒業。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進んだ。大正3年(1914年)同級の京極山琅子などと学校内に俳句会“南琴吟社”を創立、喝鞭と号し、“ホトトギス”に投句して、初めて雑詠に二句入選する。大正4年(1915年)2月はじめて“ホトトギス”句会に出席し高浜虚子に会う。 大正6年(1917年)3月東京高商卒業。久原鉱業に入社したが、京極山琅子が急死したため、翌年久原を退社、山琅子の京極家を継ぐ。
能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 … 能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 - 1955年〈昭和30年〉2月25日)は、日本の能楽研究者・日本文学者。専門は、中世・近世文学。奈良学芸大学学長等を歴任。能楽研究の分野では、膨大な史料を分析的に使う手法と卓抜した創見で斯界に一時代を画した。 1894年、京都府北桑田郡山国村(現京都市)に生まれた。1923年、京都帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、1924年より大谷大学教授となった。以降、京都帝国大学、東京高等師範学校、東京文理科大学(1949年に新制移行後東京教育大学、後筑波大学)などでも教鞭をとった。1947年に学位論文『能楽源流考』を東京文理科大学に提出して文学博士の学位を取得。
坂本 彌三郎(さかもと やさぶろう、1894年4月 - 19… 坂本 彌三郎(さかもと やさぶろう、1894年4月 - 1981年2月20日)は、日本の経済学者。専門は経済学史。神戸大学名誉教授。初代神戸大学経済学部長や、初代神戸学院大学経済学部長を務めた。 1894年、広島県尾道市で生まれた。尾道商業学校(現・広島県立尾道商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部貿易科に進んだ。1917年に卒業。 1919年、神戸高等商業学校教授に就いた。1929年より神戸商業大学(現・神戸大学)助教授兼神戸商業大学附属商学専門部教授。1930年に神戸商業大学教授に昇格。 新制大学への包摂に伴い、1949年からは神戸大学教授兼神戸大学神戸経済大学教授。
栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月… 栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月31日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。太平洋戦争中に大本営海軍報道部長を勤めた。 群馬県勢多郡荒砥村西大室(現・前橋市西大室町)に生まれる。 旧制群馬県立前橋中学校より海軍兵学校第44期入校。平出英夫 海軍少将に代わり、海軍報道部第1課長に着任したが、早々に「竹槍事件」が発生。筆者である毎日新聞記者新名丈夫を守るべく陸軍との対応にあたった。また米内光政、井上成美、高木惣吉などの下、終戦工作に携わっている。 戦後は公職追放となり、その後は小松製作所に入社し小松フォークリフト社長に就任した。
上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29… 上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 福岡県三井郡味坂村(現在の小郡市)出身。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。朝鮮総督府試補、同事務官を経て、1924年(大正13年)に全羅北道財務部長となった。1926年(大正15年)からは専売局庶務課長、同製造課長、同事業課長、殖産局鉱山課長・同商工奨励館長を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米に出張した。帰国後、総督官房人事課長・中枢院書記官、鉄道局理事、官房審議室事務官を歴任した。1936年(昭和11年)に慶尚北道知事となり、内務局長を経て、1941年(昭和16年)11月に殖産局長に就任した。
岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月… 岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月27日 - 1972年 <昭和47年> 12月3日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。位階は正五位。 徳島県徳島市出身。1918年に東京帝国大学採掘学科を卒業し、久原鉱業に入社。1939年5月に日本鉱業に転じ、1945年5月に取締役に就任し、1947年4月から1957年11月までに社長を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1972年12月3日、肺化膿症で死去した。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1… 池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1972年2月12日)は、日本の経営学者。関西学院大学名誉教授。経営学の方法論の研究で知られた。 兵庫県姫路市新在家生まれ。1914年東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。コロンビア大学大学院、ベルリン大学で学び、1924年関西学院高等商業学部教授、関西学院大学経営学部教授。1964年大阪経済大学教授、同経営研究所長。1950年「経営経済学の存在論的究明」で関西学院大学経済学博士。
大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月… 大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月27日 - 1979年11月6日)は、日本の実業家。フマキラー創業者。 広島県安佐郡祇園町(現・広島市安佐南区祇園)出身。力三郎の二男。 1923年、殺虫剤「強力フマキラー液」を創製、翌1924年、祇園町に「大下回春堂」(現・フマキラー)を創業。同年専売特許に成功し、戦前までに国内のみならず欧米諸国にも市場を拡げ、上海に工場を設置するなど同社を躍進させた。戦後1950年、一子・俊春の社長就任で会長に退いた。 趣味は碁、茶道、書画、骨董。宗教は真宗。 広島市の老舗百貨店「福屋」や、大下学園(大下学園女子短期大学・大下学園祇園高校)も一族の経営であった。
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 197… 竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。位階は従三位。 大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。 石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉… 吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉3月23日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、日本の翻訳家、英文学者、児童文学者。筆名に朝日壮吉、吉田夏村などがある。 群馬県北甘楽郡小野村(現・富岡市)生まれ。東京芝桜田小学校高等科、旧制立教中学校を経て、早稲田大学英文科卒業。 大学卒業後、母校、旧制立教中学校の英語教師となる。大学在学中より山本有三に師事。朝日壮吉などの筆名を用い、中学教師のかたわら、『新青年』などに探偵小説を翻訳するが、1927年ころから児童文学に移行し、少年小説を書く。1932年、新設された明治大学文藝科で、科長となった山本の推薦で教授となる。戦後は明大文学部文学科長を務め、児童雑誌『銀河』の編集にも携わる。
岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年1… 岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年10月1日)は、日本の実業家。住友電気工業社長、会長を務めた。 大阪府泉佐野市出身。1918年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友銀行での勤務を経て、1937年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職。 総務部長、経理部長、取締役、常務を経て、1947年から1956年11月までに社長を務め、1956年11月から1962年6月までに会長を務めた。1962年以降は相談役を務めた。 日本電気取締役、関西テレビ放送監査役なども歴任した。 1965年春に勲三等瑞宝章を受章した。 1982年10月1日、呼吸不全のために大阪市の住友病院で死去。88歳没。
山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1… 山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1973年12月17日)は、日本のフランス文学者。早稲田大学などで教鞭を執りながら、多くの訳業を遺した。日本芸術院会員。 1894年(明治27年)、父通義、母テウの次男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷田町に生まれた。父は陸地測量部長を経て初代の陸軍砲工学校長を務めた陸軍工兵大佐であった。暁星小学校・同中学校を経て、1911年、東京外国語学校仏語科に進んだ。中学時代、永井荷風と上田敏の訳詩によりヴェルレーヌやボードレールを知り、原書を輸入して読み、また、作歌・詩作も試みた。 1915年(大正4年)、東京外国語学校を卒業し、家庭の事情で、希望の京都帝国大学文学部でなく、[要出典]法学部に入って、文学部上田敏教授の講義をその急逝までの1年余聴いて、直接の薫陶も受けた。
藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 19… 藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 1985年11月29日)は、日本の経済学者。大阪経済大学学長(第3代)、同理事長を歴任。大阪市立大学経済学博士、同名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。 大阪市立大学名誉教授で元大阪経済法科大学学長の藤田整は子息。 香川県三野郡本山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1921年京都帝国大学経済学部卒業、同大学院に進み河田嗣郎に師事。1922年より文部省在外研究員として欧州に留学。羽仁五郎、大学同窓の三木清らと同時期にドイツ・ハイデルベルク大学で学び交流をもった。 1924年彦根高等商業学校教授、1927年京都帝国大学農学部農林経済学科講師。
仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 19… 仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 1966年6月16日)は、日本の作家。本名、柴田オキツ。 長崎県南高来郡大三東村(後の有明町、現在の島原市)に生まれる。1907年長崎県立長崎高等女学校に入学し、三宅古城に和歌を学ぶ。卒業後すぐに結婚してしばらく京都に住んだ後、別府に移住。1925年詩人の北川冬彦と知り合い、東京へ出奔する。1929年『詩神』に「託児所風景」を発表して新進女流作家として注目される。1931年『磁場』創刊に参加し、宮本のりの筆名で「鎌」を発表する。翌年、『麵麭』創刊に参加し、筆名を仲町貞子とする。1936年小説『梅の花』を出版。その間北川と別れ、文芸評論家の井上良雄と結婚。
青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月2… 青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月21日 - 1982年(昭和57年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。岩国中学校(現山口県立岩国高等学校)を卒業し、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1919年(大正8年)5月、操縦術を修了し、同年12月、航空第2大隊付となる。航空第3大隊付を経て航空第3大隊中隊長に就任し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵大尉となる。以後、明野陸軍飛行学校教官、陸軍航空本部員、第2飛行集団司令部員、同参謀、飛行第33戦隊長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に昇進した。
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1… 荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。'''斗出庵'''、'''無田陶人'''と号す。 豊蔵が古志野筍絵陶片を発見した当時多治見陶磁試験場に勤務していた土師萌は、豊蔵が古志野の破片を発掘した話を聞いて、豊蔵の投宿先に破片を見に来る。また、1924年(大正13年)、豊蔵と共に久尻清安寺境内の古窯跡を発掘。
村野 次郎(むらの じろう、1894年3月19日 - 197… 村野 次郎(むらの じろう、1894年3月19日 - 1979年7月16日)は、歌人、実業家。 東京府北多摩郡多磨村(府中市)に生まれる。家業は江戸時代より続く酒問屋。詩人の村野四郎は弟。 多摩尋常小学校卒業後、府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)に入学。文学熱を憂慮した父の助言で早稲田実業学校へ転校、1913年、同校卒業。1919年、早稲田大学商学部卒業。 北原白秋に師事し、「朱欒」「地上巡礼」に参加。1918年、白秋のもとを離れ、「秦皮(とねりこ)」を創刊。1923年、「香蘭」を創刊し、白秋を顧問に迎える。 1924年、白秋、前田夕暮、古泉千樫、土岐善麿が創刊した「日光」に参加。1932年、日本歌人協会を設立、評議員となる。
原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明… 原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明治27年〉3月19日 - 1984年〈昭和59年〉3月25日)は、日本の西洋史学者。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校卒、東京帝国大学卒。姫路高等学校 (旧制)教授、1924年東北帝国大学助教授、1933年京都帝国大学文学部西洋史教授。同年「テセウス伝説考」で京大文学博士。京都大学図書館長、文学部長。1957年定年退官、名誉教授、立命館大学教授。1964年退職。専門は古代ギリシア史。
米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月1… 米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月19日 - 1983年(昭和58年)11月9日)は、日本の外交官。駐ポルトガル公使。 石川県能美郡(現・能美市)出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した。農商務省に入省し、福岡鉱務署に鉱務監督官として勤務。のち外務省に転じ、事務官・条約局第三課勤務、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事、満州国大使館一等書記官、外務書記官・大臣官房電信課長、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、外務省調査部長を歴任。1939年(昭和14年)、駐ポルトガル公使に就任し、1941年(昭和16年)に退官した。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1… 松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1983年5月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人・軍医。最終階級は陸軍軍醫少将。 東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)卒業。陸軍士官学校、陸軍軍医学校教官などを経て、第23軍軍医部長となる。形成外科医の他、疫病の研究や口腔外科医として戦地にて活躍した。 父は長州藩の武士・医者・官軍である松本 三省(まつもと さんせい)(別名、源 道秀)。親戚に日本画家の松林桂月がいる。 明治27年(1894年)3月17日、山口県に生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、陸軍軍医学校に入校。軍医として文部省歯科病院で修業し、三内多喜治主幹のもと陸軍軍医学校教官となる。
村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年… 村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年3月16日 - 1977年8月7日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社長、社主。 旧岸和田藩主・岡部長職の三男として東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 1919年3月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。同年10月、朝日新聞社初代社主の村山龍平の長女・藤子と結婚し、村山家の婿養子となった。翌1920年6月、朝日新聞社に取締役・計画委員長として入社。大阪・東京両朝日新聞の計画部長、航空部長、大阪朝日新聞印刷局長、朝日ビルディング初代社長を歴任し、1933年12月朝日新聞社会長に、1940年5月社長に就任した。 しかし主筆として社長を凌ぐ声望を持つ代表取締役緒方竹虎に反感を持ち、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役原田譲二や、緒方の出身の政治部、経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京本社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役鈴木文四郎らと結ぶようになった。
大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月1… 大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月11日)は日本の政治家、医師。衆議院議員(2期、社会革新党)。広島県会議員、同議長。広島県知事(第48、49、50代)。広島県医師会長、日本医師会理事、 三女は参議院議長を務めた藤田正明の妻。広島県知事を務めた藤田雄山は孫。 広島県豊田郡大河村(後の河内町、現東広島市)出身。医師・大原弥八の長男。1913年、広島県立広島中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1920年、東京慈恵会医院医学専門学校(現東京慈恵会医科大学)卒業。父の医業を継ぎ、自宅で開業する。 県会議員を5期務めた。1943年、県医師会長に選出された。
青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-19… 青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-1956年12月9日)は、日本の児童・教育心理学者。
南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3… 南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1995年〈平成7年〉7月3日)は、日本の船舶工学者、海事史研究者、古地図蒐集家。本業は船舶工学だが、余技であった海事史研究でも多くの業績を残した。日本有数の古地図コレクターとしても知られており、そのコレクションの多くは神戸市立博物館に寄贈されている。 1894年(明治27年)3月15日、大阪に生まれる。 大阪府立今宮中学校在学中の同級生に、のちに地理学者となる秋岡武次郎がおり、終生にわたり親交を結んだ。 1916年(大正5年)6月、第三高等学校二部甲類卒業。9月、東京帝国大学工科大学船舶工学科入学。1919年(大正8年)7月、卒業、三菱造船神戸造船所に技師として入社。
田辺 寿利(たなべ すけとし(または「じゅり」)、1894年… 田辺 寿利(たなべ すけとし(または「じゅり」)、1894年3月15日 - 1962年1月25日)は、日本の社会学者。 北海道釧路市出身。1921年東京帝国大学社会学科選科中退。建部遯吾に師事。1927年に尾高豊作・尾高朝雄兄弟により設立され、大塚金之助が所長に就任した東京社会科学研究所の常務理事となる。日本大学講師などを経て、38年モンゴル・蒙疆学院副院長。戦後は東洋大学・東北大学・金沢大学各教授などを務めた。フランス社会学、特にオーギュスト・コントとデュルケームの研究・紹介に尽くした。また、言語社会学研究の分野においても先駆的な役割を果たした。主著に『言語社会学叙説』(1943年)、『フランス社会学成立史』(1965年)、訳書にデュルケーム『社会学的方法の規準』(1942年)など。
伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 … 伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 - 1995年(平成7年)11月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍運輸部内で上陸作戦の専門家として認められた人物。 宮城県仙台市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し、参謀本部外国戦史課などで勤務した。 1937年(昭和12年)8月、近衛師団参謀に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に進級し、同年7月、第17師団参謀長に転じ日中戦争に出征。宜昌作戦などに参戦した。1940年(昭和15年)8月、第14師団司令部付となり満州に赴任。
金児 杜鵑花(かねこ とけんか、1894年3月14日 - 1… 金児 杜鵑花(かねこ とけんか、1894年3月14日 - 1938年2月21日)は大正-昭和時代前期の俳人。本名は農夫雄(のぶお)。新興俳句の命名者とされているが、その言葉は、彼が私淑した河東碧梧桐が先に著書『新興俳句への道』(昭和4年)の題名で使っていたものを、山口誓子、水原秋櫻子らの運動に当てたものである。 1894年(明治27年)3月14日、北海道余市郡(現余市町)生まれ。札幌師範を卒業後、堺小学校教諭となったが、1918年上京して新潮社に入社。1920年、素人社を設立。山口誓子の処女句集『凍港』を出版。雑誌「現代文芸」「俳句月刊」「俳句世界」などを発行、主宰。俳句は河東碧梧桐に私淑し新傾向風の俳句をつくるが、晩年は定型句に転じた。
木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 198… 木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 1980年6月19日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1942年 - 1945年、1952年 - 1955年)、元大分市長(官選)(1945年 - 1947年)、元大分県知事(1955年 - 1971年)。大分県知事としては、官選も含めると第41 - 44代、公選のみでは第3 - 6代にあたる。 大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。旧制宇佐中学校(現宇佐高校)、旧制第五高等学校を経て、1918年に東京帝国大学法科を卒業。三井物産、兵役、英語教師(旧制大分中学校(現大分上野丘高校))、イギリス・ドイツ留学を経て、1926年に弁護士となる。 太平洋戦争下の1942年に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選。
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)… 植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。 経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。 東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。父の仕事の関係で、幼少期を札幌で過ごす。札幌区創成尋常小学校、慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894… 浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894年)3月12日 - 昭和51年(1976年)11月6日)は、大正・昭和期の園芸学者。東京大学名誉教授。農学博士。園芸学会会長、学術会議委員などをつとめた。岐阜県恵那郡岩村町出身 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。