佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月1… 佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月17日 - 1970年(昭和45年)12月6日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 横浜市に生まれる。1911年(明治44年)神奈川県立横浜第一中学校卒業。 横浜市会議員、同参事会員、横浜地方裁判所調停委員、横浜土地協会理事を歴任した。ほか、実業家として佐久間家代表社員、花咲水産缶詰取締役、瑞興貿易会長を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第1区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は内閣、大東亜省、外務省の各委員を務めた。 戦後、公職追放となった。
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木田 金次郎(きだ きんじろう、1893年〈明治26年〉7月… 木田 金次郎(きだ きんじろう、1893年〈明治26年〉7月16日 - 1962年〈昭和37年〉12月15日)は、北海道岩内町出身の画家。 有島武郎の小説「生れ出づる悩み」のモデルとなった画家で、自由奔放な作風によって同町の自然を数多く描いた。 岩内尋常高等小学校高等科卒業後、上京し開成中学、京北中学に通う。京北中学時代から絵を描き始め、また上野の展覧会に通うようになる。1910年、学校を中退し札幌市郊外で絵を描き続ける日々を送る。札幌で開催されていた黒百合会(東北帝国大学農科大学美術部)の展覧会で有島武郎の絵と出会い感銘を受け、スケッチを携えて訪問。以後有島との交友が生まれるが、その後岩内に帰郷し漁業に従事する。
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小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月1… 小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月16日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 新潟県豊栄市(現・新潟市北区)出身。小柳杢次の長男として生れる。新発田中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。「槇」乗組、「第7号駆逐艦」(松風)水雷長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。 第3戦隊参謀、「若竹」艦長、海兵教官、第2水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官、海軍省教育局第2課局員、第1駆逐隊司令、海大教官、「磐手」艦長、第8駆逐隊司令、水雷学校教頭、「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。
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三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)… 三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)7月12日 - 1990年(平成2年)6月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。中学校教員・三国芳次郎の息子として生まれる。京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第22連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科(22期)を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業した。 1922年(大正11年)8月、野砲兵第22連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、第18師団参謀、陸軍兵器本廠付(陸軍省新聞班)、第6師団司令部付を務め、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進し第3師団司令部付となる。
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岡崎 えん(おかざき えん、明治26年(1893年)7月10… 岡崎 えん(おかざき えん、明治26年(1893年)7月10日 - 昭和38年(1963年)11月26日)は、昭和時代の俳人で、銀座の酒場「おかざき」の元女将。大木喬任の娘。没後、吉屋信子により『岡崎えん女の一生』が書かれ、広く知られるようになった。本名・ゑ以(えい、栄)。別名に艶栄、つやえ、艶(えん)など。 明治26年(1893年)に東京で生まれる。父親は明治政府の元勲・伯爵大木喬任、母親は三十間堀の河岸にあった船宿「寿々本」の芸妓・岡崎かめ。大木は女性関係も盛んだったと言われ、えんが生まれたときもすでに60を過ぎていた。雙葉女学校(現雙葉学園)に通う傍ら、母の船宿を手伝った。大正半ばころより、同人誌『文明』に寄稿を始める。
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能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9… 能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9日 - 1968年(昭和43年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ。 1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる。
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田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
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東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1… 東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1968年6月26日)は、日本の経営者。西日本相互銀行社長を務めた。愛媛県出身。 1920年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業。野村銀行での勤務を経て、1944年12月に西日本無尽(のちの西日本相互銀行)社長に就任。1962年10月から1965年5月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章。 1968年6月26日肺癌のために死去。74歳没。
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青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年… 青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年〉7月7日 - 1991年〈平成3年〉)は、新潟県出身の地方自治功労者。月潟村長(1928年~1932年、1946年~1961年)。 1893年(明治26年)7月7日、新潟県西蒲原郡秋津村月潟(現・新潟市南区月潟)に生まれた。青年期には新発田の歩兵第16連隊に入隊して満州警備に派遣された。 1928年(昭和3年)には35歳で月潟村長に就任し、近藤月平らとともに1933年(昭和8年)の新潟電鉄線(後の新潟交通電車線)開業などに尽力した。新潟電鉄の設立者である奥山亀蔵は角兵衛獅子が消失したのを悲しみ、しきりに青柳に角兵衛獅子の復活を促した。
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斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971… 斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971年2月21日)は、日本の公衆衛生学者、小児科学者。 山梨県出身。1920年東京帝国大学医学部卒業、1927年ハーバード大学公衆衛生学部卒業、1930年医学博士。聖路加国際病院勤務を経て、1937年東京特別地区保健館館長。国立公衆衛生院の創設に参加し、1938年同教授、1956年院長となり、日本の公衆衛生事業を推進した。大気汚染研究協会賞(斎藤潔賞)が設定された。1966年に第18回保健文化賞受賞、勲二等旭日重光章受章。
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交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3… 交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3日 - 1966年(昭和41年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・内藤。青年期には陸上競技やスケートでスポーツ界に足跡を残し、のちにスケート団体の会長を務めている。 旧日向延岡藩主・内藤政挙の息子として生まれる。堂上(公家)華族の交野家の養子に迎えられ、先代・交野時正の隠居に伴い家督を継承し、1918年(大正7年)3月11日、子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。松坂屋取締役、朝日興業取締役、名陶チャイナ・コーポレーション社長、大同メタル工業監査役などを務めた。
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吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974… 吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974年4月1日)は、日本の法学者。 秋田県出身。札幌第一中学校卒、1918年京都帝国大学法学部卒、大阪鉄工所(日立造船〈現:カナデビア〉の前身)に入り1920年より社命で米国に学ぶ。22年帰国、康徳学園で教え、1928年関西大学法学部教授、1949年大阪商業大学・大阪学芸大学教授(兼任)、1957年退職し弁護士を開業、京都産業大学・梅花女子大学教授を兼ねる。
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高松 榮子(たかまつ えいこ、1893年7月2日 - 195… 高松 榮子(たかまつ えいこ、1893年7月2日 - 1957年10月4日)は、日本の女優である。新字体表記高松 栄子、本名は須田 シヅ(すだ しづ)。サイレント映画の時代は『愛の乱舞』で新井淳、『東海道膝栗毛』で粂譲を相手に主演し、戦後も『カルメン故郷に帰る』等多くの話題作に出演した、戦前戦後を通じての松竹のバイプレイヤーである。 1893年(明治26年)7月2日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。本名については、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)や『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)、あるいは『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)には「須田 シヅ」とあるが、『著作権台帳 昭和26年度版』(日本著作権協議会)および『婦人年鑑 12』(学風書院)には「加藤 しづ」あるいは「加藤 シヅ」(かとう しづ)と記されている。
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獅子 文六(しし ぶんろく、1893年7月1日 - 1969… 獅子 文六(しし ぶんろく、1893年7月1日 - 1969年12月13日)は、日本の小説家、演出家。本名:岩田 豊雄(いわた とよお)。演劇の分野では本名で活動し、久保田万太郎、岸田国士らと文学座を創立して顧問となった。小説家としては、『悦ちゃん』などのユーモアに富む健全な家庭小説を書いて流行作家となり、戦中は本名で『海軍』を発表。戦後も『てんやわんや』『自由学校』『娘と私』『大番』などで人気を博した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。号は牡丹亭。愛媛県宇和島市津島町に句碑がある。 母方の祖父は実業家(花火師)の平山甚太。弟の岩田彦二郎は札幌グランドホテル社長。 日清戦争開戦の前年、1893年に、横浜市中区月岡町9番地(現:横浜市西区老松町の迎賓館付近)に誕生。
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城戸 幡太郎(きど まんたろう、1893年7月1日 - 19… 城戸 幡太郎(きど まんたろう、1893年7月1日 - 1985年11月18日)は、日本の心理学者・教育学者。北海道大学名誉教授。筆名は「秋津 豊彦」。 1893年、愛媛県で生まれた。旧制愛媛県立松山中学校、巣園学舎、早稲田大学高等予科を経て、東京帝国大学文科大学心理学科選科に進んだ。 選科卒業後は、1924年に法政大学教授に就いた。1931年から1933年まで、岩波講座『教育科学』の編集者の一人として同書刊行にあたった。1933年、雑誌『教育』を創刊。1936年10月、保育問題研究会を設立。1937年5月18日教育科学研究会を組織。財団法人滝乃川学園教育部長なども兼務した。1937年の東北、北海道の冷害を留岡清男と視察。
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大賀 悳二(おおが とくじ、1893年7月1日-1964年2… 大賀 悳二(おおが とくじ、1893年7月1日-1964年2月24日)は、日本の工学者。専門は機械工学。特に、蒸気タービンの研究や伝熱工学理論で知られた。位階は正三位。室蘭工業大学元学長。北海道大学名誉教授。日本学術会議会員。岡山県出身。「大賀徳二」とも表記される。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1918年東京帝国大学工科大学機械工学科卒業。浅野造船所に入社。1922年文部省在外研究員としてアメリカやヨーロッパを留学。1925年北海道帝国大学工学部教授(原動機第一講座担当)。1952年北海道大学工学部長・同大学院工学研究科長。1956年北海道大学停年退官。
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山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月… 山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。陸軍司政長官。旧姓・伊藤。 三重県出身。伊藤茂右衛門の四男として生まれ、山内家(本籍:愛知県)の養子となる。第八高等学校を卒業。1918年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、内務省に入省し警保局嘱託となる。 以後、高知県警部・警務課長、神奈川県警視・監察官、福井県警視・特別高等課長、山口県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、高知県書記官・総務部長、鹿児島県書記官・総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任。
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榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6… 榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6月28日 - 1974年〈昭和49年〉9月25日) は、日本の自動車実業家、自動車技術者。位階は正五位。 榊原はアート商会を創業し、後にアート金属工業へと改組し、同社をピストン製造の大手企業へと発展させた。本田技研工業の創業者である本田宗一郎の若い時分の雇い主だったことでも知られる。(→#本田宗一郎との関係) 榊原家は武士の家系で、上田藩領主の藤井松平家に出仕し、特に財務家としての能力を代々評価され、勘定方を拝命していた。しかし、明治維新に伴い失業し、榊原郁三の父である泰一郎は手先の器用さを活かして家具職人に転身して暮らしていた。 泰一郎は「これからの世の中、科学で身を立てるがよい」を口癖としており、子である榊原も子供の頃からまず木工に親しみ、小学生の時に木製の自転車を自作して村の人々を驚かせてしまうような子供だった。
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伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年(明治26年)6月27… 伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年(明治26年)6月27日 - 1962年(昭和37年)11月2日)は、日本の実業家・政治家。北海道札幌市出身。伊藤組土建初代代表取締役社長。北海道庁立札幌中学校卒。 病弱だったため、進学を断念。伊藤組に入社し、同社・支配人田中銀次郎が教育。1920年に外遊し、近代的な土木建築経営を身近に見て翌年帰国。1923年父より家督を相続し、組報第一号刊行。設計部門を置き、鉄筋コンクリート造建築に脱皮を図る。組織も建築部・設計部・木材部・造材部と部制を敷き、さらに、伊藤組土建・伊藤組木材・伊藤組鉄工・伊藤組農林に発展させ設立させる。1946年、北海道多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年10月2日に就任し、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任。
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安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26… 安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、品川区長。 古本信蔵の長男として福岡県小倉市(現北九州市小倉北区・小倉南区)に生まれ、のち安田よしの養子となる。1915年(大正4年)中央大学を卒業し三井物産に入社。1921年(大正10年)東京市に奉職し、建築局庶務掛長、土木局庶務課庶務掛長、建築課管理掛長、臨時東京市庁舎建築部庶務課長を経て、1936年(昭和11年)10月、江戸川区長に就任。1938年(昭和13年)5月まで務めたのち、市民局防衛課長、総務局市計画課長を歴任した。1942年(昭和17年)9月、品川区長となった。
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外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - … 外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - 1944年4月22日)は、日本の美術評論家。中外商業新報社学芸部長、参事を歴任。本名は外狩 顕章。愛知県安国寺第15代住職。 明治26年、愛知県生まれ。曹洞宗大学(駒澤大学の前身)、1913年(大正2年)二松学舎卒業。同年、中外商業新報社入社。美術記者となる。1924年学芸部長、1928年(昭和3年)参事を歴任。1943年嘱託。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に造詣が深く、美術骨董界に貢献した。書道と南画(文人画)をよくし、また漢詩、俳句にも親しんだ。 1930年、中川紀元らにより設立された「六潮会」に参加。洋画から牧野虎雄、木村荘八、中川紀元、日本画から中村岳陵、山口蓬春、平八郎、評論家の横川殻一郎が加わる。
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実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月2… 実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月25日 - 1967年(昭和42年)9月4日)は東京都出身の実業家。日揮の創業者。 学習院初等科・中等科、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後、株式会社横浜正金銀行(現在三菱東京UFJ銀行)、株式会社島商店を経て、1928年(昭和3年)10月25日に日揮株式会社の前身日本揮発油株式会社を創立。 1928年(昭和3年)10月から1966年(昭和41年)5月まで社長を務めたのち会長に就任。翌1967年(昭和42年)9月4日病気のため急逝(享年74)。 その後、遺産を寄附し、日揮・実吉奨学会前身の実吉奨学会を、1968年(昭和43年)、人材の育成と科学・技術の発展に貢献するため、理工系の学科を専攻する大学生・大学院生に対する奨学金の貸与(日本の学生対象)ならびに給与(日本国外から日本国内の学校への留学生のみを対象)、および、若手研究者への研究費助成を行うことを目的として、設立した。
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八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6… 八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6月24日 - 1974年 <昭和49年> 11月3日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 広島県出身。1911年広島商業学校卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒業。福田徳三門下。1919年神戸高等商業学校教授。3年ほど勤めたのち、ドイツ留学し、ベルリン大学(1学期間研究生)やベルリン高等商業学校(de:Handelshochschule Berlin)で学んだ。 1929年神戸商業大学助教授。1930年神戸商業大学教授。1950年神戸大学学生部長。1954年神戸大学評議員。1957年に退官後、神戸大学名誉教授、福岡大学教授。
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高田 茂(たかだ しげる、1893年(明治31年)6月23日… 高田 茂(たかだ しげる、1893年(明治31年)6月23日 - 1958年(昭和33年))は、昭和期の政治家。長野県飯田市長。旧名は上原 悌三郎。 長野県北安曇郡池田町村(現池田町)で、上原義一郎の四男として生まれた。旧制大町中学(現長野県大町岳陽高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校卒業。1929年(昭和4年)下伊那郡上飯田町(現飯田市)の旧庄屋で長野県会議長を務めた高田茂の養子となり、同名を襲名した。 1933年(昭和8年)上飯田町会議員、1937年(昭和12年)飯田市会議員を経て、1947年(昭和22年)に施行された初の公選による飯田市長選挙で当選し、1955年(昭和30年)3月まで2期務めた。
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物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930… 物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930年7月25日)は日本ホーリネス教会ブラジル宣教師である。ブラジル福音ホーリネス教団の生みの親とされている人物。 長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)の万福寺の住職の次男として生まれる。東京鉄道学校で学び、国鉄に就職する。1915年、同僚の死を通して、求道を始め、同県上諏訪町(現諏訪市)の福音伝道館に通い、高橋俊三に導かれて、中田重治より洗礼を受ける。 1917年に聖会で献身を決意する。1918年に柏木聖書学院に入学する。1919年に卒業して物部さよと結婚して物部姓になり、小樽教会に赴任する。1922年に品川教会に転任する。 1925年にブラジル伝道を決意し、7月に日本ホーリネス教会最初の宣教師として、ブラジルのサントスに行く。
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村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月2… 村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月21日 - 1968年〈昭和43年〉10月25日)は、日本の翻訳家・児童文学者。 児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。基督教文筆家協会(現・日本クリスチャン・ペンクラブ)初代会長(在任、1952年〈昭和27年〉6月 - 1958年〈昭和33年〉10月)。 山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名:村岡 はな(むらおか はな)、旧姓:安中(あんなか)。 クリスチャンである父の希望により、2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。
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武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16… 武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家。 長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。
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小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
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田口 長治郎(たぐち ちょうじろう、1893年6月10日 -… 田口 長治郎(たぐち ちょうじろう、1893年6月10日 - 1979年5月4日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(7期)。 長崎県島原市に生まれる。長崎県立島原中学校を経て、農林省水産講習所(後に東京水産大学を経て現東京海洋大学)本科卒業。長崎県、山形、滋賀、茨城各県の水産試験場勤務。1937年農林省水産局に入る。1941年、華中水産株式会社に転職し、取締役副社長となる。戦後は長崎で共和水産株式会社を設立して社長になる。また、日本遠洋底引網漁業協会理事長、長崎県水産振興対策本部副本部長、県漁港協会会長に就任した。 1949年の第24回衆議院議員総選挙長崎1区に民主自由党から出馬し、初当選。
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酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月1… 酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月10日 - 1971年〈昭和46年〉2月16日)は、日本の政治家・篤志家・華族。中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。 備後福山藩の最後の藩主だった華族の阿部正桓伯爵の次男として生まれ、旧姫路藩主家で伯爵家の酒井家の当主酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年(大正12年)9月22日に貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し1945年(昭和20年)12月17日まで務める。
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古川 龍生(ふるかわ りゅうせい、1893年6月10日 - … 古川 龍生(ふるかわ りゅうせい、1893年6月10日 - 1968年5月23日)は、日本の版画家。本名・龍夫。 栃木県下都賀郡桑村大字羽川(現在の小山市羽川)出身。栃木県立宇都宮中学校、逗子開成中学校を経て、25歳の時に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科予科に入学した。1924年に東京美術学校日本画科を卒業した。卒業後は版画に取り組み、1924年に第6回日本創作版画協会展に木版画が入選した。東京美術学校卒業後は教師として働きながら作品を制作し、日本創作版画協会や春陽会に出品した。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に"A Pose of a Woman Golfer (in Reposing)"と"A Pose of a Woman Golfer (in Striking)"(ともに和題不明)と題する作品を出品し、1936年ベルリンオリンピックの芸術競技に「ゴルフ」と題する作品を出品した。
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沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6… 沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6月7日 - 1970年2月13日)は、日本の実業家。鳥取県岩井郡浦富村(現・岩美郡岩美町)出身。 オックスフォード大学卒。三菱財閥本社にはいる。その後、三菱より富士紡績に派遣され、大正14年32歳にして取締役就任、昭和19年代表取締役専務(社長に継ぐ次席幹部)に就任。鈴木商店再建のため日本商事(後の双日)設立に尽力、各務記念財団理事、後楽社社長にもなる。 終戦後、財閥解体により公職追放。混乱期の中、大山ハム、東京特殊紡績、ジャパパム・エンジニアリング・カンパニーを創業し社長を務める。日伯中央協会理事として日本・ブラジルの友好につとめる傍ら、(財)日本科学振興財団の役員(評議員)として設立に尽力する。
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酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6… 酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6日 - 1962年〈昭和37年〉11月28日)は、出羽庄内藩11代藩主、伯爵・酒井忠篤の四男。鶴城書道会会長。致道博物館顧問。東北農家研究所相談役。山形県社会教育委員。通称は小三郎、号は南荘。子に酒井忠一。 旧庄内藩酒井家当主・酒井忠篤の四男として鶴岡市家中新町に生まれる。伯父(忠篤の長兄)酒井忠恕の未亡人の瑛昌院に奉仕して桧物町邸に居住していたが、没後鷹匠町に移って、長い間酒井家の学問所・文会堂で経書を講じた。早くから漢学を赤沢源也に、漢詩と書道を黒崎研堂に学んでいて、昭和37年(1962年)3月に、松平穆堂の後を継いで鶴城書道会会長となった。
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長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 … 長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 - 1985年(昭和60年)12月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての合唱指揮者。 兵庫県生まれ。1917年(大正6年)大阪音楽学校選科修了。戦前は大阪音楽学校教授を務めるかたわら関西合唱界の指導に努め、1930年(昭和5年)の関西学生合唱連盟の設立にも寄与した。 戦後の1946年(昭和21年)、関西合唱連盟の設立に尽力し、初代理事長に就任し、1969年(昭和44年)まで理事長を務めた。1948年(昭和23年)4月、学制改革により関西学院高等部音楽科教諭として着任、定年後も講師として残り1961年(昭和36年)まで勤めた。この間関西学院グリークラブをはじめとする合唱団の指導に広く携わり、第1回全日本合唱コンクール(1948年)をはじめコンクールの審査員等も務めた。
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持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
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宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日… 宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日 - 1972年(昭和47年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、秩父市名誉市民。 埼玉県秩父郡大宮町(現:秩父市)で生まれる。1915年、東京高等商業学校を卒業。書籍雑貨商を営む。 秩父町会議員、所得税調査委員、金銭債務調停委員、商工経済会評議員を務める。 実業界では、埼玉県文具卸施設組合理事長、秩父生活必需品小売業統制組合理事長、秩父商工会議所副会頭、埼玉県信用金庫理事、埼玉県商店会連合会長、秩父市商店連盟連合会長、全日本商店会連合会理事、秩父合同運送取締役社長、宮前商店取締役社長、養成社取締役社長、秩父乳業取締役社長などを務めた。
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平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日… 平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉9月15日)は、岩手県出身の教員・酒造家・興行主。紫波郡日詰町(現・紫波町)議会議員・日詰町議会議長。言語学者の金田一京助は実兄。 1893年(明治26年)6月3日、岩手県盛岡市下厨河65番地の金田一家に生まれた。父は金田一久米之助、母は金田一ヤス。直衛は四男であり、兄に金田一京助がいる。 岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)を卒業した。1916年(大正5年)12月には岩手県紫波郡日詰町の平井キヌと結婚して平井家の婿養子となった。父の金田一久米之助が事業に失敗したことで経済的に苦しく、結婚の代わりに帝国大学進学に際して平井家から学費援助を受ける条件があったためである。
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淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年(明治26年)… 淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年(明治26年)6月2日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、官選沖縄県知事。 福岡県出身。淵上仁七郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省し専売局書記、同副参事を務める。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 1923年、内務省に転じ兵庫県明石郡長に就任。以後、同県川辺郡長、長崎県地方課長、石川県商工水産課長、宮崎県地方課長、三重県学務部長、青森県書記官・警察部長、岩手県書記官・総務部長、大分県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長などを歴任。
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河村 大助(かわむら だいすけ、1893年〈明治26年〉6月… 河村 大助(かわむら だいすけ、1893年〈明治26年〉6月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月12日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。東京都出身。 東京府西多摩郡小河内村(現東京都西多摩郡奥多摩町)で生まれた。1919年(大正8年)に日本大学法学部を卒業。1922年(大正11年)に弁護士になった。司法省の弁護士考試委員、司法研修所教官、司法修習生考査試験委員会臨時委員などを務めたが、殆ど在野法曹であった。 民事が専門で、三越、日本電気の顧問もして、保全経済会事件の和議申立人などもした。 1956年(昭和31年)11月22日に最高裁判所判事となる。最高裁判事就任の抱負について「判決を書いたことはない。
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国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2… 国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2日 - 昭和11年(1936年)8月3日)は、日本画家。 1893年、「北国府屋」の多三郎・千与の長男として岡山県総社南本町で生まれた。本名は宗一。 絵を描くのが好きだった宗一は、申義小学校(現、総社小学校)を卒業後、服部村深町(現、総社市深町)の中島雲哉の許へ入門し、南画の画法を学んだ。25歳の時に雲哉のすすめにより名古屋に出て矢吹璋雲の弟子となり、璋泉と号して8年にわたって修業する。 大正3年(1914年)に帰郷して、天童と号し画業に励んだ。大正6年(1917年)正恵と結婚、やがて清山と改号した。 大正末年頃、清山は松尾華作翁と語らい、近郷の同好者数十名を集めて「杉風社」を結成し、近くの宝満寺を借りて作画の指導にあたった。
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三上秀吉(みかみ ひできち、1893年6月1日 - 1970… 三上秀吉(みかみ ひできち、1893年6月1日 - 1970年10月2日)は、日本の作家。和歌山県生まれ。旧姓・龍田、結婚して三上姓となる。香川県立高松中学校卒。『婦人之友』編集長ののち志賀直哉に師事。娘の三上慶子も作家で、戦時中熊本県球磨郡に家族で疎開、1951年慶子とともに西日本新聞文化賞を受賞。
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山根 キク(やまね きく、1893年6月1日 - 1965年… 山根 キク(やまね きく、1893年6月1日 - 1965年4月23日)は、日本の考古学、歴史学の女性ジャーナリスト、社会活動家、政治家。「竹内文書」から強く影響を受けており、キリストやモーセの墓が日本にあると主張した。本名は山根 菊子(やまね きくこ)。 山根は「竹内文書」から強く影響を受けており、キリスト教に関してエキセントリックな個人的見解を発表した。キリストは処刑されておらず、死んだのは弟で、キリストは日本に来て、日本の女性と結婚し娘をもうけたと主張した。そして山野を歩き回っては、キリストの墓やモーセの墓を「発見」し、キリスト教を日本化しようとした。山根は『光りは東方より』で、「キリストの遺言状」を知っていると述べ、石川県押水町の通称・三ツ子塚という古墳をモーゼの墓であると主張した。
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宮村 才一郎(みやむら さいいちろう、1893年(明治26年… 宮村 才一郎(みやむら さいいちろう、1893年(明治26年)6月 - 1948年〈昭和23年〉2月8日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・大島。 新潟県、のちの高田市出身。大島久作の二男として生まれ、同年、宮村寅吉の養子となる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。民間企業に勤めた後、1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、山梨県西山梨郡長、同北巨摩郡長、地方事務官として山梨県・福岡県各勤務、佐賀県書記官・警察部長、鳥取県書記官・内務部長、岐阜県書記官・総務部長、内務書記官・地方局監査課長、東京府書記官・総務部長などを歴任。
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前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31… 前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31日 - 1970年(昭和45年)6月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県名草郡安原村字吉原(現・和歌山市)で前田和一の長男として生まれ、1910年、前田勝之助の養子となる。北海道庁立上川中学校を経て、慶應義塾大学部理財科で学んだ。北海道に戻り農業を営む。 旭川信用組合監事、北日本無尽 (株) 監査役、下村育英財団理事、前田和一商店社長、旭川小型モータース社長、旭川信用金庫理事、旭川瓦斯 (株) 常任監査役、人事調停委員などを務めた。 政界では、旭川市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員を歴任。この間、旭川市長候補者に推薦されたが承諾しなかった。
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三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967… 三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967年7月30日)は、日本の実業家で近畿日本鉄道株式会社元代表取締役会長、近畿車輛株式会社取締役。京都府出身。 1915年(大正4年)、関西大学専門部法律学科在学中に大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)に入社。会計課長から総務部長を経て、1934年(昭和9年)には常務取締役、3年後専務取締役に就任。1944年(昭和19年)には常任監査役となるが、1947年(昭和22年)、公職追放令により同社を退職。1951年(昭和26年)、公職追放解除となり、再び近畿日本鉄道取締役に就任。1954年(昭和29年)には同社取締役会長に選ばれた。1960年(昭和35年)には関西大学第四代理事長に就任した。
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菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 19… 菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 1963年12月17日)は、日本の冶金学者。元日立製作所中央研究所所長。元日本金属学会会長。帝国学士院賞受賞。 宮城県仙台市出身。1920年東北帝国大学理学部物理学科卒業。1926年東北帝国大学理学博士。1933年戸畑鋳物(のちの日立金属)入社。1940年帝国学士院賞受賞。1948年日立製作所常務。1951年日立製作所中央研究所所長。1959年日本金属学会会長。日立化工社長、日本学術会議会員を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 19… 斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 1981年3月4日)は、日本の国文学者。筆名・伎世江。 1893年、山口県熊毛郡で生まれた。徳山中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学国文科に進学。1918年に卒業。 大学卒業後は教諭となり、埼玉師範学校に勤務。次いで1920年より広島高等師範学校教授、1933年に退職し、欧米を訪ねた。1938年、学位論文『応永永享時代文芸意識の研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1940年、北京師範大学教授として中国に赴任。1942年、京城帝国大学教授に就いた。 1946年、広島文理科大学教授に就いた。1953年、旧・東京都立大学教授に転じた。
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市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 196… 市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
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及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26… 及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、大正から昭和期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺町、江刺市を経て現奥州市)で生まれる。岩手師範学校を経て、1917年(大正6年)東京高等師範学校(のち東京教育大学)を卒業。 岩手県師範学校教諭、島根県立杵築中学校(現島根県立大社高等学校)教諭を歴任。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格。神奈川県視学官に就任。その後、横浜市で弁護士を開業し、横浜弁護士会副会長も務めた。その他、私立本牧中学校(のち現在の横浜中学校・高等学校に合併)校長兼理事長となった。
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浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
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