藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3… 藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3月4日 - 1945年〈昭和20年〉3月16日)は、日本の仏教学者、教育者、僧侶。大正大学文学部教授、立教大学文学部教授。京都・帰命院住職、東京芝・天徳寺住職。近代的な研究手法により、従来から不明瞭な部分が多かった浄土教の歴史解明に深く貢献した。号は摂蓮社心誉常阿。 1892年(明治25年)3月4日、茨城県猿島郡岩井村(岩井町、岩井市を経て、現在の坂東市)に生まれる。 1907年(明治40年)に得度(出家)し、東京・増上寺において堀尾貫務から宗脈・戒脈を授けられる。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大史学科国史学専修を卒業したのち、1921年(大正10年)、同大史料編纂所に史料編纂補助嘱託として入り、のちに史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)まで勤務した。
妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962… 妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962年4月19日)は、日本の翻訳家・探偵小説作家。創作では妹尾アキ夫名義での活動が多い。 岡山県津山市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、1922年(大正11年)頃から雑誌『新青年』等で英米中心の探偵小説の翻訳を手がける。ステイシー・オーモニア(英語版)、L.J.ビーストン、R.A.フリーマン、ハリス・バーランド、ブリットン・オースティン、アガサ・クリスティーの短編が特に多かった。1925年(大正14年)以降はアキ夫名義で創作も手がけ、30作から40作ほどの短編を発表している。 また、『新青年』で月評を担当していた胡鉄梅、『宝石』で月評を担当していた小原俊一は、共に妹尾の変名だといわれている。
郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 19… 郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 1975年10月25日)は、日本画家、日本芸術院会員。 富山県小杉町出身。本名・與作。1915年東京美術学校日本画科卒業、1916年渡米、1922年院展日本美術院賞受賞、1924年日本美術院同人、院展に出品を続け、1934年帝国美術学校日本画科教授、1936年多摩美術学校日本画科教授、1949年日展審査員、1956年多摩美術大学教授、1958年日本美術院評議員、1960年日本芸術院賞受賞、1971年勲四等旭日小綬章受章、1972年日本芸術院会員。没後勲三等瑞宝章追贈。 壁画を描いた。長女の郷倉和子も日本芸術院会員。
長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1… 長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1974年2月20日)は、日本の彫刻家。特に相撲をテーマにした作品を得意とした。本名・勝之。 富山県射水郡大島村(現在の射水市)に生まれた。1910年(明治43年)に富山県立工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)、1915年(大正4年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1920年(大正9年)の第2回帝展に「露光」が初入選してから連続入選を重ねた。1930年(昭和5年)の第12回帝展において「円盤」が推薦となり、以後無鑑査出品となった。 日展審員、日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。
杉野 芳子(すぎの よしこ、1892年3月2日 - 1978… 杉野 芳子(すぎの よしこ、1892年3月2日 - 1978年7月24日)は、20世紀の大正時代から昭和時代にかけて活動した日本のファッションデザイナーで、学校経営者。「ドレメ式洋裁」の創案者で、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者。 1926年(大正15年)、ドレスメーカー女学院(現在のドレスメーカー学院)を設立。洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使った、セミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育。安価で良質な洋服の普及を目指した。 戦後はいくどとなく渡仏。オートクチュールの世界で巨匠とまでいわれていた、ジャック・ファット、クリスチャン・ディオール、ピエール・バルマンなどと親交があった。
吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日… 吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日 - 1958年(昭和33年)12月21日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)、愛知県会議員(3期)、一宮市長(2期)、一宮市会議員(4期)。 愛知県中島郡一宮町(現一宮市)に生まれる。1911年(明治44年)3月、明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。1917年(大正6年)、愛知県立医学専門学校卒業。1918年(大正7年)、吉田医院を開業。 1921年(大正10年)、一宮市の市制施行に際し、一宮市会議員に初当選。1927年(昭和2年)、京都帝国大学で医学博士を修了。 1931年(昭和6年)9月、愛知県会議員選挙に立憲民政党公認で初当選。
西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 195… 西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 1954年11月11日)は、沖縄県の医師で、宮古支庁、宮古群島政府及び琉球政府の政治家。終戦直後に宮古支庁長や宮古群島知事を務めた。沖縄県宮古郡伊良部町(現在の宮古島市)出身。 明治25年(1892年)3月2日生まれ。大正5年(1916年)に熊本医学専門学校(現在の熊本大学医学部)を卒業する。 その後宮古島に帰島し医院を開業する。昭和10年(1935年)に伊良部村長となり、昭和12年(1937年)に沖縄県会議員に選出される。 沖縄戦後は、進駐したアメリカ軍によって宮古支庁長に任命され、1950年には宮古群島知事に選出された。 その後1952年の第1回立法院議員総選挙に出馬し当選する。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25… 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。 1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現:東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日… 西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期。第二次世界大戦中、エニウェトクの戦いにて戦死した。最終階級は陸軍少将、死後中将に特進。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。 高知県土佐郡一宮村薊野(現・高知市薊野)に又吉・令の次男として生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業後、歩兵第41連隊附となり、中国東北部に駐屯する。 内地帰還後、陸軍士官学校生徒隊附、歩兵第41連隊中隊長、歩兵第25連隊大隊長を経て、1933年(昭和8年)歩兵第13旅団副官となり、再び中国東北部に出征する。
西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - … 西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - 1971年11月7日)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として真光教会や浦和や福島で司牧したほか、立教大学でチャプレン、学生部長および講師を務めた。 1892年(明治25年)、東京府東京市日本橋区瀬戸物町出身。1916年(大正5年)、立教大学文学部卒業。同級生に中国の政治家の陳樹人(広東省長、国民党外務大臣、嶺南画派の創始者の一人)がいる。 1923年(大正12年)に日本聖公会の執事となり、1926年(大正15年/昭和元年)に司祭に按手。 聖職者として浦和や福島で司牧したほか、1935年(昭和10年)に当時本所区(現・墨田区)にあった真光教会の第2代牧師として着任。
永井 英夫(ながい ひでお、1892年(明治25年)3月 -… 永井 英夫(ながい ひでお、1892年(明治25年)3月 - 没年不明)は、日本の発明家。 愛媛県宇和島市出身。1906年(明治39年)に大阪市で莫大小卸商を開業し、1909年(明治42年)に永井莫大小製造所と改め工場を新設した。1926年(大正15年)2月に新工場が竣工するとともに営業所を移転し、新たに輸出部を設けた。 莫大小編成機色染装置を発明した。この機械は1918年(大正7年)11月の第1回発明博覧会において、皇后陛下の台覧を賜り、1929年(昭和4年)6月に天覧を賜った。 1926年(大正15年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
岸本 水府(きしもと すいふ、1892年2月29日 - 19… 岸本 水府(きしもと すいふ、1892年2月29日 - 1965年8月6日)は、大正・昭和初期の川柳作家、コピーライター。番傘川柳社会長。日本文藝家協会会員。本名・龍郎(たつお)。三重県に生まれ、大阪府で育った。 1909年大阪成器商業学校(現・大阪学芸高等学校)卒業。同年西田当百に師事、1913年に西田当百等とともに番傘川柳社を組織し『番傘』を創刊、のちに編集主幹として主宰。そのかたわら、コピーライターとして1909年大阪貯金局にはいり、大阪新報社勤務をへて、1918年桃谷順天館に転じ、1920年福助足袋(現:福助)、1931年壽屋(現:サントリー)、グリコ(現:江崎グリコ)の広告を担当。グリコでは広告部長を務めた。
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月2… 磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日 - 1979年〈昭和54年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県多野郡万場町生利(現・神流町)出身。農業・磯田芳十郎の息子として生まれる。日本中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業し、野砲兵第17連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1925年(大正14年)5月、アメリカ大使館付武官補佐官に発令。
福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 -… 福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家。
中村 文夫(なかむら ふみお、1892年 <明治25年> 2… 中村 文夫(なかむら ふみお、1892年 <明治25年> 2月28日 - 1982年 <昭和57年> 9月20日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1916年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友総本店に入社。1921年に日本板硝子に転じ、1933年に取締役に就任し、1942年に常務を経て、1943年12月に社長に就任。1968年11月に相談役に退いた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年9月20日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。
牧田 甚一(まきた じんいち、1892年 <明治25年> 2… 牧田 甚一(まきた じんいち、1892年 <明治25年> 2月27日 - 1986年 <昭和61年> 11月12日)は、日本の経営者。熊谷組社長、会長を務めた。鳥取県倉吉市出身。位階は従四位。 1912年に岩倉鉄道学校建築科を卒業し、1915年に飛島組に入社。1938年に熊谷組の設立に携わり、専務に就任し、1959年3月に副社長に就任し、1967年12月には社長に昇格。1978年12月に会長に就任。 1955年7月に藍綬褒章を受章し、1974年に勲三等旭日中綬章を受章。 1986年11月12日急性心不全のために死去。94歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
佐伯 達夫(さえき たつお、1892年2月27日 - 198… 佐伯 達夫(さえき たつお、1892年2月27日 - 1980年3月22日)は、大阪府出身の野球選手。元・大鋼運輸社長。1967年から1980年まで日本高等学校野球連盟の会長を務めた。
辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 … 辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 - 1969年(昭和44年)8月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。祖父は佐賀の干拓の父とも言われる辻演年。弟は後に参議院議員となる福岡日出麿。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位勲二等。 1892年、東与賀村長辻武一郎の長男として東与賀村住吉に生まれる。佐賀中学校を卒業後軍人を志し熊本陸軍幼年学校に進学。さらに陸軍士官学校に進んだ(陸士25期)。砲兵畑を進み、久留米野砲24連隊、朝鮮龍山砲兵隊などに所属。1938年(昭和13年)には野砲兵23連隊長として上海に入り江南の治安確保に当たった。さらに南京政府軍事顧問、第20砲兵団長、中部軍兵器部長などを経て1945年(昭和20年)陸軍兵器学校長となり中将に昇進した。
加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月… 加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月25日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和期の政治家、労働運動家。衆議院議員(7期、日本社会党)、労働大臣(第2代)。碧水、率とも称した。 戦前の労働運動で活躍し、「火の玉勘十」の異名を取った闘士型の運動家。立憲民政党、国民同盟の衆議院議員を務めた加藤鯛一は実兄。婦人運動家、政治家の加藤シヅエは、夫人で「おしどり議員」として知られた。息子は加藤宣幸、娘は加藤タキ(多喜子)。 1892年(明治25年)2月25日に、愛知県丹羽郡岩倉村(現在の岩倉市)で生まれる。 日本中学などを経て、日本大学法学部中退。 当初は国家主義者として出発し、1918年(大正7年)シベリア出兵に参加するが、戦争の悲惨さを体験して、反戦・労働運動に転向した。
原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - … 原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - 1946年12月20日)は、日本の眼科医。後にVogt-Koyanagi-Harada 病と統一した名前になる疾患を1926年に原著として発表した。 1892年2月25日、熊本県天草郡(現・天草市御領)に生まれた。父親は裁判所書記であった。その後球磨郡多良木で、さらにその後天草市本渡で育つ。学校教育は熊本(県立中学濟々黌、第五高等学校)を経て1913年東京帝国大学医学部に入学。学生時に陸軍省依託学生となる。1917年卒業。最初は陸軍軍医その後内科を選び駒込病院などに勤務。結婚相手の父親が長崎の眼科開業医原満里であったので、東京大学眼科に転向した(1922年1月)。
小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日… 小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日 - 1943年(昭和18年)9月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1913年(大正2年)5月26日に陸軍士官学校(25期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第一大隊付となる。1916年(大正5年)11月30日に陸軍砲工学校(22期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1917年(大正6年)8月6日に工兵中尉に昇進、1920年(大正9年)7月10日には東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。 1922年(大正11年)8月15日に工兵大尉に昇進し陸軍工兵学校教官、陸軍技術本部部員等を経て、1928年(昭和3年)8月10日工兵少佐に昇進後、陸軍省兵器局課員等を経て、1932年(昭和7年)8月8日工兵中佐に昇進。
中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 19… 中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 1953年3月25日)は、日本の経営者で、プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の初代オーナーも務めた。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の長男で、弟には中部謙吉、中部利三郎。1924年9月に林兼商店専務を務め、1945年12月に大洋漁業社長に就任。1947年8月に公職追放を受け、いったん辞任し、1950年10月に社長に復帰。 1941年に水産功労者の表彰を受ける。 1953年3月25日在職中に胃潰瘍のために山口県下関市の自宅で死去。61歳没。
本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月2… 本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月24日 - 1937年(昭和12年)8月14日)は、大正期から昭和初期に大阪を中心に活躍した建築家。兵庫県出身。
武満 国雄(たけみつ くにお、1892年(明治25年)2月2… 武満 国雄(たけみつ くにお、1892年(明治25年)2月23日-1942年(昭和17年)7月15日)は、大正時代の野球選手・学生野球指導者。 鹿児島県薩摩郡川内町生まれ。代議士の武満義雄の次男として生まれる。1914年(大正3年)法政大学に入学。法大野球部草創期の主力選手で、ポジションはサードまたはライト。1922年(大正11年)12月から1925年(大正14年)5月まで法大野球部監督。同年6月から1927年(昭和2年)10月まで明治神宮外苑野球場建設委員常任幹事。同年10月から1938年(昭和13年)4月まで明治神宮外苑管理署野球場主任。同年5月から財団法人武蔵野カントリークラブ支配人を務めた。
佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 … 佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 - 1953年〈昭和28年〉3月9日)は、日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。 豊後杵築藩の侍医を勤めた佐野家に生まれる。 第七高等学校造士館を経て東京帝国大学法学部を卒業後は大学院で2年間、矢作栄蔵の下で農政学を学び、新人会創立に参加した。日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年、満鉄東亜経済調査局に嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学と経済史を講義した(東海林太郎は佐野の教え子という)。
天野 辰夫(あまの たつお、1892年〈明治25年〉2月22… 天野 辰夫(あまの たつお、1892年〈明治25年〉2月22日 - 1974年〈昭和49年〉1月20日)は、大正から昭和にかけての弁護士、国家主義者。 出生地は島根県松江市で、出身は静岡県浜松市。 島根県松江市に生まれる。天皇主権説を唱える上杉慎吉に影響を受けて信奉し、独得の皇道理論を構成。東京帝国大学在学中の1918年(大正7年)に大学内で興国同志会を組織し、新人会に対抗した。 1919年(大正8年)、興国精神復興運動に参画、弁護士を開業した。1923年(大正12年)には法政大学の教授となった。1926年(大正15年)に起きた、父が社長を務める浜松の日本楽器争議の際には、日本主義労農同志会を組織して争議団に攻撃して対抗した。
團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 … 團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 - 1973年〈昭和48年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家、美術史家。男爵。 1892年(明治25年)、三井合名会社理事長團琢磨の長男として、福岡県大牟田市に生まれる。 東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学ぶ。東京帝国大学文学部美術史学科助教授時代の門人に坂倉準三、富永惣一、今泉篤男などがいる。デビュー作『パリ万国博覧会日本館』を設計する機会を坂倉に与えたのは團だった。また、坂倉の初期の代表作で昭和期の代表的な住宅建築である飯箸邸(東京都世田谷区等々力)は、1941年(昭和16年)に團の都内別邸として建てられたものである。
川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2… 川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年(昭和30年)1月24日)は、日本の実業家。阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。位階勲等は従五位勲六等。大日本帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、新明和工業創業者を務めたため、戦後は公職追放指定を受けた。 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。 旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学部理財科を卒業。合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。1920年(大正9年)に父が神戸に創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳で所長に就任。
川崎 末五郎(かわさき すえごろう、1892年(明治25年)… 川崎 末五郎(かわさき すえごろう、1892年(明治25年)2月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の内務官僚、政治家。福島県知事(官選第31代)、衆議院議員(5期)。旧姓は神田。 京都府出身。神田槌之助の三男として生まれ、衆議院議員川崎安之助の養子となる。鹿児島高等農林学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、東京府属、兵庫県警視、台湾総督府事務官、朝鮮総督府事務官、内務書記官・警保局図書課長、兵庫県書記官・学務部長、兵庫県立神戸高等商業学校校長取扱、内務書記官・警保局高等課長などを歴任。
御影池 辰雄(みのいけ たつお、1892年(明治25年)2月… 御影池 辰雄(みのいけ たつお、1892年(明治25年)2月20日 – 1969年(昭和44年)4月17日)は、日本の内務官僚。関東州庁長官。南満州鉄道株式会社理事。 石川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。神奈川県属、滋賀県警視、同栗太郡長、同理事官、同内務部教育課長・官房主事、同視学官、広島県書記官・学務部長を歴任した。 1929年(昭和4年)、関東庁事務官に転じ、内務局学務課長・図書館長・体育研究所長、長官官房文書課長、専売局長、大連民政署長、警務局警務課長などを経て、1936年(昭和11年)に関東州庁長官に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は満州国内務局長官に任命され、1939年(昭和14年)には安東省長に転じた。
平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年〈明治25年〉2月… 平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年〈明治25年〉2月18日 - 1987年〈昭和62年〉5月10日)は、日本のテンペラ画家。北海道小樽市出身(東京府生まれ)。雅号は大暲(たいしょう)、後に光彩(こうさい)。 戦後の混乱期に発生した大量毒殺事件である帝銀事件の犯人として逮捕され、死刑が確定するが刑の執行も釈放もされないまま、逮捕から死までの39年間を獄中で過ごした。 平沢は一流の画家であった。二科展に3回、文展に16回、光風会には毎年入選し、「帝展無鑑査」(過去の輝かしい実績を評価され審査員の鑑査なしに無条件で出品できること)であった。 実力派の画家としての地位を確立していた平沢は、1948年1月26日に帝国銀行(後の三井銀行。
吉野 繁(よしの しげる、1892年(明治25年)2月17日… 吉野 繁(よしの しげる、1892年(明治25年)2月17日 - 1962年(昭和37年)6月1日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 1892年(明治25年)に大阪府で生まれた。陸軍経理学校第8期主計候補生として1914年(大正3年)5月24日に卒業した。1921年(大正10年)4月から1924年(大正13年)3月まで員外派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講し、大学院にも進んだ。1934年(昭和9年)4月に陸軍省経理局課員兼参謀本部附となり、1937年(昭和12年)8月に陸軍主計大佐に進級し、1938年(昭和13年)4月に陸軍省経理局監査課長に就任した。1939年(昭和14年)8月に駐蒙軍経理部長(北支那方面軍)に転じ、日中戦争に出動した。
藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 19… 藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家、農業技術者。衆議院議員(1期)、国民協同党所属。 熊本県上益城郡甲佐町出身。鹿児島高等農林学校農学科卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月1… 飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月15日 - 1982年(昭和57年)11月14日)は、日本の内務官僚、貴族院議員。戦前から戦後にかけ、日本の都市計画行政を牽引した人物の一人である。妻は南弘の娘・櫂子。 福島県会津若松市生まれ。父は白虎隊士飯沼貞吉の弟で会津松平家家令・飯沼関弥。東京小石川の旧黒田小学校(現在の文京五中の敷地)、府立四中、一高を経て、東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省。土木局属。神社局総務課長、都市計画課長、埼玉県知事、紀元二千六百年式典の事務局長を務めた後、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事、内務省神社局長、神祇院副総裁を歴任。 第二次世界大戦後の1946年3月12日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
大鷹 正次郎(おおたか しょうじろう、1892年〈明治25年… 大鷹 正次郎(おおたか しょうじろう、1892年〈明治25年〉2月15日 - 1966年〈昭和41年〉11月4日)は、日本の外交官。駐ラトビア公使。 岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)出身。盛岡中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に高等試験外交科に合格した。外交官補としてベルギーに、ついで領事官補としてハルビン、天津に勤務した。さらにドイツ大使館三等書記官、オーストリア公使館三等書記官、オランダ公使館二等書記官、ベルギー公使館一等書記官、満州国大使館一等書記官、青島総領事を歴任。1938年(昭和13年)、駐ラトビア公使に任命され、駐リトアニア公使・駐エストニア公使も兼ねた。
金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月14… 金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月14日 - 1979年(昭和54年)10月4日)は、日本の政治家、裁判官、弁護士。衆議院議員、和歌山県知事。旧名、当央。 鹿児島県大島郡龍郷方浦村(龍郷村を経て現:龍郷町浦)で金井当説の五男として生まれる。1915年(大正4年)に正夫と改名。 大勝尋常小学校(現:龍郷町立大勝小学校)から4年次に名瀬尋常小学校(現:奄美市立名瀬小学校)へ転入し卒業。鹿児島県立大島農学校(現:鹿児島県立大島高等学校)1年修了の後、東京の旧制順天中学校で学ぶ。旧制第五高等学校を経て、関西大学を卒業、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。
阿竹 斎次郎(阿竹 斉次郎、あたけ さいじろう、1892年(… 阿竹 斎次郎(阿竹 斉次郎、あたけ さいじろう、1892年(明治25年)2月13日 - 1985年(昭和60年)12月30日)は、日本の政治家。宇治山田市(現・伊勢市)長(1期)。参議院議員(1期)。 三重県度会郡宇治山田町中島町(宇治山田市中島町を経て現伊勢市)で生まれる。第五小学校を卒業した。家業の阿竹味噌醤油醸造業を継承。尾崎行雄に私淑し、咢堂会会長を務めた。 1926年(大正15年)10月、宇治山田市会議員に当選し6期在任。1931年(昭和6年)10月、三重県会議員に選出され2期在任した。この間、市是調査委員、市税調査委員、臨時財政調査員、都市計画三重地方委員、選挙粛清実行委員、高等女学校建築委員、学務委員などを務めた。
関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 -… 関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 - 1942年5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 新潟県北魚沼郡下条村(広瀬村、広神村を経て現魚沼市)で、素封家・関矢橘太郎、チエの二男として生まれた。慶応義塾大学に学ぶ。農業を営み、広瀬村信用組合監事、同理事、同村議、新潟県議、同議長、北魚沼郡青年団長、小出銀行取締役会長、堀ノ内銀行取締役、小出尾製糸(株)社長、北越殖民(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において新潟10区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙には不出馬。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟3区から立憲民政党公認で立候補して復帰した。
半田 敏治(はんだ としはる、1892年2月12日 - 19… 半田 敏治(はんだ としはる、1892年2月12日 - 1967年9月13日)は、日本の官僚、哲学者、陸軍軍人。 陸軍大阪衛戍病院院長を務めた軍医半田久雄・房子の長男として福岡県に生まれる。母・房子は、代々福岡藩の藩医を務めた原家の当主12代原三信(当主は代々「三信」を襲名している)の長女であり、13代原三信(原三信病院設立者)は伯父、14代原三信は従兄にあたる。敏治10才の時に房子は急逝している。 1909年福岡県立中学修猷館を卒業し、第七高等学校第一部甲類(英法)に入学するが、同年12月父に無断で高校を退学し、陸軍士官学校へ入学、1912年5月卒業する(24期生)。陸士の同期には甘粕正彦がおり、甘粕が満洲で亡くなるまで親交を続けた。
今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11… 今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11日 - 1944年(昭和19年)12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)の今井千尋の長男として生まれる。今井家は中山道塩尻峠口の本陣を務めた名家。1910年(明治43年)3月、諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 平野村役場勤務を経て、1923年(大正12年)同村助役に就任。1927年(昭和2年)9月より長野県会議員に3期連続で当選する。参事会員などを経て、1934年(昭和9年)平野村長に就任し、諏訪郡町村長会会長を兼任した。翌年の1935年(昭和10年)、諏訪郡農会長に就任し、ついで1936年(昭和11年)5月5日に市制施行とともに岡谷市長に就任した。
戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月1… 戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1939年〈昭和14年〉8月17日)は、日本のカトリック教会 司祭、医師、桜町病院創立者。 東京公教神学校教授。洗礼名はヴィンセンシオ・ア・パウロ。 彼は海軍軍医総監・戸塚環海(とづか かんかい)の長男として神奈川県横須賀に生まれ、佐世保の高等小学校に入学していたが暁星中学校に編入、1909年、第一高等学校在学時にカトリック教会の洗礼を受ける。代父は暁星時代の先輩でのちにカトリック司祭になった岩下壮一。 1912年、東京帝国大学医学大学(現・東京大学医学部)に入学、医学を学び、卒業後、佐藤外科に入局。1921年、北海道帝国大学助教授に任命され、文部省(現・文部科学省)からヨーロッパ留学の命を受ける。
中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月1… 中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、長野県上伊那郡辰野町出身の洋画家である。旧姓は有賀、本名は紀元次。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科入学。中退後、太平洋画会研究所、本郷絵画研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事。1907年(明治40年)から1914年(大正3年)まで玉川尋常小学校の図画工作の講師をしており、当時の校長は島木赤彦が勤めていた。教え子には堀内唯生がいた。
宮本 安蔵(みやもと やすぞう、1892年〈明治25年〉2月… 宮本 安蔵(みやもと やすぞう、1892年〈明治25年〉2月10日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の検事、判事。位階は従六位。 宮本佳代子(元内閣総理大臣・小泉純一郎の元妻)は孫、俳優・タレントの小泉孝太郎、衆議院議員の小泉進次郎は曽孫にあたる。 東京市麹町区上二番町(現・東京都千代田区一番町)出身。東京府士族、地家主、書籍商、貸金業・宮本央の四男。1914年に第七高等学校造士館卒業。 1917年7月に東京帝国大学法科大学法律学科卒業、同年8月に司法官試補、東京地方裁判所詰。1919年3月に検事、東京地方裁判所予備検事、同年4月に千葉地方裁判所検事。 1920年3月に熊谷区裁判所検事、同年12月に判事、東京地方裁判所判事。
村田 三郎 (むらた さぶろう、1892年〈明治25年〉2月… 村田 三郎 (むらた さぶろう、1892年〈明治25年〉2月8日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の政治家。新潟県新潟市長(3期、第17代~第19代)。 1892年(明治25年)長岡市の生まれ。1915年(大正4年)慶應義塾大学を卒業。自宅は湊二町通二ノ町26-9。戦後まもなく新潟商工会議所会頭を務めたあと、1947年(昭和22年)初の公選新潟市長に当選、1959年(昭和34年)まで3期12年間在職。この間、戦後の混乱した市民生活の建て直しや、新潟大火の災害復旧、在日朝鮮人の帰国業務などに尽力。その後、新潟信用金庫理事長、県社会福祉協議会会長など、幅広い活動を行った。 1981年(昭和56年)9月16日、脳梗塞のため、入院先の済生会新潟病院で死去。
吉永 時次(よしなが ときじ、1892年2月8日 - 197… 吉永 時次(よしなが ときじ、1892年2月8日 - 1976年3月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、警視総監。旧姓・岸本。 岡山県上道郡幡多村(現:岡山市中区)出身。岸本栄三郎の二男として生まれる。1928年、吉永光野の入夫となり改姓。 第六高等学校首席卒業を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り、警視庁警部となる。 以後、地方事務官、宮崎県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長などを歴任。 1936年4月、和歌山県知事に就任。
干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892年2月7日 - 1… 干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892年2月7日 - 1991年10月13日)は、日本のインド哲学者、僧侶。 福井県遠敷郡雲浜村(現在の小浜市)で小浜藩士であった藤倉政夫の次男として生まれる。初名は末吉。真言宗の僧侶の干潟龍範の養子となり、名を龍祥と改める。 1917年、東京帝国大学文学部哲学科卒。1937年東大講師、1940年、九州帝国大学教授、1950年、九州大学教育学部長。1950年「本生経類の思想史的研究」で東北大学文学博士。1955年に九大を定年退官、名誉教授、福岡女子大学教授、1960年学長、1964年退任。1965年に紫綬褒章、1966年に勲二等瑞宝章受勲。1969年、日本学士院会員。
上田 穣(うえた じょう、1892年2月6日 - 1976年… 上田 穣(うえた じょう、1892年2月6日 - 1976年11月13日)は日本の天文学者。
野津 龍三郎(のづ りゅうざぶろう、1892年(明治25年)… 野津 龍三郎(のづ りゅうざぶろう、1892年(明治25年)2月5日 - 1957年(昭和32年)10月27日は、日本の大正から昭和期の化学者、京都帝国大学教授・甲南大学理学部長。滋賀県出身者として2人目の理学博士(博士登録番号234番)。 1892年(明治25年)2月5日、滋賀県彦根市近郊の士族野津家に生まれる。彦根第一中学校、1913年(大正2年)7月第三高等学校第二部乙類を卒業し、1916年(大正5年)京都帝国大学理科大学を卒業する。卒業後神戸の鈴木商店(現双日のルーツの一つ)に入社し化学研究所に勤務、1921年(大正10年)1月大日本木管(紡績用木管類を生産)に転職した後、同年12月京都帝国大学理学部小松茂教授の下で講師になる。
栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1… 栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。 1892年2月5日、栃木県下都賀郡(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)の農家に長男として生まれる。遅くに誕生した男子だったことで「家を守り立てて欲しい」との願いから“守也”と名付けられた。幼少期から家業を手伝いつつ漢学塾に通いながら、自宅近所にあった岩船山の石を人力トロッコで渡良瀬川へ運ぶ仕事に従事し、強健な体になる。17歳で結婚するが、18歳の時に妊娠中だった妻を残して上京し、出羽ノ海部屋に入門する。