夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月… 夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月17日 - 1975年(昭和50年)2月11日)は、日本の随筆家。 夏目漱石と夏目鏡子の二男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉4名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた6番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった。 父の死去時には数えで9歳(小学校2年生)であった。暁星小学校および同中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に進み、その後、日本フィルハーモニー交響楽団からチェリストとして声がかかり、同独文科を中退した。
上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年… 上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年)12月16日 - 2001年(平成13年)4月14日)は、日本の経済学者。半世紀を超える大学での教育活動や多くの著書を通じ、一貫して科学的社会主義の立場を貫徹し、学生や労働者に大きな影響を与えた。経済学博士。 1908年、大阪府堺市熊野の由緒ある商家に父・栄吉と母・コウの長男として生まれる。 堺市立熊野小学校、大阪市立第一商業学校(のちの天王寺商業)、大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学高商部)を経て、1932年、大阪商科大学第一期生として、首席で同大学を卒業。 1932年、大阪商科大学大学院に入学。1933年に同大学副手となり、助手、講師嘱託を経て、 1939年に高商部教授、 1941年に助教授へと昇進した。
山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月1… 山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月15日 - 1977年(昭和52年)7月7日)は日本画家。父は日本画家山田敬中。 父 敬中、母 はな の次男として東京府滝野川村(現・東京都北区)田端に生まれる。1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科へ入学。同学年に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいる。1930年(昭和5年)第11回帝展で《水辺初夏》が初入選。1931年(昭和6年)東京美術学校を卒業。卒業制作は《武蔵野》。その後、結城素明に師事する。 1944年(昭和19年) 私立麻布中学教諭となる。後に日本画家となる野田修一郎は麻布中学校時代に山田に師事している。 1950年(昭和25年) 第6回日展へ出品した《馬」》で特選、白寿賞を受賞する。
向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14… 向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14日 - 1987年(昭和62年)1月20日)は、日本画家。創画会会員。 大阪府泉南郡上之郷(現・泉佐野市)生まれ。1929年(昭和4年)、京都高等工芸学校図案科卒業。妻も同じく日本画家の広田多津。 1941年(昭和16年)、「男子生まる」を文展に出品して特選を受賞。 1948年(昭和23年)、創造美術を結成。この後、西山翠嶂に師事、裸婦像と花鳥画に才能を発揮した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2… 吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2002年12月5日)は、日本の美術史学者。西洋美術史専攻。東京大学名誉教授。従兄は中国文学者の吉川幸次郎。 神奈川県横浜市生まれ。旧制神奈川県立横浜第一中学校、旧制浦和高等学校、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。矢代幸雄に師事。1933年から1939年までフランスに留学、アンリ・フォシヨンに師事。「サン・サヴァン教会堂のヨハネ黙示録画の研究」でパリ大学より博士号取得。ロマネスク建築・壁画研究を専門とした。 1947年東京芸術大学教授を経て1953年東京大学文学部助教授、1955年教授、1969年定年退官後、大和文華館館長。後に名古屋大学教授、東海大学教授。
出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 -… 出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 - 1978年4月19日)は、神職、京都評論家。 京都市出身。出雲路信直の子孫。國學院大學文学部卒、立命館大学教授、成安女子短期大学学長。
森田 正義(もりた まさよし、1908年12月13日 - 2… 森田 正義(もりた まさよし、1908年12月13日 - 2004年12月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。栃木県岩舟町名誉町民。 栃木県下都賀郡寒川村(間々田町を経て現小山市)出身。1932年、東京帝国大学経済学部卒業。生家は地元の名家であった。寒川村長などを務めた。応召して日中戦争に従軍し陸軍主計曹長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙において帝国議会当時の旧衆議院栃木2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選、1期活動した。在任中は内務省委員などを務めた。1945年(昭和20年)12月1日に衆議院議員を辞職。戦後は公職追放を経て、追放解除後は岩舟町長となり、1964年から1980年までの4期在職した。
神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月… 神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月10日 - 2005年〈平成17年〉5月20日)は、元群馬県知事。海軍司政官。 1908年(明治41年)12月10日、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市)出身。新潟県立新潟中学校、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は静岡県庁勤務を皮切りに内務省官僚として地方行政に携わった。戦後は鹿児島県経済部長を勤めた後、群馬県教育民生部長に就いたことから群馬県との関わりを持つこととなった。その後総務部長等を経て竹腰俊蔵知事のもとで群馬県副知事就任。竹腰知事の後任として1960年(昭和35年)の群馬県知事選挙に出馬し当選。
板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - … 板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - 1987年10月6日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に関西ペイントに入社。1958年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1972年5月に社長に就任。1978年5月には取締役相談役に就任し、同年6月から相談役に専任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年10月6日に脳梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 19… 松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 1994年8月9日)は、日本の漢文学者。 熊本県出身。1938年東京文理科大学漢文学科卒。諸橋轍次に師事。1962年「江戸時代の詩風及び詩論の研究」で東京教育大学文学博士。和歌山大学教授、72年定年退官、名誉教授、日本大学教授。1972年「江戸時代の詩風詩論―明清の詩論とその摂取」で日本学士院賞・恩賜賞受賞。同年和歌山県文化賞、1980年勲二等瑞宝章受章。和歌山大学名誉教授の生駒道弘は女婿
大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8… 大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8日 - 1976年(昭和51年)12月2日)は、日本の詩人。 脊椎カリエスを患いながらも、叙情詩の発表を続け、播磨地域を中心とする多くの文学人に影響を与えた。また、ハーモニカ演奏や民謡、歌謡、学校歌の作詞等に多芸に活躍した。 兵庫県姫路市堺町で質屋を営む大塚捨次の三男として生まれる。母・まさは芸に秀で、若い頃の桂米朝、坂東大蔵らが出入りしていた。長兄が出奔し、次兄が早逝したため、時計古物商を営んで父母を養ったという。 旧制姫路中学3年在学時、飾磨港で水泳中に飛び込みをし、脊髄を損傷、3年間闘病する。その後脊髄カリエスも患い、一生疼痛と闘うこととなる。
林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日… 林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日 - 1988年 <昭和63年> 7月1日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。髙島屋での勤務を経て、1942年に日本製鉄を経て、、1950年4月に富士製鐵に転じ、1957年5月に取締役に就任し、1960年6月に常務、1967年2月に専務・日鉄セメント社長を経て、1973年7月には山陽特殊製鋼社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1988年7月1日大腸がんのために死去。79歳没。
前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月… 前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月2日)は、昭和期の華族(子爵)。 七日市前田家第13代当主前田利定子爵の子として生まれる。1944年11月1日、父の死去に伴い子爵を襲爵した。 日本大学経済学部を卒業後、安田銀行、高崎板紙などに勤務した。1983年死去、家督は従甥の史貞が継いだ。
別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 19… 別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 1997年4月17日)は、日本の地理学者。 陸軍少将・別技嘉助の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒。1928年静岡高等学校文科甲類卒業。1932年京都帝国大学文学部史学科卒。1938年大阪商科大学予科教授、戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。1946年帰国。1949年大阪商科大学を退職し、福井大学教授となり、1952年からは神戸商科大学教授を兼任。1954年立教大学教授、74年定年退任、名誉教授。 1962年「東南アジア諸島の居住と開発史」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 … 吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 - 2009年8月2日)は、日本の建築家。株式会社創和建築設計事務所(現 株式会社創和三幸設計)創業者。 横浜市長であった飛鳥田一雄とは神奈川県立第一中学校(現 神奈川県立希望ヶ丘高等学校)の同窓であり、その縁で横浜市内を中心とした建築物の設計を数多く手がけたことで知られている。
廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 19… 廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 1998年10月20日 )は、日本の経済人・経営者。
友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月… 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とした。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。
加藤 恵三(かとう けいぞう、1908年〈明治41年〉12月… 加藤 恵三(かとう けいぞう、1908年〈明治41年〉12月5日 - 1982年〈昭和55年〉6月26日、本名は「慶次」とも)は将棋棋士。棋士番号は22。故石井秀吉七段門下。東京都江東区出身。 明治41年、東京市深川区(現・東京都江東区)生まれ。小学校卒業後に家業を助けながら、1929年(昭和4年)に石井秀吉七段の門下となる。 1931年(昭和6年)初段入段、1937年(昭和12年)四段、その翌年に五段。 1957年(昭和32年)に引退。1968年の表彰感謝の日に七段を贈られる。 正義派で親孝行、人に好かれる明るい性格であり、また、若手の面倒をよく見る世話好きの人情家であった。 1982年6月26日、食道がんのため死去、享年73。
大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3… 大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3日 - 1988年〈昭和63年〉4月29日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。剣道5段で日本武道館常任理事を務めた。 大韓帝国、のちの京城府(現ソウル特別市)で運送店経営・大和興次郎、露子の長男として生まれる。龍山中学校(現龍山高等学校)を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 朝鮮総督府鉄道局に入局し、終戦時は釜山駅旅客主任を務めていた。朝鮮半島からの引揚者60万人の輸送に従事し最終船で日本に戻り、1946年(昭和21年)運輸省鉄道総局東京鉄道局桐生駅駅手に就任。日本国有鉄道が発足し高崎鉄道管理局勤務となる。
宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1… 宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1992年2月12日)は、日本の民俗学者、草花研究家、随筆家。 長野県長野市生まれ。旧制県立長野高等女学校卒。東京女子大学中退。民俗学の一環として野の草花を研究し、60歳以後多くの著作を執筆した。1984年エイボン教育賞受賞。1992年、脳梗塞のため死去。
朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12… 朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12月2日 - 1986年(昭和61年)10月23日)は日本の内科医、生理学者。元東邦大学医学部長、生理学第一講座初代教授。東邦大学名誉教授。日本で初めて脳波を記録した。旧名倭男。東京府東京市小石川区白山御殿町(現・東京都文京区白山)出身。 1934年(昭和9年)、名古屋医科大学卒業。第一内科入局(勝沼精蔵)。勝沼とともに訪独。1937年(昭和12年)10月、医学博士を授与される。1938年(昭和13年)6月、哈爾浜医科大学助教授(内科)。1941年(昭和16年)7月、名古屋帝国大学助教授(航空医学研究所・第一航空医学 勝沼精蔵)。1945年(昭和20年)12月(環境医学研究所・第4部門職業性疾患学方面 勝沼精蔵)。
稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 200… 稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 2006年1月6日)は、日本の数学者。専門は微分幾何学。第10代東海大学学長、第3代国際武道大学学長を務める。熊本県熊本市出身。 東海大学水泳部初代主将 東海大学付属本田記念幼稚園、第3代園長も務めた。東海大学名誉教授、理事。1987年、勲二等瑞宝章受章。
木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970… 木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970年2月12日)は、日本の医学者・小児科医。 岡山県出身。東京帝国大学医学部卒。1937年パリ大学に学び、北京大学教授、41年「数種薬物に対する感受性の年齢的差異に関する実験的研究」で東大医学博士。熊本医科大学教授、49年日本医科大学教授。69年同付属病院長。 一般向けの著書でも知られ、「ながら神経症」と言ったことから「ながら族」という流行語が生まれたという。
関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐197… 関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐1977年12月16日)は、日本の映画監督。 1908年12月1日、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)の地主の家の四男に生まれる。旧制佐渡中学在学中は画家に憧れていた。卒業後、旧制新潟高校に入学して中退。 劇映画『ひろしま』(日教組プロ、1953年)でベルリン映画祭長編劇映画賞受賞。記録映画『鉄路に生きる』(1951年)が1952年ヴェネツィア国際映画祭教育科学部門第2位。また、児童向け劇映画『トランペット少年』(東映教育映画部、1955年)が第9回エディンバラ国際映画祭で受賞。 戦争孤児を描いた『第二の人生』、学徒兵を描いた反戦映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、砂川の立川基地拡張反対闘争を描いた『爆音と大地』など社会意識の強い作品が多い一方、刑事ドラマ、少年探偵団シリーズなどの映画もつくり、娯楽作品でも腕を振るった。
倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1… 倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1994年5月5日)は、日本の教育者、中国文学者。博士(文学)。元香川大学学長。香川大学名誉教授。 香川県三豊郡大見村(現 三豊市三野町)出身。旧香川県立三豊中学校、第一臨時教員養成所卒業、東京高等師範学校研究科を経て、1934年、東京文理科大学文学科に入学。同大学漢文学専攻卒業。在学中は諸橋轍次に師事した。卒業論文は「中国現代詩の研究」。1937年(昭和12年)同大学卒業後、福井師範学校に赴任。間もなく盧溝橋事件が起こり、同年12月に応召。翌年1938年(昭和13年)4月に除隊。終戦まで3回応召を受けた。 1949年(昭和24年)香川大学教授に就任。
冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月… 冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月1日 - 1993年(平成5年)7月23日)は、日本の実業家。神鋼電機株式会社(現シンフォニアテクノロジー株式会社)第3代代表取締社長。昭和54年4月、勲三等瑞宝章 産業振興功労 受勲。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現:鹿児島県立加治木高等学校)を経て、第七高等学校造士館(現:鹿児島大学法文学部・理学部)理科甲類を1929年3月に卒業。1932年3月、京都帝国大学工学部電気工学科卒業。 1932年4月、神戸製鋼所 入社(1949年株式会社神戸製鋼所より分社化し神鋼電機株式会社が設立される)。1950年11月、神鋼電機株式会社取締役就任。
富尾木 惣一(とみおぎ そういち、1908年〈明治41年〉1… 富尾木 惣一(とみおぎ そういち、1908年〈明治41年〉12月 - 没年不詳)は、日本の実業家。元東洋埠頭社長 高千穂高等商業学校第16回(現・高千穂大学)卒業。在学時は野球部の委員であった。 1933年南満州鉄道に入社。本社経理部会計課、奉天鉄道総務局経理、斉々哈爾鉄道局経理部各勤務。 牡丹江鉄道主計科長を経て、1943年南満州鉄道本社経理局予算課主任にて終戦を迎える。 終戦後、1951年東洋埠頭川崎支店経理課長となり、本社会計課長、経理部長、次長を歴任。 1963年取締役、1967年常務業務部長、1970年12月川崎支店長、専務取締役を経て、1977年12月社長に就任した。
五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 19… 五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 1983年3月9日)は、日本の文学者(上代文学)。万葉集の権威である。東京大学名誉教授。 1908年、長野県下諏訪町生まれ。旧制諏訪中学、第一高等学校を経て、1935年、東京帝国大学文学部国文科を卒業した。1937年、旧制第一高等学校教授に就いた。1957年より東京大学教授。1968年からは文学部長を務めた。翌1969年に東京大学を退官し、名誉教授となった。その後は学習院大学教授として教鞭をとった。また、上智大学、青山学院大学、日本女子大学でも非常勤講師を務めた。 学界では、上代文学会会長、全国大学国語文学常任理事、和歌文学会常任委員、学術審議会専門委員を務めた。
魏 火曜(ぎ かよう、英語: WEI Huo-yang、19… 魏 火曜(ぎ かよう、英語: WEI Huo-yang、1908年11月29日-1995年2月6日)は、台湾の医師。国立台湾大学医学部教授、同大学附属病院院長をつとめた。高雄医学大学第2代学長。 1908年、新竹庁生まれ。台北高等学校で学び、1933年に卒業。1937年、東京帝国大学医学部を卒業して医師となる。その後も同大学大学院に進み、1942年に同大学の医学博士号を取得した。医師として小児科を専攻し、卒業後は東京大学医学部助手となった。台湾へ帰国してからは赤十字会台湾支部病院の小児科主任として勤務すると同時に、医療体制の拡充につとめた。 太平洋戦争終結後、1945年11月15日に台北帝国大学が国民政府に接収され、同年12月に国立台湾大学が発足。
戸叶 里子(とかの さとこ、1908年11月29日 - 19… 戸叶 里子(とかの さとこ、1908年11月29日 - 1971年11月7日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。日本社会党選出の衆議院議員。 長野県東筑摩郡里山辺村(現松本市)に、尋常高等小学校校長吉田頼吉の二女として生まれる。1929年に同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)を卒業すると、上京して国際連盟東京事務所に勤務する。 1930年朝日新聞記者の戸叶武(元参議院議員)と結婚。翌1931年から、河上丈太郎の妻・末子が開いた勤労者のための英語教室「愛宕塾」で教師を務める。1939年青蘭女子商業学校で英語教師。 1940年朝日を退職した夫に伴い上海に渡り、福家俊一が社長を務めていた「大陸新報」の記者となる。
井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1… 井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1998年8月17日 )は、静岡県清水市(現:静岡市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を卒業。 早稲田大学に入学後はア式蹴球部に入部した。工藤孝一が同期に当たる。在学中の1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、1試合に出場した。 1933年10月開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第13回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に東京OBクラブの一員として優勝した。 1942年に地元の清水市に戻って静岡県立庵原中学校(現:静岡県立清水東高等学校)などで指導し、1948年には同年に創設された清水サッカー協会の初代理事長に就任した。
今里 広記 (いまざと ひろき、1908年(明治40年)11… 今里 広記 (いまざと ひろき、1908年(明治40年)11月27日 - 1985年(昭和60年)5月30日)は、日本の実業家、財界人。長崎県出身。広範な交友と人脈から、財界におけるまとめ役として「財界官房長官」「財界幹事長」の異名を取った。建築家の今里隆は養子である。 受章・受勲等 :1970年(昭和45年)4月 藍綬褒章、1979年(昭和54年)11月 勲一等瑞宝章(現・瑞宝大綬章)、1985年(昭和60年)5月30日没後追贈 位階正三位、勲一等旭日大綬章(現・旭日大綬章) 長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷に父友二郎、母加世の三男として生まれる。父は1772年より続く造り酒屋番頭の傍ら、地元で波佐見銀行(統合合併ののち現・株式会社十八親和銀行)を経営していた。
園原 太郎(そのはら たろう、1908年11月26日 - 1… 園原 太郎(そのはら たろう、1908年11月26日 - 1982年3月14日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授。 長野県木曽郡山口村(現・岐阜県中津川市)生まれ、大阪府大阪市育ち。大阪市天王寺第五尋常小学校、旧制大阪府立今宮中学校、旧制大阪高等学校理科甲類を経て、1931年に京都帝国大学文学部哲学科心理学専攻を卒業。同大学講師、1938年助教授、1953年京都大学文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、佛教大学教授。1980年勲三等旭日中綬章を受章。
山崎 宏(やまざき ひろし、1908年11月25日 - 20… 山崎 宏(やまざき ひろし、1908年11月25日 - 2010年12月1日)は戦後に中国に残って、現地の人々に医療をほどこした日本人医師である。出身は岡山県真庭市。戦後に贖罪のため中国に残り、現地の医療に一生を注いだ。後年は「世を救う100歳の神の医師」と呼ばれ慕われた。2010年に病気により死去。享年102歳であった[要出典]。 山崎宏氏の生まれは岡山県真庭市で、早くに両親を亡くし、兄と姉によって育てられた。平穏に生きたいと思っていたが、1937年の盧溝橋事件により、中国に出兵させられた。彼は1937年11月のある日、鄭州の軍営において兵士が三歳の子どもを絞め殺す姿を目撃、阻止しようとしたが、押しのけられたという。
大森 忠夫(おおもり ただお、1908年11月24日 - 1… 大森 忠夫(おおもり ただお、1908年11月24日 - 1972年12月3日)は、日本の法学者。専門は商法・保険法。学位は法学博士(京都大学・1953年)。京都大学名誉教授。竹田省門下。弟子に岩本慧、村田治美など。 兵庫県出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学助手となるが、翌年の滝川事件で辞職。立命館大学助教授となる。1935年(同10年)京大に復帰して助教授、1943年(同18年)教授。保険法の権威として知られ、著作に「保険契約の法的構造」、「保険契約法の研究」、「保険法」などがある。 上柳克郎編『商法・保険法の諸問題:大森先生還暦記念』(有斐閣、1972)
平井 昌夫(ひらい まさお、1908年11月24日 - 19… 平井 昌夫(ひらい まさお、1908年11月24日 - 1996年2月11日)は、日本の国語教育学者・日本語学者。 筆名に「頼阿佐夫」(平井昌夫 Hirai Masao から Hi と M をとって Rai Asao とした)。 東京府東京市(現・東京都大田区千束)生まれ。本籍地は愛知県名古屋市。 旧制第八高等学校文科甲類を経て、1933年3月に東京帝国大学文学部哲学科を卒業。1933年4月より1929年12月まで日本のローマ字社に勤務。1926年4月から1937年2月まで東京高等商工学校高等科教授。1927年6月から1928年12月まで東京帝国大学図書館嘱託。1929年から東亜研究所嘱託、春陽堂などの嘱託をつとめる。
馬場 啓之助(ばば けいのすけ、1908年11月23日 - … 馬場 啓之助(ばば けいのすけ、1908年11月23日 - 1988年11月2日)は、日本の経済史学者、一橋大学名誉教授。一橋大学経済学部長、一橋大学学長(事務取扱)、社会保障研究所所長等を務めた。 福井市生まれ。横浜育ち。福井市足羽小学校、横浜小学校、第二横浜中学校(現神奈川県立横浜翠嵐高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)本科卒。山内得立に師事。 東亜研究所副調査員などとして研究。外務省嘱託として香港への派遣や、大日本帝国陸軍比島軍政監部付を務め、村田省蔵の比島調査委員会で杉村広蔵委員の下、補助委員として調査に従事した。 杉村が理事を務めた交易営団で総務部総務課長代理などを経て、戦後は農林省農業総合研究所計画部長を経て、1952年学習院大学教授、56年一橋大学教授、61年経済学部長、「近代経済学方法論」で一橋大経済学博士。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。
岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月… 岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月22日 - 2004年(平成16年)10月17日)は、日本の哲学者・著述家。 兵庫県飾磨郡白浜村字中村(白浜町を経て、現在の姫路市白浜町)で生まれる。姫路高等学校を経て、1934年(昭和9年)九州帝国大学法文学部支那哲学史専攻(当時)を卒業した。富山県立神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)教諭を務め、1938年(昭和13年)に宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)教諭、1939年(昭和14年)に福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)教諭を務めた。1943年(昭和18年)に長崎師範専門学校(現在の長崎大学教育学部)教諭、1945年(昭和20年)に熊本陸軍幼年学校教官、1946年(昭和21年)に福岡県立修猷館高等学校教諭を務めた。
内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 19… 内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 1980年12月26日)は、昭和時代の社会運動家。労働運動研究所代表理事。日本共産党中央委員候補。 長崎県下県郡鶏知町(現対馬市)に生まれる。1928年旧制第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に入学。入学と同時に新人会に加入、柳島のセツルメント労働学校を運営。同年9月検挙され、東大を中退。1929年日本労働組合全国協議会(全協)関東金属労働組合大崎支部書記を経て同本部常任委員となり、以降オルグ活動に従事。1930年6月全協本部を批判して全協刷新同盟(刷同)の結成に参加、同年10月プロフィンテルンの決議により刷同を解散。1933年全協日本金属労働組合に復帰。
岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2… 岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2004年4月21日)は、日本の経営者。資生堂社長、会長を務めた。 香川県綾歌郡国分寺町出身。1929年に高松高等商業学校を卒業し、同年8月に資生堂に入社した。1947年に取締役に就任し、1960年12月に常務、1966年に専務を経て、1967年1月に社長に就任した。貿易自由化によって、外資化粧品の流入が懸念されると、女優を起用した「四季」のキャンペーンを展開し、商品だけではなく、CMソングまでにヒットさせるお家芸を確立させ、同社を流行・文化発信企業に育て上げた。当時の業界では、多角化経営が全盛していた頃でも、本業に徹していた。1975年1月に会長に就任し、1978年2月から相談役を務めた。
ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986… ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986年4月1日)は、日本の歴史学者、考古学者、著述家、翻訳家。専門は天皇史と昭和史。 本名の「禰津正志」、および「ねづ まさし」の名義でも著述活動を行った。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部史学科国史専攻卒業。卒業論文は「文久元年露艦の對馬占據に關する外交史的研究」。同大学院考古学科修了。1936年文部省維新史料編纂局に入る一方で、1935年京都で創刊された雑誌『世界文化』の同人となり、その姉妹紙である週刊紙『土曜日』にも執筆するなど反ファシズム市民文化運動に関与したが、1937年、人民戦線事件で治安維持法違反として検挙された。戦後は天皇制、日本史、フランス革命に関する著述、翻訳を行う。
栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11… 栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。 1908年11月17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の歩兵大佐栗原勇(12期)。父の転勤に従い、北海道旭川で暮らしている。二・二六事件において処分された予備役少将斎藤瀏(12期)とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直(事件時は歩兵第3聯隊第1中隊附中尉として斎藤實内大臣邸を襲撃、43期)もこの頃の幼馴染である。
大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1… 大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1993年11月13日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。1950年日本農学賞受賞。従四位勲二等旭日重光章。文化功労者。 1908年、静岡県生まれ。1933年に東京帝国大学農学部を卒業。卒業後は、宇都宮高等農林学校教授、東京商科大学教授となった。 戦後の1949年、経済安定本部調査課長となる。1950年より一橋大学教授。1952年、学位論文『食糧経済の理論と計測 』を提出して農学博士号を取得。1958年、経済企画庁経済研究所(のち内閣府経済社会総合研究所)初代所長となる。1969年より一橋大学経済研究所所長。1972年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。
久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 199… 久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 1990年3月22日)は、日本の技術者、経営者。 三菱重工業で飛行機の開発に携わり、大日本帝国陸軍の一〇〇式司令部偵察機では設計主務を勤めた。のちに自動車部門に転じ、三菱重工業から分社されて発足した三菱自動車工業で社長・会長・相談役を歴任した。 社長であった1973年から、三菱自動車工業は大韓民国の現代自動車へ技術供与を実施し、韓国の自動車産業の基礎を作った。 長崎県出身。1931年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、三菱航空機(のちに三菱重工業となる)に就職、名古屋製作所勤務となる(堀越二郎の4年後輩に当たる)。 太平洋戦争後、日本では航空機の研究開発が連合国軍最高司令官総司令部によって、サンフランシスコ講和条約の発効まで禁じられた。
安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月… 安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月16日 - 1969年〈昭和44年〉9月9日)は、日本の小説家(直木賞受賞)、随筆家。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。国際演劇協会理事。日本演劇協会常任理事。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞で社長の福田英助の金言は「とかく人間は色と欲だ。
橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 19… 橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 1997年9月10日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。長男は橘康太郎(衆議院議員)、孫は橘慶一郎(高岡市長、衆議院議員)。 富山県射水郡守山村(現:高岡市)出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。1931年早稲田大学商学部卒。伏木海陸運送社長、守山村議、高岡市議、同議会議長を務め、1946年の第22回衆議院議員総選挙において日本進歩党で富山県から出馬し初当選。翌年より富山2区となり、衆議院議員を3期務めた。1949年第3次吉田内閣で賠償政務次官。1959年より高岡市商工会議所会頭。1969年春の褒章で長年、海陸運送業に携わって貿易関係団体要職に就いて特にソ連との貿易尽力し輸出の振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月1… 対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月15日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 二・二六事件の反乱部隊に参加した青年将校の一人で、事件当日に首相官邸襲撃を実行し、事件後に死刑判決を受け、銃殺刑に処せられた。 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧農の生まれ。 1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った。
山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1… 山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1998年10月12日)は、昭和時代日本の詩人、小説家、作詞家、劇作家。長野県出身。 1908年(明治41年)、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)湊に生まれる。旧制松本商業学校を卒業したのち、諏訪地域で小学校各校の教員を務める傍ら、伊藤松雄主宰の「町の劇場」運動に参加した。 1930年代後半からは文芸グループ「諏訪文学」に属し、小説を執筆する傍ら「山岡羊村」他の名義で懸賞歌謡への応募を始め、1941年(昭和16年)には大政翼賛会が制定した「大政翼賛の歌」で入選する。戦後は地域活動に徹し校歌や婦人会歌、音頭の作詞、新聞小説連載などの活動に従事した。
南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - … 南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、日本の小説家・経済学者。本名:古賀 英正。「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。東京市出身。 東京銀座の南紺屋町に、代々の医師の家に生まれる。8歳から中国・青島の小中学校を出て、山口高等学校から1930年東京帝国大学法学部卒業、1933年同経済学部卒業、助手となる。1936年満鉄調査部東京支社に入り、1937年宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。