大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月1… 大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月13日 - 2003年 <平成15年> 12月10日)は、日本の弁護士、最高裁判所裁判官。位階は従三位。 東京都出身。1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)に司法官試補となり、1944年(昭和19年)5月に大阪地裁を振り出しに裁判官生活に入ったが、間もなく海軍に召集されて海軍法務官となり、中尉で横須賀鎮守府軍法会議付きのとき終戦を迎えた。1946年(昭和21年)4月から東京地裁に勤務、ついで1949年(昭和24年)10月から法務府法制違憲第一局長補佐を2年余り勤め、再び東京地裁に戻った。 1954年(昭和29年)7月に弁護士に転じた。
伊藤鳳雲(いとう ほううん、1916年6月13日 - 200… 伊藤鳳雲(いとう ほううん、1916年6月13日 - 2001年9月19日)は、日本の書家。本名は伊藤弘三。かな書を中心に活動し、書作品「三吉野の歌」により日本芸術院賞を受賞した。田中塊堂に学び、日展を中心に活動した。 神奈川県秦野市に生まれた。大阪外国語大学インドネシア語部を卒業した。幼少期から書に親しみ、昭和28年に田中塊堂の門に入り、かなを学んだ。 成田山書道美術館によれば、1958年の日展初入選後に頭角を現した。1962年に日展特選・苞竹賞、1970年に日展第5科・菊華賞を受賞した。また、日本芸術院の歴代授賞者一覧では、平成元年度・第46回日本芸術院賞(第一部・書)を「書『三吉野の歌』に対し」受賞したことが確認できる。
堀 葦男(ほり あしお、1916年6月10日 - 1993年… 堀 葦男(ほり あしお、1916年6月10日 - 1993年4月21日)は、俳人。 東京都生まれ。東京大学経済学部卒。大阪商船勤務、のち社団法人日本綿花協会専務理事。俳句は岡本圭岳、伊藤消雪、下村槐太に師事。1953年、同じ槐太門の林田紀音夫らとともに「十七音」を創刊。関西の前衛俳句運動の推進者として金子兜太と並び称された。兜太の「海程」創刊に参加、同人会長を務める。俳誌では「火星」顧問も務めた。1962年、第10回現代俳句協会賞受賞。句集に『火づくり』『機械』『山姿水情』『朝空』『過客』など、評論集に『俳句二十章』がある。現代俳句協会全国幹事、同関西地区会議副議長、大阪俳人クラブ副会長、読売俳壇選者などを歴任。
長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 199… 長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 1993年5月10日[1])は、和歌山県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。ポジションは投手。
長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1… 長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1994年11月12日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。福島県金山町中川出身。 1941年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。海軍技術将校、大尉を経て、主に船舶設計を手掛け、1971年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1978年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任し、在任中は、造船不況で悪化していた業績の立て直しと1985年からの急激な円高の影響による経営再建に力を注いだ。1987年6月に会長に就任し、1992年から相談役を務めた。 政府の各種審議委員会委員や日本造船工業会会長や日本航空宇宙工業会会長や日本航空機開発協会理事長などを歴任した。
高橋 義治(たかはし よしはる、大正5年(1916年)6月6… 高橋 義治(たかはし よしはる、大正5年(1916年)6月6日 - 昭和61年(1986年)7月16日)は、日本の実業家。全国朝日放送取締役、イ・アイ・イグループ代表取締役会長、日本教育テレビ(現テレビ朝日)取締役、慈悲庵、まどか保育園各理事[3]等を務めた。
山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 19… 山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 1991年4月7日)は、日本の経営者、銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、1942年1月に日本銀行に入行。1970年5月に武蔵野銀行常務に就任し、1976年6月に専務、1978年11月に副頭取を経て、1979年2月から1983年6月までに頭取を務めた。 1991年4月7日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日… 壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。国鉄広報部長を経てJR東海の関連会社である中央リネンサプライ社長・会長・顧問となる。岡山県高梁市出身。 1916年(大正5年)岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同期には、宮原正吾、三宅真助がいた。1934年(昭和9年)同校を卒業して、1936年(昭和11年)に山口県にある旧制山口高等学校へ入学した。1939年(昭和14年)3月、同高校を卒業し、4月に東京商科大学(現:一橋大学)へ入学する。大学の研究室は、米谷ゼミナールに所属した。
野村 晋一(のむら しんいち、1916年6月3日 - 199… 野村 晋一(のむら しんいち、1916年6月3日 - 1991年11月10日)は、日本の獣医、競馬評論家。 福島県白河市出身。1941年東京帝国大学農学部獣医学科卒。農林省日高種馬牧場嘱託。 1956年「馬の肘関節及び肘関節の機構学的研究」で東京大学農学博士。東大農学部助教授、1966年教授、1977年定年退官、名誉教授。 1971年日本農学賞、読売農学賞受賞。1989年勲三等瑞宝章受章。
笠原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 200… 笠原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 2006年8月19日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。 長野県南佐久郡北牧村(現在の小海町)出身。笠原竜蔵・せきの長男。旧制千葉県立東葛飾中学校を経て、1938年に旧制新潟高等学校、1941年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業。 卒業後は東京帝国大学史料編纂所に勤務。翌年に応召。1947年に復員し、東京大学史料編纂所に復帰した。1960年に同助教授、1961年、東京大学教養学部助教授、1962年に「一向一揆の研究」により東京大学から文学博士の学位を取得。1966年に教授。 1977年に定年退官。発足間もない放送大学教授になり、1990年に退任して客員教授。
大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 19… 大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 1995年5月9日)は、日本の経営者。ニューオータニ社長、会長を務めた。大谷米太郎の三男として生まれ、叔父の大谷竹次郎の養子となった。長男は大谷和彦。 東京都出身。1939年に早稲田大学商学部を卒業。 1961年にニューオータニ取締役に就任し、副社長を経て、1973年5月には社長に就任し、1993年6月には会長に就任。 1987年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1995年5月9日肺癌のために死去。78歳没。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主でもあり、勝負服の柄は桃、青袖、冠名には「キオイ」を用いた。主な所有馬にはオープン特別戦2勝のキオイドリームがいる。
福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002… 福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002年4月9日)は、日本の速記者・評論家。 広島県因島に生まれる。小学三年で父を亡くす。1929年上京して簿記学校で速記を学び、英語の学校を卒業。早稲田大学文学通信教育部修了。海軍学校暗号科を卒業した。田鎖綱紀の知遇を得る。1959年から9年間、松本清張の専属速記者となる。谷崎潤一郎の速記もした。日本速記協会副理事長。 2002年4月9日、脳梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29… 丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29日 - 1982年〈昭和57年〉7月23日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期)。環境庁長官(第7代)を歴任した。所属派閥は福田派。青嵐会の結成にも参加した。陸軍軍医大尉。 1916年(大正5年)、群馬県吾妻郡坂上村(現・東吾妻町)の出身。出生地は坂上村とも長野県とも。高崎市に移り住み、1934年(昭和9年)旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業、1940年(昭和15年)東京医学専門学校卒業。医師免許取得後日本鋼管病院に勤務するが、同年10月軍医として応召。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年(昭和21年)7月に復員、群馬県群馬郡滝川村で内科医として開業。
上原 喜八郎(うえはら きはちろう、1916年〈大正5年〉5… 上原 喜八郎(うえはら きはちろう、1916年〈大正5年〉5月29日 - 2009年〈平成21年〉3月25日)は、日本の生化学者、薬学者(生物系薬学)。理学博士。大阪大学名誉教授、日本薬学会有功会員。 新潟県新潟市新島町通4ノ町(現 新潟市中央区新島町通4ノ町)の実業家・上原有三の八男として出生、1922年(大正11年)3月に新潟県新潟市旭町通2番町(現 新潟市中央区旭町通2番町)に転居。 1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に第四高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に大阪帝国大学理学部化学科を卒業。 1942年(昭和17年)に大阪帝国大学理学部化学教室助手に就任、赤堀四郎のもとで研究、1943年(昭和18年)に大阪帝国大学理学部大学院に特別研究生として入学、1947年(昭和22年)に大阪帝国大学理学部化学教室講師に就任、1951年(昭和26年)2月に大阪大学理学部化学教室助教授に就任、1952年(昭和27年)7月に大阪大学から理学博士号を取得、大阪大学医学部薬学科生化学教室助教授に就任、1955年(昭和30年)に大阪大学薬学部生化学教室助教授に就任、1958年(昭和33年)11月に大阪大学薬学部生物薬品化学講座初代教授に就任、1977年(昭和52年)6月に大阪大学薬学部第12代学部長に就任、1980年(昭和55年)4月に大阪大学を定年退官、大阪大学名誉教授の称号を受称、同月に摂南大学教養科教授に就任、1981年(昭和56年)9月に退職。
西尾 孝(にしお たかし、1916年大正5年5月28日(日)… 西尾 孝(にしお たかし、1916年大正5年5月28日(日) - )は、日本の英語講師。早稲田大学教授、代々木ゼミナール英語科講師などを歴任。「実戦英語水準表」シリーズ(日本英語教育協会〈旺文社の関連団体〉)に代表される、数多くの大学受験英語参考書などを著した。1970年代から1980年代の受験英語界の代表的人物の一人。『英検教本』なども著した。また永く旺文社の大学受験ラジオ講座の講師をつとめた。 吾妻書房刊の雑誌「イングリッシュ・コンパニオン」責任編集者であった。
高山 成雄(たかやま しげお、髙山 成雄、1916年5月27… 高山 成雄(たかやま しげお、髙山 成雄、1916年5月27日 - 2010年7月25日)は、日本の実業家・篤志家。伯東株式会社創業者・代表取締役会長。香良洲町名誉町民。 1953年(昭和28年)にエレクトロニクス専門商社の伯東株式会社を設立して代表取締役社長・会長を務め、東証一部上場企業に育て上げた。 香良洲町に対して、浜っ子幼児園の建設費用の寄付、めぐみの広場の用地取得費用及び整備費用の寄付、高山元気づくり事業寄付などを行い、郷土の発展に貢献した。香良洲町が津市に編入された後も多額の寄付を行い、魅力ある津市政の推進に貢献した。浜っ子幼児園には高山の銅像(胸像)が設置されている。2011年(平成23年)8月18日にはサンデルタ香良洲に顕彰コーナーが設置された。
筒井 良武(つつい よしたけ、1916年5月27日 - 没年… 筒井 良武(つつい よしたけ、1916年5月27日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手、内野手)。
政木 和三(まさき かずみ、1916年5月26日 - 200… 政木 和三(まさき かずみ、1916年5月26日 - 2002年8月6日)は、日本の発明家・科学者、スピリチュアリスト。元大阪帝国大学工学部工作センター長。 自身の発明したほとんどの特許を手放し、技術の無償提供を行った。またペンジュラムを用いた人間性の測定を提唱、これが政木フーチとして発展を遂げた。 政木は兵庫県生まれで、幼少は姫路の北、神崎郡市川町瀬加の自然豊かな山間で育った。 昭和15年、彼は関西高等工業学校(現在の大阪工業大学)電気工学科を卒業し、大阪帝国大学工学部に進学した。工学部では、通信学科はじめ、建築学科、土木学科などすべての学科を履修し、応用物理、造船工学、航空学も学んだ。卒業が近づくと、政木には助教授のポストが設けられたが、彼はその提案を遠慮し、さらなる学びのため医学部に入学した。
平井 滋二(ひらい しげじ、1916年 <大正5年> 5月2… 平井 滋二(ひらい しげじ、1916年 <大正5年> 5月26日 - 2006年 <平成18年> 4月8日)は、日本の経営者。工学博士。四国電力社長、会長を歴任。位階は正四位。 愛媛県西条市出身。1941年に京都帝国大学工学部を卒業し、技術士官として、海軍技術研究所での勤務を経て、1947年5月に四国配電(のちの四国電力)に入社。 1968年5月に取締役に就任し、1969年6月に常務、1974年11月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1985年6月に相談役に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2006年4月8日老衰のために死去。89歳没。
吉本伊信(よしもと いしん、1916年(大正5年)5月25日… 吉本伊信(よしもと いしん、1916年(大正5年)5月25日 - 1988年(昭和63年)8月1日)は、内観法(内観療法)の創始者。奈良県大和郡山市生まれ。奈良県立郡山園芸学校(現奈良県立郡山高等学校)卒。実業家出身で、浄土真宗木辺派の僧侶、刑務所の教誨師、篤志面接委員としても活躍した。 内観法は精神医学や心身医学に応用され、森田療法と並んで代表的な日本製の精神療法(心理療法)として知られる。なお、白隠の内観法と区別して吉本内観法と呼ばれることもある。 吉本の創始した内観法(単に内観とも)とは次のようなものをさす。 集中内観と日常内観の2つの段階に分けられる。 集中内観は研修所や病院などの静かな部屋に一週間こもり、外界とのやり取りを制限し、自分とかかわりの深い他者(特に母親が重視される)に対して自分がどうであったかを、次の三つの観点から調べるものである。
山田 酉吉(やまだ ゆうきち、1916年5月25日 - 19… 山田 酉吉(やまだ ゆうきち、1916年5月25日 - 1987年4月1日)は、日本の実業家。味覚糖創業者で、社長、会長を歴任。 鹿児島県大島郡伊仙村(後に伊仙町)西伊仙出身。1932年に伊仙尋常高等小学校高等科を卒業し、同年4月から大阪市の菓子卸問屋に勤める。1936年11月、大阪市にて菓子卸小売店を経営。1941年9月、菓子統制により卸業者11店で配給組合を結成し、支配人となる。1943年8月、株式会社大和鉄工所を設立して代表取締役に就いて航空機部分品の生産に従事するが、1945年6月7日に戦災を受けて会社解散。奈良県に疎開。 戦後の1948年3月、大阪市に菓子卸業の株式会社誠商会を設立し、会長に就く。
矢尾 次郎 (やお じろう、1916年 <大正5年> 5月2… 矢尾 次郎 (やお じろう、1916年 <大正5年> 5月24日 - 1990年 <平成2年> 3月3日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 1916年、福井県福井市生まれ。福井市立福井商業学校(現福井県立福井商業高等学校)を経て、1937年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業。商業学校では、赤松要ゼミで学んだ。その後は神戸商業大学(現神戸大学)に進み、1940年に卒業、田中金司ゼミで学んだ。 卒業後、指導教官田中の推薦で、1940年に神戸商業大学助手に採用。1944年より神戸商業大学大東亜研究所調査員。1944年に神戸経済大学助手、1946年に同助教授、1952年に同教授に昇進。
渡辺 孝友(わたなべ たかとも、1916年5月22日 - 1… 渡辺 孝友(わたなべ たかとも、1916年5月22日 - 1986年12月17日)は、日本の銀行家、経営者。島根県大田市出身。 1939年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年4月に日本銀行に入行。長崎支店長、総務部長を経て、1966年6月に営業局長に就任し、1968年1月から1975年2月までに理事を務めた。1975年4月に日本開発銀行副総裁に就任し、1979年4月には総裁に昇格した。 1986年12月17日脳内出血のために死去。70歳没。
中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月… 中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月20日 - 2008年〈平成20年〉3月29日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸軍士官学校卒業(第49期)、陸軍大学校卒業(第56期)。第10代陸上幕僚長、第7代統合幕僚会議議長。 滋賀県出身。農業組合長・中村忠治郎の長男として生まれる。水口中学校(現:滋賀県立水口高等学校)を卒業し、陸士予科を経て陸士本科へ進んだ。1937年(昭和12年)陸士本科(第49期)卒業。1942年(昭和17年)陸大卒業(恩賜組)。関東軍参謀、大本営陸軍部参謀等を務め、陸軍少佐で終戦を迎える。その後、公職追放となる。 1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊。
李 東煥(イ・ドンファン、1916年5月19日 - 1991… 李 東煥(イ・ドンファン、1916年5月19日 - 1991年11月11日)は、大韓民国の官僚、外交官。内務省次官や、駐日本首席代表、駐オーストラリア大使などを務めた。日本名は森山 辰雄。 日本統治時代の朝鮮の咸鏡南道端川郡出身。元山公立商業学校を経て、1940年京城高等商業学校卒業。高等文官試験行政科に受かり、1942年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後は、朝鮮総督府に入庁した。金東祚は高等商業学校時代の同期。朝鮮総督府江原道属、朝鮮総督府逓信事務官を経て、日本の降伏を迎えた。 大韓民国逓信部郵務局長等を経て、1960年内務省次官。1961年には大平正芳内閣官房長官や、小坂善太郎外務大臣の同窓であることなどから、大使館設置前の駐日韓国代表部首席代表・公使を務め、大学の先輩にあたる足立正日本商工会議所会頭などと接触し、日韓国交正常化に向け尽力した。
三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 19… 三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 1997年)は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。 諏訪蚕糸学校では1930年に春のセンバツと夏の選手権に出場。 1937年に名古屋軍へ入団。前年大活躍した正捕手のバッキー・ハリスがイーグルスへ移籍し、捕手不足の中で頭角を現した。強肩でキャッチングが上手く、また俊足でもあったためレギュラーを張っていた。ただ打撃に難があり、1939年に服部受弘が入団すると一塁手に回る機会も多かった。中日球団でエースの象徴とされる背番号20を、初めて付けた人物として知られる。 1941年に軍に応召され、退団。戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の小口製作所でプレイングマネージャーとして活躍した。
戸上 城太郎(とがみ じょうたろう、1916年5月18日 -… 戸上 城太郎(とがみ じょうたろう、1916年5月18日 - 1980年7月24日)は、日本の俳優。 長崎県に生まれる。本名・田川正三。 猶興館中学4年修了。東宝京都撮影所俳優養成所で学び、1939年に今井正監督の『沼津兵学校』でデビュー。すぐに日活に移籍し、1941年に稲垣浩監督の『海を渡る祭礼』で初主演。その後所属先は日活から大映、松竹と変わる。 大柄な体躯と野太い声が特徴で殺陣の名手としても知られたが、台詞回しの癖のため主演スターとしては伸び悩んだ。中年期以降は主に時代劇の悪役・敵役として活躍した。 1960年には高田浩吉、近衛十四郎と共に時代劇量産体制にあった東映に移籍。東映時代『梟の城』(1963年)において大友柳太朗と敵対する忍者の頭目の役で、高所恐怖症のため空を飛ぶシーンの撮影(クレーンとワイヤーを用いた)の際に苦労したとのエピソードがある。
青葉 高(あおば たかし、1916年 <大正5年> 5月18… 青葉 高(あおば たかし、1916年 <大正5年> 5月18日 - 1999年 <平成11年> 1月31日)は、農学博士。専攻は蔬菜園芸学。在来作物研究の先駆者であり、「在来野菜は生きた文化財」ということを訴えていた。位階は正四位。 埼玉県浦和町(現さいたま市)生まれ。1937年千葉高等園芸学校卒業。1963年「タマネギの球形成および休眠に関する研究」で京都大学農学博士。山形大学農学部助手、講師、助教授、1964年教授、1976年千葉大学園芸学部教授。1982年定年退官。1985-88年国立歴史民俗博物館研究協力者委嘱。1976年「球根作物の球形成に及ぼす温度の影響」で園芸学会賞学術賞受賞。1989年勲三等旭日中綬章受章。
高島 一岐代(たかしま かずきよ、1916年5月18日 - … 高島 一岐代(たかしま かずきよ、1916年5月18日 - 1986年7月29日)は、将棋棋士。大阪府八尾市出身。藤内金吾八段門下。棋士番号19。将棋棋士八段の高島弘光は甥。元指導棋士五段の高島一由岐は長男。 (2021年4月1日現在)
中山 武(なかやま たけし、1916年5月17日 - 197… 中山 武(なかやま たけし、1916年5月17日 - 1975年8月18日)は、静岡県出身のプロ野球選手(捕手)。
木戸 新太郎(きど しんたろう、本名:木村 新吉、1916年… 木戸 新太郎(きど しんたろう、本名:木村 新吉、1916年5月17日 - 1975年8月19日)は、日本のタップダンサー、喜劇人、映画俳優である。映画に関しては、ほとんどが愛称のキドシン名義で出演している。 1916年(大正5年)5月17日、北海道庁函館区豊川町(現在の函館市豊川町)に、海産商「木村商店」を営む木村喜助・ゑつ夫妻の長男として生まれ、裕福でハイカラな家庭に育つ。名門宝尋常高等小学校を卒業、北海道庁立函館商業学校へ入学したが、1932年(昭和7年)、父が急逝、学校を中退して家業を手伝う。そのころ、映画を観てフレッド・アステアに憧れ、タップダンスに興味を持つ。 1937年(昭和12年)22歳のときに上京、中川三郎に師事。
姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15… 姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15日 - 1999年 <平成11年> 2月18日)は日本の柔道家(講道館9段)。広島県神石郡神石町(現・神石高原町)古川出身。 子供の頃から柔道を始め(記録上の講道館入門は1932年4月で15歳の時)、1934年の3月に県立府中中学校を卒業する時には全国でも数少ない中学生での3段位に列せられた。 卒業後は上京して明治大学の専門部へ入学し、名人・三船久蔵の内弟子に。入学から3ヵ月後に4段、翌35年1月には2年生の弱冠18歳ながら5段に昇段して同年秋の講道館紅白試合では5段の部で5人抜きを達成している。 3年次の1936年4月30日に福岡市で開催された第1回全日本東西対抗大会(両軍32人ずつの抜き試合)には大会最年少選手として出場し、武専の名手・阿部謙四郎5段をあっさり横四方固で降したものの、続く南満州鉄道の加藤幸蔵5段には跳巻込で敗れた。
入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日… 入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉8月10日)は、日本の美術家、洋画家。シルクロードを題材とした作品で知られる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年… 安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年4月25日)は、日本の医師。医学博士。元帝京大学副学長。 山口県長門市の網元の家に生まれる。旧制大津中学校、旧制山口高等学校を首席卒業、1941年東京帝国大学医学部医学科卒。1951年医学博士(東京大学)。論文の題は「プロトロンビンに関する研究」。 海軍軍医大尉として従軍し、その後1946年東京大学医学部第一内科助手、コーネル大学留学等を経て、1964年東京大学医学部第一内科講師。1971年に帝京大学に招聘され医学部教授に就任、1980年から1987年まで帝京大学医学部長、のち帝京大学名誉教授。1987年から1996年まで帝京大学副学長。
米倉 美枝(よねくら みえ、1916年(大正5年)5月15日… 米倉 美枝(よねくら みえ、1916年(大正5年)5月15日 - 1977年(昭和52年)8月3日)は、昭和時代の合唱指揮者。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。東京音楽学校師範科卒業後、福岡県に戻り高等女学校教師となる。 1948年(昭和23年)の第1回全日本合唱コンクール全国大会学生部門に旧制福岡高等女学校(現:福岡中央高校)を指揮して出場、優勝を果たす。教職を退いた後は石丸寛らとともに九州の合唱隆盛に尽力し、福岡合唱協会、RKB女声合唱団、八幡製鉄合唱団などを指揮・指導する。九州合唱連盟理事長、全日本合唱連盟常任理事、熊本音楽短期大学教授などを務めた。
河田 龍介(かわた りゅうすけ、1916年5月13日 - 1… 河田 龍介(かわた りゅうすけ、1916年5月13日 - 1995年7月9日)は、日本の経営者。関西相互銀行社長を務めた。大阪府出身。 1940年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1972年3月に常務、同年5月に関西相互銀行専務を経て、1973年11月から1978年12月までに社長を務めた。社長在任時に1978年6月に住友銀行との合併計画を発表し、進めたが、当行の従業員組合の反対により、挫折。 1995年7月9日急性呼吸不全のために死去。79歳没。
広橋 百合子(廣橋 百合子、ひろはし ゆりこ、1916年5月… 広橋 百合子(廣橋 百合子、ひろはし ゆりこ、1916年5月12日 - 1977年4月26日)は、走高跳を専門とする日本の陸上競技選手、学校教師。結婚後の姓は長井(ながい)。石川県羽咋郡北荘村(現・宝達志水町)出身で、大島鎌吉と並ぶ石川県初のオリンピック選手である。元日本記録保持者。 黎明期の日本女子走高跳を支えた人物で、3度オリンピック出場を目指したが、実際に出場が叶ったのは1932年ロサンゼルスオリンピックの1度であった。 1916年(大正5年)5月12日、石川県羽咋郡北荘村小川(現・宝達志水町小川)にて5人きょうだい(1男4女)の三女として生まれる。実家は照覚寺という真宗大谷派の仏教寺院で、父は僧侶、母も羽咋の寺から嫁いだ人であった。
小宮山 量平(こみやま りょうへい、1916年5月12日 -… 小宮山 量平(こみやま りょうへい、1916年5月12日 - 2012年4月13日)は、日本の編集者、元理論社社長。 長野県上田市の酒屋に生まれる。2歳で母、10歳で父と死別。父の死後まもなく酒屋は破産し、一家離散となる。小学校5年生のとき、親戚(叔母)を頼り東京に転校。小学校卒業後は、第一銀行で渋沢敬三の給仕をして働きながら大倉商業学校(東京経済大学の前身)の夜間部に通う。在学中、左翼運動サークルを結成。しかし、特別高等警察に勾留され拷問を受けて転向。釈放後、特高警官(給仕時代の先輩の父親)から支援を受け、旧制中学校への編入と卒業資格を得て、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学。在学中から雑誌「統制と経済」の編集を手掛ける。
本多 丕道(ほんだ ひろみち、1916年〈大正5年〉5月11… 本多 丕道(ほんだ ひろみち、1916年〈大正5年〉5月11日 - 1990年〈平成2年〉8月5日)は、日本の警察官僚。第68代警視総監。位階勲等は従三位勲二等。 東京府出身。第一高等学校を卒業。1940年(昭和15年)10月、高等試験行政科試験に合格。1941年(昭和16年)3月、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し神祇院属となる。 短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年(昭和16年)4月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年8月に卒業し「霧島」乗組となる。以後、「知床」乗組、下関防備隊主計長、第104航空基地隊主計長、東印海軍航空隊主計長などを歴任しジャワ島で終戦を迎えた。
鈴木 英夫(すずき ひでお、1916年〈大正5年〉5月10日… 鈴木 英夫(すずき ひでお、1916年〈大正5年〉5月10日 - 2002年〈平成14年〉5月2日)は、日本の映画監督。愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身。スリラーとサスペンスの名手とされ、最晩年に再評価された。 1916年(大正5年)5月10日、現在の愛知県蒲郡市に生まれる。家業の船舶運送業を継ぐべく進学するが、映画好きが昂じて、1933年(昭和8年)日本大学藝術学部に入学。23歳になる1939年(昭和14年)、卒業と同時に豊田四郎の遠縁を頼って新興キネマ東京撮影所の助監督部に入社。1943年(昭和18年)東宝への移籍を経て、1944年(昭和19年)大映東京撮影所に移籍。 1941年(昭和16年)、助監督の身分で舟橋聖一の原作を脚色した『母代』が、師匠である田中重雄監督の手によって映画化され、評判になる。
知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993… 知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993年7月25日)は、沖縄民謡の歌手、作詞・作曲家。知名定男の父として知られている。 沖縄県具志川市(現在のうるま市具志川)生まれ。太平洋戦争中は現在の北九州市で暮らしながら筑豊炭田で働いていた。その際に息子の知名定男が生まれた。 戦後しばらくの間、大阪で暮らし、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となるが、1956年、定男ら家族を引き連れて沖縄に密航。 1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、宮廷音楽湛水流の研究や箏曲譜などの編纂にも取り組んだ。 作詞・作曲家としても活躍し、名作の数々は現在でも沖縄県内で広く歌い継がれている。
山口 政信(やまぐち まさのぶ、1916年5月5日 - 19… 山口 政信(やまぐち まさのぶ、1916年5月5日 - 1976年3月22日)は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
牛来 正夫(ごらい まさお、1916年5月4日 - 2002… 牛来 正夫(ごらい まさお、1916年5月4日 - 2002年2月4日)は、日本の地球科学者。専門は岩石学。学位は、理学博士(九州大学・1948年)(学位論文「岩石学的見地から見た斜長石双晶の研究」)。東京教育大学教授を歴任 福島県出身。東京高等師範学校卒業。東京文理科大学を経て東京教育大学理学部教授。 1948年、「岩石学的見地から見た斜長石双晶の研究」で、九州大学より理学博士の学位を取得。井尻正二の盟友として、地学団体研究会の創設に参加、その重鎮として岩石学分野の研究活動を指導。「斜長石双晶の型に関する岩石学的研究」で日本地質学会賞を受賞。この研究は国際的にも高い評価を受け、牛来の名を世界の岩石学界に知らしめた。
北村 正哉(きたむら まさや、1916年 <大正5年> 5月… 北村 正哉(きたむら まさや、1916年 <大正5年> 5月3日 - 2004年 <平成16年> 1月26日)は、日本の政治家。青森県で県議会議員・副知事を各3期、その後知事を4期にわたって務めた。位階は正四位。 正哉の哉の文字は、本来は旁にノが付かないものだが、異体字でコンピュータ上で表現できないケースがあるため、「〓」として註釈するか、「哉」で代用するか、「まさや」とひらがなで表記されるケースがある。 上北郡三沢村(現・三沢市)で、牧場主の長男として生まれた。先祖の北村豊三は元会津藩士で、会津戦争敗北後に同藩が斗南藩として現在のむつ市へ転封された際に移住し、広沢安任と共に日本初の西洋式牧場である「開牧社」の経営に参加した。
川瀬 源太郎(かわせ げんたろう、1916年(大正5年)5月… 川瀬 源太郎(かわせ げんたろう、1916年(大正5年)5月3日 - 2003年(平成15年)1月24日)は、日本の実業家。日本生命名誉会長。 滋賀県出身。滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を経て、1937年(昭和12年)に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)を卒業。同年日本生命保険に入社し、取締役関連部長・財務部長、常務取締役、専務取締役、代表取締役副社長等を経て、1982年(昭和57年)に弘世現の後任として代表取締役社長に就任。初代の有価証券部長のとき証券不況に遭遇、徹底した防戦買いで注目された。社長在任中に「ザ・セイホ」の筆頭格に育て上げ、保有契約高などで世界一を達成する。
今井 正郎(いまい まさお、1916年(大正5年)5月3日 … 今井 正郎(いまい まさお、1916年(大正5年)5月3日 - 1995年(平成7年)7月19日)は、昭和から平成時代の政治家。三重県亀山市長。亀山市名誉市民。 亀山市出身。1941年(昭和16年)京都帝国大学法学部卒業。満州石油に入社し、三協油脂勤務、南国船舶人事庶務各課長を務める。 1956年(昭和31年)三重県中小企業団体中央会事務局長を経て、1959年(昭和34年)から11年間に渡り亀山市収入役を務める。1970年(昭和45年)同市長に当選し、6期務め1994年(平成6年)引退した。
小室 直人(こむろ なおと、1916年(大正5年)5月1日 … 小室 直人(こむろ なおと、1916年(大正5年)5月1日 - 1997年(平成9年)11月25日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、法学博士(東北大学・論文博士・1962年)(学位論文「上訴制度論」)。大阪市立大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。斎藤秀夫門下。弟子に松本博之、上野泰男など。 鳥取県の谷内家に生まれ、宮城県小室家へ養子に行く。 1939年広島高等学校 (旧制)卒、1940年学徒出陣、45年復員し、1948年東北帝国大学法文学部卒、1950年東北大学法学部大学院(旧制)修了(指導教員:斎藤秀夫)、1950年大阪市立大学法文学部助手、1951年講師、1952年助教授、1960年法学部教授。
長瀬 誠造(ながせ せいぞう、1916年5月1日 - 198… 長瀬 誠造(ながせ せいぞう、1916年5月1日 - 1982年1月6日)は、日本の経営者。長瀬産業社長を務めた。 ロンドンで出生し、京都府京都市出身。1938年に長瀬産業監査役に就任し、1943年に立命館大学法学部法文学科を卒業。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務、1951年に専務、1962年に副社長を経て、1968年5月に社長に就任。 1982年1月6日心不全のために死去。65歳没。
中村 英雄(なかむら ひでお、1916年(大正5年)5月1日… 中村 英雄(なかむら ひでお、1916年(大正5年)5月1日 - 1988年(昭和63年)10月22日)は、日本のドイツ文学者。 広島県広島市に広崎英雄として生まれ、両親が離婚して父の中村姓を名のる。三歳で天津に移る。1941年早稲田大学文学部独文科卒、小林正樹らとシナリオ「われ征かん」を執筆したのち入隊、陸軍予備少尉となり南鳥島で敗戦を迎える。舟木重信を師とあおぎ、同人誌に小説を書く。1946年早大附属早稲田第一高等学校専任講師。1949年日本共産党に入る。早大理工学部専任講師、51年助教授、52年文学部助教授、教授、1987年定年退任、名誉教授。左翼的学者として行動した。
一色 次郎(いっしき じろう、本名:大屋典一(すけかつ)、1… 一色 次郎(いっしき じろう、本名:大屋典一(すけかつ)、1916年5月1日 - 1988年5月25日)は、日本の小説家。 鹿児島県にある沖永良部島の大島郡知名村(現知名町)余多で生まれ、すぐ鹿児島市に移る。幼少期に1年程、現在の兵庫県加古川市に居住。1919年、3歳の時に父が無実の罪で獄死し、母親と別居して親戚の家で育つ。 1936年に鹿児島朝日新聞(現・南日本新聞)で「隠密薩摩相」の連載小説を執筆。同年上京する。佐佐木茂索に師事、はじめは本名で執筆活動を行った。1945年西日本新聞東京支社に入社。1949年「冬の旅」で直木賞候補、1955年に児童読物で一色次郎の筆名を用いる。1961年「孤雁」で再度直木賞候補。