万城目 正(まんじょうめ ただし、1905年1月31日 - … 万城目 正(まんじょうめ ただし、1905年1月31日 - 1968年4月25日)は、日本の作曲家。本名は萬城目 侃(読みは同じ)。 北海道十勝支庁中川郡幕別村(現在の幕別町)出身。 旧制中学校を卒業後に上京し、武蔵野音楽学校で学ぶ。その後一時帰道するが再び上京して松竹楽団に入社し、多くの劇伴を作曲・指揮を担当。1938年の映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」など多くの映画音楽を手がけ、そのほとんどの作品はコロムビアレコードからレコードとして発売され、専属作曲家として長年に渡り活動した。 戦後は映画『そよかぜ』の音楽を担当し、主題歌の「リンゴの唄」は並木路子が歌い大ヒットした。 また歌謡曲では高峰三枝子、美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲し、戦前から多くの歌手や俳優の歌唱指導を担当した経験を活かして1957年には松竹大船撮影所の近くに「万城目正歌謡音楽院」を開校した。
浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)… 浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 浜磯之助の長男として福岡県早良郡鳥飼村(現・福岡市)に生まれる。日本学士院会員の医学者浜清は実弟。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1928年3月九州帝国大学法文学部を卒業。 1928年3月徴兵により佐世保重砲兵大隊に1年間入隊。1931年4月外務省文化事業部補給生として中国に留学し北京大学、清華大学、東亜同文書院などで現代中国の研究を行う。 1934年4月南満洲鉄道(満鉄)に入社し、対中国要員として満鉄調査部に配属される。青島事務所を経て、1936年4月北京事務所へ異動し、同年12月中国における満鉄の権益拡大をコントロールする機構である、大連本社の総裁室東亜課に勤務。
田辺 貞之助(たなべ ていのすけ、1905年1月30日 - … 田辺 貞之助(たなべ ていのすけ、1905年1月30日 - 1984年9月7日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京市深川区(現・東京都江東区深川)に生まれる。旧制一高を経て、1928年東京帝国大学文学部仏文科卒。暁星中学校講師、浦和高等学校教授を務め、戦後は東京大学教養学部助教授・教授、1966年に定年で退任後は、早稲田大学客員教授、埼玉医科大学教授を務め、1976年に名誉教授となった。 フランス文学作品は、ユイスマンス、ゴーティエほかの幻想文学、また自然主義文学ではエミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサンなど多数を訳し、数多くのフランス艶笑譚の翻訳から近世小咄の研究まで洒脱な随筆調の作品を著した。
三瓶 孝子(さんぺい こうこ、1905年〈明治38年〉1月3… 三瓶 孝子(さんぺい こうこ、1905年〈明治38年〉1月30日 - 1978年〈昭和53年〉10月16日)は、日本の経済史学者。 福島県出身。東京女子大学卒。高橋経済研究所研究員となり日本経済史を研究。1939年退所、1940年日本労働科学研究所に入所、農村や工場の実態を調査。1941年女性による初めての経済史研究書『日本綿業発達史』を刊行した。
斎藤 寅次郎(さいとう とらじろう、1905年(明治38年)… 斎藤 寅次郎(さいとう とらじろう、1905年(明治38年)1月30日 - 1982年(昭和57年)5月1日)は、日本の映画監督である。本名は寅二郎。喜劇映画を非常に得意とし、しばしば「喜劇の神様」と称される。 妻は自作のコメディエンヌでもあった女優の浪花友子。晩年の1972年に芸名を本名の寅二郎に改めている。 1905年(明治38年)1月30日、秋田県由利郡矢島町(現在の由利本荘市矢島町)舘町で役場収入役の父・孝一郎の子として生まれる。8人兄弟の次男であった。子供のころは一年に一度巡業しに来た活動写真に夢中になっていた。 1919年(大正8年)、矢島小学校小学校高等科を卒業する目前に上京して、祖父の弟が経営する医院に住み込みの書生となる。
大河内 一男(おおこうち かずお、1905年〈明治38年〉1… 大河内 一男(おおこうち かずお、1905年〈明治38年〉1月29日 - 1984年〈昭和59年〉8月9日)は、日本の経済学者。位階は正三位。 東京大学総長、同名誉教授。専修大学学長。日本学士院会員。専攻は社会政策。 1905年、東京下谷生まれ。東京府立第三中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学に入学。大学では河合栄治郎に師事した。 大学卒業後、東京帝国大学経済学部助手に採用され、のちに講師昇進。しかし、平賀粛学に際して1939年(昭和14年)1月30日に辞表を提出。しかし平賀譲総長から慰留され、対処をめぐって改めて師の河合栄治郎、河合門下の三羽烏と呼ばれた木村健康・安井琢磨と相談をしたところ、あくまで辞表を撤回するなとする師のメッセージに、それまで持っていた師のイメージが変わってしまい、師と袂を分かつ決意をする。
川口 浩(かわぐち ひろし、1905年1月29日 - 198… 川口 浩(かわぐち ひろし、1905年1月29日 - 1984年8月18日)は、日本のドイツ文学者、文芸理論家。中央大学名誉教授。 神奈川県横浜市生まれ。本名・山口忠幸。浦和高等学校(旧制)卒、1929年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中から左翼文学運動に携わり、林房雄、中野重治、久板栄二郎らとマルクス主義芸術研究会を作る。27年、蔵原惟人、林らと労農芸術家連盟を脱退、前衛芸術家同盟の結成に参画。その後はナップの線に沿って活動した。非公然活動をしていた蔵原惟人の論文に名義貸しをしたこともある。戦後は中央大学教授、1975年定年退任。
大橋 喜美(おおはし きみ、1905年(明治38年)1月29… 大橋 喜美(おおはし きみ、1905年(明治38年)1月29日 – 1999年(平成11年)6月1日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県鹿沼市出身。1925年、東京女子高等師範学校文科卒。島根県立浜田高等女学校、滋賀県大津市高等女学校の教員を経て、結婚により宮崎県延岡市に移る。夫の死後、故郷の鹿沼へ戻り、栃木県立鹿沼高等女学校講師になる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙では宮崎県から日向民主党公認で立候補して初当選した。当選後は国民協同党に入るが、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙では宮崎1区から民主党公認で立候補したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では選挙区を栃木1区に移して立候補したが落選した。
吉橋 鐸美(よしはし たくみ、1905年1月28日 - 没年… 吉橋 鐸美(よしはし たくみ、1905年1月28日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚。名古屋財務局理財部長、名古屋財務部長、東海財務局長(初代)、近畿財務局長、名古屋証券取引所理事長などを歴任。 愛知県出身。1929年12月に高等試験司法科に合格し、1930年10月には高等試験行政科に合格。関西大学法文学部法律学科卒業。1932年1月 大蔵省入省(専売局書記・大阪地方専売局)。1946年11月 銀行局監査課長。1947年9月 名古屋財務局理財部長。1949年6月1日 名古屋財務部長。1950年5月4日 東海財務局長。1952年3月1日 近畿財務局長。1953年11月2日 退官。同年11月 地方銀行協会常務理事。
稲村 松雄(いなむら まつお、1905年1月28日 - 19… 稲村 松雄(いなむら まつお、1905年1月28日 - 1996年11月12日)は、日本の英語教育学者。 東京府八王子に織染工場の子として生まれる。静岡高等学校卒業、1929年東京帝国大学文学部英文科卒業。1931年静岡高等学校教授、1950年静岡大学教授、1952年学習院大学教授、1975年定年、名誉教授。1974年『ランダムハウス英和大辞典』で日本翻訳出版文化賞受賞。
井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日… 井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日 - 1986年(昭和61年)12月30日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員(1期)、芝区長、港区長(公選初代) 長崎県出身。1924年(大正13年)長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業。その後、早稲田専門学校で学んだ。 東京市役所に入り事務員となる。その後、東京都制施行に伴い東京都事務官に就任。1945年(昭和20年)12月、芝区長に就任。1947年(昭和22年)4月、公選初代港区長に選出された。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で東京都第1区から民主自由党公認で立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。
島田 巽(しまだ たつみ、1905年1月25日 - 1994… 島田 巽(しまだ たつみ、1905年1月25日 - 1994年3月8日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説副主幹、ジャパン・クオータリー誌編集委員会委員。1965年から1976年まで人事官を務めた。 東京出身。1927年、慶應義塾大学政治学科を卒業。卒業後は朝日新聞社に就職し、東京本社欧米部長、論説副主幹などを歴任後、1965年3月2日から1976年4月1日まで、3期12年にわたり人事官を務めた。1975年、勲一等瑞宝章を受章。 1994年3月8日、膵臓癌により死去。89歳。
広田 精一郎(ひろた せいいちろう、1905年1月25日 -… 広田 精一郎(ひろた せいいちろう、1905年1月25日 - 1993年8月2日)は、日本の経営者。 福岡県遠賀郡遠賀町出身。1927年に広島高等工業学校を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 名古屋、滋賀での各工場長を務め、1956年に取締役に就任し、1963年に副社長に就任し、1966年から1971年までに社長を務めた。 1968年に藍綬褒章を受章。 1993年8月2日急性心不全のために死去。88歳没。
倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 19… 倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 1988年1月28日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。 1905年(明治38年)1月25日、大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)に生まれる。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社、木村次郎に師事、同年、木村の監督した『名なし鳥』に助監督としてクレジットされる。同撮影所の同部で、溝口健二や田坂具隆に師事する助監督の熊谷久虎と知り合う。1932年(昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督に昇進した。 1934年(昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する。
大隅 芳雄(おおすみ よしお、1905年(明治38年)1月2… 大隅 芳雄(おおすみ よしお、1905年(明治38年)1月24日 - 1987年(昭和62年)6月7日)は、日本の鉱山学者。九州大学名誉教授。岳父は日本史学者で九州大学名誉教授の長沼賢海。長男は日本史学者で東京女子大学名誉教授の大隅和雄、二男は生物学者でノーベル賞受賞者の大隅良典。孫は歴史学者の大隅清陽。 1905年、広島県広島市生まれ。旧制広島高師附属中学、旧制山口高等学校を経て、1929年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業。 大学卒業後は九州帝国大学講師に採用。助教授を経て、1943年に教授昇進。1961年より工学部長を務めた。 趣味は刀剣。宗教は真宗。 九州帝国大学に勤務し、福岡県福岡市大字香椎に居住していた。
岩倉 具正(いわくら ともまさ、1905年(明治38年)1月… 岩倉 具正(いわくら ともまさ、1905年(明治38年)1月24日 - 1964年(昭和39年)7月31日)は、昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・岩倉具明の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1938年(昭和13年)2月1日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1933年(昭和8年)東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。宮内省勤務、国際電気通信会社員を務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選したが、翌月14日に辞職した。
山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1… 山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1997年1月15日)は、日本の中国哲学者。兄に山室次郎(中部日本新聞社社長)、弟に作家の山室静がいる。 長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、九州帝国大学法文学部選科支那哲学科修了。1933年九州帝大副手を経て、1934年外務省留学生として北京に赴き、1936年北京近代科学図書館初代館長、銭稲孫に委嘱して日本文学の中国語訳をさせる。帰国し、1947年九州帝大法文学部助教授、1960年九州大学文学部教授、1968年定年退官、名誉教授、1970年から1977年まで福岡大学教授、福岡県文化財専門委員、九州管区警察学校講師を務め、1980年から1983年まで東海大学教授。
久山 秀雄(ひさやま ひでお、1905年〈明治38年〉1月2… 久山 秀雄(ひさやま ひでお、1905年〈明治38年〉1月23日 - 1971年〈昭和46年〉8月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、内務省警保局長。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 兵庫県出身。久山春次郎の長男として生まれる。兵庫県立第二神戸中学校を経て、第一高等学校を卒業。1927年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し兵庫県属となり内務部地方課に配属。 以後、地方警視・福井県警察部保安課長、青森県警察部特別高等警察課長、神奈川県警察部警務課長、内務事務官・警保局図書館勤務、山梨県書記官・警察部長、内閣情報部書記官・第一課長、同第二課長兼務、警保局警務課長などを歴任。
椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 198… 椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家、鹿児島県立図書館長、教員。本名は久保田 彦穂(くぼた ひこほ)。日本における動物文学の代表的人物である。 1947年から19年間務めた鹿児島県立図書館長時代には、第二次世界大戦で崩壊した図書館機能の再建のため、市町村図書館と共同運営を行い、市町村図書館を設置できない市町村には図書館を設置して県立図書館が支援するという、のちの図書館ネットワークの原型となる、図書館学において「鹿児島方式」と呼ばれるものを構築した。 1905年1月長野県下伊那郡喬木村阿島北にて、父(金太郎)、母(たき)の次男として誕生。
関谷 源兵衛(せきや げんべい、1905年(明治38年)1月… 関谷 源兵衛(せきや げんべい、1905年(明治38年)1月22日 - 1945年(昭和20年)8月2日)は第7 - 9代八王子市長。
岩崎 克己(いわさき かつみ、1905年1月21日(明治38… 岩崎 克己(いわさき かつみ、1905年1月21日(明治38年) - 1993年11月20日)は日本の言語学者、歴史学者。 1905年1月21日、愛知県豊橋市で生まれた。旧制第八高等学校を卒業後上京し、東京帝国大学英文科に進学。同大学大学院に進み、修了。その後、東京外国語大学に入学。東京外国語大学ではオランダ語、ポルトガル語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、中国語、チベット語等を習得し、卒業した。 修了後は、郁文館、早稲田実業学校、桜蔭学園などで英語教師として勤務。専門は語学であったが、東洋史に関する問題についても研究し、『書物展望』、『歴史地理』、『学鐙』などの論文を残した。1943年に応召し、中華民国に渡った。
金子 武蔵(かねこ たけぞう、1905年1月21日 - 19… 金子 武蔵(かねこ たけぞう、1905年1月21日 - 1987年12月31日)は、日本の哲学者、倫理学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1905年、高知県で実業家・金子直吉の次男として生まれた。第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 法政大学教員などを経て、1935年に東京帝国大学倫理学講座講師に就任。1938年、同助教授に昇格。1945年、学位論文『ヘーゲルの国家論』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 和辻哲郎の後任として東京大学倫理学科教授となった。1957年2月2日、実存主義協会を設立し、機関誌『実存主義』を通して日本における研究をリードした。学内では文学部長を務め、1965年に東京大学を定年退官。
大井 征(おおい ただす、1905年〈明治38年〉1月21日… 大井 征(おおい ただす、1905年〈明治38年〉1月21日 - 1960年〈昭和35年〉4月15日)は、昭和のフランス文学者・フランス語学者・翻訳家。筆名は、映画評論で用いた春巴。戦前はアナトール・フランス、戦後はジャン=ジャック・ルソーの作品を主に翻訳したことで知られる。 山口県山口市に生まれ、幼少の頃に東京へ移った。1927年(昭和2年)3月、法政大学を卒業。1929年(昭和4年)1月から法政大学予科でフランス語を講じ、1939年(昭和14年)まで在任した。同年、広島陸軍幼年学校陸軍教授として赴任し、1941年(昭和16年)には東京陸軍幼年学校教授へ転じ、終戦を迎えている。戦後は法政大学に戻り、文学部教授や第二教養部長となった。
田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - … 畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - 1994年2月11日)は、日本の地球物理学者。 新潟県北蒲原郡新発田町生まれ。1922年旧制東京府立第三中学校卒業。1925年旧制第一高等学校理科甲類卒業。1928年東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、中央気象台に入る。1949年気象研究所長、1958年東京管区気象台長、1963年気象庁長官。1965年退官、のち二松學舍大学教授、1975年名誉教授。 1938年10月に、地磁気湾形変化の研究を発表した。1940年「地磁気及び地電流の湾型変化並に脈動に関する研究」で理学博士の学位を取得。
佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - … 佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - 1968年12月16日)は、大分県竹田市出身の童謡作詞家、童話作家、詩人。代表曲に『犬のおまわりさん』など。ひらがな表記のさとう・よしみ名義の作品も存在する。 代表作の『犬のおまわりさん』は、2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。他に童謡の代表的な作品に、『グッドバイ』、『月の中』、『ともだちシンフォニー』、『おすもうくまちゃん』、『アイスクリームのうた』などがある。 また、童話集『あるいた雪だるま』は1954年(昭和29年)に第1回産経児童出版文化賞を、『佐藤義美全集』(全6巻)は1975年(昭和50年)に第5回赤い鳥文学賞を受賞している。
伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1… 伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1月20日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の生物学者・登山家・アルピニスト・エスペランティスト。専門は、生物学・山岳文学論。元札幌静修短期大学学長。日本山岳会名誉会員。 神奈川県横浜市出身。北海道帝國大學予科卒。北海道帝國大學農学部卒。卒業後は、東京帝國大學医学部助手をしながら、日本各地の山々を登る。1935年(昭和10年)にはペンシルベニア大学にも生物学の研究のため留学。 1947年北海道学芸大学教育学部教授に就任。1958年北海道学芸大学退官。北海道教育庁教育長に就任。1965年教育庁停年退官。札幌医科大学教授。1972年札幌医科大学退官。
小林 正基(こばやし まさもと、1905年〈明治38年〉1月… 小林 正基(こばやし まさもと、1905年〈明治38年〉1月20日 - 1978年〈昭和53年〉10月27日)は、昭和時代の警察官・弁護士。 1905年1月、北海道空知郡中富良野村で小林権三郎の子として生まれる。1929年に高等試験行政科に合格。神奈川県巡査を拝命。1931年、明治大学法学部を卒業し、神奈川県警部補、神奈川県警部を経て1933年、高等試験司法科に合格。秦野警察署長、藤沢警察署長、神奈川県警察部保安課長、石川県警察部警務課長兼警防課長、福岡県警察部警務課長、海軍司政官、ボルネオ民政部に勤務。内務事務官、兵庫県警察部刑事課長、兵庫県警察部警務課長、青森県警察部長を歴任。1948年3月に横浜市警察局長に就任し、これをもって退官。
木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 198… 木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 1984年)は、日本の英語学者。専門は商業英語。 北海道小樽市出身。1927年(昭和2年)小樽高等商業学校卒業。1931年(昭和6年)小樽高等商業学校助教授。1937年、アメリカペンシルベニア大学経営学部大学院に入学し、商業英語と国際貿易の研究のため、文部省在外研究員として在留。1939年、同大学修士課程修了。1943年、正六位に叙される。1944年、小樽経済専門学校教授。翌年、勲六等に叙せられ瑞宝章を授与される。1950年、小樽商科大学教授と小樽経済専門学校教授を兼務。1960年、再びアメリカへの出張を命じられ、ミシガン大学大学院言語学科において、英語学と外国語教授法を学ぶ。
金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月1… 金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月19日または1907年 - 1983年5月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、公務員、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は義城金氏(朝鮮語版)、朝鮮時代の文臣の金漢卿の子孫である。字は致勲、号は松崗。 慶尚北道青松郡出身。和睦公立普通学校(現・和睦初等学校(朝鮮語版))、大邱啓聖中学校(朝鮮語版)、平壌崇実専門学校(現・崇実大学校)農科、中央大学法学科卒。 啓聖中学校教員を経て、光復後は金泉中学校(朝鮮語版)校長、金泉女子中学校(朝鮮語版)校長、慶北女子中学校(現・慶尚中学校(朝鮮語版)に統合)校長、釜山東新中学校(朝鮮語版)校長、嶺南商業高等学校(現・釜山情報高等学校(朝鮮語版))校長、慶尚北道学務課長を歴任した。
高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月1… 高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月18日 - 1991年(平成3年)5月19日)は、日本の教育者、政治家、平和運動家。参議院議員(2期)。旧姓は渡辺。 福島県信夫郡福島町(現福島市)で、裁判官・渡辺晶、トヨ夫妻の三女として生まれる。福島県立福島高等女学校を経て、1922年、福島県女子師範学校を卒業。福島県伊達郡掛田尋常高等小学校訓導に就任。1924年に依願退職して勉学のため上京し、東京府(東京都)下の小学校で勤務した。 1945年11月、日本社会党創立に際し党員となる。同年12月、東京都教育労働組合の結成に参加。1947年4月、東京都品川区議会議員に当選し1950年まで在任。
河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月1… 河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月17日 - 1963年(昭和38年)7月12日)は、日本の昆虫学者、考古学者。 1905年1月17日、北海道史研究者の河野常吉の息子として生まれる。北海道帝国大学農学部にて、昆虫学を学ぶ。 大学卒業後の1930年に、北海道帝国大学農学部の助手として採用される。1932年、27歳の時に「日本産象鼻虫科ノ研究(独文)」により、農学博士の学位を授与される。 また、考古学などの研究も始める。1935年に、「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」の論文を発表し、縄文遺跡の貝塚は、ゴミ捨て場というよりは、アイヌ儀礼の「物送り場」という解釈を論じる。1944年、北海道帝国大学を退職。
伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 … 伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。位階は正五位。勲等は勲三等。 本名は伊藤整(いとう ひとし)。社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
児玉 洋一(こだま よういち、1905年1月16日 - 19… 児玉 洋一(こだま よういち、1905年1月16日 - 1981年3月24日)は、日本の経済史学者。 和歌山県那賀郡粉河町(現・紀の川市)出身。1926年和歌山高等商業学校(現和歌山大学)卒。1958年「近世瀬戸内海における塩業、特に入浜塩田の成立に関する研究」で経済学博士(大阪大学)。高松高等商業学校助教授、高松経済専門学校教授、1949年香川大学経済学部助教授、1951年教授。1963年経済学部長、1968年定年退官、名誉教授。1970年京都学園大学教授。1962年「近世塩田の成立」で日本学士院賞受賞。
藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月… 藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月21日)は、日本の俳優。本名は安惠 重男、戦時中の芸名は藤原 鶏太。身長156cm。 実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役。女優の沢村貞子は元妻。他に安恵一夫、藤原秀臣という芸名も用いた。 1905年1月15日、東京市深川区(現東京都江東区)に生まれる。家業の印刷屋不振のため、10歳で麹町の菓子屋に奉公に出る。四ツ谷第三小学校夜間部卒業。薬剤師を目指していた時期もあるが、浅草オペラ全盛時代とあってオペラ俳優に憧れ、滝野川俳優養成所に入る。 卒業後、浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。
福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14… 福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14日 - 1995年〈平成7年〉7月5日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正二位。勲等は大勲位。 大蔵省主計局長、衆議院議員(14期)、農林大臣(第2次岸改造内閣)、大蔵大臣(第1次佐藤第1次改造内閣・第1次佐藤第2次内閣・第2次佐藤第2次改造内閣・第3次佐藤内閣・第2次田中角栄第1次改造内閣)、外務大臣(第3次佐藤改造内閣)、行政管理庁長官(第2次田中角栄内閣)、経済企画庁長官(三木内閣)、自由民主党総裁(第8代)、内閣総理大臣(福田赳夫内閣)を歴任した。 東京帝国大学法学部から大蔵省入り。1947年主計局長となるが、翌年昭電疑獄に連座して退官。
佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9… 佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9月29日)は、日本の演出家・作詞家・社会主義運動家。日本では「インターナショナル」の訳詞の作詞者として知られる。後半生はメキシコを拠点とした演劇活動に費やし、メキシコでは「メキシコ演劇の父」と称される。
服部 英次郎(はっとり えいじろう、1905年1月14日 -… 服部 英次郎(はっとり えいじろう、1905年1月14日 - 1986年7月31日)は、日本の哲学研究者。関西大学名誉教授。 和歌山県生まれ。京都帝国大学文学部哲学科卒。神戸大学教授、名古屋大学教授、奈良女子大学教授、関西大学教授、1975年定年、名誉教授。 古代哲学末期のアウグスティヌスから中世哲学のトマス・アクィナス、ルネサンス期のベーコンなどの思想家を研究、アウグスティヌス『告白』『神の国』など多くの原典訳がある。
石渡 満子(いしわた みつこ、1905年(明治38年)1月1… 石渡 満子(いしわた みつこ、1905年(明治38年)1月13日 - 1974年(昭和49年)8月27日)は、日本の裁判官、弁護士。女性として日本で最初に裁判官となった。 神奈川県(京都府との説もある)にて、旧名主であり官吏の家の4人姉妹の長女として出生。1922年東京女子高等師範学校附属高等女学校本科卒業、1926年東京女子高等師範学校卒業。卒業と同時に結婚する。8年後に離婚し、法曹を志し、明治大学に進学し、1944年に卒業。1945年司法試験に合格。1948年婦人法律普及会を結成。 1949年女性初の判事補として東京地方裁判所に赴任。1950年婦人人権擁護同盟を組織。1961年判事となり、関東各地の地方裁判所に赴任。
宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 198… 宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 1982年5月10日)は、昭和期の日本の海洋物理・水産海洋学者。 1905年、高知県土佐郡小高坂村で生まれた。1921年に高知県立第一中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に進んだ。1924年、東京帝国大学物理学科に入学し、寺田寅彦や藤原咲平の指導を受けた。1927年に同大学を卒業。 卒業後の1927年(昭和2年)4月、農林省水産講習所(後の東京水産大学、現在は東京海洋大学)技師に採用された。1928年(昭和3年)2月から翌年11月まで、兵役のため、幹部候補生として浜松高射砲第一連隊に入隊。除隊後に復職するが、水産講習所の組織再編により、1929年10月より農林省水産試験場技師となり、海洋調査部に勤務。
名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月1… 名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月13日 - 1987年〈昭和62年〉10月3日)は、日本の考古学者。 1905年(明治38年)1月13日、長野県諏訪郡富士見村に生まれる。 1919年(大正8年)4月、長野県立諏訪中学校に入学する。 1925年(大正14年)4月、北海道帝国大学予科に入学し、卒業後の1928年(昭和3年)4月、同大学農学部生物学科に進学する。 大学卒業後の1931年(昭和6年)4月、同大学農学部付属博物館に就職する。また、同年12月26日、中山きよと結婚した。 1933年(昭和8年)、北海道史跡名勝天然記念物調査委員となる。 1949年(昭和24年)8月8日、北海道大学理学部助教授となる。
李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武… 李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武9年 / 明治38年)1月12日 - 1950年12月28日)は、日本の官僚、実業家。位階は正四位。爵位は侯爵。本貫は牛峰李氏。 1905年に李恒九男爵の長男として生まれた。李完用の次男が恒九であり、丙吉は孫にあたる。その後、李完用の長男である李升九の養子に入り、1926年に(大正15年)に李完用が死去すると、侯爵を襲爵した。学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)京都帝国大学に入学。1931年(昭和6年)に帝大を卒業し、朝鮮総督府学務局編集嘱託を経て、1934年(昭和9年)に宮内省式部職御用掛に任命された。1939年(昭和14年)から国民精神総動員朝鮮連盟参事を兼任。
大橋 勝夫(おおはし かつお、1905年(明治38年)1月1… 大橋 勝夫(おおはし かつお、1905年(明治38年)1月11日 - 1945年(昭和20年)7月16日)は、日本の海軍軍人(海兵53期卒)。太平洋戦争において四艦の潜水艦長を歴任し、交通破壊戦に戦果を挙げた。その一方で漂流していた連合国将兵を攻撃せず、戦後になってこの大橋の行為が明らかとなった。神龍特別攻撃隊を構成した「伊13」潜水艦長として戦死し、一階級昇進により最終階級は海軍大佐。 大橋は三重県出身で、横須賀中学校を経て海軍兵学校に入校した。1925年(大正14年)に卒業した(53期)の同期生には海軍青年士官運動の中心人物である藤井斉がおり、他の10名が特別高等警察作成のブラックリストに掲載されているが、大橋の名はない。
駒井和愛(こまい かずちか、1905年1月11日 - 197… 駒井和愛(こまい かずちか、1905年1月11日 - 1971年11月22日)は、日本の考古学者。東アジアの考古学で多大な功績をあげた。 1905年、富山県生まれ。早稲田大学を卒業。1927年より東京帝国大学副手となり、原田淑人の指導を受け、1928年から1944年まで中国大陸の考古学的調査と研究に従事する。1928年には北京大学に留学し、馬衛教授のもとで金石学を修めて、1938年に東京帝国大学文学部講師、東方文化学院研究員となった。 1934年には立教大学文学部教授を兼務し、1945年まで同大学で考古学を講じた。立教大学で教えていた当時、駒込林町(現・文京区千駄木)に自宅があった。 1945年に東京帝国大学文学部考古学科助教授となり、1946年「鏡鑑を主材として考察したる六朝以前の文化」を東大に提出して文学博士号を取得。
胡井 剛一(えびい こういち、1905年1月10日 - 19… 胡井 剛一(えびい こういち、1905年1月10日 - 1988年2月22日)は日本の柔道家(講道館9段)。 愛媛県出身で、京都の平安中学校を経て武道専門学校に入学。身長167cm・体重68kgと決して大柄な体格ではなかったが、絶品と言われた小内刈や大内刈、巴投から固技への連絡を武器に柔軟な体や熱心な技の研究とも相俟って腕を磨き、また背負投や大外刈にも長じてその名を轟かせた。記録上の講道館入門は1928年3月20日。1930年5月に柔道教士を拝命した。 1931年3月に武専を卒業するとそのまま同校の助手として残る傍ら京都府警察部堀川警察署でも指導を行い、また京都同志社高商では師範として寝技を部員に徹底的に叩き込んで1937年の全国高専柔道大会で同校を優勝に導いた。
飯田 一男(いいだ かずお、1905年〈明治38年〉1月10… 飯田 一男(いいだ かずお、1905年〈明治38年〉1月10日 - 1995年〈平成7年〉[要出典])は、日本の電気工学・通信工学者。工学博士(京都大学)。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気科学(特にテレビ受像機)、電気通信工学・無線工学。 京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1949年、摂南工業大学(同年、大阪工業大学に改称)工学部電気工学科教授となり、電気工学教室を担当した。指導する電気科学研究部が製作したテレビ受像機が文部大臣賞(1953年)を受賞した。その後も20年わたって教鞭を執り、大学初期の電気工学・電気通信工学(特に無線工学)の研究・育成を手がけた。 1959年4月に大阪工業大学電子工学科客員教授にも就任した。
遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1… 遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1998年12月14日)は、日本の経営者、電気技術者。 東京エレクトロン研究所(現・東京エレクトロン)初代社長をつとめた。 北海道小樽市出身。1930年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。電通での勤務を経て、1952年にラジオ東京に入社し、取締役を経て、1956年1月に常務取締役テレビ技術局長に就任。 1963年にラジオ東京などの出資により東京エレクトロン研究所が設立されると、同社の初代社長に就任。1974年には会長に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年12月14日老衰のために死去。93歳没。
滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月… 滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月10日 - 1993年(平成5年)11月2日)は日本の裁判官、弁護士。 北海道余市郡余市町出身。小樽商業学校卒業、東北帝国大学の聴講生となり、試験を経て本科編入、在学中の1927年(昭和2年)12月、高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)3月、同法文学部法科卒業、翌4月に司法官試補として東京地方裁判所所属、それから予備判事、1929年(昭和4年)11月判事任官、1931年(昭和6年)5月山形地方裁判所判事転任、1932年(昭和7年)9月札幌地方裁判所判事転任。 滝内は東京地裁時代の1930年(昭和5年)、日本共産党員を講師に同じく判事の為成養之助らと研究会を結成、共産主義思想に共鳴、同党が国体変革して私有財産を否定していることを知った上で同年10月から1932年8月まで東京で他の同志とともに党資金として毎月5円から7円を支出、山形転任後は同志獲得のために動き同年3月から指導者として同地裁書記中心に主義宣誓も行い、同僚判事の福田力之助も引き込み、同年5月6月に現地の婦人十数名を集めて研究会を開催して主義宣伝を行ったり同地方責任者として左翼グループを結成、山形高等学校など上層階級対象に党員獲得活動をした。
金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日… 金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日 - 1989年5月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は慶州金氏。 京畿道安城郡出身。中東中学校卒、日本大学専門部法科卒または中退。朝鮮日報記者・取締役、新幹会会員、株式会社三益社支配人を経て、解放後は安城郡小作委員会委員、好城産業株式会社専務、朝鮮農工株式会社取締役、安城産業株式会社専務取締役、大韓逓信事業協会理事、平沢税務署所属調査委員、韓国独立党安城郡委員長・中央党執行委員、大韓独立促成国民会安城支部委員長、大韓労総安城支部顧問、大韓農民総同盟安城支部顧問・副委員長、国会懲戒委員会委員長・懲戒資格委員会委員長・財政経済委員会常任委員、京畿道知事、大韓海運公社監事、忠北旅客株式会社社長、制憲同志会総務幹事・副会長を務めた。
馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年… 馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年11月6日)は、朝鮮の児童文学作家。本名は馬 湘圭(マ・サンギュ、마산규)。創作童話の執筆に生涯を捧げ、方定煥と共に朝鮮の児童文学運動を先駆を担う。その文才は菊池寛に認められ、『文藝春秋』の編集部に入り、のち『モダン日本』の社長となる。朝鮮人にして日本の文化界の一流文人として活動した。詩人の馬鍾基は子。 1905年1月8日、京畿道(現:黄海北道)開城市大化洞52番地に生まれる。父は木川馬氏の馬応輝、母は密陽朴氏の朴光玉で、7人兄妹の6番目である。幼名は昌録。6歳の頃から書堂で漢文を習い、1912年、7歳で開城第一公立普通学校に入学、1916年に卒業する。