伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日… 伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、広島県安芸郡下蒲刈島三之瀬出身の実業家、弁護士。元日本航空(JAL)会長。 1906年、弁護士の永野法城の五男、永野輝雄として出生。日本有数の閨閥地図を作り上げたといわれた"永野六兄弟"の一人となった。 海軍中将だった伍堂卓雄に養子入りし、広島高等師範学校附属小学校・中学校(現・広島大学附属小学校、広島大学附属中学校・高等学校)、第六高等学校を経て、東京帝国大学卒業。卒業後、岩田寅造法律事務所に勤務。1933年、日本鋼管顧問弁護士。 昭和鋼管勤務、鉄道大臣秘書官を経て1941年日本鋼管に入社。
唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1… 唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1976年7月30日)は、政治評論家、ジャーナリスト。 広島県竹原市(当時は竹原町)出身で三男として生まれる。旧制忠海中学校(現在の広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した(1928年)。 東京帝国大学卒業後、国民新聞社に入社した。編集局長などを経て、1940年に退社した。1943年、東京新聞社(現在の中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長を務めた。 一時占領軍の公職追放令で一線を退いたが1950年の解除後、同社に復帰した。復社後は東京新聞の1面コラムに筆名・武原敏として「筆洗」を長きにわたり書き続けた。
北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月… 北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月1日 - 1981年(昭和56年)1月3日)は、日本の部落解放運動家。戦前から部落解放運動を行っており、戦後の部落解放同盟結成時幹部であったが、戦後は全国水平社出身のメンバーらと共に部落解放同盟と対立した。 岐阜県稲葉郡黒野村大字黒野(現・岐阜市)の被差別部落の小作農の貧困家庭に生まれる。父は作蔵。母は琴。高等小学校卒業。 1925年、全水解放連盟に参加。1927年1月、大日本帝国陸軍二等卒として岐阜歩兵第68連隊に入営。同年11月19日、閲兵式にて軍隊内部の部落差別の存在と待遇の改善を昭和天皇に直訴し、逮捕される(天皇直訴事件)。請願令違反で11か月間、大阪衛戍刑務所で服役した後に陸軍教化隊へ編入。
西村 進(にしむら すすむ、1906年1月 - 1951年)… 西村 進(にしむら すすむ、1906年1月 - 1951年)は、日本の園芸学者、育種学者、政治家。 長野県埴科郡埴生村(現: 千曲市)生まれ。1928年当時唯一の官立高等園芸学校であった千葉高等園芸学校(現: 千葉大学園芸学部)卒業。花卉園芸における近代交雑植物育種研究の第一人者として活動し、1938年日本の南西諸島および九州南部原産のテッポウユリと台湾固有種のタカサゴユリの交配に着手し、ニシムラテッポウユリ(シンテッポウユリ、新鉄砲百合、Lilium x formolongo)を作出した。1947年日本国における育種法(昭和二十二年法律第百十五号)品種登録制度及び品種登録出願制度の制定において中心的な役割を果たした。
鈴木 賢二(すずき けんじ、1906年1月 - 1987年1… 鈴木 賢二(すずき けんじ、1906年1月 - 1987年11月15日)は、栃木県出身の版画家、彫刻家。
和田 敏雄(わだ としお、1906年(明治39年)1月 - … 和田 敏雄(わだ としお、1906年(明治39年)1月 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の経済学者・元官僚。専門はソ連の経済制度の研究。元・北海道拓殖短期大学学長。福井県生まれ。 1927年東京外国語学校露語科卒業。北樺太鉱業に入社。1937年(昭和12年)外務省調査局に入局。その後、外務省調査官、外務省事務官を経て、1949年拓殖大学政経学部教授。1964年同政経学部長。1968年4月北海道拓殖短期大学学長・学校法人拓殖大学理事。1969年9月学長辞任。拓殖大学政経学部教授。1976年拓殖大学定年退職。同名誉教授。 この他、拓殖大学学生部長、同研究所長、同図書館長、同語学研修所長なども務めた。
上杉 武雄(うえすぎ たけお、1906年(明治39年) - … 上杉 武雄(うえすぎ たけお、1906年(明治39年) - 1984年(昭和59年))は、日本の政治家。岩手県盛岡市出身。北海道常呂町長(1961年5月~1981年4月)。常呂町名誉町民。 この他、常呂町森林組合長なども歴任した。
針ヶ谷 鐘吉(はりがや かねきち、1906年(明治39年) … 針ヶ谷 鐘吉(はりがや かねきち、1906年(明治39年) - 没年不詳)は、日本の西洋造園研究家。曽祖父は田安家に仕えた庭師の家系。
相川 藤兵衛(あいかわ とうべい、1906年〈明治39年〉 … 相川 藤兵衛(あいかわ とうべい、1906年〈明治39年〉 - 1986年 <昭和61年> 5月18日)は、日本の商人(醤油商)、醸造家、政治家(第27代横浜市会議長)。相川醤油社長。金沢区保護司会長。位階は従五位。 神奈川県横浜市金沢区出身。相川家は江戸時代から室崎屋相川文五郎家の分家として商売をしており、幕末から昭和にかけては、カギ北の商標で醤油や味噌を製造、販売した。 横須賀中学校出身。1981年5月から1983年4月まで横浜市会議長を務めた。住所は六浦。1986年死去。死没日付をもって従五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高… 永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高田市(現上越市)出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制高田中学校 → 早稲田大学 高田中学時代の1924年、第2回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人4kmで、中学の後輩の矢沢武雄に次いで2位となる。卒業後早大に進み、1926年の同大会では、クロスカントリースキー個人10kmで5位となるなど、永田・高橋昴・竹節作太らとともに早大の黄金期を作り上げた。 1928年のサンモリッツオリンピックの代表選考では、当初は補欠だったが、代表の一人だった岡村源太郎(北海道大)が1927年10月に急逝したため、急遽永田が代表に選出された。
櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) –… 櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) – 1960年(昭和35年))は、昭和時代の日本画家。生涯にわたり立山を主題に描き続けた。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校図案科(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、1927年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学、後に同校研究科に進む。1930年第11回帝展に「北越山村」で初入選、以後同展、新文展に出品。1945年高岡に疎開。以後、郷土で日本画の発展に尽力した。
福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 19… 福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 1988年(昭和63年))は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身で、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、小学校教諭として教育者の道を歩み始め、続いて京都府立聾学校教諭、さらに京都府立盲学校教諭として教育活動に従事し、聾・盲児のために一生を捧げた。 また、野の思想家「宮崎童安」に師事し、童安亡きあと、『地獄の聖書』『童安童話集』など童安の著書多数を自費出版したのをはじめ、有縁の人々の歌集や追悼集を数多く出版した。就中特筆すべきは、『新井奥邃の思想』『内観祈祷録・奥邃先生の面影』を自費出版した事であろう。福田家の一族に明治維新のとき、長州の勤皇運動を助けて活躍した勤皇家・福田理兵衛がいる。
安達 真太郎(あだち しんたろう、1906年 - 1988年… 安達 真太郎(あだち しんたろう、1906年 - 1988年8月)は、日本の洋画家。元光風会会員(光風会評議員)、元日展(文展)会員。光風会、日展で最も人気の高い作家の一人と言われた。 鹿児島県鹿児島市出身(出生地は兵庫県姫路市)。鹿児島市立松原尋常小学校と大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。 代用教員となるが、画家の夢をあきらめられずに上京して川端画学校に入る。住み込みで清水良雄に師事。清水にデッサンを教わった後東京美術学校も受験予定だったが、清水からもう充分実力がありわざわざ学校に通うのはもったいないといわれて取りやめる。画業のかたわら帝大植物園にて植物標本のスケッチの仕事を手伝う。
尾崎 庄太郎(おざき しょうたろう、1906年 - 1991… 尾崎 庄太郎(おざき しょうたろう、1906年 - 1991年)は、日本の評論家、中国評論家。 徳島県生まれ。東亜同文書院卒業。南満州鉄道調査部勤務ののち、中国国内で反戦運動を行うが、日本の敗戦後、旧法下で思想犯として懲役十年の判決を受け下獄、しかし1945年10月釈放。 46年中国研究所の創立メンバーとなり、論文・翻訳を発表。『毛沢東選集』の翻訳を行う。はじめ尾崎五郎の名を用いた。文化大革命以後は、中共礼讃から離れてほぼ沈黙、80年代に入り、民主化運動を支持する方向へ向かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
勝野 康助(かつの やすすけ、1906年 - 1985年)は… 勝野 康助(かつの やすすけ、1906年 - 1985年)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、駐ノルウェー特命全権大使、駐ポルトガル特命全権大使。 岐阜県出身。麻布中学校、第三高等学校文科甲類を経て、1932年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1948年連絡調整中央事務局第一部総務課長。1949年賠償庁賠償部長。1952年在サン・フランシスコ日本国総領事館総領事。1956年外務省経済局外務参事官。1957年外務大臣官房審議官。1958年法務省入国管理局長。1960年外務大臣官房審議官。同年セイロン国駐箚特命全権大使。1962年ノールウェー国駐箚特命全権大使。1965年ポルトガル国駐箚特命全権大使。
平出 禾(ひらいで ひいず、1906年 - 1980年)は、… 平出 禾(ひらいで ひいず、1906年 - 1980年)は、元検事、翻訳家。弁護士・作家の平出修の長男として東京に生まれる。少年時代に父を亡くし、1930年東京帝国大学法学部卒業、検事となる。最高検察庁公判部長を最後に66年定年退官、専修大学法学部教授、77年定年退任。E・S・ガードナーの法廷もの小説の翻訳もある。 ウィキソースには、平出禾の著述の原文があります。
村田 政真(むらた まさちか、1906年 - 1987年)は… 村田 政真(むらた まさちか、1906年 - 1987年)は、日本の建築家。駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場が代表作。 三重県に生まれる。1929年に東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科を卒業した。同年より岡田信一郎の岡田建築事務所に勤務する。 1931年(昭和6年)より宮内省内匠寮臨時帝室博物館造営課に配属になる。1934年、国立公園ニ建ツ山小屋建築設計コンペ(国立公園協会・建築学会主催)で、佳作二席となる。 退官後の1937年からヨーロッパ、アメリカに出張した。その後1940年から土浦亀城建築事務所に勤務する。 1946年(昭和21年)に村田政真建築設計事務所を開設した。 妻は園芸家の村田ユリ(旧姓:鍵富)。
坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) … 坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) は、日本の機械工学者。東北大学名誉教授。元日本機械学会副会長。元日本伝熱研究会会長。 静岡県三島市生まれ。第一高等学校在学中の1923年に日本メソジスト教会牛込教会で洗礼を受ける。1932年東北帝国大学工学部機械工学科卒業、東北帝国大学工学部助手。1936年東北帝国大学助教授。1945年東北帝国大学教授。1959年東北大学工学博士、日本機械学会賞受賞。1969年定年退官、東北大学名誉教授、東北学院大学教授、日本伝熱研究会会長、日本機械学会副会長。1971年日本機械学会名誉員。1976年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
廣根 徳太郎(ひろね とくたろう、1906年 - 1995年… 廣根 徳太郎(ひろね とくたろう、1906年 - 1995年)は、日本の物理学者。東北大学名誉教授。元山形大学学長。元日本金属学会会長。紫綬褒章受章。 1928年(昭和3年)東北帝国大学理学部物理学科卒業。茅誠司(実験)、増本量(応用)らとともに本多光太郎の下で研究を行い、磁性理論を担当し、広根―彦坂理論を提唱。1931年(昭和6年)理化学研究所助手。1938年(昭和13年)理学博士。1939年(昭和14年)理化学研究所研究員。1940年(昭和15年)東北帝国大学助教授。1944年(昭和19年)同教授。1946年(昭和21年)日本金属学会功績賞受賞。1960年(昭和35年)大河内記念技術賞受賞。
保科 進(ほしな すすむ、1906年 - 2000年)は、日… 保科 進(ほしな すすむ、1906年 - 2000年)は、日本のアメリカンフットボールの元選手および監督。 日系2世、ハワイのマッキンレー高校卒業。 1935年ハワイより来日、法政大学創部に貢献し初代監督兼プレーヤーとして活躍。 1938年関東學生米式蹴球連盟理事に就任、連盟活動、審判活動に貢献。 法政大学監督を計20年、成城大学コーチを2年、明治学院大学監督31年・総監督4年の計57年間、各大学で技術指導。この間、米国の理論をいち早く取り入れると共に1964年度ライスボウル東軍監督をはじめ多くの選抜チームの監督、コーチを務める。 1955年から法政大学体育講師としてアメリカンフットボールの普及に努める。
中島 武(なかじま たけし、1906年(明治39年) - 1… 中島 武(なかじま たけし、1906年(明治39年) - 1980年(昭和55年)) は、橋梁技術者。世界で初めて鉄筋コンクリートローゼ橋を設計した。 北海道札幌市の出身。北海道大学卒業後、内務省に入省し、茨城県・岐阜県道路技師を経て、長野県道路技師に1934年(昭和8年)から1937年(昭和12年)に赴任。この間に田中豊に出会い、鉄筋コンクリート下路アーチ橋としては、ローゼ橋が最適との確信を強めるに至り、大手橋を設計した。1937年(昭和12年)には新潟県に転任するも『鉄筋コンクリートローゼ桁』を1940年(昭和15年)に出版し、長野県内に鉄筋コンクリートローゼ橋が数多く生まれる要因となった。
小野武雄(おの たけお、1906年 - 1979年)は、日本… 小野武雄(おの たけお、1906年 - 1979年)は、日本の英文学者、近世風俗研究家、翻訳家。帝京大学名誉教授。 東京生まれ。1929年早稲田大学卒業。早稲田大学講師、目白女子短期大学助教授、帝京大学教授、同図書館長、1977年定年退任。 初期は英文学を研究、多くの翻訳を刊行、後年はセクソロジー(性科学史)を軸とした訳書や、江戸期の風俗研究の著述活動を行った。
芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)… 芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)は、日本の教育者。 愛知県碧海郡明治村(安城市根崎町)に生まれる。名古屋市立城山中学校など、名古屋市内の小中学校長を歴任する。また、その後、中京女子大学において教授を務める。作文教育の実践、名古屋方言の研究において成果を残す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
乳井 義博(にゅうい よしひろ、1906年〈明治39年〉 -… 乳井 義博(にゅうい よしひろ、1906年〈明治39年〉 - 1975年〈昭和50年〉)は、日本の剣道家。高野佐三郎(修道学院)の高弟で、高野から剣道十段を授与された。 秋田県鹿角郡花輪村(現・鹿角市花輪)生まれ。1920年(大正9年)に上京し、14歳で高野佐三郎の道場修道学院に入門。中西派一刀流を学ぶ。 1922年(大正11年)頃、修道学院を抜け出し、単身武者修行の旅に出る。各地を渡り歩き、満州にまで上陸する。その後修道学院に戻る。修道学院三羽烏の一人に数えられ「白鬼」の異名をとる。 1929年(昭和4年)、高野の推薦により、22歳で宮城県仙台市の第二高等学校剣道師範に就任。育英中学校、小牛田農林高校、東北帝国大学などでも指導する。
佐近 正晴(さこん まさはる、1906年〈明治39年〉 - … 佐近 正晴(さこん まさはる、1906年〈明治39年〉 - 1960年〈昭和35年〉)は、日本の実業家。弓浜漁業の元社長。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現在の境港市福定町)に佐近豊松の子として生まれる。 父・豊松と共に地引網の振興をはかり、“豊十網”は弓浜地方屈指の網元となった。更に大型木造船による沿岸漁業に着手、多くの朝鮮人を雇って鯔漁や鯖漁に専念し、境港漁業の発展につとめた。 戦後は就労の場のない地域の青少年を集めて「佐近船団」を組織したり、漁業協同組合結成に尽力したりと境港漁業史に大きな足跡を残した。
内田 義広(うちだ よしひろ、1906年 - 1988年)は… 内田 義広(うちだ よしひろ、1906年 - 1988年)は、日本の詩人作詞家。 山梨県生まれ。笛吹市石和町出身。教職に就きながら、詩の同人誌「中央山脈」を創刊、『花の群落』『笛吹川の水辺にて』などの詩集も発表している。また山梨県内の校歌作詞にも携わっていた。 高等学校・特別支援学校
安達 巌(あだち いわお、1906年 - 2002年)は、日… 安達 巌(あだち いわお、1906年 - 2002年)は、日本の食品業者、食物史家、古代史家。 島根県松江市郊外の農家に生まれる。旧制中学校を中退して大阪に出、さらに東京に移って農民運動、社会運動、協同組合運動で活動する。 戦後は製パン業を始め、あけぼのパン常務、中村屋顧問、業界団体の幹部をへて著述業。ニューフード政策研究会代表幹事。日本人の食生活についての評論、食物史から、古代史まで多くの著作をなした。 パンを中心とした食物
芝 蘇呂門(しば そろもん、1906年 - 没年不詳)は、日… 芝 蘇呂門(しば そろもん、1906年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名佐々木 美長(ささき よしなが)名義で脚本家としてデビュー、マキノ・プロダクションで監督になり、のちに神田 金太郎(かんだ きんたろう)と改名した。 1906年(明治39年)ころ、長野県松本市に生まれる。 大学卒業後、映画監督の鈴木謙作を頼って日活大将軍撮影所に入社、19歳になる1925年(大正14年)、鈴木監督にオリジナル脚本を採用され、『血の人形』として同年11月13日に公開される(「佐々木美長」名義)。当時鈴木は同作の主演でもある女優の宮部静子との恋愛問題で撮影所内で評判がよくなかったこともあり、芝蘇呂門をつれてマキノ・プロダクションに移籍する。
山本 恭子(やまもと きょうこ、1906年ごろ - 1996… 山本 恭子(やまもと きょうこ、1906年ごろ - 1996年11月6日)は、日本の映画評論家、翻訳家、編集者。本名、山本田鶴。山本田鶴子の名義も用いた。 京都府船井郡和知町出身。宮城県第一高等女学校卒業。女性映画評論家の草分けである。 洋画の字幕スーパーや原作本の翻訳に従事した。ユナイテッド・アーティスツ日本支社、雑誌『キネマ旬報』編集部、のち『映画之友』などの編集者として活躍した。雑誌『映画ファン』の編集長も務めた。
小渕 千代(おぶち ちよ、1906年 - 1996年2月2日… 小渕 千代(おぶち ちよ、1906年 - 1996年2月2日)は、日本の実業家・政治運動家。吾妻三女傑の異名をとった。群馬県吾妻郡名久田村(現在の中之条町)出身。旧姓・関。「小渕ちよ」と称することもある。 佐藤裁縫専門学校(現在の高崎商科大学附属高等学校)卒業。鐘紡に入社、新町工場に勤務する。その後、小渕製糸所に入社する。1929年、小渕光平(のち衆議院議員)と結婚する。光山社役員として業務に従事する。1949年、夫の第24回衆議院議員総選挙出馬に伴い、運動員として奔走した。1952年の第25回衆議院議員総選挙で、公職選挙法違反により逮捕される。1958年の第28回衆議院議員総選挙でも公職選挙法違反で逮捕され、1か月間勾留された。
ジョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布、1906年 - 196… ジョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布、1906年 - 1967年11月)は、満州国軍の軍人。モンゴル人。第二次満蒙独立運動で戦死したバボージャブの三男で、日本で教育を受けたのち軍人となる。1945年8月のソ連参戦後、ハイラル市郊外で叛乱を起こし日系軍官を多数殺害した。最終階級は陸軍少将。日本名は“川島成信”、“田中正”。ジョンジュルジャップとも。 1906年、遼寧省彰武県大冷営子に生まれる。父親のバボージャブ(巴布扎布)は彰武県の巡警局長を務めていたが、1912年に一家を連れてボグド・ハーン政権下のモンゴルのフレー(現・ウランバートル)へ渡り、1916年の第二次満蒙独立運動で挙兵して戦死した。父親の死後、川島浪速によって一家と共に旅順へ送られ、日本第二高等小学校で勉強した。
大塚 幸之助(おおつか こうのすけ、1906年 - 1987… 大塚 幸之助(おおつか こうのすけ、1906年 - 1987年)は、日本の実業家、プロ野球球団経営者。 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)に生まれる。府立第三中学校を四年生で中退、父と共に家業の大塚製作所に入社。1923年に父が死去したため社長に就任。1925年から1927年まで徴兵検査甲種合格で陸軍第一師団野戦重砲第三旅団輜重兵大隊(国府台)に所属。1935年に軍需工場の指定を受け、ばね等の自動車部品、機関銃部品を製造する軍需産業に転換。1945年に罹災のため千葉県松戸市に移転。戦後は洋傘、洋傘骨製造に転換。 1947年、国民野球連盟の大塚アスレチックスのオーナーに就任。同年秋には宇高勲の後を受け国民野球連盟の会長に就任。
竹内 正巳(たけうち まさみ、1906年 - 1986年7月… 竹内 正巳(たけうち まさみ、1906年 - 1986年7月24日)は、日本の経済学者。専門は、地域経済論。 兵庫県佐用町出身。大阪府立高津中学校(大阪府立高津高等学校の前身)、高知高等学校(高知大学の前身のひとつ)に、いずれも1期生として学び、高知高ではボート部を創設して活躍した。1929年、京都帝国大学経済学部を卒業。在学中は蜷川虎三ゼミで統計学を学んだ。 1930年代はじめから1945年まで、満鉄調査部に勤務し、東亜経済調査局の報告書などにもたずさわった。戦後、ソ連によるシベリア抑留を経験する。 1950年に帰国し、以降、経済企画庁の前身である経済安定本部勤務、経済審議庁調査官、愛媛県企画室長を経て、1954年ころに大阪府立商工経済研究所長として大阪へ戻り、近畿開発促進協議会事務局長なども務めた。
池田 亮一(いけだ りょういち、本名:三村亮一、1906年(… 池田 亮一(いけだ りょういち、本名:三村亮一、1906年(明治39年) - 1963年(昭和38年)6月14日)は日本のコミュニスト。しんぶん赤旗の編集長。共産党幹部。岡山県出身。 1906年(明治39年)、岡山県に生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)第六高等学校文科乙類に進学、1927年(昭和2年)、同校を卒業し、京都帝国大学経済学部へ進学した。1930年(昭和5年)に同大学を卒業した。京大時代に出会った共産主義に没頭し、卒業後は共産党員として活動した。 池田は、若いころからコミュニズムに共鳴し、早くからその活動に関与していた。日本の労働運動や左翼活動に身を投じ、共産党の機関紙『赤旗』の編集長を務めるなど、指導的な立場にあった。
坂元 盛愛(さかもと もりよし、1906年-1990年10月… 坂元 盛愛(さかもと もりよし、1906年-1990年10月31日)は、日本の洋画家。光風会会員。鹿児島市立美術館館長や鹿児島県歴史資料センター黎明館専門員を歴任。号は照茂。 鹿児島県鹿児島市出身、鹿児島市立清水尋常小学校と鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。鹿児島二中では大牟礼南島に師事。 1927年、南國美術展に初出品。1928年に上京して川端画学校で学ぶ。帰郷後、第9回南國美術展で美展賞受賞。この頃から金羊会に参加。以後、黒潮、艸玄社と鹿児島県洋画壇の保守勢力で中心作家として活躍。光風会展にも出品し、1967年会員推挙。山形屋宣伝部長も務めた。 刀剣審査委員など文化財保護にも尽力。
村岡 勇(むらおか いさむ、1906年 - 1993年)は、… 村岡 勇(むらおか いさむ、1906年 - 1993年)は、英文学者。東北大学名誉教授。
吉村 寿雄(よしむら かずお、1906年 - 1986年1月… 吉村 寿雄(よしむら かずお、1906年 - 1986年1月1日)は日本の実業家。元富士ゼロックス社長・会長。
山村 道雄(やまむら みちお、1906年(明治39年) - … 山村 道雄(やまむら みちお、1906年(明治39年) - 1985年(昭和60年))は、日本の医学者、精神科医。専門は精神分析学。元弘前大学医学部精神科教授。医学博士。
萩原 四朗(はぎわら しろう、1906年(明治39年)‐19… 萩原 四朗(はぎわら しろう、1906年(明治39年)‐1993年(平成5年)12月16日)は昭和期の作詞家。 奈良県宇陀郡曽爾村出身。高松高等商業学校卒業。浪曲作家となり、菊池寛原作の「父帰る」の浪曲化など文芸浪曲というジャンルを創始。作詞家としては、1940年、美ち奴の歌で大ヒットした「吉良の仁吉」、「仁吉男の唄」、東海林太郎と浪曲師壽々木米若が吹き込んだ「涯なき南海」などを作詞し、浪曲歌謡という分野を確立した。 戦後は、テイチクレコードの取締役文芸部長に就任。三波春夫、石原裕次郎らビッグスターを育てる一方、作曲家上原賢六とコンビを組んだ「錆びたナイフ」、「赤いハンカチ」、「夕陽の丘」など大ヒット曲を手掛けた。
児玉 信次郎(こだま しんじろう、1906年 - 1996年… 児玉 信次郎(こだま しんじろう、1906年 - 1996年1月17日)は、日本の化学者。 京都市に生まれる。第三高等学校(現在の京都大学)卒業後、1928年(昭和3年)京都帝国大学工学部工業化学科を卒業、理化学研究所に勤務した後に1932年(昭和7年)住友肥料製造所に転じる。1940年(昭和15年)京都帝国大学大学教授。1957年(昭和32年)に京都大学を退官後、住友化学の取締役となり、常務、専務を経て1965年(昭和40年)に副社長となった。 住友化学に勤務する傍ら、学術審議会委員、大学基準研究協議会委員、工業技術協議会臨時委員等の公職も務め、さらに日本化学会、化学工学協会、 日本特許協会、近畿化学工業会などの会長も歴任した。
菊原 静男(きくはら しずお、1906年 - 1991年8月… 菊原 静男(きくはら しずお、1906年 - 1991年8月6日)は、日本の航空技術者。兵庫県姫路市出身。飛行艇の第一人者で九七式飛行艇、二式飛行艇、紫電改や実験機UF-XSなどの設計に従事した。 1906年、兵庫県姫路市の商家に長男として生まれる。三高へ入学する頃、航空の道を選択。1930年(昭和5年)東京帝国大学工学部航空学科卒。卒業設計では、シュナイダー・トロフィー・レース用の水上競争機の機体を担当した。卒業論文のタイトルは「Torsion of Prismatic Bar.」。 卒業後、川西航空機(現新明和工業)に入社する。入社理由は、川西航空機が自宅に近く、少年時代から海が好きであったからという。
杉井 幸一(すぎい こういち、1906年〈明治39年〉 - … 杉井 幸一(すぎい こういち、1906年〈明治39年〉 - 1942年 〈昭和17年〉 4月5日)は、日本の編曲家、男性歌手、アコーディオン奏者。彼は日本のジャズのパイオニアとみなされている[誰によって?]。彼の音楽アレンジは、東アジアと西洋の音楽スタイルを巧みに融合させ、アメリカのオーケストラジャズ、日本の民謡、中国の民謡を組み合わせることで、複雑で多様かつ旋律豊かな音楽スタイルを生み出した。ある研究者[誰?]は彼の音楽を「戦前・戦時中の日本のジャズにおいて最も魅力的な独創的なスタイルのひとつ」と評し、また別の研究者[誰?]は「日本の戦時ジャズの頂点」と称賛した。 大阪商船社員から音楽家へ転身した日本の編曲家・バンドリーダー。
金井 喜久子(かない きくこ、1906年〈明治39年〉/19… 金井 喜久子(かない きくこ、1906年〈明治39年〉/1911年〈明治44年〉3月13日 - 1986年〈昭和61年〉2月17日)は、日本の作曲家。旧姓は川平(かびら)。 沖縄県宮古郡(平良市を経て現・宮古島市)で生まれた。父の川平朝儀は沖縄県議。8歳の時には琴を、10歳の時には琵琶を学んだ。沖縄県立第一高等女学校在学中の13歳のときにヴァイオリンを学び、卒業後、1927年日本音楽学校に声楽を学び、卒業後、沖縄音楽を広く知らしめるという志を抱いて1933年に東京音楽学校の作曲科に女性として初めて入学。下総皖一および呉泰次郎に師事した。1936年に同校を卒業後、研究科に進み、1938年に修了した。
近藤基吉(こんどう もときち、1906年-1980年12月1… 近藤基吉(こんどう もときち、1906年-1980年12月14日)は、日本の数学者。東京都立大学 (1949-2011)・東海大学名誉教授。 高知県生まれ。1930年東北帝国大学理学部数学科卒、1940年北海道帝国大学理学部助教授、「射影集合に関する研究」で北海道帝大理学博士。1943年九州帝国大学理学部教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)理学部教授。1969年定年退官、名誉教授、東海大学理学部教授。のち名誉教授。 「現代数学」著者紹介
大隈 三好(おおくま みよし、1906年 - 1992年10… 大隈 三好(おおくま みよし、1906年 - 1992年10月3日)は、日本の作家、歴史家。筆名・妻屋大助。 佐賀県生まれ。佐賀師範学校卒業、日本大学中退。1935年硫黄島小学校の教員、三宅島など離島教員、映画会社勤務。 サンデー毎日・大衆文芸賞受賞、1959年、妻屋大助名義の「焼残反故」で小説新潮賞受賞。
稲葉 心田(いなば しんでん 1906年 - 1986年1月… 稲葉 心田(いなば しんでん 1906年 - 1986年1月19日)は、日本の臨済宗の僧。道号は心田、法諱は元明。室号は蟠龍窟(ばんりゅうくつ)。俗姓は稲葉。1964年(昭和39年)から亡くなる1986年(昭和61年)まで、臨済宗国泰寺派管長並びに国泰僧堂師家を兼任した。1986年(昭和61年)、京都市で遷化。世寿81。 1906年(明治39年)、愛知県に生まれた。1916年に10歳にして台湾に渡り、長谷慈円(台湾臨済寺住職)の徒弟として得度。しかし14歳の時、1918年(大正7年)慈円はスペインかぜにて遷化。そしてその後を継いだ山崎大耕の弟子となった。 その後は台湾で中学校を卒業し、1921年(昭和10年)に得度後初めて日本に帰還した。
縣 康(あがた やすし、1906年 - 2000年5月3日)… 縣 康(あがた やすし、1906年 - 2000年5月3日)は、日本の教育者、経営学者。立教大学元教授、立教高等学校(現・立教新座中学校・高等学校)元校長、立教英国学院創設者・元校長・理事、香蘭女学校元校長・理事、立教学院元理事・評議員。 1906年、静岡県生まれ。1930年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 富山薬学専門学校教頭を経て、1931年から立教大学で商業概論、銀行論、銀行会計などを講じる。1937年、立教大学教授に就任。 1944年、立教理科専門学校教授、同生徒部副部長に就任。1945年、GHQにより公職追放(立教関係者で追放された11名のうちの1名)となるが、翌年5月、司令部の解除により立教大学に復職。
安 相漢(アン・サンハン、朝鮮語: 안상한/安相漢、1906… 安 相漢(アン・サンハン、朝鮮語: 안상한/安相漢、1906年 - 1979年7月16日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。本貫は順興安氏(朝鮮語版)。 江原道横城郡出身。北海道帝国大学水産科卒。水産関係の官吏生活を18年間送った後、江原道江陵郡注文津副邑長、麗水水産大学(現・全南大学校麗水キャンパス)学長、釜山水産大学(現・釜慶大学校)教授・副学長、水産中央会会長、済州大学校学長、自由党所属の第2代国会議員、順興安氏大宗会会長を務めた。第2代国会文教委員長として文化保護法案を多く提出・通過させた。 1979年7月16日、ソウル市永登浦区の自宅にて持病により死去、享年75。
金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 -… 金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 - 1987年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。第2代麗川郡郡守、制憲韓国国会議員。 本貫は霊光金氏(朝鮮語版)、初代大法院長の金炳魯は岳父、政治家の金鍾仁は妻の甥、元憲法裁判所長の尹永哲(朝鮮語版)と政治家の李宅敦は妻の姪の夫である。 全羅南道麗水出身。1932年に早稲田大学政治学部政治経済科卒。卒業後は海東銀行に就職し、1938年1月までは海東銀行本町支店次席支配人を務め、同年の漢城銀行による買収後は漢城銀行本町支店支配人代理となり、その後は東亜日報麗水支局長を務めた。 光復直後は朝鮮建国準備委員会麗水支部文化部長を務め、1945年9月には韓国民主党麗水郡党、11月には韓国民主党全羅南道党の結成に参加した。
菅原文哉 (すがわらぶんや、1906年-1977年4月) は… 菅原文哉 (すがわらぶんや、1906年-1977年4月) は、日本の都市計画家で、旧東京府や旧満州国で各地都市の都邑計画立案や改正都邑計画法起草に携わる。戦後は乞われて全国各地の総合都市計画立案に関わり、戦後日本の近代都市の基盤確立に従事していく。 宮城県栗原郡金田村生まれ。1923年に上京して東京府庁に入る。東京府では土木部建設事務所、都市計画課及び整地課に勤務。整地課時代は府下各地の土地区画整理基本調査と駒沢や上馬、下馬、練馬などの広範囲に及ぶ土地区画整理組合設立参画で事業実施の指導にあたる。その傍らで攻玉社工学校に進学し1927年に卒業後に東京府土木部に勤務を継続して帝都復興事業に従事しながら攻玉社高等工学校土木工学科に進学し、1931年に同校を卒業。