新保 徳寿(しんぽ とくじゅ、1873年(明治6年)10月1… 新保 徳寿(しんぽ とくじゅ、1873年(明治6年)10月11日 - 1938年(昭和13年)8月16日)は、日本の教育者。旧名は伊八。 宮城県出身。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1908年(明治41年)、仙台高等工業学校教授となり、生徒監を兼ねた。1912年(明治45年)からは東北帝国大学工学専門部生徒監となり、1915年(大正4年)に同主事となった。その後、東北帝国大学事務官を経て、仙台高等工業学校校長を務めた。
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堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、187… 堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、1873年(明治6年)10月11日 - 1941年(昭和16年)6月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 石川県金沢市出身。旧加賀藩士・堀内茂成の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し社寺局属となる。1899年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、内務属臨時検疫局事務官、警察監獄学校教授、内務省参事官、神奈川県参事官、同事務官、徳島県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、大阪府事務官・内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。 1915年8月、宮崎県知事に就任。
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森 肇(もり はじめ、1873年(明治6年)10月11日 -… 森 肇(もり はじめ、1873年(明治6年)10月11日 - 1959年(昭和34年)10月28日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会)、農林参与官。ジャーナリスト。 長崎県北松浦郡御厨村(現在の松浦市)出身。小学校教員を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校政治経済科を卒業。長崎新報記者、長崎日日新聞記者、同編集長、長崎新聞主筆、同専務取締役を歴任した。また長崎県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たし、その間岡田内閣で農林参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加している。
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田澤 昌孝(たざわ まさたか、1873年10月7日 - 19… 田澤 昌孝(たざわ まさたか、1873年10月7日 - 1942年6月30日)は、日本の発明家。 1891年(明治24年)に慶應義塾大学を卒業した後、海軍省技監の若山鑛吉につき造船および造機学を修得した。その後、芝浦製作所に入所し各種の機械製作に従事した。1909年(明治42年)に下記特許を取得し、翌年に電業社水車製造所を創立し、大型水車の製造を行った。 1919年(大正8年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、有功賞が授与されている。 海軍軍人の向山均の弟である坦を養子に迎えている。
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小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6… 小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6日 - 1962年〈昭和37年〉9月26日)は、日本の逓信官僚。栃木県出身。 東京帝国大学卒業。逓信省に入り、逓信局長などを歴任。1936年第2代NHK会長に就任。戦後、NHK会長のため公職追放となる(1951年追放解除)。 1956年文化功労者。墓所は多磨霊園(12-1-2)。息子の元妻は映画評論家の小森和子。
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宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6… 宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 高知県香美郡夜須村西山(現・香南市夜須町西山)に生まれる。周馬・政の長男。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から東京成城中学校に転校し、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。第3軍に属し、日露戦争に出征。 1913年(大正2年)台湾総督府陸軍副官、1920年(大正9年)8月に津連隊区司令官、1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)8月に歩兵第45連隊長に任ぜられた。
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津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3… 津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家。早稲田大学文学部教授。記紀を史料批判の観点から古代史研究したことで知られ、日本における実証史学の第一人者。1947年帝国学士院会員選出。1949年(昭和24年)に文化勲章受章。従三位勲一等。 1913年(大正2年)の『神代史の新しい研究』、1919年(大正8年)の『古事記及び日本書紀の新研究』を刊行(のちに、それぞれ1924年(大正13年)に『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』として補訂再刊)が代表的な初期の研究成果である。それらの研究では、記紀神話の記述について神話と歴史とを峻別し、古典に対する徹底した史料批判を通して歴史的事実を考察した。
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登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
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島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月… 島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月2日 - 1940年(昭和15年)8月18日)は、日本の教育者。 広島県佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)出身。1897年(明治30年)、商船学校(のち東京高等商船学校)機関科を卒業。翌1898年(明治31年)、商船学校教諭となり、1903年(明治36年)から1905年(明治38年)まで機関学研究のためイギリスに留学した。帰国とともに教授となり、1923年(大正12年)に教頭に、1925年(大正15年)には校長に就任した。1936年(昭和11年)に退官し、東京高等商船学校名誉教授の称号を得た。 逓信省技師・地方海員審判所審判官・高等海員審判所審判官を兼ねたほか、帝国水難救済会評議員・造船協会評議員・日本海員掖済会理事などを務めた。
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勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10… 勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10月1日 - 1952年(昭和27年)4月24日)は、日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」の一人。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長(在任:1933年12月21日 - 1941年12月20日)。準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた。愛媛県出身。 1873年(明治6年)10月、愛媛県松山で米穀商の長男として生まれる。中学校(松山中学校)卒業前に父親を亡くした勝田は19歳の時に北海道へ移住し一旗揚げようとするが、その道中で出会った東京英和学校(青山学院の前身)校長の本多庸一に学問とりわけ外国語を身に着けることの大切さを説かれ、同校予備学部に入学した。
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高瀬 梅吉(たかせ うめきち、1873年9月28日 - 19… 高瀬 梅吉(たかせ うめきち、1873年9月28日 - 1932年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県出身。1899年、東京帝国大学政治科卒。帝国商業銀行員、上海東亜同文書院教授となり、朝鮮銀行大阪、東京の各支店長、京城本店営業局長、東洋拓殖(株)理事、佐賀炭礦(株)社長、中島鉱業(株)取締役となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年11月に死去した。
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青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27… 青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27日 - 1945年(昭和20年)7月10日)は、ジャーナリスト、随筆家、牧師。
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關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年〈明治6年〉9… 關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年〈明治6年〉9月26日 - 1935年〈昭和10年〉1月26日)は、日本の学者及び政治家。母校である東京高等商業学校(現一橋大学)の教授から大阪市役所幹部に転身し、20年にわたって大阪市助役・第7代大阪市長を務め、前任の市長が実現した「大大阪時代」をさらに発展させ「大阪の父」と呼ばれた。大阪市長在職中に死去。 第17代大阪市長の關淳一は孫。 静岡県伊豆で關近義の長男として生まれる。近義は、明治維新の結果としての徳川将軍家(徳川宗家)駿府移封に従って静岡県に移った旧幕臣・沼津兵学校第4期資業生(のちに小学校教員)。母よしは共立女子職業学校(現・共立女子大学)教員。
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加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年(明治6年)9月25日 … 加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年(明治6年)9月25日 - 1928年(昭和3年)5月4日)は、日本の衆議院議員(政交倶楽部→猶興会→又新会→亦楽会→中正会)、弁護士。 千葉県海上郡旭町(現在の旭市)出身。1894年(明治27年)、東京法学院(のち中央大学に改称)に入学したが、日清戦争で召集を受け、歩兵第2連隊に入った。翌年、威海衛守備のため再び召集された。1897年(明治30年)、東京法学院を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格し、翌年に開業した。1918年(大正7年)には東京弁護士会副会長に就任し、また日本弁護士協会理事も2回務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
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清水 勇三郎(しみず ゆうざぶろう、1873年(明治6年)9… 清水 勇三郎(しみず ゆうざぶろう、1873年(明治6年)9月25日 - 1949年(昭和24年)11月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県久米郡山之内村(現・東温市)にて生まれる。同志社予備校を経て、早稲田専門学校を卒業する。北吉井村で酒造業および鉱山業に従事。松山市に移り住み、日本織物取締役、久万索道会社専務取締役、海南新聞(愛媛新聞の前身)専務取締役を歴任する。 1922年(大正11年)1月より松山市会議員に3選し、1933年(昭和8年)11月に松山市助役に就任し2期務めた。1938年(昭和13年)9月8日に松山市長に当選。同15日、助役を辞し、市長に就任した。
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西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23… 西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23日 - 大正元年(1912年)8月31日)は、明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。 筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。幼少時に東京神田に引っ越し、明治12年(1879年)6月、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町の私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。
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原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1… 原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1935年6月12日)は、おもに清末から満州国の時代の中国東北部で活動した、日本の実業家。初期の「満州浪人」(大陸浪人)の代表的人物とされた。 長崎県西彼杵郡瀬戸村に生まれる。 東京帝国大学に学ぶが、在学中から東亜同文会の設立などに関わり、1899年に大学を中退し、清末の中国へ渡った。 その後は、中国東北部における日系の様々な事業に関わり、1900年に日華合弁清和社長となったのをはじめ、数社の重役に名を連ねた。 1905年に大連で創刊された『満洲日日新聞』に立ち上げ段階から関わり、1909年に奉天支局長となった。 1911年の辛亥革命に際して、革命党を援助したとして退去を強いられ帰国したが、1913年に再び大陸へ渡り、1914年には奉天居留民会長となった。
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志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月… 志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月20日 - 1932年(昭和7年)6月10日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)。 長崎県高来郡神代村(現在の雲仙市)出身。志波三九郎の長男。第三高等学校を中退後、京釜鉄道社員、神代郵便局長、数寄屋銀行神代支店長、長崎農工銀行監査役、肥前銀行顧問などを務めた。 長崎県会議員を3期務めた後、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
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赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月… 赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月17日-1965年1月9日)は、日本のキリスト教伝道者。 福岡県久留米出身。号は嚼花。1887年上京、東京英語学校入学。1889年東京専門学校に入り、ドイツ普及福音教会のスピンナー・シュミーデルに接し、宗教家を志す。1890年普及福音教会の神学校入学、翌年ユニバーサリストの神学校に入り1894年卒業。1906年成美英語女学校の校長となった。1908年木下尚江と雑誌「新天地」を発行。1909年ユニバーサリスト教会を離脱、自由キリスト教会として東京・東郷坂に普及福音教会を設立した。
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荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15… 荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15日 - 1956年〈昭和31年〉7月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・正村。 新川県射水郡高岡町源平町(現富山県高岡市)で、実業家・正村義平の三男として生まれ、1887年(明治20年)実業家・荒井荘蔵の養子となる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1897年(明治30年)専修大学卒。高岡市参事会員、富山県議、同議長、高岡商業会議所会頭、高岡紡績(株)常務取締役、高岡銀行、高岡商業銀行、高岡電燈、山又機業、オリエンタル写真工業各(株)取締役、北陸信託(株)、高岡信用組合各社長、日本米穀(株)高岡市場参与となる。
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吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
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小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15… 小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15日 - 没年不詳)は、日本の教育者。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。岐阜県大垣中学校教諭、山口県立豊浦中学校教諭、静岡県立掛川中学校校長、石川県立金沢第一中学校校長、福岡県立中学校修猷館校長、第五高等学校教授、松江高等学校校長、第六高等学校校長、水戸高等学校校長を歴任。1931年(昭和6年)に第四高等学校校長に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、東洋高等女学校校長を務めた。
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鶴見 左吉雄(つるみ さきお、1873年(明治6年)9月13… 鶴見 左吉雄(つるみ さきお、1873年(明治6年)9月13日 - 1946年(昭和21年)12月17日)は日本の農商務官僚、実業家。 士族・鶴見有成の子として富山県に生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。内務省に入省(配属先は地方局)。岩手県参事官、兵庫県参事官、三重県内務部長を歴任した。1908年(明治41年)、農商務書記官に転じ、外務書記官・製鉄所参事を兼ね、1917年(大正6年)に水産局長に就任。その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任している。1918年(大正7年)には友人である三鬼鑑太郎の息子・隆に釜石の田中製鉄所を紹介し入社させる。
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岡 實(おか みのる、1873年〈明治6年〉9月12日 - … 岡 實(おか みのる、1873年〈明治6年〉9月12日 - 1939年〈昭和14年〉11月20日)は、日本の農商務官僚、大阪毎日新聞社会長。 若州小濱出身、岡義抄の長男として生まれる。奈良県出身。奈良英和学校出身。東京中学校、第一高等学校を経て、1898年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業、同月内務属、同年12月文官高等試験合格、同月法制局参事官。 1901年11月農商務省参事官となり、窪田静太郎工務課長のもとで同省の工業行政に関わった。工場法制定のため農務省商工局内の臨時工場調査掛によって実施された各地の工場労働者の実態調査(1903年刊行された『職工事情』はその報告書である)の中心となり、1910年6月には窪田の後を継いで工務局長に就任、翌1911年3月の工場法制定に尽力し同年その制定過程をまとめた『工場法論』を刊行した。
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児玉 右二(こだま ゆうじ、1873年(明治6年)9月10日… 児玉 右二(こだま ゆうじ、1873年(明治6年)9月10日 - 1940年(昭和15年)1月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、ジャーナリスト。号は篁南。 山口県美祢郡綾木村(現在の美祢市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、サミュエル・サミュエル商会に入社。やがて新聞記者を志し、東京朝日新聞記者となり、さらに議会春秋、新聞の新聞などで主筆を務めた。その後、二六新報社長を経て、大陸通信と哈爾浜日日新聞社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に群馬選挙区から出馬し、当選。秋田清・小川郷太郎らと院内会派「新政会」を結成したが、普通選挙論者であった児玉は他と意見が合わず、脱会した。
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羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957… 羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園の創立者。また家計簿の考案者としても知られている。
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諸戸 北郎(もろと きたお、1873年(明治6年)9月6日 … 諸戸 北郎(もろと きたお、1873年(明治6年)9月6日 - 1951年(昭和26年)11月1日)は、日本の砂防工学者、林学博士。東京帝国大学農学部林学科林学第四講座初代の砂防担当教授、東京帝国大学農学部長、東京帝国大学名誉教授。尚、人物事典等のフリガナに「きたろう」と記されているが、正式名は「きたお」である。 日本の近代砂防および後の森林水文学の第一人者として、研究、教育、技術指導に尽力し、その礎を築き、砂防の発展に多くの業績を残した。 三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、父・諸戸清三、母・むらの長男として生まれた。親族に実業家、林業家の諸戸清六がいる。 1898年(明治31年)東京帝国大学農科大学林学科卒業後、大学院に進み、我国深山の利用法並びに治水事業と森林の関係について研究した。
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北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1… 北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1963年(昭和38年))は、女義太夫の太夫(語り手)。ビートたけしら有名人を輩出した北野家の祖である。 1873年9月、徳島城下の通町で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれた。実家は裕福な商家であったと伝えられる。その後、女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。 折からの不況で家計を助けるために1892年に上京。以後は東京各地の寄席に出演していた。明治後期に娘義太夫を引退し、息子の徳次郎をもうける。 大正後期、成人した徳次郎は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったとされる。
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志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月… 志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月 - 1959年(昭和34年)2月1日[要出典])は、日本の教育者。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。清水道勝の三男として生まれ、志保田六兵衛の養子となった。1895年(明治28年)、京都尋常師範学校を卒業し、天田郡中部の高等小学校訓導を務めた。1900年(明治33年)、東京高等師範学校文科を卒業し、沖縄県師範学校教諭となった。1901年(明治34年)、台湾総督府国語学校教授に就任。その後、台南高等女学校校長、台南師範学校校長、台北師範学校校長、台北第一師範学校校長を歴任した。 後に帰国、1959年(昭和34年)2月1日に京都市で死去[要出典]。
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山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31… 山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31日 - 1971年〈昭和46年〉1月11日)は、日本陸軍の軍人・著述家・中国文学研究者・翻訳家。別号は三志園、海城。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる。 旧士族・山縣正升の長男として生まれる。村上私学校を中退して陸軍教導団歩兵科に入り、1894年(明治27年)3月に卒業。歩兵二等軍曹として日清戦争に参戦した。1898年(明治31年)12月、士官候補生となり、陸軍士官学校(12期)に入学(同期に小磯國昭らがいる)。
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佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日… 佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日 - 1952年(昭和27年)5月1日)は、日本の会計学者、経済学者、教育家。商業教育に大きな功績があるとして、1952年に勲一等瑞宝章を受章した。 1873年、現在の静岡県富士市中島に生まれる。1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同期に石井健吾(元第一銀行頭取)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)などがいた。 卒業後はコロンビア大学、ロンドン大学に留学し、研究を深める。帰国後は母校の高等商業学校助手となり、1896年より同助教授、1900年より同教授。1903年より附属商業教員養成所主事。1911年、法学博士号を取得。1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長を務めた。
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新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
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福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年… 福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年)8月20日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・福島文衛の長男として敦賀県今立郡鯖江清水町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)に生まれ、1905年(明治38年)3月、家督を相続し、前名文治を改める。生家は醤油醸造業を営んだ。1908年(明治41年)越前電気を設立し、同社長に就任。福井県農工銀行頭取を務めたのち、1911年(明治44年)福井県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。鯖浦電気鉄道や福井県鯖江女子師範学校の創設にも関与した。
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七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。
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蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
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紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8… 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日 – 1952年(昭和27年)7月8日)は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
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池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月1… 池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月16日 - 1953年(昭和28年)4月17日)は、日本の内務官僚、官選府県知事。 鹿児島県出水郡武本村向江平良馬場(現在の出水市向江町)にて鹿児島県士族(元薩摩藩士)・池松静蔵の長男として生まれる。幼名・与一郎。父静蔵は西南戦争で戦死。1878年3月、家督を相続する。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り警視庁警部となる。 以後、佐賀県参事官、群馬県警部長、岩手県警部長、栃木県事務官・第四部長、愛知県事務官・第四部長、福井県内務部長などを歴任。
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2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治… 2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日 - 1918年(大正7年)2月26日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。幼名は尚次。 初代永田吉右衛門の長男として、高山町(現在の高山市)に生まれる。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した。 財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行各取締役、飛騨銀行取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行、十二銀行各監査役を歴任した。また、五松庵不及と号して俳句を能くした。
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松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月1… 松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月12日 - 1947年(昭和22年)1月30日[要出典])は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 旧相馬藩士の松本威重の長男として福島県に生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。司税官、大蔵書記官・専売局事業部長、大蔵省主税局長を歴任した。 1923年(大正12年)4月6日に退官し日本興業銀行副総裁に就任。その後、1924年(大正13年)1月24日に錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は護国寺共葬墓地。 宗教は神道、趣味は能楽。
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野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日… 野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日 - 1952年〈昭和27年〉1月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟)、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎。 富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した。富山弁護士会長も務めた。 1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
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三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
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河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
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京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月… 京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月30日 - 1933年(昭和8年)10月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・於菟吉。 旧讃岐多度津藩主・京極高典の二男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)1月27日、子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)学習院高等科を卒業し、さらに同大学部を修了した。1897年(明治30年)陸軍騎兵少尉に任官し、騎兵中尉に進んだ。退役後に司法属となる。 1910年(明治43年)10月29日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
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若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月2… 若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月10日)は、山梨県出身の実業家、貴族院議員、衆議院議員。 山梨県山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に広瀬久光の四男として生まれる。東京法学院(現在の中央大学)を卒業後、明治29年(1896年)に甲州財閥をリードした若尾民造の二女「きよの」と結婚し同人の養子となった。 大正6年(1917年)4月23日の第13回衆議院議員総選挙、大正9年(1920年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙、大正13年(1924年)5月12日の第15回衆議院議員総選挙に山梨選挙区から立候補して衆議院議員に当選。昭和元年(1926年)12月28日に辞任するまで9年4か月在任し、その間、立憲政友会総務、大正13年(1924年)6月30日には全院委員長となった。
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野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 194… 野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
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姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月2… 姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月25日 - 1949年〈昭和24年〉7月23日)は、日本の宗教学者、著作家。日本における宗教学の祖とされる。 『帝国文学』共同創刊者、東京帝国大学宗教学講座初代教授、日本宗教学会初代会長、無所属倶楽部所属の貴族院帝国学士院会員議員。号は「嘲風」(ちょうふう)。 1873年、京都府で生まれた。父は桂宮家に仕える士族であった。少年期に仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。第三高等中学校を経て、1893年、東京帝国大学哲学科に入学。井上哲次郎、ケーベルについて学ぶ。1896年、同大学同学科を卒業した。 1897年には哲学館(東洋大学)で「比較宗教学」を担当、講義し、前後して、浄土高等学院(大正大学)、東京専門学校(早稲田大学)でも講義を開始した。
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中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - … 中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家、実業家、男爵。
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久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
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