海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治1… 海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治14年)10月23日 - 1935年(昭和10年)12月22日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(1期)、陸軍歩兵少尉。 海江田平治の長男として鹿児島県日置郡市来郷湊村(西市来村、市来町を経て現いちき串木野市)に生まれる。1906年(明治39年)に慶應義塾大学部法律科を卒業。同年、一年志願兵として陸軍に入隊し、陸軍歩兵少尉で除隊した。西市来村会議員を経て、日置郡米穀商同業組合長、海江田銀行頭取、明正社、鹿児島化学研究所、日本橋商事各取締役、東海化学工業監査役などを務めた。 1914年(大正3年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月7日から、1918年(大正7年)9月28日まで1期在任。
塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10… 塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10月22日 – 1930年(昭和5年)11月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 長野県東筑摩郡日向村(現在の麻績村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学でドイツ法を学び、1909年(明治42年)に卒業した。卒業後は弁護士・弁理士事務所を開業し、株式会社小穴製作所・日本無線電信電話株式会社などの法律顧問を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)、関東大震災の際に保険金問題について活躍し有名になった。 その他、社団法人日本アルプス理事・社団法人清涼飲料研究所理事などを務めた。
佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1… 佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1947年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。東京専門学校で学ぶ。呉市会議員、同参事会員、呉商工会理事、呉銀行取締役頭取、ハート麦酒(株)取締役副社長、呉劇場、呉酒造(株)取締役社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1947年に死去した。
岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月… 岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月19日 - 1963年〈昭和38年〉5月20日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、樺太庁長官。 鳥取県出身。税吏・岸本俊一の長男として生まれる。父の転勤のため東北各県に居住。福島県立会津中学校を経て第二高等学校を首席で卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、秋田県事務官(高等官)、山形県事務官・警察部長、同県警察部長、滋賀県警察部長、福岡県警察部長、香川県内務部長、関東庁警務局長などを歴任。 1922年10月、秋田県知事に就任。町村農業技術員、産米検査員、農業補習学校教員の三者を一体化した「三職兼務制」を実施し、合理的な農政推進を図った。
三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 -… 三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 - 1915年7月8日)は、小説家・翻訳家。本名は一実(かずみ)。男性。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 194… 橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本のジャーナリスト、評論家で、清末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した。 1881年、大分県臼杵の下級士族の家に長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学んだが、退校処分となった。その後早稲田大学に入学したが、中退。 1905年に北海道に渡り、『北海タイムス』の新聞記者となった。しかし翌年の1906年に清末の大連へ渡り、『遼東新報』の記者となった。以降、記者として『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった。
河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月… 河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月13日 – 1952年(昭和27年)11月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 愛媛県周桑郡国安村(現在の西条市)出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。卒業後は、国民新聞社に入社し、経済記者として活動。経済部長に昇った。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。9回連続当選を果たした。その間、加藤高明内閣で文部参与官に就任し、その他に政友会総務を務めた。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となる。1951年(昭和26年)、追放解除となるが、翌1952年(昭和27年)11月17日死去。
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉1… 福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。 佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している。
伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月… 伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月10日 - 1957年(昭和32年)11月26日)は、沖縄県出身の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、向氏伊江家十四世。号・馬巖。 首里当蔵村(現那覇市首里当蔵町)で、伊江家十三世・伊江朝真の長男として生まれる。父が尚侯爵家御用係兼家扶となり首里小学校卒業後に上京。私立順天中学校、早稲田大学高等予科を経て、1907年(明治40年)7月、同大学部政治科を卒業した。1908年(明治41年)12月、一年志願兵として歩兵第48連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月に満期除隊。 帰郷後、1911年(明治44年)5月、沖縄電気軌道会社常任監査役に就任。
松山 二三郎(まつやま にさぶろう、1881年10月10日 … 松山 二三郎(まつやま にさぶろう、1881年10月10日 - 1991年4月3日)は男性長寿日本一であった石川県の男性。 寺子屋で学んだ後、家業の農業に従事。長男ら家族8人で暮らし、子7人、孫16人、ひ孫29人、やしゃご4人がいた。妻は1949年に亡くなった。耳が少し遠く、足腰は弱っていたが、103歳頃までは自宅から500メートル離れた畑にまで出かけ、毎日農作業に精を出していた。106歳頃から横になっていることが多くなった。 1990年3月6日、藤原喜一が109歳で亡くなったことにより、松山が108歳で長寿日本一の男性となる。 男性長寿日本一となった際「おかげさまで。みんなにかわいがられて」と何度もお礼を述べた。
柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1881年10月10日 … 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1881年10月10日 - 1946年8月13日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は伊勢ノ海 富太郎(旧姓江口)。9代伊勢ノ海。189cm、116kg。最高位は東小結。 日露戦争で勲功があり、従軍中に知合った伊勢ノ海部屋の力士から角界入りを勧誘され、1907年1月幕下付出で初土俵。1909年6月十両昇進、1910年1月には入幕し、1914年1月に小結に昇進した。しかし心臓病の為に全休し、以後は振るわなかった。すでに師匠が亡くなり二枚鑑札となっており、1918年5月引退し年寄稼業に専念することになった。師匠としては藤ノ川雷五郎などを育てたが、1933年1月場所後錦島部屋に弟子を預け、一時部屋を閉じた。
松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10… 松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10月9日 - 1943年〈昭和18年〉11月13日)は、日本の会社役員、地主、政治家。鳥取県会議員(政友会)。鳥取県西伯郡県村長。米子共立検番監査役。合資会社米子均一タクシー自動車商会有限責任社員。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。鳥取県立農学校卒業。郡会議員、県村会議員、学務委員、鳥取県会議員、参事会員等を歴任。1923年、県村長に就任。 大日本國粹会鳥取県米子支部長である。住所は鳥取県西伯郡県村大字日下。
下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉1… 下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉10月8日 - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。 1881年(明治14年)10月8日、山形県米沢市に生まれた。下村正助海軍中将は実弟である。幼くして母と死別し、父と共に北海道根室に移住したが、中学進学のため帰郷し、米沢中学に進んだ。翌年父を失っている。1899年(明治32年)に海軍兵学校に入校し、1902年(明治35年)12月、187名中8番で卒業した(30期)。百武源吾、松山茂のほか、今村信次郎、松浦松見、池田宏平ら同郷の7名が同期生である。
香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6… 香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6日 - 1950年〈昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 佐賀県出身。陸士14期、陸大24期。 佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した。 第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1… 折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1966年12月23日)は、日本の造園家、都市計画家。官庁技師として活躍。また造園分野の教育者として後進の指導に当たった。日本における公園整備の第一人者として、世界的に知られる。 山形県新庄市出身。1881年(明治14年)新庄藩主戸沢子爵の東京麻布の邸内に、山形県士族折下済の長男として生まれた。麻布中学校、第一高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。卒業後、宮内省内苑寮園芸掛技手となって新宿御苑に奉職。福羽逸人の指導の下で御苑と代々木御料地の管理に関与。御苑にて、洋蘭の品種改良や菊、果樹疏莱、庭園芸などを研究した。
岡本 馬太郎(おかもと うまたろう、1881年〈明治14年〉… 岡本 馬太郎(おかもと うまたろう、1881年〈明治14年〉10月4日 - 1958年〈昭和33年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県風早郡横谷村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市横谷)出身。1901年愛媛県小学校教員養成所(現・愛媛大学教育学部)卒。小学校教諭、河野村長、愛媛県議、同議長、県農会長、同乾繭組合連合会長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1958年死去。
中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10… 中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10月3日 – 1964年(昭和39年)1月19日)は、日本の鉄道官僚。実業家。教育者。 奈良県吉野郡十津川村出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。逓信省鉄道局に入り、逓信書記官、鉄道院参事、同理事、中部鉄道管理局運輸課長、逓信大臣秘書官、鉄道院総裁秘書、鉄道省運輸局長、鉄道次官を歴任した。 退官後は、東京地下鉄道副社長、日満亜麻紡織株式会社取締役、玉川電鉄取締役、池上電気鉄道取締役、目黒蒲田電鉄取締役、東京横浜電鉄取締役、東武鉄道取締役、理研重工業取締役、鉄道同志会理事・副会長・会長、ジャパンツーリストビューロー常務理事、帝国自動車協会副会長、日本交通協会常務理事・会長、日満実業協会監事・常務理事、東亜経済懇談会常務理事、東京商工会議所交通部長、鉄道軌道統制会会長、東京帝国大学経済学部講師、拓殖大学講師、昭和高等鉄道学校校長、豊島商業学校校長、東京交通短期大学学長など多くの公職に就いた。
田代 皖一郎(たしろ かんいちろう、1881年〈明治14年〉… 田代 皖一郎(たしろ かんいちろう、1881年〈明治14年〉10月1日 - 1937年〈昭和12年〉7月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。佐賀県多久市出身。陸士15期、陸大25期。 第一次上海事変終結直前にテロに倒れた派遣軍司令官白川義則大将の参謀長として事件を早期に収拾し、その手腕は高く評価された。その後、支那駐屯軍司令官となるが病を得て、司令官の職を香月清司中将に譲り、1937年(昭和12年)7月16日に亡くなった。盧溝橋事件が起ったとき、北京武官だった今井武夫陸軍少将は戦後、当時を回想して、「穏健で部下から信望を集めていた田代軍司令官が、危篤状態でなく、健在だったならば、日中戦争にいたらなかったかもしれない。
増永 元也(ますなが げんや、1881年10月 - 1956… 増永 元也(ますなが げんや、1881年10月 - 1956年7月5日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。
栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - … 栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - 1953年5月27日)は、真言宗の僧、仏教学者。 香川県三野郡吉津村(現・三豊市)の宮本伝蔵の三男。幼名は伊半太。1891年仁尾村(現・三豊市仁尾町)の不動護国寺栂尾本元について得度、養子となって祥雲と名のる。真言宗連合高等中学卒。1910年高野山大学講師、1921年ヨーロッパ、インドに学ぶ。1924年帰国、高野山大学教授。1945年学長。1947年高野山密教研究所長。
井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26… 井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26日 - 1932年〈昭和7年〉11月23日)は、日本の酒造家、政治家(群馬県会議員、群馬県佐波郡玉村町長、同町会議員)、群馬県多額納税者。前名・保一。11代・井田金七の長男として生まれ、12代・金七を襲名した。 群馬県佐波郡玉村町大字上新田に生まれる。生家・井田家は江戸時代には日光例幣使街道・玉村宿の名主・問屋・脇本陣を務める家柄で、宝永2年(1705年)より酒造業・和泉屋を営んだ。遠祖は畠山重忠とも、那波一族とも那波氏の家臣ともいい、17世紀の井田勘解由を初代としている。 11代井田金七の長男として生まれた保一は、東京の旧制開成中学校を卒業。
花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 194… 花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 1946年4月27日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官、大学講師などを務める。主な研究対象は会津、名古屋、安土桃山時代の三分野で、安土桃山史の権威であった。歴史地理学会幹事。 海軍中佐(海兵57期)で天霧駆逐艦長としてJ.F.ケネディー海軍中尉指揮する魚雷艇を撃沈し、戦後に塩川町長を務めた花見弘平、陸軍少佐の花見侃(第36師団参謀、陸士47期、陸大57期)は甥である。 現在の福島県喜多方市に地主の次男として生まれる。会津中学に学び、植村恒三郎、陸軍少将佐藤美千代と同期であった。1903年に第二高等学校を卒業し、1906年に東京帝国大学文科大学を卒業。
青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉… 青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉9月20日 - 1940年〈昭和15年〉5月25日)は、日本の政治家。長野県会議員。長野県参事会員。長野県下高井郡養蚕業組合長。有限責任北信共同乾繭販売組合理事。 長野県下高井郡延徳村(現・中野市)生まれ。青木彦兵衛の長男。小県蚕業学校、足利工業学校を卒業。県農工技手に就任。 1年志願兵として歩兵第15連隊に入り累進、中尉に任官。日露戦争に従軍して、勲六等、功五級金鵄勲章を賜う。凱旋後下高井郡農商学校教諭となった。中野農学校養蚕教師として奉職し、1923年に退職。 下高井郡書記、郡農会技師、農林技師、県農会技師、須坂支所長等を歴任。1906年以来県養蚕連合会に関係し、県養蚕連合会評議員、全国養蚕連合会評議員である。
倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年… 倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年1月9日)は、日本の建築家。明治末期から昭和初期にかけて九州帝国大学技師を務め、九州大学(箱崎キャンパス)の校舎を多く設計したことで知られる。 1881年(明治14年)、東京生まれ。第一高等学校(旧制)を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(岡田信一郎、本野精吾らと同期)。 京都市嘱託技師、東京高等工業学校講師を経て、1911年(明治44年)11月、創設されたばかりの九州帝国大学技師に就任し、臨時建築掛長として大学施設の整備に当たる。その後、1918年(大正7年)、臨時建築掛が建築課になるとその初代課長に就任。
今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月… 米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。
田村 源太郎(たむら げんたろう、前名・治郎吉、1881年〈… 田村 源太郎(たむら げんたろう、前名・治郎吉、1881年〈明治14年〉9月15日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、実業家、地主、鳥取県多額納税者。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。田村源太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業を営む。1926年、家督を相続し、前名・治郎吉を改める。中国貯蓄銀行、中国興業銀行、米子共立検番各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は米子市糀町2丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915… 角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915年3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。1915年3月1日極秘任務遂行中に千葉県沖で汽艇の沈没事故により死亡。 石川県出身。1881年9月金沢市 金石味噌屋町の医師角田元伯の長男として生まれる。石川県尋常中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を188人中13番の成績で卒業。翌年9月、海軍少尉任官を待って金田ケン子と結婚。妻は(一般女性を対象とした日本初のミス・コンテストと言われる)時事新報社の令嬢美人コンクールで全国2位の経歴を持つ。 日露戦争では軍艦「鎮遠」乗組み殊勲を挙げ、1905年には中尉となる。
斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9… 斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9月14日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 斎藤茂助の四男として、山形県飽海郡大町村(西平田村を経て現酒田市地内)に生まれ、社会事業家・斎藤千里の婿養子となる。専修大学を卒業し、新潟県官房主事、北魚沼郡長、佐渡支庁長、赤十字新潟支部病院事務長などを歴任した。ほか、郷里出身の高級官僚・太田政弘の知遇を受け、台湾、朝鮮などに赴任した。 1933年(昭和8年)初代酒田市長の中里重吉に招かれ同市助役に就任。1937年(昭和12年)10月、中里の引退した後を受けて酒田市長に就任した。戦時下の市政に手腕を発揮し、酒田港築港整備、軍需産業の誘致、学童疎開、建物疎開による空襲対策などに尽力した。
岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月1… 岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月14日 - 1925年(大正14年)5月6日)は日本の劇作家・劇評家。狂言をもとにした歌舞伎舞踊の作品「身替座禅」「棒しばり」等は今日でもよく上演される。1915年以降、市村座の運営に関わった。 本名久寿治。高知市北奉公人町に生まれ、5歳のとき、両親と叔母に従い東京へ移った。叔母『加藤はま』は、初代竹本綾之助らと女義太夫を盛んにした『竹本東玉』である。 中学卒業後独逸学協会に在籍したものの、叔母の感化で芸能界に親しみ、1901年から1909年まで中央新聞に勤め、次に二六新報に転じて劇評を書いた。1908年の有楽座開場時には、顧問を引き受けた。
籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1… 籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1957年11月26日)は、日本海軍の軍人。 最終階級は海軍大佐。
井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 -… 井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 - 1919年(大正8年)5月4日)は、日本の大正時代の医学者。医学博士。東京帝国大学助教授を経て、九州帝国大学教授。 大正4年(1915年)、恩師でもある九州帝国大学第一内科稲田龍吉教授と共に、ワイル病(黄疸出血性スピロヘータ病)の病原体を発見する。第6回帝国学士院恩賜賞を受け、ノーベル医学賞の候補にも推薦されるなど、当時の日本を代表する医学者として将来を嘱望されながらも、大正8年(1919年)5月8日死去、37歳。 岡山県勝田郡北吉野村荒内西(現:奈義町荒内西)で酒造業を営む家(井戸酒店)に長男として生まれる。父・恒四郎、母・たけよ。
山本 芳治(やまもと よしじ、1881年(明治14年)9月8… 山本 芳治(やまもと よしじ、1881年(明治14年)9月8日 – 1950年(昭和25年)12月28日)は、衆議院議員(革新倶楽部→立憲政友会)。厚生参与官。弁護士。 兵庫県加古郡八幡村(現在の加古川市)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。司法官試補となるが辞して、大阪市に弁護士事務所を開業し、後に大阪地方裁判所所属弁護士会副会長に選ばれた。 大阪市会議員、市参事会員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。当選回数は合計で5回を数え、その間に第1次近衛内閣で厚生参与官を務めた。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では大政翼賛会の推薦を受けて当選した。
後藤 七郎(ごとう しちろう、1881年(明治14年)9月7… 後藤 七郎(ごとう しちろう、1881年(明治14年)9月7日 - 1962年(昭和37年)12月7日)は、大正から昭和時代の日本の外科学者、大日本帝国陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。位階勲等は正三位勲一等。胃・十二指腸潰瘍の権威で、日本初の輸血を行った人物として知られる。 後藤貞治の三男として福岡県山門郡柳河村(現柳川市)にて生まれる。1907年(明治40年)12月、京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)卒業。翌年6月、陸軍二等軍医・歩兵第1連隊附となる。1909年(明治42年)京都帝国大学福岡医科大学大学院、1911年(明治44年)九州帝国大学医科大学大学院を経て、同年、同大講師となる。
正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月… 正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月5日 - 1920年(大正9年)3月24日)は、日本の評論家、ジャーナリストである。芸陽は筆名で、本名は猶一。 広島県に生まれる。10歳で父を失い、翌日に母を失った。12歳で広島監獄の給仕となる。その傍ら、濱名眞金(はまなまがね)に漢学を学び、同時に三浦某に英語を学ぶ。13歳(明治27年)キリスト教を受洗し布教に従事していたが、14歳で東京に出て苦学し、15歳から16歳にわたって伊豆湯河原温泉近在、泉村の小学校で教鞭を執った。同校を辞して再び東京に出て青山学院大学に学ぶものの幾ばくもせずに退学し、17歳の時に北海道の新聞社に記者として赴き、半年間在職後に帰京しやまと新聞社に入社。
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)… 横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月 - 1920年(大正9年)4月3日)は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。 大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。
瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9… 瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9月 - 没年不詳)は、ロシアで活動した日本人実業家である。 徳島県阿波郡柿原村(柿島村、板野郡吉野町を経て現阿波市吉野町柿原)出身。日露戦争に従軍した。奉天の会社「松茂洋行」の支配人となり、ロシア内の鉄道線路南方[どこ?]で鉱物の試掘許可を受けて、試掘して成功し、本採掘を出願しているが、ロシア革命が起きると白軍であるグリゴリー・セミョーノフ軍の顧問となった[要検証 – ノート]。1926年、国際探訪通信社を立ち上げ、日本の機密費を受けて中国・ロシアの一般情報収集を行う。1932年には、国体擁護連合会の常務実行委員となっている。1936年、二・二六事件の関係者となる[要検証 – ノート]。
竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 19… 竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 1975年12月15日)は、日本の医師(医学博士)、政治家。 長野県南佐久郡原村(現川上村)で庄屋を世襲した家系で、元村長・元郡会議員井出喜重の長女として生まれた。1907年、東京女医学校(現東京女子医科大学)を卒業。女性としては27番目の医師となった。同年夏には、自殺を図った原阿佐緒の治療にあたった。1916年医師の竹内甲平と結婚し、1919年新宿に井出医院を開業する傍ら、市川房枝らと社会運動に参加、婦人参政権運動の財務理事を務めた。1933年東京帝国大学医学博士。論文の題は「日本女子の體質に関する研究」。 1946年東京都第1区から第22回衆議院議員総選挙出馬し、女性として初めて当選、日本自由党に属し総務及び婦人部長を務めたが、翌年公職追放となった。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉… 山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1966年〈昭和41年〉4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。 1881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。 幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。
中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年〈明治14年〉… 中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1947年〈昭和22年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。林内閣の陸軍大臣。石川県出身。子息は、陸軍中佐中村雅郎(44期)、陸将中村薫正(58期)。 石川県金沢市水溜町出身、石川県士族中村芳房の長男。(大野敏明著「西郷隆盛の首を発見した男」p.177,178、文春新書、2014年) 石川県第一尋常中学校(現:石川県立金沢泉丘高校、第6期生、同期には政治家永井柳太郎がいる)から陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校に進む。1901年(明治34年)11月22日に陸士13期を19番/722名の優秀な成績で卒業している。
竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 19… 竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 1961年9月7日)は、日本の経営者、ダイハツ工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1908年に京都帝国大学工科機械科を卒業。名古屋瓦斯支配人、竹崎鉄工所代表役員、島津製作所取締役などを経て、1932年に発動機製造(現在のダイハツ工業)取締役に就任し、1947年には社長に昇格。1955年に会長に就任。 1937年に大阪府実業功労賞を受賞し、1956年11月に池田市名誉市民に選ばれ、1957年3月に藍綬褒章を受章。 1961年9月7日、肋膜炎のために死去。
弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月… 弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1957年〈昭和32年〉12月16日)は、朝鮮総督府官僚。位階は正四位。勲等は勳三等。 岡山県赤磐郡豊田村(現在の赤磐市)出身。弓削新平の孫。1900年(明治33年)、日本法律学校(現在の日本大学)法科を卒業。1904年(明治37年)に高等文官試験に合格。専売局属、千葉県属、同警視、鹿児島県事務官、朝鮮総督府書記官、同学務課長、同宗教課長、同鉄道部長を歴任した。 退官後は復興建築助成株式会社取締役・支配人、中央朝鮮協会理事、中央協和会理事、東京府協和会理事を務めた。終戦後は千葉県農地委員となった。
岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月2… 岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月27日 - 1946年〈昭和21年〉4月25日)は、日本の出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員。 次男の岩波雄二郎は岩波書店・二代目社長。孫の岩波律子は岩波ホール支配人。次女小百合は岩波書店会長の小林勇の妻。 長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる。父義質は村の助役をしていた。 尋常小学校、高等小学校をへて、1895年(明治28年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)に進むも、在学中に父が病死し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。
中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月2… 中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、醸造家、政治家。若桜町会議員。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。中尾徳次郎の二男。1902年、中尾修家より分家する。病気のため鳥取中学校を3学年で中途退学する。若桜赤松組合村会議員に挙げられる。 1912年、若桜神社氏子総代、同年に醤油醸造業を経営する。1917年、江島神社崇敬総代。第1回国勢調査員となる。三倉谷土工森林組合監事、中尾製糸場持主、淵見製材合資会社有限責任社員である。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、中尾敬吉の地価所有高は「852円25銭」である。趣味は書画、書道、骨董。
蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881… 蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881年(明治14年)8月25日 - 1943年(昭和18年)3月18日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・新之助。 元伊予宇和島藩主・伊達宗城の十一男として生まれ、子爵・蒔田広孝の養子となる。養父の隠居に伴い、1912年(明治45年)7月20日に子爵を襲爵した。 学習院を経て、京都帝国大学法科大学を修了。1911年、アメリカ合衆国を視察。帰国後、小田原急行沿線企業の重役を務めた。 1919年(大正8年)12月26日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月9日まで在任。さらに、1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで通算2期在任した。
井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉… 井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉8月16日 - 昭和38年〈1963年〉11月10日)は、日本の実業家。 「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名・レンゴー)を設立した。「日本の段ボールの父」と評される。 兵庫県姫路市郊外で農業を営む長谷川家の三男として生まれた。2歳の時に、兵役を逃れるため遠縁にあたる井上家の死籍相続人になる。 高等小学校を卒業後、1895年(明治28年)から神戸の商家で丁稚を始める。その後中国料理店、パン屋、石炭屋等職を転々とする。1905年(明治38年)には妻・お雪と別れ、1人満州に旅立つ。 1909年(明治42年)に放浪の旅から立ち直り、東京で「三盛舎」(後に「三成社」と改名)を創業。
副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月… 副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月15日 - 1954年(昭和29年)2月15日)は、日本の明治期から昭和期の官僚。幣原内閣の農林大臣や関東証券の社長を務めた。位階および勲等は従三位、勲二等。 佐賀中学校(旧制)から郁文館中学校に転校。第一高等学校に進学し、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学を卒業した。 農商務省に入省し、農政課長、食糧局長、製鉄所次長、鉱山局長を歴任した。1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省商務局長に就任し、関税率改正準備委員会臨時港湾調査会、国産振興委員会委員、関税常設委員会、損害保険制度調査委員会、不当廉売審査委員会などの委員を務めた。
鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15… 鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15日または12月1日 - 1942年(昭和18年)11月6日)は、愛知県出身の俳人、大審院書記。本名は鈴木喜一郎(きいちろう)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)生まれ。半田裁判所で書記見習いをしていた時に「ホトトギス」の存在を知り投句。1909年には名古屋裁判所に移り、1915年に上京、大審院書記となる。この年初めて「ホトトギス」で入選。また東大俳句会を指導し、後の水原秋桜子や高野素十らの4S時代を築く礎となった。晩年は「あをさ」「百舌鳥」などの俳誌を創刊するも、戦時中の紙不足に巻き込まれ廃刊を余儀なくされる。60歳を迎えて日本俳句作家協会常任理事となるも、間も無くして病に倒れた。