岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2… 岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2004年4月21日)は、日本の経営者。資生堂社長、会長を務めた。 香川県綾歌郡国分寺町出身。1929年に高松高等商業学校を卒業し、同年8月に資生堂に入社した。1947年に取締役に就任し、1960年12月に常務、1966年に専務を経て、1967年1月に社長に就任した。貿易自由化によって、外資化粧品の流入が懸念されると、女優を起用した「四季」のキャンペーンを展開し、商品だけではなく、CMソングまでにヒットさせるお家芸を確立させ、同社を流行・文化発信企業に育て上げた。当時の業界では、多角化経営が全盛していた頃でも、本業に徹していた。1975年1月に会長に就任し、1978年2月から相談役を務めた。
ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986… ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986年4月1日)は、日本の歴史学者、考古学者、著述家、翻訳家。専門は天皇史と昭和史。 本名の「禰津正志」、および「ねづ まさし」の名義でも著述活動を行った。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部史学科国史専攻卒業。卒業論文は「文久元年露艦の對馬占據に關する外交史的研究」。同大学院考古学科修了。1936年文部省維新史料編纂局に入る一方で、1935年京都で創刊された雑誌『世界文化』の同人となり、その姉妹紙である週刊紙『土曜日』にも執筆するなど反ファシズム市民文化運動に関与したが、1937年、人民戦線事件で治安維持法違反として検挙された。戦後は天皇制、日本史、フランス革命に関する著述、翻訳を行う。
栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11… 栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。 1908年11月17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の歩兵大佐栗原勇(12期)。父の転勤に従い、北海道旭川で暮らしている。二・二六事件において処分された予備役少将斎藤瀏(12期)とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直(事件時は歩兵第3聯隊第1中隊附中尉として斎藤實内大臣邸を襲撃、43期)もこの頃の幼馴染である。
大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1… 大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1993年11月13日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。1950年日本農学賞受賞。従四位勲二等旭日重光章。文化功労者。 1908年、静岡県生まれ。1933年に東京帝国大学農学部を卒業。卒業後は、宇都宮高等農林学校教授、東京商科大学教授となった。 戦後の1949年、経済安定本部調査課長となる。1950年より一橋大学教授。1952年、学位論文『食糧経済の理論と計測 』を提出して農学博士号を取得。1958年、経済企画庁経済研究所(のち内閣府経済社会総合研究所)初代所長となる。1969年より一橋大学経済研究所所長。1972年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。
久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 199… 久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 1990年3月22日)は、日本の技術者、経営者。 三菱重工業で飛行機の開発に携わり、大日本帝国陸軍の一〇〇式司令部偵察機では設計主務を勤めた。のちに自動車部門に転じ、三菱重工業から分社されて発足した三菱自動車工業で社長・会長・相談役を歴任した。 社長であった1973年から、三菱自動車工業は大韓民国の現代自動車へ技術供与を実施し、韓国の自動車産業の基礎を作った。 長崎県出身。1931年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、三菱航空機(のちに三菱重工業となる)に就職、名古屋製作所勤務となる(堀越二郎の4年後輩に当たる)。 太平洋戦争後、日本では航空機の研究開発が連合国軍最高司令官総司令部によって、サンフランシスコ講和条約の発効まで禁じられた。
安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月… 安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月16日 - 1969年〈昭和44年〉9月9日)は、日本の小説家(直木賞受賞)、随筆家。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。国際演劇協会理事。日本演劇協会常任理事。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞で社長の福田英助の金言は「とかく人間は色と欲だ。
橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 19… 橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 1997年9月10日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。長男は橘康太郎(衆議院議員)、孫は橘慶一郎(高岡市長、衆議院議員)。 富山県射水郡守山村(現:高岡市)出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。1931年早稲田大学商学部卒。伏木海陸運送社長、守山村議、高岡市議、同議会議長を務め、1946年の第22回衆議院議員総選挙において日本進歩党で富山県から出馬し初当選。翌年より富山2区となり、衆議院議員を3期務めた。1949年第3次吉田内閣で賠償政務次官。1959年より高岡市商工会議所会頭。1969年春の褒章で長年、海陸運送業に携わって貿易関係団体要職に就いて特にソ連との貿易尽力し輸出の振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月1… 対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月15日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 二・二六事件の反乱部隊に参加した青年将校の一人で、事件当日に首相官邸襲撃を実行し、事件後に死刑判決を受け、銃殺刑に処せられた。 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧農の生まれ。 1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った。
山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1… 山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1998年10月12日)は、昭和時代日本の詩人、小説家、作詞家、劇作家。長野県出身。 1908年(明治41年)、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)湊に生まれる。旧制松本商業学校を卒業したのち、諏訪地域で小学校各校の教員を務める傍ら、伊藤松雄主宰の「町の劇場」運動に参加した。 1930年代後半からは文芸グループ「諏訪文学」に属し、小説を執筆する傍ら「山岡羊村」他の名義で懸賞歌謡への応募を始め、1941年(昭和16年)には大政翼賛会が制定した「大政翼賛の歌」で入選する。戦後は地域活動に徹し校歌や婦人会歌、音頭の作詞、新聞小説連載などの活動に従事した。
南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - … 南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、日本の小説家・経済学者。本名:古賀 英正。「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。東京市出身。 東京銀座の南紺屋町に、代々の医師の家に生まれる。8歳から中国・青島の小中学校を出て、山口高等学校から1930年東京帝国大学法学部卒業、1933年同経済学部卒業、助手となる。1936年満鉄調査部東京支社に入り、1937年宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 20… 山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 2000年5月26日)は、日本の経営者。ロイヤルホテル社長を務めた。静岡県掛川市出身。ロイヤルホテル創業者山本為三郎の婿養子。 静岡県の杉山銑三郎の長男として生まれる。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入社。1959年11月に取締役に就任し、1963年10月に常務経て、1968年5月にロイヤルホテル副社長に就任し、1973年3月には社長に昇格。1985年4月に会長を経て、1988年6月から取締役相談役兼最高顧問を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 2000年5月26日、心不全のために死去。91歳没。
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月… 吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者、東京大学教授。専門は近代文学。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1960年)。 1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。また、1983年(昭和58年)に近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となった。 文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立した。芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東京大学の教授だった時期は短く、名誉教授にはなっていない。
大黒 東洋士(おおぐろ とよし、1908年11月12日 - … 大黒 東洋士(おおぐろ とよし、1908年11月12日 - 1992年10月24日)は、日本の映画評論家。辛口の映画批評で知られる。 高知県高岡郡仁井田村下呉地()(現・四万十町下呉地)出身。小学校入学前に小高坂村(現・高知市)へ転居。高知県師範学校附属小学校を経て旧制高知城東中学校卒業。中学5年の時に一家が東京へ移住したため、1926年に中学卒業とともに上京。有島武郎の小説や山への憧憬から北海道大学進学を目指すが叶わず、1927年の頃は復興局で測量技師の助手のアルバイトに従事して、収入の多くを映画鑑賞に費やし、やがて「人生の転機」(『映画とともに五十年』より)にいたる。1928年、松竹キネマ蒲田撮影所において所長の城戸四郎の肝煎りで新たに開設される「脚本養成所」(後に「松竹映画脚本研究所」と改称)の研究生に応募、30人の中に合格して第1期生の一人となった。
倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1… 倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1985年4月16日)は、日本の小説家。 東京市浅草生まれ。法政大学文学部国文科を卒業。朝日新聞社会部記者、松竹演劇部・映画部勤務を経て作家活動に入る。武田麟太郎の『人民文庫』に参加の後、1941年に池田源尚・古沢元らと同人誌『麦』を創刊。1943年に『連絡員』で第16回芥川賞を受賞。 怪奇小説を数々ものす傍ら、高橋竹山を取り上げた『津軽三味線』も著している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11… 木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11月11日 - 1972年(昭和47年)6月13日)は、日本の政治家。茨城県水戸市長(2期)。 茨城県水戸市生まれ。水戸の老舗醤油メーカー「井伝」に生まれる。1927年、旧制水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒。井伝醬油社長となり、1967年。水戸市長に当選した。市長就任後に市役所の移転、市内の各学校に体育館やプールの設置、市民会館や市民プールの着工、市民憲章の制定などがある。1972年、狭心症のため、急逝した。
青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1… 青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1993年1月22日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、2期)。日本共産党中央委員会顧問、日本民主法律家協会理事、日本国際法律家協会顧問などを歴任した。 長野県東筑摩郡坂北村(現・筑北村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学法学部を経て、1931年弁護士登録すると共に布施辰治法律事務所入所。自由法曹団員として三・一五事件や四・一六事件など、治安維持法違反事件を弁護するも、1933年には布施と共に検挙され執行猶予判決を受ける。また、この件により同年弁護士資格が剥奪されたのみならず、終戦まで活動停止を余儀なくされる。
沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年11月… 沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年11月11日 - 1996年8月16日)は、日本の女優、随筆家。本名は大橋 貞子(おおはし ていこ)。
勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1… 勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1969年7月30日)は、日本の教育学者。 東京市に生まれる。ロシア研究者・横浜国立大学教授の勝田昌二(1911年生[要検証 – ノート])は弟。 1926年、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。(宗像誠也とは同級生) 一高を経て、1932年京都帝国大学文学部哲学科卒業。 京大卒業後、松本高等学校 (旧制)教諭、学習院大学教授などを経て、1951年から東京大学教授。日本教職員組合教研集会の講師を、その発足当初から長く務め、教育科学研究会(略称:教科研)の中心メンバーとして活躍、その機関誌『教育』の編集長の任にもあたった。
大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11… 大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11月10日 - 1985年(昭和60年)3月30日)は、日本の陸上競技選手。専門は三段跳で、1932年ロサンゼルスオリンピック銅メダリストにして元世界記録保持者だった。 石川県金沢市出身。関西大学卒業。 引退後は大阪体育大学副学長(のちに名誉教授)や日本オリンピック委員会 (JOC)委員(のちに名誉委員)を務めた。 金沢市の手広く履物商を営む商家に生まれ、金沢商業学校(現・石川県立金沢商業高等学校)在学中に第四高等学校(現・金沢大学)主催の中等学校陸上競技大会の三段跳で優勝する。関西大学法律科に進学し、1928年アムステルダムオリンピックの予選会を兼ねた全日本選手権で走幅跳2位、三段跳3位となるも選に漏れた(この時選手に選ばれた織田幹雄は三段跳びで日本人初の金メダリストとなった)。
入江 猪太郎 (いりえ いたろう、1908年 <明治41年>… 入江 猪太郎 (いりえ いたろう、1908年 <明治41年> 11月10日 - 1990年 <平成2年> 9月17日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 岡山県西大寺市生まれ。1930年高松高等商業学校(現香川大学)卒業。1933年神戸商業大学(現神戸大学)卒業、同研究科入学。1936年鹿児島高等商業学校講師。1938年同教授。1942年神戸商業大学助教授。1950年神戸大学経営学部教授。1952年同教授。1953年岡山大学教授併任。1961年商学博士。1964年神戸大学経営学部長。1972年日本学術会議会員。同年定年退官、神戸大学名誉教授、近畿大学商経学部教授。1980年勲三等旭日中綬章受章。
岡本 耕造(おかもと こうぞう、1908年11月10日 - … 岡本 耕造(おかもと こうぞう、1908年11月10日 - 1993年2月24日)は、病理学者。京都大学名誉教授、近畿大学名誉教授。 富山県出身。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年京都帝国大学医学部医学科卒業。清野謙次の弟子として京大病理学教室に入った。1935年2月1日付で、歩兵第7連隊幹部候補生として応召、同年12月復職。1938年3月3日、ドイツ語論文「組織鉄に関する研究」で医学博士号取得。 京大講師在任中の1938年春、清野と医学部長戸田正三の説得でやむなく関東軍防疫給水部本部(731部隊)に参加。第一部第六課岡本班で病理研究に従事した。極東国際軍事裁判で戦犯として訴追された。 戦後、兵庫県立神戸医科大学教授、東北大学教授を歴任。
湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 197… 湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 1972年8月21日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。 東京都出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1951年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年に日興証券副社長に就任し、1964年から1970年11月までに社長を務めた。 経済同友会副代表幹事、東京都教育委員なども歴任し、木川田一隆と共に安定成長論を唱えた。 1972年8月21日、心筋梗塞のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
吉田 重春(よしだ しげはる、1908年(明治41年)11月… 吉田 重春(よしだ しげはる、1908年(明治41年)11月8日 - 没年不明)は、日本の実業家。北海道小型自動車販売協会、札幌地区軽自動車協会各専務理事。衆議院議員・立憲民主党代表の泉健太は外孫。 北海道出身。吉田重貞(札幌毎日新聞社社長)・キミの長男として生まれる。1930年(昭和5年)小樽高等商業学校卒業。高商卒業後、住友本社鴻之舞鉱業所、住友鉱業(現・住友金属鉱山)、住友石炭鉱業(現・住石マテリアルズ)、北海道マツダ販売を経て北海道小型自動車販売協会、札幌地区軽自動車協会各専務理事に就いた。 趣味は読書、麻雀、将棋、酒。 娘婿に元石狩市議の泉訓雄がいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年… 伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年〉11月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月26日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、日本統計学会会長等を歴任した。 東京出身。1931年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1934年同研究科修了。台北高等商業学校教授、総理府統計局、横浜国立大学教授を経て、一橋大学経済研究所教授を務めた。1963年から高橋長太郎の後任として第8代一橋大学経済研究所長を務めた。1965年に所長を退任し都留重人と代わる。1971年から1972年まで第10代日本統計学会会長。1973年一橋大学定年退官、一橋大学名誉教授、東海大学教授。
旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994… 旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994年6月30日)は、日本の東洋史学者、旧・東京都立大学名誉教授。 1908年、慶尚南道馬山生まれ。1931年東京帝国大学東洋史学科卒業。卒業後満鉄調査部に所属し華北農村慣行調査に参加した。 戦後は旧・東京都立大学助教授、教授を務め、1972年に定年退官、名誉教授となる。その後は専修大学教授として教鞭をとり、1979年に退職。 戦後、人間不在の東洋史学の克服、植民地支配否定の立場からの研究を目指し、朝鮮史研究で中心的役割を果たした。 戦後、中国東北部の満洲と朝鮮半島をつながった地域ととらえる歴史観である満鮮史を批判したことで知られる。第2回日韓歴史共同研究委員会委員幹事を務めた古田博司によると、韓国の委員が戦前の日本の満鮮史研究者を批判した旗田巍を見習うべきだと発言したという。
竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1… 竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1946年4月12日)は、東京府(現在の東京都)出身のサッカー選手。朝鮮銀行副総裁・野球研究者の君島一郎は岳父。照明デザイナーの石井幹子は娘。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)在学中よりサッカーを始め、浦和高等学校を経て、1928年に東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦で日本代表として初出場した。 1932年に東京帝国大学経済学部卒業後は東京火災保険会社に入社。1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され、主将としてスウェーデン代表戦など2試合に出場した。
東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 19… 東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 1980年10月21日)は、日本の農林官僚。食糧庁長官、農林事務次官を務め、退官後は農政調査委員会理事長や日銀政策委員などを歴任した。農業経済学者の東畑精一は実兄。 三重県一志郡豊地村(現在の松阪市)で地主の父・東畑吉之助、母よしをの四男として生まれる。1925年に三重県立津中学校を卒業し、第八高等学校文科甲類に入学した。1928年、東京帝国大学へ入学。在学中の1930年10月に高等試験行政科に合格し、1931年大学卒業後に農林省へ入省。 終戦後には、農政課長として第一次農地改革の原案の作成にとりかかった。東畑が作成した原案では、地主が保有できる貸付地の限度を3haとしていたが、当時農林大臣であった松村謙三は完全自作農主義を持論としており、その限度を1.5haとすることを主張した。
小嶋 潤(おじま じゅん、1908年11月6日 - 1997… 小嶋 潤(おじま じゅん、1908年11月6日 - 1997年9月1日)は、日本のキリスト教神学者、立教大学名誉教授。本名、小嶋 次男(おじま つぎお)。姓は「小島」との表記もある。 兵庫県生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科卒。1962年「マルコ伝研究」で京都大学文学博士。東京女子大学教授、立教大学教授、茨城キリスト教大学教授、静岡英和女学院短期大学学長を歴任。 1997年9月1日、純赤芽球ろうのため死去。
阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日… 阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月13日)は、日本史学者。 愛知県岡崎市出身。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒、1951年神戸大学文理学部助教授、1958年文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、徳川林政史研究所。1988年、急性心不全のため死去。
長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治4… 長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治41年)11月5日 - 1985年(昭和60年)3月4日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、全国銀行協会会長(第25代)を務めた。東京出身。 実父は渋沢栄一で、妾との間に生まれたと言われる。一説には、渋沢の13番目の子供ということで「じゅう3郎」というところから「重三郎」と名付けられた。 一高を経て、東京帝国大学経済学部に入学。大学入学式のすぐその足で、ソビエトから帰国した佐野学歓迎会に出席、一挙検挙で辛うじて逃げ出した逸話は知る人の間では伝説となっている。東大では土屋喬雄のゼミナールで日本経済史を専攻した。 1932年に第一銀行に入行。行内ではエリートコースを歩み、本店営業部次長、業務部長兼秘書役を歴任。
旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988… 旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988年10月28日)は、昭和期に活躍した日本のテレビプロデューサー、映画評論家、演劇評論家、雑誌編集者、新聞記者。フジテレビプロデューサー、吉本興業企画課長、東京日日新聞社(現・毎日新聞)芸能部記者、日本移動演劇連盟劇団課長、キネマ旬報社編集者などを務めた。本名は金田福太郎。 1908年(明治41年)11月3日生まれ。東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪出身。 1931年(昭和6年)、立教大学文学部卒業。学生時代から映画や演劇の研究を行い、大学在学中の1929年(昭和4年)には立教大学雑誌部出版の『立教大学文学』に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表している。
田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11… 田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11月2日 - 2000年(平成12年)1月8日)は、日本の実業家。大丸副社長を経て、東急グループの総帥である五島昇に招かれ、東急百貨店社長に就き、東光ストア(現・東急ストア)や東急エージェンシー社長も兼任し、グループの流通事業の発展に力を尽くした。 山形県鶴岡市出身。父正造、母こえだのもと7人兄弟の次男として生まれる。田中家は庄内藩の家臣で、母方は家老の家柄だった。 鶴岡中学校、新潟高等学校、京都帝国大学経済学部を卒業。山添直(小田急不動産社長)は幼友達。 満鉄への入社を希望していたが、知人のすすめもあって1933年、大丸に入社。入社5年後の1938年、大丸が進出していた中国の蘇州店支配人を任される。
権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1… 権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1972年6月20日、正字では權守)は、日本のフランス文学者。 山梨県生まれ。1934年東京帝国大学文学部仏文科卒。東北大学教養部助教授をへて、教授。72年定年退官、名誉教授となる。戦前の同人文芸誌「批評」にも参加している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月… 土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月1日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の実業家。カルピス食品工業元社長・会長。 1908年11月1日、奈良県に生まれる。父は日本統治下の台湾で林業・電力事業等に足跡を残した土倉龍治郎(カーネーションの父とも称される)。 祖父は明治期の林業家で、自由民権運動や大学設立等の教育他、幅広い分野に大きな影響を与えた土倉庄三郎。 成城高等学校を経て(級友に大岡昇平など)、1932年、京都帝国大学経済学部卒業。 1956年、招聘を受けカルピス食品工業入社、調査部長(東亞合成化学工業退社)。1957年、取締役経理部長。1959年、常務。
福井 研介(ふくい けんすけ、1908年11月1日 - 20… 福井 研介(ふくい けんすけ、1908年11月1日 - 2000年1月17日)は、日本の翻訳家。 岡山県生まれ。1940年、東京外国語学校専修科露語科修了。 1946年3月まで外務省に勤務。それ以降、ロシア児童文学などの翻訳を始めた。1955年の『エジプトの少年』で産経児童出版文化賞受賞。
常見 千香夫(つねみ ちかお、1908年(明治41年)10月… 常見 千香夫(つねみ ちかお、1908年(明治41年)10月31日 - 1988年(昭和63年)1月4日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の歌人。 旧制浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)、東京薬学専門学校(現東京薬科大学)卒業。 浦和中学校在学中、加藤克巳らとともに、「菁藻」にて同校教諭であった高橋俊人に学ぶ。1927年(昭和2年)、村野次郎主宰の「香蘭」入社。1933年、「短歌至上主義」創刊に参加。 1940年、伝説的な合同歌集『新風十人』(八雲書林)に参加。参加者は、常見のほかに五島美代子、筏井嘉一、加藤将之、佐藤佐太郎、斎藤史、館山一子、坪野哲久、福田栄一、前川佐美雄であった。 戦後1946年、加藤克巳、大野誠夫と「鶏苑」を創刊するが、1953年廃刊、以後作歌生活を断った。
蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 19… 蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 1988年11月1日)は日本統治時代の台湾及び中華民国の法律家、法学者。 蔡章麟は旧制台北州立台北二中、旧制台北高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し同年に高等試験行政科に及第した。34年に高等試験司法科に及第すると、35年には判事に任官、青森地裁、神戸地裁、大阪地裁各判事を歴任し終戦時には大阪地裁所長だった。 台湾が日本領から中華民国領になると、蔡は日本の裁判所を退官し台湾に帰国、47年には台湾省行政長官公署法制委員会委員、台湾省政府法制室参事、台湾大学民事訴訟法教授に任命された。48年には台湾大学法学院学生部長に任命された。
白 斗鎮(ペク・トゥジン、はく とちん、1908年10月31… 白 斗鎮(ペク・トゥジン、はく とちん、1908年10月31日 - 1993年9月5日)は、大韓民国の政治家。黄海道信川郡出身。本貫は水原白氏。第4・10代国務総理、第8・10国会議長などを歴任した。日本名白川 實。 1934年旧制東京商科大学(現:一橋大学)を卒業して朝鮮銀行に入行。理事にまでなった。大学の先輩にあたる具鎔書に引き上げられ、独立後も韓国銀行理事を務め、1948年に外資庁長官・1951年財務部長官に就任。この時重石ドル事件への関与で野党から追及を受けるが、これを切り抜けて1952年に財務部長官兼務のまま国務総理代理となり、同時に米韓合同経済委員会の代表を務める。翌1953年に正式に国務総理となった、 4月革命後の国会議員補欠選挙に出馬・当選して政界入りするが、直後に5・16軍事クーデターが勃発。
大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1… 大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1970年5月27日 )は、日本の作家。本名は小池忠雄(こいけ ただお)。 宮城県柴田郡船岡町(現在の柴田町)出身。仙台第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科甲類卒、東北帝国大学文学部中退。 東北初の直木賞作家。幕末や明治維新など、歴史に題材を求めた短編を多く残している。社会教育にも力を注ぎ、槻木公民館長、柴田町公民館長などを歴任。船岡中学校校歌の作詞も手掛けた。1939年、「兜首」「秋田口の兄弟」で、第8回直木三十五賞受賞。 1970年5月27日に死去。告別式は同月30日、柴田町立船岡小学校体育館で町の教育委員会葬として行われた。
武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月2… 武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月29日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、実業家である。元栗本鐵工所専務取締役・顧問を務める。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)岡山県に出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。1927年(昭和2年)に同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。その後、1930年(昭和5年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1933年(昭和8年)3月、工学部採鉱冶金学科を卒業する。 京大卒業後、栗本鐵工所へ就職する。入社後、臨時建設部次長を経て、1954年(昭和29年)に材料研究部次長、1957年(昭和32年)研究所長・技術部長となり。
高須 茂(たかす しげる、1908年10月28日 - 197… 高須 茂(たかす しげる、1908年10月28日 - 1979年1月27日)は、日本の登山家、民俗学者。 東京出身。大東文化学院(現大東文化大学)卒業後、フランス語専修学校に学ぶ。15歳で白馬岳に登ったのが登山のきっかけで、20歳頃から本格的な登山を始める。山旅倶楽部を主宰し、『山小屋』『山』などの雑誌の編集に携わった。戦時中は軍務に服し、1949年以来は『岳人』の編集同人として活動した。 スポーツとしての登山を提唱した人物である。佐藤春夫に師事した俳人であり、江戸時代の故事習俗の考証家でもあった。
久保 勇(1908年〈明治41年〉10月28日 - 1990… 久保 勇(1908年〈明治41年〉10月28日 - 1990年〈平成2年〉4月8日)は、徳島県出身の剣道家、銃剣道家、教育者、大日本帝国陸軍近衛師団。柳生神影流第十一世、久武館道場第三代館長、剣道七段範士、銃剣道八段範士。陸軍戸山学校卒。 徳島県阿波郡市場町(現阿波市市場町)出身。大日本帝国陸軍近衛師団所属。近衛師団では中隊・大隊・連隊のいずれも銃剣道一位の実績を残す。近衛師団が全国の選抜された兵から編成されることを考慮すると日本有数の腕前である。当時、近衛師団の剣道指南中であった柳生神影流第十世であり大日本忠孝館道場館長の久保義八郎の目にとまり、娘婿として迎えられ大日本忠孝館道場にて柳生神影流を伝授される。
小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1… 小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1979年3月8日)は、日本の小説家、教師。 山梨県北巨摩郡穂足村大豆生田(現・北杜市須玉町)生まれ。1903年(明治36年)に江草村の本家から分家した家で、四男として生まれる。母は津金村の漢方医飯島家の娘。小尾家は農家で、父は国定教科書販売を営んでいたが1912年(大正元年)に破産したため一家で甲府市へ移り碁会所をはじめるが、母は幼い十三らを連れて善光寺町へ別居し、小作業や養蚕で生計を立てる。 1923年(大正12年)に甲府商業学校に入学するが、翌年には退学して長野鉄道局教習所電信科へ入所する。その後、職を転々とし農民組合運動にも関わり、日本共産党の影響下にあった全農支部青年部書記にもなっている。
松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 19… 松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。 京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。
松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 198… 松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 1987年)は、日本の美術評論家である。 京都府宮津市出身。東京帝国大学卒業。南画鑑賞会に勤務しながら美術評論をはじめる。戦後はソビエト美術に関して造詣を深め、『ソヴェト美術論』(1957年)などの著書がある。1964年、東京造形大学の教授に就任、1979年までその任にあった。日本美術会の会員でもあった。 永井潔は、松谷の著書『現代美術論』(新日本出版社、1986年)の帯で、「美術にとり憑かれたかのような労を惜しまぬ鑑賞と探求」と、松谷の仕事を評価している。 『現代美術論』(ISBN 4-406-01360-1)の作者略歴と作品解題 この項目は、美術・芸術に関連した書きかけの項目です。
最所 フミ(さいしょ ふみ、1908年10月25日 - 19… 最所 フミ(さいしょ ふみ、1908年10月25日 - 1990年)は、日本の評論家、翻訳家。 大阪府出身。津田英学塾(現津田塾大学)卒、ミシガン大学、同大学院に学び、NHK海外局で英語ニュースの仕事をする。海外局の同僚にアイバ・戸栗・ダキノ(東京ローズ)がいた。1948年から1974年まで、JAPAN TIMES に映画評論を英文で執筆。加島祥造と同居したのち、鮎川信夫とともに住み結婚するが、このことは秘密にされ、鮎川の没後に明らかにされた。『荒地』の詩人たちの間のゴッドマザーのような存在で、英語力に優れたという。 1980年に発行された『日英語表現辞典』は没後の2004年にちくま学芸文庫に入ったが長らく入手困難になっていた。
川島 奈美子(かわしま なみこ、1908年10月22日 - … 川島 奈美子(かわしま なみこ、1908年10月22日 - 没年不詳)は、日本の女優である。川島 なみ子(かわしま なみこ)とも。本名高野 千代(たかの ちよ)。 1908年(明治41年)10月22日、東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 神田錦町の正則英語学校中等科(現在の正則学園高等学校)を4年次で修了し、1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。満18歳となる1926年(大正15年)、西本武二監督の『漁村の唄』で映画界にデビュー、同作で注目される。1927年(昭和2年)、同社が甲陽撮影所を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作拠点の一元化にともない、京都に異動する。
馬屋原成男(うまやはら しげお、1908年10月21日-19… 馬屋原成男(うまやはら しげお、1908年10月21日-1984年9月18日)は、刑法学者。東京出身。東京帝国大学法学部独法科卒。刑事法学専攻。弁護士となり、その後東京高等検察庁検事。1964年駒澤大学法学部教授、79年定年退任。 江戸時代のわいせつ文書の研究もおこないわいせつ罪についても論文がある。墓所は多磨霊園。
鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 1… 鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 10月20日 - 1984年 <昭和59年> 10月24日)は、日本の考古学者。位階は正五位。 福岡県浮羽郡田主丸町(現・久留米市)生まれ。1932年九州帝国大学法文学部史学科卒。1934年九州帝大法文学部助手、1936年講師。その後兵役につき、1946年公職追放、1951年解除。1952年九州大学文学部助教授を経て、1958年九州大学考古学講座初代教授。1972年に定年退官、名誉教授、太宰府に新設の九州歴史資料館の館長に就任、約10年間務めた。1965年レジオン・ドヌール勲章、1972年西日本文化賞受賞、1980年勲三等瑞宝章受勲。1984年死去。