上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、187… 上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、1878年〈明治11年〉8月18日 - 1929年〈昭和4年〉4月7日)は、日本の憲法学者。東京帝国大学教授。天皇主権説を主張する神権学派(君権学派)であり、天皇機関説と激しい論争を展開した。また、一君万民論の立場から普通選挙導入を主張した。学位は法学博士(1909年・文部大臣)。穂積八束に師事。教え子に竹内賀久治、安岡正篤、岸信介など。 1878年〈明治11年〉8月18日、福井県足羽郡福井町(現・福井市)生まれ。父上杉寛二は大聖寺藩(現・石川県加賀市)藩医だった。弟は大日本紡績(現・ユニチカ)や日本製粉(現・ニップン)取締役を務めた平野復男。
田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 197… 田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 1974年12月24日)は、日本の魚類学者であり、東京帝国大学の動物学の教授である。「近代魚類分類学の父」として知られる。魚類やサメに関する多くの論文を発表し、著名なアメリカ人科学者であるデイビッド・スター・ジョーダンおよびジョン・オターバイン・スナイダー(英語版)とともに日本の魚類に関する書籍(Jordan, Tanaka & Snyder 1913)を共著し、一般性の高い地方名に基づく標準和名を提唱した。財団法人板垣会顧問。 研究論文を約300編、書籍は50冊に及ぶ著作を行っている。
荒井 寛方(あらい かんぽう、明治11年(1878年)8月1… 荒井 寛方(あらい かんぽう、明治11年(1878年)8月15日 - 昭和20年(1945年)4月16日)は、近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。 紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。
一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1… 一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1920年11月26日)は、日本の天文学者・科学ジャーナリスト。日本で最初の変光星の観測者・研究者。ジャーナリストとしては『現代之科学』を創刊し、反アカデミズムの立場をとったことでも知られる。 青森県西津軽郡越水村吹原(現・つがる市)出身。学問を許さなかった父の理解を得られず、家出し、紆余曲折の後、東奥義塾などを経て旧制第二高等学校に進学。仕送りが途絶えたため、一時郷里で教員をし、1903年東京帝国大学理科大学星学科を卒業。その後東大大学院に進学して天文学を研究したが、私設天文台の建設を自らの使命とし、1905年私費で渡米しシカゴ大学ヤーキス天文台に入った。
伊藤 眞雄(いとう まさお、1878年〈明治11年〉8月9日… 伊藤 眞雄(いとう まさお、1878年〈明治11年〉8月9日 - 1937年〈昭和12年〉10月8日)は、日本の経済学者。兵庫県立神戸高等商業学校初代校長、元大阪商科大学教授。専門は応用経済学。 新潟県刈羽郡の士族・伊藤男松の長男として新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)に出生。 1897年(明治30年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1900年(明治33年)7月に第四高等学校を卒業、1904年(明治37年)3月に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1904年(明治37年)4月に堺中学校嘱託教授に就任、1905年(明治38年)4月に大阪高等商業学校嘱託教授に就任、9月に同校教諭に就任、1906年(明治39年)3月に堺中学校を退職、1912年(大正元年)9月から1915年(大正4年)2月までイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとドイツに留学、1917年(大正6年)2月に職制改正により大阪高等商業学校教授に就任、12月に同校校長事務取扱に就任、1918年(大正7年)4月に同校校長事務取扱を退任、1926年(大正15年)7月から1927年(昭和2年)11月まで欧米を視察、1928年(昭和3年)7月に大阪商科大学予科教授を兼任、1929年(昭和4年)3月に大阪商科大学教授に就任、同大学高等商業部教授を兼任、4月に同大学を依願退職、兵庫県立神戸高等商業学校校長事務取扱に就任、8月に兵庫県立神戸高等商業学校初代校長に就任。
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、18… 真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。X線に「レントゲン」の名を初めて使用し日本に定着させたことでも知られ、医聖(いせい)と呼ばれた。族籍は東京府士族。 愛媛県新居郡大町村(現・西条市大町)に生まれる。真鍋虎吉の長男。1882年(明治15年)、家督を相続した。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現・松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。
阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8… 阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8月7日 - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の西洋史学者である。宮城県仙台市の(旧制)第二高等学校第9代校長を務めた。 1878年(明治11年)に宮城県名取郡下増田村(現:名取市)で生まれる。父は下増田村初代村長阿刀田義潮(あとうだ よしとも)。宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業して、1902年(明治35年)に(旧制)第二高等学校(現:東北大学)に入る。大学卒業後、さらに東京帝国大学・京都帝国大学法学部に進学した。在学中、西洋学に興味を持った。東京帝大に在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿した。
第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)… 第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。 1878年(明治11年)8月7日、初代野村徳七の長男として生まれる。幼名は野村信之助。野村元五郎は弟。 1892年(明治25年)大阪市立商業学校(大阪高等商業学校の前身校。後の大阪商科大学、大阪市立大学、現在は大阪公立大学)に入学。予科在学中1895年(明治28年)に肺炎になり休学。本科への進学は断念し家業に専念する。 八千代商店(後の八千代証券)での見習いを経て、野村商店を引き継ぎ、両替から公債や株式を扱うようになり1907年(明治40年)、初代徳七の隠居に伴い信之助が徳七を襲名し弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。
工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5… 工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5日 – 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。徳島市長。最終階級は海軍主計大佐。 徳島県麻植郡西尾村(現在の吉野川市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。海軍に入って、中主計、大主計、主計少監、主計中監、主計大佐と累進し、海軍省経理局第二課長・海軍大学校教官、広海軍工廠会計部長を歴任した。1924年(大正13年)、予備役編入。 1928年(昭和3年)、東京市主事・商工課長に就任。1932年(昭和7年)に品川区長となり、1936年(昭和11年)からは下谷区長を務めた。 1937年(昭和12年)、徳島市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。
大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946… 大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946年12月5日)は、日本の幕末史学者。 1878年、山口県岩国で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1903年に卒業。 1906年、東京大学史料編纂掛補助となり、まず外務省の『大日本外交文書』の編集に携わった。1911年に文部省維新史料編纂会常置委員となった。1917年に維新史料編纂会編纂官となり、『概観維新史』の執筆の中心となった。1927年、欧米留学を命じられた。1935年より東京高等師範学校教授を兼任。その他にも在任中には京都帝国大学、東京文理科大学などの講師を務めた。 1936年、『国体の本義』編纂委員となり、国史担当。1939年、『概観維新史』編述主任に就いた。
野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 -… 野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 - 1936年1月23日)は、現在の栃木県真岡市(旧芳賀郡)出身で尾上部屋、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は直井 幸一。170cm、84kg。最高位は西前頭10枚目。 1897年1月初土俵(同期に玉椿憲太郎)、四股名は出身地の栃木県の旧国名の下野国(野州)より。1900年1月十両昇進。端整な顔立ちで女性に人気があり、1901年1月に入幕したが脱走。復帰後は相撲に精進していたが、1907年に再び脱走。常陸山谷右エ門が間に入って帰参を許されたのも束の間、5月に廃業した。 幕内5場所11勝19敗15休5分預 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年… 家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年)8月1日 - 1952年(昭和27年)10月24日)は、日本の医師。ハンセン病療養所である国立療養所宮古南静園、国立療養所沖縄愛楽園所長を務めた。クリスチャンで、現在でも宮古南静園に教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した。 1878年、新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。
4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈… 4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈明治11年〉7月30日 - 1969年〈昭和44年〉8月8日)は、愛知県知多郡内海(現在の南知多町)出身の実業家。南知多町名誉町民(第1号)。出生名は内田 佐太一(うちだ さだいち)。 1869年(明治2年)には2代目内田佐七によって、内田家の本宅(現在の尾州廻船内海船船主 内田家)が建てられている。1878年(明治11年)7月30日、愛知県知多郡内海字南側39番地にて出生した。父は3代目内田佐七、母はりつ。内田家の長男である。1883年(明治16年)には3代目内田佐七が30歳で早世したため、6歳の幼さで家督を相続し、4代目内田佐七を襲名した。
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27… 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
平井 数馬(ひらい かずま、1878年7月26日 - 189… 平井 数馬(ひらい かずま、1878年7月26日 - 1896年1月1日)は、日本の台湾統治初期における教育者で、台湾での近代教育の先駆者の一人。熊本県出身。台湾での活動は短期間に終わったが、その間に台湾の教育制度の基礎を築く重要な役割を果たした。 現在の宇城市に生まれる。 済々黌を卒業。16歳で高等文官試験に合格し、1895年に台湾総督府の通訳官として台湾に赴任した。中国語に堪能だったとされる。 1895年の日本による台湾領有開始とともに、平井は台湾での教育事業に従事。台湾総督府民政局学務部において、台湾人への日本語教育と日本人への台湾土着言語学習の必要性を提唱し、相互理解と混和を目指す教育政策に携わった。
出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25… 出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25日 - 1947年(昭和22年)8月19日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、在アメリカ合衆国日本大使、貴族院勅選議員、参議院議員。位階は正三位、勲等は勲一等。 岩手県第一大区一小区仁王村(現盛岡市梨木町)で旧盛岡藩藩士の次男として生まれる。旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校の前身)卒、1902年旧制東京高等商業学校(一橋大学の前身)専門部貿易科卒業。同期に山中千之元国際連盟委任統治委員、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。 1902年、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。京城在勤、ドイツ在勤、政務局第一課長を歴任。
原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年… 原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年1月4日)は、岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市藤戸町)出身の実業家、地方政治家。旧姓は星島。号は彰邦。倉敷市名誉市民。 実業家として、倉敷紡績(クラボウ)専務、中国民報社(現在の山陽新聞社)役員を務め、大原孫三郎の右腕として実業界で活躍した。 1945年(昭和20年)に辞任するまで系列の奨農土地会長、倉敷絹織(現在のクラレ)取締役、中国信託社長、岡山合同貯蓄銀行頭取、中国銀行取締役などを兼任した。 また1912年(明治45年)から郡議、町議を務め、1918年(大正7年)から1924年(大正13年)までは倉敷町長も歴任した。 1913年(大正12年)に蔵書を寄贈し倉敷旭町小学校(後の倉敷東小学校)内に倉敷図書館を設立。
厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 -… 厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 - 1958年9月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。
今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月1… 今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月19日 - 1958年(昭和33年)12月3日)は、明治後期から昭和前期の政治家、華族。貴族院議員。従二位勲二等、研究会所属。初名・棄彦。 旧堂上家の中山家から分家した今城家(子爵)の当主である。中山孝麿の長男で、今城定徳の婿養子。 学習院や同人社の童子科を中退し、1889年(明治22年)、慶應義塾幼稚舎へ転ずる。1892年(明治25年)12月12日に定政と改名した。1901年(明治34年)に慶應義塾大学部政治科第一回の卒業生となる。同窓には、堀内輝美、久田宗作、松村松太郎らがいる。 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。
山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1… 山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1964年11月19日)は、日本の教育者。駿台グループの創業者でもある。 1878年(明治11年)7月18日、鳥取県で生まれる。1902年(明治35年)に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラル・アーツ・カレッジとして有名なアマースト大学やハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年(大正7年)に東京高等受験講習会(駿台グループ)を神田錦町に設立する。 受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。
昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958… 昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958年11月22日)は、日本のロシア文学者。正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力した。 奄美群島加計呂麻島実久村芝(現鹿児島県大島郡瀬戸内町)生まれ。本名・直隆。 島の小学校を出ると鹿児島に行き、鹿児島正教会に通い間もなく洗礼を受けた。聖名はパウェル。 1895年、上京。1896年、日本正教会の教育機関である東京の正教神学校に入学。1903年、同校を卒業。在学中から評伝『露国文豪 ゴーゴリ』を執筆し、明治37年(1904年)刊行。卒業と同時に正教神学校講師として心理学・論理学を講じた。
島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日… 島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉2月14日)は、男爵島津長丸(旧宮之城領主)の夫人。男爵島津珍彦(旧重富領主)の娘で、母は島津斉彬の四女・典子。正五位勲四等。不敬罪に問われ検挙された。 明治22年(1889年)華族女学校に入学し、同28年(1895年)卒業。翌年島津久治の遺児・長丸と結婚し、2男4女を産む。夫長丸は教育熱心で、特に女子教育の必要を痛感し、同29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校の前身校のひとつ)を創立した(校長・島津サエ子)。同40年(1907年)治子は同校第3代校長に就任し、経営不振に陥っていた同校の立て直しのため一大改革に着手し、薩摩古来の美風を尊重した良妻賢母の女子教育を推進し、入学者も増加して発展を遂げ、鹿児島の私立学校の先駆的な役割を果たした。
岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日… 岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。北海道釧路市長。 熊本県下益城郡隈庄町(現在の熊本市南区)出身。日本大学に学び、1907年(明治40年)11月に文官高等試験に合格した。熊本県属、同警視、香川県事務官、同理事官・視学官、福島県警察部長などを歴任した。1919年(大正8年)に海軍事務官・臨時南洋群島防備隊民政部附となり、翌年からは台湾総督府に転じ、台北州警察部長、新竹州内務部長、警務局警務課長を歴任した。 退官後の1926年(大正15年)1月18日に釧路市長に選出された。1月20日に就任、市の基盤整備に尽力し、1927年(昭和2年)6月7日に市長を退任した。
塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 … 塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 - 1962年〈昭和37年〉6月3日)は、日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。70代で30代の元芸妓を妻にし、老いらくの恋と騒がれた。 東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業。優等賞を下賜された。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる。 1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う。
里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月… 里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月5日 - 1952年(昭和27年)8月3日)は、日本の実業家、社会教育家。大丸社長、大阪ユネスコ協会会長などを務めたほか、大阪夕陽丘学園高等学校および大阪夕陽丘学園短期大学の源流となる大丸洋裁研究所を創設した。 現在の千葉県山武市松尾町に生まれる。1882年、日本基督教会で受洗する。1903年、慶應義塾大学部理財科を卒業。同大学部助手に就き、直後、助手兼舎監となる。 1908年、三越に入社。1919年、業界視察のために欧米に出張する。1921年、三越を退社し、国際労働機関の会議に商業使用人顧問として出席する。 1923年、大丸の上席専務取締役として入社。
中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7… 中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7月5日 - 昭和36年(1961年)11月30日)は、明治時代から昭和にかけて活躍した四条派の日本画家。 東京四谷で、旧佐賀藩士の司法省検事・中島盛有(藤次郎)の長男として生まれる。本名・次郎。明治35年(1902年)7月に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。秋圃は川端玉章に師事し円山派を学ぶ。納富介次郎の勧誘で、あるいは定塚武敏『富山の美と心』(桂書房、1990年)に録された次郎の長女・久栄の証言によれば、父と同じく佐賀出身の大隈重信より『三年のみ』と勧められ、同年7月に富山県高岡市の県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)に赴任する。
田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 194… 田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本の彫刻家。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した。福井県出身。 1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学、在学中は正木直彦、高村光雲に師事。 卒業後は院展、帝展などで入賞を繰り返した。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える。生前は詩人室生犀星と親しかった。 北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない。 碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像(以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月に金属供出され、戦後1948年(昭和23年)10月に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行ったところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している。
佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2… 佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日)は、日本の建築家。 早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した。 作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった。 佐藤の作品であることが確認されている物件は223件あり、2か月に1件のハイペースで設計していた計算になる。
三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2… 三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、明治・大正・昭和時代の日本の実業家。特に「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者として著名。
三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 … 三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 - 1975年(昭和50年)7月31日)は、日本の牧師、富士見町教会の第4代目主任牧師である。 1878年高知県長岡郡新改村に生まれる。1899年大阪南教会で鈴木寿一から洗礼を受ける。1902年に明治学院神学部に入学したが、中退する。 1904年4月に日本基督教会の教師試補試験に合格し伝道師に准允される。その後、福井、高槻、大連の教会主任を務めた。1908年渡米してイリノイ州オマハ神学校とプリンストン神学校で学ぶ。 1913年2月に大連教会主任となる。1927年南廉平の後を次いで、富士見町教会牧師に就任する。1948年に辞任し、名誉牧師になる。
小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - … 小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - 1946年4月20日)は、現在の富山県砺波市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は安ヶ川 芳太郎。164cm、110kg。最高位は西前頭2枚目。 1898年1月初土俵、1903年十両昇進。この頃は将来の力士と期待されたが、立合いが悪い力士だった。1905年1月入幕を果たし、2枚目まで進んだが病を得て十両に陥落。1911年2月限りで廃業。その後は輪島に住み、相撲指導行脚をした。
倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈… 倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈明治11年〉7月 - 1942年〈昭和17年〉2月4日)は、日本の教育家。学習院名誉教授。族籍は鳥取県平民。位階は正三位、勲等は勲二等。 島根県簸川郡上津村大字上島字和久輪(現・出雲市上島町和久輪)・渡部桑右衛門の四男、渡部金三郎の弟。松江生まれ。 松江中学校、第四高等学校を卒業。東京帝国大学に入り、在学中鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となる。1904年に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。1925年に家督を相続する。 宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる。秩父宮、高松宮、三笠宮などの教育に当る。
山崎 真雄(やまさき まさお、1878年(明治11年)7月 … 山崎 真雄(やまさき まさお、1878年(明治11年)7月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 熊本県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1912年(大正元年)に高等文官試験に合格した。北海道庁属に務めた後、朝鮮総督府事務官、咸鏡北道第二部長、江原道第二部長、警務局保安課長、中枢院書記官を歴任した。またシベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部政務部嘱託を務めた。1928年(昭和3年)、大邱府尹に就任した。
矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月3… 矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月30日 - 1908年(明治41年)10月16日)は、日本の発明家。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ機械式計算機を発明し、これらの製造、販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った鳥類の飛翔を研究し、動力航空機の発明を試みたが31歳で没した。 福岡県上毛郡黒土村(現在の豊前市)で、後に岩屋の村長となった父、道一、母、タミの長男として生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:福岡県立育徳館高等学校)に進んだが鳥の飛翔に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し大阪へ出た。大阪で数学、工学や語学などの知識の必要性を痛感し、英国人の私塾にもかよって学習したと伝えられる。
齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1… 齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1960年4月14日)は、日本における発酵微生物学の基盤を作った細菌学者。大阪帝国大学名誉教授、大阪醸造学会会長、理学博士。 戦前、国内や中国、朝鮮、満州に生息する微生物の分類同定を行ない、黴類で28種、酵母菌で37種、細菌で27種もの新種を発見し報告した。菌類による発酵過程での生理機構やその生殖現象についても研究を行なった。また微生物に関する多数の専門書や啓蒙書を著した。 金沢市に生まれる。父親は斎藤深了。1897年、第四高等学校第2部を卒業し、東京帝国大学理科大学植物学科進学。1900年、東京帝国大学大学院植物学研究科植物生理学専攻進学。
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1… 木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。追贈九段。関根金次郎十三世名人門下。岡山県児島郡木見村(現・倉敷市)出身。 古鉄商の子として生まれる。明治19年、数えで9歳のころ、家族と神戸に移る。 二十歳頃までは実家にいて、家業のかたわら、賭け将棋をしていたらしい。数えの19歳の頃、後の十三世名人関根金次郎に四枚落ちで一ひねりされ、将棋の勉強を始める。1914年、家業を捨て東京に出て、関根金次郎門下に入門。プロ棋士となる。 第一次世界大戦後に古鉄の相場が再び上昇したため、大阪に戻り古鉄商を再開する。しかし将棋と力仕事の両立が難しい事から、古鉄商をやめて棋士の道を歩む。
紺野 九右衛門(九右衞門、こんの くえもん、1878年(明治… 紺野 九右衛門(九右衞門、こんの くえもん、1878年(明治11年)6月22日 - 1932年(昭和7年)8月12日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・喜太郎。 福島県信夫郡井佐野村(平野村大字井佐野、飯坂町を経て現福島市飯坂町平野)で、農業、先代・紺野九右衛門の長男として生まれる。1920年(大正9年)家督を相続し九右衛門を襲名し、農業を営む。 1893年(明治26年)福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)を卒業。その後、仙台数学院(現東北高等学校)で学んだ。消防組頭、福島税務署管内郡部所得調査員、福島市共立福島病院組合会議員、平野村農会議員などに就任。若いころから政治活動に熱心で、立憲民政党支部幹事長となり、鈴木寅彦の側近として活躍。
藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日… 藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日 - 1923年7月15日)は、現在の福島県二本松市出身で藤島部屋、尾車部屋に所属した元大相撲力士。本名は神田 久助。7代藤島。165cm、71kg。最高位は西前頭3枚目。 魚店に奉公するも相撲好きで年寄藤島甚助に勧誘され、1895年入門。1895年5月序ノ口、藤島部屋は稽古場がなく、出稽古として尾車部屋に通い当時幕下だったのちの大関・荒岩の指導を受け、1901年1月十両昇進。1904年1月入幕を果たす。1901年5月、1904年1月に太刀山峯右エ門と、1905年5月に大砲万右エ門と引き分けている。藤見嶽の取り口を大関朝汐は「力士の中でも藤見嶽くらい相撲上手な者はいない。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 -… 下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合の創始者、また労働運動や農民運動の指導者。下中芳岳ともいう。 1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村(現・丹波篠山市)に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦女新聞』の編輯に携わる。1910年に中等教員検定試験教育科に合格し、1911年 - 1918年、埼玉県師範学校の嘱託教師となる。1919年(大正8年)、啓明会を結成(翌1920年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。
井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6… 井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6月10日 - 昭和30年(1955年)11月2日)は、日本の経済学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。位階は正三位。 東京府士族。1897年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1901年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1903年同校専攻部卒業。1904年福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)教諭。1905年市立大阪高等商業学校(現大阪公立大学)教諭。 1908年 神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1910年から1913年まで商業学研究のためアメリカ合衆国、ドイツ帝国、イギリスに留学。1911年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授。
日野 熊蔵(ひの くまぞう、1878年6月9日 - 1946… 日野 熊蔵(ひの くまぞう、1878年6月9日 - 1946年1月15日)は熊本県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍歩兵中佐。根っからの発明家でもあり、日本で初めて飛行機を操縦して空を飛んだパイロット。日本語の他、英・仏・独の計4ヶ国語が話せたとされる。 1878年(明治11年)熊本県球磨郡人吉町(後の人吉市)にて旧相良藩士・日野広一の長男として生まれる。キリスト教系の熊本英学校を出た後軍人の道に進み、1898年(明治31年)に陸軍士官学校(10期)を卒業する。 1904年(明治37年)、日野式自動拳銃を発明。知人で投資家の小室友次郎と連名で日本、イギリス、アメリカ他の各国で特許を取得し市販を開始するが、構造上の欠陥から2度の暴発事故を起こし、自身の左手の指と背中を撃ち抜かれる重傷を負う。
荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1… 荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1日 - 1943年(昭和18年)6月1日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)。弁護士。 三重県多気郡相可村(現在の多気町)出身。1905年(明治38年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、農商務属となった。統監府が設置されると書記官となり、朝鮮総督府書記官を経て、1917年(大正6年)に朝鮮総督府総務局長に就任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、第一東京弁護士会所属の弁護士となった。
伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 -… 伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 - 1936年〈昭和11年〉8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍造機中将。 京都府で伊藤正信の四男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学工科大学舶用機関科を卒業し、海軍中技士となる。海軍機関学校教官などを経て、1923年(大正12年)佐世保海軍工廠造機部長となる。1925年(大正14年)には神戸艦政本部監督官となる。1929年(昭和4年)海軍中将となり広海軍工廠長を務めた。 1930年(昭和5年)、海軍技術研究所長兼海軍技術会議員に就任した。 1936年(昭和11年)3月死去。死去に際し祭資が下賜されたほか、同年3月25日の葬送に際しては勅使の遣いがあり幣帛を下賜された。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月2… 徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月26日 - 1951年(昭和26年)10月5日)は、日本の実業家、相場師。徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長、日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。 山梨県出身。旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社。入社後頭角を現し、3年後に支配人就任。徳田商会創業者の徳田孝平の婿養子となり、ロンドンに3年間留学。その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学ぶ。 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任。
今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月2… 今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日 - 1951年(昭和26年)6月30日)は、衆議院議員、弁護士。法学博士。 愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ。今井角次の二男。1897年に愛媛県立松山中学校を、1900年に第一高等学校を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。さらに同大学院で国際法を専攻。修了後、東京地方裁判所判事に任命された。1908年、清の招聘で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した。 1914年、帰国して判事を退官し、大阪で弁護士の業務に就く。同年12月24日に法学博士の学位を授与された。1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した。