室谷 藤七(むろたに とうしち、前名・藤太郎、1882年〈明… 室谷 藤七(むろたに とうしち、前名・藤太郎、1882年〈明治15年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の商人(材木商)、アマチュアゴルファー、実業家、兵庫県多額納税者、神戸商工会議所議員。 兵庫県人・先代藤七の長男。1906年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1912年、家督を相続し前名・藤太郎を改め襲名した。竹木材商、材木問屋、製竹輸出業、クレー製造業を営む。 会社の重役であり、室谷商店社長、室谷工業会長、大平鉱山会長、太平鉱山社長、神戸果実青物市場取締役、廣野ゴルフ倶楽部、大日本塩業各監査役などをつとめた。 アマチュアゴルファーとしても知られた。趣味は武道、ゴルフ。宗教は浄土宗。兵庫県神戸市須磨区在籍で、住所は神戸市須磨区離宮前、同区大黒町。
中島 覚之(なかじま さだゆき、1882年(明治15年)10… 中島 覚之(なかじま さだゆき、1882年(明治15年)10月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。旧名は秀太郎。 佐賀県藤津郡八本木村(現在の鹿島市)出身。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。司法官試補・釜山地方法院在勤、京城地方法院判事、税関監視官・事務官・仁川税関監視課長・税務課長、平安北道財務部長、仁川府尹、専売局事務官・大邱専売支局長、全州専売支局長などを歴任した。 1927年(昭和2年)、台湾総督府に転じ、専売局参事・煙草課長、高雄州内務部長、新竹州内務部長を務めた。
内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967… 内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967年8月21日)は、彫刻家・日本芸術院会員。 1882年(明治15年)、島根県飯石郡吉田村(現・雲南市)に生まれる。上京して高村光雲に師事、1904年(明治37年)、東京美術学校選科卒。文展出品ののち、1914年(大正3年)、日本美術院同人、1915年、再興院展に出品、1919年、脱退。1921年(大正10年)、帝展審査委員、1927年(昭和2年)、帝国美術院会員、1929年(昭和4年)、日本木彫会を設立し主宰する。戦後は日展に出品し日本芸術院会員。1952年(昭和27年)、日本木彫会再興、1958年(昭和33年)、日展顧問、1965年(昭和40年)、勲三等瑞宝章受章。
小林 橘川(こばやし きっせん、1882年〈明治15年〉10… 小林 橘川(こばやし きっせん、1882年〈明治15年〉10月1日 - 1961年〈昭和36年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。名古屋市長を3期務めた。 滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)にて漢方薬商、山本藤右衛門の三男として生まれた。幼名は音次郎。1884年(明治17年)、滋賀県野洲市北桜の浄土宗多門寺の小林麗海の養子となり海音と改名した。その後、浄土宗高等学院(現大正大学)入学するが中退。小学校教員、京都府内の極楽寺住職を経て、ジャーナリストとしての才覚を発揮し1905年(明治38年)には「近江新報」主筆となり、県政批判の筆を揮った。1911年(明治44年)名古屋新聞に転じ1914年(大正3年)より「名古屋新聞」主筆を経て、1942年(昭和17年)政府の指導で「新愛知新聞」と合併した「中部日本新聞(現中日新聞)」の取締役となった。
本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30… 本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30日 - 1944年(昭和19年)8月26日)は、大正期から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した建築家。日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとり。
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月… 鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 1882年(明治15年)9月29日、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。 1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号(どちらの雑誌も北隆館)に掲載される。
片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月… 片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月26日 - 1949年(昭和24年)3月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。 東京府神田駿河台(現:東京都千代田区)で海軍主計官・片岡直輝の長男として生まれる。1893年(明治26年)父の大阪府書記官就任に伴い大阪に移住。大阪府第一中学校、第七高等学校造士館を卒業。東京帝国大学法科大学に入学したが、京都帝国大学法科大学に転じ、1910年(明治43年)7月、同大学を卒業した。 卒業後、父が役員を務めていた阪堺電気軌道に入社し、一社員として現場での働きを経験して庶務課長に昇進。3年ほど務め、今後の経営者としての働きのため金融の経験が不可欠と考え、近江銀行に転じた。
釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 19… 釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 1945年8月6日)は、日本の作家・新聞記者である。本名永井栄蔵。別号として永井瓢斎がある。 1882年(明治14年)9月26日、島根県安来町西灘に生まれる。父親は永井彦衛門。永井家は雲伯で産出する砂鉄鋼を集出荷する鉄問屋であり、酒造業も営む地域の素封家であった。しかし、瓢斎が生まれた頃には、家運は下向き気味となっていた。松江中学校に入学したのち、万寿寺の勝平宗潤の会下に参じる。中学時代より、瓢斎の号を用いるようになる。卒業後は早稲田大学に進学するが、同郷の開業医である足立健三郎の援助を受け、第三高等学校に転学する。同校で「賄征伐の歌」を作曲。
寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日… 寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父寺島良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。妻は尾本知道の四女悦子 。 和歌山中学に進んだ寺島は、中学の先輩で海軍兵学校に在籍していた岡本米次郎、野村吉三郎の生徒服姿に憧れ、海軍兵学校への進学を決めた。志願者1374名中合格者は200名で、中学四年修了で受験した寺島の席次は16番であった。寺島は学年が進むとともに席次を上げ、卒業席次は4番である。
三浦 碌郎(みうら ろくろう、1882年(明治15年)9月2… 三浦 碌郎(みうら ろくろう、1882年(明治15年)9月23日 - 1969年(昭和44年)12月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚、政治家。立川市長。 三浦覚の長男として京都府で生まれる。第三高等学校を経て、1908年10月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。1909年、内務省に入り警視庁警部となる。1911年11月、高等文官試験行政科試験に合格。 以後、永代橋警察署長、警視庁警視、深川警察署長、扇橋警察署長、四谷警察署長、熊本県宇土郡長などを歴任。 1919年6月、台湾総督府に転じ、同府警視兼同府警務官・監察官となる。同府事務官・警務局衛生課長、同府州事務官・新竹州内務部長などを経て、1924年12月、高雄州知事に就任。
田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治1… 田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治15年〉9月23日 - 1963年〈昭和38年〉12月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(14期)、国務大臣・衆議院副議長。 現在の大阪府富田林市に生まれる。早稲田大学を中退後、報知新聞記者を経て、1916年故郷の大阪府から衆議院補欠選挙に繰り上げ当選。以後当選14回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1939年阿部内閣において逓信政務次官を務める。 戦後は日本進歩党の結党に参加し幹事長を務める。1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。同年新憲法下初の衆議院副議長となる。
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治1… 竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。 北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。
鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9… 鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9月21日 - 1953年(昭和28年)1月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、延岡市長。 宮崎県臼杵郡、現在の延岡市で、衆議院議員・小林乾一郎の二男として生まれる。1901年(明治34年)、鈴木シマの入夫となり家督を相続した。 1904年(明治37年)明治法律学校(現明治大学)卒業。陸軍三等主計、岡富村議、宮崎県議、県農会長等を経て、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で宮崎県より衆議院議員に初当選(民政党)。以後3回当選した。また、第2,3,7代の延岡市長を務めた。実業界に於いては、延岡電気・神都電気興業各取締役等を務めた。
池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 19… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 1953年11月9日)は、日本の冶金学者で鉱山技術者。前半生は藤田組(現・DOWAホールディングス)で製錬技術改良を手がけ、学術に転じた後半生は秋田鉱山専門学校 (旧制)校長を務めた後、同校を母体とした秋田大学の事実上の初代学長となった。 現在の秋田市南通亀の町(旧中亀ノ町)に生まれる。父の孫一は県内の田子内鉱山の経営者となる。孫一は元は仙北郡の出身で、謙三が生まれた年に秋田に出て企業の経営に加わり、1886年に田子内鉱山の運営を始めた。 秋田師範附属小学校(現・秋田大学教育文化学部附属小学校)から旧制秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に進む。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
中村 謙作(なかむら けんさく、1882年(明治15年)9月… 中村 謙作(なかむら けんさく、1882年(明治15年)9月16日 - 1966年(昭和41年)8月31日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(1期)、西尾町長(3期)などを歴任した。 1901年(明治34年)3月、愛知県第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1920年(大正9年)、西尾町会議員に就任。1924年(大正13年)から1939年(昭和14年)まで西尾町長を務めた。町長時代には愛知県立西尾中学校(現・愛知県立西尾高等学校)の誘致を行っている。 1954年(昭和29年)7月5日、初代西尾市長の千葉蝶二が任期中に死去。これに伴って同年8月28日に行われた市長選挙に立候補し、無投票により初当選した。
神嵜 重太郎(かんざき じゅうたろう、1882年9月13日 … 神嵜 重太郎(かんざき じゅうたろう、1882年9月13日 - 1942年5月22日)は、現在の兵庫県尼崎市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は寺内 重三郎。166cm、75kg。最高位は東前頭13枚目。 愛嬌があって、重太と親しまれた力士。1901年1月初土俵。その後応召され日露戦争に従軍した。復帰後1907年1月十両昇進。1908年5月入幕した。幕内在位は3場所で幕下まで陥落したが、1915年6月まで相撲を取った。廃業後は旧両国国技館内に売店を出店した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
郡 茂徳(こおり しげのり、1882年〈明治15年〉9月12… 郡 茂徳(こおり しげのり、1882年〈明治15年〉9月12日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。弁護士。 三重県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して三重県属となり、1913年(大正2年)高等文官試験に合格した。三重県警視、同員弁郡長、同理事官、朝鮮総督府事務官、福岡県事務官、長崎県書記官、愛媛県警察部長、高知県警察部長、宮崎県内務部長、香川県内務部長、福岡県学務部長を歴任した。1932年(昭和7年)、新竹州内務部長に転じ、台湾総督府文教局学務課長、総督官房審議室事務官を歴任した。 退官後、台中州会議員、台湾野蚕代表、大和村建築信用購買利用組合長、台中州醤油工業株式会社社長、台湾青果株式会社常務、下関中央青果株式会社取締役を務めた。
近藤 順一郎(こんどう じゅんいちろう、1882年〈明治15… 近藤 順一郎(こんどう じゅんいちろう、1882年〈明治15年〉9月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者。族籍は鳥取県平民。 鳥取県日野郡根雨村(のち日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤千八郎の長男。商業、金融業を営む。根雨商工会頭として根雨町における商工業発展に貢献するほか根雨町学務委員、米子税務署相続税審査員並びに所得税調査委員等の公職を兼ねる。 大正醤油社長、日野郡是製糸、山陰銀行、雲陽実業銀行各取締役、松江銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は仏教。趣味は読書、碁。住所は日野郡根雨町大字根雨。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
黒木 勘蔵(くろき かんぞう、1882年9月10日 - 19… 黒木 勘蔵(くろき かんぞう、1882年9月10日 - 1930年10月8日)は、大正から昭和初期にかけての日本近世文学研究者。とくに、浄瑠璃および元禄歌舞伎に関する研究に多くの業績がある。 長野県諏訪郡玉川村(茅野市)に生まれる。旧制諏訪実科中学(長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を経て、1908年早稲田大学文学部哲学科卒業。師である高野辰之の下で、東京音楽学校邦楽調査部で近世邦楽を研究、1923年早稲田大学文学部講師。1925年東京高等師範学校教授。浄瑠璃および元禄歌舞伎を研究。 1930年10月8日、東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院に入院して盲腸の手術を受けた後、腹膜炎を起こして死去した。
赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月… 赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月10日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員、福岡県嘉穂郡庄内町長。 福岡県嘉麻郡綱分村(嘉穂郡庄内村、庄内町を経て現飯塚市)で赤松善五郎の二男として生まれる。福岡県立東筑中学校を経て、1904年10月24日、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日、陸軍歩兵少尉に任官。日露戦争に出征した。 歩兵第20連隊中隊長を経て、1917年11月27日、陸軍大学校(29期)を卒業。以後、 参謀本部附、第13師団参謀、歩兵第20連隊長、第12師団司令部附(長崎医科大学配属将校)、歩兵第42連隊長などを歴任。
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9… 逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。 新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生。 1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業。 1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任、1917年(大正6年)4月に大尉に任官、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊。
十二代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1882年(… 十二代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1882年(明治15年)9月9日 - 1946年(昭和21年)3月16日)は、日本の歌舞伎役者。八代目片岡仁左衛門の娘の子で、十代目片岡仁左衛門の養子。本名は片岡 東吉(かたおか とうきち)。東京・今戸出身。 1885年(明治18年)東京・千歳座(現在の明治座)で本名の片岡東吉で初舞台を踏み、その後二代目片岡土之助を経て1901年(明治34年)四代目片岡我童を襲名。 1936年(昭和11年)1月、東京・歌舞伎座『馬切』の織田信孝で十二代目片岡仁左衛門を襲名。この当時、東京歌舞伎では女形が不足していたため、関西歌舞伎の仁左衛門も招きを受け昭和9年(1934年)頃から拠点を東京に移し、六代目尾上梅幸を失った十五代目市村羽左衛門の相方を多く務めた。
6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日… 6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日 - 1934年5月6日)は、東京出身の落語家。本名は青木 鏡太郎。8代目助六は弟子で実子。 東京本郷に生まれる。生家は水戸徳川家直属の請負師だった。一時、静岡県沼津に住む。 尋常小学校を出てすぐ11歳で伯父の草履屋に奉公に出ていたがまともに勤まらなかった。15歳の1897年ごろに母の弟であった4代目柳亭左楽(オットセイの左楽)の門下に入って左太郎となる。約5年ほど前座修行を経て1902年に二つ目で左市に改名する。 1904年、5代目助六(後の3代目志ん生)門下に移って3代目都家歌六の名で真打に昇進する。その後日露戦争に従軍したが復員。
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日… 阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日 - 1928年〈昭和3年〉6月22日)は、日本の海軍軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 本名は阿武 信一(あんの しんいち)。別名義に「髭の少尉」、「虎髯大尉(こぜんたいい)」、「阿武激浪庵」、「怒濤庵少尉」、「黒面中尉」、「黒面魔人」などがある。ただし、これら別名義に関しては、河岡潮風など阿武の周囲の人物が用いていた場合もあり、これらの名義で執筆された文章の全てが阿武のものであるというわけではない。1928年(昭和3年)6月に、松野に改姓し松野 信一となる。
郡場 寛(こおりば かん、Kwan Koriba、1882年… 郡場 寛(こおりば かん、Kwan Koriba、1882年(明治15年)9月6日 - 1957年(昭和32年)12月15日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。旧姓白戸。 青森市浪打新町(現:栄町)にて津軽藩士の家に生まれる。父直世は酸ヶ湯温泉の開発者で、同地で温泉宿を経営。母フミ(旧姓三上)は薬草を中心に八甲田山の植物を採取して標本を作り、全国の大学や研究機関に送った功績がある。 1900年、青森県第一中学校(現在の青森県立弘前高等学校)を卒業。同年、旧津軽藩時代の旧姓郡場に改姓。第二高等学校を経て、1907年、東京帝国大学理科大学植物学科卒業。同大学院で三好学に師事し、生長現象と外部環境の関連など植物生理学の研究を行う。
豊田 珍比古(とよだ うずひこ、1882年9月5日 - 19… 豊田 珍比古(とよだ うずひこ、1882年9月5日 - 1965年1月20日)は、愛知県八名郡吉川村(現・新城市吉川)出身の郷土史家。 1882年(明治15年)9月5日に愛知県八名郡吉川村(現・新城市吉川)に生まれた。父親は豊田伊之吉。出生名は豊田伊三美(いさみ)であり、のちに珍彦(うずひこ)と、晩年には珍比古(うずひこ)と改称した。1909年(明治42年)に豊橋市に転居し、船町で薬種商を営んだ。本業と並行して東三河地方の郷土史研究も行い、1921年(大正10年)には豊橋郷土史友会を結成して主宰の立場となった。『豊橋市史』の編纂委員も務め、1954年(昭和29年)には豊橋市から『豊橋市制50年史』の編纂委員長を委嘱された。
鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2… 鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2日 - 1956年(昭和31年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 山形県出身。山形中学を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付を経て、1916年(大正5年)11月、歩兵少佐に昇進し歩兵第1連隊大隊長に就任。1918年(大正7年)6月、陸大教官に転じ、関東軍司令部付に異動。1921年(大正10年)4月、歩兵中佐に進級。
井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9… 井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9月2日 - 1966年(昭和41年)6月20日)は、日本出身の台湾宣教師である。 1882年(明治15年)、高知県幡多郡川崎村(現・四万十市)に生まれた。小学校は高等科で終了し、病院や村役場に事務員として勤務した。1900年に立身出世を願い、上京して昼間は郵便局に勤め、夜は大成学館で勉強に励んだ。この頃、メソジストの本郷教会に通い、内村鑑三の著作を読んで求道した。1903年より、中田重治の指導する神田の中央福音伝道館に通い、1903年6月中田より洗礼を受けた。1905年9月に東洋宣教会の聖書学院に入学し、聖書学院校長の笹尾鉄三郎より薫陶を受ける。
氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 … 氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 - 1942年6月27日)は、現在の富山県氷見市出身で稲川部屋に所属した元大相撲力士。本名は白石 弥之助。身長165cm、体重79kg。最高位は西前頭13枚目。 1901年1月初土俵、1908年5月十両昇進。十両を1場所で通過し、1909年1月新入幕を果たし3場所務めたが、十両、幕下と一気に陥落。1911年6月限りで廃業した。 浦嶋→氷見ヶ濱(1904年5月場所-) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
野田 鞆雄(のだ ともお、1882年〈明治15年〉9月 - … 野田 鞆雄(のだ ともお、1882年〈明治15年〉9月 - 没年不詳)は、日本の法律家、朝鮮総督府官僚。佐賀市長。 佐賀県に藤井鴻雲の二男として生まれ、野田常貞の養子となった。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。統監府検事、ついで朝鮮総督府検事となり、京城地方法院検事、大邱覆審法院検事、釜山地方法院検事、京城覆審法院検事、同地方法院検事を歴任した。1922年(大正11年)、府道事務官に転じ、忠清南道警察部長、咸鏡北道警察部長、全羅北道内務部長、黄海道内務部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官し、1931年(昭和6年)に佐賀市長に選出された。市長退任後は、奉天高等検察庁次長を務めた。
三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 … 三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 - 1968年(昭和43年)7月15日)は、日本の文部・内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長。
濱崎 秀(はまざき ひで、1882年(明治10年)9月 - … 濱崎 秀(はまざき ひで、1882年(明治10年)9月 - 没年不明)は、日本の実業家。 共同酒造、江田醸造研究所各株式会社常務取締役、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。 青森県士族、青木庄睛の六男として生まれる。1896年(明治29年)、濱崎芳雄の養子となり、1907年(明治40年)家督を相続する。同年東京帝国大学農科大農芸化学科を卒業後、大蔵省醸造試験所の技官・鹿又親氏の斡旋で、当時醸造業の近代化を目指していた大倉酒造11代目の当主・大倉恒吉が設立した大倉酒造研究所に入所。伏見醸友会の初代会長を勤める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15… 武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15年)8月29日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の華族、外交官、武者小路家第10代当主。爵位は子爵。位階は正二位。作家・武者小路実篤の兄。 子爵・武者小路実世の三男として東京府東京市麹町区(のち東京都千代田区)に生まれた。1887年(明治20年)に父・実世が肺結核で死去したため、武者小路家の家督と子爵位を継承した。 学習院高等科を経て、1907年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省入省。上海総領事館勤務をふりだしにルーマニア兼ユーゴスラビア、デンマーク兼スウェーデンの各公使に就任。さらに1933年(昭和8年)に駐トルコ大使に就任。
箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28… 箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28日 – 1964年〈昭和39年〉12月15日)は、日本の海軍軍人、電気工学者。工学博士。最終階級は海軍造兵中将。 兵庫県多紀郡篠山町(現在の丹波篠山市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。海軍造兵中技士となり、1933年(昭和8年)に海軍造兵中将に至った。その間、舞鶴海軍工廠部員、呉海軍工廠部員、造兵監督官、造兵廠研究部員・海軍大学校教官、航空機試験所所員、海軍技術本部部員・艦政本部部員、海軍技術研究所工作課長、同電気研究部長・艦政本部会議議員、特許局技師、海軍技術研究所所長・海軍技術会議議員、軍令部出仕を歴任した。
寿原 英太郎(すはら えいたろう、1882年(明治15年)8… 寿原 英太郎(すはら えいたろう、1882年(明治15年)8月27日 - 1957年(昭和32年)6月17日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、小樽市長。 北海道出身。富山県出身の寿原猪之吉の長男として生まれる。1906年(明治39年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。小間物洋品商を始め、1921年(大正10年)寿原商事を設立し社長に就任。その他、共成 、寿原産業、北洋無尽の各社長、小樽商工会議所議員、小樽市会議員などを務めた。 1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に北海道第1区から立憲政友会公認で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 1947年(昭和22年)4月、公選初代の小樽市長に就任し、1期在任して1951年(昭和26年)4月に退任。
千蔵 尚(ちくら たかし、1882年8月26日 - 1958… 千蔵 尚(ちくら たかし、1882年8月26日 - 1958年4月7日 )は、日本の教育者、岡崎市立(町立)高等女学校二代校長、岡崎市立(町立)図書館初代館長。明治・大正期における岡崎市の教育・文化向上に貢献した。旧字体表記では千藏 尙。 福岡県山門郡大和村(現:柳川市)で農家の三男として生まれた。地元の名門伝習館中学(現福岡県立伝習館高校)を1901年(明治34年) 3月に卒業。その後上京し東京高等師範学校(現:筑波大学)に進み、1906年(明治39年)3月に本科博物学部理科博物学科を卒業。卒業後は進学し母校研究科に在籍していたが、1907年(明治40年)4月に千蔵に新設の岡崎町立高等女学校( 現:愛知県立岡崎北高等学校)への誘いがあった。
伊藤 保平(いとう やすへい、1882年〈明治15年〉8月2… 伊藤 保平(いとう やすへい、1882年〈明治15年〉8月26日 - 1965年〈昭和40年〉6月7日)は、明治末から昭和期の酒造家、実業家、政治家。西宮酒造(現・日本盛)社長、参議院議員。旧姓・大岡、幼名・佐吉郎。 兵庫県武庫郡西宮町浜之町(現・西宮市)で、酒樽製造業・大岡佐平治の二男として生まれる。1892年(明治25年)4月、西宮町三号地の酒造業・伊藤米蔵の養嗣子となり、同年、保平に改名した。1906年(明治39年)4月、慶應義塾大学部理財科を卒業した。 同年4月、共同火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身のひとつ)に入社。1912年(明治45年)5月に家督を相続し、6月に西宮酒造取締役に就任した。
生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月… 生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月6日)は、日本の随筆家、評論家。政治・社会への風刺を得意とし、太平洋戦争中も軍部に対する皮肉の手を緩めることがなかった。 群馬県利根郡沼田町上之町(現・沼田市上之町)に生まれる。旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)、明治学院中学を経て早稲田大学英文科を卒業。在学中からトルストイに傾倒し、アナトール・フランスやドーミエの影響も受けた。 大学卒業の翌1907年(明治40年)に渋川玄耳の紹介で東京朝日新聞記者となる。さらにやまと新聞、大正日日に転じ、早稲田文学記者でもあった。当時のほとんどの雑誌・新聞に随筆、翻訳、評論、小説、雑文を書き、その風刺の効いた文章は読者の支持を集めた。
高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月… 高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月24日 - 昭和41年(1966年)6月15日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。
矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8… 矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。 文献によっては名前が「保次郎」となっているものもあるが、矢島が使っていた名刺や親族からの手紙などには「保治郎」が使われている。 群馬県佐位郡殖蓮村大字上植木(現・伊勢崎市本関町)の裕福な農家の三男に生まれる。群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退後、日露戦争に従軍。乃木希典率いる第三軍で旅順攻囲戦に参加し、突撃隊である白襷隊にも志願した。
高橋 義次(たかはし よしつぐ、1882年(明治15年)8月… 高橋 義次(たかはし よしつぐ、1882年(明治15年)8月23日 - 1969年(昭和44年)2月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県栗原郡畑岡村(現在の栗原市)出身。1904年(明治37年)に宮城県師範学校を卒業した後、5年間小学校訓導を務めていたが、日本大学英法科に入学し、1915年(大正4年)に卒業した。1917年(大正6年)に弁護士試験に合格して事務所を開き、東京弁護士会常議員、日本弁護士協会理事を務めた。また芝区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員に選出された。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1934年(昭和9年)、第2次東京市会疑獄(瓦斯疑獄)により東京地方裁判所で懲役4ヵ月・追徴金1500円の判決を受けたが、翌年の控訴審で無罪判決を受けた。
稲葉 道意(いなば どうい、1882年(明治15年)8月19… 稲葉 道意(いなば どうい、1882年(明治15年)8月19日 ‐ 1968年(昭和43年)3月20日) は、明治末から昭和期の僧侶、政治家。衆議院議員、真宗大谷派・岐阜信願寺住職。 岐阜県不破郡赤坂村(赤坂町を経て現大垣市)で生まれ、稲葉現意の養子となる。1908年(明治41年)真宗大学(現大谷大学)を卒業。岐阜信願寺住職に就任した。 真宗大谷派宗議会議員、同副議長、同議長を歴任。1937年(昭和12年)教化研究所の初代所長に就任。さらに、真宗大谷派参務、同内務局長、同教学局長を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に岐阜県全県区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
税所 篤秀(さいしょ あつひで、1882年(明治15年)8月… 税所 篤秀(さいしょ あつひで、1882年(明治15年)8月16日 - 1930年(昭和5年)7月10日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍鹿児島県。警察官僚・税所篤一の長男として生まれる。 1908年(明治41年)私立東洋大学を卒業。同年、東亜煙草に入社し大連販売所で勤務。その後、浪速銀行書記、十五銀行勤務となった。 父・篤一の死去に伴い、1914年(大正3年)6月30日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し死去するまで1期在任した。
成石 平四郎(なるいし へいしろう、1882年8月12日 -… 成石 平四郎(なるいし へいしろう、1882年8月12日 - 1911年1月24日)は、社会主義者である。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。 和歌山県出身。中央大学卒業。1906年頃より大石誠之助らと共に同県の新宮で社会主義運動を行うが、1910年の大逆事件で逮捕され、後に刑死した。享年30。 兄で雑貨商の成石勘三郎(1880年2月5日 - 1931年1月3日)も大逆事件で逮捕され、死刑判決後に無期懲役となり、1929年に仮釈放となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河野 省三(こうの せいぞう、1882年8月10日 - 19… 河野 省三(こうの せいぞう、1882年8月10日 - 1963年1月8日)は、日本の神道学者。國學院大學学長。埼玉県出身。号は紫雲。
貝塚 栄之助(かいづか えいのすけ、1882年〈明治15年〉… 貝塚 栄之助(かいづか えいのすけ、1882年〈明治15年〉8月10日 - 1947年〈昭和22年〉)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。三重県桑名市長。 貝塚卯兵衛の三男として三重県桑名に生まれる。父卯兵衛は米穀商および株式取引を生業とし桑名紡績を立ち上げた人物。1910年(明治43年)東京高等工業学校を卒業後、名古屋電灯に入社し技師として勤務する。1915年(大正4年)家督を相続し、松阪工業学校教諭に転じた。1918年(大正7年)高岳製作所社長を経て、1926年(大正15年)桑名瓦斯社長となった。1930年(昭和5年)桑名町助役に挙げられ、1934年(昭和9年)桑名町長を経て、1937年(昭和12年)6月22日、市制施行と同時に桑名市長に就任した。
塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、188… 塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、1882年〈明治15年〉8月5日 - 1963年〈昭和38年〉6月24日)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者、地主。香川県三豊郡仁尾町長。仁尾塩田(現・仁尾興産)社長。 衆議院議員を務めた塩田忠左衛門の三男。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)出身。塩田忠左衛門の三男。1903年4月、慶應義塾大学部理財科卒業。慶應では福沢諭吉に師事してその薫陶を受けた。貿易商森村組(現・日本陶器)に入社した。 1908年10月、森村組を退社して帰省。1925年、家督を相続し前名・賢二郎を改め襲名した。農業、金銭貸付業を営んだ。1927年1月、仁尾塩田株式会社の取締社長に就任した。
澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8… 澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8月2日 - 1973年(昭和48年)3月11日)は、日本の内務官僚、裁判官。最高裁判所判事。岐阜県出身。
澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年〈明治15年〉8… 澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年〈明治15年〉8月2日 - 1973年〈昭和48年〉3月11日)は、日本の内務官僚、裁判官。行政裁判所長官。最高裁判所判事。岐阜県出身。 1909年(明治42年)に東京帝国大学卒業。内務省に入省。福島県属。内務官僚として警察部長などを歴任。1918年(大正7年)5月から行政裁判所評定官をしていたが、1944年(昭和19年)2月に「軍閥はその本分にもとり政治、産業を壟断し、独善専横をきわめ、戦争終結の時期と方法につき無計画・無方針である。大東亜戦も完全にわがほうの負けだ。軍閥が自分勝手な戦争を始めて国民に迷惑をかけるのはけしからん」という趣旨の軍部批判をして東京憲兵隊に陸軍刑法違反で1945年(昭和20年)5月1日に拘束され、同年5月23日に保釈された。