足立 護(あだち まもる、1912年10月20日 - 199… 足立 護(あだち まもる、1912年10月20日 - 1993年10月21日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に川崎汽船に入社。 1958年5月に取締役に就任し、1961年6月に常務、1964年11月に監査役、1966年11月に再び取締役、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1976年5月に相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。。 1993年10月21日心不全のために死去。81歳没。
栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - … 栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - 1992年5月24日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。大分県出身。 1935年に京都帝国大学を卒業し、朝鮮銀行での勤務を経て、1946年に大蔵省に入省。1951年に京都銀行に転じ、1953年に常務に就任し、1972年に頭取に就任。1979年には会長に就任。 1992年5月24日肺炎のために死去。79歳没。
南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 19… 南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 1981年7月1日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 福井県大野市出身。1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社。1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1969年11月に専務、1974年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1976年11月に藍綬褒章を受章。 1981年7月1日、急性心不全のために死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多賀 秋五郎(たが あきごろう、1912年10月19日 - … 多賀 秋五郎(たが あきごろう、1912年10月19日 - 1990年5月15日)は、日本の東洋史学者。 岐阜県出身。1949年東京文理科大学史学科東洋史卒、東京教育大学大学院教育研究科博士課程教育史専攻満期退学、1962年「宗譜の研究」で文学博士。中央大学文学部助教授、1959年教授、1983年定年、名誉教授、国士舘大学教授。1978年紫綬褒章、1983年勲三等瑞宝章受勲。1985年「中国宗譜の研究」で日本学士院賞受賞。アジア教育史、中国の同姓・血縁の集団である宗族の系譜、ほか郷里の飛騨史も研究した。
山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19… 山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19日 - 1991年(平成3年)8月13日)は、日本の指揮者、作曲家。本名は和雄。和男、夏精(かせい)を経て、1968年に一雄と改名した。「ヤマカズさん」の愛称で親しまれ、朝比奈隆らと並んで日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり作曲家。東京芸術大学名誉教授。 東京府生まれ。学習院中等科2年の頃にピアノを独学で学び、作曲にも熱中した。学習院高等科へ進学するも東京音楽学校への進学を志して休学。1931年に東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科首席卒業ののち研究課程に進み、卒業後は同校で教鞭を取るようになった。在学中からクラウス・プリングスハイムに師事し作曲を学び、作曲関連の各種の賞を獲得。
川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - … 川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - 1998年)は、日本の民家研究家・画家。 東京生まれ。1932年大阪市立都島工業学校建築科卒。一級建築士。大林組に入り、住宅部長、大林ハウジング取締役を歴任。欧米、東南アジア諸国を歴訪し住居建築を研究。1990年第1回竹内芳太郎賞受賞。日本民族建築学会評議員、東京民芸協会会員、日本美術家連盟会員。
野田 良之(のだ よしゆき、1912年10月15日 - 19… 野田 良之(のだ よしゆき、1912年10月15日 - 1985年10月11日)は、日本の法学者、東京大学名誉教授。専門はフランス法、比較法。
瀬良 明(、1912年〈大正元年〉10月14日 - 没年不詳… 瀬良 明(、1912年〈大正元年〉10月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優。岡山県児島郡味野町[要出典]出身。本名は渡辺 章()。 広島県立福山誠之館中学を経て大阪外国語学校スペイン語部を卒業。 1935年(昭和10年)、大阪共同劇団の創立に参加し、久板栄二郎作『断層』や真船豊作『裸の町』などの舞台に出演。1939年(昭和14年)、今井正監督の『沼津兵学校』で映画初出演。劇団解散後の1941年(昭和16年)、大阪放送劇団創立に参加するが、翌1942年(昭和17年)に退団、上京して瑞穂劇団に参加し、終戦まで移動演劇を続けた。 戦後、大阪共同劇団出身であった田中友幸の誘いにより東宝の専属となり、黒澤明監督の『生きる』を始め多くの映画に出演。
森田 安次(もりた やすじ、1912年〈大正元年〉10月14… 森田 安次(もりた やすじ、1912年〈大正元年〉10月14日 - 1959年〈昭和34年〉8月11日)は、日本の書家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
穂積驚(ほづみ みはる、1912年10月13日 - 1980… 穂積驚(ほづみ みはる、1912年10月13日 - 1980年1月19日)は長崎県出身の小説家である。本名は森健二(もりけんじ)。
曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 20… 曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 2000年9月28日)は、日本の翻訳家・編集者。専門はフランス文学。本名・谷口 正元。明治大学教授などを歴任。 京都帝国大学文学部仏文科卒業。1955年に、休刊していた文芸誌『同時代』の再刊に参加。同志社大学、大谷大学各講師を経て、関西日仏学館教授、明治大学教養部教授などを歴任。 東京創元社編集長もつとめ、『ジャン・コクトー全集』を編纂した。息子は谷口正和。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - … 山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - 1997年7月17日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1936年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1959年に沖電気工業常務に就任し、1966年に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年11月に社長に就任。1978年6月に会長に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月17日心不全のために死去。84歳没。
浜名 志松(濱名 志松、はまな しまつ、1912年10月12… 浜名 志松(濱名 志松、はまな しまつ、1912年10月12日 - 2009年1月9日)は、日本の民俗学者、天草文化研究家、キリシタン研究家。 熊本県天草郡魚貫村(現・天草市魚貫町)出身。1936年より小学校・中学校教員、熊本県立本渡高等女学校(現・熊本県立天草高等学校)教諭、熊本県教育庁指導主事、天草教育研究所長、1972年天草町教育長。1959年天草文化賞、1987年信有社賞受賞、1991年熊日賞受賞、勲五等双光旭日章受章、1992年荒木精之賞受賞、1995年地域文化功労者文部大臣表彰受賞、1998年天草観光協会賞、日本観光協会九州支部長賞受賞。
吉田 宗雄(よしだ むねお、1912年〈大正元年〉10月10… 吉田 宗雄(よしだ むねお、1912年〈大正元年〉10月10日 - 1944年〈昭和19年〉12月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐(死後)。 佐賀県小城郡牛津町(のちの小城市)出身。海軍兵学校62期。1944年(昭和19年)12月30日、駆逐艦「呉竹」艦長としてバシー海峡において戦死。 禅林寺の長男として生まれる。旧制小城中学校(現佐賀県立小城高校)を経て、
島村 千枝子(しまむら ちえこ、旧姓:生越、1912年〈大正… 島村 千枝子(しまむら ちえこ、旧姓:生越、1912年〈大正元年〉10月7日 - 1976年〈昭和51年〉9月2日)は、日本のピアニスト。 元東京音楽学校教授。元武蔵野音楽大学音楽学部教授。元徳島文理大学音楽学部教授。 東京音楽学校ピアノ科卒業。東京都出身。息子は地震学者の島村英紀。 東京都出身。1937年(昭和12年)に東京音楽学校ピアノ科を卒業した。 1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)まで東京音楽学校で教鞭を執り、その後は武蔵野音楽大学音楽学部や徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 1976年(昭和51年)9月2日、死去。享年63。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
渋沢 言忠(しぶさわ あきただ、1912年10月6日 - 1… 渋沢 言忠(しぶさわ あきただ、1912年10月6日 - 1987年)は、日本の実業家。古河合名会社、新立川航空機常務(1954年 - ?)を務めた。 男爵・津軽行雅(1881年 - 1923年、細川行真の子で津軽承昭の娘婿)の三男で、実母は津軽理喜子(承昭の庶出子)である。養父は渋沢武之助、養母は渋沢(旧姓:福原)美枝(1894年 - 1976年)で、妻の渋沢昭子(1915年 - ?)は養父母の実子である。親戚に渋沢敬三(妻昭子の従兄)と渋沢雅英(敬三の長男)がいる。 妻の昭子が東京女学館出身であることから、東京女学館の理事を務めた。言忠没後は昭子の意向により、宗家当主の渋沢雅英がその職を引き継いだ。
安斎 政威(あんざい まさたけ、大正元年(1912年)10月… 安斎 政威(あんざい まさたけ、大正元年(1912年)10月6日 - 平成25年(2013年)1月8日)は、日本の牧師、福音派の指導者。 この項目は、キリスト教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:キリスト教/PJ:キリスト教)。
井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日… 井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日 - 2004年(平成16年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 1912年(大正元年)10月、岐阜県不破郡関原村にて野砲兵第18聯隊附岩田富士太郎砲兵少佐(のち砲兵大佐、陸士9期)の四男として生れる。岐阜県大垣中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科に合格する。1933年(昭和8年)7月には、陸軍士官学校本科(45期)を卒業。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて6番/335名という優秀なものだった。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1聯隊附となる。同聯隊には、終戦時に宮城事件の首謀者となる畑中健二(46期)も所属していた。
木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 19… 木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 1995年1月26日)は、日本の小説家。毎日新聞元編集委員。 1912年(大正元年)10月5日、徳島県海部郡牟岐町出身。 神宮皇學館(現皇學館大学)卒業後、毎日新聞に入社。 毎日新聞時代は新聞記者として数々の出来事の現場取材を経験。 毎日新聞中部本社報道部長、毎日新聞西部本社ラジオ報道部長、毎日新聞大阪本社整理部顧問を務め、毎日新聞東京本社及び大阪本社では出版局参与を務めた。 毎日新聞記者を務める傍ら、小説家としての活動を並行して進め、1960年(昭和35年)に『刀塚』が直木賞候補となった。 木本の代表作である『黒部の太陽』は、毎日新聞東京本社編集委員在任中の1964年(昭和39年)に、毎日新聞連載小説として発表した作品である。
伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4… 伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4日 - 1943年〈昭和18年〉8月21日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵。臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。 1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。 海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。 最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。 1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任。
豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - … 豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。井筒部屋→九重部屋→朝日山部屋所属。本名は上田 菊男(うえだ きくお)。最高位は東十両8枚目。得意技は突っ張り、右四つ、寄り。 大分県宇佐市出身。井筒部屋に入門し、1927年1月場所に初土俵を踏む。その後、同郷の大関・豊國福馬が独立した際に九重部屋に移籍した(その後朝日山部屋に移籍)。1934年1月場所に十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、幕下に陥落。「祝洋」に改名後の1937年1月場所に廃業した。
淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 1… 淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 10月3日 - 2000年 <平成12年> 4月29日)は、日本の経営者。三井石油化学工業(現・三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県柳川市出身。1937年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年7月に三井石油化学工業に転じ、1963年5月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1982年11月に会長に就任し、1985年6月に相談役を経て、1987年6月に再び会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章。
村岸 博三(むらぎし ひろぞう、1912年10月3日 - 1… 村岸 博三(むらぎし ひろぞう、1912年10月3日 - 1971年4月10日)は、日本の実業家。総合商社の丸紅(丸紅飯田)常務取締役、日本ゴム輸入協会会長、日本ゴム輸入組合理事長などを歴任した。 滋賀県彦根市出身。1934年、彦根高等商業学校本科(滋賀大学経済学部)を卒業し、同年に大同貿易(現 丸紅)へ入社した。また、彦根高等商業学校の同級生の川村喜太郎も、のちに丸紅で常務取締役を務めている。 大同貿易本社輸出織物部に入社後、フィリピンのセブ支店やマニラ支店で勤務し、輸出麻部・輸入雑貨部などで実務経験を積んだ。その後は神戸本店で繊維製品課長を務めた。 戦時中には南方軍司令部報道班員を務めたほか、朝鮮釜山支店長に就任。
増山 元三郎(ますやま もとさぶろう、1912年10月3日 … 増山 元三郎(ますやま もとさぶろう、1912年10月3日 - 2005年7月3日)は、日本の数理統計学者。 北海道小樽市生まれ。旧制第一高等学校理科乙類を経て、1937年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。中央気象台衛生気象係。1939年、東京大学医学部物療内科教室嘱託。1943年「ベクトル量の相関測度について」で理学博士の学位を取得。1944年文部省統計数理研究所第三部兼任所員。1952~1953年インド統計研究所客員教授として、P・C・マハラノビス所長のもとで研究。1965年ノースカロライナ大学統計学部客員、1966年カトリック大学数学科統計研究室教授、1970年~1988年、東京理科大学教授。
米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3… 米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の作曲家、作詞家である。日本コロムビア専属。別名に勝沼久、Jason Albert。生涯に1000曲以上を作曲し、美空ひばりの「リンゴ追分」など昭和のヒット曲を数多く手がけた。 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田(おんでん、現在の渋谷区)に生まれる。父親の米山正は倉知誠夫(三越会長)、山本留次、益田英作(益田孝の弟)らと東京蓄音機株式会社を設立し、専務取締役を務めた実業家。旧制成蹊高等学校尋常科に進むが、音楽の道を諦めきれずに東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)へ転入する。 1934年にピアノ科を首席で卒業し、藤原義江のピアノ伴奏などで修行を重ねる。
飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 200… 飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 2006年4月11日 )は、日本の経営者。飛島建設社長、会長を務めた。 福井県出身。1937年に東北帝国大学工学部化学工学科を卒業し、同年に飛島組(のちの飛島建設)に入社した。1943年8月に社長に就任し、1985年6月に会長に就任。1991年6月に再び社長に就任し、1994年4月に相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年4月11日、急性心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 198… 増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 1985年〈昭和60年〉3月10日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1938年京都帝国大学文学部英文科卒、立命館大学助教授、京都工芸繊維大学教授、甲南大学教授、就実女子大学教授。ワイン研究家でもあった。 父親は、増野製作所創業者の増野清香。2代目社長の増野香次、3代目社長の増野鋼四郎は弟である。 東京府立第五中学校時代の同級生にNHKアナウンサーの田辺正晴がいる。
堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 19… 堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 1972年4月11日)は、日本の衛生学者。 慶應義塾大学附属医学専門部教授(1945年9月-1949年3月)、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学大学院医学系研究科)教授(1947年3月-1972年4月11日)。重金属による環境汚染、とりわけ鉛中毒を専門とした。衛生学の分野に科学的手法を取り入れた、公害対策の第一人者であった。 東京都出身。1937年慶應義塾大学医学部を卒業し、同年聖路加病院内科に勤務する。1938年に陸軍の召集を受け、軍曹として軍務に付く。1939年6月少尉に任官し、1940年12月中尉に昇進する。1941年4月に召集解除となり、5月に慶應義塾大学医学部衛生学教室助手に就任。
服部 高顯(はっとり たかあき、1912年〈大正元年〉10月… 服部 高顯(はっとり たかあき、1912年〈大正元年〉10月1日 - 1993年〈平成5年〉3月24日)は、日本の裁判官。第9代最高裁判所長官。愛知県出身。位階は従二位。 第八高等学校、東京帝国大学法学部卒業。裁判官になったあと陸軍に召集され、下士官を過ごした。英語が抜群の出来で、戦後は司法省大臣官房で連合国との折衝にあたった。最高裁民事局第一課長の時に家事審判規則の制定に参画した。その後、司法研修所教官や東京地裁で裁判実務についた。1954年にフォード財団が支援した日米法学者交流でアメリカの大学に2年間留学した。帰国後、津地裁所長、東京高裁判事、福岡高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1975年12月3日に最高裁判所判事に就任。
竹中 正一郎(たけなか しょういちろう、1912年9月30日… 竹中 正一郎(たけなか しょういちろう、1912年9月30日 - 1997年4月7日)は、日本の長距離走選手、体育学者。東京歯科大学名誉教授。 和歌山県出身とされるが、出生地はインドのボンベイ(ムンバイ)。1930年(昭和5年)、旧制和歌山中学校(現在の和歌山県立桐蔭高等学校)卒業。慶應義塾大学文学部に進む。 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には第12回大会(1931年)から第17回大会(1936年)まで6回連続で出場、区間賞3回。第13回大会(1932年)では大会1週間前に風呂場で転倒した影響で右膝を負傷し、痛み止めを打って走りながらも8区区間2位で、今井哲夫・北本正路らとともに慶應義塾大学の箱根駅伝初優勝に貢献した。
鈴木 圭介(すずき けいすけ、1912年9月29日 - 19… 鈴木 圭介(すずき けいすけ、1912年9月29日 - 1998年5月31日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。 愛知県渥美郡渥美町(現・田原市)生まれ。1937年3月、立教大学経済学部卒業。 1937年4月、立教大学助手、1939年4月、立教大学教授。1948年3月、病気のため立教大学を辞職。 1953年3月、東京大学経済学部研究員、1954年10月、東京大学社会科学研究所専任講師、その後助教授を経て、1968年5月、東京大学教授、1973年4月、東京大学を定年退官、名誉教授。1974年4月、東京都立商科短期大学教授。その後、愛知大学教授を歴任。 専門はアメリカ経済史。
関根 文之助(せきね ぶんのすけ、1912年〈大正元年〉9月… 関根 文之助(せきね ぶんのすけ、1912年〈大正元年〉9月28日 - 1994年〈平成6年〉1月16日)は、日本の宗教学者、評論家、翻訳家、放送作家。キリスト教徒。 1912年(大正元年)9月28日、東京府東京市京橋区入船町(現・東京都中央区入船)に関根文治郎の次男として生まれる。日本学園卒、1934年(昭和9年)國學院大學文学部国文学科卒。麹町小学校、明治学院教諭を経て1947年(昭和22年)基督教教育同盟会主事。東洋英和女学院短期大学教授、聖書改訳委員を経て1961年(昭和36年)「日本精神史における一問題」で文学博士号を取得。 1965年(昭和40年)に共愛学園長となり、のち名誉学園長。
久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2… 久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2001年6月6日)は、文芸評論家、小説家、文学博士。 長野県下伊那郡山本村(現飯田市)生まれ。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)、松本高等学校文科甲類、東京帝国大学文学部美学科卒。福井県の旧制北陸中学(現北陸中学校・高等学校)に教師として赴任したが、『信州文学』に掲載した小説「残夢」が治安維持法違反に問われた。 日本大学藝術学部教授を経て、大正大学文学部教授。戦前から文学活動を始め、1946年、上京、短歌雑誌『八雲』を編集、1947年、新日本文学会に入会、『近代文学』に発表した「しづかな甍」でデビュー、以後、民主主義文学者として小説や評論を発表。
中野 正(なかの ただし、1912年9月28日 - 1985… 中野 正(なかの ただし、1912年9月28日 - 1985年2月1日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授。 福岡県生まれ。東北帝国大学経済学部卒。1959年「価値形態論」で東北大学経済学博士。法政大学経済学部助教授、教授、経済学部長、1983年定年、名誉教授、長野経済短期大学学長。
大原 富枝(おおはら とみえ、1912年9月28日 - 20… 大原 富枝(おおはら とみえ、1912年9月28日 - 2000年1月27日)は、日本の小説家。位階は正五位。栄典は勲三等瑞宝章。 高知県女子師範学校中退。結核療養の中小説を書き、『ストマイつんぼ』で文壇に登場、幽閉生活を強いられた野中婉の生涯を描いた『婉という女』で毎日出版文化賞と野間文芸賞を受賞した。その後カトリックに入信。歴史に題材をとりながら、負の人生を一途に生きた女を描き、現代の切実な問題としている。日本芸術院会員。 高知県長岡郡吉野村寺家(現本山町)生まれ。父亀次郎(小学校校長)と母米の次女であった。 高知市内の学校を結核のため中退。故郷での病気療養中に文筆活動を始め、1932年「姉のプレゼント」が「令女界」に入選。
堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月2… 堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月26日 - 昭和54年(1979年)6月8日)は、日本の柔道家、政治家。元鳥取県議会副議長。元県柔道連盟米子支部顧問。 堀安家は松江城主堀尾吉晴の末裔である。 鳥取県米子市出身。堀安憲の長男。立命館大学卒業。 昭和30年(1955年)から約10年間にわたって県公安委員長。昭和42年(1967年)県議初当選以来、連続三期当選。昭和52年(1977年)7月~昭和54年(1979年)4月県議会副議長。 代々堀安家は制剛流俰を伝える家であり、堀安成文は制剛流15代目であった。 大学在中柔道主将、卒業後講道館で柔道を錬磨し五段を授けらる。邸内に礎道館を設立、広く柔道の普及興隆に尽力。
北 二郎(きた じろう、1912年9月25日 - 1999年… 北 二郎(きた じろう、1912年9月25日 - 1999年7月26日)は、日本の実業家。阪和興業創業者。大阪府出身。 1934年に和歌山高等商業学校を卒業。大阪税関、安宅産業での勤務を経て、1947年4月に阪和興業を創業し、社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1994年2月に取締役相談役を経て、1997年6月には名誉会長に就任。 1976年3月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年7月26日に肺炎のために死去。86歳没。
柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 19… 柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 1994年12月7日)は、日本の作曲家、音楽理論家。東京学芸大学名誉教授。 兵庫県洲本市出身。『和声 理論と実習』の共著者として知られる。東京学芸大学教授、東京芸術大学講師、千葉経済大学教授を歴任。 旧制洲本中学校卒業、東京音楽学校(東京藝術大学の前身)作曲科第1期生卒業。同校で信時潔、クラウス・プリングスハイムらに師事した。 1950年、イタリアのジェノヴァでの作曲コンクールにおいてピアノ曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」で入賞した。他には声楽曲が多い。1985年、勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月7日、心不全のため死去。
千谷 七郎(ちたに しちろう、1912年9月24日 - 19… 千谷 七郎(ちたに しちろう、1912年9月24日 - 1992年6月26日)は、日本の精神病理学者。鳥取市生まれ。鳥取第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)卒、第一高等学校理乙卒、東京帝国大学医学部卒、同精神神経科講師、1950年東京女子医科大学教授、1957年「精神科とCortisone様作用物質」で東京女子医科大学医学博士、のち名誉教授。日本文化会議会員。鳥取第一中学校時代には第14回全国中等学校優勝野球大会にも出場した。
藤牧 直(ふじまき なおし、1912年9月23日 - 198… 藤牧 直(ふじまき なおし、1912年9月23日 - 1980年3月22日)は、日本の総務官僚。元拓務省南洋庁ヤップ支庁長、郵政省監察局長。 長野県生まれ。1929年(昭和4年)旧制松本第二中学(現:長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1934年(昭和9年)、旧制富山高等学校を経て、京都帝国大学経済学部卒業。 戦前は、拓務省南洋庁ヤップ支庁長を務めたほか、戦後は1949年(昭和24年)人事院給与局実施課長、1954年(昭和29年)郵政省(現:総務省)人事部厚生課長、1962年(昭和37年)監察局長を務め、翌年に退官、郵政弘済会長となり、1967年(昭和42年)福島テレビ専務取締役、1972年(昭和47年)民間放送テレビ回線運営センター常任監事などを務めた。
小堀 文雄(こぼり ふみお、1912年9月23日 - 199… 小堀 文雄(こぼり ふみお、1912年9月23日 - 1999年11月20日)は、茶道小堀遠州流の第15世家元。号は「宗通」(そうつう)。 現在の東京都千代田区に生まれる。1936年に日本大学専門部国文学科を卒業した。 1953年に父である第14世進(宗忠)が死去したことに伴い家元を継ぐ。 後援会組織松籟会を設立。東京美術倶楽部東茶会、根津美術館茶友会、巧匠会茶会などで懸釜を実施。[要出典] 『小堀遠州の茶道』(浪速社、1969年)、『幻の茶室 転合庵』(村松書館、1980年)、『小堀遠州東海道紀行』(村松書館、1985年)などの著書がある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23… 酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23日)- 1997年(平成9年)1月2日)は、日本の囲碁棋士。三宅一夫七段門下、日本棋院所属、九段。本名保一。王冠戦優勝2回、本因坊戦リーグ入りなど。日本棋院中部総本部に所属、棋士会長を長く務めるなど、中京碁界の重鎮としてその隆盛に貢献した。酒井四兄弟の康雄、利雄、義允の長兄。酒井栄男七段は実子。 愛知県岡崎市に生まれる。1924年に名古屋在住の三宅一夫に入門。1927年入段。1932年四段。1940年五段。1948年、日本棋院東海支部から改称した東海本部に所属し、第5期本因坊戦の関西予選五段級に出場、炭野武司、窪内秀知、瀬川良雄、染谷一雄と連勝して「東海の鬼」と呼ばれた。
原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大… 原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大正元年)9月22日 - 2000年(平成12年)1月22日)は、日本の陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。 1912年9月22日、京都府亀岡市曽我部町西条出身。京都一中、三高、京都帝国大学法学部卒業。のち藤江家に養子に入ったため藤江姓を名乗った。 1936年、ベルリンオリンピック男子三段跳に出場。15m66をマークし銀メダルを獲得した。金メダリストは同じ京都帝大出身の田島直人だった。田島は、オリンピック2年前に両者が出席して京都大学陸上競技部誌に掲載された「三段跳座談会」では「(ベルリンオリンピックに代表として)大島さんと原田さんが行くことになるだろう」と発言していた。
清水 崑(しみず こん、1912年〈大正元年〉9月22日 -… 清水 崑(しみず こん、1912年〈大正元年〉9月22日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の漫画家。長崎県長崎市出身。本名は清水 幸雄(しみず ゆきお)。 長崎県長崎市銭座町(現在の天神町)出身。旧制長崎市立商業高校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)を卒業後上京、似顔絵描きをしながら絵の修行をする。その後横山隆一・近藤日出造らの新漫画派集団(のちの漫画集団)に参加、1935年、新青年に『東京千一夜物語』を連載。同作はヒットし、内田吐夢監督によって映画化された。 戦後、「新夕刊」の政治漫画を担当したのち、朝日新聞社の嘱託となる。時の吉田茂首相の風刺画で人気を博し、サンフランシスコ講和会議には全権団の取材に派遣され、連日文章つきで漫画の見聞録を送る。
原田正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江正夫、1912年9… 原田正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江正夫、1912年9月22日 - 2000年1月22日)は、日本の陸上競技選手。ベルリンオリンピック銀メダリスト。
吉武 嘉善(よしたけ かぜん、1912年(大正元年)9月22… 吉武 嘉善(よしたけ かぜん、1912年(大正元年)9月22日 - 没年月日不明)は、日本の経済学者、(証券市場論)。元八幡大学学長。熊本県人吉市出身。 東大では大陸式簿記論、高等商業数学の勉学に専念。小寺奨学懸賞論文に応募し『金本位制の将来』の論文で入選した。大和生命保険社員時代も『保険の本質について』の論文を生命保険協会雑誌に発表した。昭和18年黒崎窯業社員時代、マレイ、スマトラに南方方面派遣され英国系三煉瓦工場の建設と経営を任されボーキサイト煉瓦の製造に成功した。終戦帰国後、戸畑専門学校に奉職。八幡大学では経営経済学科の重鎮教授としての存在であった。法経学部長就任後学長に就任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
佐野 理平(さの りへい、1912年9月21日 - 1992… 佐野 理平(さの りへい、1912年9月21日 - 1992年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。日本代表として、1936年のベルリンオリンピックに出場した。
細谷 治嘉(ほそや はるよし、1912年(大正元年)9月21… 細谷 治嘉(ほそや はるよし、1912年(大正元年)9月21日 - 1997年(平成9年)1月19日)は、昭和から平成初期の労働運動家、政治家。位階は従三位、勲一等。 衆議院議員(9期)、大牟田市長(2期)、福岡県議会議員。 千葉県長生郡白子町に生まれる。1933年横浜高等工業学校(現横浜国立大学工学部)応用化学学科を卒業。同年、三井化学三池染料工業所に勤務。三井化学労働組合委員長、全日本化学労働組合委員長を務めた。 1947年福岡県議会議員に選出され2期在任。1955年、大牟田市長選挙に立候補し、現職の田中忠蔵を305票差で破り初当選。1959年、再選。1962年、次回の選挙の不出馬を表明。 1963年、第30回衆議院議員総選挙福岡3区に日本社会党から立候補し、初当選。
古武 弥正(こたけ やしょう、1912年9月19日 - 19… 古武 弥正(こたけ やしょう、1912年9月19日 - 1997年11月13日)は、日本の心理学者。医学博士。「人間における条件反射の研究」などで顕著な業績を挙げた。関西学院大学名誉教授、元関西学院大学学長、兵庫医科大学名誉教授、元兵庫医科大学理事長。 大阪府出身。視力が常人の4分の一しかない弱視であったが、北野中学から関西学院専門部、関西学院大学とすすむ。1938年、排日気運のたかまるアメリカに渡り、ハーヴァード大学の視力障害者のためのパーキンス研究所に留学した。ハーヴァードでは実験心理学の修士号を取得し、帰国後、慶應義塾大学の著名な生理学者林髞(推理小説家、木々高太郎)の研究室で条件反射学を学んで「人間の条件反射学」の第一人者となった。
佐藤 喜代治(さとう きよじ、1912年9月19日 - 20… 佐藤 喜代治(さとう きよじ、1912年9月19日 - 2003年5月7日)は、日本の国語学者。東北大学名誉教授。 宮城県宮城郡根白石村(現・仙台市泉区)に生まれる。 第二高等学校卒、1935年東北帝國大學法文学部国語学科卒業。山田孝雄に師事。1938年満洲・建国大学助教授、1942年神宮皇學館大學助教授、1948年東北大学法文学部助教授、1949年文学部助教授、1951年教授、1962年「日本文章史の研究」で文学博士の学位を取得、1964年から翌年ミシガン大学へ出張。1967年文学部長、1976年定年退官、名誉教授、聖和学園短期大学教授、1977年から1989年フェリス女学院大学客員教授。1984年勲二等旭日重光章叙勲。