村尾 次郎(むらお じろう、1914年(大正3年)9月20日… 村尾 次郎(むらお じろう、1914年(大正3年)9月20日 - 2006年(平成18年)12月9日)は、日本の歴史学者。東京大学文学博士。 静岡県浜松市の医家(父は医学博士・圭介。松籟と号す)に生まれた。虎童子と号す。考証学者・村尾元融は、血縁の父祖にあたる。 横浜一中、静岡高等学校卒業後、1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部国史学科に進学後は平泉澄の内弟子となった。1940年(昭和15年)、卒業と同時に東京帝国大学文学部助手となるも、1943年(昭和18年)3月に応召される。歩兵より船舶兵科に転じ、陸軍船舶幹部候補生隊本部教官[要出典]。 戦後は古代史専攻の研究者となり、1961年(昭和36年)に「律令財政史の研究」で東京大学より文学博士の学位を受けた。
宮武 一夫(みやたけ かずお、1914年9月20日 - 20… 宮武 一夫(みやたけ かずお、1914年9月20日 - 2009年10月10日 )は、日本の経営者、薬学博士。 香川県大川郡長尾町出身。1935年に徳島高等工業学校応用化学科製薬化学部を卒業し、同年に第一製薬に入社。1965年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年6月に社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1989年7月から相談役を務めた。 1990年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2009年10月10日肺癌のために死去。95歳没。
藤元 政信(ふじもと まさのぶ、1914年(大正3年)9月2… 藤元 政信(ふじもと まさのぶ、1914年(大正3年)9月20日 - 1998年(平成10年)8月5日)は、昭和期の労働運動家、政治家。東京都武蔵野市の第3代市長。 富山県東礪波郡利賀村栗当(現南砺市)に生まれた。1931年(昭和6年)家出して上京し、政治家の書生を希望したが果たせず、洋服問屋に勤めた。1938年(昭和13年)中島飛行機へ入社し武蔵製作所に勤務、武蔵野町民となる。1945年(昭和20年)早稲田高等工学校機械工学科を卒業。1951年(昭和26年)富士重工業(現SUBARU)の労働組合執行委員長に就任する。1954年(昭和29年)日本社会党武蔵野支部書記長となる。 1955年(昭和30年)4月に社会党公認で武蔵野市議会議員に立候補、1963年(昭和38年)10月まで3期務める(3期目は6ヶ月間)。
佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002… 佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002年7月16日)は、愛媛県松山市生まれの映画監督である。代表作は昭和残侠伝シリーズ。 愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。同期に助監督として活躍した市川崑とは兄弟分の関係で弟のように可愛がっていたという。日活太秦撮影所、新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。 1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー。東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。
金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 … 金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。 衆議院議員(12期)、副総理、民間活力導入担当大臣、防衛庁長官(第35代)、建設大臣(第34代)、自由民主党副総裁、自由民主党幹事長(第26代)、自由民主党総務会長(第27代)、自由民主党国会対策委員長(第16、24代)を歴任した。 1914年(大正3年)9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家に長男として生まれる。父は金丸康三、母はとくで信は長男。祖父は山梨交通電車線のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助。叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。
金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 … 金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。
佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9… 佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1983年〈昭和58年〉12月6日)は、昭和期の華族。佐竹宗家35代当主。貴族院侯爵議員。位階は正五位。 華族・佐竹義春、兼子(九条道実長女)夫妻の長男として生まれる。1938年(昭和13年)、東北帝国大学法文学部(現・東北大学法学部、文学部、経済学部)を卒業。以後、保険院嘱託、企画院嘱託、技術院嘱託、技術院参技官を歴任。父の死去に伴い1944年(昭和19年)5月15日、侯爵を襲爵。同年9月17日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後は、子どもの家理事(埼玉県)、秋田県育英会理事長を務めた。
高田 敏子(たかだ としこ、1914年9月16日 - 198… 高田 敏子(たかだ としこ、1914年9月16日 - 1989年5月28日)は、日本の詩人。 女学校時代から詩作を始める。結婚後は主婦・母親の視点で日常生活の哀歓を平明な言葉でうたい、好評を得た。詩集に『月曜日の詩集』(1962年)、『藤』(1967年)、『夢の手』(1985年)などがある。 東京市日本橋区(現東京都中央区)の陶器卸業の次女として誕生する。跡見女学校(現跡見学園女子大学・跡見学園中学校・高等学校)卒業。学校卒業後に兄の友人と結婚。 1946年に台湾から引揚げて詩作を開始。 1949年、「若草」に投稿した「夜のフラスコの底に」で注目を浴びる。 1960年より1963年までは朝日新聞に詩を連載する(毎週月曜日)。
前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 … 前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 - 昭和59年(1984年)1月13日)は、歌人。 東京府豊多摩郡大久保町(現新宿区)に、歌人前田夕暮の長男として生まれる。昭和10年(1935年)旧制成蹊高等学校文科乙類卒業。昭和13年(1938年)東京帝国大学経済学部卒業、扶桑海上(現三井住友海上)入社。翌年1月、台湾歩兵第2連隊補充隊に入隊。9月、経理部幹部候補生となり東京陸軍経理学校に入学。昭和15年(1940年)9月、同校卒業。のち中国、フィリピン、ジャワ、ポルトガル領チモール島に派遣される。チモール島では、宣撫を名目に現地王族の独立運動に協力した。昭和21年(1946年)帰国。
八田 竹男(はった たけお、1914年〈大正3年〉9月15日… 八田 竹男(はった たけお、1914年〈大正3年〉9月15日 - 1991年〈平成3年〉8月6日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター。 大阪府の生まれ。旧制北野中学校(現大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院を経て、早稲田大学法学部中退。俳優の森繁久彌とは北野中学時代からの同級生で同い年であり、早稲田時代には一緒に演劇に熱中した。 戦前の1937年、吉本興業に入社。戦後は事業部、制作部の部長などを歴任。戦後は映画館経営に専念していた吉本興業に演芸部門を復活させ、うめだ花月、京都花月、なんば花月など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げた。1977年には橋本鐵彦の後を継いで社長に就任。
阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995… 阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995年4月22日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。
髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体:高橋 節郎、旧字体:… 髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体:高橋 節郎、旧字体:高橋 節郞、1914年(大正3年)9月14日 - 2007年(平成19年)4月19日)は、日本の漆芸家である。長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1938年東京美術学校工芸科漆工部卒業。日本芸術院会員、文化勲章受章者、文化功労者、日展顧問。
藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年… 藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年9月14日 - 1992年8月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)。トピー工業社長。 愛知県額田郡額田町(現岡崎市)の農家に生まれる。尋常小学校高等科を卒業後、愛知県庁に勤務。1935年(昭和10年)、上京して報知新聞社に入社。1939年(昭和14年)、東京シヤリングに転職。1943年(昭和18年)10月、東京シヤリングは宮製鋼所と合併し東都製鋼が発足。1946年(昭和21年)、同社の取締役に抜擢された。常務を経て1947年(昭和22年)に社長に就任。1952年(昭和27年)、車輪工業社長を兼務。1953年(昭和28年)に慶應義塾大学通信教育課程経済学科卒業。
久松 三津枝(ひさまつ みつえ、1914年9月13日 - 1… 久松 三津枝(ひさまつ みつえ、1914年9月13日 - 1947年8月13日)は、日本の女優である。本名上松 美津江(うえまつ みつえ)、旧芸名久松 美津江(ひさまつ みつえ)のほか、別名・表記の揺れがある(#芸名)。全国公募から選ばれ、深水藤子とならぶ日活スター女優として登場、サイレント映画末期からトーキー初期にかけて人気があった。 1914年(大正3年)9月13日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草地区)に生まれる。出生名については、「美津江」であるとする説と「三津枝」であるとする説がある。 1931年(昭和6年)3月、麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)にあった旧制・千代田高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)を卒業後、翌1932年(昭和7年)、前年の労働争議の後で日活の行った大規模な新人募集に応募して、2,000人を超えるなかから採用が決まり、同年秋に京都に移動して日活太秦撮影所に入社する。
友納 武人(とものう たけと、1914年(大正3年)9月12… 友納 武人(とものう たけと、1914年(大正3年)9月12日 - 1999年(平成11年)11月15日)は、昭和期の厚生官僚、政治家。元千葉県知事、衆議院議員。広島県広島市出身。 小学校教諭の友納友次郎の四男として生まれる。 府立六中・府立高等学校 (旧制)を卒業。 東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等文官試験に合格し、卒業後の1937年4月に内務省に入省。 埼玉県総務部で勤務の後、兵役で大日本帝国陸軍習志野騎兵第15連隊に見習士官として入営し、ノモンハン事件にも参加している。 陸軍中尉で軍役解除後、滋賀県学務課長、岐阜県庶務課長を経て厚生省保険局健康保険課勤務となり、1947年2月に同課課長。
水芦 光子(みずあし みつこ、旧姓 布光子、1914年(大正… 水芦 光子(みずあし みつこ、旧姓 布光子、1914年(大正3年)9月12日 - 2003年(平成15年)10月13日)は、日本の詩人、小説家。室生犀星の女性初の弟子でもある。 石川県金沢市馬場五番丁六(現・東山3丁目29-13、14)生まれ。第四高等学校から東京帝国大学に進学する程のインテリであった次兄の雄吉の影響を受け、幼い頃から源氏物語などの古典に親しみ、歌舞音曲や映画鑑賞などの芸能を好む数寄者の母を持った影響から文学的才能を養った。 金沢市広坂にあった石川県立金沢第二高等女学校(現・石川県立金沢桜丘高等学校)4年の在学中に、水芦の父の篤が創業し、経営していた家業の金箔商経営が、受取手形が不渡りになった事によって不振に陥り、倒産。
古田 康治(ふるた やすはる、1914年9月11日 - 20… 古田 康治(ふるた やすはる、1914年9月11日 - 2008年5月8日)は、日本の陸上競技(ハードル・跳躍競技)の選手。1936年ベルリンオリンピックで男子110メートルハードルで出場。 現在の福岡県直方市出身。福岡県立鞍手中学校(現在の福岡県立鞍手高等学校)卒業。八幡製鉄に所属し、1936年ベルリンオリンピックの男子110メートルハードルに出場した。ただし関西大学によれば、関西大学陸上部からオリンピックに出場する「六選手」(大島鎌吉・長尾三郎・谷口睦生・福田時雄・戸上研之・古田康治)の一人として古田を送り出したとある。 第二次世界大戦後初となる1946年の日本陸上競技選手権大会では、三段跳で優勝。
飯田 良一(いいだ りょういち、1914年9月10日 - 1… 飯田 良一(いいだ りょういち、1914年9月10日 - 1979年2月6日)は、日本の経営者、銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。新潟県出身。 1937年に高等文官試験行政科司法科に合格、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年大蔵省に入省。1963年5月から1966年9月までに国民金融公庫理事を務めた。1966年11月に武蔵野銀行専務に就任し、1968年11月に副頭取を経て、1977年6月には頭取に就任。 1979年2月6日、がん性腹膜炎のため在任中に死去。64歳没。
小林 茂(こばやし しげる、1914年9月10日 - 199… 小林 茂(こばやし しげる、1914年9月10日 - 1993年8月21日)は、歴史学者、部落解放運動家。 大阪府出身。東京文理科大学卒業。下関市立大学教授をへて、名古屋学院大学教授。 近世農業経済史、萩藩の明治維新史などを研究。部落解放研究所名誉理事を務めた。
今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日… 今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉11月15日)は、日本の登山家。元日本山岳会会長。マナスル世界初登頂に成功。記念切手も発行された。 奈良県出身。旧制浪速高等学校を経て、1941年、京都帝国大学農学部卒業。 旧制高校在学時代より登山を始める。1953年、京大学士山岳会ヒマラヤ・アンナプルナ2峰遠征隊隊長としてアンナプルナ登頂に挑戦するが撤退。1956年、槇有恒率いる日本山岳会第三次マナスル登山隊に参加し、シェルパのギャルツェン・ノルブとともにマナスル世界初登頂に成功した。この快挙は戦後の日本人に誇りと自信を取り戻させるニュースとして大きく伝えられ、さらにネパールと日本との国交が結ばれるきっかけとなった。
金子 裕(かねこ ひろし、1914年9月9日 - 没年不明)… 金子 裕(かねこ ひろし、1914年9月9日 - 没年不明)は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
辻本 芳郎(つじもと よしお、1914年(大正3年)9月7日… 辻本 芳郎(つじもと よしお、1914年(大正3年)9月7日 - 1991年(平成3年)9月17日)は、日本の地理学者。東京学芸大学名誉教授。学位は、理学博士。専門は工業地理学。 三重県生まれ。三重県立上野中学校を経て、1935年東京高等師範学校卒業。1938年応召、旅順重砲兵連隊に入営。1939年東京文理科大学理学部地学科地理学専攻卒業。1941年召集解除、陸軍教授、陸軍経理学校教官。1947年東京第二師範学校教授、1949年東京学芸大学助教授、1952年教授。1959年「伝統的在来工業の地域構造 東海陶業地域を中心として」で理学博士(東北大学)。1960 - 66年東京学芸大学附属世田谷小学校校長兼任、1975 - 77年東京学芸大学附属図書館長。
今井 秀喜(いまい ひでき、1914年9月5日 - 2014… 今井 秀喜(いまい ひでき、1914年9月5日 - 2014年5月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。 父、今井登志喜は東京帝国大学文学部の学部長を務めた歴史学者。 東京府立第五中学校(現:都立小石川高等学校)から(旧制)第一高等学校を経て,1939年東京帝国大学理学部地質学科を卒業、同工学部助手となる。1944年助教授、1958年教授に昇進し、鉱山学科応用地質学第一研究室を担当した。1958年東京大学より工学博士の学位取得。学位論文の表題は「本邦における銅・亜鉛・鉛鉱床の地質構造、共生関係並びに成因に関する研究」。1975年定年退官し、名誉教授となる。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。
八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008… 八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008年7月18日)は、日本の岩石学者。自然保護運動家。北海道大学、東北大学名誉教授。父は長野県地学会初代会長の八木貞助。 長野県長野市生まれ。旧制伊那中学、旧制八高を経て、1938年東北帝国大学理学部岩石鉱物学科卒業。同年母校助手、1951年同大学教授を経て、1962年-1978年北海道大学理学部地質学鉱物学科教授、1978年-1988年北星学園大学教授。 1949年に理学博士(東北大学)「樺太、北海道に於ける特殊なる岩漿分化現象の研究」。日本学術会議会員として発展途上国との学術交流に尽力した。
佐方 信博(さかた のぶひろ、1914年9月5日 - 200… 佐方 信博(さかた のぶひろ、1914年9月5日 - 2008年9月24日)は、熊本県出身の郵政官僚。元富士重工業副社長。 熊本逓信局業務部長、郵務局服務課長、経理局主計課長、大臣官房文書課長兼大臣官房調査課長、名古屋郵政局長などを歴任。
林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 … 林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、皇道派。最終階級は陸軍少尉。二・二六事件で反乱部隊の首相官邸襲撃指揮官。
松野 栄一郎(まつの えいいちろう、1914年9月5日 - … 松野 栄一郎(まつの えいいちろう、1914年9月5日 - 1948年8月1日)は、日本の陸上競技(投擲競技)選手。 1936年ベルリンオリンピックに、男子ハンマー投で出場した。 1934年、旧制甲南高等学校卒業。京都帝国大学に進む。日本陸上競技選手権大会では、1934年に円盤投で、1935年にハンマー投で優勝。 京都大学採鉱科3年の時、1936年ベルリンオリンピックで男子ハンマー投に出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
押田 勇雄(おしだ いさお、1914年9月5日 - 1988… 押田 勇雄(おしだ いさお、1914年9月5日 - 1988年4月10日)は、日本の物理学者。上智大学名誉教授。理学博士(東京大学)。 神奈川県横浜市西戸部出身。母は日本画家押田翠雨。1939年、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1951年、「液体の物性論的研究」で東京大学より理学博士の学位を取得。東京帝国大学助手を経て、1940年に名古屋帝国大学工学部助教授。1951年、小林理学研究所研究員となり、1953年に主任研究員兼学習院大学教授。1965年、上智大学教授へ転じ、1985年に定年を迎えて名誉教授となった。また、太陽エネルギー研究所所長を務めた。墓所は多磨霊園。
小嶌川 庄吉(こじまがわ しょうきち、1914年9月5日 -… 小嶌川 庄吉(こじまがわ しょうきち、1914年9月5日 - 1946年9月15日)は、現在の東京都江東区出身で立浪部屋に所属した力士。本名は米花 庄吉(こめばな しょうきち)。173cm、102kg。最高位は西前頭5枚目。引退後は4代八角を襲名したが、在職中に死去した。 1928年5月初土俵、1934年5月十両昇進。1938年1月新入幕。肋膜を患って1942年5月限り急遽引退し、7月の八角(大鳴門)の死去により八角を襲名した。素早い出足からの激しい突っ張り、押しを武器に人気を集めた江戸っ子力士であった。1946年巡業先で32歳で急死。 同部屋の羽黒山が横綱に昇進した際、土俵入りの露払いを務めた。
加藤 勝重(かとう かつしげ、1914年9月1日 - 200… 加藤 勝重(かとう かつしげ、1914年9月1日 - 2000年9月6日)は、現在の埼玉県さいたま市出身の日本画家。浦和画家。 浦和画家の発祥(関東大震災以降)以前に浦和に出生。川端画学校に学び、はじめは洋画を描いていたが、日本画に転向した。山岳風景を多く描いた。「響」などの作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 - 202… 笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 - 2022年8月15日)は、日本の写真家。一般に「女性報道写真家第一号」とされる。肖像写真も得意とする。 従来は1918年(9月1日)生まれとする文献があったが(例えば、下記「参考文献」欄記載の「日本写真家事典」)、2011年に刊行された「好奇心ガール、いま97歳」(下記「著書」を参照)により1914年生まれであることが明確にされた。 東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区上大崎)生まれ。順心高等女学校卒業後、大妻技芸学校高等家政科に通うも、絵の勉強に専念したかったため中退。その後、父親には内緒で絵の研究所と洋裁学校に通った。 戦前、女性報道写真家がいなかった頃に東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵のアルバイト(社会面のカット)として活躍後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(笹本が子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた)にすすめられ、(1939年に仮入社し、母親の病気を理由とする10か月の休職ののち、1940年(昭和15年)4月に)財団法人・写真協会(新聞記者・写真家の林謙一らを中心に設立された内閣情報部による国策機関。
平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31… 平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会(経団連)会長(在任、1990年(平成2年)12月21日 - 1994年(平成6年)5月27日)。 1987年(昭和62年)に名誉大英帝国勲章KBE受勲[要出典]。1997年(平成9年)、レジオンドヌール勲章受勲[要出典]。2006年(平成18年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。 6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知県立第七中学校(現・愛知県立半田高等学校)の入学祝いに母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部法律学科へと進学させた。
西 順蔵(にし じゅんぞう、旧字体: 西 順藏、1914年8… 西 順蔵(にし じゅんぞう、旧字体: 西 順藏、1914年8月30日 - 1984年6月12日)は、中国思想史家、一橋大学名誉教授。 1914年、広島県広島市で倫理学者・旧制広島文理科大学教授であった西晋一郎の次男として生まれた。旧制広島高校を経て、東京帝国大学文学部支那文学哲学科で学んだ。1937年に卒業し、同大学大学院に進学。 卒業後は、1938年より文部省国民精神文化研究所助手として勤務。1942年、京城帝国大学文学部助教授に任じられた。1944年、京城で大日本帝国陸軍第49師団歩兵第106連隊に二等兵として3ヶ月入隊。 1946年、第二次世界大戦終戦にともなって京城帝国大学も廃止となり退官。
石田 英助(いしだ えいすけ、1914年8月30日 - 20… 石田 英助(いしだ えいすけ、1914年8月30日 - 2010年12月5日[要出典])は、日本の漫画家、イラストレーター。男性。東京都板橋区出身。ABO式血液型はA型。熊岡美彦画塾卒業。1932年にデビュー。出版美術家連盟理事。[要出典] 1957年、『おやまのかばちゃん』と『こぞうのぼんちゃん』の2作品が第2回小学館漫画賞を受賞。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
田川 飛旅子(たがわ ひりょし、1914年8月28日 - 1… 田川 飛旅子(たがわ ひりょし、1914年8月28日 - 1999年4月25日)は、日本の俳人・工学者。本名・博。東京出身。 東京府豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)生まれ。1933年に日本メソジスト協会中央会堂にて洗礼を受けた。府立六中(現東京都立新宿高等学校)、一高を経て1940年に東京帝国大学工学部卒。卒業と同時に古河電池に入社し電池製作所に配属。戦後に同技師長、役員として勤務。工学者としては『電池及蓄電池』(1953年)の著書があり、1961年に東京大学から博士号を受けている。 一高在学中に短歌に興味を持ち「アララギ」に入会、土屋文明に師事。また中学の時より画家耳野卯三郎に油絵を習い、1938年「妹の像」で光風会に入選している。
広田 修三(ひろた しゅうぞう、1914年8月28日 - 没… 広田 修三(ひろた しゅうぞう、1914年8月28日 - 没年不詳)は広島県出身の元プロ野球選手。名古屋金鯱軍創設時の捕手。
栃内 一彦(とちない かずひこ、1914年(大正3年)8月2… 栃内 一彦(とちない かずひこ、1914年(大正3年)8月28日 - 2009年(平成21年)11月8日)は、昭和期の官僚、実業家。第10代海上保安庁長官。 東京府(現東京都)出身。第一高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学経済学部を卒業。1939年(昭和14年)10月、高等試験行政科に合格。大学卒業後、逓信省に入省し管船局に配属された。 1940年、短期現役海軍主計科士官(4期)を志願。同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に経理学校を卒業。摩耶に配属。佐世保海軍航空隊、佐世保鎮守府第一特別陸戦隊をへて、1942年(昭和17年)3月、主計大尉に昇進し、同年10月、セレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊の主計長として勤務。
吉利 一雄(よしとし かずお、1914年8月26日 - 19… 吉利 一雄(よしとし かずお、1914年8月26日 - 1992年10月17日)は、日本の経営者。塩野義製薬社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1937年に神戸商業大学を卒業し、同年に塩野義製薬に入社した。取締役、常務、専務を経て、1983年2月に社長に就任。社長在任時には研究開発体制の強化に力を入れた。1992年6月に会長に就任した。 1992年10月17日、急性心不全のために死去。78歳没。
釜井 章二(かまい しょうじ、1914年8月25日 - 19… 釜井 章二(かまい しょうじ、1914年8月25日 - 1997年7月20日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長、会長を務めた。栃木県出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に安田信託(のちの安田信託銀行)に入社した。1962年5月に取締役に就任し、1966年5月に常務、1973年1月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1986年6月に相談役に就任した。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月20日尿管癌のために死去。82歳没。
辻 章男(つじ たかお、1914年 <大正3年> 8月25日… 辻 章男(つじ たかお、1914年 <大正3年> 8月25日 - 1990年 <平成2年> 11月17日)は、日本の運輸官僚。海上保安庁長官を務めた。位階は従三位。 兵庫県出身。1937年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に逓信省に入省。運輸省で航空局長、官房長、海運局長などを歴任し、1963年6月から1964年2月までに海上保安庁長官を務めた。1977年7月に関西国際空港ビル会長に就任。 1984年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1990年11月17日肺炎のために死去。76歳没。死没日付をもって正六位から従三位に進階した。
西谷 三四郎(にしたに さんしろう、1914年8月24日 -… 西谷 三四郎(にしたに さんしろう、1914年8月24日 - 1994年1月25日)は、日本の精神医学者。 徳島県阿波市生まれ。旧姓・吉田。1943年千葉医科大学卒業、1950年学位論文「頭部通電の重積による精神障碍の研究」で金沢大学より医学博士の学位を取得。 金沢大学医学部助手、1948年国立金沢病院精神科医長、1959年東京教育大学教授、筑波大学教授、1978年定年退官、東京教育大学名誉教授、1981-85年文教大学教授。1963年11月に榊原清、尾島碩心らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月24日 - 1982年〈昭和57年〉)は、日本の医学博士、新潟大学名誉教授。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の五男。 東北大学医学部卒業。1945年に台北帝大助手。1949年に新潟医大講師、1950年に助教授。1952年に新潟大医学部助教授を経て1960年に教授。1973年に腎研究施設長。 住所は新潟市浜浦町。 木下家は鳥取藩主の御殿医をつとめた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月2… 桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月24日 - 1981年(昭和56年)11月4日)は、日本の彫刻家である。 山形県米沢市に生まれる。1924年に家族と共に東京へ移住。1932年(昭和7年)に平櫛田中から彫刻を学び、翌1933年(昭和8年)には自身の作品が日本美術会主催の展示会に出品され受賞された。1934年(昭和9年)には日本美術院研究所に入所し、院展に初入選される。1939年(昭和14年)には第3回文展にも出品され、第二次世界大戦中から戦後にかけて院展に出品された同院賞等数多くの賞を受賞した。 この業績により1955年(昭和30年)には日本美術院の同人となり、1961年(昭和36年)に院展彫刻部が解散した事により同郷の新海竹蔵や山本豊市、千野茂らと共に彫刻家団体S.A.Sの結成に携わった。
橋口 隆吉(はしぐち りゅうきち 1914年8月23日 - … 橋口 隆吉(はしぐち りゅうきち 1914年8月23日 - 1996年10月4日)は、日本の金属・材料物理学者。
新井 真一(あらい しんいち、1914年8月23日 - 20… 新井 真一(あらい しんいち、1914年8月23日 - 2012年1月9日)は日本の官僚、実業家。 大阪府堺市生まれ。日本万国博覧会協会の初代常任理事事務総長だったことで知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980… 斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、北海道出身の俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。祖父斎藤又右衛門は末広町で呉服屋を営み、函館銀行初代頭取や函館商工会議所初代会長などを務めた地元財界の大物だった。父俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端龍子や斎藤五百枝らと交流があったが、4歳のときに死別した。親類に上田敏がいる(祖父の妹の夫)。 函館中学校、早稲田大学商科卒。大学在学中、新興俳句に惹かれたことから従兄の杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、旧北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。
徳末 知夫(とくすえ ともお、1914年8月22日 - 20… 徳末 知夫(とくすえ ともお、1914年8月22日 - 2006年1月29日)は、日本の実業家。帝人代表取締役社長を務めた。 日本統治時代の台湾で生まれる。1938年神戸商業大学(現神戸大学)卒業、帝国人造絹絲入社。戦時中は陸軍主計大尉。戦後復帰し 1957年帝国人造絹絲テトロン販売部次長。1959年帝国人造絹絲テトロン販売部長。1961年帝国人造絹絲企画部長。1962年帝人ニューヨーク出張所長。1965年帝人取締役。1969年帝人常務取締役。1980年から帝人代表取締役社長を務めた。それまでの拡大路線で積み上がった不採算事業の整理を実施。一気に二十件以上の事業や海外案件から撤収するとともに、医療・医薬事業を次世代の成長事業として位置づけ、現在の事業構造の原型を築いた。
金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本… 金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本の陸上競技選手・体育学者、筑波大学名誉教授。 旧姓・加島。東京文理科大学卒。1936年全日本陸上競技選手権大会走高跳優勝。1973年「筋の力の出し方に関する基礎的研究 Eccentricな筋力の特性について」で東邦大学医学博士。東京教育大学助教授、教授、スポーツ研究所長、筑波大学体育科学学系長。78年定年退官、筑波大学名誉教授。武蔵野体育研究所主宰。体育原理、バイオメカニクス、陸上競技、トレーニング、コーチングほか。
井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月2… 井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月21日 - 2010年〈平成22年〉10月24日)は、昭和から平成時代の政治家。兵庫県小野市長。位階は従五位。 兵庫県小野市出身。旧制小野中学校(現在の兵庫県立小野高等学校)を卒業。1939年(昭和14年)日本大学商経学部経済科卒業。同年日本放送協会に入った。その後、1946年(昭和21年)、山陽利器に入社した。さらに、1951年(昭和26年)、小野町立病院に入った。そして、1952年(昭和27年)明石市役所に奉職し収入役を務めた。 1976年(昭和51年)の小野市長選挙に立候補して、保守・革新双方の推薦を得て、共産党が支持する新人を破って初当選を果たした。
藤田 宗一(ふじた そういち、 1914年8月20日 - 1… 藤田 宗一(ふじた そういち、 1914年8月20日 - 1980年9月3日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。