篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1… 篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1960年〈昭和35年〉8月22日)は、明治から昭和時代の政治家。神奈川県高座郡田名村長、相模原町長。 相模原に生まれる。1903年(明治36年)神奈川県師範学校卒業後、高座郡明治小学校、同郡上溝小学校訓導を経て、1912年(大正元年)同郡尋常高等大和小学校校長となる。1916年(大正5年)同郡座間小学校校長、1918年(大正7年)同郡上溝小学校校長を経て、1928年(昭和3年)高座郡田名村役場吏員となり、収入役、助役、村長を歴任した。1941年(昭和16年)町村合併により相模原町が成立するとその村長に選任され、1946年(昭和21年)10月まで在任した。
権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 … 権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 - 1959年(昭和34年)6月28日)は、日本の実業家。東洋綿花(現・豊田通商株式会社)代表取締役会長を務めた。 大阪生まれ。茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)卒業後、三井物産で綿花を取り扱い、1920年に三井物産綿花部が東洋綿花として独立すると、同社取締役に就任。上海紡織会長を経て、1936年から東洋綿花会長を務めた。豊田利三郎と豊田喜一郎、藤野勝太郎が保有していた豊田紡織株を東洋棉花が取得したことにともない、1937年豊田紡織の取締役に就任。1943年トヨタ自動車工業取締役。1959年藍綬褒章受章。同年死去。趣味は狩猟、囲碁、陶磁器で、酒は飲まなかった。
藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 … 藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 – 1940年〈昭和15年〉3月10日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。中学造士館を経て、1904年7月第七高等学校造士館 (旧制)卒業(第一部法科志望、第1回卒業生)。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1910年(明治43年)より領事官補として安東、牛荘に勤務した。その後、三等書記官、二等書記官、台湾総督府事務官、総領事・台湾総督府事務官、外務書記官・情報部第一課長を歴任した。1925年(大正14年)より済南総領事、青島総領事を務めた。1930年(昭和5年)、駐ルーマニア公使に任命され、駐ユーゴスラビア公使も兼任した。
小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年〈明治14年〉3月… 小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年〈明治14年〉3月30日 - 1960年〈昭和35年〉10月16日)は、日本の実業家、政治家。長野電灯、信濃毎日新聞、信越化学工業、東信電気の経営者。日本発送電総裁。長野県生まれ。 長野県上水内郡柳原村(現・長野市柳原)で、信濃毎日新聞社長や衆議院議員などを務めた小坂善之助の長男として生まれる。旧制長野中学校(現・長野県長野高等学校)、信濃毎日新聞取締役、日本中学などを経て、1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業する。元社団法人如水会会員であり、籠城事件の際は交渉委員として母校防衛に活躍した。 1904年に日本銀行へ入行、1908年に同行を退職し信濃銀行(現・みずほ銀行)取締役、1911年信濃毎日新聞社長、長野商業会議所会頭、1923年長野電灯社長、1930年信濃電気、信越窒素肥料(現・信越化学工業)の経営を越寿三郎から引き継ぎ、1931年信越窒素肥料社長、1940年信越窒素肥料を信越化学工業に社名変更、1950年日本発送電総裁、1954年電源開発総裁。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日… 津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日 - 1948年(昭和23年)4月18日)は、大正・昭和期の実業家。鐘紡の第2代社長を務めた。鐘紡争議を収束させ社長となる。昭和初期のインド綿花不買運動で知られる。旧姓西山。 愛知県額田郡岡崎能見町(現・岡崎市)に岡崎藩士・西山芳六の四男として生まれる。7歳の時に福井県庁の土木課長を務めていた津田於菟の養子となる。福井県立福井小学師範学校から福井県尋常中学校に進む。2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。1911年(明治44年)、西大寺工場長に就任。ついで淀川工場長となる。1930年(昭和5年)に副社長となり、同年4月から6月にかけて八つの工場で発生した労働争議(いわゆる鐘紡争議)の解決にあたる。
篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月2… 篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月29日 - 1930年(昭和5年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県南佐久郡岸野村(現在の佐久市)出身。篠原代吉の三男。小諸義塾を卒業し、日本大学法科で学んだ。大阪毎日新聞・東京日日新聞各記者となった。 清浦内閣で鈴木喜三郎司法大臣の秘書官を務めた後、1925年(大正14年)の衆議院補欠選挙に当選。その後の第17回・第18回総選挙でも再選された。その間、田中義一内閣で鈴木喜三郎内務大臣の秘書官に就任した。 他に日本大学評議員、国本社評議員を務めた。また日本大学推薦校友であった。
小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26… 小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26日 - 1931年(昭和6年)7月30日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。神奈川県橘樹郡町田村の村長を経て、大正9年の総選挙で初当選し、通算4期務めた。 神奈川県橘樹郡町田村(のち潮田町・鶴見町、現・横浜市 鶴見区)に生まれる。東京法学院(現・中央大学)卒。町田村の村長を務め、臨海部の埋立・宅地化や地域開発に尽力した。大正期には多摩川改修など地域インフラをめぐる請願・運動にも関わった。 1920年の第14回衆議院議員総選挙で初当選(神奈川3区)し、1924年(神奈川3区)、1928年・1930年(いずれも神奈川2区)に当選、通算4期務めた。
広沢 豊作(ひろさわ とよさく、1881年〈明治14年〉3月… 広沢 豊作(ひろさわ とよさく、1881年〈明治14年〉3月24日 - 1942年〈昭和17年〉4月11日)は、昭和時代戦前の政治家・医師・実業家。山口県小野田市長。 山口県出身。広沢季三郎の長男。1907年(明治40年)京都帝国大学医科を卒業し、小野田病院を創立。小野田陶業、小野田合同運送、小野田清涼飲料水各社長、門司病院長、山口県医師会長、山口県会議員、新沖ノ山炭坑(後の宇部興産、現在のUBE)取締役、朝鮮小野田セメント、宇部電気鉄道各監査役、山口県学校医会長などを歴任した。 1941年(昭和16年)小野田市の市制施行とともに初代市長に就任。在任中は、戦時下ながら市の発展と平和を象徴した市章の制定、小野田・高千帆両商工会を合併し新たに小野田商工会を設立するなど尽力したが、任期途中で死去した。
三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 19… 三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 1964年2月15日)は、日本の植物病理学者。 1881年、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市)に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学農学科(現・東京大学)を1906年に卒業、1907年に同大学助手となった。 1910年に清国・北京大学教授に招かれるが、政変により1914年に帰国。東京農業大学講師を勤め、植物病理学講座を開設して担当した。1924年に教授に昇格。玉川大学教授なども務めた。
児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月2… 児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月20日 - 昭和5年(1930年)1月30日)は、明治から大正期の実業家。東洋綿花株式会社(トーメンを経て豊田通商と合併)を創設。また、輸出綿糸組合を結成するなど綿業界の再建に尽力し、豊田紡織や三井物産の取締役・大阪市教化委員・資源審議会委員などを歴任した。 豊田利三郎トヨタ自動車工業初代社長や児玉桂三東京大学名誉教授は実弟。妻の米は園田孝吉男爵の娘。 児玉一造は、明治14年(1881年)3月20日に滋賀県犬上郡彦根町大字芹橋(現彦根市芹橋)で児玉貞次郎と美衛の子として誕生した。父貞治郎は美濃国養老郡の高木利右衛門の子で、長浜(後の神照村)の児玉助三郎の養子となり、江波伴三の娘美衛と結婚した後、彦根藩足軽の株を買い、明治維新後は家屋の壊し屋を家業としていた。
森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月1… 森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:森田 米松。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 岐阜県方県郡鷺山村(現・岐阜市)生まれ。1895年に高等小学校卒業後、日清戦争の影響を受け海軍軍人となるべく単身上京し、海軍予備校だった攻玉社に入学。しかし校風が合わず退学し、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学。同校を1899年に卒業。さらに金沢の第四高等学校に入学するが、恋人の森田つね(のちの妻)との同棲が見つかり、つねの親が学校に訴えたため退学処分を受ける。
今村 次吉(いまむら じきち、1881年(明治14年)3月1… 今村 次吉(いまむら じきち、1881年(明治14年)3月15日 - 1943年(昭和18年)4月17日)は、日本の大蔵官僚、実業家。東京帝国大学卒業。大日本蹴球協會(日本サッカー協会の前身)初代会長。大日本レスリング協会(日本レスリング協会の前身)会長。大日本陸上競技連盟(日本陸上競技連盟の前身)顧問。 今村有隣(1841年-1924年)の次男として生まれる。有隣は明治・大正期の著名なフランス語学者。また兄の今村新吉(1874年-1946年)は京都帝國大學教授を務め、日本の精神病理学者の先駆者と呼ばれた人物である。 1891年に東京高等師範学校附屬小學校(現・筑波大学附属小学校)、1897年に東京高師附屬中學校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1… 上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1950年12月19日 )は、日本の考古学者。 次男、上田明(愛媛、千葉、埼玉県警察本部長等を経て、中国管区警察局長)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治1… 太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治14年)3月10日 - 1926年(大正15年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄。動物学者である太田嘉四夫の叔父。 静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道院→鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。 帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966… 田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966年5月8日)は、日本の応用化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県生まれ。東京帝国大学工科大学応用化学科卒。 石油、油脂、ゴムの権威として、化学工業界の発展に尽力した。1918年東京帝国大学教授、後に東京工業大学教授兼任。1927年(昭和2年)「本邦産石油の成分並びに応用に関する研究」で帝国学士院賞受賞。1938年(昭和13年)帝国学士院会員。1961年(昭和36年)文化功労者。主著に『化学工業総論』、『有機工業化学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 196… 三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 1962年4月25日)は、明治時代から昭和時代の経済学者。専門は会計学。立教大学元総長、慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾大学元経済学部長、理財科教授として慶應義塾大学部で初めて会計学を講義。生涯にわたってクリスチャンであった。 1881年3月7日、神奈川県足柄下郡にて三辺惣吉の長男として生まれる。生家はかつて裕福であったが凋落したことから、勉学に対しての父の理解は薄い状況であった。一人家を出た金蔵は、肉体労働により学費を稼いだ。 旧制・立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業後、1908年に慶應義塾大学部理財科を卒業。その時、28歳という晩学であった。
伊達 亮治(だて りょうじ、1881年〈明治14年〉3月7日… 伊達 亮治(だて りょうじ、1881年〈明治14年〉3月7日 - ?)は、日本の公証人、判事。正五位、勲五等。親族は下記参照。 伊達家一門・伊達宗亮の四男として、宮城県亘理郡坂元村に生まれる。旧制第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法学部を卒業後直ちに高等文官試験に合格し、判事に任ぜられ、横浜・新潟・盛岡・平・土浦・水戸各地方裁判所を歴任。1923年(大正12年)に宮城控訴院判事となり、1930年(昭和5年)に退職。 趣味は、書画と旅行。宗教は曹洞宗。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年… 杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年〉3月6日 - 1938年〈昭和13年〉10月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の土木技術者、実業家。主に電気事業に関与し、矢作水力副社長・大同電力取締役などを務めた。岐阜県出身。 杉山栄は1881年(明治14年)3月6日、岐阜県士族杉山斧吉の長男として生まれた。本籍地は岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)。1901年(明治34年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1905年(明治38年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。その後は電力界に入り、まず箱根水力電気に入社して同社の土木課長となる。箱根水力電気は箱根早川の開発と横浜市への電力供給を目的に1906年(明治39年)12月に設立された電力会社で、1909年(明治42年)5月に塔之沢発電所を完成させた。
中島 照寛(なかしま てるひろ、1881年(明治14年)3月… 中島 照寛(なかしま てるひろ、1881年(明治14年)3月6日 – 1948年(昭和23年)4月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。熊本県荒尾市長。 熊本県葦北郡日奈久町(現在の八代市)出身。中央大学に学んだ。平井村(現・荒尾市)長、荒尾町(現・荒尾市)長、玉名郡会議員、熊本県会議員を務めた。その他、玉名郡畜産組合長、玉名郡家畜保険組合長を務めた。 1922年(大正11年)、熊本5区(当時)から衆議院議員に補欠当選を果たした。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で落選した。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙では熊本1区から立候補したが落選した。 1942年(昭和17年)より荒尾市会議員を2期務め、議長を務めた。
上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 -… 上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 - 1935年6月12日)は、現在の茨城県筑西市下館地区出身で若藤部屋、伊勢ノ海部屋、友綱部屋に所属した力士。本名は渡辺 福次郎(わたなべ ふくじろう)。8代若藤。身長171cm、体重は79kg。最高位は西前頭3枚目。得意技は右四つ、上手投げ、掬い投げ。 1899年5月場所序ノ口。その後応召されて、日露戦争に従軍。復帰後、1907年5月場所に十両昇進。1909年1月場所に入幕を果たす。二枚鑑札となっていたが、1913年5月場所限り引退。年寄・若藤として巡業の先乗りに手腕を発揮し、理事も務めたが、弟子の沖ツ海福雄の急死に気落ちし、部屋を復活させようとした矢先の1935年6月12日、胃癌で死去。
吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 … 吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 - 1944年〈昭和19年〉10月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 山口県熊毛郡、のちの大野村(現平生町)出身。1905年、京都帝国大学電気科卒。栃木県立宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)教諭、宇都宮電燈、奥羽電燈各(株)技師長、シーメンス・シュケルト(株)電気技師、周防電燈、中外電気各(株)専務取締役、全州電気、周東自動車、旭金属工業、満州工機各(株)社長、中島電気、全北電気各(株)取締役、周東中学校(現・柳井学園高等学校)主、東京工材、旭電気各(株)会長となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口9区から立憲政友会公認で立候補して初当選。
小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)… 小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)3月3日 - 1968年(昭和43年)4月2日)は、政治家。第11 - 14代八王子市長を務めた。勲四等瑞宝章、藍綬褒章受章。 1881年(明治14年)3月神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て現相模原市)に資産家根岸家の次男として生まれる。高等小学校時代から成績は良く法曹界を目指し東京法学院に進学し1901年(明治34年)卒業するが脚気衝心に罹り療養生活に入る。1907年には小林家に婿入り。1916年(大正5年)八王子町議会議員に当選(1期)。1918年(大正7年)には八王子織物同業組合評議員に選出。副組合長を経て1924年(大正13年)に組合長に就任した他、武相甲織物同業組合連合会会長・東京府織物工業組合理事長など織物関係の組合の要職に就任。
高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと… 高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと いさお)、1881年2月29日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、企業家である。 慶尚北道聞慶郡山陽面(朝鮮語版)薪田里(신전리)で生まれた。日本の明治大学に留学し、1910年7月に同大学法科を卒業し、1911年8月に朝鮮総督府の警部として採用され、1913年に普成法律商業学校(보성법률상업학교:後の高麗大学校の前身)に移って教授として在職し、1920年からはこの学校の校長も務めた。普成法律商業学校は1921年に専門学校認定を受けて普成専門学校に昇格し、高元勲は朝鮮人が建てた最初の専門学校の校長となった。一方、1920年7月には朝鮮体育会(조선체육회:大韓体育会の前身)の初代理事長に選出され、1921年には会長となった。
左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)… 左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)2月28日 - 昭和2年(1927年)8月11日)は日本の経済学者、経済哲学者。新カント主義者。弟子の杉村広蔵とともに経済哲学の創始者とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)や京都帝国大学文学部で教鞭をとると同時に、貴族院議員を務めた。帝国学士院賞受賞。チュービンゲン大学博士。 1881年、神奈川県横浜市生まれ。横浜の金融界で活躍した左右田金作の長男である。幼少より秀才で鳴らし、1887年に横浜小学校では第1学年を飛ばし、2年生として入学。尋常科、高等科を7年で修了し、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)では予科1年の1学期の修了後に2年生に進級。
村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年… 村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年)2月28日 - 1945年(昭和20年)11月9日)は、大正・昭和期の農林技官、華族(男爵)。加賀八家村井家第12代当主。 加賀藩重臣村井長在の嫡男村井又六の子として金沢に生まれる。1900年、父の隠居により家督を継ぎ、同年5月9日に祖父長在の明治維新における功績により男爵に叙爵された。 金沢第一中学校、盛岡高等農林学校を卒業。1909年、農商務省に入り福島・長野・水戸各営林署長等を歴任した。1935年、退官し前田侯爵家嘱託に就いた。
藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 19… 藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 1958年8月5日)は、日本美術史学者、東京帝国大学教授。 茨城県古河市に生まれる。号は獅埼庵、獅子庵。父方祖父の五郎左衛門は旧古河藩国家老。江戸家老鷹見泉石は母方の曾祖父である。 第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本絵画史を専攻した。1914年以降は同大学文学部副手となり、そのかたわら、岡倉天心らが創刊し瀧精一を主幹とする、日本および東洋古美術研究誌『國華』の編集部員を1911年から勤め、広く美術工芸品への知識を得ていった。また女子美術学校、日本大学の講師、1917年國學院大學教授となる。
濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せ… 濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せいりょう)、1881年2月22日 - 1938年7月25日)は、日本の考古学者。京都帝国大学総長・名誉教授。「青陵」は号。「日本近代考古学の父」と呼ばれる。 1881年、岸和田藩の上級藩士である濱田家の長男として大阪府南郡岸和田村(現:岸和田市岸城町)に生まれた。府立大阪尋常中学校(現:大阪府立北野高等学校)に入学するが、放校処分となり、その後東京府に渡り早稲田中学校(現:早稲田中学校・高等学校)に転校。卒業後は関西に戻り、第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)をに進学、卒業した。 1902年、東京帝国大学文科大学史学科に入学し、美術史を専攻。
中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-195… 中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-1952年9月12日)は日本の文学者、心理学者。本名は蓊(しげる)。奈良県出身 一高を経て、東京帝国大学文学部に入学。心理学を専修する一方で、夏目漱石の門下生となった。1922年、41歳にして、東京医専に入学する。卒業後は、千葉医科大学の研究所に勤務する一方、弟が精神病であったことから心理学研究に関心を持ち、1917年5月日本精神医学会を設立して会長となり、雑誌『変態心理』を創刊した。同誌は1926年10月まで刊行された。1929年には自ら診療所を開業した。この診療所が現在の中村古峡記念病院である。心理学者としても、二重人格の研究などの業績がある。
正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月… 正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の詩人、歌人。 岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)生まれ。哲学館大学(現:東洋大学)教育部卒業。 尾上柴舟・若山牧水ら共に「車前草社」を結成している。清水橘村との共著の『夏ひさし』、『小鼓』がある。大正7年『新進詩人』を創刊している。戦後、日夏耿之介・西條八十と共に日本詩人クラブを結成。 妻は与謝野鉄幹の元妻の林滝野。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月1… 西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月18日 – 1956年(昭和31年)8月11日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 和歌山県東牟婁郡那智村(現在の那智勝浦町)で、西田業平の息子として生まれる。和歌山県立田辺中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。卒業後、海軍で経理官として勤務し、中主計(主計中尉)に任命されたが、間もなく官を辞した。その後、和歌山市で元代議士の阪本弥一郎とともに弁護士事務所を開いた。 その後、和歌山市会議員に当選し、1929年(昭和3年)から1931年(昭和6年)まで議長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
泉崎 三郎(いずみさき さぶろう、1881年(明治14年)2… 泉崎 三郎(いずみさき さぶろう、1881年(明治14年)2月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。愛知県瀬戸市長。 山形県に相浦秀逸の三男として生まれ、泉崎時蔵の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。会計検査院書記を務め、高等文官試験に合格した。香川県属、熊本県上益城郡長、同天草郡長を務めた後、朝鮮総督府府道事務官に転じ、京畿道財務部長、江原道内務部長、釜山府尹、咸鏡南道内務部長、黄海道内務部長を歴任した。 1934年(昭和9年)に瀬戸市長に選出された。 その後、大阪繊維製品配給株式会社専務取締役を務めた。
藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 … 藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 - 1946年10月12日)は、日本の数学者・数学史家。第二次世界大戦前において、90編の欧文論文を著し、1936年にオスロで開催された国際数学者会議で招待講演を行うなど、当時の日本の数学界を代表する数学者であり、また日本数学史、中国数学史、朝鮮数学史をカバーする和漢数学史家としても大きな業績を残した。特に8000枚という膨大な遺稿「日本数学史」は『明治前日本数学史』全5巻(岩波書店、1955-1960)としてまとめられ、現在においても和算史を研究する上で最も重要かつ基本的な文献となっている。 1911年(明治44年)、東北帝国大学に数学科が設置されると、30歳で教授に就任。
明石竜 兵太郎(あかしりゅう へいたろう、1881年2月14… 明石竜 兵太郎(あかしりゅう へいたろう、1881年2月14日 - 1931年6月20日)は、現在の兵庫県明石市出身で八角部屋に所属した力士。本名は立花 兵太郎(たちばな へいたろう)。身長167cm、体重83kg。最高位は西前頭10枚目。得意技は左四つ、投げ、左筈押し、押し。 1902年1月場所に初土俵。1908年1月場所に十両昇進。一度幕下に陥落したが、十両復帰を果たしてからは2場所で十両通過、1911年6月場所に入幕を果たした。しかし、幕内では思うような成績を残せず、病気もあって十両へ陥落、その後は出場せず、十両最下位まで陥落した1914年1月場所に廃業した。女性人気が高く、木下杢太郎が「四本柱の総立ちに 桟敷いろめく国技館 かわいいおしゃくが あられもな 声をはりあげ 明石竜」と詩に詠んだ。
田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13… 田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13日 - 1969年(昭和44年)3月2日)は、大正時代から昭和時代中期にかけての日本の教育学者・社会事業家である。社会福祉法人「六方学園」の創立者である。 島根県旧邑智郡都賀村大字上野の出身である。島根県師範学校を卒業した。 1910年(明治43年)、島根県邑智郡川本町尋常高等小学校校長に就任した。在職中の1916年(大正3年)[要検証 – ノート]から2年間、毎年1ヶ月の夏休暇を利用して東京の滝乃川学園の創設者石井亮一に弟子入りし「治療教育」等の研修を受けた。 1916年(大正5年)2月29日に校長を辞任し、広島市白島町へ一家で移住した。
青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日… 青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使、駐スペイン公使。 熊本県、現在の熊本市で、小学校教員・青木健次郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。シカゴ領事官補、副領事、領事、大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官、外務大臣秘書官、大使館一等書記官、同参事官、ホノルル総領事を歴任し、その間、中国、ロシア、アメリカ合衆国、ブラジルに赴任した。 1926年(大正15年)駐メキシコ公使に就任し、1930年(昭和5年)4月から同年8月までは駐キューバ公使も兼ねた。
杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943… 杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943年2月21日)は、20世紀前半に活動した日本の作曲家。名前は「しゅう」と音読みされることが多い。石川県金沢市出身。 1881年(明治14年)、金沢市の名家に生まれる。尋常小学校を卒業後に大阪へ移り、大阪府第一中学校(現在の大阪府立北野高等学校)13期卒業の後、東京音楽学校へ入学し甲種師範科で同じ旧制中学の先輩に当たる多梅稚に師事する。 1904年(明治37年)に東京音楽学校を卒業し、富山県師範学校の教諭となる。1907年(明治40年)に『越中唱歌』を作曲、清明堂から刊行した。1922年(大正11年)に大阪府立市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)音楽教諭となり、1928年(昭和3年)に「祝日大祭日唱歌」として作詞・作曲が公募された「明治節」の作曲部門で入選する。
大城 孝蔵(おおしろ こうぞう、1881年2月10日 - 1… 大城 孝蔵(おおしろ こうぞう、1881年2月10日 - 1935年10月30日)は、明治から昭和にかけて活躍した沖縄県国頭郡金武町金武区出身のフィリピン移民監督である。その功績などから「フィリピン移民の父」「フィリピン開拓の父」などと称される。 金武尋常小学校卒業、東京帝大農学実科中退。金武尋常小学校時代の教師であった當山久三の勧めで、1904年には沖縄県初のフィリピン移住民の監督としてルソン島に渡った。 ルソン島では避暑地のバギオに通じるルソン島のベンゲット道路の工事に携わり、劣悪な居住環境やコレラ・赤痢などの病気が原因で、移民1500人のうち700人の犠牲者を出しながらも、道路工事を完成させた。
渥美 育郎(あつみ いくろう、明治14年(1881年)2月7… 渥美 育郎(あつみ いくろう、明治14年(1881年)2月7日 - 昭和38年(1963年)3月26日)は日本の実業家。 兵庫県士族渥美遂の長男。孫・直紀の妻・美恵子は中曽根康弘元首相の二女。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。大阪商船取締役、海外興業社長、国際汽船・北日本汽船・海南産業・ペルー綿花・南米土地・横浜共立倉庫・大阪建物各取締役・如水会理事等を歴任。墓所は青山霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日… 置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日 - 1968年(昭和43年)10月20日)は、大正から昭和初期に関西で活躍した建築家である。公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んだ。 1881年(明治14年)に、置塩藤四郎の長男として静岡県志太郡島田町(現・島田市)に生まれる。静岡県静岡尋常中学校から、第三高等学校 (旧制)へ進んだ。中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属し、ピッチャーを務めた。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。第四師団(大阪市)経理部に配属となり、第四師団管轄下の営繕全てにたずさわる。
古藤 増治郎(ことう ますじろう、1881年〈明治14年〉2… 古藤 増治郎(ことう ますじろう、1881年〈明治14年〉2月6日 - 1945年〈昭和20年〉3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲民政党)。大阪府浜寺町長。 大阪府泉北郡山滝村(現在の岸和田市)出身。井出清太郎の二男として生まれ、古藤家の養子となった。1901年(明治34年)、大阪府師範学校を卒業し、各地の小学校長を歴任した。1917年(大正6年)、浜寺町会議員に選出された。ついで1918年(大正7年)から1936年(昭和11年)まで浜寺町長を務め、泉北郡町村会長にも就任した。また1927年(昭和2年)と1931年(昭和6年)には大阪府会議員に当選し、参事会員、副議長を歴任した。 1936年、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2… 岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月5日)は、日本の検事。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。大津地方裁判所判事、奈良区裁判所検事、東京区裁判所検事、長野地方裁判所検事、千葉地方裁判所検事、同検事正、台湾総督府高等法院検察官長、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、司法省行刑局長、宮城控訴院検事長、長崎控訴院検事長を歴任し、1941年(昭和16年)からは大阪控訴院検事長を務めた。 1976年(昭和51年)3月、急性心不全で死去した。
遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月… 遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月4日 - 1973年〈昭和48年〉4月24日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身。遠藤久壽の長男。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業。 少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店、店員となる。3年はただ働きだった。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる。1924年、坂口合名会社の支配人となる。 1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する。 鋳物諸工具製造業を営む。幾多の事業に関係し、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる。
神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月… 神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月3日 - 1957年(昭和32年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 石川県珠洲郡正院村字川尻(現在の珠洲市)に、樋谷内助右衛門の三男に生まれ、神保康治の養子となった。1902年(明治35年)に石川県師範学校を卒業し、1915年(大正5年)に日本大学法律科を卒業した。1920年(大正9年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補に任ぜられるまでの10数年の間、小学校訓導・校長、金沢市書記などを務めた。1922年(大正11年)、官を辞して金沢市で弁護士事務所を開業。その後石川県会議員、同参事会員、金沢市会議員を歴任した。
香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 19… 香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 1967年12月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 東京生まれ。本籍・山形県。東京府立一中、錦城中学、一高を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科仏法科卒業。同年同月、千葉県属、同年11月、文官高等試験合格、42年8月、内務省入省。愛媛県理事官・視学官、岡山県警察部長、熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長などを経て、1923年(大正12年)に福島県知事となる。 以後、愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。1932年(昭和7年)2月5日、依願免本官となり退官。同年5月、東京府知事に復帰。1935年(昭和10年)に依願退職。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
加計 正文(かけ まさふみ、1881年〈明治14年〉2月2日… 加計 正文(かけ まさふみ、1881年〈明治14年〉2月2日 - 1969年〈昭和44年〉)は、日本の政治家、実業家、地主、広島県多額納税者。広島県山県郡加計町長。加計銀行頭取。加計隅屋22代当主。 広島県山県郡加計町(現安芸太田町)出身。加計八右衛門の長男。1898年、あるいは1906年、第六高等学校一部甲類を卒業。東京帝国大学文科に修学。夏目漱石の講義を熱心に聴講していたが、1905年時点で家業を継ぐため帝大を中退している。1917年、正式に家督を相続した。 加計銀行頭取、加計町長2期、郡教育会長、1913年以来広島地方森林会議員、県山林会理事、県産業調査会委員等に選ばれ、加計銀行が芸備銀行と合併後芸備銀行加計支店長、山林会副会頭。
田中 千代松(たなか ちよまつ、1881年(明治14年)2月… 田中 千代松(たなか ちよまつ、1881年(明治14年)2月2日 - 1929年(昭和4年)12月2日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 埼玉県北足立郡北谷村(安行村大字北谷、川口市、草加町を経て現草加市)で田中平十郎の六男として生まれる。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となって、青森地方裁判所と大阪地方裁判所で勤務した。しかし兄の衆議院議員田中左司馬の死により退官し、郷里で弁護士事務所を開業するかたわら、兄の政治活動を引き継いだ。 埼玉県会議員を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
堀口 満貞(ほりぐち みつさだ、1881年〈明治14年〉2月… 堀口 満貞(ほりぐち みつさだ、1881年〈明治14年〉2月2日 - 1939年〈昭和14年〉8月)は、日本の内務官僚、南洋庁長官。長野県出身。 1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格。和歌山県警視、徳島県事務官、同理事官、沖縄県警察部長、海軍事務官、臨時南洋群島防備隊民政署長、南洋庁書記官、同長官官房庶務課長を歴任。 1931年10月、南洋庁長官に任命され、翌月に退官した。