岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6… 山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。参議院議員。 長崎県出身。1915年(大正4年)九州帝国大学工科大学採鉱学科を卒業した。 卒業後、三井鉱山(現日本コークス工業)に入社し、山野鉱業所長、砂川鉱業所長、同社常務取締役などを歴任し、1947年(昭和22年)同社長に就任。その他、初代日本石炭協会長、同顧問、全国石炭復興会議議長、全国炭鉱管理委員会委員、経済復興計画委員会委員、北海道総合開発審議会委員、日本産業協議会理事、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)理事、日本経営者団体連盟(現:日本経済団体連合会)理事、東京商工会議所議員などを務めた。
伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1… 伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1971年12月26日)は日本の民間航空のパイオニアである。伊藤飛行機研究所を設立し、多くの飛行家を育てるとともに、国産機の開発にも努めた。 大阪市南区(後の浪速区)恵美須町に住む伊藤岩吉の二男として1891年(明治24年)6月に生まれる。家は今宮戎を南に行った辺りで駕屋を営んでいた。1904年(明治37年)に大阪市立恵美尋常高等小学校(後の恵美小学校)を卒業し、安堂寺橋にあった銅鉄地金商の佐渡島商店に勤める。 17歳であった1908年(明治41年)11月23日、道頓堀の朝日座でライト兄弟の飛行を写した活動写真を観て飛行機に興味を持ち、1909年9月の萬朝報の「奈良原式飛行機発明」の記事に感動して奈良原三次に乗員としての採用を求める手紙を書き送った。
草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1… 草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1964年11月11日)は、日本の俳人、医師である。俳句結社「黛吟社」を興した。 秋田県山本郡浅内村(後の能代市浅内)の小川末蔵の四男として生まれる。本名は■太(ちょうた ■はウ冠に甾丁)。後、「茂作」に改名している。 旧制・秋田県立大館中学校1年生のときに地元の俳人・山崎五風から俳句の手ほどきを受け、すぐに才能を現す。のちに秋田を代表する俳誌となる『俳星』に参加し、生涯『俳星』に所属した。 中学校4年のときに脚気を患い自宅療養し、家の近くの沼の周りを散策しながら句作を続けた。沼の数が五つあったことから、このころから号を五沼と名乗り、のちに秋田県南秋田郡馬場目村(現在の五城目町馬場目)の草皆家に養子に入ったことから、後半生は草皆五沼と名乗った。
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1… 草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。 草刈の遠祖は小野木公郷である。父・鉄太郎は旧会津藩士で、14歳のおり戊辰戦争における会津若松城籠城戦を戦った。長兄・雄治は東京帝国大学出身の関東都督府技師、のち九州電気軌道専務、次兄・哲治は海軍大主計(主計大尉)、二人の妹はそれぞれ同郷の陸軍将校(外井氏)、陸軍軍医(石田氏)に嫁いでいる。草刈は会津中学に学び、元来は一高志望であったが、海軍兵学校に在校していた同窓生の短剣姿に憧れ海兵進学を目指す。1910年(明治43年)、草刈は78名中3番の成績で中学を卒業する。
羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1… 羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月17日)は、日本の彫刻家。雅号は大化(たいか)、蜀獨楽(しょっこま)。 新潟県中蒲原郡川内村川内(現 五泉市川内)の醸造業・羽下徳八の次男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、第一高等学校を受験するが不合格、代用教員として新潟県の小学校に勤務、1910年(明治43年)12月に一年志願兵として村松町の陸軍歩兵第30連隊に入隊、1915年(大正4年)に結婚。 1916年(大正5年)4月に東京美術学校彫刻科木彫部に入学、高村光雲、白井雨山、大村西崖に学び、卒業して研究生になってからは北村西望、朝倉文夫、関野聖雲にも学んだ。
清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 198… 清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者・牧師。北京に崇貞学園を設立・経営。戦後に妻郁子とともに桜美林学園を創立。桜美林学園第3代理事長。 1891年、滋賀県高島郡新儀村北畑(現在の高島市)に豪農の子として生まれたが、5歳で父を亡くす。1905年、滋賀県立第二中学校(08年膳所中学校と改称)に入学。英語講師で宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズからキリスト教の感化を受け、1908年に受洗。1910年、同志社神学校に進学。同志社在学中、宣教師ホラース・ピットキン(en:Horace Tracy Pitkin)の殉教の話(義和団事件で死去)に感銘を受けた。
山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月… 山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月9日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会(二弁)会長、日本弁護士連合会(日弁連)副会長。二弁内会派清友会の長老格だった。 岡山県と鹿児島県出身(後述の父が1901年に鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)教授となったため)。1908年、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。第一高等学校 (旧制)大学予科へ進学して1912年7月に卒業し、東京帝国大学法科大学独法科を1916年に卒業(法学士)。二松學舍中退。大学卒業後日清汽船に入社し上海支店勤務となるが間もなく退職し、中国製鉄取締役、藝備銀行監査役を歴任。 1920年に弁護士登録し、1926年に弁護士開業。
細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 197… 細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 1974年8月9日)は、日本の小説家。 東京市麻布生まれ。旧姓は池田。すぐに埼玉県川越町(現:川越市)の細田丑太郎の養子に出され長男として川越で成長する。1915年、早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、木村毅らがいた。1918年に早稲田文学に処女作『空骸』を発表、1922年に自伝的長編小説『罪に立つ』で成功する。1924年には自叙伝ともいえる『はたち前』を発表し、川越での生活を現実主義的に描いた。弱者を描いた小説で知られ、日本プロレタリア作家同盟に加盟しプロレタリア文学の作家として『誘惑』(1927年)などで活躍する。
長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月2… 長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月29日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・音楽教育者。日本の洋楽の黎明期に優れた門下生を数多く育てた。 愛知県名古屋市出身。1914年(大正3年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)卒業。三浦環に師事。 1915年(大正4年)下半期だけでも5回の演奏記録があり、同年10月29日に神田青年会館にて「二十世紀社主催 音楽会」に出演。1916年(大正5年)11月16日には「皇后行啓演奏会」にて御前演奏をする。1920年(大正9年)12月3、4日 東京音楽学校第39回定期演奏会、11日 南葵樂堂「ベートーヴェン[生誕]百五十年紀念 音樂會」に出演(指揮:グスタフ・クローン ソプラノ:長坂好子 ピアノ:小倉末子)。
岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 19… 岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 1970年10月1日 )は、日本の実業家、政治家。 元衆議院議員(通算1期)。岸井成格(毎日新聞特別編集委員)の実父。 香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。 1917年(大正6年)東京帝国大学卒業。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する。 1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。
中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年〈明治24年〉… 中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年〈明治24年〉5月28日 - 1968年〈昭和43年〉11月17日)は、日本の大蔵官僚。 長野県上水内郡の松本家に生まれ、中村みねの養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格。大蔵属、副司税官、品川税務署長、税関事務官、大阪税関監視部長・総務課長、横浜税関総務課長、門司税関監視部長・総務課長を務めた。1933年(昭和8年)、関東庁事務官となり、財務局経理課長、財務課長を歴任。さらに札幌税務監督局長、神戸税関長、大蔵省為替局長、同資金局長を務めた。 退官後、北支那開発株式会社理事・経理部長、同副総裁を歴任した。
成島 勇(なるしま いさむ、1891年 (明治24年)5月2… 成島 勇(なるしま いさむ、1891年 (明治24年)5月25日 - 1956年(昭和31年)2月11日)は、日本の農家、政治家。衆議院議員。 千葉県出身。成島巍一郎の三男として生まれ、成島あゑの養子となる。1915年、東北帝国大学農学科を卒業。台湾製糖会社に入社し、その後、帰郷して農業を営む。 富勢村会議員、千葉県会議員、富勢村長、郡農会議員、県販購利用組合特別議員などを務めた。1937年4月の第20回衆議院議員総選挙で立憲民政党所属で千葉県第一区から出馬して当選。その後、第22回総選挙まで連続3回の当選を果たした。1947年に公職追放となり、同年の総選挙には妻の憲子が身代わり立候補した。 その他、農地開発営団設立委員、農林省委員、農商務省委員、日本進歩党民情部長、同政務調査会長、同総務委員会副会長、朝日乳業 (株) 取締役などを歴任した。
麻生 久(あそう ひさし、1891年〈明治24年〉5月24日… 麻生 久(あそう ひさし、1891年〈明治24年〉5月24日 - 1940年〈昭和15年〉9月6日)は、大正・昭和期の政治家・労働運動家。戦前の無産政党・社会大衆党の党首を務めた。 大分県玖珠郡東飯田村(現:九重町)生まれ。旧制大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、1913年第三高等学校を経て、1913年東京帝国大学仏法科に入学。学生時代はトルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学に熱中し、これがロシア革命に関心を寄せる契機となった。また女性関係も派手であったといわれている。 東大卒業後の1917年、東京日日新聞(現:毎日新聞)に入社(後に退社)。翌1918年には東日紙上に「ピーターからレーニンまで」を連載しロシア革命を支持した。
北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月2… 北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月24日 - 1981年(昭和56年)5月30日)は、日本の実業家。 スタンレー電気の創業者である。 1891年、山梨県東八代郡境川村(現・笛吹市)にて出生。 明治大学を経て、1920年12月29日、30歳のときに、東京市芝区(現・東京都港区芝)に住居兼店舗を借りて、自動車電球を中心とした特殊電球の製造販売会社「北野商会」を創業。 当時、1907年のT型フォードの本格製造から僅か10数年で、国内の自動車台数は未だ7,8千台足らずの時代であり、世界のマーケットを予見して創業したとされる。 世界との取引には、オリジナルの商標(ブランド)を持つことが必要と考え、「世界に光明を掲げた」人物としてその名を知られるイギリスの探検家、ヘンリー・モートン・スタンリーに肖り、商標を「スタンレー」と定める。
守島 伍郎(もりしま ごろう、1891年5月23日 - 19… 守島 伍郎(もりしま ごろう、1891年5月23日 - 1970年6月4日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員。
島津 忠備(しまづ ただみつ、1891年(明治24年)5月2… 島津 忠備(しまづ ただみつ、1891年(明治24年)5月23日または5月24日 - 1928年(昭和3年)6月5日)は、明治時代から昭和時代の華族(男爵)。旧鹿児島藩主島津家一族。 公爵・島津忠義の五男として東京府に生まれる。通称は富次郎。1893年、2歳にして分家し特旨を以て華族に列し男爵を授けられた。幼少期の籍は鹿児島郡吉野村(後に鹿児島市に編入)。1911年3月、学習院中等学科卒業。1914年7月、第七高等学校造士館卒業。1917年、東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。その後アメリカに渡航した。帰国後、農商務省東京工業試験所技師となった。キシライト株式会社の監査役に就任した。 1928年6月5日没、墓所は東京都港区の瑞聖寺。
浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年… 浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年〉5月21日 - 1965年〈昭和40年〉10月8日)は日本の医学博士、尺八奏者。山形県鶴岡市出身。号である浦本 浙潮(うらもと せきちょう)の名でも知られる。 1891年(明治24年)、山形県西田川郡大宝寺村新斎部万年橋(現在の鶴岡市新海町)の名家、榊原家に生まれる。幼少期を鶴岡市で過ごすが、荘内中学校在学中に熊本の浦本家に入り、熊本中学校に転校する。その後は旧制五高、京都帝国大学医科大学、同大学院を経て1921年(大正10年)に医学博士となる。その後は東京慈恵会医科大学の教授を務め、1951年(昭和26年)ごろに退職、浦本研究所を開設する。
羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 19… 羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 1976年8月21日)は、日本の作家、翻訳家。 鹿児島県種子島の西之表松畠出身。1905年3月榕城尋常高等小学校高等科3年修了。1910年3月第一鹿児島中学校卒業。同年5月から翌年7月まで国上小学校や榕城小学校の代用教員を務める。1911年9月には第七高等学校造士館に入るが、病気で中退し、郷里に戻って静養。 1918年上京し、同年博文館に入社して雑誌編集者を務め、1921年5月退社。1922年4月から1924年3月まで日本女子高等学院教授(国文学担当)。1928年10月から1933年7月まで萬朝報特派員として西欧を、1935年12月以降商工省貿易局編纂図書資料調査のため香港・東南アジア・ハワイ・北米を回る。
安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5… 安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の商人(薬種貿易商)、実業家。族籍は大阪府平民。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住瀧蔵の二男。叔父・安住伊三郎の養子となる。1913年、第三高等学校卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業。 薬種貿易商で、殺虫剤製造業及び輸出業を営む。安住大薬房社長・同常務取締役・同専務取締役、安住産業会長・同取締役、タイ国名誉副領事などをつとめる。 宗教は真言宗。趣味は釣魚、長唄。大阪市在籍で、住所は大阪府豊能郡箕面半町(現・箕面市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月2… 柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月20日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の音楽評論家。 東京出身。本名・柿沼市太郎。早稲田大学文学部英文科卒、中央音楽院に学び、天谷秀に師事。1924年、雑誌『音楽新潮』主幹になり、1942年まで勤めた。その後音楽評論家としてクラシック音楽についての著作や翻訳を多くなした。
平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月1… 平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月19日 - 1965年〈昭和40年〉12月12日)は、将棋棋士。贈七段。大崎熊雄門下。青森県出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1891年(明治24年)青森市大町生まれ。青森中学卒業後、第一高等学校の三部を受験し不合格となり、第二高等学校に進学、医学を志すも18歳の時に初期の肺結核となり進学を断念し高校中退。 青森帰郷後に杉野岩太郎(当時二段)と知り合い、杉野を目標に棋力を付ける。平野の棋力を認めた杉野の勧めで上京し、1918年(大正7年)4月に井上義雄の内弟子となり、付け出し四段となる。同じころ、将棋同盟社に入会。
安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974… 安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974年6月4日)は、日本の作曲家、教会音楽家である。 宮城県仙台市に生まれる、東北学院中学部卒業後に渡米し、ニューイングランド音楽院で、声楽、ピアノ、作曲を学び、1927年(昭和2年)に帰国する。 ニューイングランド音楽院(1926年卒業)ではピアノ及び作曲学をStuart C. Mason, F.S. Converse, George W. Chadwickに師事、三年連続で同学院作曲科エンドカット賞コンクール入選 優等賞を受賞した。 米国滞在中の主要作品として、小オーケストラ組曲「小川のほとりに」、「橋の上にて」 (1924)、オーケストラのための序曲「あけぼの」 (1925)、交響詩「ボストン生活の思い出」 (1926)などが挙げられる。
北条 雋八(北條 雋八、ほうじょう しゅんぱち、1891年〈… 北条 雋八(北條 雋八、ほうじょう しゅんぱち、1891年〈明治24年〉5月18日 - 1974年〈昭和49年〉5月30日)は、日本の政治家。貴族院議員。参議院議員(2期)。子爵。 1891年(明治24年)5月18日に元河内狭山藩主北条氏恭の四男として生まれる。1913年(大正2年)、学習院高等科を卒業。1916年(大正5年)、東京帝国大学農科大学林学科を卒業。帝室林野管理局技手となり、後に技師に昇進する。上松出張所長や東京支局業務課などに勤務した。 1925年(大正14年)、養父謙吉(実兄)の死去により家督を相続する。1939年(昭和14年)4月22日、補欠選挙で貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1… 古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1951年)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団理事。 1891年(明治24年)、山口県厚狭郡須恵村(現在の山陽小野田市)に生まれる。旧制山口国学院中学校へ進学したが中退、1907年(明治40年)より2年にわたり地元の尋常小学校訓導を務めた後、1909年(明治42年)に東京音楽学校器楽科へ入学し山田源一郎、パウル・ショルツらの師事を仰いだ。 1917年(大正6年)に東京音楽学校を卒業後、宝塚歌劇団に作曲家として加入を打診されたが辞退し第六高等女学校および浅草区柳北尋常小学校の教員を務める。1922年(大正11年)に5年越しの要請を受諾して宝塚歌劇団へ加入、宝塚音楽学校講師および劇伴の作曲家として昭和前期まで活動し、理事に至った。
松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月… 松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月16日 - 1963年(昭和38年)5月21日)は、日本の文部官僚。広島女子高等師範学校校長。 長崎県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1920年(大正9年)、第八高等学校教授となる。ついで文部事務官、督学官・書記官、宗教局宗教課長・保存課長、社会教育局成人教育課長・庶務課長などを歴任し、1937年(昭和12年)に宗教局長となり、1940年(昭和15年)には図書局長に転じた。同年日語文化協会内に日本語教育振興会が設置され、同協会理事長の阪谷芳郎の依嘱により、松尾が委員長に就任。 戦争末期の1945年(昭和20年)、新設された広島女子高等師範学校校長に就任した。
新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月… 新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月15日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、日本の文学者。未来社に参加した詩人で、『白樺』同人でもあった。ドストエフスキー、バルザック、ロマン・ロランなどロシア文学、フランス文学の諸作品を翻訳した翻訳家でもあり、『真理の光』を著すなど評論家としても活動した。法政大学教授。真城倭一はペンネーム。 福島県出身で、会津中学、一高 第一部丁類を経て1915年(大正4年)に東京帝国大学仏文科を卒業。豊島与志雄は、高校、大学とも専攻を同じくした同級生であった。一高時代から創作活動を始め、三木露風の未来社に詩「狂気」などを発表。露風系詩人として知られるようになる。
村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15… 村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本の建築家。日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。 佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。 1910年、小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、東京京橋の石材屋に弟と下宿する。1913年、早稲田大学大学部理工科電気工学科に入学。
古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月… 古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月15日 - 1982年(昭和57年)3月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。太平洋戦争において第一潜水戦隊司令官として、キスカ島撤退作戦などを戦った。 古宇田は大分県出身で海兵41期生である。海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、118名中53番で海軍兵学校を卒業した。初級士官時代に第一次世界大戦に出征し、遣米枝隊(森山慶三郎司令官)に属して北米の通商保護に従事した。 大尉進級とともに海軍水雷学校高等科へ入校。海兵同期からはともに潜水艦部隊の司令官として太平洋戦争を戦う山崎重暉、原田覚(前掲写真古宇田の後ろ)も入校し、首席はルンガ沖夜戦を戦った田中頼三であった。
保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月… 保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月13日 - 1965年(昭和40年)2月14日)は、日本の画家、彫刻家である。和歌山県竜門村(現:紀の川市)出身。彫刻家の保田春彦は息子、西村浩幸は孫婿である。 1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。 名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。
松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12… 松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12日 - 1966年(昭和41年)10月1日)は、貴族院議員などを務めた内務官僚。
常光 浩然(つねみつ こうねん、1891年5月12日 - 1… 常光 浩然(つねみつ こうねん、1891年5月12日 - 1973年11月29日)は、仏教ジャーナリスト、浄土真宗本願寺派の僧。 広島県出身。1914年東洋大学理学教育学科卒。1923年から26年東洋大学社会事業科幹事を務め、26年から1930年にかけて中山文化研究所理事。この間、1928-29年欧米の宗教教育事情を視察。1930年東京中野に日米ホームを創立、1941年まで在米日系人の子供を教育した。1946年広島県で「仏教タイムス」を創刊。1952年第2回世界仏教徒会議事務局長。55年仏教タイムス社を創設、61年社長。1968年仏教伝道文化賞受賞。
鳴沢 寡愆(なるさわ かけん、1891年〈明治24年〉5月1… 鳴沢 寡愆(なるさわ かけん、1891年〈明治24年〉5月10日 - 1977年〈昭和52年〉9月4日)は、日本の英文学者、俳人。広島大学名誉教授。俳号は花軒。高浜虚子に師事。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟市南区西笠巻)の浄土真宗大谷派・長福寺の鳴沢木誓の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第四高等学校を卒業、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学文科大学文学科(英文学専修)を卒業、東京帝国大学附属図書館に勤務。 1920年(大正9年)から京北中学校に勤務、大谷大学を経て1921年(大正10年)3月に松江高等学校教授に就任、1925年(大正14年)3月に広島高等学校教授に就任、12月から1年半、英語の研究のためイギリスやアメリカに留学。
米内山 震作(よないやま しんさく、1891年(明治24年)… 米内山 震作(よないやま しんさく、1891年(明治24年)5月10日 - 没年不詳)は、関東州官僚。 青森県上北郡七戸町出身。1915年(大正4年)、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)を卒業。朝鮮総督府中枢院属、農商務省属を務め、高等文官試験に合格した。朝鮮総督府忠清北道勤務、関東庁理事官・大連民政署財務課長、関東庁財務部財務課勤務、旅順民政署庶務課長、旅順民政署長、関東庁事務官・長官官房調査課長、内務局地方課長、関東局事務官・関東州庁内務部長、旅順博物館長、旅順図書館長、関東体育研究所長、大連民政署長・関東専売局長、関東州庁財務部長などを歴任した。 退官後、大連取引所長、東亜生果株式会社社長を務めた。
鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月… 鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月9日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の詩人。東京都江東区白河出身。本名は佐太郎。 俳人であった内藤鳴雪の門人で鳴秋と号していた。小学校卒業後に商家で奉公し、その後、貿易会社に勤務し、20歳の頃に童話募集に応募し、入選した。清水かつらと共に雑誌(少年号・少女号)を刊行した。その中で『お山のお猿』『浜千鳥』などを発表した。のちに「日本の歌百選」に選定された『浜千鳥』は、1920年(大正8年)6月、鳴秋が友人であった桑山太市朗を訪問し、新潟の柏崎海岸から番神岬を散策した折に制作した。その後、出版社を起業したものの失敗に終わり、満州へ渡り彼の地で新聞社学芸部長となったが、敗戦後日本に引き揚げた。
斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 197… 斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 1970年7月5日 )は、日本の英語学者。福井大学名誉教授。旧姓:菅原 宮城県生まれ。京都帝国大学選科卒業。 愛知県一宮中学校、福井県大野中学校、福井中学校各教諭、小浜中学校長、大野中学校長を経て昭和12年福井高等工業学校講師。24〜34年福井大学教授、同名誉教授。 晩年、東北学院大学教授を務めた。 7〜17年個人雑誌「英語学研究」を発刊、海外の論文を紹介した。 著書「Living English Readers」、「近代英語後期」「双解英和辞典」「米語辞典」「日本語に及ぼしたオランダ語の影響」などがある。福井市名誉市民。
津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1… 津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1979年5月1日)は、日本の技術者。 和歌山県出身。1912年(明治45年)に東京高等工業学校電気科を卒業し、吉村商会、東洋無線電信電話社長、吉村木工所監査役を務めた。 日本で初めて真空管式無線機の実験に成功した。 妻の八重は、共立電機常務取締役を務めた石黒慶三郎の長女。長女は佐治守夫に嫁いだ。
村山 智順(むらやま ちじゅん、1891年5月7日 - 19… 村山 智順(むらやま ちじゅん、1891年5月7日 - 1968年9月17日)は、日本統治時代の朝鮮で朝鮮総督府が作成した朝鮮の社会や民俗文化に関する数多くの報告書の執筆、編纂に関わった日本の宗教学、民俗学研究者。後に出家して日蓮宗の僧侶となり、新潟県刈羽郡北条町(後の柏崎市旧広田)の妙広寺で住職を務めたが、晩年は東京都に移り住んだ。 新潟県刈羽郡北条(後の柏崎市)に生まれるが、幼くして母を亡くし、地元の日蓮宗法布山妙広寺に預けられる。 住職であった村山智全(1867年 - 1943年)が寺の中に設けていた私塾である四恩報学舎に学び、その後、一時期、東京の中学校に在籍した後、帰郷して小千谷中学校を卒業し、第一高等学校を経て、1916年に東京帝国大学文学部哲学科社会学専修に入学し、1919年7月に卒業した。
高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 195… 高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 1953年3月17日)は、日本の哲学研究者、翻訳家。 千葉県出身。東京帝国大学哲学科卒。第四高等学校教授。ドイツ文学ではシュテファン・ツヴァイクの作品などを多く翻訳した。
鮎川 武雄(あゆかわ たけお、1891年5月6日 - 197… 鮎川 武雄(あゆかわ たけお、1891年5月6日 - 1979年10月9日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、北九州商工会議所会頭を務めた。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章。 1917年6月東京高等工業学校(現東京科学大学)窯業科卒業、8月東洋陶器入社。茅ヶ崎工場長や、取締役等を経て、1959年代表取締役副社長。1963年代表取締役社長。1965年藍綬褒章。1967年、杉原周一に社長を禅譲し取締役会長。同年勲三等旭日中綬章受章。北九州商工会議所会頭等も務め、1968年には初代北九州貿易協会会長に就任。1972年伊奈長三郎、田所芳秋、山内俊吉、森本貫一らとともに日本セラミックス協会名誉会員の称号を受けた。
佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年… 佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。太平洋戦争開戦直後のコタバル上陸作戦を指揮した。
岡 治道(おか はるみち 1891年5月2日 - 1978年… 岡 治道(おか はるみち 1891年5月2日 - 1978年2月18日)は、日本の病理学者。日本の結核研究の第一人者。 1891年、東京府芝区に生まれる(広島県で出生し海軍軍医であった父とともに群馬県太田町で育ったとする資料もある)。1917年から東京帝国大学病理学教室に勤務、1927年からは東京市療養所医員となり結核症の医療に従事、1941年からは結核予防会研究所部長、所長を務めた。1946年9月には東京大学教授となり医学部病理学第1講座を担当。同年には療養中の日本病医学会の三田村篤志郎会長の職務を代行して戦後初めての学会を開催、1947年に学会幹事に就任して学会の再興に尽力した。1952年に退官後は国鉄健康管理局、結核研究所各顧問を務めた。
伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1… 伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1日 – 1944年(昭和19年)2月7日)は、日本の文部官僚。
石山 曻之助(いしやま しょうのすけ、1891年5月1日 -… 石山 曻之助(いしやま しょうのすけ、1891年5月1日 - 1943年7月12日)は、現在の東京都千代田区出身で雷部屋に所属した力士。本名は石濱 曻之助(いしはま しょうのすけ)。168cm、81kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。俳優の石濱朗は甥にあたる。 1906年5月場所に初土俵。横綱梅ヶ谷の薫陶を受け、1910年6月場所に19歳で十両昇進。1911年6月場所に20歳で入幕した。小兵で非力ながら前さばきがうまく、出足早の速攻と左四つからの上手投げを武器とした。1915年6月場所には東張出前頭17枚目で8勝2敗の成績を収めるなど、前頭筆頭まで躍進した。1918年5月場所に27歳で廃業し、相場師に転じた。
岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 … 岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 群馬県群馬郡金古町足門(群馬町を経て現・高崎市足門町)出身。岸保五郎の三男として生れる。旧制高崎中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。「満州」分隊長などを経て、海軍大学校航海学生となる。「野島」「長良」の各航海長などを歴任し、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。 「鬼怒」航海長、軍令部第1班第1課参謀、「春日」教官、「八雲」副長、「室戸」「名取」の各艦長、海軍航海学校教頭、「扶桑」艦長などを経て、1939年11月、海軍少将に進級。
石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969… 石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969年7月12日)は、日本の教育史学者、お茶の水女子大学名誉教授。岡崎女子短期大学初代学長。教育学者の石川松太郎は息子である。日本近世教育史、特に石門心学を研究した。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市花園町屋敷)に中川仙太郎の次男として生まれる。1895年、4歳のときに父が死去し、碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)で農業を営む石川松吉の養嗣子となる。1903年、小垣江高等小学校を卒業。1912年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験教育科に合格し、1916年(大正15年)には東京高等師範学校の研究科に入学。1920年に渡米し、翌年スタンフォード大学に入学し、カバリー教授の指導を受ける。
大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月… 大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月28日 - 1962年(昭和37年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・大城戸卯市の三男として生まれる。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を優等で卒業。 1925年(大正14年)1月、歩兵第40連隊中隊長となり、参謀本部付勤務(支那班)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)を務め、1930年(昭和5年)12月から1931(昭和6年)11月まで陸大で専攻学生として学んだ。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969… 荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969年1月8日)は、日本の俳優である。本名は荒木 武雄(あらき たけお)。サイレント映画初期の時代である日活向島撮影所から、戦後の大映京都撮影所まで、長期にわたる芸歴をもつベテラン俳優として知られる。 1891年(明治24年)4月26日、新潟県刈羽郡田尻村(現在の同県柏崎市田尻地区)に生まれる。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の荒木の項を執筆した奥田久司によれば、父は明治維新までは、長岡藩士であったという。 中頸城郡立高田農学校(現在の新潟県立高田農業高等学校)に進学するが、1906年(明治39年)ころに中途退学して東京に移る。