小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7… 小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7月20日 - 1988年(昭和63年)1月6日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会連合会会長、成蹊学園理事長などを務めた。 小笠原鑅次郎・ハルの長男として東京に生まれる。 1918年東京帝国大学法学部独法科を卒業。三菱合資入社。1921年三菱銀行に転じる。 1945年5月取締役本店営業部長、1946年4月常務取締役、1947年1月専務取締役、1948年10月取締役副頭取、1954年11月取締役頭取、1959年相談役。 このほか、日本郵船取締役、三菱商事監査役、帝都高速度交通営団管理委員、東京銀行取締役、東京ヒルトンホテル監査役、日本カーバイド工業監査役を歴任。
猪俣 浩三(いのまた こうぞう、1894年7月20日 - 1… 猪俣 浩三(いのまた こうぞう、1894年7月20日 - 1993年8月21日)は、日本の弁護士、政治家。アムネスティ・インターナショナル日本支部初代支部長。 新潟県出身。日本大学法学部卒。1927年弁護士を開業。戦後、日本社会党の結成に参加。1947年に第23回衆議院議員総選挙に新潟4区から出馬して初当選、その後は連続7回当選。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選したが、1967年の第31回衆議院議員総選挙にて返り咲きを果たして1期を務めた。通算当選8回。 日本社会党の衆議院議員として人権侵害、汚職問題で政府を追及した。鈴木茂三郎(左派日本社会党委員長)が起こした警察予備隊違憲訴訟では原告代理人を務めている。
八重樫 利康(やえがし りこう / としやす、1894年7月… 八重樫 利康(やえがし りこう / としやす、1894年7月19日 - 1982年10月5日)は、日本の衆議院議員(1期)、花巻市長。 岩手県花巻市出身。高小卒。和賀郡笹間村(現・花巻市)会議員、同村長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に岩手県から立候補して当選。翌年、公職追放となる。衆議院議員を1期務めた後、追放解除後の1958年に花巻市長に選出され、1974年まで4期16年務めた。市長在任中、花巻空港の開港(1964年)、奥州大学(現富士大学)の開学(1965年)の他、市の小中学校の新設や校舎の新築、市内の水道整備、老人福祉センターの開所(1968年)、市体育館の開館(1969年)、市役所新庁舎の完成(1970年)、市立図書館の新築(1973年)などの業績を挙げた。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 194… 井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
片岡 伊三郎(かたおか いさぶろう、1894年(明治27年)… 片岡 伊三郎(かたおか いさぶろう、1894年(明治27年)7月12日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 千葉県山辺郡東金町上宿(山武郡東金町を経て現東金市)で、片岡善助の三男として生まれる。1911年(明治44年)千葉県立成東中学校(現千葉県立成東高等学校)を卒業した。 合名会社片岡商店ゲタモに入社し呉服商も営んだ。その後、大洋土地建物社長、千葉県繊維製品統制社長、千葉紡績社長などを務めた。戦後、千葉県商工経済会評議員、千葉県衣料品小売組合連合会長、千葉商工会議所会頭などに就任。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で千葉県選挙区から日本自由党公認で出馬して当選。
鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8… 鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8月3日)は、昭和期の北海道の教育者。北海道文教大学短期大学部初代学長。 新潟県出身。越後国藩士の家に生まれる。1908年、新潟県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)卒業。1908年より1917年まで新潟県内の小学校教諭。1912年、帝国女子専門学校(現・相模女子大学)卒業。北海道へ渡り、1917年、成美女学校(現・せいとく介護こども福祉専門学校)専任教諭。1942年6月、北海道女子栄養学校を設立し、校長に。1960年4月、北海道栄養学校校長に就任。1963年4月、北海道栄養短期大学を設立し、初代学長に。1963年12月、学校法人鶴岡学園初代理事長で夫の鶴岡新太郎が急逝し、2代理事長に就任。
武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10… 武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10日 - 1963年(昭和38年)10月11日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等・勲章は勲一等瑞宝章。伊予市名誉市民受章。 愛媛県伊予郡南伊予村下三谷(現・伊予市下三谷)出身。1913年(大正2年)北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)卒業。学生時代から政治家を志し明治大学法律科卒業後帰郷。1918年(大正7年)憲政会公認で松山市会議員に立候補し当選、翌1919年(大正8年)には愛媛県会議員にも立候補して当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に愛媛1区から立憲民政党公認で立候補し初当選。戦前は廣田内閣の文部参与官、小磯内閣の内務政務次官、翼賛政治会衆院部総務等を歴任。
川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、18… 川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、1894年7月9日 - 1965年2月20日) は日本の版画家、画家。本名は川西英雄。 1894年(明治27年)、兵庫県神戸市兵庫区東出町に回船・穀物問屋の七男として生まれる。1915年(大正4年)、神戸商業学校を卒業後、家業を継ぐ。1922年(大正11年)からは兵庫東出郵便局長を務めた。画家を志した時期についての資料は見つかっていないが、16歳のとき(1910年)に『セシル・アルディン作品の模写』(京都国立近代美術館蔵)を描いている。木版画は山本鼎の作品をみて志したとされ、1920年代より長らく国画会と日本版画協会を主な活動の場とした。1937年(昭和12年)に出版された『神戸百景』はエキゾチックな都市風景と風俗を描いた作品で、彼の代表作である。
尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 194… 尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 1944年1月4日)は、日本の実業家・教育者。刀江書院創業者で、同社長、埼玉銀行頭取、日本技術教育協会会長、日本児童社会学会会長などを務めた。 秋田県で尾高次郎の長男として生まれる。母は渋沢栄一の娘。埼玉県出身。妻豊子は、最後の岸和田藩主で司法大臣などを務めた子爵岡部長職の三女。娘の泰子は、最後の鳥羽藩主稲垣長敬の孫で子爵稲垣長賢の弟・稲垣重兼の妻。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。武州銀行副頭取、埼玉銀行頭取などを歴任し、多数の会社の役員も務めたが、1925年出版業を通じて日本の文化向上を図るため刀江書院を創業、社長を務める。 郷土教育連盟や日本児童社会学会を設立して前者の代表、後者の会長を務め、また日本技術教育協会会長なども務め、戦間期の日本の民族教育において、文部省などに対し指導的役割を果たした。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6… 朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は日本海軍の軍人、最終階級は海軍少将。 富山県下新川郡前沢村(現:黒部市前沢)出身。「朝倉豊次著作集」によると、魚津中学に5年間通い、海軍兵学校、陸軍士官学校(28期)ほか二校を受験し、全て合格する。陸士については官報にて確認できた。1916年(大正5年)11月、海軍兵学校(44期)を48番/95名で卒業し、翌年12月に少尉任官。海軍砲術学校高等科で学んだ。駆逐艦「羽風」、潜水母艦「迅鯨」の各砲術長、海兵教官兼監事などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業した。同年12月、第2水雷戦隊参謀となり、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第2課兼第1課)、軍令部部員(第1部第2課兼第2部第3課)を歴任。
大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治2… 大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。 群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった。 1901年(明治34年)に尋常小学校に入学。
東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 … 東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 - 1947年(昭和22年)1月9日)は、日本の商工官僚。実業家。 鹿児島県出身。旧制郁文館中学、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学経済学部を卒業、同年に高等試験に合格。農商務属、農商務省統計官、農商務事務官、商工省統計官、商工事務官、特許局事務官・登録課長、商工書記官・通報課長、臨時産業合理局事務官・大臣大臣官房会計課長、東京鉱山監督局長、商工省商務局長、同鉱山局長を歴任。1937年(昭和12年)、企画院産業部長となり、さらに商工省工務局長・臨時物資調整局事務官、同総務局長・機械試験所長事務取扱、燃料局長官を歴任した。
福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4… 福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の経済学者。科学技術史家・思想史家・文化史家でもあり、福本イズムを打ち立てた。長男は福本邦雄。 戦前期の日本共産党(第二次共産党)の幹部となり、その理論的指導者として活躍した。また、フランクフルト留学中、文化史という研究方法を学び、日本における文化史研究の先駆者の一人とされる。 福本は生前、自分の名前である「和夫」について、両親が「明治日本の出世頭」鳩山和夫にあやかったものと語っている。当時の筆名は、出身地にちなんで「北条一雄」としていた。 鳥取県久米郡下北条村(現・東伯郡北栄町)に福本信蔵の三男として生まれる。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2… 北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2日 ‐ 1989年(平成元年)6月7日)は、日本の労働官僚・経済学者。國學院大學名誉教授。北岡伸一の大叔父。 奈良県吉野町出身。旧制第一高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学政治科卒業。農商務省に入省し、内務省の外局として社会局が設置されると同事務官に就任した。1929年(昭和4年)社会局労働部監督課長、1936年(昭和11年)国際労働機関(ILO)事務所長などを歴任。1939年(昭和14年)に退官すると同時に、東京帝国大学経済学部教授に着任する。1941年(昭和16年)には住宅営団研究部長・理事に就任する。 戦後は1946年(昭和21年)経済安定本部第4部長を皮切りに、1948年(昭和23年)東宝取締役に就任。
金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1… 金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1日 - 1966年〈昭和41年〉11月27日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。同和病院初代理事長・院長、元外務省診療所所長、元老人病研究所副所長、元東京医科大学教授。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)の士族出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1918年(大正7年)7月に第八高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1922年(大正11年)4月に東京帝国大学医学部病理学第一講座(教授:緒方知三郎)に入室、1927年(昭和2年)に東京帝国大学医学部附属医院第二内科(教授:呉建)に入局、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。
藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975… 藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975年3月18日)は、大正、昭和期の逓信官僚。電源開発総裁。位階は従三位。広島県深安郡山野村(現福山市山野町)出身。 広島県立福山中学(現福山誠之館高校)、旧制第三高等学校を経て1921年、京都帝国大学法学部法律科卒業。逓信省入省。1927年札幌逓信局規画課長、1932年郵務局規画課長。この時期を通して郵便配達方法の改善に着目、郵便戸番制の採用など独創的な方策を樹立し、これらは後に新住居制度や郵便番号制度の普及に役立ったとされる。満州事変から1か月半後の1933年4月、満洲電信電話設立の要務を帯びて関東庁逓信局長に任命され大連に赴任。旧満州国の電力サイクルの統一等に尽力。
下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月3… 下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月30日 - 昭和59年(1984年)5月23日)は、日本の公認会計士。沖縄県宮古島市出身。日本公認会計士協会初代副会長を務めた。 東亜同文書院卒業。関西公認会計士協会支部長、財団法人下地玄信育英会 の設立者でもある。 宮古島平良市の下地玄忠の長男として生まれる。小さい時から大柄でその風貌から「今西郷」と言われていた。旧制首里中学(沖縄県立首里高等学校)校卒。その後、東亜同文書院を卒業後、森恪を慕って三井物産に入社後、三井三池炭鉱で働く。連隊で一年志願兵として従軍し、退社後、鉱山業失敗で100万円の負債を抱えるも保険会社の外交員として関西経済界で頭角を現す。
小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 19… 小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 1951年9月16日)は、日本の経営学者。関西学院高等商業学部教授。大丸百貨店監査役、神戸ゴルフ倶楽部理事。族籍は兵庫県士族。兵庫県多額納税者。氏の本宅については本記事の「邸宅」の節及び「日本一の富豪村・住吉村」を、別荘は「六甲山荘」の記事を参照。 第10代学校法人関西学院院長の小寺武四郎、元ユニチカ社長の小寺新六郎は甥。 大日本紡績監査役の小寺成蔵の長男として生まれる。 1912年、兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、関西学院高等学部に進学し、同学部商科第1期卒業生(16年)12名の一人となった。その後、アメリカ・インディアナ大学、コロンビア大学に留学する。
中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28… 中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日本の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。戦時中は特攻作戦を承認し強く推進した責任者でもある。「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評される一方で、終戦時には部下に「俺は死ぬ係じゃないから」と発言したことでも知られる。 1894年(明治27年)6月28日、長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)で農業・染色を営む父・忠助のもとに生まれる。中澤宗家は代々諏訪藩右筆だったが、明治維新により帰農した。父・忠助は豊田村村長も務めた。旧制長野県諏訪中学校を経て1912年(大正元年)9月9日、海軍兵学校第43期に100名中71番の席次で入校。
武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 198… 武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。 収集癖があり、日本全国の郷土玩具や郷土菓子を集め、郷土菓子169点について『日本郷土菓子図譜』(3巻)をまとめている。
沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月2… 沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月24日 - 1979年(昭和54年)5月9日)は、大正から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚。 鳥取県に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道院総裁官房研究所に入る。同研究所および鉄道省教習所の講師を務めたのち、1926年(大正15年)同省神戸改良事務所に転じ、1928年(昭和3年)から2年間、在外研究員として欧米へ留学した。1933年(昭和8年)鉄道大臣官房研究所に戻り、第四科長、1942年(昭和17年)鉄道技術研究所第二部長兼東京帝国大学第二工学部教授、1945年(昭和20年)鉄道技術研究所長を歴任し、同年退官した。
郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月… 郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月23日 - 1987年(昭和62年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、海軍司政長官。旧姓・山本。 石川県金沢市出身。山本久房の二男として生まれ、郡山富次郎の養子となる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し長野県属となる。 以後、長野県警部、同警視、佐賀県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、岡山県書記官・経済部長、福岡県経済部長、岐阜県総務部長、大阪府書記官・学務部長、内務書記官などを歴任。1941年6月から1943年1月まで海軍司政長官・海南島海軍特務部経済局長を務めた。
竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1… 竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。 竹鶴という苗字は、家(現在の竹鶴酒造)の裏にあった竹林に鶴が巣を作ったことから由来している。ニッカウヰスキーが親会社(アサヒビール)に機能子会社化されるまで大株主であった元オーナー一族の竹鶴威は養子(実の甥)にあたる。 1923年、鳥井信治郎に招かれ寿屋(現在のサントリー)山崎工場(現 山崎蒸溜所)初代工場長として、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造を指揮。
岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月… 岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月20日 - 1967年3月14日)は、昭和期に活躍した日本の心理学者、教育者。東京大学教授、立教大学教授、国際基督教大学教養学部教授、上智大学文学部教授。幼少教育の先駆者であり、教育心理学の分野で多くの業績をあげた。 長野県北佐久郡春日村(現・佐久市)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、同大学助手となり、女子英学塾(現・津田塾大学)、立教大学の各講師を兼務する。 1930年(昭和5年)、東京大学助手を辞め、立教大学教授に就任。教育学、教育史を講じ、心理学演習を担当した。1935年(昭和10年)からは、東京大学に戻り助教授となり、1948年(昭和23年)に東大教授となった。
藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月… 藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月19日 - 1972年(昭和47年)2月29日)は、第30代浄土真宗本願寺派総長、同派教尊寺11代住職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 19… 古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 1960年3月9日)は、日本の実業家。三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)代表取締役社長、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)小樽支店長(小樽支店での部下に斎藤英四郎がいた。)を経て、1950年三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)取締役副社長、1956年代表取締役社長。その他、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長、三菱油化(現・三菱ケミカル)取締役、大日本塗料取締役を務めた。
谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月1… 谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月18日 - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本銀行副総裁。
荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 198… 荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 1984年2月5日)は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府警務局長。 兵庫県出身。荒木矩の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年京都帝国大学法学部法律学科卒業。伊藤忠に入り、1921年、内務省特殊財産管理局嘱託となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格し内務属となる。 以後、福井県警視、鹿児島県・福井県の各地方事務官、三重県工場監督官、山梨県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1939年9月、徳島県知事に就任。1940年12月に退任し、台湾総督府に転じ警務局長となる。
金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16… 金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16日 - 1967年7月19日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。二・八独立宣言、朝鮮語学会事件で検挙された。本貫は永川金氏、号は常山(サンサン、상산)。 京畿道陽川郡の陽東面(金浦郡を経て現・ソウル特別市江西区)にて誕生。父は金鍾遠、母は草渓鄭氏。次男として誕生。7歳の頃から漢字を学習。太極学校で初等教育を受け、普成中学校に進学。 1913年に日本に留学し、錦城学校尋常中学校3年生に編入学。「半島中学会」という組織を作って活動。卒業後は慶應義塾大学部理財科に入学。朝鮮系留学生による組織『朝鮮留学生学友会』で総務として各種活動を主導。
水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月1… 水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月16日 - 1948年(昭和23年)7月1日)は、日本の劇作家、演劇評論家である。水木京太は筆名で、本名は七尾 嘉太郎(ななお かたろう)。声優の草分けである女優の七尾伶子は実娘である。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し、在学中に小山内薫に師事した。盲腸による腹膜炎で一年休学。大正8年(1919年)卒業。 資生堂の嘱託となり、大正9年(1920年)から同14年(1925年)まで『三田文学』の編集に携わりつつ、慶応義塾大学講師として劇文学を担当。
相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14… 相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、戦前日本の大蔵官僚。日本銀行理事・監事、日本出版販売会社社長。 山形県出身。特定郵便局長相田広吉の二男として生まれた。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。大蔵省に入省し大蔵属に任官し銀行局に配属された。 以後、財務書記・米国駐在、司税官・千葉税務署長、幸橋税務署長、大蔵事務官・銀行局配属、銀行検査官などを歴任。帝人事件で検挙され1934年(昭和9年)5月に休職したが、冤罪事件のため1937年(昭和12年)12月に無罪判決を受けて復職。
北川 千代(きたがわ ちよ、1894年6月14日 - 196… 北川 千代(きたがわ ちよ、1894年6月14日 - 1965年10月14日)は、日本の児童文学作家。筆名に松平鏡子、松平千代子、江口千代、大久保千代子、露おく籬、露子、露香。 没後、日本児童文学者協会により「北川千代賞」が創設された。同賞は1969年から1982年まで存続した。 1894年(明治27年)6月14日、埼玉県榛沢郡大寄村(現・深谷市上敷免)生まれ。父親の俊は日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場長だった。 三輪田高等女学校在学中より『少女世界』『少女の友』に投稿をはじめる。1911年(明治44年)、病気で中退するが『女学世界』より原稿を依頼され、「街はずれの記」で原稿料50円を得る。 1915年(大正4年)11月に両親の反対を押し切り、東京帝国大学在学中の小説家江口渙と結婚。
駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1… 駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1969年10月22日)は、日本の実業家。政商。大正時代から昭和時代にかけて活動した。 1894年に奈良県に生まれる。1915年に大阪高商(現大阪市立大学)を卒業後、三井物産に入社。綿花を取り扱う綿花部に配属される。1919年に棉花部が東洋棉花として独立した際に移り、海外で棉花の買い付けに従事した。1931年に昭和棉花常務、1945年には江商の社長に就任した。第二次世界大戦後は政財界に面識を広げ、関西財界のみならず全国区の論客としても知られるようになり、通商産業省顧問、大阪商工会議所副会頭、日本綿花協会理事長、経団連常任理事、日本貿易振興会理事長などを歴任した。
須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 … 須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 - 1946年〈昭和21年〉9月11日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、強戸村会議員。香川県の「伏石事件」、新潟県の「木崎争議」とともに日本三大小作争議の1つとして有名な「強戸争議」を主導した。農民運動の指導は合法主義で、争議による処罰者を出さなかったと言われている。 群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町)に、須永伊平・つやの次男として生まれる。長男は早世したため事実上長男として育つ。実家は絽機屋を営む裕福な農家であった。地元の強戸小学校を経て、旧制群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)に進学する。しかし、祖父・高次郎が病臥したことと、父が政治にのめり込んで武藤金吉の子分となり新田郡会議員となって家庭を顧みなくなったため、1909年(明治42年)に太田中学校を退学して農業に従事する。
豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
早田 喜稔(そうだ よしとし、1894年〈明治27年〉6月1… 早田 喜稔(そうだ よしとし、1894年〈明治27年〉6月10日 - 1975年〈昭和50年〉4月12日)は、日本の実業家。帝国化学工業社長。族籍は東京士族。 東京府出身。佐賀県士族で内務省土木技師の早田喜成の長男。1912年、東京府立第一中学校を卒業。1913年、家督を相続。 1915年、第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。新田ベニヤ製造所重役を経て1935年、帝国化学工業を創立。 趣味は読書、打球、テニス、ゴルフ。宗教は曹洞宗。住所は東京府東京市大森区(現・東京都大田区)田園調布。 早田家は代々の佐賀藩士で、父祖は槍術指南役を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7… 坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7日 - 1969年(昭和44年)11月1日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 福岡県福岡市出身。旧福岡藩士の坂本百太郎と母チョウ(同藩士の池田良助の長女)の長男として生まれる。父百太郎は炭鉱王・貝島太助が宮田町の貝島炭鉱に設立した私立大之浦小学校の教員を務めていた。 1914年、第一高等学校大学予科卒業。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。 外務属、外務事務官、外交官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館三等書記官、同二等書記官、ブエノスアイレス領事、モンテビデオ領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務書記官・拓務書記官、通商局第三課長、同第二課長、亜米利加局第一課長、同第二課長などを歴任。
岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)… 岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)6月4日 - 1975年(昭和50年)7月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。「南洋の貿易王」と称された。 児童文学作家の岡野薫子の大伯父にあたる。 静岡県志太郡青島村南新屋(青島町を経て、現藤枝市)で、岡野和吉の二男として生まれる。高等小学校を経て私立育英学校中学科に進んだ。2年次に瀬戸川の氾濫で実家が被災したため学校を中退し、藤枝駅前の丸十運送で住み込みで働く。育英中学に教師として赴任してきた橋本清之助と知り合い、社会教育団体の修養団藤枝支部の結成に関わった。 1914年(大正3年)にスマトラの雑貨商・豊原辰熊から青年の紹介依頼を修養団の蓮沼門三を通して聞き、同年、東洋貿易に入社した。
大久保 教尚(おおくぼ のりたか、1894年(明治27年)6… 大久保 教尚(おおくぼ のりたか、1894年(明治27年)6月3日 - 1959年(昭和34年)11月26日)は、大正から昭和期の宮内官、教育者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大久保教正の長男として生まれる。父の死去に伴い、1900年(明治33年)9月24日、子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部、1923年(大正12年)同大法学部をそれぞれ卒業し、さらに同大大学院で社会法学を研究した。 1925年(大正14年)宮内省に入省し宮内属に任官。宗秩寮勤務、式部官などを務めて1933年(昭和8年)に退官した。その後、東京商工学校講師、東京農業大学講師、日本西班牙協会理事、東京日本洪牙利協会理事などを務めた。
佃 良一(つくだ りょういち、1894年〈明治27年〉6月3… 佃 良一(つくだ りょういち、1894年〈明治27年〉6月3日 - 1963年〈昭和38年〉12月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県八名郡湊村(神戸市湊区を経て現兵庫区)で生まれた。1919年、早稲田大学英法科卒。神戸、須磨各税務署内所得調査委員、大阪財務局所得審査委員となる。 1929年4月25日から1937年4月24日まで神戸市会議員を務め、同年5月22日から再び神戸市会議員となる。1939年9月25日の選挙で神戸市湊区選挙区から兵庫県会議員選挙に立候補して、当選し、同月に就任した。1942年5月20日に市議を退任したが、同年6月20日に市議となった。1943年5月14日から同年7月1日まで第35代神戸市会副議長を務め、同日から1944年7月1日まで第24代神戸市会議長を務めた。
後藤 真太郎(ごとう しんたろう、1894年5月28日 - … 後藤 真太郎(ごとう しんたろう、1894年5月28日 - 1954年1月27日)は、日本の出版・編集者、座右宝刊行会社長。
三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5… 三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5月28日 - 1978年(昭和53年))は、日本の歴史学者、政治家。 宮崎県日向市生まれ。広島高等師範学校を卒業。京都大学経済学部卒業。中国や台湾に渡り教鞭をとる。終戦後宮崎へ引き揚げる。町長・市長を歴任。日向市名誉市民に選ばれる。 著書に『黒田の家臣物語』『日知屋物語 三尾良次郎作品集』がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
森部 隆(もりべ たかし、1894年(明治27年)5月27日… 森部 隆(もりべ たかし、1894年(明治27年)5月27日 - 1965年(昭和40年)4月10日)は、日本の内務・台湾総督府官僚、弁護士。官選島根県知事。 福岡県出身。森部隆三の四男として生まれる。第五高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。東洋拓殖株式会社を経て、内務省に入省し社会局に配属された。 以後、岩手県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、社会局書記官・労働部労政課長、ジュネーヴ国際労働会議政府代表顧問(1936年出張)、愛知県総務部長などを歴任。 1939年4月、島根県知事に就任。山林造林計画の策定、干ばつへの対策などに尽力。
山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月… 山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月25日 - 1977年(昭和52年)1月30日)は、日本の陸軍軍人、指揮者、クラリネット奏者。最終階級は陸軍軍楽少佐。陸軍戸山学校軍楽隊長、初代警視庁音楽隊長。 明治27年(1894年)、長崎県壱岐郡香椎村勝本浦(現・壱岐市勝本町勝本浦)に生まれる。大正元年(1912年)陸軍戸山学校軍楽科に入学してクラリネットで軍楽隊生活に入り、大正9年(1920年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科卒業。昭和5年(1930年)からフランスに留学し、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団で軍楽隊の演奏法、指揮法を身につける。その後ドイツにも留学する。
鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1… 鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1969年7月30日)は、日本の経営者。愛知県豊橋市出身。 1919年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1943年10月に東海銀行に転じ、頭取となり、1959年から会長を務めた。 1962年3月から1968年2月までに名古屋商工会議所会頭を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章。
田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日… 田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日 - 1962年(昭和37年)12月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・戸倉。 広島県出身。戸倉浩夫の二男として生まれ、左官職・田村直蔵の養子となる。ホノルル小学校、広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1921年(大正10年)4月から翌年3月まで、東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第6連隊中隊長に就任。
吉見 信一(よしみ のぶかず、1894年(明治27年)5月2… 吉見 信一(よしみ のぶかず、1894年(明治27年)5月22日 - 1988年(昭和63年)5月18日)は、日本海軍の軍人として太平洋戦争を戦った海軍少将。戦後は慶應義塾大学医学部を卒業し、医師として活躍した。娘の夫は後宮虎郎。 海軍中将・吉見乾海の長男として江田島に生まれる。弟の吉見博之は後に主計大尉となった。祖父の吉見雲台は越後長岡藩医で戊辰戦争で戦死している。小田原中学、広島一中を経て海軍兵学校入校。1915年(大正4年)12月同校卒業(第43期)。同期生に矢野志加三、中澤佑、高木惣吉らがいる。 海軍砲術学校高等科学生を卒業し、「帆風」砲術長、「霧島」分隊長、「対馬」砲術長、「陸奥」分隊長等を経て海軍少佐に進級。