末元 善三郎(すえもと ぜんざぶろう、1920年8月28日 … 末元 善三郎(すえもと ぜんざぶろう、1920年8月28日 - 1991年12月5日)は、日本の天文学者。専門は、天体物理学、とりわけ太陽物理学。1967年日本学士院賞受賞、1991年勲二等瑞宝章受章。 兵庫県神戸市出身(出生地は富山県)。旧制神戸一中、第一高等学校を経て東京帝国大学理学部天文学科に進学し、東大では萩原雄祐に天体物理学を学んだ。
1920年(大正9年)生まれ:687人
末元 善三郎(すえもと ぜんざぶろう、1920年8月28日 … 末元 善三郎(すえもと ぜんざぶろう、1920年8月28日 - 1991年12月5日)は、日本の天文学者。専門は、天体物理学、とりわけ太陽物理学。1967年日本学士院賞受賞、1991年勲二等瑞宝章受章。 兵庫県神戸市出身(出生地は富山県)。旧制神戸一中、第一高等学校を経て東京帝国大学理学部天文学科に進学し、東大では萩原雄祐に天体物理学を学んだ。
大槻 健(おおつき たけし、1920年8月28日 - 200… 大槻 健(おおつき たけし、1920年8月28日 - 2001年1月30日)は、日本の教育学者。早稲田大学名誉教授。大阪府出身。 大阪府出身。東京帝国大学文学部卒。神奈川師範学校、東京大学附属中学校(東京大学教育学部附属中等教育学校の前身)教師、早稲田大学助教授を経て、1953年に教授。1991年、定年退任、名誉教授。左翼的な立場から、小・中学校の社会科教科書の編集、執筆を行い、教育科学研究会や民間教育団体連絡協議会などの民間教育運動に参加。
谷上 幸男(たにうえ さちお、1920年8月28日 - )は… 谷上 幸男(たにうえ さちお、1920年8月28日 - )は、日本の政治家、漁師。坊津町長(4期)を務めた。 1920年8月28日、鹿児島県川辺郡西南方村大字坊(現南さつま市坊津町坊)生まれ。坊泊尋常小学校高等科卒業。その後、裁判所の書記を目指して鹿児島市の弁護士前之園喜一郎の元で書生として住み込む。その後、上京して日立航空機製作所に入社する。その後、1941年に召集され平壌飛行場に終戦まで勤務した。終戦後は帰郷して、原捨思が所有するカツオ漁船の漁労長となった。1973年、南方水産経理部長となる。1979年11月17日、坊津町助役に就任して11年務めた。1991年、坊津町長選挙に立候補して現職の原多計志と別の新人を破って初当選を果たした。
中薗 英助(なかぞの えいすけ、男性、1920年8月27日 … 中薗 英助(なかぞの えいすけ、男性、1920年8月27日 - 2002年4月9日)は、日本の小説家・推理作家。本名は中園 英樹(なかぞの えいき)。 福岡県遠賀郡上津役村(現北九州市八幡西区)出身。旧制福岡県立八女中学校(現福岡県立八女高等学校)卒業。在学中、西洋史を教わった渡辺啓助の影響で『新青年』を愛読するようになる。卒業後は満州を経て北京へ遊学し、同仁会語学校などに学ぶ。 1940年、北京大学の文学院を聴講しながら東亜新報の学芸記者となる。かたわら同人誌『燕京文学』に加わり、創作活動を開始。1942年、「第一回公演」で北支那文化賞を受賞。 1946年、引き揚げ帰国し、新聞記者を経てフリーのジャーナリストとなる。
奧野 久之(おくの ひさゆき、1920年8月27日 - 19… 奧野 久之(おくの ひさゆき、1920年8月27日 - 1992年4月17日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。 1987年9月5日に67歳で最高裁判所裁判官に就任。67歳での最高裁裁判官就任は三淵忠彦以来2人目。就任時の会見で「裁判や判決は法理の筋が通っているだけで値打ちが決まるものではない。この40年間、闘う手段を持たないで闘争している弱者の側にたって裁判所を下からみてきた。これからもこの立場で意見を」と述べた。 1986年衆院選の一票の格差訴訟と1986年参院選の一票の格差の最高裁判決において、合憲とする多数意見に対し、違憲とする反対意見を述べた。 1990年8月26日に定年退官した。
政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 194… 政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 1944年)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。1944年の登録名は中本 政夫。
穂坂 衛(ほさか まもる、1920年(大正9年)8月25日 … 穂坂 衛(ほさか まもる、1920年(大正9年)8月25日 - 2016年(平成28年)10月26日)は、日本の技師・学者。東京大学名誉教授。紫綬褒章。大野豊らと共に、世界初のオンライン座席予約システムと言われるMARS-1を開発。また日本のコンピューターグラフィクス・CAD分野のパイオニア。 技術士官として山名正夫の下で、艦上爆撃機の構造強度計算や、特攻機桜花の構造設計に携わる。「試験飛行時には設計者も同乗する必要があるため、ミスの許されない仕事を学んだ」と当人が語っている。 戦後、国鉄の鉄道技術研究所に移った穂坂はフルブライト・プログラムの第一期生としてMITに留学、ノーバート・ウィーナーとの出会いをきっかけにコンピューターを工学に応用することに関心を持つようになった。
古守 豊甫(こもり とよすけ、1920年8月25日 - 20… 古守 豊甫(こもり とよすけ、1920年8月25日 - 2008年1月8日)は、日本の医学者で長寿研究者。 山梨県北都留郡上野原町棡原(現・上野原市)で60年間の食生活と死因の変化を調査研究し、伝統的な食生活が長寿の要因であると結論づけた。 1920年、山梨県甲府市に生まれる。 1938年(昭和13年)、棡原小学校に代用教員として赴任した。 1943年に、東京医学専門学校(現・東京医科大学)を卒業し、軍医少尉に任官する。翌年、ラバウルに赴任した。 1946年に復員すると、母校の東京医科大学で肺結核の臨床研究を手がける。1947年より国立甲府病院内科勤務となる。 1954年に古守病院を創設した。1959年に東京医科大学より医学博士号を取得する。
三好 豊一郎(みよし とよいちろう、1920年8月25日-1… 三好 豊一郎(みよし とよいちろう、1920年8月25日-1992年12月12日)は、日本の詩人。 東京出身。早稲田大学専門部卒。鮎川信夫らと交遊、戦時下に詩誌「故園」を発行。1947年『荒地』創刊に参加。1949年第一詩集『囚人』を刊行。1975年『三好豊一郎詩集』で無限賞、1984年『夏の淵』で第14回高見順賞受賞。
稗田 一穂(ひえだ かずほ、1920年8月23日 - 202… 稗田 一穂(ひえだ かずほ、1920年8月23日 - 2021年3月23日)は、日本画家、文化功労者。東京芸術大学名誉教授。女子美術大学大学院客員教授。創画会会員。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現・田辺市)生まれ。父はデザイナーの稗田耕一(号・彩花)。その後大阪に転居、9歳から阿倍野橋洋画研究所に通う。1933年、大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。卒業後上京、東京美術学校日本画科に入学。1943年、戦時体制のため繰上げ卒業。その後山本丘人に師事。 戦後1948年、丘人、上村松篁らが創造美術を結成し、第1回展より出品、奨励賞受賞。1951年、創造美術と新制作派協会が合併し新制作協会日本画部が発足、会員に推挙される。
別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 199… 別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
宇土正彦(うど まさひこ、1920年 <大正9年> 8月23… 宇土正彦(うど まさひこ、1920年 <大正9年> 8月23日 - 1999年 <平成11年> 10月12日)は、日本の体育学者。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 長崎県出身。1944年東京文理科大学教育学科心理学専攻卒。文部省勤務、東京教育大学助教授、教授、1974年筑波大学体育学系教授・体育専門学群長を経て、1983年定年退官、名誉教授、日本女子体育大学学長。96年退任、名誉教授。日本体育・スポーツ経営学会会長、スポーツ産業学会理事長も務めた。 96年勲三等旭日中綬章受勲。99年死去。死没日付をもって正八位から従四位に進階した。
田中 伸(たなか しん、1920年8月23日 - 1991年… 田中 伸(たなか しん、1920年8月23日 - 1991年2月8日)は、日本の国文学者。近世文学専攻。 北海道生まれ。1942年二松学舎専門学校卒、1946年早稲田大学文学部国文科卒。49年同大学院修了。日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)助教授、二松學舍大学文学部助教授、教授。定年直前に死去。
東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日… 東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月8日)は、日本の小説家。本名は東徤(あずま・たかし=行人偏に建)。23歳で夭折した。学習院時代の三島由紀夫と親交を持った。 父・東季彦は奈良県十津川村出身の法学者で、九州帝国大学法文学部教授や日本大学学長などを歴任。母・菊枝は軍人・石光眞清の次女。 「文彦」という筆名は、季彦が息子の名前にと一時考えていたものである。本名の「徤」は、祖父の東武の命名による。「徤」の字は『易経』にあり、天の運行の壮んさを表す。 神奈川県鎌倉市生まれ。幼時を父の赴任先の福岡で過ごした。小学校を福岡県男子師範学校付属小学校で過ごしたことは、文彦にとって重要なものであった。
鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年〈大正9年〉8月23… 鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年〈大正9年〉8月23日 - 1986年〈昭和61年〉10月17日)は、日本の詩人・評論家・翻訳家。別名・二宮 佳景(にのみや よしかげ)。本名・上村 隆一(うえむら りゅういち)。 戦後の詩壇で一貫して重要人物とされる。第1次、第2次『荒地』の創刊に関わる。「詩人の条件」「なぜ詩を書くか」などの詩論で、戦後詩を性格づける中心的役割を果たした。作品に詩「死んだ男」(1947年)、『鮎川信夫詩集』(1955年)など。 東京小石川の高田豊川町に生まれる。父・上村藤若(「帝国文化協会」主催の出版者・文筆家)は農本主義的なナショナリストで、世間的には温厚な人格者でありながら、家庭内ではすこぶる冷淡な人間であったため、鮎川にとってのモダニズムは〈父親イメージへの反逆から始まった〉と後に語っている。
福田 勇一(ふくだ ゆういち、1920年8月22日 - )は… 福田 勇一(ふくだ ゆういち、1920年8月22日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手。
平野 喜八郎(ひらの きはちろう、1920年〈大正9年〉8月… 平野 喜八郎(ひらの きはちろう、1920年〈大正9年〉8月21日 - 2010年〈平成22年〉10月24日)は、日本の政治家。元岐阜県各務原市長。岐阜県郡上市(旧・郡上郡大和町)出身。
坂崎 利一(さかざき りいち、1920年8月21日 - 20… 坂崎 利一(さかざき りいち、1920年8月21日 - 2002年1月11日)は、日本の細菌学者。
田舛 彦介(たます ひこすけ、1920年8月20日 - 20… 田舛 彦介(たます ひこすけ、1920年8月20日 - 2004年7月22日)は、元卓球選手。卓球用品総合メーカー株式会社タマスの創業者。山口県柳井町(現・柳井市)出身。 旧制柳井商業学校 (現・山口県立柳井商工高等学校) 卒業。1946年、全日本卓球選手権大会では男子シングルス決勝で藤井則和に0-2で敗れ準優勝。1949年、田中良子と出場した全日本選手権混合ダブルス決勝で本庄俊彦 / 西村登美江組を2-0で下し、優勝。1950年、卓球用品総合メーカー株式会社タマスを創業した。1957年、『卓球レポート』を創刊した。1983年、バタフライ卓球道場を建設した。 株式会社タマスは、ブランド名であるBUTTERFLY(バタフライ)として知られている。
信元 安貞(のぶもと やすさだ、1920年8月19日 - 2… 信元 安貞(のぶもと やすさだ、1920年8月19日 - 2003年5月8日)は、日本の経営者。曙ブレーキ工業社長、会長を務めた。位階は従四位。前妻の満智子との子に信元久隆、信元真佐江、後妻トミ子との子にリップシャッツ信元夏代がいる。 東京都出身。1943年に東亜同文書院大学商学部を卒業し、1950年に曙産業(のちの曙ブレーキ工業)に入社。取締役、常務、専務を経て、1960年5月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1990年6月に会長に就任し、信元久隆氏代表取締役社長を継いだ。1994年6月には名誉会長に就任。 1981年4月に藍綬褒章を受章し、1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。「自動車部品産業の黎明期に多大な貢献」をしたとして、日本自動車殿堂者(Japan Automotive Hall of Fame)に認定されている。
皆川 洸(みながわ たけし、1920年8月18日 - 198… 皆川 洸(みながわ たけし、1920年8月18日 - 1984年3月3日)は、日本の国際法学者。法学博士。上智大学法学部教授を経て、指導教官大平善梧の招きで後継者として一橋大学法学部教授に着任するが、在任中死去し、後任には大平門下の桑原輝路が就いた。正四位・勲三等旭日中綬章。国際法学会名誉理事。世界法学会理事。 他にゼミ出身者に内閣府副大臣等を務めた末松義規衆議院議員などがいる。
阿部 喜夫(あべ よしお、1920年8月17日 - 没年不明… 阿部 喜夫(あべ よしお、1920年8月17日 - 没年不明)は、日本の経営者。群馬県出身。 1943年に東京帝国大学農学部農経科を卒業し、同年4月に日本勧業銀行に入行。1970年5月に取締役に就任し、1974年11月に第一勧業銀行常務、1979年6月に専務、1982年6月に副社長を経て、1983年6月にはオリエントファイナンス社長に就任した。1991年6月には会長も兼任し、1993年6月には会長に専任。
河野 一英(こうの かずひで/いちえい、1920年〈大正9年… 河野 一英(こうの かずひで/いちえい、1920年〈大正9年〉8月16日 - 2015年〈平成27年〉7月24日)は、日本の公認会計士(登録番号No.992)。正七位勲四等。元センチュリー監査法人(現・EY新日本有限責任監査法人)会長。大東文化大学名誉教授。商学博士。オーデリック特別顧問、日東工器・日本ライフライン・化学工業日報社・味の浜藤・シレン・各顧問、横浜化成監査役、大蔵省公認会計士試験委員、センチュリー監査法人会長を歴任した。 1920年、平田屋(のちの平田百貨店、現・高麗大然閣タワー)従業員の河野一三(広島県沼田郡緑井村出身)・房(旧姓・村井、三重県出身)夫妻の長男として朝鮮京畿道京城府にて出生した。
村山 美知子(むらやま みちこ、1920年8月16日 - 2… 村山 美知子(むらやま みちこ、1920年8月16日 - 2020年3月3日)は、日本の文化人。朝日新聞社の第3代社主。元朝日新聞社社長村山長挙の長女。兵庫県出身。甲南幼稚園、甲南小学校、甲南高等女学校を経て1939年に自由学園高等科1年修了。 朝日新聞社の発行済み株式総数のうち36.5%(116万6,641株)を保有する筆頭株主だった。1963年6月から株式会社朝日新聞社取締役社主付として就任。1977年8月から朝日新聞社社主に就任。 また朝日新聞と関係が深い朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)の発行済み株式総数の3.5%(14万5,500株)を保有し、1979年6月から2007年6月27日まで同社の社外取締役を務めていた。
那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、1920年8月15日 … 那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、1920年8月15日 - 1994年12月22日)は、和歌山県日高郡日高川町(現役時代は、同郡矢田村)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は柏木 佐平(かしわぎ さひら)。最高位は西前頭19枚目(1950年9月場所・1951年1月場所)。現役時代の体格は182cm、99kg。得意手は右四つ、三所攻め、大股、小股掬い。 1937年5月、横綱・武蔵山の一行が巡業で和歌山市内を訪れた際に出羽海親方(元小結・両國)の熱心なスカウトを受け、それに応じて出羽海部屋へと入門。同年5月場所で初土俵を踏み、翌年5月、本名でもある「柏木」の四股名で序ノ口に付いた(その後、「那智ノ海」を経て「那智ノ山」へ改名している)。
三富 恒雄(みとみ つねお、1920年8月14日 - 200… 三富 恒雄(みとみ つねお、1920年8月14日 - 2005年2月9日)は、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)出身のプロ野球選手(投手)。 栃木商業から社会人野球の太田雄飛に入社(法政大学中退との情報もあるが、間違いである)。1939年の都市対抗にも出場し、明治神宮大会で優勝も果たしている。1940年翼軍に入団。1942年暮れに応召される。1947年に金星スターズでプロ野球に復帰。1949年には中日ドラゴンズへ移籍し、1951年に12勝をマークし、この年はオールスターゲームに出場した。1954年に現役引退。引退後は、中部日本放送で野球解説者を務めた。当時としては珍しい左のサイドスローからシンカー、カーブやシュートを武器としていた。
梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 198… 梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。本名は梅田晃(あきら)。慶應義塾大学大学院修了。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。パイプや万年筆などの収集家としても知られる。梅田望夫、梅田みかは子。 1920年(大正9年)、東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)愛住町の暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父・梅田潔と文学者の母・玲子の間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣の中で育ち、1926年(大正15年)、慶應義塾幼稚舎入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育を受ける。
山原 健二郎(やまはら けんじろう、1920年〈大正9年〉8… 山原 健二郎(やまはら けんじろう、1920年〈大正9年〉8月11日 - 2004年〈平成16年〉3月8日)は、日本の政治家。 高知県議会議員(2期)、衆議院議員(10期)、日本共産党衆議院議員団長、党議員団総会副会長を歴任。 高知県長岡郡本山町出身。 二松學舍専門学校卒。 出征、高知新聞記者を経て中学・高校の国語教師に。 1948年、高知県教育委員に全国最年少で当選(27歳)。 1953年、共産党入党。 1956年からは県教組副委員長、県総評副議長を務め、勤評反対闘争の際に懲戒免職となった。 1963年高知県議当選。 1969年の第32回衆議院議員総選挙で衆院議員に初当選。党衆議院議員団長、党議員団総会副会長を務める。
鵜川 昇(うかわ のぼる、1920年8月10日 - 2007… 鵜川 昇(うかわ のぼる、1920年8月10日 - 2007年11月27日)は、日本の教育関係者。茗渓会会長、学校法人茗溪学園理事長、学校法人桐蔭学園理事長、桐蔭横浜大学学長、自民党かながわ政治大学校初代校長などを務めた。
馬場 一雄(ばば かずお、1920年(大正9年)8月8日 -… 馬場 一雄(ばば かずお、1920年(大正9年)8月8日 - 2009年(平成21年)8月24日)は、日本の小児科医学者。 東京生まれ。1944年、東京帝国大学医学部卒。1945年、同医学部小児科医局に入り、東京大学医学部助教授。1951年「新生児並に乳児に於ける諸反射」で東京大学より医学博士の学位を取得。東京都立築地産院。1963年、日本大学医学部小児科学教室教授。日本大学医学部附属板橋病院長、日本大学総合科学研究所教授。1994年、日本学術会議会員、勲三等瑞宝章受章。山下家の五つ子の研究にかかわる。 2009年8月24日、老衰のため死去。
内田 るり子(うちだ るりこ、1920年8月8日 - 199… 内田 るり子(うちだ るりこ、1920年8月8日 - 1992年5月1日)は、日本の声楽家、民俗音楽研究者。 東京生まれ。1942年東京音楽学校声楽科卒。1952年山形大学助教授、1954年日本女子体育短期大学助教授、1956年国立音楽大学助教授、教授。1962年ウィーン大学哲学科中退。83年『奄美民謡とその周辺』で第1回志田延義賞受賞。91年国立音大名誉教授。91年「奄美民謡とその周辺」で國學院大學文学博士。門下にペギー葉山がいる。
梁 粛戎(りょう しゅくじゅう、1920年〈民国9年〉8月8… 梁 粛戎(りょう しゅくじゅう、1920年〈民国9年〉8月8日 - 2004年〈民国93年〉8月27日)は、中華民国(台湾)の政治家。立法院長を務めた。 1920年、奉天省昌図県で出生する。 1941年、満洲国長春法政大学(長春大学)卒業。大学在学中の1939年に中国国民党の秘密党員となり、地下工作員として抗日活動に従事した。満州国の官吏養成機関であった大同学院、司法官訓練所で学ぶ。立法委員となってから、日本の明治大学で修士号を取得した後、1976年に博士号を取得(法学)。 満州国の検察官となるが、工作員であることが発覚して1944年3月に逮捕され、1945年(康徳12年)5月に満洲国法院で懲役12年の実刑判決を受けて服役する。
塚本 邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日 - 200… 塚本 邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本の歌人・詩人・評論家・小説家。 朝日歌壇の選者の前川佐美雄に師事。第一歌集『水葬物語』(1951年)は、斬新なあまり歌壇から黙殺されたが、三島由紀夫に注目された。 寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称され、独自の絢爛な語彙とイメージを駆使した旺盛な創作を成した。若い頃の別名に碧川瞬、火原翔(この二つは、日本現代詩歌文学館にて確認 )、菱川紳士( 士 は省かれる場合もある )等があり、晩年の教授時代の学生たちとの歌会では鴻池黙示を好んで使った。それでも、著書目録にある単行本や文庫では、これらの著者名で出版されたものはない。
佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - … 佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - 2009年(平成21年)1月20日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県出身。召集され兵役に就いた。東京都交通局に入局。1955年(昭和30年)専修大学商経学部経済学科を卒業した。東京交通労働組合青年部長や、東京都労働組合連合会、日本都市交通労働組合(現全日本自治団体労働組合都市公共交通評議会)、港区労協の各役員を務めた。 東京都港区議会議員を経て、東京都議会議員に選出され3期在任した。この間、同都議会公営企業委員長、同中小企業対策審議会委員、東京オリンピック大会組織委員などを務めた。 1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で東京都第6区から日本社会党公認で出馬し初当選。
越智 信義(おち のぶよし、1920年8月6日 - 2014… 越智 信義(おち のぶよし、1920年8月6日 - 2014年1月10日)は、日本の将棋史研究者。古川柳研究会会員。「将棋博士」と呼ばれた。 東京都中央区築地生まれ。1938年、東京市立京橋商業学校(現・東京都立芝商業高等学校)卒業。住友金属工業に勤務。戦中、陸軍に応召して満洲へ。戦後は住金物産に勤務して、総務部長から「氷川会館支配人」を経て退職。 日本将棋連盟嘱託として、棋譜や対戦成績のデータベース整備を担当。『将棋昭和史』『将棋名人戦全集』『将棋年鑑』等の刊行に協力。 また、長年に渡り、将棋史の調査、将棋文献の収集を行ってきた。収集した文献は生前に、大阪商業大学・アミューズメント産業研究所に寄贈された。
古山 高麗雄(ふるやま こまお、1920年〈大正9年〉8月6… 古山 高麗雄(ふるやま こまお、1920年〈大正9年〉8月6日 - 2002年〈平成14年〉3月11日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。芥川賞作家。 主として太平洋戦争(大東亜戦争)下の徴兵での従軍体験や、復員後の生活を舞台にした小説を発表し、いかなる場においても変わることのない人間のありかたを描き出した。 PL教団主宰の『芸術生活』誌では編集専従のデスク(副編集長)で入社し、のち編集長。『季刊藝術』誌では、音楽を担当する遠山一行、文学を担当する江藤淳、美術を担当する高階秀爾と共に、専任の編集長として同人を組み発行した。 編集者として、森敦を見出すなど、広い識見を高く評価される。また人脈も広く、予備校時代の安岡章太郎をはじめ、遠藤周作、寺山修司、田中小実昌、吉田満、小島信夫、円地文子らと深い交流を持った。
橋立 孝一郎(はしだて こういちろう、1920年(大正9年)… 橋立 孝一郎(はしだて こういちろう、1920年(大正9年)8月5日 – 1988年(昭和63年))は、日本の実業家。キデイランドの創業者。 1920年、東京府渋谷町に出生。東京外国語学校、明治大学を経て、陸軍主計将校となり、勤務地の秩父で終戦を迎える。秩父で地元の女性と結婚。1946年7月に秩父で読書クラブ橋立書店を開設、これがキデイランドの前身となる。1950年、幼少時代を過ごした原宿に、橋立書店(現・キデイランド原宿店)を構える。周辺に外国人が多かったことから、洋書や外国人向け雑貨を取扱い始め、更にはハイクオリティの日本の玩具をメインに扱うこととなった。情報の発信基地として知られるようになり、海外の王室やタレントが来日の際に訪れる定番コースにもなった。
大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - … 大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡大森町(現在の同県横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。本名は大黒 金一(おおぐろ きんいち、後、神谷(かみや)に改姓)。現役時代の体格は176cm、83kg。最高位は東前頭5枚目(1946年11月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、足癖。 16歳の時に上京し、1937年1月場所に於いて、伊勢ヶ濱部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の平鹿郡大森町から、「大ノ森」と名乗った。1938年1月場所で序ノ口に付いてからは、負け越しなしで順調に番付を上げた。1941年5月場所で十両に昇進。十両も2場所で通過し、1942年5月場所で入幕した。
新居 猛(にい たけし、1920年(大正9年)8月4日 - … 新居 猛(にい たけし、1920年(大正9年)8月4日 - 2007年(平成19年)10月5日)は、日本の家具デザイナー。インテリア・デザイナー協会名誉会長。徳島県徳島市出身。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)卒業。 1920年(大正9年)に徳島市の剣道具製造業の家に生まれた。デンマークの家具の美しさに影響されたのがきっかけで椅子づくりにのめり込む。1969年(昭和44年)、有限会社ニーファニチアを設立し代表取締に就任する。1974年(昭和49年)、自身の作品であるニーチェアXがニューヨーク近代美術館にて永久収蔵が認められた。その後、インテリア・デザイナー協会の名誉会長となる。 2007年10月5日、急性敗血症のため死去。
吉村 平吉(よしむら へいきち、1920年8月3日 - 20… 吉村 平吉(よしむら へいきち、1920年8月3日 - 2005年3月1日)は、東京都出身の日本の作家。 東京市赤坂に生まれる。父は書画骨董商で、平吉は長男だった。小学生時代から父に芸者の置屋に連れられたという。旧制中学3年生の時、榎本健一が所属していた劇団「ピエル・ブリヤント」のレビューに熱中して浅草に通い詰めた。ついには自作のレビュー台本を持ち込み、早稲田大学専門部政治経済科在学中には、文芸部見習いとなることを許される。 しかし、徴兵されて内モンゴルの包頭で兵役に就いた。1945年12月に復員。帰国後は「空気座」という劇団(左卜全・有島一郎らが参加)の代表となるが、資金不足により1年ほどで解散し、以後は上野駅や新橋駅界隈で娼婦を斡旋する「ポン引き」を稼業とした。
辻 輝子(つじ てるこ、1920年〈大正9年〉8月2日 - … 辻 輝子(つじ てるこ、1920年〈大正9年〉8月2日 - 2017年〈平成29年〉10月23日)は、女流陶芸家。日本の女性陶芸家第1号。仙台万華鏡美術館名誉館長。夫は日本犬研究家の斎藤弘吉。弟に陶芸家の辻清明、子に陶芸家の辻厚成、孫に陶芸家の辻厚志がいる。
氏原 正治郎(うじはら しょうじろう、1920年8月2日 -… 氏原 正治郎(うじはら しょうじろう、1920年8月2日 - 1987年8月21日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。愛知県出身。 東京帝国大学経済学部卒。同助手、1949年東京大学社会科学研究所助手、1951年助教授、1962年教授、1968年所長事務取扱、1969-1970年所長、1981年定年退官、名誉教授。雇用促進事業団雇用職業総合研究所長。1987年死去。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。 実態調査によって戦後の労働問題を追究、労使慣行の解明、社会保障や高齢者雇用の政策立案に尽くした。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - 20… 柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - 2011年3月25日 )は、日本の生物学者・科学・国際問題評論家。 専門は分子生物学。学位は、理学博士及び医学博士。京都精華大学名誉教授。本名、横田篤弘。 大阪府堺市生まれ。旧制京都一中、旧制三高卒業、京都帝国大学工学部応用化学科入学を経て、1946年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業。ミノファーゲン製薬研究部、大阪大学を経て、山口県立医科大学教授、広島大学原爆放射能医学研究所教授、オーストラリア連邦科学産業研究機構上級主任研究員、関西医科大学教授、ベルリン高等学術研究所客員研究員、京都精華大学教授、同学長などを歴任。京都精華大学名誉教授。
中瀬 秀夫(なかせ ひでお、1920年8月1日 - 1991… 中瀬 秀夫(なかせ ひでお、1920年8月1日 - 1991年1月7日 )は、日本の経営者。日清紡績社長、会長を務めた。 長崎県出身。1947年に九州大学法文学部経済学科を卒業し、同年に日清紡績に入社した。1967年6月に取締役に就任し、1970年6月に常務、1976年7月に専務を経て、1979年7月に社長に就任。1986年6月に会長に就任。 1991年1月7日、急性心不全のために死去。70歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
内田 朝雄(うちだ あさお、1920年〈大正9年〉8月1日 … 内田 朝雄(うちだ あさお、1920年〈大正9年〉8月1日 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の俳優。本名:内田 朝雄(うちだ ともお)。 日本領朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)平壌出生、島根県出身。平壌府第一中学卒業。円型劇場、劇団月光会を経て、コヒナタ企画に所属していた。 息子は俳優の内田岳志。 日本領朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)平壌に役人の子として生れる。中学校卒業後、満州炭鉱傘下の東満和竜炭鉱に入社。1941年(昭和16年)に応召し、終戦を仁川で迎え、1945年(昭和20年)に復員。翌1946年北海道開拓公社に入社し、江別市で開墾事業に従事した後、長野県上水内郡の飯綱高原に入植するが、1950年(昭和25年)、地元の人間との意見対立から同地を引き払う。
上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31… 上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31日 - 2018年(平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。 1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった。
島薗 安雄(しまぞの やすお、1920年7月30日 - 19… 島薗 安雄(しまぞの やすお、1920年7月30日 - 1997年4月9日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学・精神生理学。元金沢大学医学部教授。東京医科歯科大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1950年)。京都府京都市生まれ。 父は東京大学医学部教授などを務めた島薗順次郎、息子は東京大学大学院人文社会系研究科教授の島薗進。 1920年京都府京都市生まれ。1943年東京帝国大学医学部医学科卒業。1950年東京大学より医学博士の学位を取得。1954年フンボルト留学生として西ドイツ留学。1956年東京大学医学部助教授。1959年金沢大学医学部教授。1967年東京医科歯科大学医学部教授。
有江 幹男(ありえ みきお、1920年7月30日 - 200… 有江 幹男(ありえ みきお、1920年7月30日 - 2009年11月21日)は、日本の工学者。北海道大学・北海道工業大学名誉教授、北海道大学・北海道工業大学元学長。従三位勲一等瑞宝章。北海道夕張町(現・夕張市)出身。専門分野は機械工学、流体力学。 1972年の札幌冬季五輪にあたっては、人工的に風を起こして影響を調べる再現実験を行い、ジャンプ競技場の改修指針を出した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30… 北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30日 - 1995年〈平成7年〉10月23日)は、日本の俳優、演劇研究家。本名同じ。 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学国文科卒業。六月劇場に所属していた。 大学在学中に劇団「若い仲間」を結成して演劇活動を行う一方、同人誌「演技研究」を発刊する。 1943年より兵役のためフィリピン・レイテ沖海戦に加わる。 1949年、女優の杉村春子の紹介で文学座に参加し、1950年の舞台『わが心の高原』(ユージン・オニール)ので、杉村の相手役を演じる。 岩田豊雄を師と仰ぎ、中村伸郎らと親しかった。1963年、三島由紀夫の『喜びの琴』事件で脱退し、1964年の劇団NLT結成に参加する。
小野 光洪(おの みつひろ、1920年(大正9年)7月28日… 小野 光洪(おの みつひろ、1920年(大正9年)7月28日 - 2005年(平成17年)11月9日)は、昭和から平成初期の政治家、実業家。塩尻市長(第4代)。位階は従四位。父は元衆議院議員の小野祐之。 長野県東筑摩郡塩尻町生まれ。1937年(昭和12年)3月、旧制長野県立松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を卒業し、1941年(昭和16年)早稲田大学専門部商科を修了。1946年(昭和21年)から小野石灰六名社を経営[要出典]、1960年(昭和35年)に信陽化学工業と改称し代表取締役となる[要出典]。1959年(昭和34年)4月から塩尻市議会議員を5期務め、1963年(昭和38年)同副議長、1967年(昭和42年)には同議長に就任。