岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9… 岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9年8月22日)- 1893年(明治26年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国新川郡大村(石川県新川郡大村、富山県上新川郡大広田村を経て現富山市海岸通)で、加賀藩十村役・重右衛門の息子として生まれた。 1873年(明治6年)新川県第7大区長、1876年(明治9年)石川県第2大区副区長に就任。その後、上新川郡首席書記、大村外16カ村戸長、大村外7カ村戸長を務めた。1890年(明治23年)3月、富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)2月まで在任した。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、独立倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月… 田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候、男爵。 「日本の博物館の父」として知られる。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。 1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。
高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日… 高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日(天保9年7月9日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代の政治家、実業家。新聞経営者。衆議院議員(2期)。 播磨国加東郡、のちの兵庫県加東郡永富村(上福田村、社町を経て現加東市)の大庄屋の家に生まれる。1872年(明治5年)永富村戸長に就任し、学区取締などを経て、1879年(明治12年)兵庫県会議員に当選。1887年(明治20年)まで務めた。この間、1884年(明治17年)同志と共に五州社を設立し、神戸又新日報を発刊。のち神戸相生町に神戸日報社を設立し愛国新聞を発刊した。ほか、加東郡社村長を務め、神戸法律学校や山陽鉄道の設立にも関与した。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8… 4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8月20日〈天保9年7月1日〉 - 1914年〈大正3年〉1月8日)は、幕末から明治時代の醸造家、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。名は正義。前名は馬之助。族籍は高知県平民。 3代目桜木嘉右衛門正利、鹿の二男として高知城下種崎町(現・高知市はりまや町)に生まれ、のち前名を改めて襲名する。藩政下、町内総組頭を務め、廃藩後は町内取締役となる。本業は酒造業で「葉柳」の醸造元。 1877年(明治10年)第七国立銀行が設立すると同取締役に就任。1881年(明治14年)帆走船運漕営業会社天佑社を設立し、相談役を経て社長に就任。1886年(明治19年)土佐郡酒造家連合会を設立し同会長に就任。
宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8… 宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8月15日 - 1910年〈明治43年〉9月21日)は、岐阜県出身の地域活動家。中山道(中街道)の開削に尽力し、日吉村の戸長を務めた。 1838年8月15日、岐阜県土岐郡日吉村半原(現在の瑞浪市日吉町半原)に生まれる。 半原宮地氏は安藤氏・遠藤氏・山内氏と共に土岐氏に属し、天文13年(1544年)日吉神社を創建した。 (先祖代々の記録)(10.兵次郎寛朋が宮地兵次郎) 先祖・宮地重勝頌徳碑(背面)には下記の文が彫ってある。写真の左の碑:宮地重勝隠居士。右の碑:宮地重勝頌徳碑。 宮地氏ハ代々土岐氏ノ臣ニシテ天文十一年頼芸亡ブルヤ鶴ケ城代宮地九郎左衛門藤原重勝半原自邸ニ隠遁シ農ニ帰スコレ即チ祖ナリ昭和二十八年十月再建之(天文11年=1542年)(昭和28年=1953年)土岐頼芸は土岐頼兼、正中の変と関係する。
金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保… 金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保9年6月24日) - 1921年(大正10年)7月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 能登国羽咋郡中沼村(のち石川県羽咋郡南大海村→高松町→かほく市)出身。漢学を学ぶ。農業を営み、1860年には中沼村、次いで夏栗村、更に二ツ屋村の肝煎となる。1873年、石川県第4区小1区戸長、1889年、南大海村会議員、所得税調査委員、1891年、連合村会議員、同年、羽咋郡会議員、1897年、石川県会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において石川3区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(… 佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰。 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。
真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天… 真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天保9年6月10日)- 1906年(明治39年)4月27日)は、日本の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・増田、幼名・隼太。 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で、増田彦右衛門の二男として生まれる。その後、埼玉郡川口村(現加須市)真野家の養子となる。江戸に出て蘭学、漢学を学んだ。 明治3年3月12日(1870年4月12日)民部省に出仕し駅逓少令史に任官。以後、駅逓大令史、駅逓権少佑、駅逓少佑を歴任。明治4年7月27日(1871年9月11日)民部省が廃止され大蔵省へ異動。駅逓司四等出仕、駅逓権中属、駅逓権大属、駅逓大属を歴任。
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7… 上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 天保9年(1838年)5月15日信濃国諏訪郡南真志野村(長野県諏訪市湖南南真志野)に諏訪藩普請奉行上島幸右衛門の子として生まれた。幼名は源吉で、家督相続後、正と改めた。9歳から17歳まで生之堂鏡湖に書画を学び、画家を志したが、画家は妻帯できないと父に言われ、断念した。 安政2年(1855年)父の命で江戸に出て、森備中守屋敷富木衛門七方に奉公したが、半年後、武家社会を見限り、町家に奉公した。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 … 中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 - 1912年5月25日)は、占い師。喜多方市塩川町出身。 農家の長男に生まれ、本名は惣三郎(武田惣角の3男時宗の幼名と同じ)、千葉県成田山新勝寺で修行、真言密教、湯殿山修験、九字護身法、呪法、易学、宿曜道、民間療法、天文暦法(独自の星座図)などに通じていた。幕末の会津藩士が出入りし、藩から名人呼称の万之丞の名前、銘刀の道辰・手柄山の短刀、元藩主松平容保の祝歌掛軸を与えられた。信者に治療と占いを無料で行い、勝手に置いた贈答品は欲しい人に与え、独特の霊符も与えた。。初体面の客を顔を見ただけで、何の用向きかを察する霊視能力があった。子どもはいなかった。
渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5… 渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5月1日〉 - 大正2年〈1913年〉11月10日)は、日本の官僚・政治家、また剣術家。元は諱を武常と名乗った。号は東民、其鳳。位階勲等は正三位勲一等。兄とともにほぼ同時期に華族に列したが、兄が男爵どまりであったのに対し子爵に叙された。剣道の称号は範士。 肥前国大村に生まれる。江戸の神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷、倒幕運動の志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天… 後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月… 千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子科(後の女子学習院)舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説でその表記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。初名を乙女。 天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9… 大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第26・28代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学の創設に関わったほか、長崎の私塾でチャニング・ウィリアムズに師事して英学を学び、外交的素養を培った旧誼から、立教大学の発展を深く支援した。
田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月… 田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月22日) - 1910年(明治43年)10月5日)は、幕末彦根藩士、明治期代の地方官僚・実業家・漢学者。 1838年2月16日((旧暦)天保9年1月22日)近江犬上郡彦根城下上藪下町の同藩足軽谷口他三郎の次男として誕生し、同じ足軽の田部全次の養子となる。両家とも8石取りと伝えられている。通称は全蔵又は先蔵と称した。藩校弘道館で学び、特に漢学を修めた。 文久・元治より慶応・明治維新の間、藩の外交掛りに属し、諸藩の志士と交わり、大東義徹・川上吉太郎・外村省吾・西村捨三・西川吉輔・大音竜太郎等と共に活動した。特に1866年(慶応2年)第二次長州征討に際して、岩国藩用人であり漢学者であった塩谷鼎助を介し秘密裏の交渉を取り持った(『吉川経幹周旋記』)。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保… 広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保9年1月15日) - 1890年(明治23年)3月18日)は、幕末から明治時代前期の政治家、治水家。 下総国相馬郡下高井村(現在の茨城県取手市)の名主の家に生まれる。18歳で名主見習いとなり、父が在職中に病没したため跡を継ぐ。明治に入ると、下高井村組合取締役、戸長、勧農方頭取を経て、戸長頭取に就任し、地券調査に従事した。1879年(明治12年)茨城県会議員となったが、当時の県会では土木費について治水問題を優先すべきとする「河川党」と道路整備を優先すべきとする「山岳党」に分かれ意見が鋭く対立していた。こうした中で1881年(明治14年)県令の人見寧に利根運河開削を建議し、翌年北相馬郡長を発令された。
池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体:池邊 吉十郎、… 池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体:池邊 吉十郎、1838年2月5日(天保9年1月11日) - 1877年(明治10年)10月26日)は幕末から明治前期の武士、士族、志士、教育家。本名は重章。熊本藩士の子として宇土に生まれる。武士や志士として活動していたが、西南戦争では、西郷隆盛軍の下で、熊本隊の隊長として奮戦するも捕らわれ長崎で処刑された。 天保9年1月11日(1838年2月5日)に熊本藩士の子として生まれる。本名は重章(しげあき)。また、藩校で学ぶ。翌年には世話役や組役なども任せられた。その後、家督を継ぎ、また、京都守護も命じられる。 26歳になると、第二次長州征伐の際に小倉出兵に従った。
泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2… 泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2月5日) - 大正7年(1918年)2月)は、明治から大正前期の彫刻家。 泉亮之は、天保9年1月11日(1838年2月5日)に近江坂田郡息郷村(現滋賀県米原市番場)の泉孫右衛門の長男に生まれ、幼名を豊次郎と称した。泉家は商業に従事する傍らで農業を営んでいた。元々手先が器用な子であったと伝えられ、25歳の時飛騨に商いに出た時、「亮水」と称する彫師の作品に接し深く感銘を受け自らの名を「亮之」と改め、家業を捨て彫刻に専念した。 よく蛇・蝦蟇・髑髏を得意とし、明治24年(1891年)5月10日訪日中のロシア皇太子により泉亮之作品が買い上げられ、この後明治26年(1893年)アメリカで開かれた博覧会に泉亮之の作品が出品され賞を授けられ、またシカゴで開催されたコロンブス上陸400年祭記念博覧会においても、泉亮之の作品は賞牌を得た。
西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年… 西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年12月24日) - 1917年(大正6年)4月3日)は江西山大法寺の18代住職。臨済宗の師家。現在の愛媛県八幡浜市穴井出身。 父は須賀吟助、母は徳子という。12歳の時に八幡浜市の江西山大法寺の徒弟となり、20歳頃から約10年間、宇和島市の金剛山大隆寺の晦巌について修行する。さらに久留米市の梅林寺や、岐阜県伊深の正眼寺などで座禅を習った。その後、京都の相国寺で越渓老師に参禅しようとしたがその時は相国寺を去っていたために、後継者となっていた独園につく。越渓が妙心寺の天授庵で僧堂を開いたので、同じ妙心寺の大嶺院に住み、明治元年から越渓の猛烈な指導のもと修行に励む。
和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保… 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保8年12月13日) - 1903年(明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」。 1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。
武居 代次郎(たけい だいじろう、1838年 - 1896年… 武居 代次郎(たけい だいじろう、1838年 - 1896年)は、長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)の製糸家。諏訪式繰糸機の開発者として知られる。代々続く糸商に生まれる(3代目武居代次郎)。 明治維新による開国により、政府は輸出品目として生糸を重要視し、富岡製糸場を開設する(1872年)等、増産の機運が高まった。 当時ヨーロッパより導入された繰糸機械は2種類。富岡製糸場へと官営輸入されたフランス式繰糸機と、民間輸入のイタリア式繰糸機である。イタリア式を輸入した小野組の援助を受け、2代目武居代次郎が現在の岡谷市間下にてイタリア式を模した洋式器械を操業(18釜)するも、成功せずに病没(1873年)。その遺志を継ぐ形で3代目武居代次郎が製糸に取組む事になった。
藤山 種廣(ふじやま たねひろ、1838年(天保9年) - … 藤山 種廣(ふじやま たねひろ、1838年(天保9年) - 1886年(明治19年))は、幕末の佐賀藩士、明治時代のガラス工芸技師。別名は文一。長男の藤山常一は北海カーバイド工場(現在のデンカ)の創立者、次男の田中不二は田中林太郎の娘婿。 肥前国神埼郡尾崎村唐香原(現在の佐賀県神埼市)に生まれる。幕末には佐賀藩精錬方として同藩の硝子工場で技術を磨き、1867年(慶応3年)に江戸幕府・佐賀藩・薩摩藩が参加したパリ万国博覧会には、佐賀藩使節団の一員として派遣された。 1873年(明治6年)、明治新政府(工部省)は富国強兵の政策に則り、全国から17名の技術伝習生を選定してウィーン万国博覧会へ派遣し、藤山もその一人として、ガラス製造・活版印刷・鉛筆製造に関する技術伝習生として、明治新政府の使節団に参加して現地に留学し、翌年帰国した。
高山保次郎(たかやま やすじろう、1838年 - 1907年… 高山保次郎(たかやま やすじろう、1838年 - 1907年11月3日)は、幕末-明治期の神官、歌人。本姓は里井、名は慶孝、号は苞居。 1838年(天保9年)、和泉泉南郡南中通村(現・大阪府泉佐野市)、里井孝幹の二男として生まれる。幼名は寬三郞。 里井家は代々好学で、幼少より学を好み、家翁の教授を受け、15歳のとき堺市九間町の高山家の養子となり家督を継ぎ、名を保次郎と改める。 父の没後は岩崎長世に国学をまなび、大阪枚岡神社に出仕、歌会始の撰者に加わる。また堺の区長などをつとめる。 長世の没後は尾崎正明、渡辺重春らと交り歌道に専心する。 1907年(明治40年)、70歳で死去。没後に『苞居歌集』が刊行された。
小柳 常吉(こやなぎ つねきち、1838年〈天保9年〉 - … 小柳 常吉(こやなぎ つねきち、1838年〈天保9年〉 - 1881年〈明治14年〉8月20日)は、阿武松部屋、武隈部屋、鬼面山部屋に所属した元力士。本名は御簾生 春吉(御簾納とする資料もある)。上総国市原郡戸田村岩崎(現在の千葉県市原市南岩崎)出身。身長170cm・体重115kg。最高位は西関脇。 1858年1月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1861年10月場所5日目に千草山と改名し、徳島藩のお抱え力士となった。1866年3月場所で東十両9枚目(十枚目格)に昇進。その場所で、いきなり7勝1敗の優勝次点の好成績を挙げた(優勝相当成績は同じ徳島藩お抱えの千羽ヶ嶽兵右エ門〈8勝1分け〉)。
鳥居 断三(斷三、とりい だんぞう、天保9年〈1838年〉 … 鳥居 断三(斷三、とりい だんぞう、天保9年〈1838年〉 - 1911年〈明治44年〉1月27日)は、幕末の大垣藩士。明治時代の官吏。判事。弁護士。三河県知事。柏崎県参事。大審院判事、東京始審裁判所長、東京重罪裁判所長。本姓は平氏、名は重雄。諱は朝道。号は圭陰。 美濃大垣藩士の子として大垣城辰之口内清水馬場北詰の家に生まれる。幼名は鉄五郎。嘉永4年11月、病気の兄元次郎の養子となった。嘉永6年12月に使番役に出仕、安政6年11月に留守居役江戸定府を申し付けられた。文久2年正月、奏者番となり、慶応3年3月に用人と留守居の兼務となった。戊辰戦争では1868年(慶応4年1月)大垣藩軍事副総裁助役、のち同藩軍事奉行として東山道先鋒軍に従い、各地を転戦した。
松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)… 松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)- 1915年(大正4年)2月21日)は、幕末の村役人、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡恋ヶ浦村長。 佐渡国雑太郡真野村背合(新潟県雑太郡真野村、佐渡郡真野村、真野町を経て現佐渡市背合)で、松本与三兵衛の息子として生まれた。圓山溟北に漢学を、堀口松庵に書法を学んだ。 相川奉行所教導職事務掛、浦役人を務めた。明治維新後、滝脇背合村戸長、大小外6ケ村戸長、小学区学務委員、恋ヶ浦村長などを務めた。1893年(明治26年)新潟県会議員に選出された。また、真野村会議員にも在任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、立憲改進党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11… 笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11月) - 1898年(明治31年)11月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国頸城郡潟町村(のち新潟県中頸城郡潟町村→大潟町、現・上越市)生まれ。農業を営み、郷長、第七大区長、新潟県会議員、第百三十九国立銀行取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において新潟8区から立憲自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して落選した。落選から間もない11月に死去した。
松沢 光憲(松澤、まつざわ こうけん、1838年(天保9年2… 松沢 光憲(松澤、まつざわ こうけん、1838年(天保9年2月 )- 1913年(大正2年)12月17日)は、幕末の新庄藩士。明治期の内務・警察官僚、政治家。衆議院議員。幼名・錞太郎、直。号・芝山隠士。 出羽国最上郡新庄(山形県最上郡新庄町を経て現新庄市)で、新庄藩士の家に生まれた。江戸に出て昌平黌で学び、1861年10月(万延2年9月)に帰郷した。 戊辰戦争で新庄藩は新政府軍に加わり、二番銃隊斥候役として従軍し庄内藩攻略など各地を転戦した。1872年(明治2年2月)大学本校に入り1870年(明治3年)大学少舎長に就任。同年に卒業して帰郷し、藩校明倫堂の講師に就任。1871年(明治4年9月)新庄県13等出仕となり、新庄県が山形県に編入され同年11月、山形県権少属に就任し、1873年(明治6年)7月まで在任した。
渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1… 渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1837年12月12日) - 大正4年(1915年)10月19日)は、幕末の中津藩士、国学者、神道学者。明治初年には新政府の神道政策を担当し、大日本帝国陸軍将軍の乃木希典が師事したことで知られている。蘭学者の福澤諭吉と国学者の増田宋太郎は共に縁戚に当たる。号は鶯栖園隠士、捫虱庵主人、通称は鉄太郎。 1837年(天保8年)、豊前国中津藩の神官の家に生まれた。藩校の進脩館に入り、藩儒の野本白巌や手島物斎に漢学を学んだ。安政4年(1857年)には中津藩において子弟に国学を教授し、元治元年(1864年)にこの私塾を「道生館」 と命名した。慶応3年(1867年)には平田篤胤の思想を取り入れて、後嗣の平田銕胤に入門して没後の門人となった。
樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8… 樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8年11月12日〉- 1922年〈大正11年〉2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口与三次の三男。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。 天保8年(1837年)薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、覚之進(かくのしん)と名づけられ育てられる。文久3年(1863年)同藩士・樺山四郎左衛門の養子となり、樺山姓を名乗る。
高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年)… 高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年) - 明治37年(1904年)3月10日)は幕末の漢学者。明治時代の教育者。諱は利貞。字は子和。通称は敬十郎。信州教育の開拓者と呼ばれる。 信濃国伊那郡高遠城下に高遠藩儒の高橋利常(確斎)の長男として生まれる。藩校進徳館で中村元起に学び、16歳で助教、文久3年(1863年)には師範代となり藩主の侍講も兼帯した。好学にして博識、在任の13年間で進徳館の蔵書3万冊をほとんど読みつくしたという。文政年間に江戸に出て藤森天山に入門、鷲津毅堂、大沼枕山らと交流した。 明治維新の際には白山の思想は危険視され、長尾無墨と共に藩を追放される。その後、幕府領の手良村野口(現伊那市)で開塾し、医者も兼ねた。
赤沢 仁兵衛(あかざわ にへい、天保8年10月10日(183… 赤沢 仁兵衛(あかざわ にへい、天保8年10月10日(1837年11月7日) - 大正9年(1920年)3月6日)は、赤沢式栽培法の開発で知られる農業技術者。「川越の甘藷先生」とも呼ばれる。サツマイモはどのような条件下でもある程度はできる作物なので、栽培法を研究した人物はいなかったが、仁兵衛は徹底的に栽培方法を研究し、農村に増収をもたらした。赤沢式栽培法は今日でも基本的に継承されており、小学校の道徳教育の時間に用いられる教科書でも取り上げられることが多い。 1837年(天保8年)、武蔵国入間郡今福村(現埼玉県川越市)に赤沢又助の三男として生まれる。 1865年(慶応元年)3月、赤沢家の本家にあたる赤沢伊兵衛の長女・千代と結婚し婿養子となる。
山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年… 山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年10月8日〉- 1917年〈大正6年〉12月22日)は、日本の政治家。子爵。 長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現:山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。1852年(嘉永5年)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。 1861年(文久元年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。1862年(文久2年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(18… 大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、日本の武器商人、実業家。 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。 天保8年(1837年)9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。 大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。
宇井 可道(うい よしみち、天保8年8月26日(1837年9… 宇井 可道(うい よしみち、天保8年8月26日(1837年9月25日) - 1922年(大正11年)12月10日)は日本の国学者、歌人、民俗学者。紀伊国牟婁郡上三栖村庄屋・村長、紀伊田辺藩貧院頭取、和歌山県西牟婁郡職員、田辺銀行支配人。熊代繁里に国学を学び、晩桜社を主催し、郷土の民話を採取した。 天保8年(1837年)8月26日紀伊国牟婁郡上三栖村に生まれた。弘化4年(1847年)5月坂本弥平や兄勝之助に習字、児島熊仙に漢籍を学んだ。安政4年(1857年)8月兄が死去すると、10月嗣子となり、文久元年(1861年)4月上三栖村庄屋に就任した。 慶応3年(1867年)1月紀伊田辺藩士熊代繁里に入門し、明治5年(1872年)4月まで田辺まで2里の道程を通学し、国学・和歌を学んだ。
奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年… 奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日) - 大正2年(1913年)7月28日)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した。 本名は池田せつ(節)もしくは節子、通称:せい子。はじめ石芳と号するが、のちに秋琴・珠琴・蘭瑛・雲錦・静古・星古などと号した。堂号(居宅・画室)に墨吐煙雲楼・繍水草堂など。下総国古河宿(現在の茨城県古河市)出身。 古河藩大番頭の池田繁右衛門政明の四女(三女)に生まれる。母はきく。蘭学者の鷹見泉石は伯父にあたる[要出典]。経学を茅根一鴎、書を小山霞外・小山悟岡に就いて修めた。
早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年… 早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年9月8日〉 - 明治34年〈1901年〉2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の実業家、医師、官吏。丸善、横浜正金銀行の創業者として知られる。 天保8年(1837年)、美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に岩村藩医師・山田柳長の子として生まれるが、父は有的の顔を見ることなく26歳で亡くなったため、同村の名主早矢仕才兵衛の養子となる。大垣、次いで名古屋に出て医学を学ぶ。早矢仕自身が優れた医師でもあった。安政元年(1854年)、郷里に戻り医院を開業する。 安政6年(1859年)、江戸に上り、万延元年(1860年)6月に開業する。坪井信道に学んだ後、慶應3年(1867年)、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ。
楠目 正幹(くすめ まさみき、天保8年(1837年)9月1日… 楠目 正幹(くすめ まさみき、天保8年(1837年)9月1日 – 明治17年(1884年)9月3日)は、土佐藩出身の武士、明治政府の官僚・海軍法務官。通称は民五郎。土佐勤王党の血盟同志の一人である。官職は東京海軍軍法会議主理・海軍権大書記官。正六位・勲五等。また海軍中佐。 土佐郡潮江村(現在の高知市)に楠目民助の長男として生まれる。楠目藤盛(清馬)の実兄にあたる。土佐藩政下では小南五郎配下の役人として活動した。 文久元年(1861年)、武市半平太を主領とする土佐勤王党の誓書に署名し、血盟連盟した勤王志士の一人であった。この時期、尊王攘夷運動に深く関与していたことが知られる。 明治3年(1870年)、小栗義宣らとともに兵部省糺問権少佑に任じられ、同年中に兵部大録へ転じた。
磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(… 磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(天保8年7月28日)- 1905年(明治38年)5月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の政治家・農業指導者。衆議院議員。 周防国都濃郡河内村出合(山口県都濃郡河内村、久保村を経て現下松市)で生まれた。文学、武術を学んだ。幕末、国事に奔走。徳山藩山崎隊司令官、同藩新隊招募掛兼政府御用掛を務めた。 1879年(明治12年)山口県会議員に選出された。県下の公共事業の推進に尽力。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、無所属)で初当選。同年9月の第4回総選挙(山口県第4区、無所属)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
八陣 信蔵(はちじん しんぞう、1837年8月13日(天保8… 八陣 信蔵(はちじん しんぞう、1837年8月13日(天保8年7月13日) - 1902年(明治35年)1月9日)は淡路国津名郡尾崎村(現・兵庫県淡路市)出身の大相撲力士。本名は岩井 信蔵。所属部屋は小野川部屋(大坂)玉垣部屋(江戸)。大坂相撲で最初の横綱となった。吉田司家の免許ではないため日本相撲協会公認の横綱には加えられていない。 淡路島の農家に育ち大坂に出て8代小野川に入門、1859年(安政6年)7月白藤 信蔵で中相撲三段目に名を出す。1860年玉龍と改める。この頃既に人気となっており、1861年(文久元年)評判を聞いた阿波藩に抱えられ江戸行きを命じられて10月場所幕下に付け出される。翌1862年(文久2年)蜂須賀公から黒神 玉之助の四股名を賜ったが同年11月を最後に江戸では出場していない。
小野岡 義禮(おのおか よしひろ、天保8年7月12日(183… 小野岡 義禮(おのおか よしひろ、天保8年7月12日(1837年8月12日)- 大正2年(1913年)8月7日)は、出羽国久保田藩(秋田藩)士。幕末期の久保田藩で家老職をつとめた。義礼と書かれている文書があるが正しくは旧字の義禮である。「ぎれい」とも読む。幼名は慶之助。家格は引渡一番座。 天保8年7月12日(1837年8月12日)、久保田城下(現、秋田県秋田市)に生まれる。 祖父小野岡義音は、享和3年11月26日(1804年1月8日)から文政2年10月21日(1819年12月8日)までと天保4年10月6日(1833年11月17日)以降天保12年(1841年)までの2度にわたって久保田藩の家老を勤め、国学者平田篤胤とは懇意の間柄であった。
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保… 川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保8年7月10日〉- 1912年12月2日)は、日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現:川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。幼名:磯治。別名:利右衛門。従五位。隠居後は米寿まで生きることを願って「川崎米年蔵」を名乗った。 薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現:鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。父は呉服商、川崎利右衛門。15歳頃から家系を助けるため、幕末に廻船・海運業で活躍した薩摩藩御用商人・浜崎太平次の経営する山木屋の店員として就職する。17歳となった嘉永6年(1853年)に山木屋の長崎支店に赴任する。
津田仙(つだ せん、天保8年7月6日(1837年8月6日) … 津田仙(つだ せん、天保8年7月6日(1837年8月6日) - 明治41年(1908年)4月24日)は、日本の農学者、キリスト者。学農社創立者。青山学院大学・筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。明六社会員。娘に、後に津田塾大学創設者となる津田梅子、サンフランシスコで日本語新聞「日米新聞」を発行し日系人社会のリーダー的存在だった安孫子久太郎と結婚しアメリカに移住した安孫子余奈子がいる。
黒須 喜兵衛(くろす きへえ、1837年7月22日 - 18… 黒須 喜兵衛(くろす きへえ、1837年7月22日 - 1887年10月12日)は、日本の実業家。江戸時代末期から明治時代初期にかけて埼玉県川越を中心に活動した。第八十五国立銀行初代頭取を務めた。 天保8年6月20日(グレゴリオ暦1837年7月22日)、武蔵国川越で呉服商「松屋」を営んでいた先代黒須喜兵衛の長男として誕生。 明治に入り、政府が国立銀行条例を制定すると、同じく川越の商家であった綾部利右衛門、横田五郎兵衛、山崎嘉七らとともに明治11年(1878年)に銀行創立願を提出、第八十五国立銀行として認可された。同年の株主総会において喜兵衛は頭取に選任された。 明治20年(1887年)10月12日、病気のため数え51で死去。
寺島 直(てらじま なおし、1837年6月1日(天保8年4月… 寺島 直(てらじま なおし、1837年6月1日(天保8年4月28日)- 1910年(明治43年)6月29日)は、幕末の武士、維新の志士。明治時代の官吏、法律家、判事。位階および勲等は従三位・勲二等。 下総国香取郡小見川(現在の千葉県香取市)に小見川藩士の寺島彦三郎の子として生まれる。儒学者の並木栗水の螟蛉塾に学ぶ。後に京都に出て、梅田雲浜などと尊王攘夷論者として国事に奔走し、禁錮刑となった。 1870年に本保県(現在の福井県)の逮部伍長に任じられた。1871年に敦賀県参事となった。1877年に判事となり、東京上等裁判所や宮城県上等裁判所の判事、熊本裁判所長、大審院評定官を歴任し、1884年に大審院判事となり、勲六等単光旭日章を賜った。