木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28… 木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1951年〈昭和26年〉6月7日)は、大正から昭和時代にかけて活動した日本の編集者、児童文学者。赤い鳥社、中央公論社で編集者として優れた作品を世に送り出す一方、雑誌『赤い鳥』などで多くの童話を発表した。 1896年(明治29年)2月28日、広島県尾道市で生まれた。鉄道技師だった父の仕事の都合で、神戸、小樽と移り住み、10歳から父の故郷である長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市志賀)で過ごす。野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)卒業後、早稲田大学文学部英文科に進学する。大学在学中に、鈴木三重吉の作品と出会い、傾倒。三重吉の門を叩き、三重吉宅へ出入りするようになる。
今井 耕(いまい こう、1896年〈明治29年〉2月28日 … 今井 耕(いまい こう、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。 滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)で、農業・今井吉太郎の長男として生まれた。長浜農学校卒。卒業後は同校教諭や栗太農学校教諭を務める。1946年の第22回衆議院議員総選挙で滋賀県から無所属で立候補して当選し、それから国民協同党に入った(その後、国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党に所属)。以来当選6回。第2次鳩山一郎内閣建設政務次官、衆議院決算委員長などを歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選、政界から引退した。 1966年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月… 花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。 1896年(明治29年)2月24日、茨城県鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市大船津)に生まれる。上京し、東京市立麹町高等女学校(現・麹町学園女子高等学校)を卒業。 第一期研究生として、1913年(大正2年)に島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に参加、1915年(大正4年)、ツルゲーネフの『その前夜』で舞台女優としてデビュー。 1919年(大正8年)、23歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり、映画評論誌「キネマレコード」同人の映画理論家、帰山教正の実験作『深山の乙女』および『生の輝き』(いずれも現代劇)に、村田実、青山杉作、近藤伊与吉といった新劇の劇団「踏路社」の主要メンバーとともに参加、主演に抜擢される。
金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 19… 金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 1994年4月16日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)。日本通運社長及び会長。 大分県出身。1924年京都帝国大学法学部を卒業。同年鉄道省に入り、札幌鉄道管理局総務部長などを務め、1940年退官。同年、日本通運に入り、事業部長、門司支社長などを歴任し。1955年、社長に就任する。1959年の第5回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で出馬して初当選。後に自由民主党に入る。翌1960年には日通会長に就任した。国会内では逓信、運輸、商工の各委員長を務め、第一次佐藤内閣で通商産業政務次官を務めた。 長年、運輸業界での産業安全普及推進に努め実績を積み振興に寄与した功労により1963年、藍綬褒章受章。
粥川 伸二(かゆかわ しんじ、1896年〈明治29年〉2月2… 粥川 伸二(かゆかわ しんじ、1896年〈明治29年〉2月24日 - 1949年〈昭和24年〉1月1日)は、大正期から昭和戦前期にかけて活動した日本画家。雅号は新児、心児。 1896年(明治29年)2月24日、粥川八郎、ミチ夫妻の長男として大阪府大鳥郡向井村中筋(現在の堺市)に生まれる。 1902年(明治35年)、堺市英彰尋常小学校(現在の堺市立英彰小学校)に入学する。途中、体が弱く一年間休学する。 1909年(明治42年)、大阪大倉商業学校(現在の関西大倉中学校・高等学校)に入学するが、1910年(明治43年)、結核性骨髄炎となり右足を切断する。 後の進路を親族会議で相談した結果、本人が幼少より絵が好きであったため、画家にさせることに決定。
亀井 俊雄(かめい としお、 1896年2月23日-1969… 亀井 俊雄(かめい としお、 1896年2月23日-1969年12月14日)は、日本の能楽師。大鼓方葛野流。人間国宝。 1896年(明治29年)、東京で生まれる。1909年(明治42年)に池内信嘉が主宰する能楽会に入る。当初は謡を勉強していたものの、囃子方に人がいないということで囃子方に回される。川崎九淵に師事した後に東京音楽学校に入学、卒業。 第二次世界大戦後は能楽協会の復興を支え、日本能楽会を設立に寄与。晩年まで同会理事を務めた。また囃子方による囃子科協議会を設立して地位の向上に努めた。1968年(昭和43年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた後、吉見嘉樹引退のあとをうけて宗家預かりとなる。
宮川 實(みやかわ みのる、1896年2月19日 - 198… 宮川 實(みやかわ みのる、1896年2月19日 - 1985年10月21日)は、日本のマルクス経済学者。「宮川 実」とも。 山口県出身、東京帝国大学卒業。河上肇に師事。和歌山高等商業学校教授を経て、1939年立教大学教授。1942年治安維持法違反により入獄。戦後立教大学に復職、労働者教育協会会長を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年… 塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年)2月18日 - 1964年(昭和39年)10月27日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員、通信院総裁・逓信院総裁、官選清水市長。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市)出身。和田開蔵の長男として生まれ、山林技師・塩原谷五郎の養子となる。旧制長野中学、第八高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)4月、国家主義的学生団体興国同志会(国本社の前身)の結成に参画した。 大学卒業後、官界に入り逓信局書記兼逓信属・東京逓信局兼電気局勤務となる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。
鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 -… 鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 - 1971年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。清水市長。 静岡県清水市(現静岡市)出身。1914年早稲田大学商科卒。清水市議、同参事会員、静岡県議、同副議長などを経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に静岡県(当時は大選挙区制)から立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた後、清水市農地委員、同委員長を歴任し、1955年の清水市長選挙に立候補して当選した。 市長在職中は市内に住宅が増設され、日本平にテレビ塔とロープウェイが開設。1957年には静岡で国体が開かれ、天皇、皇后の視察を受けた。このほか、石岩ふ頭(富士見ふ頭)の完成や大型漁船の建造も進められた。
徳根 吉郎(とくね よしお、1896年2月17日 - 198… 徳根 吉郎(とくね よしお、1896年2月17日 - 1980年10月12日)は、日本の経営者。日本セメント社長を務めた。 北海道函館市出身。1914年に九州帝国大学応用化学科を卒業し、同年に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1942年に取締役に就任し、常務を経て、1946年から1947年までと1948年から1949年9月までに社長を務めた。1949年9月には会長に就任した。 1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年10月12日、心筋梗塞のために死去。84歳没。
森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 19… 森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 1975年2月17日)は、日本の外交官、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(3期)。満州事変発生時に現地・奉天総領事代理の地位にあり、日米開戦時のニューヨーク総領事、ポルトガル公使などを務めた。 石川県金沢市の医師 森島彦夫・民生夫妻の長男として生まれる。金沢第一中学校、第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。同年外務省入省。1928年から1935年まで、ハルビン総領事及び奉天総領事代理を務めた。1931年9月、奉天近郊で起きた柳条湖事件(時の外相は幣原喜重郎)から翌1932年3月の満洲国成立までに至る対応で苦慮し、1933年2月に蜂谷輝雄が奉天総領事に着任した。
有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治2… 有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治29年)2月16日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の統計学者、経済学者。位階は正三位。 法政大学元総長。東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。統計学が専門分野で、実証に徹した。 高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒業。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年(大正11年)に同大学を卒業後、助手を経て1924年(大正13年)に同大経済学部統計学講座の助教授となる。同年、同大講師の猪間驥一を大学から追放した。
日高 第四郎(ひだか だいしろう、1896年2月16日 - … 日高 第四郎(ひだか だいしろう、1896年2月16日 - 1977年12月14日)は、日本の教育学・文教官僚。 日高秩父・リキ夫妻の四男として東京府(現:東京都)に生まれる。1922年京都帝国大学文学部哲学科卒。広島高等学校教授、第三高等学校教授、第一高等学校教授、1946年文部省学校教育局長となり、戦後の学制改革に参加。のち国立教育研究所長、1951年文部事務次官。文部事務次官時代の1952年2月、女子及び年少者の人身売買に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。同年国際基督教大学教授。1966年定年退職、学習院女子短期大学学長兼学習院副学長を務め1970年退職。日本ユネスコ国内委員、民主教育協会副会長、教育課程審議会会長などを務めた。
松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2… 松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2月16日 - 1961年(昭和36年)9月4日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡春日居村桑戸(春日居町を経て現笛吹市)で生まれる。農業を営む。早くから農民運動に加わった。 1930年(昭和5年)日本農民組合山梨県連合会結成時に青年部理事に就任。以後、会長の平野力三と行動を共にした。しかし社会情勢の変化に伴い、日本国家社会党、さらに皇道会に所属した。 また、春日居村会議員に就任し、さらに1939年(昭和14年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員、小作戦時特別調停委員、金銭債務戦時特別調停委員、人事戦時特別調停委員、県農地委員、山梨地方森林会議員などを務めた。
安岡 正光(やすおか まさみつ、1896年(明治29年)2月… 安岡 正光(やすおか まさみつ、1896年(明治29年)2月15日 - 1962年(昭和37年)4月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選山梨県知事。 福島県伊達郡梁川町(現伊達市梁川町)元陣内で、眼科医・安岡正熈(せいき)の二男として生まれる。梁川小学校、福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1918年10月、高等試験に合格。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月に 内務省に入省し内務属・会計課勤務となるが休職となり、同年12月に一年志願兵として善通寺歩兵第43連隊に入隊し現役満期後に再び内務属となった。 以後、1921年(大正10年)4月に長崎県警視、同年12月神奈川県警視、1923年(大正12年)4月に愛媛県理事官となり、1925年(大正14年)5月に兵庫県に転じ、1929年(昭和4年)7月岡山県書記官・学務部長、1931年(昭和6年)1月長崎県書記官・学務部長、同年12月千葉県書記官・警察部長、1932年(昭和7年)8月京都府書記官・警察部長、1935年(昭和10年)1月広島県書記官・総務部長、1937年(昭和12年)7月兵庫県書記官・総務部長、1939年(昭和14年)4月神奈川県書記官・総務部長などを歴任。
森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15… 森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15日 - 1950年〈昭和25年〉4月13日)は、朝鮮総督府の学務官僚。編修官として国語(日本語)教科書の編纂や、朝鮮における日本語普及政策に携わった。国際経済学者の森田桐郎(元東京大学経済学部教授)は長男。 1896年(明治29年)、新潟県北蒲原郡乙村(現・胎内市)にて生まれた。1915年、新潟県立新発田中学校を卒業。朝鮮半島に渡り、1918年3月に京城中学校附属臨時小学校教員養成所を卒業。 卒業後は朝鮮公立小学校訓導に任じられ、釜山第二尋常小学校に赴任した。1920年、金海公立尋常高等小学校訓導に転任後、同年中に京城櫻井公立尋常小学校訓導に異動。
徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月… 徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1972年〈昭和47年〉6月9日)は、京都市生まれの日本画家。本名、時次郎。 京都写生派の流れに立った写実を発展させ、神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。1966年(昭和41年)文化勲章受章。 1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。 1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。
相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2… 相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1963年〈昭和38年〉11月23日)は、神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市)生まれの書家。 1916年に早稲田実業学校を卒業し、早稲田大学商科に入学したが、中途で退学している。1913年より中村春堂に師事し、また小野鵞堂にも益を受け、さらに田中親美について上代様古筆および大和絵について教えを受けた。東洋家政女学校、慶応義塾商業学校、府立滝野川商工学校、女子高等学園に勤務した。大日本書道奨励協会審査員、美術協会協議員、日本書道会協議員、泰東書道院理事審査員をつとめ、戦後は日本書道美術院の創立に参画し、理事審査員として同院の発展に寄与した。
椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1… 椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1957年12月29日)は、大正から昭和にかけて活動した洋画家。 1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。椿家の先祖は御館の乱にて上杉景虎方として戦った椿喜介。米沢藩では御扶持方(下士階級)の家柄であり、また分家は芸者組(下士階級)に組する芸能・芸術に明るい家系であった。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになった。1914年(大正3年)に山形県立米沢中学校を中退して上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意した。自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まる。
田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月1… 田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月10日 - 1976年〈昭和51年〉2月1日)は、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)出身の日本の書家。本名は英市。 それまで細字に限られていた仮名(かな)の表現範囲を広め現代仮名書壇の基礎を築いた。 1896年(明治29年)2月10日、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)に生まれる。1922年(大正11年)、大阪貿易語学校を卒業。1924年(大正13年)、28歳で川谷尚亭に師事して漢字の書を学び、かなは独学で古筆を習得した。この時期、相沢春洋、田中親美らと親交を持った。 1931年(昭和6年)、第2回泰東書道院書道展にて特選を受賞、この後3回連続の特選となる。
瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 198… 瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 1983年)は、日本の建築家・建築学者である。 1896年(明治29年)2月9日に誕生した。長野県東筑摩郡会田村の出身であり、旧姓を矢羽といったが、同郡五常村の滝澤家に嗣養子に入った。郷校を卒業したのち上京し、東京府立第三中学校、第一高等学校を経て帝国大学工学部建築科に進んだ。1920年(大正9年)に同校を卒業し、石本喜久治・堀口捨己・森田慶一・山田守・矢田茂とともに分離派建築会を結成した。建築家としてのはじめての作品は卒業制作である「山岳倶楽部」であり、この年の分離派第一回展覧会にて発表された。分離派は芸術作品としての建築を重視した団体であり、松原紀之・足立裕司・中江研によれば「抽象性」を重んじたことが形態理論における特徴であった。
永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年… 永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年2月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京出身。書家・作詞家の永井素岳の子として生まれる。東京外国語学校卒、東京外国語大学教授。1960年に定年で退官し、名誉教授を務めた。
平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9… 平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9日 - 1948年〈昭和23年〉12月15日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 平出利根次郎の長男として青森県上北郡三沢村(現在の三沢市)に生まれ、5歳の時に伯父の平出栄太郎、京の養子となる。祖父は旧斗南藩士の平出久矢。1902年(明治35年)養父の赴任先である舞鶴に移住し、のち長崎に移り佐世保大村中学校を卒業する。 1917年(大正6年)海軍兵学校第45期を卒業 、1924年(大正13年)海軍大学校選科、東京外国語大学を経て、1926年(大正15年)フランスに駐在。 1929年(昭和4年)練習艦隊副官、1936年駐伊武官を経て、在職中の1938年大佐に進級。
岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977… 岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977年3月23日)は、日本の財政学者。元横浜高等商業学校(現・横浜国立大学)教授、元神奈川大学教授、元和光大学教授。 福岡県出身。1922年東京帝国大学経済学部経済学科卒業。1926年横浜高等商業学校教授、その後満洲建国大学教授となる。財政学が専門であり、満州国財政学や、第一次世界大戦賠償及戦債問題を研究、『日本賠償論』で国家賠償を研究、財政本質学説を研究。ミッドウェー海戦以降、日本軍の戦況が悪化し軍国主義が強まっていく中、リベラルな校風で運営していた田尻常雄校長に代わり1943年から関東軍から転任して横浜高等商業学校校長となり、スパルタ式教育を強化させた。
堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 … 堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 - 1971年(昭和47年)10月17日)は、日本の工業化学者。 北海道大学工学部元教授、藤原工業大学元教授。 父は三光合資会社代表社員の堀卯三郎。長女は社会学者の杉山明子。孫はグロービス経営大学院大学学長の堀義人。従弟は政治学者の潮田江次。妻の甥は政治学者の秋野豊。 日本のエネルギー源を石炭から石油と原子力に転換させた陰の功労者である。 堀卯三郎の長男として東京府に生まれる。 1920年、東京帝国大学工学部応用化学科卒業。大学卒業後は東大講師、農商務省技師、文部省在外研究員を経て、1924年に北海道大学工学部講師となり、翌年教授に就任。
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(… 鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。
武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 … 武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉10月25日)は、日本の教育者。元明治大学野球部長、元明治大学学長・総長。札幌大学学長。日米大学野球選手権大会の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身。 広島県出身。第四仏教中学(現:崇徳学園)卒業後、明治大学へ進学。商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造・越智七五三吉と共に大学校歌として著名な「白雲なびく駿河台」(作詞:児玉花外・作曲:山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。 1936年(昭和11年)から明大商学部教授。1941年(昭和16年)明治大学体育会ヨット部初代部長 の他、硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。
八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月 … 八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選鳥取県知事、陸軍司政長官。旧姓・和田。 三重県出身。和田綱紀の三男として生まれ、八田一精の養子となる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。 以後、地方警視・大阪府警察部勤務、地方事務官・長崎県勤務、香川県書記官・学務部長、秋田県書記官・警察部長、奈良県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、拓務書記官・警務課長、茨城県書記官・警察部長、長野県書記官・経済部長、奈良県総務部長、岡山県総務部長などを歴任。
斎 武雄(さい たけお、1896年(明治29年)2月 - 1… 斎 武雄(さい たけお、1896年(明治29年)2月 - 1953年(昭和28年)12月14日)は、日本の政治家、弁護士。参議院議員(日本社会党)。 1896年(明治29年)2月、宮城県に生まれる。1920年(大正9年)7月に法政大学専門部法律科を卒業し、同年弁護士試験に合格。 1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に宮城選挙区から出馬し、当選する(上位当選で任期6年)。また、仙台弁護士会常議員会議長、東北弁護士会連合会幹事などを歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月3… 田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月31日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 岐阜県出身。田中梅之助の長男として生まれる。東京高等師範学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、長野県警察部特別高等警察課長、同警務課長、大阪府警察部特別高等警察課長、内務事務官(欧州駐在)、千葉県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、内務省土木局道路課長、同河川課長などを歴任。 1942年5月、佐賀県知事に就任。戦時体制の整備に尽力。1944年8月、農商省生活物資局長に転じた。
加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 197… 加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 1976年1月21日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 岡山県倉敷市出身。別名・東知。1922年東京帝国大学文学部英文科卒。1949年「十七世紀英国社会思想の史的考察」で法政大学文学博士。1924年日本大学教授、東洋大学教授、法政大学教授、1951年お茶の水女子大学教授、1955年大阪大学文学部教授、1959年定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授、南山大学教授。
永井 叔(ながい よし、1896年1月29日 - 1976年… 永井 叔(ながい よし、1896年1月29日 - 1976年11月30日)は、日本の詩人。裏町の「大空詩人」と呼ばれバイオリンまたはマンドリンを奏でながら自作の歌・童謡・讃美歌などを歌って喜捨を求める行乞の生活を送った。 1896年(明治29年)1月29日、愛媛県松山市唐人町三丁目三番に医師・永井甃一、妻・関子の四男(末子)として誕生。 地元の松山幼稚園、第三尋常小学校、松山中学と進んだ。8歳の頃には既に上野の音楽学校で優秀な成績をおさめていた兄・漸のバイオリンを盗み弾きした。中学時代は昆虫に深い興味を抱き友人と語らって研究会を作り、その活動は地元の新聞に報道されたという。学業成績は優秀で副級長を務めていたが、兄・漸の縊死や厳格だった父親の急死(1910年(明治43年))などから宗教に関心を強め、クリスチャンだった母親の影響もあり中学4年の時に受洗した。
有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - … 有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - 1955年6月8日)は日本の郷土玩具研究者・収集家。本名は正輔。(旧字表記は「與太郎」) 1896年1月27日に南品川に生まれる。「郷土玩具の普及」「玩具則生活描写」を提唱()し、郷土玩具の出版を勢力的に行い、郷土玩具運動のリーダー的存在となった。三田平凡寺らと交遊、『我楽他宗』に参加、第四番与太山玩狐寺と号し、狐に関するものを収集した。 1925年(昭和初め)ごろから興った郷土玩具収集の新たな高まりは、西洋的な事物を排除し、日本的な事物を評価しようという当時の国策にそったものでもあった。これまでの名士などいわゆる趣味人の特殊な階層の趣味を越えて,一般家庭主婦や若いサラリーマン,学生層にまで愛好熱が広まった。
森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1… 森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1969年7月13日)は、山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手。 1916年3月に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。東京高等師範学校に入学し、蹴球部に入部した。在学中の1921年6月に開催された第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場した。 1923年3月に東京高師本科体育科甲組を卒業し、同年4月より東京高師の助手兼助教諭に任じられた。1925年4月に東京女子体操音楽学校の講師となり、1926年から1年間体操の研究のためにドイツ国に留学した。1927年8月に東京高師の助教授兼助教諭となった。
佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月2… 佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月25日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、昭和期の技官、政治家、華族。貴族院男爵議員、佐竹氏一門の佐竹西家20代当主。旧名・竹田良治。 秋田県士族・竹田富之助の二男として生まれる。佐竹西家の当主で兄・佐竹義度(富之助長男)の死跡を相続し、1914年(大正3年)4月23日、男爵を襲爵。その後、義履と改名した。 1924年(大正13年)東京農業大学大学部を卒業。1929年(昭和4年)帝室林野局技手に就任。その後、1944年(昭和19年)3月10日に同技師に就任した。 同月30日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1… 川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1月24日 - 1943年(昭和18年)1月19日)は、日本の大正から昭和期における地球物理学者。 京都帝国大学理学部宇宙物理学教室の最初の卒業生で、水沢緯度観測所第二代所長を務めた。 滋賀県栗太郡治田村(現在草津市と栗東市にまたがる)に生まれる。姉の英子は、天文学者で京都帝国大学教授山本一清の妻となる。京都府立第二中学校、1912年(大正3年)広島高等師範学校に入学し、京都帝国大学理学部に1917年(大正8年)入学、1920年(大正11年)京都帝国大学理学部宇宙物理学教室第一期生として卒業する。 1920年(大正11年)京都帝国大学卒業後水沢緯度観測所に技師として入所する。
中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年… 中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年)1月24日-1986年(昭和61年)8月29日)は、日本都市計画学会は発起人としても関与し、日本都市学会や近畿都市学会は会長を歴任した都市計画家、建築行政官、都市研究者。大阪市立大学名誉教授。日本建築学会名誉会員で、大阪市政研究所にも所属した。京都市生まれ。 旧制第三高等学校を経て1920年(大正9年)7月東京帝国大学工学部建築学科を卒業。ただちに内務省大臣官房都市計画課勤務。1921年大阪府警察部技師。中の島大阪市庁舎新築工事などを担当。 1924年愛知県警察部建築課長。1931年愛知県土木部建築課長。1932~39年:大阪府警察部建築課長と、都市計画並びに建築行政の分野で業務を歴任。
蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年… 蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手(中距離走)・指導者、歯科医師。1920年アントワープオリンピックに出場。名はのちに宏。 埼玉県北足立郡大砂土村(現在のさいたま市北区本郷町)出身。生家は素封家。明治39年に大砂土小学校を卒業、旧制浦和中学校(埼玉県立浦和高等学校の前身)を経て、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学の前身)に進学した。 少年時代よりスポーツを愛好し、中距離走に秀でた成績を残した。日本歯科医専在学中に、1920年アントワープオリンピックに参加し、男子800メートル競走および1500メートル競走に出場した。日本国内のオリンピック予選会では800m走(2分05秒0)・1500m走(4分25秒0)の日本記録を残している。
宮田 喜代蔵 (みやた きよぞう、1896年1月23日 - … 宮田 喜代蔵 (みやた きよぞう、1896年1月23日 - 1977年7月7日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 1896年、岡山市で生まれた。1914年に金川中学校(現・岡山県立金川高等学校)を卒業し、神戸高等商業学校(現・神戸大学)本科に進んだ。在学中は坂西由蔵に師事した。1918年に卒業。その後は東京商科大学(現・一橋大学)専攻部領事科に進み、1921年に卒業。福田徳三ゼミに所属し、福田ゼミの同期には赤松要、大熊信行、梅田政勝がいた。 卒業後は名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授となった。1922年から2年間欧州留学を命じられ、イギリス、ドイツ、アメリカに留学。
木内 曽益(木内 曾益、きうち つねのり、1896年1月22… 木内 曽益(木内 曾益、きうち つねのり、1896年1月22日 - 1976年6月30日)は、日本の検察官。血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件で主任検事を務め、戦後東京地方検察庁検事正、最高検察庁次長検事などを歴任した。「血盟団事件」という名称を命名したことで知られる。 福井生まれ。福井県立大野中学校(現福井県立大野高等学校)、第四高等学校 (旧制)出身。1920年7月東京帝国大学法学部卒業、台湾銀行入行・東京支店総務部業務第1課。 1921年10月、司法官試補。1923年6月、東京地裁兼区裁予備判事。1923年8月、福岡地裁小倉支部予備判事。1924年1月、千葉地裁検事。1925年12月、横浜地裁検事。
里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965… 里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。
横山 重(よこやま しげる、1896年1月22日 - 198… 横山 重(よこやま しげる、1896年1月22日 - 1980年10月8日)は、日本の国文学者。専門は中世文学。 1896年、長野県東筑摩郡片丘村北内田(現松本市)で生まれた。慶應義塾大学文学部で学び、1922年に卒業。 1924年、慶應義塾大学予科教員に採用された。1940年三田文学賞を受賞。1942年に退任し、以後在野で活動。島木赤彦に師事して『万葉集』を研究。のち琉球史料、室町時代物語、古浄瑠璃へと研究対象をひろげてゆき、多数の校本を刊行した。大岡山書店と関係が深くほぼ専属出版社の趣があった。1933年から1942年まで『三田文学』に「書物捜索」を連載した。 戦後は1953年から1961年『新文明』に連載継続。
川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月2… 川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月22日 - 1992年(平成4年)1月23日)は、日本の政治家。新潟県高田市長(2期)、直江津市長(1期)。 新潟県中頸城郡大倉村(のち和田村→高田市、現・上越市)大字石沢(旧石沢村)に生まれる。1914年、矢代川改修工事書記、1917年、和田村書記、1922年、西頸城郡書記、1924年、中頸城郡書記となったが、1926年の郡役所廃止により新潟県属となり、地方課勤務になる。1928年に退職し、高田市役所に入り、書記となった。1936年、庶務課長、1944年、助役となり、1946年、川上大造市長の辞職により5ヶ月間市長代理を務めた。 1947年、直江津町長選挙に立候補して当選、1951年に再選され、1954年の直江津市制施行に伴い、市長に就任した。
政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明… 政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明治29年〉1月19日 - 1973年〈昭和48年〉7月9日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道範士七段。居合の流派は無双直伝英信流。 高知県吾川郡小川村(現・いの町小川柳野)で生まれる。高知県立第一中学校に入学し、吾川郡の中学生用の寄宿舎で生活しながら、剣道を川崎善三郎に学ぶ。寄宿舎の先輩で高知県立第二中学校5年生の森繁樹から、第二中学校で大江正路という剣道教師が希望者に居合(無双直伝英信流)を教えていると聞いた政岡は、居合を習ってみたいと思うようになる。その翌年、第二中学校は第一中学校に合併され、大江は第一中学校に赴任した。
住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 … 住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 茨城県出身。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍経理学校(11期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第16連隊付となる。1921年(大正10年)4月、二等主計に、1926年(大正15年)3月、一等主計にそれぞれ昇進。1927年(昭和2年)12月、第1師団経理部員(参謀本部付)に就任。1930年(昭和5年)8月、関東陸軍倉庫付に転じ、1932年(昭和7年)4月、関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)となる。
竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - … 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現ENEOSホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。 1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。 石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。 趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
中原 和郎(なかはら わろう、1896年1月16日 - 19… 中原 和郎(なかはら わろう、1896年1月16日 - 1976年1月21日)は、日本の生化学者。医学博士。日本学士院会員。がんの生化学的研究で知られる。 鳥取県河村郡(現・湯梨浜町)生まれ。1918年にコーネル大学を卒業後、ロックフェラー医学研究所、理化学研究所、東大伝染病研究所などで研究を進める。1923年、医学博士(京都大学)(学位論文「淋巴球に関する研究 」)の学位を取得。 1948年から財団法人癌研究会所長を務め、1962年、国立がんセンター研究所初代所長となる。所長時代には、がん細胞からトキソホルモンの抽出に成功するなど、研究所の存在を確立。1965年に福岡文子との共同研究で学士院賞を受賞。
新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - … 新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - 1984年1月12日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。公園緑地施策にも多く関わった。 栃木県足利市出身。染料商・新居倉造の四男として生まれる。 佐野中学、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1922年2月、内務省に入り東京府属となり、内務部庶務課に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 1923年3月、広島県佐伯郡長に就任。1926年5月復興局建築部に事務官として在勤。さらに同局建築部庶務課長を務め、市街地建築物法の法文案を起草、土地区画整理事業の実施に寄与する。以後、内務事務官・土木局勤務、兼内閣総理大臣秘書官(斎藤実総理)、兼文部大臣秘書官(斎藤総理、大臣兼務)を歴任。
原 コウ子(はら こうこ、1896年1月15日 - 1988… 原 コウ子(はら こうこ、1896年1月15日 - 1988年6月25日)は、俳人。本名・コウ。旧姓・志賀。 大阪府貝塚町(現貝塚市)出身。泉南高等女学校(現大阪府立和泉高等学校)卒。1916年より「ホトトギス」投句。原石鼎選の入門欄だった縁で1918年に石鼎と結婚。1951年、石鼎の死没により「鹿火屋」主宰を継承。1974年、高齢のため養子の原裕に同主宰を譲る。句集に『昼顔』『胡卉』『胡色』、著書に『石鼎とともに』がある。
尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月1… 尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月13日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の剣術家。流派は無雙神傳英信流、無双神伝抜刀術兵法第18代宗家、神伝流始祖宗家、貫心流剣道免許皆伝、全国居合道連盟初代会長。全日本居合道連盟3代会長。居合道十段、剣神位。剣道九段範士。 徳島県鳴門市大津町大代生まれ。幼少の頃から剣道の修行に励み、貫心流剣道の免許皆伝を允可される。45歳のとき無双神伝抜刀術兵法17代宗家植田平太郎竹生より本格的に居合道を学び始める。昭和19年12月31日、大日本武徳会会長東條英機から居合道練士の称号を拝受する。 1949年(昭和24年)7月25日、無双神伝抜刀術兵法18代宗家を継承する。