村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年… 村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年)1月4日 - 1964年(昭和39年)7月31日)は、日本の農林官僚。馬政局長官。 愛媛県出身。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。山林属、山林事務官・農商務事務官、特許局事務官・農商務参事官、農林書記官・大臣官房文書課長・統計課長、農務局農政課長を歴任。1931年(昭和6年)、畜産局長となり、1933年(昭和8年)には山林局長に転じた。山林局長在任中は関東軍軍令部附・同顧問を務めた。1937年(昭和12年)、馬政局次長、ついで馬政局長官に就任した。 退官後は日本競馬会副理事長となり、1941年(昭和16年)からは農地開発営団理事長となった。
阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 … 阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 徳島県徳島市富田浦町に生まれる。1912年(明治45年)徳島県師範学校を卒業し、徳島県名東郡沖洲尋常高等小学校訓導、津田尋常高等小学校訓導、津田水産補修学校訓導を務めた。1919年(大正8年)早稲田大学政経科を修了。 古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、1922年(大正11年)労働事情調査のためアメリカ合衆国へ派遣されイェール大学で学んだ。1927年(昭和2年)に帰国後、社会民衆党に入党した。1930年(昭和5年)全国民民衆党の結成に参画し中央委員に就任。
春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25… 春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25年)1月2日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の肥料学者である。 東京府東京市(現在の東京都区部)に生まれる。1905年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1909年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、農芸化学を専攻した。1918年(大正7年)の卒業後も大学に残り講師や農商務省の技手等を経て、1923年(大正12年)に助教授として務め、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の帰国まで肥料の研究のためドイツに留学する。
柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1962年〈昭和37年〉12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。 1892年、大阪府に生まれる。旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。 大学卒業後三井物産に入社し、上海、ニューヨーク、リヨンの駐在員として働いたのち、横浜支店生糸部総務掛として勤務。
松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1… 松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正二郎。 旧津山藩主家当主、子爵・松平康民の二男として生まれる。1917年(大正6年)1月29日、康春と改名。父の死去に伴い、1921年(大正10年)3月22日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学理学部植物学科を卒業。朝鮮銀行監事を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月25日に辞任するまで3期在任した。この間、地方制度調査会委員、商工省委員、農商省委員を務めた。
庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月… 庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月1日 - 1964年(昭和39年)8月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会→日本自由党→民主自由党→自由党)。厚生政務次官。宮城県柴田郡大河原町長。 宮城県伊具郡角田町(現角田市)出身。庄司房治の次男。東北学院で学び、中退した。『仙台日日新聞』『東北新聞』記者、『仙南新聞』主幹を務めた。後に仙南日日新聞社、雑誌『新東北』を創刊し、社長に就任した。また大河原町会議員、宮城県会議員、大河原町長などを歴任した。 1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選6回。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年〈明治25年… 阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月19日)は、日本の部落解放運動家、社会運動家、政治家。全国水平社創設者の1人。「水平社」「糺弾」の名称の考案者。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現在の御所市)出身。清三郎の次男。生家は被差別部落のなかでも裕福な地主で、膠製造業を営む。 御所高等小学校をへて1907年に奈良市立商業学校に入学、廃校のため大阪市の成器商業学校に転じて卒業する。1909年、柏原に青年共和団を組織して部落の生活改善につとめる。 家業の膠製造技術の向上を図るために必要な化学を学ぶため、上京して東京工科学校(現・日本工業大学)に遊学する。
川久保 常次郎(かわくぼ つねじろう、1892年〈明治25年… 川久保 常次郎(かわくぼ つねじろう、1892年〈明治25年〉1月 - 没年不明)は、大正から昭和時代戦前の政治家。官吏。千葉県船橋市長。 鹿児島県出身。波江野平次郎の三男として生まれ、川久保久之の養子となり、1932年(昭和7年)家督を相続する。1916年(大正5年)文官高等試験に合格し、翌年には東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する。岐阜県属、愛知県西春日井郡長、愛知県理事官、愛知、兵庫両県勤務、地方事務官徳島、福島、滋賀、京都各府県書記官、各学務部長を歴任した。1934年(昭和9年)和歌山県書記官内務部長に転じ、1935年(昭和10年)4月、千葉県書記官総務部長となったのち退官した。 1937年(昭和12年)4月1日、船橋町が葛飾町、八栄村、法典村、塚田村と合併して船橋市となると同年8月、初代市長に就任した。
丸毛 信勝(まるも のぶかつ、1892年(明治25年)- 1… 丸毛 信勝(まるも のぶかつ、1892年(明治25年)- 1977年(昭和52年))は、大分県臼杵市出身の昆虫学者、農学博士、ゴルフ場設計者。 丸毛信勝は、1892年(明治25年)、大分県臼杵市の臼杵藩士、町奉行の家柄に生まれ、旧制杵築中学校を卒業し、東京帝国大学農学部に入学、昆虫学の三宅恒方に学んだ。 丸毛は蝶の研究で権威といわれ、日本昆虫図鑑を作成し、1921年(大正10年)、29歳で農学博士になった。その後、ドイツに留学し、帰国後、1964年(昭和39年)、釧路女子短期大学の学長を務めた。 ある時、芝の害虫調査の依頼があった、旧制杵築中学校の海軍中尉・吉良俊一(後・海軍中将)からである。丸毛は芝調査をするため、イギリスやアメリカのゴルフ場を視察し調べた。
石田 文次郎(いしだ ぶんじろう、1892年 - 1979年… 石田 文次郎(いしだ ぶんじろう、1892年 - 1979年)は、日本の民法学者・裁判官・弁護士。法学博士(京都帝国大学)。東北帝国大学法文学部民法講座教授や、京都帝国大学法学部教授を歴任。 1892年、奈良県添上郡平和村(現:大和郡山市)生まれ。1913年(大正2年)第三高等学校卒。1917年(大正6年)京都帝国大学法学部を卒業。同年、司法官試補。1919年(大正8年)大阪地方裁判所判事。1920年(大正9年)神戸高等商業学校教授。1922年(大正11年)イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。同時期に留学していた同僚の八木助市、坂本彌三郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎や、東京高等商業学校の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、吉田良三、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。
伊部 貞吉(いべ さだきち、別名ていきち、さだよしなど。18… 伊部 貞吉(いべ さだきち、別名ていきち、さだよしなど。1892年-1947年)は、日本の都市計画家、区画整理技術者。 東京生まれ。関東大震災後の帝都復興事業の特に土地区画整理事業の基準作りに多くの功績を遺す。また戦前の建築学会で各種の委員会で委員として活躍。 1916年、東京帝国大学工学部建築科を卒業。佐野利器に師事し、佐野にとってもお気に入りの弟子のひとりであったという。高橋貞太郎、小林政一とともに佐野利器門下の三羽烏と呼ばれた。卒業後は陸軍技手になり、その後は警視庁技師を経て1922年から内務省技師。大震災後に発足した帝都復興院技師を兼務した。復興院が復興局改組後も復興局技師を兼任し、東京と横浜の震災復興を師の佐野、笠原敏郎、野田俊彦らと土地区画整理事業に邁進。
狩野 力(かの つとむ、1892年 - 1934年)は、日本… 狩野 力(かの つとむ、1892年 - 1934年)は、日本の造園家。大正から昭和初期に官庁造園技師として活躍した。また児童公園の実証的研究では大屋霊城と双璧をなす人物である。福岡県生まれ。 1916年(大正5年)、東京帝国大学農科大学農学科卒業後、恩師の造営局参与東大教授原煕の推挙で大屋霊城、林学の中島卯三郎らと明治神宮造営局林苑課技手採用となり、林苑課の農学系主任技師折下吉延のもとに、翌年には造営局外苑課に勤務。 1919年(大正8年)ごろ愛知県土木部に造園技師として赴任し、1920年、内務省組織の都市計画愛知地方委員会技師を兼任、都市計画草創期、愛知県の都市計画業務に邁進することになる。特に名古屋市の公園計画策定では、都市計画法施行後の大都市公園計画としては、東京や横浜に続くもので、1925年1月原案作成、愛知地方委員会に附議されたのち1926年1月内務省告示をみた。
綿貫 勇彦(わたぬき いさひこ、1892年 - 1943年)… 綿貫 勇彦(わたぬき いさひこ、1892年 - 1943年)は、日本の地理学者。 ドイツの地理学を踏まえた地理学方法論を提起し、集落地理学の体系化と研究の深化を図った。 1892年、奈良県奈良町(奈良市)に生まれる。1920年、第四高等学校(現・金沢大学)を卒業し、東京帝国大学理学部地理学科に入学する。山崎直方・辻村太郎らの指導を受け、1923年に卒業。早くも松山高等商業学校(現・松山大学)教授および松山高等学校(現・愛媛大学)講師となる。以後8年間、松山市に在住し、野外調査に意欲を燃やすようになる。当初は、四国などの地形研究を行っていたが、次第に住民の生活に主な関心を移していき、村落の地理学的な研究において幅広い研究領域を開拓していく。
劉 英俊(ユ・ヨンジュン、1892年 - 没年不明)は、朝鮮… 劉 英俊(ユ・ヨンジュン、1892年 - 没年不明)は、朝鮮のフェミニズム運動家、医師。平壌出身。 1910年に貞信女子学校を卒業し、中国の北京女学校に留学、安昌浩に出会い、社会主義運動、朝鮮独立運動に傾倒した。1918年ごろに日本に渡って東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に入学。「在東京朝鮮女子留学生親睦会」で羅蕙錫、金瑪利亜(金マリア)、黄愛徳(黄エスタ)らと出会い、韓国最初の女性雑誌『女子界(ヨザゲ)』の発行継続のため、会内組織学興会の会長に選ばれた。1919年には「二・八独立宣言」発表の席に金マリア、黄エスタらとともに参加、1921年には朝鮮を巡回し、女性の意識を覚醒させ、衛生観念を強調する講演を行った。
新海 英一(しんかい えいいち、1892年 - 1986年)… 新海 英一(しんかい えいいち、1892年 - 1986年)は、日本の経営者。古河鉱業社長、会長、日本鉱業協会会長などを務めた。 山梨県中巨摩郡玉幡村出身。1915年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、同年に古河合名会社に入社。 1946年に追放指定された岡田完二郎に代わり古河鉱業代表取締役社長に就任。1954年北海道開発審議会委員。1958年経済審議会臨時委員。1959年水質審議会委員。 日本鉱業協会会長なども務め、1961年に古河鉱業代表取締役会長に就任した。1962年に鉱業審議会が発足すると会長に就任した。同年藍綬褒章受章。 1964年雇用審議会委員。1966年産炭地域振興事業団(のちの地域振興整備公団)理事長、経済審議会委員。
古塚 正治(ふるづか まさはる、1892年 - 1976年)… 古塚 正治(ふるづか まさはる、1892年 - 1976年)は日本の建築家。阪神間モダニズムを代表する建築家の一人。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
中川 文蔵(なかがわ ぶんぞう、1892年(明治25年) /… 中川 文蔵(なかがわ ぶんぞう、1892年(明治25年) / 1893年(明治26年) - 1978年(昭和53年))は、日本の農民、商人(雑貨商兼家畜商)、政治家。北海道広尾町議会議員を務めた。通称、“拙者(せっしゃ)文蔵”。 政治家中川一郎・中川義雄の父、中川昭一の祖父。 富山県西砺波郡福光町(現:南砺市福光)出身。14歳の時に北海道に渡り、道東の僻地を選んで開拓に従事した。 19歳で父を失った。以来、文蔵はひとりで一家眷族を養うことになった。ある時は田畑の作物が全滅し、また牛馬が人手に渡ったことも何度かあった。 長男の一郎が小学校2年生の時、文蔵は開拓地を離れて町中に住み、雑貨商兼家畜商に転じた。
上州山 一(じょうしゅうざん はじめ、1892年(明治25年… 上州山 一(じょうしゅうざん はじめ、1892年(明治25年) - 没年不詳)は、群馬県前橋市若宮町出身の大相撲力士。本名は松本一。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 初め東京相撲の出羽海部屋に入門し碇野 一と名乗って1911年(明治44年)6月序ノ口についた。1914年(大正3年)1月場所前に廃業。 大阪相撲の藤嶋部屋に転じ上州山 常五郎で幕下に付け出された。1917年(大正6年)1月入幕、5月下の名を一に改める。徐々に力をつけ1920年(大正9年)5月小結、1922年(大正11年)1月関脇。この場所8勝2敗で5月には新大関となり9勝1敗で優勝を果たした。168cm90kgの小兵ながら組んで良し離れて良しの相撲巧者で知られた。
今井 康子(いまい やすこ、明治25年(1892年) - 昭… 今井 康子(いまい やすこ、明治25年(1892年) - 昭和53年(1978年))は、日本の歌人。雅号葵明。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。2代今井兼文の長女。 米子高等女学校(現米子西高校)卒業後、佐佐木信綱に師事し竹柏会『心の花』に属し、続いて斎藤瀏の『短歌人』後に斎藤史の『原型』の同人となる。 1946年歌集『麓』を発刊。ほかに1979年発刊の遺稿歌集『裾野原』がある。 日本画は川端画学校の岡村葵園の指導を受け、後に上村松園に師事した。 謡曲、茶道にも精進し、晩年まで後進の指導を続けた。 元米子市長野坂寛治の著書『米子界隈』215頁に
高橋郁郎(たかはし いくろう、1892年 - 1981年)は… 高橋郁郎(たかはし いくろう、1892年 - 1981年)は、日本の柑橘類の栽培における功績者。特に静岡県での「柑橘の父」といわれる。 静岡県立農学校を卒業後、国が開設した農商務省の農事試験場園芸部の見習生制度で技術を習得、のちにその後身である園芸試験場で技師として任務。静岡県柑橘試験場初代場長(1940年)。代表著作『柑橘』。「果実日本」誌の主筆・編集長。 サンボウカンの学名(Citrus sulcata hort. ex Ik. Takah.(またはhort. ex I. Takah.)は、高橋郁郎の命名による。 柑橘類の栽培において土壌改良(肥料の影響)、病虫防除や消毒法、剪定など数々の技術法を実践、検証。
菅原 栄蔵(すがわら えいぞう、1892年(明治25年) -… 菅原 栄蔵(すがわら えいぞう、1892年(明治25年) - 1967年(昭和32年))は、日本の建築家。東京銀座にある名物ビアホールとして知られる銀座ライオン7丁目店や駒澤大学耕雲館(現在は禅文化歴史博物館)などの作品で知られる。直線を巧みに組み合わせた細部、スクラッチタイルを多用したフランク・ロイド・ライト式の作風で知られる。宮城県仙台の生まれ。 仙台市立仙台工業学校(現在の仙台市立仙台工業高等学校)を卒業。仙台周辺で建築現場関係の仕事を経験。1913年(大正2年)に上京。一年ほど、三橋四郎の建築設計事務所に臨時雇いで製図工として在籍の後、現場見習で曾禰中條建築事務所が手がける東京海上ビルに携わる。
角尾 晋(つのお すすむ、1892年(明治25年) - 19… 角尾 晋(つのお すすむ、1892年(明治25年) - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の医学者。原爆被災時の長崎医科大学学長として知られる。東京出身。 東京・下谷に生まれる。獨協中学、一高を経て東京帝国大学医科に入学、内科学を修めいわゆる「銀時計組」(成績優等者)として卒業。長崎医科大学助教授となり、2年間の海外留学を経て帰国後教授に昇任、第二内科を担当した。1936年(昭和11年)7月、第5代長崎医大学長に就任し、1940年5月より1944年3月まで戦時期の医師速成のため設置された臨時附属医学専門部の部長を兼ねた。また1942年5月以降は新設の「東亜風土病研究所」の所長も兼任した。
後藤 正雄(ごとう まさお、1892年 - 1972年)は、… 後藤 正雄(ごとう まさお、1892年 - 1972年)は、日本の飛行機操縦士、政治家。 兵庫県有馬郡中野村下青野(現・三田市)の出身。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)から歩兵第70連隊での軍務を経て帝国飛行協会の飛行士練習生試験に合格する。第二期生として入所。1917年5月帝国飛行協会兵庫支部の要請を受け篠山練兵場から三田(現三田市下田中)までモーリスファルマン式飛行機で郷里訪問飛行を行った。1918年4月1日、所沢飛行場から大阪練兵場までの単身長距離無着陸飛行に成功する。その後、四国一周および岡山県訪問飛行を同期生の佐藤要三と成功させた。 1919年帝国飛行協会を辞職、1927年2月に郷里の中野村の村長に就任する。
多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - … 多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - ?)は、日本のスポーツ黎明期の陸上競技(中距離走・長距離走)選手。 熊本県生まれ。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業し、東京高等師範学校に入学。玉名中・東京高師で金栗四三の1年後輩にあたり、全盛期の金栗に鍛えられた「金栗門下生」と評される選手である。 1914年(大正3年)11月2日の全国陸上競技大会(現在の日本陸上競技選手権大会)では1500m走で4分44秒2を記録した(当時の日本記録)。1915年(大正4年)5月2日の第2回日本オリンピック大会(豊中運動場)でも1500m走で優勝している。1915年(大正4年)5月の極東選手権競技大会(第2回大会、上海)に出場。
安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和… 安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和20年(1945年)5月25日)は、日本の彫刻家(彫塑)である。 1892年(明治25年)、鹿児島市新屋敷通町(現在、鹿児島市立病院敷地の一角に誕生碑がある)。明治40年(1907年)に旧制県立川辺中へ入学するが、まもなく旧制県立二中へ転校。二中を8年かけて卒業し、東京美術学校へ入学。美術学校時代に帝展入選を果たしているが、卒業後も第3、5、6回帝展にて特選を受賞、大正15年(1926年)の第7回帝展では特選に加えて帝国美術院賞を受賞した。 1927年(昭和2年)には帝展審査員に就任。彫刻の本質的な造形性、中でも量感の表現を唱えた。この頃、朝倉文夫が主宰する朝倉塾に属していたが、1928年(昭和3年)10月、朝倉が帝展に制度改革を建議した上で審査員を辞任。
徐 家桓(じょ かかん、1892年 – 1951年7月30日… 徐 家桓(じょ かかん、1892年 – 1951年7月30日)は、中華民国・満洲国の官僚。字は純煕。変名は馬希援。中華民国時代は張学良の副官で、満洲国時代は行政官を歴任した。 清末は旧学を学び、辛亥革命勃発の頃に吉林第一中学に入学した。1914年(民国3年)、成績優秀故に一等官費生として日本へ留学することになる。第一高等学校を経て京都帝国大学工科大学に入学して電気を学んだが、病気のため一度退学を余儀なくされる。しかし体調が回復したため、1919年(民国8年/大正8年)、京都帝国大学法学部法律学科に入学し、1926年(民国15年/大正15年)3月、卒業して法学士の称号を取得した。 徐家桓は留学期間中に張学良と知り合い、その通訳をつとめるようになった。
福原 路草(ふくはら ろそう、1892年 - 1946年9月… 福原 路草(ふくはら ろそう、1892年 - 1946年9月29日)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した日本の写真家で本名は「信辰」。おおむね作品は、芸術写真(ピクトリアリスム)に分類され、人物写真よりも風景写真を得意とした。 父・福原有信は資生堂創業者、兄・福原信三(三男)は初代社長で写真家。なお甥・福原義春(五男・信義の長男)は後年社長・会長となり、退任後は東京都写真美術館館長に就いた(のち名誉館長、2023年8月末に没)。 東京市京橋区(現・東京都中央区)銀座生まれで。1917年、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。1921年には、東京で、福原信三、大田黒元雄、掛札功、石田喜一郎らと「寫眞藝術社」を結成し、機関紙として月刊「寫眞藝術」を創刊した(1921年6月号から1923年9月号。
中村 寛(なかむら ゆたか、1892年 - 1968年、旧姓… 中村 寛(なかむら ゆたか、1892年 - 1968年、旧姓・天野[要出典])は、大正から昭和にかけて活動した日本の建築家、都市計画家。 改良住宅、住宅地区改良事業、また同潤会が担当した建物や住宅地設計に多くの功績を遺す。 広島県呉市に生まれる。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業する。卒業後、文部省を経て内務省に都市計画地方委員会技師採用で入省した。 その後、内務省都市計画課に勤務する。後に主任技師として、住宅問題を多く扱い、不良住宅地区改良とこれに伴う小住宅監督制度を提唱の傍ら、英国の住居法(Housing Act)を研究した。 1920年(大正9年)、都市計画および住宅問題調査のため欧米視察に派遣される。
高田 正夫(たかだ まさお、1892年 - 1982年6月2… 高田 正夫(たかだ まさお、1892年 - 1982年6月20日)は、静岡県出身の船乗り、船長。 1917年に東京高等商船学校(現:東京海洋大学海洋工学部)を卒業して、日本郵船に入社。主に遠洋航海の船舶の船乗りとして従事した。その後、浅間丸の船長を経て、1940年に大日本帝国海軍の命令により長良丸の船長として赴任。レーダーの受け取りのためにイタリアへ航海したが、連合国軍側の爆撃を受けた。 1941年には大日本帝国陸軍の命令により輸送船の船長としてフィリピンや香港への上陸作戦に従軍した。 1953年から日本船長協会の会長に就任。また、洞爺丸事故(1954年9月)による海難審判における特別弁護人を務めた。
中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1… 中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1968年(昭和43年)8月22日)は、大正時代から昭和時代にかけて活動した郷土史家、民俗学者である。 宮城県登米郡登米町に生まれる。旧姓は砂金(いさご)。後に青森県八戸市に移り青森県立八戸中学校に進学するも1年で中退する。二松學舍を経て、1918年(大正7年)に京都帝国大学教授の内藤湖南のもとで、東洋文献の考証学を学ぶ。同年に八戸の中道トシの養子となり姓を改める。その後、八戸に戻り『実業時論』という雑誌を手がける。推薦を受け、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務める。また、南部叢書の編纂にも従事した。1928年、小井川潤次郎が中心となって組織した八戸郷土研究会の顧問となる。
田中 清治(たなか せいじ、1892年 - 1967年)は山… 田中 清治(たなか せいじ、1892年 - 1967年)は山形県出身の冶金学者であり工学博士。東京帝国大学第一工学部教授を務めた。 田中清次郎の三男として、1892年(明治25年)12月5日に山形県東村山郡金井村で生まれる。仙台の第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学冶金科を卒業。田中鉱山へ入社すると岩手県の釜石製鉄所に配属され、製鋼課長・藤田俊三の下で働いた。 初代所長の横山久太郎が体調を崩し、中大路氏道が二代所長となった1919年(大正8年)。11月に足尾銅山同盟会の一派が釜石に乗り込み、アジ演説で労働者を焚き付けた結果、創業以来未曾有の労働争議が勃発。警官隊が出動する騒ぎとなり、洋行中の藤田に代わって課長代理を務めていた清治は身の危険を感じている。